---------------------------------------------------------------------------  
 ……夢を見ている。  
 短い間の幻。誰かの影。  
 
 わたしはあなたに話しかけられない。  
 あなたは背中を向けて行ってしまう。  
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「では長門、この英文を日本語に訳してみなさい」  
「わたしは彼が去る前に彼を捕まえようとした。しかしそれは叶わなかった」  
「よろしい」  
 
 
 夢……。あれは一体何なのだろう。  
 
 
 ――もうひとつの冬――  
 
 
 わたしの名前は長門有希。県立高校に通う一年生。  
 
 今は二月。わたしは英語の授業を受けていた。  
 うたた寝をしてしまったわたしは、夢を見た。  
 夢の中で、わたしは誰かと会っていた。  
 ……誰なのか分からない。  
   
 目が覚めるといつもと変わらぬ教室の風景が広がっていて、  
 さっきまで見ていた光景が幻であったことを伝えていた。  
 
 何の夢だったか思い出せない。  
 どこか知っている場所が出てきた気がする。  
 そこにわたしがいたのを覚えている。  
 知らない誰かが近くにいたことも。  
 
 あとは分からない、思い出せない。  
 
 
 わたしは文芸部に入っている。  
 部員はわたし一人。  
 もともといた部員は全員が前の年で卒業。  
 わたしが入らなければ廃部が決定していたらしい。  
 
 誰もいない部室の鍵を開け、電気をつける。  
 
 この部屋はとても寒い。  
 教室にはストーブがある。けれど、ここにはない。  
 
 わたしは椅子に座る。  
 たたんで置いてあった毛布を取って、膝にかけた。  
 
 ……。  
 これでもまだ寒い。  
 
 パソコンの電源を入れる。  
 何年か前の先輩達が購入したもので、型はかなり古い。  
 立ち上げるまで何分もかかる。  
 
 わたしは今読んでいる文庫本を開いた。恋愛小説。  
 登場人物はみな感情豊かだ。わたしと違って。  
 笑ったり、怒ったり、泣いたり……。  
 ドラマチックな人間模様は、いつもわたしを惹きつける。  
 
 今まで何冊の本を読んだのか分からない。  
 最初の記憶はおじいちゃんの家の書斎だった。  
 読めない字ばかりだったのに、わたしは喜んでページをめくっていた。  
 おじいちゃんはそう言っていた。  
 
 いつだってわたしは読書が好きだった。  
 
 記憶をたどっているうちにパソコンは起動していた。  
 わたしは文庫を閉じて、テキストファイルを開く。  
 
 いつからか書いている小説。  
 全然うまくいかない。  
 
 読むのはこんなに好きなのに、書くのはどうして上達しないのだろう。  
 
 それからしばらく、わたしは次に広がる物語を考えていた。  
 
 
 やがて放課後になった。  
 あまり進んでいない。いつもと同じ。  
 この小説が出来上がる日は来るのだろうか。  
 
 部室に鍵をかけて家に帰る。  
 山の上にある学校から、麓にある駅まで歩く。そこまで来ればもう目の前。  
 二月の夜はコートとマフラーを着こんでいても寒い。  
 
「……」  
 
 冷たい風が頬を打つ。  
 吐く息は真っ白だった。  
 
 
 わたしはひとり暮らしをしている。  
 両親とは長い間会っていない。どんな顔だったのかもあまり覚えていない。  
 二人とも仕事で海外にいて、毎月十分すぎるくらいの生活費をわたしの口座に振り込んでくれる。  
 
 けれど会いに来ることはない。  
 会いに来てほしいとも思わない。  
 
 わたしは書店で買ったハードカバーをこたつに置いた。  
 キッチンに向かい、夕食の支度に取りかかる。  
 できあいのものやレトルトで済ませてしまうことがほとんどで、今晩もそのつもりだった。  
 
 ピンポーン  
 
 チャイムが鳴った。  
 わたしはインターホンまで歩いていった。相手を確認する。  
 訪問者が誰だか分かると、玄関に行ってドアを開けた。  
 
 
「こんばんは。お邪魔します」  
 
 
 朝倉涼子。わたしの親友。  
 
 高校に上がる前から彼女とは親しかった。  
 口下手なわたしに、いつでも気配りしてくれる。  
 けれど、わたしは涼子に何もできていない……。  
 
「今日はシチューにしてみました。有希、ホワイトシチューは食べられたよね?」  
「うん……、大丈夫」  
 涼子の料理がおいしくなかったことなんて一度もない。  
 
 彼女は五組の学級委員をしていて、どの子からも頼られて人気がある。  
 だから時々、どうしてこんなにわたしに優しいのか分からなくなる。  
 
「学年末試験はどう?」  
 食事の途中で涼子が言った。  
 
「いつも通りかな……」  
「今度こそ負けないからね。この前は英語でけっこうミスしちゃったからなぁ」  
 涼子は屈託なく笑う。わたしもつられてしまう。  
 
「ふふ。お互い頑張りましょうね」  
 
「……」  
 
 涼子は温かい人だ。わたしとは違って……。  
 わたしは友人をつくるのが苦手だ。つい相手と距離を置いてしまう。  
 本さえ読めればいい。そう思ってしまう。  
 
 
「楽しかったわ。また来るわね」  
「うん。……ありがとう」  
 
 涼子は二階下に住んでいて、わたしと同じ一人暮らしだ。  
 どうやって涼子と出会ったのか、はっきりとは覚えていない。  
 気付いたら、こうして一緒に夕飯を食べるようになっていた。  
 
 パタン。  
 ドアが閉まる。  
 
 わたしはリビングに戻って、買ってきた本を読むことにした。  
 長編のSF小説。物語を読むのが好きだった。  
 
 それからしばらく、読書に没頭した。  
 こたつがとてもあたたかい……。  
 ……。  
 
 
 ---------------------------------------------------------------------------  
 夢。  
 本がどこまでも並んでいる。  
 わたしはそこで立ち尽くしている。  
 どうしたらいいのか分からない。  
 突然、誰かに手首を掴まれる。  
 ---------------------------------------------------------------------------  
 
 
 
「……」  
 目が覚めた。こたつで眠ってしまっていた。  
 時計を見ると、まだ真夜中だった。  
 何の夢だったろう……。  
 
 思い出せない。  
 横になって考えているうちに、二度目の眠りがわたしを包んだ。  
 
 
 翌日は晴れていて、昨日より暖かかった。  
 身支度と朝食をすませたわたしは、いつものように学校へ向かう。  
 
 通学路の長い坂道。  
 前に誰かと並んで下りたことがなかったっけ。  
 
 ……。  
 
 あるはずがない。  
 どうしてそんなことを考えたのだろう。  
 
 涼子とたまに一緒になることはある。  
 けれど、他の人とわたしが歩くことなんてない。  
 
 ……ない。  
 
 
 
「ねぇ、長門さんはどうするの? 誰かに渡す?」  
 クラスメートの話。  
 
「……なんのこと?」  
 わたしは答えた。彼女は元気よく言う。  
「決まってるじゃない。十四日よ、十四日」  
 
 ……ピンと来ない。  
 何かあったっけ、二月十四日。  
 
「んもう、バレンタインでしょ。意中の男性に想いを伝える絶好の機会じゃない!」  
 彼女はどこか恍惚気味に話を続ける。  
 
「当然長門さんも渡すんでしょ?」  
「え……。なにを?」  
 彼女はわたしの机を両手で叩いて、  
「チョコレート! 知らないなんて言わせないわよ?」  
「……」  
 
 ――バレンタインデー。  
 好きな人に想いを伝える日。渡すのはチョコレート。  
 これまでわたしはどうしていたっけ。  
 小学校。中学校。  
 ……誰かにあげたっけ?チョコレート。  
 
 覚えていない。  
 好きな人なんていなかったのかもしれない。  
 
「あ、わかった。そういうイベントごとが好きじゃないんでしょ。  
 でも今年はどう? 誰かいない? 気になる人が!」  
 
「……」  
 
 いない。  
 男の子は苦手。上手に話せないから。  
 
「お互い頑張りましょうね!」  
「……」  
 
 
 昼休みは図書室へ行った。  
 週に一度だけ来ることにしている。  
 それ以上来ると、つい読みすぎてしまう。  
 SFの棚はあと少しですべて読み終わる。  
 わたしは端にあった一冊を手にとって、空いている椅子に座った。  
 
 ……陽射しがあたたかい。  
 
 
 ---------------------------------------------------------------------------  
 夢。  
 ここは部室。  
 知らない人たちが傍にいる。  
 あの人もやっぱりここにいる。  
 わたしは呼び止めようとしている。  
 
 ……誰を?  
 
 言葉が出てこない。  
 はやくしないと彼は行ってしまう。  
 
 はやく。はやく。  
 
 はやく……  
 
 
 ---------------------------------------------------------------------------  
 
 
「……長門さん。長門さん?」  
 誰かの声。  
 
「……」  
 
 また眠ってしまった。  
 この頃やたらと眠いのはどうしてだろう。  
 わたしは眼鏡をかけ直す。  
 
「はやくしないと授業に遅れちゃうよ?」  
 
 男子生徒。……見覚えのある顔。  
 でも、名前までは思い出せない。  
   
「……ありがとう」  
「お礼なんていいよ。それより急がないと」  
 彼はわたしをうながした。  
 
「……」  
 
 わたしは頷く。  
 本を棚に戻して出口に向かう。  
 
 彼とわたしは並んで教室への道を急ぐ。  
 彼の階はひとつ上。  
 ここで別れる……。  
 
「……あの」  
 
 わたしにしては大きな声。  
 
「名前」  
 
 彼は踊り場で振り返って、笑いながら答えた。  
「僕? 僕は国木田。朝倉さんと同じクラスだよ」  
 
 国木田……くん。  
 
「じゃぁね、長門さん」  
 わたしは不器用に手を振って、階段を上る彼を見送った。  
 
「……ばいばい」  
 
 
 
「……なるほどね。国木田くんに起こしてもらって授業に間に合ったんだ」  
「うん」  
「ふふ、よかったじゃない」  
「うん……」  
 
 帰り道。  
 二人一緒の登下校は珍しい。  
 いつもは部活があるから、時間が合わない。  
 
「それで、どうなの?」  
 涼子はわたしの表情をうかがうようにして言った。  
「……どうって?」  
「国木田くんよ。ちょっといいなとか思わなかった?」  
 
 わからない。ちょっといいって何だろう……。  
 
「もう、鈍感ねぇ。こう、胸がきゅんとする感じにならなかったの?」  
 涼子は両手で自分の胸を押さえて言った。吐息が白くなる。  
 
 きゅん?  
 ……わからない。  
 
「有希にも分かる日が来るわ。きっとね」  
 涼子はウィンクをした。  
 
 ……来るかなぁ、そんなの。  
 
 
 ---------------------------------------------------------------------------  
 夢。  
 わたしは肩をつかまれていて、身動きが取れない。  
 相手はとても真剣に何かを話している。  
 わたしにはその話が分からない。  
 それに……こわい。  
 彼は話し終えるとわたしを解放して、がっくりしたように椅子に座る。  
 
 わたしは彼を知っていた。  
 たぶん、彼もわたしを……。  
 
 彼にしてあげられることがないか、わたしは考えている。  
 何か言わないと……。  
 
 何か……。  
   
 
 ---------------------------------------------------------------------------  
 
 
「……」  
 
 まただ。  
 いつ眠ってしまったんだろう。  
 
 わたしはベッドから這い出した。  
 
 部屋には朝の光が射している。まぶしい。  
 
 
 ……今朝の夢はいつもより覚えている。  
 それに、いつもより長かった。  
 
 
 あそこにいたのは、わたし?  
 
 
 ……あんな状況になった記憶はない。  
 何の夢なのか相変わらず分からない。  
 
 ……。  
 
 夢の中も寒かった気がする。  
 冬なのかな……。  
 
 
 
「また会ったね。こんにちは」  
 
 昼休み。  
 図書室に行くと、今日も国木田くんが来ていた。  
 
 わたしがここに来たのは……昨日の本を借りるため。  
 わたしは目的の本を手に取ると、国木田くんの斜向かいに座った。  
 
「……こんにちは」  
 それだけ言って、すぐに本に目を落とす。  
 
 やっぱり男の子は苦手……。  
 
「長門さんって、いつも昼休みは図書室にいるの?」  
「……」  
 
 首を振る。  
 
「火曜日だけ」  
「あれ? 今日は水曜日だよね」  
「……今日はたまたま」  
 
 わたしはうつむいた。やっぱりだめだ……。  
 
「そっか。それじゃ火曜日の昼にここに来れば長門さんに会えるんだね」  
 
 
「え……」  
 
 
 ……何だろう、今。  
 びっくりした。  
 
 
 どうして?  
 
 
 それから昼休みが終わるまで、わたしは読書に集中できなかった。  
 国木田くんは選んだ本に夢中のようだった。  
 
 帰り際。  
 わたしは貸し出しカードに記入をして、図書室を出ようとする。  
 
「長門さん、忘れ物だよ」  
 
 国木田くんに呼び止められた。  
 ……こちらに駆けてくる。  
 
「はい」  
 差し出されたのは栞だった。花の模様。  
 
 
 ……こんなの持っていたっけ?  
 
 
「あれ。長門さんの本から落ちたように思ったんだけど、違った?」  
「……ありがとう」  
 わたしは栞を受け取って自分の本に挟んだ。……教室へ戻ろう。  
 
「あ、それから長門さん」  
 
 再び足を止める。  
 
「なに」  
「僕は週の半分くらいはここにいるから」  
「……そう」  
 
 わたしは振り向かずに走り出した。  
 今国木田くんの方を見たら、気付かれてしまう気がしたから。  
 
 ……何に?  
 
 早足で歩きながら、わたしは自分の頬に触れてみた。  
 ……いつもより温かくなっている気がした。  
 
 
 
 帰り道。  
 わたしは駅前から道を逸れてスーパーに向かった。  
 週に数回、こうして買出しに行く。  
 
 文庫を読んでいたら、誰かにぶつかってしまった。  
 
「いたっ……」  
「あ、ごめんなさい」  
「……」  
 
 相手も女子高生だった。  
 真っすぐ伸びた黒い髪。すぐ近くの進学校の制服。  
 意志の強そうな眉の下で、大きな瞳が不思議そうにわたしを見ていた。  
 
「こっちこそごめんなさい……」  
 すぐに謝った。  
 
「あら? あなた」  
 彼女が言った。  
「……なんですか?」  
 
「どこかで会ったことないかしら。わりと最近……って言ってもここ数日じゃなくて、何ヶ月か前に……。  
 古泉くん、どう? あなた彼女を知らない?」  
 隣には、同じ高校の男子服を着た生徒がいた。背が高い。  
 
 男子生徒は穏やかに笑って、  
「いいえ、知りませんね。……あなた、北高の方ですよね?」  
 わたしは頷いた。  
 
 同時に、不思議な感覚にとらわれていた。  
 
 会ったのは初めてだと思う。  
 けれど、何か懐かしい感じがする。  
 なぜそう感じるのかは分からない。  
 
「そう……。いいえ、知らないならいいの。北高生にはちょっと思い当たりがあってね」  
 女子生徒は記憶を掘り起こすように思案顔。  
 
「そうなんですか……」  
 それきりわたしは何も言えなかった。  
 
 やがて、  
「まぁ、また縁があればどこかで会うわよね。古泉くん、行きましょ」  
 男子生徒のほうは肩をすくめて、丁寧にお辞儀をした。  
 女子生徒が手を振って、二人は去っていった。  
 
「……」  
 後ろ姿にもどこか惹かれるものがあった。  
 あの二人は付き合っているのだろうか。   
 
 わたしは買い物に行く途中だったことを思い出すと、道を急いだ。  
 
 
 
 夕食後。  
 読書に一息ついて、わたしはあの栞を眺めていた。  
 
 書店ではいつも本を買ったときに栞を挟んでくれる。  
 けれど、こんな柄のものは見たことがない。  
 もちろん、元々持っていたものでもない。  
 
 ――。  
 
「いたっ……」  
 
 急に頭に痛みが走った。同時に映像が浮かんでくる。  
 
 ---------------------------------------------------------------------------  
 この部屋でわたしが誰かと向かい合っている。  
 相手の顔がはっきりと見える……。  
 彼……。  
 ---------------------------------------------------------------------------  
 
 ――イメージは一瞬で消えて、痛みも次の瞬間にはなくなっていた。  
 でも夢のようにおぼろではなく、ちゃんと覚えている。   
 
 ……彼は誰?  
 わたしの近くにあんな人はいない。  
 
 ……。  
 
 
 
 就寝前。  
 わたしは今まで見たことについて考えていた。  
 今まで夢に出てきたのは、たぶんあの人だ。  
 わたしはあの人を知らない。  
 なのに、わたしもそこにいた。  
 
 ……どうして?  
 
 
 
 その夜は夢を見なかった。  
 すぐに次の日がやって来て、わたしはいつものように学校へ向かった。  
 
 
 
「ね、ね! 決まった?」  
 この前のクラスメートだ。  
 
「えっと……何がだっけ」  
「もう! バレンタインよ。長門さん、もしかして天然なの?」  
「天然、って?」  
 彼女は半眼でわたしを見た。……何だか呆れられているような気がする。  
「うん。分かった。それはもういいわ。  
 それで、気になる人とかいないの? やっぱり」  
 
 ……。  
 
 ふと頭をよぎる顔。  
 
「……わからない」  
「お? ひょっとして、候補くらいはいるのね? 誰、誰!」  
 彼女は興味津々でわたしに迫ってきた。  
「……」  
 
   
「内緒」  
 
 
 と、いうことにしておいた。  
 自分でもわからないから。  
 
 
 ……。  
 
 ……気になる人はいる。  
 
 
 
「こんにちは」  
 
 国木田くんは今日も図書室に来ていた。  
 
「こんにちは」  
 
 わたしは昨日の栞を取り出した。  
「あの……これ、本当にわたしの本から落ちたの?」  
 わたしが尋ねると、国木田くんは不思議そうな顔になった。  
 
「そのはずだけど。どうして?」  
「……」  
 
 わたしは栞が自分のものではないことを話して、それから少しだけ昨日の話をした。  
 ……国木田くんが信じてくれたかどうかは分からない。  
 
 わたしの話が終わると国木田くんは言った。  
「それなら、なおさら長門さんが持っていたほうがいいんじゃないかな。  
 また何か分かることがあるかもしれないし」  
「うん……」   
 それから国木田くんは、  
「僕でよかったら、いつでも話してよ」  
 そう言って図書室を出て行った。  
 
「……」  
 
 一分くらいして、男の子と普通に話していた自分に気がついた。  
 
 
 放課後も、いつものように部室に行った。  
 本を読むか、小説の続きを書くか迷い、わたしは栞を眺めていた。  
 
 その時――、  
 
 ピポ  
 
 パソコンが聴きなれない音を発した。  
 ……起動音にしては大きい気がする。  
 
 わたしは机に近寄る。  
 
 本体は動いていない。  
 画面を見る。何もない……。  
 
「……?」  
 
 よく見ると、左上に文字を入力する際の待機モードのような表示がある。  
 それはしばらく同じ場所で点滅すると、わたしが読む速度に合わせるように文字を打ち出し始めた。  
 
 >  
 
 >みえてる?  
 
「……」  
 
 わたしは息を飲んだ。  
 パソコンは起動していない。  
 それなのに、画面に文字が表示されている。  
 
 ……。  
 
 わたしはしばし迷ってから、キーボードに手を置いた。  
 そっとタイプしてみる……。  
 
 >みえています。  
 
 
 しばらく何も起こらなかった。  
 ただ入力待機の表示だけが、等間隔で点滅している。  
 
 
 ――五分くらい経っただろうか。  
 辛抱強く画面を見つめていたわたしに、メッセージが返ってくる。  
 
 >わたしは今、あなたとは違う時空間から交信をしている。  
 
「……」  
 わたしは、しばらく考え込まなければならなかった。  
 
 
 ……わたしと違う時空間?  
 
 
 時空間というのは、時間と空間のことだろうか。  
 わたしは返信する。  
 
 >あなたはどこのどなたですか?  
 
 また間が開いた。何か考えているような間。  
 そして言葉が返る。  
 
 >わたしはあなたと異なる時空間のあなた。  
 >言い換えれば、もうひとつの世界にいるあなた。  
 
「……」  
 
 ……もうひとつの世界??  
 
 この人は何を言っているのだろう。  
 何かのいたずらだろうか。  
 もしかしたら、わたしをからかっているのかもしれない。  
 
 そう思っていると、続くメッセージが表示された。  
 
 >最近、あなたは寝ている間に夢を見ているかもしれない。  
 
「……」  
 
 どうして知っているのだろう。  
 ……思わず、わたしはそのままを入力する。  
 
 >どうして知っているのですか?  
 
 また間が開き、やがて言葉が返ってくる。  
 
 >わたしがその原因をつくったから。  
 
 ……。  
 わたしはまた考えた。  
 
 ……別の世界のわたしがわたしに夢を見せている?  
 
 わたしはタイプを再開する。  
 
 >あの夢は何なのですか?  
 
 また、考えるような間があった。  
 
 わたしは緊張して言葉を待つ。  
 やがて、文字が打ち出される。  
 
 >あなたがかつて見たものの記憶。  
 
 ……分からない。  
 覚えている限り、あの人に会ったことはない。  
 
 >彼は誰なんですか?  
 
 また間がある。今度はかなり長い。  
 わたしと同じように、向こうも何か迷っているようだ。  
 
 しばらくして表示されたメッセージは、これまでで一番長いものだった。  
 
 >彼はもうそこにはいない。  
 >あなたには欠落した記憶がある。彼に関係する記憶。  
 >わたしはあなたの記憶を元に戻すことができる。  
 >ただ、そうすることがあなたにプラスとなるかはわからない。  
 >記憶を取り戻すことであなたが受ける衝撃のほうが大きいかもしれない。  
 >わたしは決断をあなたにゆだねる。  
 
 わたしは考えこんだ。……欠けた記憶?  
 確かに、覚えがあやふやなことはいくつかある。  
 けれど、記憶がなくなっていると思ったことはない。  
 
「……」  
 
 この人は何を知っているのだろう。  
 わたしが衝撃を受けるって、どういうことだろう。  
 
 考えながら、わたしはこう訊いた。  
 
 >少しだけ待ってもらえませんか?  
 
 予測していたのか、今度はすぐに答えが返ってくる。  
 
 >明日の同じ時間にまた交信する。その時までに決めておいて。  
 
 そう表示されたのち、画面はゆっくりとブラックアウトした。  
 
「……」  
 
 終業のチャイムが鳴るまで、わたしは真っ黒になった画面を見つめていた。  
 
 
 
「今日はひさびさにおでんでーす」  
 涼子が鍋をこたつの真ん中に置いた。  
 窓の外は雨が降り出していて、ガラスが真っ白に曇っている。  
 
「……いつもありがとう」  
「いいの。有希とこうしてるの楽しいしね」  
 にっこり笑って、涼子は具を取り分け始めた。  
 
 わたしはさっきの文芸部室での出来事を涼子に話そうか迷って、やめにした。  
 どうしてだかわからないけれど、涼子には言わないほうがいいような気がした。  
 
「はい」  
「ありがとう」  
 おわんを受け取る。  
 
「いただきます」  
「……いただきます」  
 同時に手をあわせてお辞儀をした。  
 
 
 ……。  
 
 ……おでん。  
    
 何か、大切なことを忘れている。  
 
 
「それで、国木田くんとはどう?」  
 
「……!」  
 むせてしまった。わたしは掌で胸を叩く。  
 
「ちょっと、大丈夫? ごめんね、訊いちゃまずかった?」  
 涼子はわたしの背中をさすってくれた。わたしは首を横に振って、  
「……びっくりしただけ。へいき」  
「よかった。こっちも驚いちゃった」  
 涼子は微笑んでわたしを見ている。  
 
「……」  
 
 涼子が笑うと、何だか幸せな気持ちになる。  
 
「ふふ。ねぇ、有希。あなた学校でもそうやって笑っていればいいわ。  
 わたしが男の子だったら、クラッときちゃいそうよ」  
 わたしはうつむいた。……恥ずかしい。  
 
「有希は素直でいい子だもん。もっと自信持っていいと思うわ」  
 
「……」  
 
 何だかお母さんみたいだった。  
 
「うん……」  
 そして、わたしは子どもみたいだった。  
 
「……いつもありがとう」  
 
 湯気のせいか、目の前がよく見えなかった。  
 
 
 しばらくして、涼子は帰っていった。  
 
「……」  
 わたしは息をついた。  
 
 ……放課後の出来事が蘇ってくる。  
 もうひとりのわたし。もうひとつの世界。  
 
 ……本当なのかな。  
 
 相手はわたしが夢を見ていることを知っていた。  
 原因が向こうにあるとも言っていた。  
 
 ……何なのだろう。  
 わたしが衝撃を受けるって、どうしてだろう。  
 
 
 
 ――その夜見た夢は、これまでと全く違っていた。  
 
 
 
 ---------------------------------------------------------------------------  
 ただ真っ暗だ。  
 それが長く続いた。  
 何とも思わない。  
 楽しくも、怖くもない。  
 わたしがここにいるのかすら分からない。  
 なにもないものが、ある。  
 終わらない時。  
 いつまでも続く。  
 続く。  
 
 
 ――。  
 
 
 やがて視界が開けた。  
 目が覚めたのかと思ったら、そうではなかった。  
 
 
 街が、真っ白な空に覆われていた。  
 
 
 わたしは、空からゆっくりと降りてくる白いものを手の平にのせた。  
 けれど、何も残っていなかった。  
 
 わたしは空を見上げた。  
 
 
 ……ゆき。  
 
 ……。  
 
 
 
 ---------------------------------------------------------------------------  
 
 
「……!」  
 
 目が覚めると窓の外は真っ白だった。  
 
「さむい……」  
 わたしはベッドから出ると、カーディガンを羽織って朝食の準備をする。  
 ……今年になって初めて雪が降った。  
 わたしは寝ぼけた顔で窓の向こうの白い空を眺めていた。  
 
 
 さっきも同じ景色を見てた……。  
 
 
 あれはわたし?  
 ……わからない。  
 
 
 
 通学路。  
 コートにマフラー、手袋までしたけれど、外はまだ寒かった。  
 ……坂道がいつもより長く感じる。  
 
「おはよう」  
「……!」  
 
 隣を見ると、国木田くんが歩いていた。  
 水色のコートに白いマフラー、耳あてと手袋……。  
 
「……おはよう」  
 
 息が白くなる。  
 
「今日はすごく寒いね。凍えそう」  
「……うん」  
 
 あちこちがかじかんで、上手に話せない。  
 
「あ。これ、よかったら使って」  
 国木田くんは自分の耳あてを取ってわたしにかぶせた。  
 
「……」  
 
 痛いくらいに冷たかった耳が、暖かくなった。  
 
 
「……ありがとう」  
 
 
「風邪ひいたら大変だしね。……そうだ、谷口って知ってるかな?  
 同じクラスの友達なんだけど、年末流行った風邪で40度近くまで熱出しちゃってね。  
 それでも無理して学校来て、結局保健室で寝込んで早退してた」  
 国木田くんが苦笑いをした。  
 
「……ふふっ」  
 
「あ。長門さんが笑ったの僕初めて見た」  
「……え」  
 
 わたしはどこを向いていいのかわからなくなった。  
 国木田くんはふたたび笑いながら、  
「いつも笑ってればいいのに。そのほうがいいよ」  
 と言った。  
 
「……」  
 
 そこからどうやって教室まで行ったのか、覚えていない。  
 
 おかげで昼休みには図書室へ行けなかった。  
 すると、前の席の彼女が話しかけてきた。  
 
「見ちゃった」  
「……え」  
「結構やるじゃない、長門さんも」  
 彼女はにまっと笑った。  
 今日は彼女が何を言っているのか、すぐに分かってしまった。  
 
「……」  
「あー、赤くなってる。もう、長門さんかわいすぎ!」  
 彼女はわたしに抱きついてから、けらっと笑った。  
 わたしはついうつむいてしまう。  
 
「決戦は近いわよっ。がんばりましょうね!」  
「……」  
 ほとんど何も言えないまま、昼休みが終わってしまった。  
 
 
 
 帰りのHRになって、ようやくわたしは昨日の出来事を思い出した。  
 ……どうしよう。すっかり忘れていた。  
 
 わたしは遅い足取りで部室へ向かった。  
 扉を開けて電気をつけ、毛布を取って座る。  
 それを待っていたように、あの音がする。  
 
 ピポ  
 
 最初のメッセージが打ち出される。  
 
 >みえてる?  
 
 >はい。  
 
 わたしは返事をした。  
 
 >あなたの決定を聞く。  
 
 >はい。  
 
 返事。  
 彼女はためらいなく続ける。  
 
 >わたしがあなたの記憶を蘇らせるのは一度きり。  
 >あなたが知りたくないのなら、もうわたしは現れない。  
 
 >はい。  
 
 ……まだわたしは迷っていた。  
 断ったら、もう夢を見ることはないのだろうか。  
 あの人が誰だったのかは、もう分からないのだろうか。  
 
 >繰り返しておく。  
 >あなたは彼のことを知ると衝撃を受けるかもしれない。  
 >わたしに決定権はない。あくまで決めるのはあなた。  
 
 >はい。  
 
 文字による会話が続く。  
 次の彼女の文章で、わたしは手を止めることになる。  
 
 >あなたの記憶を蘇らせるのならエンターキーを。  
 >拒否するのならそれ以外のキーを選択せよ。  
 >あなたがどちらを選んでも、わたしが再びこの質問をすることはない。  
 
「……」  
 
 わたしは画面を見つめていた。  
 なぜだか、涼子や国木田くん、クラスメートの元気な子の姿が頭をよぎる。  
 
 
 そして夢を思い出す。  
 夢の中で何度も見た、あの人の姿、顔……。  
 
 
「……」  
 
 窓の外では雪が降り続いている。  
 
 やがて、わたしはキーをひとつ選んで、押した。  
 
 途端に視界が真っ白になった。  
 
 
 ---------------------------------------------------------------------------  
 西暦20××年 12月18日  
 
 彼がわたしの前に現れた。  
 
 春に図書館で出会った彼。  
 図書カードを作るのを手伝ってくれた彼。  
 
 文芸部室に彼はやって来た。  
 わたしは彼に肩をつかまれて、彼の言葉を聞いた。  
 
 けれど、わたしには彼が何を言っているのか分からなかった。  
 それ以上に、わたしは彼を前にして何も考えられなかった。   
 彼は困っているようだった。  
 椅子に座って、頭を抱えていた。  
 
 わたしは、自分に何か出来ることはないかと思った。  
 なかなか言葉が出てこない……。  
 
 
 時間が経った。  
 彼がわたしに背中を向ける。  
 そこでやっと、わたしは一枚の紙を渡すことができた。  
 
 ……よかったら。  
 
 彼は、入部届けを受け取った。  
 
 
 
 12月19日  
 
 わたしは落ち着かなかった。  
 昨日あったことばかり考えていて、授業にほとんど集中できなかった。  
   
 放課後。今日も彼は部室に来た。  
 昨日と同じくらい緊張して、やっぱりうまく話せない。  
 彼は本棚の本をしばらく見ていて、それからわたしに質問をした。  
 一枚の栞についてだったが、わたしには何も分からなかった。  
 彼は終業まで部室にいてくれた。  
 わたしは全然読書が進まず、緊張でどうにかなってしまいそうだった。  
 
 帰りに彼をわたしの家へ呼んだ。  
 自分でもどうしてそんなことができたのか分からない。  
 ずっと緊張していて、帰り道もまともに話せなかったことを覚えている。  
 
 彼とこたつを挟んで座っていると、涼子が訪ねてきた。  
 わたしはひどく慌ててしまった。  
 涼子が上がると、彼は帰ると言った。  
 
 ……  
 
 気付くと、わたしは彼をひき止めていた。  
 彼と涼子と三人でおでんを食べた。  
 
 とても幸せな日だった。  
 
 
 12月20日  
 
 この日も授業に集中できず、英訳で指されて慌ててしまった。  
 
 わたしは高揚していた。  
 もしかしたら、彼が文芸部に入ってくれるかもしれない……。  
 
 放課後。  
 部室で彼を待ったが、すぐには来なかった。  
 二時間ほど過ぎ、今日は来ないのかと思いかけた頃――。  
 
 三人の知らない学生と共に彼はやって来た。  
 一人は二年生のかわいらしい先輩。  
 一人は体操服を着た気の強そうな女子生徒。  
 もう一人は同じく体操服を着た長身の男子生徒。  
 凛とした体操服の女子が紹介をした。  
 彼女の名は涼宮ハルヒ。  
 先輩は朝比奈さん。男子生徒は古泉くん。  
 最後に涼宮さんはジョン・スミスと言って彼を指差した。  
 ……ジョン・スミス?  
 
 間もなくパソコンがひとりでに起動した。  
 
 彼が急いで駆け寄って、しばらく画面に見入っていた。  
 わたしも画面を見ていたけれど、何が起きているのかまるで分からない。  
 彼以外の三人も不思議そうな顔をしていた。  
 
 急に嫌な予感がした。  
 彼とわたしの距離がとても遠くに離れてしまう、予感……。  
 
 そしてその距離は縮まることがなく、彼はわたしの知らないどこかへ行ってしまう。  
 
 わたしは何か言わなくてはならないと思った。  
 けれど、やっぱり言葉が出てこない。  
 
 はやく、はやく……。  
 はやく……。  
 ……。  
 
 
 どうして何も言えないのだろう……。  
 やがて、彼はわたしの方を向いて、くしゃくしゃになった入部届けを返してきた。  
 
 
「すまない、長門、これは返すよ」  
 
 ……。  
 
 受け取りたくない。  
 わたしがこれをもらったら、きっともう彼は帰ってこない……。  
 
 
 ……。  
 
 わたしは手を伸ばした。つかみそこねる。  
 ……指先の感覚がない。  
 
 
 もう一度手を伸ばして……。  
 
 
 
 ……。  
 
 ……わたしは今、何を持っているんだろう。  
 彼は今、どんな顔をしてる?  
 
 
 ……見えない。  
 
 眼鏡、外してないのに……。  
 
 
 
 
 
 
 -------------------------------------------------------------------------------------  
 
 
 
 
 ……。  
 
 わたしはしゃがみこんでいた。  
 
「……」  
 
 寒い……。  
 
 
 文芸部室には、もう誰もいない。  
 
 
 ……思い出したくなかった。  
 
 
 どうしてキーを押してしまったのだろう。  
 彼はもう遠くへ行ってしまった。  
 
 なのに、わたしはすべてを思い出してしまった。  
 
 
「……っ、……うぅっ……」  
 
 
 わたしは止めることができなかった。  
 彼と。今のわたしを。  
 
 
 
 ……。  
 
 どれくらい時間が経っただろう。  
 
 外は真っ暗で、終業の鐘はとっくに鳴っていた。  
 ……わたしは力なく立ち上がった。  
 
 パソコンを見ると、メッセージが表示されたままカーソルが点滅していた。  
 
 >ごめんなさい。  
 
 わたしはパソコンに近寄った。  
 彼女はわたしを待っているのだろうか。  
 
 >まだそこにいますか。  
 
 ゆっくりとタイプした。  
 ……指先が氷みたい。  
 
 >すべてわたしの責任。  
 
 彼女はそう言った。  
 
 ……。  
 
 違う世界にいるという、もうひとりのわたし。  
 わたしは感覚的に、彼女が偽りの存在でないことを知った。  
 
 >あなたは悪くありません。  
 >選んだのはわたしだから。  
 
 ……返信しつつ、わたしは唇をかんでいた。  
 
 もう会えないのなら、知る必要なんてなかった。  
 
 選んでしまったのはわたし。けれど、質問したのは彼女。  
 それなら彼女はどうしてそんな質問をしたのだろう……。  
 
 そう思っている間に、彼女はメッセージを発した。  
 
 
 >彼にあうことができる。  
 
 
 ……。  
 わたしは時間が止まったようにパソコンの画面を見た。  
 
 
 >……会えるって?  
 
 戸惑いながらタイプする。  
 彼女はまた長い間を空けると、長い文章をつむぎ始めた。  
 
 >あなたが今いるその世界は、わたしがある力を使って作り出してしまったもの。  
 >さっきあなたが見たように、彼は三日間だけあなたの世界に存在していた。  
 >彼は本来こちらの世界の人間。彼は最終的にこちらに回帰することを望んだ。  
 >彼があなたの前から消えてしまったのはそのため。  
 >その際に、あなたがいる世界はわたしのいる世界とひとつになるはずだった。  
 
 >しかし、そうならなかった。  
 
 >わたしはあなたが見た夢と同じ情報を受け取って、あなたの世界がまだ存在していたことに気がついた。  
 >同時に、あなたの世界を作り出した時にわたしが用いた力がまだ残っていることにも気がついた。  
 >今、あなたと交信できるのはその力を使っているから。  
 >分離した世界をひとつに統合できるほどの大きさは、もう残っていない。  
 >ただ、あなたが望むなら、わたしに残る力で一度だけ彼に会うことができる。  
 
 わたしはその文章を三回読んだ。  
 
 ……向こうの世界のわたしとは、何者なのだろう。  
 
 ひとりの人が世界をまるごと作るなんて、できるのだろうか。  
 さっき記憶を戻したことといい、このわたしは普通の人じゃない。  
 
 >あなたは、何者なんですか……?  
 
 わたしは質問した。彼女はまた考えて、やがて返答する。  
 
 >答えられない。言葉だけで分かるように伝えることは困難。  
 
「……」  
 
 わたしは息を吐いた。  
 
 ……無理して知りたいとは思わない。  
 その証拠に、どこか安心している。  
 
 >月曜日の同じ時間に再び交信する。その時までに決断してほしい。  
 
 わたしはしばらく無心に彼女の文を眺めていたが、やがて  
 
 >わかりました。  
 
 と打った。  
 すると、文章はこう続いた。  
 
 
 >ごめんなさい。  
 
 
 ……?  
 
 >何がですか?  
 
 わたしは返信する。  
 彼女の言葉は、ここだけ不規則な調子で打ち出される。  
 
 >あなたがどういう気持ちになるかの推測はできた。  
 >あなたに知らせないという選択もできた。  
 >しかし、わたしはあなたに交信してしまった。  
 
 ここで一度間を空けて、  
 
 
 >どうしてもあなたに話したかった。  
 
 
 
 ……。  
 
 ……このわたしは長い間悩んでいたのかもしれない。  
 
 
 そう思うと、あらためて彼女が他人とは思えなかった。  
 ……わたしはまた震えそうになるのをこらえる。  
 
 
 >わたしは平気。  
 >ありがとう。  
 
 そう打って、  
 
 >今日は帰ります。また明日。  
 
 と追記した。  
 彼女も返信する。  
 
 >また明日。  
 
「……」  
 
 それを見て、わたしは何だか安心した。  
 
 
 
 
 
 家に着いたわたしは、読書をしなかった。  
 
 これまであったことと、思い出したこと。  
 もうひとりのわたしのこと。  
 ……そして、彼のこと。  
 
 それらをずっと考えていた。  
 
 
 
「……」  
 
 
 
 窓辺に雪が降る。  
 
 
 
 わたしはそれを長い間見ていた。  
 雪は、すべてを静めるように降り続いた。   
 
 
 眠る前になって、わたしは月曜日の返事を決めた。  
 
 後悔はしない。  
 
 
 
 
 週明け。  
 
 雪は土曜日には止んでいた。  
 空は晴れ渡って、誰かが作った雪だるまに陽光がきらりと反射した。  
 
 わたしはなるべく早足で学校までの坂道を歩いた。  
 国木田くんには会わなかった。  
 
 
 なぜだか授業に集中できて、あっという間に時間が過ぎる。  
 
 
 昼休み。  
 わたしは部室へも図書室へも行かなかった。  
 
「なっがとさ〜ん!」  
 
 前の席の子。今日も元気だなぁ……。  
 
「……なに?」  
「あと一週間よね! ラストスパートじゃない、ね?」  
 
 ……。  
 
 そう言われても。  
 誰かに告白するつもりなんてないのに……。  
 
「だいじょうぶ。あたしがついてるから! 安心してね」  
「え……。うん……」  
 頷いてしまった。  
 
 
 帰りのHRが終わると、わたしは部室への道を急いだ。  
 
   
「あれ、長門さん?」  
 渡り廊下にさしかかるところで呼び止められた。  
 
「……国木田くん」  
 
 階段をこちらに下りながら、国木田くんはいつものように笑った。  
 
「今日は図書室に行った?」  
「……」  
 
 わたしは首を横に振った。  
 
「そっか。今日は僕も行けなかったから。谷口に彼女ができそうだとかで、  
 昼休み中ずっと話を聞かされてたんだ。今も下で待ってるんだけど」  
 困ったように笑う。  
 
「……うん」  
「それじゃまた明日」  
 
 国木田くんは手を振って階段を降りていった。  
 わたしは少しの間立ちつくしてしまった。  
 
 ……手、振れなかった。  
 
 ……。  
 
 ……急がなきゃ。  
 わたしはまた部室へ歩き出す。  
 
 ――あと一週間よね!  
 
 前の席の彼女の言葉を思い出した。  
 わたしは首を振った。  
 
 気になる人。  
 
 ……。  
 
 
 
 部室は今日も寒い。  
 電気をつけると、同時にあの音がした。  
 わたしはパソコンの前に駆け寄った。  
 
 >こんにちは。  
 
 >こんにちは。  
 
 挨拶したのは初めてだ。  
 彼女の言葉が続く。  
 
 >あなたの選択がいずれであっても、わたしが交信するのはこれで最後。  
 >あなたが彼に会うことを望むなら、わたしはこれからあなたをある時空間へ転送する。  
 >彼に会える時間は約四時間。  
 >ただし、  
 
 ……何だろう。  
 まだ何かあるのだろうか。  
 
 >ただし、彼の前にわたしと同じ姿のあなたが現れるわけにはいかない。  
 >あなたの服装や髪型に改変を施す必要がある。  
 >また、あなたは彼に会えるが、彼はあなたを知らない。  
 >これからあなたが向かう時空間の彼には、まだあなたに関する記憶がない。  
 
 つまり、彼はわたしが誰だかわからない……?  
 彼女は一連のメッセージを締めくくる。  
 
 >あなたが彼に会い、戻ってくるまで、わたしはあなたの無事を保証する。  
 >彼に会うならばエンターキーを、拒否するならそれ以外のキーを選択せよ。  
 
 >ready?  
 
 
 ……。  
 
 わたしは迷ったりしない。  
 答えはもう決めてある。  
 
 わたしはキーをひとつ選んで、押した。  
 
 
「……!」  
 
 自分の身体か宙に浮く感覚がした。  
 周囲の景色が横向きに渦を巻いて、上下と左右が分からなくなる。  
 わたしは目をつむった。乗り物は平気だけれど、これは眩暈がしそう……。  
 後ろに進みながら同時に前に飛んでいるような感じが続く。  
 風を切るような音がして、一瞬でそれが止む。  
 今度は回転する。  
 たくさんの色が目まぐるしくまぶたの向こうで踊っている。  
 わたしが危うく気を失いそうになっていると……  
 
 
 着地する感触――。  
 ……ざわめきが聞こえる。  
 それに暖かい。太陽の光を感じる。  
 
 わたしは目を開けた。  
 
 ……街の中だ。  
 わたしはどこかのお店のウィンドウに映った自分の姿を見ている。  
 
「……!」  
 
 驚いた。  
 
 今までに着たことのない服を着て、髪を結ったわたしがいた。  
 淡い色のスカートと、カーディガン。手には大きなトートバッグ。  
 
 髪の色は……茶色い。  
 少しくせ毛だったのにまっすぐになっている。  
 
 自分でも別人のように見えた。試しに窓に手を振ってみる。  
 ……やっぱり自分自身だった。  
 
「……ん、痛っ!」  
 
 一瞬の頭痛。  
 
 ……。  
 
 次の瞬間、わたしは今の自分について理解していた。  
 
 今ここにいる理由を、誰にでも説明できる。  
 けれど、本当のわたしの記憶がなくなっているわけではない。  
 
(あなたは今日偶然この街に観光に来ている。最初に会う人に道を訊いて。  
 あとはあなたにも分かるはず)  
 
 頭の中に声がする。  
 
 ……誰?  
 
 ……。  
 
 
 ……そっか。  
 
 
 初めて彼女の『声』を聴いた。  
 わたしと同じ、けれどどこか違う……声。  
 
 
 
「ありがとう……」  
 彼女にお礼を言って、辺りを見回す。  
 
「……」  
 
 知っている場所だった。  
 わたしの家から、電車で三駅。  
 
 改札を出たところに近い喫茶店の前に、わたしは立っていた。  
 
「……あつい」  
 
 気温が高いことに、やっと気がついた。  
 冬じゃないことだけは間違いない。  
 わたしは、持っていたかばんの中を探った。  
 
 ……。  
 手帳が入っていた。  
 
 ページを開いてめくっていくと、ある日付にだけ赤丸がついていて、  
「旅行 叔母の家」と書いてあった。  
 
 
 去年の六月――。  
 
 わたしは、八ヶ月前まで戻ってきた……?  
 
 
 タイムスリップしたらしい。  
 
 わたしは不思議と驚かなかった。  
 わたしの格好がこんなに変わっていて、まったく別の場所に移動していたのだから、  
 何が起きても不思議じゃない。  
 
 ……そう思うことにしよう。  
 
 
「この時期……」  
 
 わたしは思い出す。  
 彼に初めて会ってからしばらく、わたしは図書館通いを続けた。  
 また会えるかと思っていた。  
 けれど、図書館に彼は現れなかった。  
 
 わたしがあきらめかけた頃、彼を学校で見つけた。  
 同じ学校にいるなんて、思いもしなかった。  
 どうしてそれまで気付かなかったのだろう。  
 わたしは彼に話そうとした。……でも、できなかった。  
 彼はわたしと廊下ですれ違っても気付かないようだった。  
 
 もう一度わたしがあきらめかけた頃。あの冬の日。  
 彼が部室に飛び込んで来た……。  
 
 
 わたしは自分の記憶を探るのを止めて、どちらへ行こうかと地図を広げた。  
 『最初に会う人』ってどういうことだろう……。  
 目的地はわたしの知らない家だ。  
 ……ここに行けばいいのだろうか。  
 
 わたしは目的地のだいたいの位置を覚えた。  
 地図をしまい、歩き出そうとした瞬間――。  
 
 
「うわっ!」  
「わ!」  
 
 
 誰かとぶつかった。  
 ……鼻が痛い。  
 
 
 わたしは急いで謝った。  
「……すいません」  
「こっちこそすいません!」  
 
 
 ……!  
 
 
 目の前に彼がいた。  
 あまりの突然に、わたしは絶句する。  
 
「……」  
 彼はわたしを見ていて、わたしも彼を見ていた。  
 長い間会っていなかった人に会えたような感覚……。  
 
 
 ずっと、夢に現れていた人。  
 
 そして、わたしの世界から消えてしまった人……。  
 
 
 ……。  
 わたしは胸が苦しくなった。  
 
 
 すると、  
 
「それじゃ俺はこれで!」  
 彼は片手を上げて立ち去ろうとする。  
 
 
「ま……待って!」  
 
 思わず彼の袖をつまんでしまった。  
 
 ……  
 
 不意に記憶が重なる。  
 
 
 ……あの日、わたしはこうして彼を呼び止めた。  
 
 
「どうしたんですか?」  
 彼は振り向いた。わたしは用意した台詞を言う。  
 
「あの……道案内をお願いできませんか?」  
 
 わたしはゆっくりと彼を見上げた。  
 
 彼は顎に手を当てて考え事をしている。  
 部室で浮かべたような表情で……。  
 
 彼がいなくなってしまうことを恐れて、慌てて言葉を続ける。  
「あの……」  
「は、はい……?」  
 彼はあらためて驚いたような顔で、  
「えっと、どこに行きたいんですか?」  
 わたしはさっきの地図を取り出して彼に見せた。  
 
 彼はしばらく地図を見ていた。  
「……家の近くだな。大した手間じゃないです。ここまで行けばいいんですか?」  
 わたしは頷いて、  
「でも、あの……」  
 頭の中を探りながら、叔母の家には夕方まで入れないことを告げた。  
 
「だから、あの……。  
 もしよろしかったら、この街を案内していただけませんか?」  
 
 わたしがそう言うと、彼は眉をひそめて顎を引いた。  
 独り言を言っているように見える。  
 
 ……。  
   
 わたしは少し不安になってきた。  
 ……断られたらどうしよう。  
 
「あの……だめ、ですか?」  
 わたしは言った。  
 
 ……。  
 
 彼はわたしを知らない誰かだと思っている。  
 ……見知らぬ人に街の案内なんて、普通はしない。  
 
 そう思うと、わたしは申し訳ない気持ちになった。  
 
「だめならいいんです……すいません」  
 
 謝って走り出そうとする。  
 
 
「待ってくれ!」  
 
 
 肩に彼の手が置かれた。  
 
 ……。  
 
 わたしはまた泣き出しそうになってしまう。  
 
 
「分かった。分かったよ」  
 彼は言った。  
 
 わたしは、すぐには振り向けなかった。  
 
 ……。  
 
 ありがとう……。  
 
 
 急いで目をこすった。  
 彼はわたしの背中に向かって言う。  
「どこか行きたい場所があるなら言ってくれ。分かる範囲で案内するよ」  
 肩に伝わる体温が頼もしかった。  
 
 わたしはやっと振り返る。  
 
 
「……おねがいします」  
 
 
 
 わたし達は近くのベンチに座って地図を広げた。  
「さてどこに行きましょうか。……って言っても、観光地っぽい場所はこの辺にはそんなにないですが」  
 彼は言った。  
「あの……そういう特別なところじゃなくても。えっと、普段よく行く場所とかあれば……」  
「うーん。……さすがにいつも言ってるコンビニに行くわけにはいかないよな」  
 そう言って彼は頬を緩ませた。  
 彼の笑顔を見たわたしは、この場所に来て初めて笑った。  
 
「……」  
 彼は口をぽかんと開けている。  
 
「……どうしました?」  
「いえ!なんでもないですよ。なんでも」  
 彼は首を振って、ふたたび地図に目を落とす。  
 
「……見晴らしのいい場所とかありますか?」  
 わたしは少しずつ、ここに遊びに来た姪の気分になってきていた。  
 着ている服が違うせいかもしれない。  
 緊張も、ほんの少しだけ和らいできた。  
 
「見晴らしのいい場所……ぱっと思いつくのは俺の学校かな」  
「じゃぁそこに行きたい……です」  
 何だかまた笑ってしまいそうになった。  
 
 楽しい。  
 
「え?あんなとこでいいんですか?もうそれはそれは忌々しい坂道を長々登らないといけないけど」  
 彼は片眉を吊り上げて意外そうに言った。  
 わたしはおかしくて口元を押さえる。  
「はい。行きましょう、そこに」  
 
 あなたと一緒に。  
 
「それに、その坂がどれくらい忌々しいのか、登ってみたいですから」  
 わたしはあらためて笑った。  
 彼もつられて笑った。  
 
 
 
「……もう一回だけ訊くけど、ほんとにこんなんでいいんですか?」  
 湿気を含んだ風が首筋を撫でていく。  
「はい。わたし今楽しいですよ」  
 景色が横向きに流れていく。細いタイヤが回る音がする。  
 ……自転車の後ろ。二人乗り。  
 
「それならいいんだけどさ」  
 彼は、話す時だけわずかに首をこちらに向ける。  
「あ、漕いでて疲れませんか?……途中で休憩したりとか」  
 
 こんなに男の子とたくさんしゃべったのなんて初めてだ。  
 ……いつもなら何も言えなくなってしまうのに、どうしてだろう。  
 
「だいじょうぶ。もっと横暴な注文をする奴を知ってるし、このくらいなんでもないです」  
 彼はまた顔を横に向けてそう言った。  
 ……。  
 わたしは気がついた。  
「あの、敬語じゃなくていいですよ」  
「え?……あ、そうだな。何かかしこまっちゃって。何でだろうな」  
 それから彼は気がついたように  
「そっちこそ、そんな丁寧な口の利き方しなくていいぞ」  
「わたしはこのほうが落ち着きますから……」  
 
 そうしないと、彼に近付きすぎてしまう。  
 
 これは、別れることがあらかじめ決まっている再会。  
 だから、わたしはこうしていられるだけで十分。  
 
 彼の服をつまむ指が、離れないように……。  
   
 
 やがて、見慣れた通学路に着いた。  
「ここを登るんだよ。長いから歩かなくちゃいけないな」  
 彼は上のほうを見上げて言った。  
「はい。……すいません、変な頼みごとしてしまって」  
「今さらそれは言いっこなしだぜ。やっぱり登らない、なんてのも勘弁してくれよ」  
 彼は冗談めかして言った。  
「はい。わかってます」  
 わたしは笑って答えた。  
 
「それじゃ行きますか。わが通学路に」  
「はいっ」  
 
 わたしたちは歩き出した。  
 ふたりの通学路を。  
 
「……この街にはどのくらい住んでるんですか?」  
「生まれたときからずっと。この界隈から出ることはあんまりないかな」  
「いい街ですよね」  
「もう気に入ったのか。意外と惚れっぽいんだな」  
「……そんなんじゃないです」  
「ははは、冗談だよ。いや、こんなこと滅多にないからさ。何かこう……」  
「……なんですか?」  
「凡人バンザイ、みたいな」  
「……ふふっ。おかし」  
「何だ、何か変なこと言ったか?俺」  
「いいえ、別に。……毎日この坂道を登っているんですか?」  
「毎日だ。見ての通り長いからさ。自転車で通えるのは麓までなんだよ」  
「大変ですね」  
「まったくだ。雨の日も風の日も体育がある日も強制ハイキングだからな」  
「……ほんと。そうですよね」  
「ん?」  
「いえ、なんでもないです」  
「でもな、代わりに授業中の窓からの景色はちょっとした見ものだぜ」  
「へー、そうなんだ。……見たいな」  
「休日とはいえ、今どっちも私服だからなぁ。忍び込んだら一発でばれちまう」  
「……あ。ここですか?」  
「そう。山の上にあるだけで他に何の変哲もない公立高校へようこそ」  
「……おじゃまします」  
「こら。入ったら偉い人が黙ってません」  
「……偉い人って誰ですか?」  
「さすがに校長とまではいかないだろうが……。そういや校長の名前何だっけな」  
「あれ。……一年生ですよね?」  
「え? そうだけど」  
「入学して二ヶ月しても名前覚えてもらってないんだ……校長先生」  
「いやぁ、何の変哲もない名前だったからなぁ、多分」  
「……田中太郎さんとか?」  
「まぁそんなとこだ。……って言うと全国の田中太郎さんに申し訳ないな」  
「それじゃちゃんと名前覚えてあげてください」  
「はい……反省してます」  
「……ふふふ」  
「くくく。はっはっはっはっは」  
 
 二人してしばらく笑ってしまった。  
 空は晴れ渡って、この世界に迷いごとなんてないみたいだった。  
 
 
 学校にはやっぱり入れなかった。  
 わたしたちはそのまま坂道を下ることにした。  
「うーん、次はどこに行けばいいかな」  
 彼は迷っていた。  
 
 わたしはひとつだけ思いついた場所があった。  
 ……けれど、ここからだと少し遠い。  
 
「どこか、座って休める場所とかないですか?」  
 彼はしばし考えて、  
「んー、そうだな。……よし。公園と川辺だったら、どっちがいいか選んでくれ」  
 わたしは考えて、答える。  
「川にします」  
 陽射しがあったし、水のあるところに行きたかった。  
「わかった。それじゃ乗ってくれ」  
 彼はクッションつきの荷台を指差した。  
 
 ふたたび自転車に二人乗りをする。  
 彼はブレーキを利かせて、ゆっくり坂道を下り始めた。  
 
「この坂を自転車で下るのなんて初めてかもしれないな」  
 彼は言った。  
「何だか新鮮な感じがするよ」  
 
 
 
「……」  
 初夏の風が気持ちよかった。  
 そういえばこの年は空梅雨だったんだっけ。  
 
「あ。あのさ」  
「はい……?」  
「そのつかみ方だと落っこちてないか不安になるから、  
 もうちょっとちゃんと……こう、あの」  
「……」  
「そうそう。……よし。じゃぁ行くか」  
 
 
 ……。  
 
 また風が吹いた。  
 
 ……夢の中にいるようだった。  
 
 忘れていた緊張が、彼の背中を通して戻ってくる。  
 
 
「しかし、こんなまともな休日はひさしぶりだな」  
 彼はつぶやいた。  
 
「……」  
 
 うまくしゃべれない。  
 心臓の鼓動が大きくなったみたいだ。  
 彼に聞かれていないか心配だった。  
 
「あと十分もかからないから、ちゃんとつかまっててくれよ」  
「……はい」  
 
 川に到着するまで、わたしが発した言葉はそれだけだった。  
 
 風が、どこまでも吹き抜けていく。  
 
 
 
「はい、到着」  
 
 わたしは、閉じていた目を開けた。  
 
「……」  
 
 並木道。小川。深緑の木々。  
 散歩する人たち。道端の花。水面に映る陽の光……。  
 
「……すてき」  
 
「ちょっと歩こうか」  
 彼が言った。  
 
「……」  
 わたしは頷いた。  
 
 
 太陽はやっと少し傾いたところだった。  
 夏至が近いから日が長いのだろう。  
 さっきまで、冬の部室にいたことが信じられない。  
 
 わたしと彼は、しばらく川に沿って歩いた。  
 その間会話はなかった。時折目が合うと、互いにあわてて視線をそらした。  
 
 散歩を終えると、彼はそれまで押していた自転車を停めた。  
 近くにあるベンチまで歩いて、並んで座る。  
 
「君の住んでるところは、どんなところなんだ?」  
 彼はこちらをちらっと見て言った。  
「えっ……。えっと、その」  
 急な質問にわたしは戸惑った。  
「……ここと同じくらい素敵な街です」  
「そっか。そりゃ、一度行ってみたいね」  
 そう言って彼は口を笑みの形にした。わたしも緊張がゆるむ。  
 
 わたしはふと思いついて彼に訊いてみた。  
「……学校は楽しいですか?」  
 
 彼は一瞬きょとんとして、それから眉間にわずかにしわを寄せた。  
「んー。何て言えばいいんだろうな。……とりあえず退屈はしてない。うん」  
 わたしは続けて尋ねる。  
「部活に入ってるんですか?」  
 
 彼はまた思案顔になった。  
 言っていいのかどうか、迷っているような表情だ。  
「部……。部活動。うーむ。果たしてあれを部活と言うのかどうか。  
 本当なら、今日はゲートボールに行くはずだったんだよ」  
「げ、ゲートボール……?」  
 ……彼は一体どんな団体に所属しているのだろう。  
 
 
「そう。信じられないだろ。言っておくがゲートボール部じゃないぜ。  
 それどころか、何の部か明確に決まってないんだ。  
 あのカゴに入ってるジャージはそのためのものでさ」  
 彼は自転車のほうを指差した。  
「高校生がゲートボールなんて聞いたことがないだろ。半世紀早いっての」  
 そう言うと、彼は腕組みをして地面を見つめた。  
 何かを思い出して、いらいらしているような感じがした。  
 わたしは急いで言葉を続ける。  
「あの……訊いちゃまずかったですか?」  
「いやいや、そんなことはない。  
 君は俺に普通の休日をもたらしてくれた、言わば救世主の生まれ変りだ。うん。  
 まったくもって、ありがとうございます」  
 会釈して彼は言った。  
 
 いったいどんな部活動なのだろう……。  
 
 ――なぜなら俺は、SOS団の団員その1だからだ!  
 
「……」  
 彼の言葉が急激に蘇る。  
 寒気がして、わたしは自分を抱くように押さえた。  
「どうしたんだ?」  
「何でもないです……だいじょうぶ」  
 
 あの用紙を返す時の、あなた……。  
 
 ……。  
 
 よく分からないけれど、このことはもう訊かないほうがいい。  
 ……そう思った。  
 知ってしまうと、また今みたいなことになってしまう。  
 
「具合が悪いなら遠慮なく言ってくれよ。病院でもどこでも連れて行くから」  
 彼は気遣うような眼差しでわたしを見ていた。  
「大丈夫ですから、ほんとに。……そうだ。それじゃぁ次は、図書館に行きたいな」  
 
「え……?」  
「図書館です。わたし読書が好きなんです」  
 意外だったのか、彼はしばらくぽかんとしていた。  
 
「そんなところでいいのか?……いや、まぁ確かにどこでもいいとは言ったけどさ」  
「はい。……あ、でも、もう少しゆっくりしてからにします」  
 
 それから私たちはお互いに黙って、散歩する人たちや初夏の並木道、小川の流れを見ていた。  
 
 
 風が吹き続けていて、気持ちがよかった。  
 
 
 眠ってしまいそう……。  
 
 
 ……。  
 
 
(残り時間は半分)  
 
 ……!  
 
 
 ……彼女の声。  
 
 わたしはうつむいて「わかりました」とつぶやいた。  
 
「ん、何か言ったか?」  
 彼が言った。  
「いいえ。……さ、それじゃあ図書館までお願いします……運転手さま」  
「かしこまりました、お客様」  
 お互いに笑った。  
 
 笑いながら、次の場所で最後かな……と、わたしは思った。  
 
 
 ――  
 とある時間、とある場所。  
「あなたに話しておきたいことがある」  
「おや、珍しいですね。彼ではなく、僕にですか?」  
「そう。ここでは都合が悪い。中庭に来て」  
 
 中庭。丸テーブルに腰かける男女一名ずつの高校生。  
「長門さんから僕にお話があったことなんてありましたっけね。  
 僕が覚えている限りなかったような……。どういったご用件ですか」  
「六月」  
「六月がどうかしました?」  
「ゲートボールに言った日のこと」  
「あぁ、そんなこともありましたね。  
 あの日は結局、僕たちはゲートボールに参加しませんでした。  
 迷子の女の子を助け、その後に閉鎖空間が発生したんでしたね。  
 涼宮さんの思惑通りにならなかったことといい、未だに謎として残っている出来事の一つです」  
「その日にあったことを話す」  
「ほう」  
「その前に。わたしが昨年の十二月十八日に世界を改変したのはあなたも知っているはず」  
「えぇ。彼から聞きましたからね。  
 もっとも僕には、階段から落ちた彼をSOS団の全員が交替で看病していた記憶しかありませんが」  
「合宿の後、わたしは彼と朝比奈みくると共にもう一度世界改変日の午前四時十八分へ向かい、再改変を施した」  
「その話もつい先日彼から聞きました。よもや、僕の知らない僕や涼宮さんが存在していたなんてね。驚きですよ。  
 彼に話を聞かない限り、知ることすらなかったでしょう」  
 ここで長門有希はしばし間を置いて、  
「再改変時、統合されたはずの世界がまだ存在している」  
「……」  
 古泉一樹は真剣な顔つきになった。  
「本来、この世界からそれを観測することはできない。しかし、わたしは残っている改変世界と、  
 改変世界への交信方法に気が付いた」  
「長門さんが作り出した世界が、まだ消えずに残っているということですか?」  
「そう」  
「……それが本当だとしたら驚くべき話ですね」  
 一樹は顎に手をあて、有希の方を向いた。有希は真っすぐ前を見ている。  
「わたしも予測していなかった。本来世界は分岐しない。わたしは同時に、かつて用いた涼宮ハルヒの力が  
 まだわたしの内部に残っていることに気がついた。きっかけは、向こうの世界のわたしが夢を見たこと」  
「夢、ですか。もう一人の長門さんが?」  
「そう。彼女は彼がいた三日間のことを忘れている。夢の内容は、彼に関するもの」  
「なるほど。つまり、残存していた改変世界にいる長門さんは、改変世界に彼がいた三日間の記憶を失くしていて、  
 その記憶にまつわる夢を見ていると。そういうことですか?」  
「そう」  
「それが、六月の一件とどう関わっているんですか」  
 一樹と有希は一度視線を交わした。  
 有希は前に向き直ると、話を続ける。  
「ゲートボールに行く予定だったあの日。駅まで戻り、涼宮ハルヒが解散を宣言した後、わたしはわたし自身を見た」  
「……長門さんが自分とは別の自分を見たということですか?」  
「そう。その時のわたしには、観測した情報が何を示しているのか理解できなかった」  
「……」  
「……」  
「続けてください」  
 一樹が言った。有希は一度一樹のほうを見て、それから前に向き直った。  
 
「初めは異時間同位体が駐留しているのかと思った。  
 しかし、十二月十八日までのわたしの行動記録にそんなデータはなかった。  
 加えて、その時見たもう一人のわたしは、容姿がわたしとは異なっていた。  
 わたしは統合思念体にその事実を報告するか迷った。  
 結果として、今まで誰にも話さずにいた。  
 当時のわたしが統合思念体に唯一報告しなかったことが、そのわたしの存在」  
「……」  
「……?」  
「あ、すいません。考えこんでしまいました。どうぞ、続けてください」  
「わたしが改変世界の残存に気づいたのは三日前。その時にわたしは推測を立てた。  
 わたしが六月に見た別のわたしは、改変世界にいるもうひとりのわたし」  
 ここで一樹が片手の平を垂直に立てて、  
「……ちょっと待ってください。  
 今までの話からすると、改変世界の長門さんは昨年十二月十八日以降にしか存在しないはずです」  
「そう。だから彼女は十二月十八日以降の時空から六月まで時間遡行したと推測できる」  
「それでもまだ腑に落ちません。彼に聞いた話ですと、あの世界の長門さんはTFEI  
 ……つまり、情報統合思念体のインターフェースではないはずです」  
「そう。改変世界には情報統合思念体そのものが存在しない」  
「ならば、六月にいたというもうひとりの長門さんはどうやってそこに現れたんですか?」  
「わたしが彼女を当該時空に送るのだと思う」  
「……長門さん、あなたが?」  
「そう。理由も推測できる」  
「……聞かせていただいてよろしいですか」  
「……」  
 有希はわずかに顎を引くと、テーブルの一点を見つめて話し出した。  
「わたしは改変世界のわたしに、かつて蓄積したエラーデータからなる人格を与えた。  
 彼女はわたしではないわたし。わたしにできないことが彼女にはできる。  
 そして、わたしは再改変時に彼女が失った三日間分の記憶を持っている。  
 彼女はその記憶に関する夢を毎日見ている。  
 わたしは、彼女を……無視することができない」  
「……」  
 一樹は神妙な面持ちをしている。有希はそちらを見ずに続ける。  
「現在の改変世界には彼がいない。彼は十二月二十日に改変世界からこちらの世界へ戻り、歴史は  
 そのまま進行している。わたしが何もしなくても、やがて彼女は彼のことを思い出すだろう。  
 しかし、彼女には彼に会うすべがない」  
 ここで有希は一度言葉を切った。そして、  
「おそらく、わたしは数日のうちに彼女と交信をする。そして、その結果――」  
「彼女が去年の六月に現れるのですね。長門さん、この世界のあなたの力で」  
「そう」   
「そうですか」  
「……」  
 ここでしばし二人は沈黙した。  
 しばらくして、一樹が会話を再開する。  
「余計な質問かもしれませんが、彼には話さなくていいんですか」  
「話せない。彼に与える心理的負担をわたしは憂慮する」  
「そうですか……」  
「そう」  
 一瞬の静寂。  
「それでも、僕に打ち明けてくれたことに感謝します。僕に何かできることがあれば言って  
 ください。力になります」  
 一樹は微笑をたたえて言った。有希は視線のみをそちらへ向ける。  
「この話を他の者に話さないこと。それだけ頼みたい」  
「わかりました。たとえ命を取られても、誰にも言いません」  
 有希は一度一樹のほうへ顔を向けると、また元に戻してこう言った。  
「わたしが誰かにこの話をしないと、加速度的にエラー蓄積が起こると判断した。理由はわからない。  
 わたしが自律起動の重視を選択して以来、原因不明の現象が増えた」  
 
「……それはそれは」  
 一樹は微笑んだ。  
 訪れる沈黙。  
 数秒後、  
「もう他に話すことはありませんか?  
 この際ですから言ってください。これでも僕はSOS団の副団長ですからね。  
 団員の悩みを見過ごすようなことがあれば、団長殿から罰が下ってしまいます」  
 一樹は如才なく笑った。有希は返答する。  
「ない。わたしも、聞いてくれたことに感謝する」  
「わかりました。それでは戻りましょうか。昨日豆を撒いたばかりですし、多少の遅刻は涼宮団長も  
 許容してくださるでしょう」  
「……」  
 やがてテーブルには誰もいなくなった。  
 ――  
 
 
「……か? 聞いてますか!」  
「へ!?」  
 ……突然の声に驚いた。  
 
「ぼーっとしてるからどうしたのかと思ったよ。到着」  
 ……あれ。眠っちゃったのかな。  
 
 わたしはまだ自転車の荷台に座っていた。  
 横を見ると、図書館らしき建物の壁があった。  
 
「あ、ありがとう……」  
「どういたしまして」  
 彼は穏やかに言った。  
「あの、わたし……今」  
 わたしは辺りを見回した。  
「何かぼーっとしていたけど。ほんとに大丈夫か?」  
「あ、はい。大丈夫……」  
 丸いテーブルの映像がぼやっと残っている。  
 けれど、それ以上思い出せるものはなかった。  
 
 
 わたしたちは館内に入った。  
 直後、何か新しい気持ちがわたしの中に満ちるのを感じた。  
 
「好きなジャンルとかあるの?」  
 彼が訊いてきた。  
「あ、物語なら何でも。えっと……ファンタジーとか恋愛小説とかが特に」  
 わたしは答えた。彼は笑って、  
「女の子らしいな。朝比奈さんみたいだ」  
「え……」  
「あぁ、いや、先輩だよ。……部活のな」  
 彼は頭を掻いた。  
 
 ……朝比奈さん?  
 
 ……。  
 思い出した。  
 
 あの日、彼と一緒に入ってきた三人の中の一人だ。  
 
「あの、S……」  
「ん?」  
「いえ、なんでもないです……」  
 
 SOS団。あの時彼はそう言っていた。  
 でも、今ここにいる彼はわたしを知らない。  
 それに、わたしは彼に正体を知られてはいけない。  
 
 
 それがルール。  
 
 
 ……わたしとあなたの世界は違うのだから。  
 
 
 これまでに読んだ本の中に、似たような言葉がいくつもあった。  
 まさか、わたしが使うことになるとは思いもしなかった。  
 
 
 文芸部の部室で、わたしが書いている小説……。  
 そこに出てくる彼らの運命には、この言葉が必要ないようにしよう。  
 
 わたしは人知れず、そう決めた。  
 
 
「これだ。この前読みきれなかった本」  
 彼が一冊手にとって歩いて来た。  
「すっかり眠っちゃってさ。今度は読みきれるといいんだけど」  
 ははっと笑う。  
 
 ……。  
 
 彼の笑顔……。  
 
 
 ……。  
 
 わたしは今、微笑っていますか。  
 
 
 
 ……訊けるわけがない。  
 
 
 
「夕方だっけ。それまでここでいいのか?」  
 
「……」  
 わたしは頷いた。  
 何だか、また口下手になっている。  
 
 彼は空いていた席に座りながら、  
「それじゃ俺はここで待ってるから。適当に時間が来たら呼んでくれ」  
 
「……はい」  
 
 一度彼の傍を離れる。  
 
 わたしは館内にある時計を見る。  
 
 
 
 ……。  
 
 もう、あまり時間がない……。  
 
 
 
 書棚から文庫を一冊取ると、わたしは彼のところへ戻った。  
 
 
「あ……」  
 
 
 彼は眠っていた。  
 
 窓際で、西に傾き始めた陽射しを受けて、穏やかな顔で。  
 
 
 
「……ふふ」  
 わたしはおかしくて口元を押さえた。  
 
 
 それから隣の席に座って、文庫を広げた。  
 
 
 
 
 ……。  
 
 横目で彼を見て、彼のほうを向いて。  
 
 
 
 
 
 
 ……。  
 
 
 
 
 ……好きだったんだ。  
 
 
 
 
 
 
 やっと分かった。  
 
 
 
 
 ……。  
 
 
 ここで彼に手を引かれたあの日から、わたしはずっと、彼のことが好きだった。  
 
 
 
 …………。  
 
 
 ――気になる人とかいないの?  
 
 
 
 図書館で会えなくて、あきらめて。  
 学校で見かけて、あきらめて。  
 
 
 せっかく彼がわたしの前に現れたのに、わたしは何も言えなかった。  
 彼は入部届けをわたしに残して、消えてしまった。  
 
 
 あのくしゃくしゃになったわら半紙を、今も、まだ持っている。  
 
 
 ……机の引き出しの一番奥に、折りたたんでしまってある。  
 
 
 今になって、それを思い出した。  
 
 
 
 
 
 ……。  
 
 文庫を持ちっぱなしの彼の左手にふれてみる。  
 
 
   
 
 
 
 あったかい……。  
 
 
 
 
 
 手を握って。  
 
 
 …………。  
 
 
 
 近付きすぎないって、決めていたのに。  
 
 
 
「      」  
 
 
 わたしは、そっと彼の名を呼んだ。  
 
 
 
 ……。  
 
 
 その名前があの入部届けに書かれることは、もうない。  
 今こんなに近くにいる彼とまた会うことも、もうない。  
 
 
 
 
 
 
 わたしは彼の肩にそっと額をよせると、誰にも気付かれないように、泣いた。  
 
 
 
 
 
 手にした恋愛小説は、一ページも進まなかった。  
 
 
 わたしたちと、同じように。  
 
 
 
 
 
「ん……。ふぁーーっ……」  
「目が覚めましたか。最終便のドライバーをお願いします……」  
 
 
 
 彼は、何も知らない。  
 
 
 ……それでいい。  
 
 
 
「うん。今日はひさびさにいい一日だった」  
 彼が言った。  
 
「ご迷惑おかけしてすいません」  
 わたしが言った。  
 
「いいや、おかげで命の洗濯になったよ」  
「大げさですよ……」  
 
 自転車が初夏の空の下を走る。  
 風はもう止んでいた。  
 耳を澄ましても、まだ蝉の声は聞こえない。  
 
「……」  
 わたしは彼の背中に頬をつけた。  
 
「また具合が悪くなったのか?」  
 
「……違います」  
 
 
 
 …………。  
 
 
 
 
 
 
 いい、一日だったなぁ。  
 
 
 
 
 
 やがて自転車はタイヤの回転を止める。  
 わたしが望まなくても、時間はやってきてしまう。  
 
「この家でいいんだよな」  
 
 彼の声。  
 
 もうこれでさよなら。  
 
 ……わたしは彼の顔を見ることができない。  
 
「……はい」  
「それじゃ、叔母さんとやらによろしく」  
 
 わたしはうつむいたままだった。  
 
「……」  
 
「どうした、やっぱりどっか悪いんじゃないのか?」  
 
「大丈夫……です」  
 
 
 
 大丈夫じゃない。  
 
 
 
「そっか。身体には気をつけろよ」  
 
 
 彼は……わたしを知らないから。  
 
 まだ、わたしと会ってもいないから。  
 
 
「今日は……本当にありがとうございました」  
「大げさだって。俺も結構楽しかったよ」  
 
 
 
「…………!」  
 
 
 
 だめだ。  
 
 
 
 抑えられなかった。慌てて顔を覆っても、もう遅い。  
 
 わたしは、また泣いてしまった。  
 
 泣くまいと思えば思うほど、反発するように、悲しくなった。  
 
「おいおい。泣かれるほどの助けじゃないって。  
 ……それとも俺、何か君を傷つけるようなこと言ったか?  
 鈍感だからな。何か悪いこと言ってたら、謝る」  
 
 彼は謝る仕草をした。  
 
 
 
 ……何も悪くない。  
 
 誰も悪くない。  
 
 
 
 
 じゃぁ、どうしてこんなに涙が出てくるんだろう。  
 
 
 
 
 はじめから、わかっていたのに。  
 
 
 
 
「そんなこと……ないです……ごめんなさい。それじゃ」  
 
 急がないと本当のことを言ってしまいそうだった。  
 そうしたって、彼は何も分からない。でも……。  
 
 
 
 わたしはドアに手をかける。  
 
「そういえば君、名前は?」  
 
 
(                         )  
 
 
 もうひとりのわたしからの言葉が聞こえる。  
 
 
 ……分かっています。  
 
 これから言うのは、うその名前。  
 
 
 
「夏季です。野合夏季」  
 
 
 
 Yago Natuki  
 Nagato Yuki  
 
 簡単ないたずら。  
 でも、彼が気づくことはない。  
 
 
 
「ナツキか。またいつか会ったらよろしくな」  
 
 わたしは目を閉じた。  
 
 ……いつかなんて、もうない。  
 
「またいつか」  
 
 別のわたしが言ったような言葉だった。  
 あるいは本当にそうだったのかもしれない。  
 
 
 
 ……。  
 
 わたしは彼にさよならをした。  
 
 
 
 ――  
「そういえば長門さん」  
「なに」  
「あの迷子の女の子は誰だったんですか?  
 彼女はあなたの情報操作能力によってあの場に呼び出されたのでしょうか」  
「わたしが操作したのではない。  
 それ以上のことは現在のわたしには分からない」  
「ほう。なかなかに興味深いですね。  
 涼宮さんの思惑を覆す出来事があの時点で起きていたなんて」  
「……」  
 ――  
 
 
 
 夢。  
 起きている間に見る夢があるだろうか。  
 ここでの『夢』は未来への希望という意味ではない。  
 
 わたしは夏の空の下で夢を見ていた。  
 本当なら、なかったはずの……一日。  
 
 後悔はしていない。  
 
 
 
 
 わたしは目を覚ます。  
 白い部屋。  
 
 どうして白いのだろう。  
 
 ……それに、寒い。  
 
 どうして寒いのだろう。  
 
 ……。  
 
 
 
 窓の外は晴れていた。  
 
 わたしは、もとの世界に戻ってきた。  
 
 
 
 
 
 
「ゆーき!」  
「あ……」  
「おはよう!」  
「……今日は朝練ないの?」  
「そう。だから久しぶりに有希と登校できるってわけ」  
 
 涼子に後ろから肩を叩かれた。  
 何だかずいぶん久しぶりに会う気がする。  
 
「どうしたの?わたしの顔に何かついてるかしら」  
「ううん。何でもない」  
 
 今朝もこの街の空気は冷たい。  
 春まで、もう少しかかりそうだ。  
 
「そうだ!有希、聞いて聞いて。あのね……」  
「……」  
「……なんだって」  
 涼子は微笑んだ。  
 
「……」  
「がんばってね。有希」  
 
 ……春まで、もう少し。  
 
 
 
「あ、長門さん、こんにちは」  
「……こんにちは」  
 昼休みの図書室。相手は決まっている。  
 ……陽射しがやわらかい。  
 
「ん。何か変わったことでもあったの?」  
「……え」  
「いや、ちょっと様子が違うように感じたから」  
「そんなことない……」  
「そっか。よかった」  
「……え?」  
「長門さんがいつも通りにしてると、何か僕まで楽しいんだ」  
 
「……」  
「あれ、どうしたの?」  
 
「……わたしも」  
 
「え?」  
「……なんでもない」  
 
 春まで、もう少し。  
 
 
「また見ちゃった!」  
「……」  
 帰りのHR。前の席の彼女。  
 
「あ、とぼけようとしてるな?甘いわよ〜。色々な意味で!」  
「……ばれた?」  
「ばればれよ!あたしもたまには図書室に行ってみるものね。いいもの見れちゃったし!」  
 
「……」  
 
「あ、長門さんが笑ったの初めて見た!ね、みんな!」  
 彼女はいつも元気だ。  
 
 
 
 わたしはすっかり元通りになっていた。  
 まるで、魔法が解けたみたいに。  
 相変わらず国木田くんとは上手に話せないし、文庫本も手放せない。  
 
 
 
 けれど、少しだけ変わったこともある。  
 
 
 
 放課後誰もいない部室に行って、パソコンを起動する。  
 
 
 わたしが生み出す物語の人物は、よく笑うようになった。  
 まだ完成には遠いけれど、ハッピーエンドになればいい。  
 
 
 わたしは窓辺に立って、二枚の紙を取り出した。  
 一枚はくしゃくしゃ。もう一枚は細長い花模様。  
 
 
 
 大切な、わたしの宝物。  
 
 
 
 夢のはじまりと、終わりを告げた、形の違う二枚のページ。  
 そっとしまって、わたしは窓を開けた。  
 
 風は止んでいて、陽光があたたかかった。  
 
 
「……ありがとう」  
 
 あなたと、もうひとりのわたし。  
 
 
 
 
 ……。  
 
 乾いて晴れ渡った空を二羽の鳥が飛んでいった。  
 
 春まで、あと少し。  
 
 
 
(了)  
 
 

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