「朱に交われば赤くなる」  
 
『彼女には願望を実現する能力がある』  
これは以前古泉から大真面目に聞かされたハルヒ評だ。しかしSOS団の市内パトロールがある本日土曜、朝から雨が降っている。ハルヒのことなら、パトロールのある日は梅雨時でも快晴にしそうだが本来気象を支配しているこの惑星がいつまでもハルヒの思い通りにはさせんぞとがんばったのだろうか。二日酔いしたサラリーマンのような声をしたハルヒからの電話で本日のパトロール中止を告げられたあと、雨の中外に行くのもしんどいのでおとなしく家に引きこもることにした。昼ごろ母親が出かけてしまい、今家に居るのは俺を入れて3人だ。俺と、妹と、ミヨキチである。ミヨキチは妹と一緒に宿題をするため母親と入れ替わるようにやってきた。妹と一緒に勉強するといっても、いつも妹がミヨキチのノートを写すだけだけどな。  
 
ザー、ザー、  
 
ミヨキチが着てから、雨足が強くなったようだ。帰りは送っていこうかななどと考えながら、俺は自分の部屋で本を読んでいた。長門から本を借りたり一緒に図書館に行ったりしてるうち、俺も読書好きになりかけていた。長門のような百科辞典級の本はまだ無理だが、人から部活は何だと聞かれたら文芸部って答えてもいい気もする。というよりSOS団団員だなんておいそれと言えるかよ。  
 
コンコン  
 
部屋のドアをノックする音がした。今俺の部屋ではテレビをつけていない。主電源からOFFだ。CDもかけていない。ラジオもつけていない。ということは間違いなくドアをノックする音だ。誰だ?  
妹はいつもドアをノックせずに入ってくる思春期の男性泣かせのやつだし、母親は出かけて夕方まで帰ってこないはずだ。ということは・・・  
「おお、どうした?」  
ドアを開けると、妹の部屋で宿題をしているはずのミヨキチが立っていた。白いセーターを着て、髪を後頭部のあたりでまとめ、いつぞやのスリムジーンズをはいていた。  
「妹は?」  
もう一人の姿がないので聞いてみた。  
「コタツで寝ちゃってます。」  
季節はすでにコタツを必要とする季節になっている。妹のやつ、ミヨキチをほったらかして自分だけ暖かくなって寝てしまったのか。  
「それで、宿題で解らないところがあるのでキョンくんに教えてもらおうと思って・・・。」  
ミヨキチの手には、教科書とノートが握られていた。  
「ああ、そういうことか。まあ入んなよ。」  
俺はミヨキチを快く部屋に招き入れた。ミヨキチは不動産物件を下見するようにキョロキョロと俺の部屋を見渡している。  
「?どうした?」  
「い、いえっ。キョンくんの部屋に入るの初めてですから・・・。」  
 
言った途端ミヨキチの頬が赤くなった。言われた俺も意味もなく赤くなってしまい  
「そそそうだっけか?ままあ座れって。」  
しどろもどろになってしまった。何だこの雰囲気は?まるで彼女を初めて部屋に連れてきたみたいじゃないか。  
俺はホットカーペットのスイッチを入れた。俺はコタツが嫌いだ。コタツ布団というシロモノ、無意味にバカでかくて場所をとり、埃ばかり出して部屋を汚す。なので俺の部屋の暖房設備はホットカーペットとファンヒーターだ。そのホットカーペットにミヨキチは正座し、テーブルを挟んで真向かいに俺はあぐらをかいて座った。ミヨキチからの質問を受けながら、俺はミヨキチのピョコピョコ動く後ろ髪が気になった。  
ポニーテールには丁度いい長さの髪。  
「ミヨキチ、お前髪形変えたの?」  
「えっ?・・・これですか?これは勉強のとき髪が邪魔になるので後ろにまとめてるだけですよ。」  
「・・・そうか。」  
「これ、ポニーテールっていうんですよね?変ですか?」  
後ろ髪を触りながらミヨキチが聞いてきた。  
「いや、そうじゃなくて。似合ってるなあと思って。」  
「へっ??」  
またミヨキチの頬が赤くなった。その顔を見た俺は  
「さ、さあ宿題やるか!」  
話を宿題に戻した。しかしミヨキチはその後、やたらと後ろ髪を意識するようになってしまった。  
ミヨキチは算数は得意だが、社会が苦手のようだった。わが妹とまるで逆だな。なるほど一緒に勉強すればお互いの苦手科目を補完できて万々歳だな。俺も妹と同じで社会は得意のほうだ。今では地理も自信あるしな。なのでミヨキチの臨時家庭教師には適任だった。  
俺が徳川吉宗が城を抜け出して城下町を見回っていたというのは将軍になる前の話で実話だということを詳しく話していると  
「キョンくんって歴史も詳しいんですね。」  
ミヨキチの一片の嫌味もない一言で我に返った。  
「す・・・すまん。ちょっと熱く語っちゃったかな?」  
コホン、と一回咳払いした。ミヨキチは鉛筆を握ったままにっこり笑って  
「いえ、私もそういう雑学みたいなの好きなんです。けどそういうのって全然テストに出ないんですよね。」  
まあ、そりゃそうだろうな。だから雑学って言うんだし。趣味と実益は必ずしも一致するわけではないのだ。その辺ツライね。  
「そうですね。」  
ふう、とミヨキチは溜息をついたが、なぜかその顔は少し嬉しそうに見えた。  
「これで終わりです。ありがとうございました。」  
とはいえミヨキチは飲み込みが早いので小一時間ばかりで宿題は片付いた。  
「てか妹のやつまだ寝てんのか?」  
 
起きていたらミヨキチを探して俺の部屋にノックもせずに入ってくるだろう。俺は起き上がって背伸びしながら  
「頭引っ叩いて起こしちゃっていいから。」  
ノート類をまとめているミヨキチに手振りを交えながら言った。ミヨキチが苦笑いを浮かべながら立ち上がろうとしたその時、  
「あれ?あわわっ」  
生まれたての赤ちゃん牛のような足取りになってふらふらと俺の方に寄って来た。少し面白い。  
「どうした?」  
理由は分かっていたが聞いた。  
「あ、足が痺れて・・・あっ!」  
 
ぽふっ  
 
そのままミヨキチは俺の胸の中に倒れこんできた。床とぶつからないよう俺も受け止める体勢をとったため、華奢な体がすっぽりと俺の胸の中に収まった。完全にミヨキチを抱きしめている格好だ。  
 
ザー  
 
俺の部屋に、外の雨の音が響く。俺の鼻に、ミヨキチからいい香りが届く。  
「あ、足の痺れは取れたか?」  
堪らず沈黙を破る。  
「ま、まだ少し・・・」  
俺の服をつかむ力が強くなった。ミヨキチは俺の胸に顔をうずめているので表情が分からない。この位置からだと、勉強の邪魔になるからという理由で後ろに結った髪が、そうポニーテールが視界に入る。  
「ミヨキチっていい匂いするなあ。まさか香水とか?」  
とりあえず何か話題を作ろうとしたのだが、さっきから放たれている芳香の話になってしまった。匂いフェチとか思われたらなんだな。  
「香水はつけてないです。シャンプーかリンスかな・・・」  
胸の辺りからこもったミヨキチの声がする。  
「キョンくんも、いい匂いしますよ・・・」  
俺はリンスとか気にしないぞ。  
「そうじゃなくて、男の人の匂い・・・」  
ミヨキチの思わぬ言葉に、俺は心臓の鼓動が速くなった。ミヨキチ、お前は何を言い出すんだ。男の人の匂いってどんな匂いなんだ。俺はいくつか候補となる匂いが思いついたがミヨキチにはいえない匂いばかりだった。まずい、話題を変えよう。  
「ミヨキチってずいぶん背が高いと思っていたけど、こうしてみると小さいな。」  
ミヨキチの体がピクッとした。  
「そういうこと、初めて言われました・・・。やっぱりキョンくんは私のこと女の子として見てくれるんですね。」  
あれ?あれ?俺どんどんドツボにはまってないか?何でミヨキチは俺の話題にこんな反応するんだ?俺、そんな意味ありげな話してないよな?まずい、また話題を変えよう。  
 
がばっ  
 
ミヨキチが突然顔を上げ、俺を見つめた。  
 
「さっき・・・この髪形似合ってるっていいましたよね・・・。」  
俺は黙って頷いた。というか、声が出なかった。  
「今度からポニーテールにします。・・・わたし、私だって女の子なんです。巨人じゃないんです。」  
ミヨキチの瞳が水面の月のように揺らいだ。・・・そういうことか。俺はポニーテールの頭を撫でながら  
「ミヨキチは充分魅力的な女の子だぞ。」  
またもミヨキチの頬がみるみる赤くなっていく。また俺まずいこと言ったかな?  
「キョンくん・・・」  
キョンくんか。叔母が発案し、妹が広めた俺のあだ名も、今ではミヨキチにまで伝染している。参った。今の台詞、朝比奈さんより色っぽいじゃないか。俺、ミヨキチのスイッチを入れてしまったようだ。ミヨキチの今の表情は、何かを待っている顔だ。理屈ではない。直感的なものだ。俺はここから先の行動は避けるべきだと思ったが、鎖で縛られたようにミヨキチの視線から離れられない。俺は今どんな顔をしているんだろう。ミヨキチの澄んだ瞳に映る自分の顔でそれを確認しようとしたがその顔がどんどん大きくなっていることに気づいた。それは錯覚ではなく間違いなく俺とミヨキチの顔の距離が縮んでいることを意味していた。  
ミヨキチがつま先を上げ背伸びしたのが分かった。もうお互いの吐息の音と感覚が伝わる距離まで近づいている。ミヨキチが目を閉じた。間近で見るミヨキチの唇は、上唇より下唇のほうが少し大きくぷっくりしていて見るからに柔らかそうな質感をしていた。俺は頭の中ではこの子は小学生だ、妹の親友だ、やめろ、という声がしていたが体は制御できなかった。俺とミヨキチの唇がまさに触れ合いそうになるその時ー、  
 
ガチャッ  
 
「ミヨちゃんここに居るんでしょー?」  
かくれんぼの鬼の如くわが妹が俺の部屋に入ってきた。時間が止まる、というのを初めて実体験した気がする。俺は眼球だけを妹の方へ動かした。妹はドアノブを握ったまま固まっていた。俺は今時間が止まっていると感じていたが、妹のよだれの痕がついた口、目、ついでに鼻までもがゆっくりと開いていくのが確認できた。時間は止まっていない。妹が次に発する声は、いつものノー天気なものではないだろう。妹の顔がそう言っている。  
「な・・・な・・・何やってんのーーーっ!?」  
俺の部屋の空気が振動し、その声の圧力で俺とミヨキチはよろめいた。  
「ミヨちゃんと・・・キョンくんが・・・チュ、チューしてるっ!!」  
待て待て!確かにこの体勢、チューしようとしてなくもないが断じてチューなどしていない!早とちりするなっ!  
「違う!これには訳があってだな、聞いてくれ!」  
俺はミヨキチと顔を離し、ここに至るまでの経緯を伝えようとした。  
「だったら何で二人とも顔が赤いのっ?」  
ミヨキチの顔が赤いのは知っているが、俺まで赤いってのか?まさか?  
「俺の顔、赤いか?」  
一番近くにいるミヨキチは  
「は・・・はい。さっきからずっと。」  
まだ俺の服を離さない。  
 
「ほれ、ミヨキチもあいつに説明してやってくれ。このままだとあいつ、頭から湯気が出てきそうだ。」  
「え?は、はい、そうですね。」  
ようやくミヨキチは俺から視線を外し、親友の方に顔を動かした。  
「な、何でもないよ。チュ、チューなんかしてないってば。ただ私が足が痺れて転びそうになったのをキョンくんが支えてくれただけ。」  
見事に的確に状況を伝えてくれた。自分が何故俺の部屋にいるのかまで説明してくれたらなおよかったが、今はそんな余裕はない。  
「ホントに〜??」  
腕を組み斜に構えながら妹が俺達を睨んできた。蛇に睨まれた蛙のように俺たちは動けず、募金活動の即戦力になりそうな精一杯の笑顔を妹に向けた。  
「ミヨちゃん、足はまだ痺れてるの?」  
小姑のような口調で妹がミヨキチの足を覗き込んだ。  
「そうだ。足はもういいのか?」  
すっかり忘れていたことを俺も聞いた。ミヨキチははっとして  
「あっもう大丈夫です。」  
俺の服をつかんだまま慌てて離れようとしたが、先刻俺に倒れこんできた際床に落とした鉛筆に足を取られた。  
「あ、あっ」  
「うわっ」  
 
どさっ  
 
俺の服をつかんだままだったので、俺まで一緒に倒れてしまった。倒れた所は・・・床ではない。柔らかくて反動のある、ベッドの上だ。  
「あ・・・」  
ミヨキチが声を上げた。俺が気づいた頃は時すでに遅し、俺の右手がミヨキチの胸に置かれていた。言っておくが、ミヨキチの意外とふくよかな胸の感触など味わっていないぞ。それを見た妹は体中から空気を吸い込み  
「二人ともそこに正座しなさーいっ!!」  
部屋の窓ガラスが割れんばかりの大声を上げた。おまえ、ハルヒみたいな口調になってきたな。  
 
 
数分後の俺達の立ち位置はこうだ。  
俺とミヨキチは並んで正座。両手は太ももの上。その前を左右に行ったり来たりしている妹がいる。  
「なるはど。事情は解りました。」  
妹は腕を組んでうんうんと頷いている。どこかの刑事かお前は。  
「では判決を下します。」  
今度は裁判官か。  
「キョンくん有罪、ミヨちゃん無罪。」  
ミヨキチはほっとした顔を浮かべていたが、俺は複雑だ。この裁判は控訴できるのか?  
「あの、裁判長。」  
手を上げた。  
「何だね?」  
「ミヨキチが無罪なのは当然ですが、何故俺は有罪なんですか?」  
妹は俺を指差しこう言った。  
「キョンくんの罪状は、『ミヨちゃんの乙女心をもてあそんだ罪』です。」  
はあ?  
「よってキョンくんは『あたしとミヨちゃんにケーキとジュースをおごる刑』に処します。」  
抗議の声を上げようとしたが再び妹に睨まれ  
「皆に言いふらしちゃうよ?」  
黙るしかなかった。『皆』ってのはあの『皆』だよな。完全に弱みを握られた格好だ。窓の外を見ると雨は止んでいた。  
「分かりましたよ。今から買いに行ってくる。」  
ひょいとミヨキチの顔を見ると、微妙に曇った顔になっていた。どうしたと声を掛けようとすると横から  
「ダメだよー。あたし達もついてく。キョンくんだけだと、ちっちゃいケーキ買ってきそうだもん。」  
いつもの間抜けた妹の声がすると、途端ミヨキチの顔から曇りが消えた。  
 
防寒支度をして、戸締りをして3人で外に出た。俺の前では妹とミヨキチが手をつないで歩いている。二人は同い年の親友だが、傍から見るとミヨキチが姉の姉妹のようにも見える。そのミヨキチはポニーテールのままだ。俺はさっきのミヨキチの顔が頭に残っていた。そういえば俺の部屋に来たときからずっと、ミヨキチはどこか嬉しそうな楽しそうな顔をしていた。足が痺れて俺に倒れ掛かってきたときも、妹に見つかって正座してるときもだ。ただ俺が一人でケーキを買いに行くと言ったときだけ顔を曇らせた。  
「乙女心ねえ・・・」  
言葉にはできるが、その意味を未だ理解できていない馬鹿な俺は、水溜りに足を踏み入れたことさえ気づくことはない。  
 
 
終わり  
 

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