放課後、僕が部室の扉を開けると、そこには長門さんしかいませんでした。
「おや、長門さんお一人ですか」
長門さんは本に目を落としたまま無言です。見ればわかるだろう、といった風情ですね。
僕は自らお茶を淹れ、ついでに長門さんの分も注いで彼女の側に置きました。これも無反応です。
出会って一年、共に当たった事件の数も、増えてしまいましたが、彼女の口数だけは増えません。少なくとも僕の
前ではね。
「前から思っていたんですけど、長門さんは僕には冷たいですよね。いや、長門さん『も』というべきでしょうか?」
少しは反応してくれてもいんじゃないでしょうか。いや、別に寂しくなんてないですけどね。
長門さんは唇以外の全てを固定したまま口を開きました。
「この時代の一人類として古泉一樹という個体は極めて特殊。涼宮ハルヒに関わったことで、それが突出した」
ええ、仰りたいことはだいたいわかります。 僕らの自称をそのまま受け入れるとして、長門さんと朝比奈さんは
涼宮さんがいなければ、この時代この場所にいることは決してないでしょう。でも僕は、涼宮さんがいなかったとし
てもここにいられる可能性がある。この時代を生きる人間ではありますからね。
「結果、わたしと情報統合思念体双方に対する理解力を持ちすぎた」
「なるほど、見透かされるのが嫌だから、必要がなければ喋りたくない、と」
長門さんの眉が少し上がったような、ページにかけた指が少し動いたような。
「でも長門さんは、言語などという不確実な伝達方法に頼らずとも、別の方法をお持ちでしょう。限定された条件下
における能力者でしかない僕にその方法が通用しないというなら、僕には喋らなければいいのですよ。そうすれば僕
も解釈の仕様がない」
見透かされるのが嫌だ、というのは実に人間的な感情であると言えますが、お気づきでしょうかね。長門さんが自
意識を持っていないのなら、僕がうっかり掘り出してしまう真実はそこには存在せず、背後に見えるのは中河くんで
したか、彼が見たようにあなたよりも上の存在でしょうから。
長門さんは、僕の淹れたお茶で満ちたカップに指先で触れて、すぐにひっこめました。
「朝比奈みくるだけでなく彼も、わたしに対する論理的理解が追いつかない。多分、根本的な情報量と学力と蓄積し
た経験の差からくる思考限界の違い」
直感的には理解しているんでしょうけどね。まあ、そのへんは長門さんも言わなくてもわかっているんでしょう。
にしても、彼と長門さんが二人きりのときにどういう話し方をしているか気になります。
「つまり、僕の存在が翻訳者として有為であると認めてくれているけれど、性格は信頼できないのでこれ以上の情報
を与えるのを躊躇する、といったところでしょうか。ご心配なく。長門さんが伝えてほしくないことを、彼に伝えた
りは決してしませんし……」
唐突に、何の前触れもなく、僕の湯飲みが文字通りに弾けました。
既にお茶が温くなっていたのが幸いでしたね。
ノックの前に聞こえてきた破砕音に、俺は手の平を180度返して部室に飛び込んだ。
少しは俺の心を落ち着かせてくれ。お前らはどうしてそうなんだ。
俺はてっきり、ハルヒが朝比奈さんに無理無体を働きでもしたついでに棚から古泉の持ちこみやがったボードゲー
ムが華麗に直滑降でもしたのかと思ったのだが、そこにいたのは意外や意外、長門と古泉だった。
古泉専用カップらしき色の陶器の破片が粉々に散っている。長門のカップからは僅かに湯気が立っていた。それを
挟んで向かい合っていた二人がこちらを向く。
俺が絶句していると、長門が鉄面皮が一枚足りない感じで呟いた。
「手が、滑った」
お前がか。ありえないだろそれ。
「古泉。お前何を……」
「さて、僕たちは帰りましょうか。あなたが来たのに団長がまだおいでにならないということは、今日は活動はなし
でしょう」
なんでお前と一緒に帰らにゃならんのだ。
「まあまあ。長門さん、後片付けをよろしくお願いします。今のことはお気になさらず。まったくの無傷です。週末
の予定が決まったら、あなたから僕に連絡を下さい」
長門が反論するようだったら音もなく古泉の後ろを取る準備は万端だったのだが、長門は読みさしのページを開い
たまま本を伏せたので、俺は来て間もないというのに帰る羽目になった。
「おい、古泉。何があった」
校門から出てしばらくして、俺は奴の肩に手をかけた。
「長門さんを怒らせてしまったようで」
長門を怒らせた? どうやったらそんな恐ろしいことが、部室でできるんだ。
「あなたにはできないでしょうね」
わざとかよ。
「実はしょっちゅう、怒らせてると思いますよ。あ、いや、怒る原因になっているというべきでしょうか」
マジか。
「いたくマジです」
それは気をつけないとな。あいつは溜め込む傾向がある。終わらない夏休みを全部覚えてるってのには、俺は同情
を禁じえない。
「で、俺がいつどういうときに怒らせてるって?」
「あなたの鈍さは天然ですかね。それとも、自己防衛なんでしょうか」
いいから教えろよ。俺はあいつのためなら、多少の無茶はする。ハルヒがおとなしくしててくれるなら、多少でな
くても無茶をする。
「知ってますよ。でもそれは」
すると古泉はわざわざ立ち止まって
「禁則事項です」
真似するなら長門バージョンにしてくれ。朝比奈さんの真似なら、お前じゃなくて長門にしてほしいね俺は。ハル
ヒでも構わんが。
「まあ、今のは冗談として。さっき部室であなたが見た光景は、涼宮さんがあなたを引っ張りまわしたり、僕があな
たとのゲームに負けたりするのと同じようなものです。少なくとも僕はそう解釈します。そうしても構わない環境、
というのは貴重なものなんですよ。個人の関係が属する組織の関係にも自他の存在にも影響せず、ひいては当人同士
の関係の悪化もおそらくないとなれば……。まあ、僕らの場合、それを信頼ととるか単なる無関心ととるかは微妙で
すが、立場を考えれば前者と取りたいところです」
お前の言うことは一割五分六厘くらいしかわからん。
「おや、一割五分六厘もわかっていただけるんですか。それは光栄ですね」
謹んで訂正させていただこう。まったくわからん。
「では僕はこれで。また来週、ですかね」
おい、忘れるな。明日は毎度お馴染み市内探索という名のピクニックや買い物や散歩だ。
いつも通りのにやけ面を全面に晒してくるがいい。
暴走した。昨年のような事態は避けなくてはならない。だがエラーではない。
本当に暴走なら、古泉一樹では対応不可能な事態が発生するはず。
エラーはむしろ先程の行動により、減少している。コンピ研に参加した後に近似しているが、更に減少率が高い。
想定される解答は一つ。
わたしが古泉一樹にしたのは、八つ当たり、と称される行動である可能性が高い。
「やっほーい」
涼宮ハルヒと朝比奈みくるが連れ立って入室した。
「有希!? どうしたの。あーダメよ素手で。みくるちゃん、ほうきとちりとり!」
「ひ、ひゃいっ!」
制服姿の朝比奈みくるが涼宮ハルヒにほうきとちりとりをリレーした。
「うっわ。見事に粉々ね。どうやったらこうなるの?」
「壊れた」
不的確な表現。言い換える。
「壊した」
「男二人は?」
「もう帰った」
「なんてこと! ったく、キョンの奴! 罰金なんだから!!」
違う。原因は彼ではない。
「何? 古泉くんのせいなの?」
そう。
「何があったの?」
「……別に」
「まあいいわ。有希なら、たまには怒るのもいいことよ。古泉くんにはご褒美をあげないと」
彼が聞いていたら、多分、「やれやれ」と発言しただろう。数百のバリエーションが想定される。
朝比奈みくるが片付けを終えてお茶を持ってきた。触れるとわたしのカップから指に温度が移る。適正温度だ。
古泉一樹の入れたお茶は最初から、この部屋で飲むのに適正温度ではなかった。
「罰金でもご褒美でも、明日にすればいいんじゃないでしょうか?」
「そうね」
「反対する」
二人がわたしを見詰める。涼宮ハルヒが一時的に静か。
「買いたいものがある。女の子だけで」
朝比奈みくるが胸の前で手を合わせる。
「あ、いいですね。私もお茶とお菓子を買いたいんです」
「いいわね。あたしも春物買いたかったのよ。有希は何がほしいの?」
「壊したカップを買う」
これは、ちょっとしたお詫び、とお礼。
「じゃあ、市内探索は日曜にしましょ。キョンには連絡しとくわ」
「もう一人には、わたしが」
「そ? じゃ、有希、よろしくね」
朝比奈みくるが首を傾げてわたしを見ている。意図的に無視。読みかけの本を元に戻して座る。
わたしは、週末の予定の変更を伝えない。
古泉一樹は土曜日に駅前で待ちぼうけを食らうことになるだろう。わたしたちは駅前以外で待ち合わせする。
日曜日には、高確率で彼ではなくて古泉一樹が全員の昼食代を奢ることになる。
これは、ちょっとした意地悪。
終わり