SOS団史の中には、俺がまだ話していないものがいくつかある。  
 そうしたエピソードすべてに、超常現象と呼べるような出来事が含まれていたのかは定かでない。  
 つまりハルヒが絡んでいたか分からない。グレーゾーンと言えばいいだろうか。  
 涼宮ハルヒという女は、俺の辞書にある常識という単語の意味を  
 初めから書き直さないといけないような事件をいとも簡単に起こしてしまう。  
 そして厄介なことに本人にはまるでその自覚がない。  
 人の通る道に必ず引っかかるように地雷を埋めまくった挙句、  
 その後始末を被害者に任せてしまうハルヒであるが、使う爆薬の全てが自前のものではないようで、  
 たとえば孤島の殺人事件劇とか雪山の遭難事件なんかは主犯が別にいたわけだ。  
 結果的にそれらは涼宮ハルヒがいてSOS団なる全宇宙にまたとない珍妙集団があったから  
 起こったことなのだが、重要なのはそこではない。  
 
 ハルヒには願望を実現する能力がある。  
 しかし、望んでいないこともまた起こりうる。  
 
 この二行目に俺は傍線なりアンダーラインなり赤線なりを引きたい。  
 こと年末から春先にかけては、あいつが自ら望んだとは思えない事件が目白押しだった。  
 一体誰が真犯人で、目的はどこにあるのか。  
 現時点では分からずじまいなことが山ほどある。  
 これから話すのもそうした因果関係がわやになっている出来事である。  
 実はこういう話は無視できない数に登っているのだが、  
 俺の中で整理ができていないこともあって中々公開に踏み切れないのだ。  
 今回そのひとつを話すのは、まぁ俺の気まぐれだと思ってくれ。  
 もう一度言っておくが、宇宙とか時間とか超能力とかのSFめいた話とは無縁のはずだ。  
 
 俺は、今でもそう思っている。  
 
 
――空梅雨の気まぐれ――  
 
 
 夏、真っ盛り――。  
 と、言いたくなるくらい暑いのに、梅雨には先週入ったばかりだった。  
 旧館部室棟三階、文芸部部室を間借りしたSOS団団室は、  
 セイロに入った中華まんの気持ちを疑似体験するのに持ってこいの状態で、  
 俺はいっそ誰かに醤油をつけて食べられてしまいたいくらいにうだっていた。  
「ずいぶんとのぼせていますね」  
 この数日、俺がこうして自意識をひとり巡っていると決まって最初に介入してくるのがこいつ、  
 古泉一樹である。  
「そういうお前は涼しそうじゃねぇか」  
 ハンサムというカタカナ四文字を体現するかのように微笑むこの男は、  
「そんなこともありませんよ。こう暑いと、冷房とまでは言いませんが  
 扇風機くらいは設置していただきたくなりますね」  
 それだってまだ高望みってものだろ。なんせここはどこにでもある安上がりな公立高校の一部室だ。  
 冬に教室にストーブを置くのが精一杯だってことは俺がこうして語るまでもなく、  
 お前にもとっくに自明のことだろう。  
「えぇ、もちろんですよ。ですが、この部屋には既に普通の教室や部室にはないものがいくつかあります。  
 期待してみるのも浅はかではないかなと思いまして」  
「確かにな」  
 手始めにパソコンだ。一ヶ月前に強奪としか言いようのない方法で入手した最新機種。  
 お次はポットとやかんで――  
「お茶が入りましたよー」  
 俺の視神経と鼓膜を同時に溶けたバターにしてしまう部室専属メイドさん  
(と、呼ぶことにもはや抵抗がなくなりつつある)こと朝比奈みくるさんは今日も  
 パーフェクトなスタイルでお盆を持ってこちらにいらっしゃる。  
「どうぞ。ふふ」  
 と、可愛く笑うと、古泉と俺の前に煎茶入りの湯飲みがことりと置かれる。  
 いや、まこと。目下SOS団に俺がいる理由は朝比奈さんを眺めることと、  
 彼女が入れてくださる天上の飲料を頂戴するために他ならない。  
「「ありがとうございます」」  
 
 げ。古泉と声がかぶっちまった。こら、ウィンクするなよ、気色悪い。  
 そういえば、この朝比奈さんが着ている衣装だって古泉の言うあるなしゲームの回答のひとつだ。  
 今お召しになっているメイド服。そしてバニー、ナースと普段着である制服は  
 並んでハンガーラックに架かっている。そういやいつぞやのチアガール衣装はどこに行ったんだろうな。  
 ハンガーの余りはまだまだあるが、果たしてこの先もハルヒは着せ替えを続けるのだろうか。  
 新しい衣装を突きつけられた時に戸惑う朝比奈さんの御心と、衣装を来た彼女を見たときの俺の感想を  
 両天秤にかけて、人知れず良心の呵責に心揺れる俺であった。  
「どうぞ」  
 続いて朝比奈さんが湯飲みを置いたのは窓辺の丸テーブルである。  
「……」  
 音声上では情報量皆無の無言を友として、長門有希はひたすらに読書を続けていた。  
 文芸部の正式部員はこの読書ドールだけだが、さも呼吸同然の作業のようにページを繰る様は  
 見ていて特別面白いものでもない。  
 俺は容赦なく体温を上げる朝比奈緑茶をありがたく頂きつつ、目をつむってでも勝てそうな古泉との将棋を指しつつ、  
 しかるべき時に備えていた。  
 その時とは今ここにいないSOS団団長、涼宮ハルヒの登場以外の何物でもない。  
 あいつがここにいないということはどこか他の場所で他のことをしているということであり、  
 それは間もなく俺たちの元に災厄にも似た形となって降りそそ――  
 バタン!  
「お待たせーーっ!」  
 このタイミングを外で待っていたかのようにハルヒは現れた。  
 こいつが静かに入室することなど、過去現在未来を通じて永遠にないだろう。  
 ハルヒはアカデミー賞初受賞直後の二枚目俳優も真っ青の笑みを満面に広げ、  
 五歩足らずで団長机に向かうとどっかと腰を下ろし、パソコンの電源をいれて朝比奈さんにお茶を注文した。  
 この間約四秒。  
「あ、はははいっ」  
 横暴な圧政を敷く団長に嫌な顔ひとつせず、朝比奈さんは屈託ない笑みでポットへと向かった。  
 やっぱりメイド服は落ち着くのかね。  
 ナース服で部室内に滞在するのは俺としても心穏やかではいられなかったしな。  
 メイドならいいのかと言われれば、慣れとは恐ろしいものよなぁと答えるしかない。  
「それにしてもあっついわねー。近いうちに扇風機を手配する必要アリだわ」  
 ハルヒは古泉の注文を聞き届けるような発言をして、パソコンをいじり始めた。  
「キョン、ゲートボールのルールは調べておいたでしょうね」  
 片眉をつり上げてハルヒは俺を横目で睨んだ。  
 ……あれ、本気で出るつもりなのか?  
「当たりまえじゃないの。SOS団の知名度はまだまだ全然低いからね。  
 とりあえず市内全体に我々の存在を知ってもらうのが目標だわ」  
 そんな事になれば俺は亜光速で遠方の地へ転居する手続きを取らねばならないだろう。  
 こんな変態集団にいることが学校中に知れているだけでも顔で茶が沸かせるくらいなのに、  
 市内全域に及ぶとなれば俺の体温は百度計でも計測不能になってしまう。  
「何ぶつぶつ言ってんのよ。それで、調べたの?どうなの」  
 調べたともさ。真面目に働く団員に感謝するがいい。  
 ついでに言っておくがアメフトとサッカーはなしだからな。  
「分かってるわよ。あたしは一度決まったことをぐちぐち掘り返したりしないわ」  
 男女混合で肩を激しくぶつけ合うスポーツなどしたら、朝比奈さんが秒速ノックダウンしかねない。  
「それで?ゲートボールは何人でやるスポーツなの?」  
 やれやれだ。この前の野球で満足したのかと思いきやこれだからな。  
 俺は常連クレーマーに応じるサポートセンター職員ばりに辟易しながら、  
「最低五人だそうだ。上限は――」  
「じゃぁ五人ちょうどで問題ないわね。この後みんなで練習して、少数精鋭で華々しく明日の試合に乗り込みましょう!」  
「ちょっと待てよ」  
 明日だと?この前よりひでえじゃねぇか。前回の反省を活かすという考えがお前の頭にはないのか。  
「いいじゃん勝ったんだし。結果が伴っていれば過程なんてどうだっていいわ」  
 俺はたった今世界制服を終えたばかりのような表情のハルヒを置いて室内の他の面々に目をやった。  
 古泉は柔和な表情を維持し続け、長門は顔も上げずに読書続行中、  
 朝比奈さんはぽーっと俺とハルヒの間の空間を見上げていらっしゃる。……そこに妖精でも飛んでるんですか。  
 
 俺は思わず溜息をついた。いい加減あきらめ始めていることだったが  
 相変わらずこの部屋の中でハルヒに意見する人間は俺だけのようだな。  
 たまにはタメ口でまくしたてる古泉とか眉をひそめる長門とかだだをこねる朝比奈さんとか見てみたい気もするが、  
 それを言っても詮なきことであろう。  
 俺はハルヒに向き直る。  
「ってことはお前はゲートボールのルールも知らんのに試合の予約をしてきたと、そういうことか?」  
「そうよ。文句ある?」  
 即座に十通りの抗議文書の草案が浮かんだが、どれも一枚目を書き終える前に却下されること確実なので、  
 ここは抑えて話を続ける。  
「それで、相手は誰なんだ」  
「甲陽園オールディーズって聞いたわ。もちろん今回もチーム名はSOS団だから安心していいわよ」  
 何をどう安心しろと言うのだ。  
 聞けば甲陽園オールディーズとは、その名の通り正真正銘の老齢紳士淑女の皆様による憩いのサークルだそうだ。  
 お年寄り相手にケンカ吹っかけて何が楽しいのだろうか、こいつは。  
「ゲートボールですかぁ。それって……あのぅ」  
 今まできょとんとして話を聞いていた朝比奈さんは、ゲートボールと言われて思い当たるものがないのか、  
 満月のように丸い瞳をぱちくりさせて不思議そうにしている。  
「なるほど。近所のご老人がたとの親善ですね。人生の先輩である皆さんの言葉は、  
 僕ら未熟な高校生にとって後生大事なものとなることでしょう」  
 今即興で考えたような持ち上げ台詞を言うと、古泉は将棋の駒を片付け始めた。  
「……」  
 何の反応も見せずに読書していた長門は文庫を閉じた。  
 これでまた不毛な球技練習に繰り出さねばならないんだろうな。  
 
 ――その通り。  
 ハルヒの言うがまま、俺たちは放課後を目一杯使ってゲートボールの練習に明け暮れた。  
 とばっちりを受けたのはハンドボール部で、たまたま監督に来ていた岡部に耳も貸さず、  
 半ば強引にスペースをぶんどったハルヒは声高らかに練習開始を宣言し、  
 追い出されたハンド部は岡部共々強制退場となってしまった。ほんとに申し訳ない。  
 というか一学年もようやく四分の一というところなのに、素行評価が真っ向下落するような真似は、  
 この間の中間テストで快調にロースタートを切った俺としては避けたいところなのだが……。  
 そんなフィリピン海エムデン海淵にも匹敵する俺の深い心配など知りもせず、  
 ハルヒはスティックを全員に手渡すとコの字型のゲートをやたらめったらに地面に差し込んで気勢を上げた。  
「さーて、行くわよ!第一球!」  
 と言うなりボールをスティックでゴルフのスイング並みにぶっ叩き、叩かれたボールはそのままゲートを連続通過した。  
 ゲートボールがこんな豪快なスポーツだとは知らなかったぜ。  
「さぁ、あたしに続きなさい!まずはみくるちゃん、バシンといっちゃいなさい!」  
 朝比奈さんはメイド服のまま真剣な眼差しでボールを打とうとしていらっしゃる。  
 古泉は苦笑気味に静観の構え。  
 長門はスティックを両手で持って観葉植物を見るような視線を注いでいる。  
 また変な呪文でキテレツな属性を負荷しないでくれよ、頼むからさ。  
 
「お疲れみんな!それじゃ明日九時にいつもの駅前!遅刻したらバス代おごりだから」  
 二時間後、ハルヒはスティックの柄をフェンシングの剣のように俺に突きつけて言い放った。  
 校庭のハンド部領土にはそこかしこに小さい穴が開いて、スパイクを履いた野球部員千人が  
 ここでタップダンスを踊ったかのように荒れ放題である。  
 重ね重ねすまない、ハンド部員と岡部。  
 
 明日、俺はこのままSOS団市内プロモーションマッチ第二弾に赴くことになると思っていたし、  
 実際最初はそのように事が運んだのだが、どういうわけかつつがなく終了とはいかなかった。  
 それどころか、ゲートボール試合開始にすら立ち会えないことになる。  
 
 
 翌日土曜日朝九時……十分前。  
 当たりまえのように俺は時間前遅刻をした。  
「遅いわよ!やる気あんのあんた」  
 そんな新米を叱りつける旅館の熟年女将のようなことを言わないでくれ。  
 休日の朝っぱらからこうしてジャージ袋片手に来てやってるだけでも感謝されるに値するだろうが。  
「そんなの皆一緒なのよ。まして遅れたあんたが言う台詞じゃないわ」  
 眉を怒らせて嫌な感じに口の端をひん曲げるハルヒであった。  
 俺は他三名を見渡す。あぁそういえば、今回は谷口に国木田、  
 妹と朝比奈さんの級友である鶴屋さんにお呼びはかかっていない。  
 ハルヒは必要最低限の人数がいればそれで満足らしく、野球の時もそうだったらしい。  
「補欠なんていらないでしょ。ベンチにいたってヒマなだけだわ」  
 だそうだ。そういやずっとピッチャーやってたもんなお前は。  
「上手にできるといいんですけど……」  
 朝比奈さんは前回より若干緊張が和らいだ様子で言った。  
 剛速球に高速安打がばしばし飛び交う野球に比べれば、遊ぶ相手が黒豹から  
 子猫になったくらいの違いがあるだろう。  
 そろそろ薄着になってゆくこの季節、地方都市に降り立った天使様が薄着になっていく様は、  
 日の出直後の太陽なんて目じゃないくらいにまぶしい。  
「……」  
 挨拶も無言で済ます長門は制服であった。そろそろ私服をお披露目してくれてもいいんじゃないか?  
 まさか学校用の衣類以外一着も持ってないなんてことはないだろうし。  
「さぁ、バスの時間と乗り場は調べておきました。こちらです」  
 古泉は若干ラフな格好で、そのままアウトドアで河原にでも行けば、どこかのキャンプ用品店のチラシに  
 使えなくもないような出で立ちだった。  
 まぁ今回は市内探索が目的ではないし、運動用の靴さえ履いていればこの場の格好は何でもかまわない。  
 長身スマイル野郎を先頭に、俺たちはバス乗り場へと向かう。  
 振り向くと、長門は黒檀のような目で虚空を見据えて歩いている。  
 相変わらずこいつには感情も表情もないらしいな。  
 長門の絶対零度の視線をせめてドライアイスくらいにすべく、俺は話しかけた。  
「今日はお前の力の世話にならずに勝てるといいんだがな」  
「そう」  
 長門は視線を前方、古泉たちのほうへ向け、無関心に言った。  
 しばし黙っていたが、バスに乗る直前になって  
「へいき」  
 とつぶやいてそれきりだった。何がどう平気なのかは知らないが、あのデタラメトリックを  
 多用するような事態は極力避けるべきだから、とりあえず安心しておけばいいだろうか。  
 SOS団にいる限り勝負事にはすべて勝たなければならないと言う宿命のごとき掟もどうかと思うが。  
 
 バスは十五分ほどで目的地に到着する。  
 人通りの少ない地域は住宅こそまぁまぁ多いが、商店はあまりない。  
 バスを降りてすぐ、俺たちは後の予定を変更する原因たる人物に遭遇した。  
「うわぁぁぁぁぁん」  
 四、五才くらいの女の子だった。バス停の時刻案内標識の下でしゃがみこんで泣いている。  
 女の子はおさげ髪で、淡いワンピースを着ていた。  
「あれ、どうしたの?」  
 ジャージ袋を肩にかけ最後に降りてきたハルヒは、団員四人がそれぞれの面持ちで  
 女の子を囲んでいるのを見て言った。  
「迷子?」  
「そのようですね」  
 古泉が右肩をすくめて言った。  
「大丈夫だから、ね?泣かないで」  
 朝比奈さんが愛情と優しさを余すことなく傾注して女の子に語りかけている。  
 あまりの愛らしさに、一瞬俺が迷子になろうかと血迷ってしまうほどだったが、頬を自分で叩いて思考を元に戻す。  
「警察に連絡したほうがいいか」  
「近くに交番があればそこまで連れて行ったほうがいいんじゃないかしら」  
 ハルヒは逡巡するように辺りを見回した。  
 
 この地域に来ることは俺も少ないから、付近の交番の位置までは分からない。  
「うっ、ママ……うぇっ。うわぁ〜ん!」  
「ママとはぐれちゃったの?」  
 朝比奈さんが訊くものの、女の子は泣き続けるばかりで質問が聞こえているのかすら判然としない。  
「まだ近くにいるかもしれないわ。とりあえず通り沿いを歩いてみましょう」  
 ハルヒが言った。曇り気味な表情は久々に見る。  
「ゲートボールはどうするんだ?」  
 俺の質問にハルヒは女の子を見つめながら、  
「この子を放っておけないもの。今のうちに連絡してキャンセルしましょう」  
 その役目は古泉が請け負った。携帯を取り出して通話している。  
 女の子のほうは不安を隠しようもなく泣き続け、また朝比奈さんはどうにかして泣き止んでもらおうと  
 懸命に頑張っていた。  
「……」  
 長門はしばし女の子を無感動に眺めていたが、  
 やがて風にそよぐ風鈴を見るのに飽きた猫のように別のほうを向いた。  
 ちょっとは心配するような素振りをするかと俺は期待したが、だめだったらしい。  
 俺たちはホリデースポーツシリーズパートUをあっさりと取りやめにし、  
 ハルヒ先導の下で通りを歩き始める。女の子は古泉が背負い、古泉のジャージは俺が持った。  
 少し歩いて分かったことだが、この通りは車の往来も少ないようだ。  
 歩道にも歩行者はほとんどいなかった。  
 俺は古泉に声をひそめて訊く。  
「お前の組織の力で保護者の居場所を捜すとかできないのか」  
 古泉は失笑気味に笑いながら、  
「機関を便利屋か何かと勘違いされていませんか。それに、ここで突然母親の居場所が分かったら不自然でしょう?  
 長門さんに頼んでも同様ですよ」  
 横目でちらりと長門を見た。  
 まぁそうだな。このくらいでいちいち変てこな力に頼っていてはいかん。  
 先頭のハルヒを見ると、ようやく遭遇した通行人に何やら質問しているようだ。  
 
「交番は次の信号を曲がってしばらく行けばあるそうよ」  
 二分後のハルヒの台詞。しばらくってどのくらいだ。  
「十分って言ってたわ。このまま連れてっちゃったほうが早いんじゃないかしら」  
「一度戻ってみないか。もし母親が戻って来てたら困ってると思うぞ」  
 俺とハルヒは顔を見合わせて考えこんでいた。すると、  
「……もどる」  
 女の子がいつの間にか泣き止んでいた。朝比奈さんが話かける。  
「バス停まで戻るの?」  
 まだぐずついている女の子は、黙って首を縦に振った。  
「うーん、しょうがないわね……」  
 ハルヒは頭をかいて最後尾の長門のところまで行くと、  
「戻りましょう」  
 やや不服そうに言ってから再び先導しだした。こういうところはやっぱり団長である。  
 俺たちは元来た道をトンボ返りしてバス停を目指す。  
 何だろう。一体どうして休日の午前にこんな街はずれをそぞろ歩きしてるのか分からなくなってきた。  
 ……いや、迷子らしき女の子に出会ったからだよな。  
 だが何か引っかかるというか、腑に落ちない気分になるのは果たして俺だけだろうか。  
 さてその女の子はというと、ついさっきまで泣いていたと思えば今度は眠り込んでいた。  
 疲れたのだろうか。  
 寝顔を見た朝比奈さんは微笑んで  
「かわいいなぁ……」  
 と言うとそっと髪を撫でた。俺からすればあなたも十分以上にかわいいんですが。  
「古泉、大丈夫か。重いようなら代わるぜ」  
 らしくないこのセリフは古泉のためではなく、こいつが万一女の子を落とすようなことがあるといけないからだ。  
「いえ、平気です。荷物はあなたに持ってもらっていますしね」  
 朝比奈さんの視線を浴びるチャンスを逃すのはちと惜しいが、それならいいさ。  
 女の子の寝顔は確かにかわいかった。純真無垢というやつか。  
 俺の妹にもこんな時期があったなぁなどとつい感慨にふけってしまう。  
 ……まぁ、今でも幼いといえば幼いのだが。  
 
「まぁ!」  
 往復で十五分ほど歩いただろうか、俺たちはバス停に戻ってきた。  
 するとそれを待っていたかのように女性と男の子が三人、小さなバス待合所から出てきた。  
「うちの子です。よかった……」  
 女性の声である。古泉は後ろを向いて、おぶったまま女の子を母親に渡した。  
 女の子の母親は背が高く、ヒールを履いているのもあって俺と同じくらい身長があった。  
 彼女の話はこうだった。買い物に四人の子どもを連れてバス停に着くと目的のバスは発進間際。  
 全員駆け足で急いで乗って駅に着いたはいいが、末っ子だけ見当たらないことに気付いてびっくり仰天。  
 大慌てで戻ってきたはいいがここにも女の子はいない。  
 眩暈をおぼえて青ざめ立ちすくんでいるところに俺たちが帰ってきた――。  
「誰かに連れ去られでもしていたらどうしようかと……私……」  
 女性は目にうっすらと涙を浮かべて話をしていた。  
「お嬢さんを連れまわしてしまって、すみませんでした」  
 そう言って真っ先に頭を下げたのはハルヒであった。  
「五人もいたんだから、ここに誰か待たせることもできたのに。あたしときたら……」  
 真摯な物言いはいつぞやの高級マンション玄関でのやり取りを思い出させた。  
 確かあの時は、朝倉の身辺調査という名目で事情聴取をしていたんだったな。  
 夕方の教室ときらめく刃、隠された本性を思い出して俺は季節に関係なく寒気がした。  
 あんな目に遭うのは金輪際ごめんこうむる。  
 灰色空間も含め、未だに現実と認めがたい出来事だった。  
 ……あれから数日の間にハルヒは感情の下り坂をどんどん下りていったが、今回は平気だろうか。  
 ふと見ると女性は大きく首を横に振って、ハルヒよりも深々と頭を下げていた。  
「私の方こそ本当にご迷惑をおかけして。いい人たちでよかったと心から思っています。  
 ありがとうございました」  
 
 女性はお礼をひとしきり述べたあと、何か形で示したいと言っていたが、ハルヒはそれを丁重に断った。  
 女の子のほうは古泉の手を離れると間もなく目を覚ました。  
 別れの挨拶をする頃にはすっかり元気を取り戻して、俺たちにぶんぶん手を振っていた。  
 親戚のガキンチョの相手をしている時も思うのだが、やっぱり無邪気な子どもはいいね。  
 
 帰りのバスの中、やはりと言うか、ハルヒは元気がないようだった。  
 集合の時と比べると快晴と曇天くらいの違いがある。  
「どうした。ゲートボールが潰れたのがそんなに残念か」  
 どこともなく窓の外を眺めながら、俺は隣で並んでつり革につかまっているハルヒに言った。  
「そんなんじゃないわよ。ただちょっと自分が許せないだけ。  
 あれはベストな行動じゃなかったんだわ……。もう少し落ち着くべきだった」  
 ハルヒは唇を突き出すと、悲しむような、むくれるような表情でそう言った。  
 ふう。一体何の吐息だかは分からないが、どこか自分が安心しているのはどうしてだろうね。  
 こいつに人並みの思いやりがあったからだろうか。  
 学校ではフルスロットルで暴れまわってるか、こんな風に青色になっているかの両極端で、  
 誰かに気を利かせるようなところは見たことなかったしな。  
 俺はもう一度ふっと息を吐くと、ハルヒに煙たがられないよう注意しつつ言った。  
「おいハルヒ。確かに結果からすると、俺たちの行動は余計だったかもしれない。  
 けどな、俺がお前の立場だったら、やっぱりじっと待ってるなんてできなかっただろうぜ」  
 ハルヒはつと顔をこちら側へ向けた、まだ仏頂面をしてやがる。  
「あの母親の安心した顔と女の子の笑顔ははお前も見ただろ。それで十分じゃないのか」  
「うん……」  
 こいつがしょげてるとどういうわけかいつもより余計なことを言っちまうな、俺は。  
 うむ、そうだ。SOS団のいつもの空気が妙な感じになっちまうのが嫌なんだ。違いないね。  
「あんまり落ち込んでると団長の威厳が霞んじまうぜ」  
「分かったわよ。バカ」  
 バカね。やれやれ。  
 
 果たして本当に分かってくれたのかが俺には分からなかったが、そうこうしてるうちにバスはようやく駅前に着いた。  
 丁度昼食時であるにもかかわらず、ハルヒは例の喫茶店やどこかのファミレスに俺たちを連れることもなく、  
 この日はすっぱりと解散になった。これで週明けに団長様の機嫌が直っていればいいのだが。  
 心なし小さく見える気がしないでもないハルヒの後ろ姿を見送ると、  
「どうやら閉鎖空間が発生してしまったようです。急がねばなりませんので、僕はこれで」  
 携帯の画面を見ていた古泉は俺に早口でまくし立てると、背を向けて通りのほうへ走り去った。  
 やっぱり今回もか。果たして未然に防ぐことはできないのだろうか。  
 そう何度も危機に瀕していては世界の身が持たないだろう。  
 俺が地球防衛軍の隊員に少なからぬシンパシーを抱いていると、  
「それじゃぁあたしも帰ります。キョンくん、長門さん、またね」  
「えぇ、また学校で」  
 マイペースに手を振る朝比奈さんは、今年最後の春風のようにふわふわとこの場を後にした。  
 今から月曜日のお茶が楽しみだな。  
「……」  
 長門はどこともつかぬ一点をじっと見据えていたが、俺が視線を追う前にくるりと背を向けて歩き出した。  
 観測が目的なのは分かるが、もう少し積極的に学外活動に加わる気はないのかね、あいつは。  
「やれやれだ」   
 すっかり常套句となっている言葉を発すると、俺は自転車置き場へ向けて歩き出そうとした。  
 
 ……直後に誰かと思い切りぶつかった。  
 
「……すいません」  
「こっちこそすいません!」  
 俺は慌てて謝り返した。見ると、ぶつかった相手は知らない少女だった。  
 茶色い髪を一ヶ所だけ髪留めで結んで、パステルイエローのカーディガンと、ブルーのプリーツスカートを着ている。  
 
 …………。  
 
 恥ずかしいことに二人してしばらく見つめ合ってしまった。何やってんだ俺は。  
「それじゃ俺はこれで!」  
 そそくさと退散しようとする。  
「ま……待って!」  
 少女が俺を呼び止めた。何だろう。俺はぎくりとする。  
 すぐにその場を去れなかったのは彼女に服をつかまれていたからだ。  
 俺は振り返った。  
「どうしたんですか?」  
「あの……道案内をお願いできませんか?」  
 
 ……やれやれ。また言っちまった。  
 一体今日は何の日だ?  
 ボランティアのための祝日が今日に重なってるなんて聞いてないぜ。  
 SOS団が悩み相談を受け付ける場所になるよう俺は一月前に張り紙をしたが、それは校内の話だ。  
 休日に知らない人に道案内頼まれる理由にはならない。  
 よもや団員全員の顔写真つきで市内のそこかしこにお触れが出ているのではあるまいな。ハルヒならやりかねん。  
「あの……」  
「は、はい!?」  
 俺がそんな熟考スパイラルに陥っていたからだろう、突然の声にやたらと驚いてしまった。  
 慌てて俺は彼女に訊く。  
「えっと、どこに行きたいんですか?」  
 彼女はいそいそとこの街の地図を取り出して俺に見せた。  
 地図に赤い印がしてある場所が目的地らしく、そこは奇しくも俺の家からそう遠くない場所だった。  
 自転車ならば十分余りで到着するだろう。  
 それくらいならお安い御用だ。ちょいとした寄り道だと思えばなんのことはない。  
 俺が予想外の無償労働オファーに対し一働きする心でいると、  
「でも、あの……」  
 少女は遠慮がちにうつむいて、  
「そこ……、あの、わたしの叔母のうちなんですけど……」  
 何やら事情を話し出した。  
 
 ……続く彼女の話をまとめるとこうなる。  
 彼女は親戚のうちに休日を利用して遠路はるばる遊びに来た。  
 しかし、この駅につくと間もなく電話が入った。  
 それは他ならぬ彼女の叔母からのもので、どうしても外せない急用ができてしまったので  
 夕方まで帰れないという内容だったらしい。  
 うむ。ありがち、なのだろうか。  
「ええっと、それで?」  
「……この街を案内していただけませんか」  
 
 ……何だろう。俺は何か得体の知れない感覚に包まれていた。  
 これは世間で言うところのご都合主義というやつではないのか。  
 ハルヒが企画したゲートボール大会がポシャって迷子の子を母親に引き合わせ、  
 さて帰るかと思いきやたまたま出会った少女に頼まれたのは道案内ならぬ街案内。  
 
 たまにはこんなこともあるさ。  
 
 果たしてそうだろうか。今ここにハルヒはいない。  
 ということはあいつがらみの出来事じゃない。……と見ていいんだよな?  
 ここ二ケ月ほどの異常の連鎖によって、どうも俺は偶然と呼ぶべき出来事に対する常識的思考が  
 できなくなっているような気がする。  
 俺が座禅三日目の坊さん並に沈思黙考していると、  
「あの……だめ、ですか?」  
 少女は申し訳なさそうに言った。  
 いや、だめかと言われれば、全然そんなことはない。  
 不安げに立っている彼女は、着ている服も相まってさっきまでいた朝比奈さんとイメージがかぶる。  
 それに、非常に今さらではあるがこの子はかわいかった。  
 一人でこの子を遠くに旅に出した両親の心中を疑ってしまうくらいだ。  
 
「だめならいいんです……すいません」  
 彼女はぺことお辞儀をすると、俺の脇を駆けて去ろうとする。  
「待ってくれ!」  
 とっさに俺は彼女の肩をつかんでいた。  
「分かった。分かったよ」  
 俺は彼女の背中に向けて言った。  
 どうせ今日はもうヒマだ。この後の時間を自室で無為に過ごすくらいならば、  
 この子の観光案内まがいの散策ガイドを務めてやるほうが千倍はマシというものだろう。  
「どこか行きたい場所があるなら言ってくれ。分かる範囲で案内するよ」  
 
 それから俺は四時間近く彼女の水先案内人Aとなった。いや、移動はもっぱらチャリだったのだが。  
 何せ俺のほうは先ほど団員全員の往復運賃を奢らされたばかりだったし、  
 彼女は俺の分の交通費を出すと言ってくれたが、頼まれたとはいえ見ず知らずの人にそこまでさせては悪い。  
 しかし、だからと言って二人乗りなんぞしている俺は神経回路がねじれちまったとしか思いようがない。  
 今日は変な日なのだということで決め付けておいて、後でさっぱり忘れちまおう。うん、それがいい。  
 と、いうわけで必然的に行動範囲も限られてくるわけで、ぶっちゃけるとほとんどそのまま  
 日頃の俺の生活圏だった。休みの日まで北高に行くことになったのはさすがに予想外だったが……。  
 
 五時丁度に俺は指定された家に彼女を送り届けた。  
「……本当にありがとうございました」  
「大げさだって。俺も結構楽しかったよ」  
 チャリを止めて彼女のほうを見ると、……何と涙ぐんでいた。  
 ちょっと待てって。泣かれるほど大それたことなんてしてないぞ俺は。  
 もしかして傷つけるようなことを言ったとか?だとしたら謝りますが。  
「そんなこと……ないです……ごめんなさい。それじゃ」  
 彼女は玄関に駆け寄る。   
 急に何か言わなければいけない気がして、俺は彼女を呼び止めた。  
「そういえば君、名前は?」  
 まだ聞いていなかったな。  
 彼女はしばし沈黙してから、  
「夏季です。野合夏季」  
 やっぱり知らない名前だ。  
「ナツキか。またいつか会ったらよろしくな」  
 俺がそう言うと彼女はしばらくじっとしていたが、うつむいて  
「またいつか」  
 そう言うとそそくさとドアの向こうに消えた。  
「うーむ……」  
 俺は何か言いようのないものを胸に感じていて、しかしそれが何なのかは分からなかった。  
 これまでのどんな感情とも一致していなかったからだ。  
 
 一人残った俺に何か訴えるように、風が夏至の夕暮れを吹き抜けた。  
 梅雨に入ったはずなのに、今日は雨が一滴も降らなかったな。  
 
 ……局地的な環境情報の改竄は惑星の生態系に後遺症を発生させる可能性がある。  
 
 つい先日長門が言った言葉がふいに去来した。  
 俺は首を振るとチャリに乗って、ペダルに力を入れた。  
 
 
 やれやれ、長い一日になった。  
 西日になった街を俺は自転車で家まで向かう。  
 今日のよく分からん出来事は不思議の範疇に含まれるんだろうか。  
 ハルヒが望んだはずのゲートボール試合が中止になったことといい、さっきのあの子といい。  
 俺はこれを偶然の一言で片付けていいものかどうか考えあぐねていた。  
 
 程なく自宅に到着する。  
「どうも、数時間ぶりです」  
 またしても俺の家までやってきたのは古泉一樹だった。  
「お前は人の家の前で張り込むのが趣味なのか」  
 俺はチャリを玄関脇に止めて言った。  
「いいえ。ただあなたが何か疑問を抱いていないかと思いましてね」  
「何の話だか分からんな」  
 俺はシラを切った。無駄だと言わんばかりに古泉は語りを始める。  
「今日は涼宮さんの提案で我々はゲートボールに行くはずでした。  
 しかしバス停で急遽予定を変更することになり、迷子の女の子を母親の元へ送り届けた」  
 ついでにもう一人手伝ったぜ。  
 ……そんなことこいつにわざわざ言ったりしないが。  
「それが何だってんだ。神の意思に反してるとか言うつもりか」  
 古泉は肩をすくめて両手の平を上向ける。ふっと笑うと、  
「そこまで言うつもりはありませんが、あなたも分かっているはずです。  
 本来彼女が願ったことは実現しなければおかしいということを。  
 まして閉鎖空間を生むような事態など、涼宮さんが望むはずはありません」  
 
「お前の話によるとそういうことになるようだな。  
 だが迷子の子は実在したし、実際に俺たちは母親のところまであの子を送り届けただろう。  
 ハルヒの意思と無関係に何かが起きることもあるってことなんじゃないのか」  
 西日が古泉の表情を無意味に際立たせた。何の演出だ。  
「そう。肝心なのはそこです。  
 彼女の願望が実現しなかったということは、そこに何者かの恣意が働いているということに他なりません」  
「何者なんだ、そいつは」  
「さぁてね。僕には検討もつきません。  
 だから思索を深めるべくこうしてあなたの意見をうかがいにやってきたのですよ」  
 俺の意見を当てにしてるようじゃ『機関』とやらの未来も明るくないな。  
「僕は末端の人間ですからね。  
 ひょっとしたら上層部による指令の元何らかのかけ引きがあったのかもしれませんが……」  
 ハルヒの暇つぶしを阻止したのがお前たちだとは到底思えんがな。  
「えぇ、僕も同意見です。メリットがありませんからね。  
 ならばなぜあのような出来事があったのでしょうか」  
「だから偶然だろ」  
「僕はこうも思うんですよ。  
 『すべての出来事に整合性のある理由が用意されているとは限らない』とね。  
 ミステリに登場する名探偵たちはそういう事態に遭遇した時、一体どうするのでしょうね」  
 こいつはこんなことを言いにわざわざ俺の帰りを待っていたのだろうか。  
 顔をしかめる俺に委細構わず古泉は弁舌を回す。  
「案外でっち上げのそれらしいことを言って周囲を納得させるだけかもしれませんね。  
 例え客観的に見て論理が成立していなくとも、そこにいる人物が納得してしまえばそれは真実ですから」  
 いい加減うんざりだな。  
「俺は腹が減ってるんだ。今日は疲れたしな。そろそろ家に入りたいんだが」  
「僕が言いたかったことはひとつです。経験すること全ての理由が明らかになるとは限らない。  
 なぜなら僕たちは一人の人間であるからです。物理的限界を課せられている以上、知りうることもまた有限です」  
 そうかい。なら俺は有限の時間を無駄にしないためにこの辺で退場させてもらうぜ。  
 何も言わずに家へと踵を返す俺を、古泉はもう止めなかった。  
 
「……そして、一人一人が知る真実は、人それぞれに異なっているのですよ」  
 
 
 疲れているはずなのに中々寝付けなかったという経験はないだろうか。  
 俺は今それを体現している。  
 身体はあの野球大会の時と同じくらい疲れているのに、あの日と違ってちっとも眠れない。  
 古泉が余計なことを言いにのこのこ現れるからだ。  
 ……ハルヒは機嫌を直しただろうか。  
 もし月曜日にもむくれてるようだったらと思うと、少しばかり吐息がブルー色になる。  
 俺は今日の女の子と母親、そして古泉には話さなかった少女の顔を思い出そうとしていた。  
「ナツキ……」  
 思い浮かべた表情がやがてぼやけ、ハルヒの怒り笑いに変わった後、  
 とうとう何も現れなくなって俺は夢に落ちた。  
 夢には誰も何も出てこなかった。と思う。  
 夢……。夢か。  
 
 ………………  
 …………  
 ……  
「どうしましたか?」  
 目の前のニヤケハンサムエスパーはつまんだ駒を一足飛びさせて言った。  
「いや、ちょいと思い出してただけだ」  
「おや。それはSOS団の回想録ですか」  
 俺は王冠のついた駒を動かしながら、  
「まぁな。お前も最初はまるでとらえどころのない奴だったと思ってたのさ」  
「今は違うのでしょうか?ならば僕のSOS団副団長としての信頼はまずまずですね」  
「それは他の団員にも訊かないと分からないな」  
 駒を置いて俺は長門の方を見た。  
 春先の氷のような無表情に比べれば、今はぬるま湯くらいにまで温まったように見える眼差しで、  
 穏やかに広辞苑ほどもある本のページをめくっている。  
 朝比奈さんは先日八日間の双子生活から戻ってきたばかりで、  
 心身ともにようやく一心地ついたらしく、今日も熱心にメイド活動に従事していた。  
 俺としてもこの風景が一番心安らぐのはSOS団結成当初から揺るがない真実だ。  
 
 ……同時に今のこの時間を守ることこそが、あの年末以降強くなり続ける俺の決意でもある。  
 
「そういえば三月十四日の計画についてですが」  
 古泉が若干声をひそめて言った。団員の信頼はどうした。  
「それはこれからあなたがどの程度僕に協力してくれるのかにも懸かっていますからね」  
「で、何か思いついたのか」  
 俺は笑顔で団長席に座り雑誌をめくっているハルヒを横目で見やりながら、  
 古泉の計画に耳を傾けた。  
 
 
 終業のチャイムが鳴り、俺たちは五人揃って駅前までの集団下校をする。  
 ハルヒが連日ホワイトデーのリクエストを蓄積させるのを俺はなんとかはぐらかしつつ、  
 いつものように三々五々の解散をして家路に着いた。  
 古泉の提案と女子ユニット三人の要求を同時に満たす方法に苦悶しながら。  
 
 
 
 
「……よかったんですか。彼に事実を伝えなくて」  
「これはわたし自身の問題。そしてわたしは彼が知ることを望まない」  
「あなたが彼を差し置いて僕に打ち明けごとをするというのは意外でしたね。  
 八ヶ月も前のことについてとはいえ」  
「……」  
「それではまた明日」  
「……」  
「長門さん、僕は一応SOS団の副団長です。  
 彼に言えないことがあればいつでも相談に乗りますよ」  
 
 古泉一樹は笑顔を振りまくとその場を後にした。  
 
 ……長門有希は自宅に向かいながら一枚の栞を取り出した。  
 春にはまだ少しある夕闇の中で、栞はかすかに光を帯びているようだった――。  
 
 
 
 
(了)  
 

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