3/ギターとギター  
 
 ハルヒはやはりマジなようである。  
 翌日から古泉曰くハルヒの密着練習が続いた。何故密着するのかは知った事ではなく、俺が知る必要性は皆無と言っていい。  
 あの年中暴れ続ける脳を持った女子高生の意図を汲み取るなどシャミセンに小判をやるくらい意味のないことだ。  
 まあとにかくハルヒとのギター練習があったのだが、本来の目的であるギターの練習が記憶に少ないのは何故だろうか。  
 胸を惜し気もなく押し付けられたり、髪の毛で肌を撫でられたり、指を恋人のように絡められたり、どれも故意ではないと思うのだが、意識せざるを得なかった。  
 だが、意識すると言ってもハルヒのような女に動物の本能を発動させるなど有り得ない訳で、多くを覚えているのもただ女性特有のそういう何かによるものであり決してハルヒ自体を意識してる訳ではない。そんなことはあってはならん。  
 そんな練習も学校が授業をする為の場所となっている日だけであり、珍しくも土曜日なのに不思議探索がないというので俺は今こうしてベッドの上で二度目の睡眠に入ろうとしている。  
 久しぶりの休みだ。たまには家でゴロゴロ寝るだけってのも良いだろう。罰は当たるまい。  
 しかし、俺の普段の行いが悪かったのだろうか。目を閉じてもう少しで眠りの世界に行くというところで甲高い聞き慣れた声が、  
「さあ、ギターの授業を始めるわよ!」  
 鼓膜を大きく振動させた。  
 ……待て。少しとは言わず多く待て。  
 まさか。もしかして俺はSOS団の部室――いや、団室か――で寝ていたというのか。  
 ありえないありえない。認めんぞ。  
 俺の部屋にハルヒが来てるなんて。  
 目を開けて声がした方を見る。  
 そこには、にっこりと顔に100Wスマイルを浮かべ、ギターらしきものを二本背負い、大きな紙袋を二個持った電気街から帰ってきた収集僻のある大人のようなスタイルで、ハルヒが立っていた。  
 何故お前がそこにいる。寝ぼけた頭だとよく理解出来ん。  
「楽器ってのはね、毎日練習しなきゃ上手くならないのよ。だから今から教えてやろうって訳」  
 ガサゴソと何やら準備をし始めるハルヒ。おい、人の家でいきなり何しやがる。  
「あんたの親に許可は貰ってるわ。ちょっと話したら快くオッケーしてくれたわよ。あんたと違って話のわかる良いお母さんね」  
 にこっと奥歯を見せるとそのまま準備を続けていく。  
 俺は話がわからないのではない。ハルヒ、お前の行動がおかしいから正そうとだな。あー、こんなこと話したって無駄か。  
「それだと妹が黙ってないと思うんだが」  
 あいつは俺がSOS団メンバーと何かをしようもんなら興味津々、好奇心全開でついてくるという特殊能力を持っている。  
「私がちょちょいと耳打ちしたら素直に友達と遊んでくると言ってたわ」  
 ほう、是非その耳打ちの内容を聞きたいものだな。  
「ダメよ。耳打ちした意味が無いじゃない」  
「そりゃそうだ」  
 
 
 で、ようやくハルヒの準備が終わった。ものの数分である。  
 その間にコンセントがないからと言って、プラグが刺さったままのコンセントからプラグを躊躇せずに抜き去るハルヒを見て、注意して言い争いになりかけるということがあったが、そんなことは些細な事だろう。  
 今俺の部屋には、ギター二本とアンプ二台、アンプの上にはヘッドフォンが置いてあり、アンプと繋がれている。  
「今日はキョンの家で練習するということで、ヘッドフォンを使うことにするわ」  
 左手に着けた片仮名がせめぎ合う「フロントマン」という腕章がハルヒのやる気を物語っていた。やれやれ。  
 仕方ない。朝からギターの練習か。  
 俺はパジャマ姿のままベッドから立ち、まずは着替えることにした。  
「わかった。今はとりあえず服を着替えたいのだが」  
 すると、いつも我が儘我等が団長涼宮ハルヒは頬を少し朱に染めると、あっそうと言って俺から目を背けた。着替えると言っても上半身とパンツが見えるだけだし、ハルヒの前でも構わんだろう。  
 それに部屋を出たら、キョンなんだしわざわざ出なくてもいいでしょうがなどと言われていたに違いない。ハルヒの頭には男女という言葉が欠落しているらしいからな。  
 男の着替えなんてもんは長々しく説明するようなものではないので、ここでは省略する。  
 着替え終わった俺は歯をものの一分で磨き、ハルヒのギターレッスンに入っていた。二人ともヘッドフォンを耳に当て、一人を除きまあまあ様になってるのではないだろうか。  
「あー、やっぱ小指が動かないわねぇ」  
「仕方ないだろう。まだ始めて二週間も経ってないんだぞ」  
 手元で光るフレットボードを見て溜め息を吐きそうになる。どうしてこんなに指を動かさにゃならんのか。  
 指先なんて鉄の弦に痛め付けられて皮が厚くなっちまった。  
「才能があれば小指も一週間で動くわよ」  
 凡人の俺に才能なんて期待するなよ。  
「そうだったわね。所詮キョンだもん。もともと期待はしてなかったわ」  
 ああ、そうかい。  
 なら何で俺のパートをギターという大それたもんにするんだ。タンバリンかマラカスで良かったのに。  
 てなことをハルヒに言える日が来ると良いのだが、間違いなく未来永劫来ないだろう。  
「はい、じゃあもう一回」  
 ハルヒの言い付けにより基本練習である全ての指を使う練習を毎日やっているのだが、やはり小指が難しい。意識しても微かにしか動いてくれない。  
 普段から小指を使っていれば良いのだろうが、生憎俺は日常で小指を使う機会が少ないのだ。  
 だから仕方ないだろう?  
「あーもうじれったいわね」  
 あぐらをかいて座っていたハルヒが立ち上がり、俺の方へと向かってくる。  
 な、何をする気だ。  
「こうよ、こう」  
 俺の指を掴みやたらと動かしてくる。ハルヒの目がニヤけている気がするが、見間違いだろうか。  
 俺はどう言うことも出来ず、ただハルヒがやることを他人のように見ていた。  
 始めは小指だけに触れていたハルヒは薬指、中指、果てには今、手全体を掴んでいる。気がつくとハルヒの顔が何かを企むものになっていた。  
「だから、こうするのよ。こう」  
 そう言うと、ハルヒは俺の後ろに回り込み、俺の左手と右手を支配した。俺は思わず振り向き、  
「何するっ」  
 んだ、とは言い切れなかった。背中に何やら熱反応があるのだが、これは何だろう。  
 深く考えたくはない。  
「こっちの方が分かりやすいでしょ」  
 ハルヒが悪戯っぽく笑いながら言った。いや、そう見えた。  
 実際分かって俺の背中に柔かな物体を押し付けているとしたら、こいつは何を考えているのか。一体何がしたいのか。  
 古泉の言う通り密着しているだけなのだが、無駄に意識してしまう。女としては見れないはずなのに、だ。  
 あぁ! いい加減くっつくのはやめてくれ。  
 今まで築いてきた何かが勢いよく崩れていきそうだ。  
「ちょっとキョン、聞いてる?」  
 後ろから鼻息が俺の顔に当たりそうなくらい顔を近づけるハルヒ。  
 近い、近過ぎる。  
 
「あ、ああ。聞いてる聞いてる」  
 ヤバイ。目を反らすしかない。  
「聞いてないじゃない。今からもっかい言うからちゃんと聞いてなさい」  
 いつもならもっと高圧的な態度を取っているのに何故か普通な対応である。  
 今日のハルヒ、妙に丸いような……。いや、まさかな。  
 まぁどっちだって良いさ。今はハルヒにギターを教わっていよう。  
 シャンプーの香りが無駄に鼻をつくが気にしないことにする。  
「ほら、見てなさい」  
 ハルヒの髪の毛が耳に触れる。思わず体を退けぞらしてしまいそうなくらいこそばゆい。顔に血が集中していくのがわかる。  
 女性としてハルヒを意識せざるを得ない状況になってしまっている。古泉よ、この状況で俺にどうしろと言うのだ。  
 ハルヒの指が動く。よく見ると白くて綺麗な指だ。よく見ると、な。  
 それを目で追っていく。ハルヒの指はまるで波を打ってるかのようにしなやかに動く。  
 上手い。改めて思う。細い指が旋律を奏で、ハルヒが澄まし顔で俺を見る。  
 距離は未だに近い。顔が……顔が。  
「じゃ、次は自分でやってみなさい」  
 糸が切れたように俺から離れ自分の練習に入るハルヒ。いきなり距離が開くとその距離に違和感を覚えてしまいそうになるが、否、そんなことあるはずがない。  
 顔はよく見えなかったが、そそくさと戻る姿はハルヒらしくなかった。俺の見間違いかもしれないが。  
 
 
 それから、そのままあまり言葉を交わすこともなく各々、ヘッドフォンの世界に入り込んでいた。  
 そろそろ腹も減ったことだし、下に降りて昼飯を食べたい。朝はハルヒが来て食べてないしな。  
「ハルヒ、もう昼だし休憩にしないか?」  
「……」  
 ハルヒは黙ったまま耳にヘッドフォンをし、目をつむりながらギターソロを弾いている。  
 聞こえてないのか。試しに肩を軽く叩いてみる。  
「……! 何よ」  
 ゆっくりとヘッドフォンを外し、床に置く。  
 一瞬今凄い顔しなかったか?  
「昼飯にしよう」  
「え、あ、そうね」  
 伸びをして立ち上がるハルヒを先導し、部屋を出る。  
 リビングに行くと食欲をそそる良い香りが漂っていた。  
「良い香りね」  
「ああ、早く食おう」  
 食欲に負けて椅子に座ると、向かい側にハルヒが座った。  
「今日はハルヒの分もな」  
 まだ何やら支度をしているらしいお袋に声をかける。もしハルヒの分だけがなければ非常に気まずいからな。  
「わかってるわよ」  
「すいません。ご馳走になって」  
 ハルヒはやはり大人にだけは礼儀正しい。妙に凛とした態度で対応している。  
 世渡りが上手そうだ。いや、もう渡りまくってるのか。  
「何か言った?」  
 いいえ、何も。  
 目を細めてアヒル口になるハルヒを尻目に俺は昼飯のことだけを考えていた。  
 
 
 てな訳で、今日の昼食はハルヒを含む四人で行うことになった。横に妹、前にハルヒ、ハルヒの横にお袋。これは嫌な予感がする。  
 俺はそんな悪寒を振り払うかのようにただ食欲の赴くままに食べる。箸が進む。無理にでも進む。  
 しかし、俺の努力も空しく妹がいきなりはしゃぎ始めた。  
「ハルにゃんとご飯なんて久しぶりー」  
「そうだったわね。でも、これから何度でもあるわよ」  
「何で?」  
「さぁねぇ、何ででしょう」  
 何だ、その意味深な発言は。これ以上ハラハラさせるなよ。  
 黙々と食べていたお袋が眠れる獅子が如く突然口を開いた。  
「涼宮さんって可愛いわね。あんた何をしたのよ」  
「ぶほぁっ!」  
 俺は口に含んでいた物を吹き出してしまうくらい同様していた。  
 いきなり口を開いたかと思えば、一体何てことを言い出すんだ。俺がハルヒに何かをするなんてことあってはならん。強く否定したい。  
「汚いわね」  
 ハルヒを見ると、俺が吹き出した物がかかってはないものの嫌悪の念を露骨に表していた。  
 お袋がいなければ、後で怖いことが待ってる上に冷たい目で俺を睨んでいただろう。  
「すまん」  
 俺が言うと、ハルヒは何も言わずに食事を再開した。謝罪を無視するとは……。  
「で、何をしたの?」  
 お袋は懲りずにそう言った。おもちゃを与えられた幼児のように実に楽しそうである。  
 しつこい。何をそんなに食いつくところがあるのか。  
「何もしてない」  
 むしろ俺がされている側だ。  
「本当? 涼宮さん」  
 持っていた箸を置いてまで聞くお袋。その目は絶対に俺を楽しんでいる。  
 ハルヒはそれに合わさず、箸を持ったまま答えた。  
「はい。彼には私に付き合って貰ってるんです」  
 凜とした大人らしい態度で言う。いつもそんな感じだと良いのだが……って、何!?  
 俺が受け手であることは分かっていたのか。分かっているなら是非とも土曜の探索を少しでも減らしてはくれないだろうか。朝から歩き続けるのは結構疲れるんだよ。  
「へぇー、良かったわね。付き合ってるだなんて」  
 お袋はまだ何か言いたげにニヤニヤとした目で俺を見ている。この状況を楽しんでないか? そんな心の問いはお構いなしにお袋は置いた箸を持ち直し、箸を進める。  
 えらい爆弾を投下してくれたもんだ。妹は、  
「ハルにゃんとキョンくんは付き合ってるのー?」  
 と延々聞いてくるし、ハルヒは柄にもなく目を横に反らし、顔を赤らめている。  
 俺は箸を動かすことしかできない。ハルヒもどうやら俺と同じらしい。妹以外は無言の食事となってしまった。  
 
 午後からは気まずい空気も消え去り、俺達は普通に練習に取り組んでいた。  
 しかし、これだけやって上手くなった実感がないというのはどうなんだろうか。結構ヤバイ気がする。  
 
 こんな調子でハルヒとのギター練習が続いた俺であったが、何とかコードを弾くことくらいは無難にこなせるようになっていた。  
 
 
「そろそろキョンも使えるレベルになってきたわね。もうバンドで合わしても良いんじゃないかしら」  
 部室で練習していると、突拍子もなく団長が言い出した台詞である。見ると、ハルヒは割と真面目な表情をしている。  
 少しでもハルヒに認められたということであろうか。かと言って認められたとしても嬉しい訳ではない。  
 ハルヒが一人でオセロをしている古泉に答えを求める。  
「そう思わない? 古泉君」  
 古泉はそのイエスマンぶりを見せつけるかのように、  
「ええ、そうですね」  
 否定の色は一切見せなかった。  
 少しは否定しろよ。  
 ハルヒはそうよねと言って、何やらパソコンをいじり始めた。ここからでもうきうきしているのが分かる。  
「今のあなたは譜面を覚えればバンドメンバーとしていられるレベルです。もう少し自信を持ってはどうでしょう?」  
 そんなレベル知らねぇよ。だいたい俺は不安なんだ。  
 か弱い先輩が今も別の場所で練習しているとなると不憫でならん。あの人にキーボードを弾かせるのは心配で仕方がない。  
「その点は心配要りません。実は僕も心配でしてね。長門さんに頼んであります」  
 古泉は一人オセロを止め、ドラムマガジンを読んでいる長門に目をやる。長門は俺と古泉の目線など気にも止めず、活字と写真を眺めていた。  
 しかし、長門の力を使ったバンドなんて感心出来んな。  
「僕の労働時間を増やすことになり得る、つまり閉鎖空間が発生するよりはマシです。それに彼女がドラムを担当する時点でもうこのバンドはおかしいんですよ」  
 ね、と同意を求める古泉はいつものようにキザったらしかった。常に笑顔でいられる秘訣があれば、教えて欲しいもんだな。是非とも実践したい。  
「じゃあ、スタジオを予約するわよ!」  
 突然ハルヒが立ち上がった。目が期待に満ちて輝いている。それなのに何故俺は不安に駆られるんだろう。  
「ちょっと待て。朝比奈さんの意見はどうするつもりだ」  
 朝比奈さんのことだから、絶対にハルヒが言う日は空いてるだろうけど。  
 でも、ここは一応言っておきたい。  
「言われなくても分かってるわよ。今から電話するわ」  
 少し不機嫌な顔になるハルヒ。片眉が吊り上がっている。この顔、何度見たことか。  
 いやしかし、ハルヒも常識のようなものは分かってきたのかもしれない。前までのハルヒならそんなのどうでも良いでしょ、とか言ってそうだ。  
「そうか。なら良いが」  
 
 という訳で、思っていた通りハルヒが言った日にちは朝比奈さんも完全に空いていたらしい。  
 これも朝比奈さんの存在する未来へと繋がるのだろうか。もし、行かなければタイムパラドックスとやらになってしまうのか。  
 まあいい。今はそんなことを気にしている暇はない。  
 何故なら、今目の前にあるペラペラの数枚の紙が俺の心を如何にしても折ろうとするからだ。  
 この記号の群集をどうしろと。この線だらけの紙をどう読めと。  
 俺は目の前にある楽譜とかなりの劣勢状態で睨めっこをしていた。その楽譜というのも、ハルヒが作詞作曲を手がけたものだそうで。  
 歌詞も綺麗な字で書かれている。何故か読むのは憚られるのでじっくり読もうとは思わないが。  
 ギター二本とベース一本、ドラムはニュアンスだけが書いてある。ダダダ、とかゆっくりめとか。ドラムだけえらい適当じゃないか?  
 まあ長門だから心配はないだろう。期待しているぞ、長門。  
 ギターは一段目がハルヒが担当して、二段目は俺が担当するらしい。一段目は連符などオタマジャクシがひしめき合ってるが、二段目は縦に並んだものばかりである。  
 つまり、俺はコード、バッキングギター。ハルヒはボーカル&リードギター。  
 ……非常に技術の差を感じる。歌ってすぐこんなの弾くのか。歌いながら弾くところも結構難しそうだ。  
 それに比べて俺は、最後まで簡単。  
 何だろう。この敗北感は。気にしたら負けか。負けだよな。  
 
 
 そして遂に来てしまった。  
 初スタジオ。SOS団にとっても、俺の人生にとっても、初めての体験だ。  
 上手くないなりにも出来る限りの練習はしたつもりだが、どうにも不安になる。ハルヒに借りたギターを背負う肩が重い。もうちょっと練習しておけば良かったかな。  
 ハルヒの言っていた場所に行くと、待合室のような場所でいつもの面々が待っていた。  
「遅い! 罰金」  
 こういうときでも同じセリフかよ。少しは俺の財布の状況を理解してくれないか。  
「罰金ってここではどうすりゃ良いんだ」  
「私の分払っといて」  
 へ?  
「スタジオ代、私の分も払っといてって言ってんの」  
「二人分だけで良いのか」  
 ハルヒはしたり顔になって俺にある紙を見せた。  
「一時間……」  
 何だこの金額は!? こんなの全額払ってたら一ヶ月に二回行くだけで無一文になっちまう。  
 俺の驚きを隠しきれない表情を見て、ハルヒは、  
「それ全部払ってくれんの? そんなに払いたいなら良いけど」  
 これを払うなんてとんでもない。慎んで二人分だけ払います。  
「そんなら仕方ないわね。じゃ、この会員登録の書いて」  
 会員登録もしなきゃならんのか。面倒だな。  
 空いていた椅子に座って必要事項を高速で書き、ハルヒに渡す。  
「はいはい、じゃあ行きましょうか」  
 ハルヒがフロントの人に五人分の申込用紙を渡し、今日借りているらしい部屋へと行く。  
 まず扉が厚い。音を通さない為なのだろうが、異様に厚いし重い。取っ手もかなり大袈裟だ。  
 それを開けて中に入ると、ドラムセットとキーボード、アンプが三個に何やら音楽って感じの機械がある。あれ名前なんていうんだ?  
 ハルヒは突っ立っている俺を余所に自分の用意を始めた。担いできたギターを取り出し、チューニングをしてシールドでアンプを繋ぐ。  
 繋ぐ……? 何かがシールドとシールドの間にある。  
「それ何だ?」  
 ハルヒはしゃがんで用意をしつつ、答える。  
「エフェクターよ。言ってなかったっけ?」  
 夢中なのは良いですが、ジーンズの上から布が見えてますよハルヒさん。赤い布が。  
「多分初耳だ」  
「そうだっけ。簡単に言えば、音色を変える機械よ」  
 いやだから、赤い布がですね。  
「へぇ」  
 ハルヒは尚も赤い布を出したままもう一個のエフェクターを繋いでいた。  
 俺も準備を始めないとな。  
 チューニングをして、ギターと繋いだシールドをアンプに差し込む。  
 色々なツマミがあるが、どうすれば良いのだろうか。  
「ハルヒ、これどうすりゃ良い?」  
 マイクの準備に取りかかっていたハルヒは、  
「あーそれね。キョンはまだエフェクター持ってないからゲイン上げて歪ませて」  
 と言われても、こんなでかいアンプは触ったことがない。  
 
「電源の入れ方は?」  
「それはね……」  
「どれがゲイン?」  
「えっと……」  
 こんな調子で俺が質問ばっかりしている内に他のみんなも準備が完了したらしい。  
 と言っても、長門はバチ、いやスティックを持って座るだけでだいたい準備完了のようで、暇を持て余し、俺達の準備をただただ見つめていた。  
 何処か楽しげな瞳になっているのは気のせいか?  
 朝比奈さんは今にも壊れそうな震え具合で、見てるこっちが更に不安になってくる。そんなに固くならないで下さい。大丈夫です。  
「じゃー、一回みんなでテキトーに合わせるわよ!」  
 いつの間にかマイクスタンドを自分の前まで持って行き、マイクをあの機械と繋ぎ準備万端なハルヒがピックを持った右手を上げた。  
「キーはEね!」  
 途端、ドラムの連打が鳴り響いた。細い手首が折れそうなくらい速い動き。まるで機関銃のような音だ。  
 続いてハルヒのギターが高音のノイズを放つ。正確にはハウリングに近い。そこからすぐに凄い勢いで即興のフレーズを弾いていく。  
 長門とハルヒが躍動して、音と音が絡み合って、混じり合っている。  
 長門のドラムが落ち着いたところで古泉が入っていく。破裂音のようなベース。指と弦が反発し合う。強い、短い音。  
 どんどんバンドの音象へと近づいていく中で遂に朝比奈さんの指が動き出した。  
 連続する機械音と歯切れの良い和音。近未来的な音が流れ出す。宇宙をも想像させる。  
 まさか朝比奈さんまでこんなに上手いとは。凄い……。  
 蠢く音と音が狭い空間で渦を巻いている。呆気に取られた俺は四人の演奏に入ることを忘れていた。  
 ハルヒが強い眼差しで俺を見る。微量ながら期待のようなものを感じてしまう。  
 我に返り、急いでピックを弦に引っかける。簡単なコードで追いつこうとするが、追いつけているのかすら分からない。  
 どんどんヒートアップしていく演奏にハルヒが声を出す。  
「ヘイッ!」  
 それを合図に長門がスティックをエックスの字にして二回叩いた。  
 ワン、ツー。そんなタイミングで。一瞬演奏が止まる。  
 そして。  
 全員の音がハジけた。長門は力強く叩き付け、ハルヒはノイズを、古泉は轟音、朝比奈さんは高速弾き。  
「良い感じね」  
 演奏が終わった。ハルヒは満足気な顔でみんなを見ているのだが、その視線を俺に向けるのは間違っている。  
 俺は最後までみんなの演奏に呆気に取られていて、ギターを弾くにも適当なコードで誤魔化していただけだ。だから、そんな目で俺を見るんじゃない。  
「みくるちゃん凄いじゃない」  
「え、え、あ、はい」  
 ご機嫌なハルヒに褒められ、しどろもどろな朝比奈さんであったが、確かにその演奏は凄かったし、上手かった。  
 俺はどうしても劣等感を感じざるを得ない。  
「じゃ、この前渡した曲をやるわよ」  
 ハルヒの言葉から練習していたギターを思い出す。  
 難しくはない。何とか弾けるはずだ。  
「ユキッ」  
 ハルヒが長門に視線を投げかけた。  
 長門によるカウントが始まる。四回、全員がそのリズムに集中する。  
 
 
 初めてのスタジオの結果はというと、俺以外はこれでもかというくらいに力を出し切っていたように思う。  
 しかし、俺は、俺だけは最悪だった。他の誰よりも簡単なパートなのに微妙に間違えてしまう。古泉はそれくらい気にしなくて良いと言っていたが、ミスった俺は相当気にしてしまう。  
 間違う自分に苛立つ。そのことに更に苛立つ。非常にストレスの溜まる悪循環が始まっていた。  
 ハルヒの歌は普通に上手いし、長門の超絶ドラムテクもヤバい。他の四人が上手いと余計に不安になる。  
 俺はこの日からギターを弾くことに自信を失いつつあった。  
 だから、今こんなことを言ってしまったんだと思う。  
「俺はいない方が良いんじゃないか?」  
 途端、部室の空気が重くなる。動作では表れない空気の重みが部室を圧していた。  
「どういう意味ですか?」  
 古泉が訝しげに俺の言葉に応える。顔はいつもの笑顔から目を開いた美少年な顔になっていた。  
「俺がいなくてもバンドとして活動出来るだろ」  
 そう思う。単純に四人だけでバンドとして成り立っているじゃないか。俺は別に要らなくないか?  
「それは違います。あなたは必要ですよ」  
 古泉は組んでいた手を離して、真面目そうに言う。  
「いや、四人で既に成り立っているものに俺がわざわざ介入するのはただ蛇足なだけじゃないか?」  
 ハルヒが操作するパソコンのファンが唸っている。風より重い、音だけが。  
「まぁ良いさ。俺は今日の練習を休ませてもらうことにする」  
 椅子から立ち上がり、鞄を持ち部室から出る。扉の隙間からハルヒの声が聞こえた気がするが、きっと気のせいだ。  
 今日は家に帰ってゆっくりしていよう。……ギターのことは忘れて。  
 
 
 
 

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