なんの因果でこういう事になったのか、またしても俺は三年前という時空に身を投じる事態に見舞われた。  
 こういった事象は俺にしてみれば全て唐突であり、また今回のそれも例外ではなく、訳も解らぬまま敵国の捕虜さながらの連行によって、今この時空に放り込まれている。  
 短絡的かもしれんが、要するに俺の意見などお構いなしということだ。  
 まあ、かといって駄々っ子を試みたとか、別にそういうわけではない。むしろ朝比奈さんのお願いダーリン的なお誘いに、つい一言返事でホイホイ付いてきただけなんだが、そこは言葉の綾というやつだ。  
 そして予想はしていたが、訳が解っていないのは俺をここに連れてきたご本人様ですら同様らしく、俺は事情を知っているであろうフェロモンが幾分か上乗せされた別の出で立ちをしたご本人様の姿を探してキョロキョロしているのだった。  
 
 そうして二人して不審者ごっこにいそしむこと約数分。  
 やにわに取り出されたここら一帯の地図をかの3Dアートみたく凝視しているのは、そのご本人様。  
 俺はその真意を探るべく、傍らでそれを取り出した、もとい俺をここへ同行させたそのご本人様こと部室の大天使朝比奈さんに問い掛けてみる。  
「どうしたんですか、その地図?」  
 そう言って俺も朝比奈さんに習い、地図を覗き込む。  
「あ、はい。今朝ポストにこの地図が入ってて、この印の付いてある場所に行けっていう未来からの指令なんです」  
 竹ひごみたいに細く小さな御指が、うっすら滲んだ朱色印上に触れる。  
 そこに朝比奈さん大人バージョンが待ち構えているって寸法か。どうにも回りくどいやり方だな。  
 いや、待てよ。だとすればだな、今俺の傍らで地図と格闘中の方の朝比奈さんはどうするつもりだ?  
 前回はこちらが待つ側だった。だからこそ、よもやの不意打ちで眠らせることができたものの、今回はこちらが立ち後れなわけだ。  
 大小の両朝比奈さんが満を持してご対面なんてことになれば、それはかなりマズいんではないだろうか。  
 例えそんな、孔明のような軍師様をも唸らせる事態が発生したところで、こちとら事態の収拾はいざりの京参りである。  
 こんなすこぶる危険な賭けを任されたところで、俺じゃ間違いなく役不足ですよ朝比奈さん(大)。ハルウララを勝ち馬券に絡ませるのは、どんな名ジョッキーでも、ちと無理があるってもんだ。  
 まあ、杞憂だと信じよう。あのあらゆる箇所がビッグな方の朝比奈さんなら、そんな初歩的なミスに足を取られるとは考えにくい。隠れておくなり何なりで、どうとでもなりそうな感じもするしな。  
 ともかく、どうあれ今は行き先を地図上の印に委ねる以外なさそうだ。何かあったらあったで、またそん時考えりゃいい。  
「あ、あれ? うーん、こっちなのかなぁ……。キョンくん、これこっちの方向で合ってます?」  
 頑張り過ぎが逆に仇となったのか、このお方は地図を南北逆にご覧になっていらっしゃる。その神々しいまでの取り違えっぷりが、これまた逆にこのお方の可憐で可愛らしい部分を存分に引き立てている。  
「ふえっ……。ごごごめんなさいっ。やっぱり、キョンくんが地図持ってください……」  
 このまま放っておくと目的地に着く前に三年経って、自然と元の時間軸に戻ってしまいかねないので、俺は朝比奈さんから地図を受け取ることにした。  
「さっき曲がったところが逆ですね。まあ、印のところにならこのままでも行けますから大丈夫ですよ」  
「ふえぇ。ごめんなさい……」  
 しょんぼりと肩を落とした朝比奈さんという、いじましいまでに庇護欲を湧き立てる光景を視神経に伝わせながら、俺は地図を片手にいざ目的地へと足を進めていた。  
 
 どうしてまたグラマラス朝比奈さんは、目的地とは最寄のスーパーほど離れた遡行地点を指定したのかさっぱり解らんが、そんな軽い散歩も折り返し地点を過ぎた頃だった。  
「なんだ?」  
 後ろの方からブオンブオンという、エンジン音にしては只ならぬリズムを刻んでいるのが俺の鼓膜に届いた。  
 どうやら峠じゃなく住宅街を攻めるのが昨今の走り屋事情らしい。いや昨今というか三年前なんだが。  
「え……ど、どうしてあんなスピードで走ってるんですか?」  
「単なる目立ちたがり屋なんですよ。気にしない方がいいです」  
 どうやら朝比奈さんの時代の走り屋や暴走族的なものは、多少こちらとは勝手が違うらしい。違うというかむしろ存在しない可能性もありうるが。  
 確かに「夜露死苦」に代表される、趣の欠片もどこぞといった当て字がでかでかと刺繍された特攻服とか、現代視点でも恐ろしく時代遅れな感は否めないからな。今の時点ですでに絶滅危惧種に認定だろう。  
 それに今俺が見ているのはそういうのではなく、単なる過度のスピード違反野郎だ。  
「あ、こここっちの道に入って来ました」  
「大丈夫ですよ。騒音以外は、一般人には人畜無害な奴ですから」  
 とは言ったものの、なんせクラスメイトにムカついたからという理由だけで刺されたりするのが昨今の社会風潮だ。一概に安心できるとは言えんかもしれん。  
 そんな俺の意中が当たらずとも遠からず、遺憾ながらここで人畜有害な問題が発生した。  
 後ろの暴走車からふと前に視線を戻すと、何か灰色の物体がアスファルトを横切ろうとしているのが見える。  
「キョンくん、あそこに何か……」  
 視線をそちらに向け僅か一秒ほど目を凝らすと、容易に小動物の類なのが見て取れた。  
「ひえっ!」  
 小犬だ。  
 どこを見てんだか暴走車は、まだその小さな躯体に気付いていない。  
 大きな金属の塊と小さな命一つが隔てる距離は、無情にもはばかりなしに詰まっていく。  
「危ねえ!」  
 ――轢かれる。  
 と思ったその刹那、運転手は突然の障害物の出現にようやく気付いたのか、急激な軌道修正に打って出た。  
 つうか、  
「なんでこっちに曲がってくんだよ!」  
 こともあろうに俺たちのいる側へとハンドルを切りやがった。  
「ひえぇぇー!」  
 天国から国産中古車ハイヤーでのお迎え。そんな安っぽいもん、例え寿命を全うしたとして誰も死ぬ気になんざなれやしねえ。  
 とにかくこのままではマジに天国行きだ。  
 俺はとっさに避けようとするが、  
「朝比奈さん!」  
 隣の大天使様は足を震わせて固まっていらっしゃる。  
 まずい。朝比奈さんを本当に輪っかのついた天使にさせた日にゃ、俺はマジで切腹もんだ。  
「くそっ!」  
 ドンッ、と割かし強めの力で朝比奈さんの肩を突き飛ばす。「あふっ」とか言いながら簡単に飛ばされてくれるのが、この期に及んで罪悪感をそそる。  
 だが、これで朝比奈さんの安全は確保。  
 続いて俺もすぐさまフライングアウェイだ。  
「痛えっ」  
 間一髪、車は俺のすぐ横数センチほどの距離ですり抜けていった。  
 何とか危機は脱したものの、考えなしに飛び退いたもんだから着地がままならない。腰が痛え。  
 てかあのスピード違反野郎、謝罪も何もなしに行っちまいやがった。ああいう連中を育てた親ってのは、いったい我が子の素行をどれだけ把握してんだろうな。くそ、ボディに十円傷でも付けてやりゃよかったぜ。  
 だが今は難癖つけるのは後回しだ。  
 まずは朝比奈さんの無事を確認せんと、俺は突き飛ばした自分とは反対側の道路脇を見やる。  
 だが、  
「朝比奈さん?」  
 いない。消えた?  
 ……まさか。  
 おいおい、冗談じゃねえぞ。またか。またなのか?  
 またしても俺がすぐ傍に居たってのに。くそっ、なんて節穴だ俺は。  
「ちくしょう!」  
 いや、待て。冷静に考えろ。さっきの状況で朝比奈さんを連れ去るのは、何かと無理がある。  
 まず車は一度も停車していないし、それどころかスピードだって急激に落としちゃいない。  
 車を走らせたまま人を連れ去るなんて芸当ができるのは、それはルパンかジブリの世界くらいのもんだろう。つまり現実では不可能だと思っていい。  
 だったら何だ? 朝比奈さんの消失に、どういうあらましを立てれば筋が通る?  
 
「ったく!」  
 なんだってこんな手数の掛かりそうな事態が俺に舞い込んできやがる。こんな余計な散歩させるからですよ朝比奈さん(大)。  
 朝比奈さん(大)?  
 いや、これはもしや。  
 朝比奈さん(大)、これはあなたの仕業なのか? この為にわざわざ地図の印地点とは離れた場所に時間遡行させたとか言うのか?  
 なら今から俺が向かうべきはただ一つであり、それは印地点以外には無いはずだ。  
 どっちにしろ、この時間軸で状況を説明してくれそうな人物は限られてくるからな。その一番の候補があのグラマラス朝比奈さんなわけだ。  
 やれやれ、俺が地図を持っておいて正解だったな。  
 今や慣れ親しみつつある三年前という時空で一人、俺は目当ての人物が待っていることを半ば確信しながら目的地へと早歩きを始めた。  
 
 
「ここだな」  
 行き着いた先は、どこの団地や住宅街にも一つはありそうな、これまた何の変哲もない小規模な公園だった。  
 しかしブランコや滑り台などは手入れが行き届いていないのかすっかり錆び付いており、目に入る人影はこの住宅街の住民だと推測される少女一人だけである。  
 あのOL風コスチュームに身を包んだ、フェロモン満載の栗毛美人は見当たらない。  
 どういうことだ。  
 今や経験過多とも思えるさしもの俺も、目当ての人物がいないことに焦燥感の発生を余儀なくされるが、ここはしばらく待ってみることにする。俺の後からやってくる可能性もありえるからな。  
「……ふう」  
 滑り台の支柱部分に背をもたれ掛け、一息つく。どちらかといえばマズい状況にも拘らず、自販機などを探そうとしている自分に大物の器を感じないこともない。  
 だが一本の缶コーヒーと引き換えに朝比奈さん(大)と入れ違いになるのは、どう考えてもたかが缶コーヒーには高すぎる代償であり、俺はおとなしく大物への成り上がりを放棄した。  
 
 
 一時間ほど待ち呆けただろうか。  
「……来ねえ」  
 なぜだか解らんが、待ち人は一向に姿を現さない。  
 いや、そもそも俺の記憶には、本人から待っているといった内容の通信ログは残っていない。何しろ単なる俺の推測に過ぎん。  
 だとすればだ。じゃあ俺と朝比奈さんをこの公園に向かわせた理由ってのは一体何なんだ?  
 あそこの少女にこの地図でも見せれば、スタンプを押して次の目的地でも教えてくれるのだろうか。えらく懐かしいオリエンテーリングだなおい。適当に小銭でも掴ませてあの少女を仕込んだんじゃなかろうな。  
 ていうかあの子、さっきからずっとブランコに腰を落ち着かせっぱなしじゃないか。俺が朝比奈さん(大)を待ち続けた一時間ほどの間、ずっとだ。  
 これはちょっと気になる。いや、あの少女が仕込みかどうかという意味ではなく。  
 だが今の俺は朝比奈さん消失という難題で手一杯であり、このダウナーオーラ全開の少女に関わっている余裕などは無い。  
 俺は難題の解決に向けて、次はどういう手を打つかに思いを馳せていたつもりだったのだが、  
「どうしたんだ? 母さんに閉め出されたりしたのか?」  
 気付いた時には、すでに話し掛けていた。  
 いいのか悪いのか俺のこの世話焼き性分は、確実に妹を通じて得た代物だろう。代物っつっても質屋に押し掛けたところで門前払いは免れない代物だ。逆に金は出すから家電リサイクル法の範疇として処分してもらえないだろうか。  
 
「寒いだろ? いくら秋口とはいえ、もう日も落ちる時間だ。そんな薄着じゃ風邪引くぞ」  
 見れば少女はけっこうな薄着である。ていうか真夏の格好だなこりゃ。  
「……ぐすっ」  
 ずっと顔を俯けていたので気付かなかったが、どうやら少女は泣いていたようだ。やっぱり閉め出されたのか?  
「……ううん、違うの」  
「じゃあ、もう家に帰った方がいいと思うぞ」  
「帰りたくない……」  
 まるで帰れと言われることを事前に知っていたかのような即答ぶりである。  
 とにかくこの少女は閉め出されたのではなく、自らの意志でこの公園に留まっているらしい。  
「どうしてだ? ここにいても、その格好じゃ寒いだろうし、服を着るためにも家に帰った方がいいだろう?」  
 理由が親子喧嘩だとするなら、なおさら帰って仲直りするべきだろうと思うしな。  
「家は、寒いから……」  
 家が寒い? おいおい、まさかただ単に物理的に服を買えないとか、そういう経済的な理由でその格好なんだとしたら、何かやたらと気分が滅入ってしまうじゃないか。  
 台所のゴミの四十パーセントが食べ残しというこの飽食大国日本で、不憫すぎるだろそれは。  
「……違うの。服ならたくさん持ってる。お洋服専用の部屋もあるくらい。暖かくなれるけど、温かくはなれないの……」  
 一転して今度は金持ち宣言ときたもんだ。いや、それはいい。注目すべきはその次の言葉である。  
 アタタカクなれるがアタタカクはなれない?  
 はて、この少女は一体何を言わんとしているのか。これが正しい日本語なんだとすれば、俺はきっと日本人じゃなかったのかもしれない。それくらい意図を掴みかねる言葉だ。  
「とにかくだ。家はここからすぐなんだろ? 俺も一緒に行ってやるからさ、もう帰ろう」  
「すぐじゃないよ……」  
 遠いのか。ならプチ家出じゃないか。余計に帰った方がいい。  
「……嫌」  
 風邪引くぞ。  
「もう、一人でいいの……」  
 少女はそう言って一時間ほど保温状態だったブランコから立ち上がり、そのまま走り去っていく。  
「おい、待……」  
 行ってしまった。家に帰ってくれたのならいいが……。  
 しかし、ゆとり教育が生み出した産物をむざむざ見せ付けられたというか、そんな絵に描いたような反抗期を体現した娘さんだな。あの子の親御さんもさぞかし世話が焼けることだろうよ。  
 いや、ていうかだな。  
 ……俺は一体何をやってんだか。  
 危うく自分が直面している、ヒルベルトの23の問題の内の一つにも数えられそうな程の難題をさっぱり忘却してしまうところだった。  
 さて、気を取り直してこれからどうすべきか。  
 何としてでも俺の朝比奈さんを探し出さないことには、元の時間軸に戻れん。  
 ここで大きい朝比奈さんが駄目だとなると、やはりこの時代で頼れるのはどう考えてもあと一人しかいない。  
 今回ばかりは頼るまいと心に決めていたのだが、どうやらそうも言ってられないところまで来てしまった。  
 俺の知りうる限りでは、オフサイドラインを担う最後方ディフェンダーにして最強の守護神。  
 すまんな、長門。またお前に頼ることになりそうだ。  
 それにもしかすると、すでに長門の部屋に朝比奈さんがいる可能性だって否定はできないからな。  
 俺は地図を取り出して現在地からの最寄り駅を確認し、三年後より心持ち絡みづらい眼鏡付き有機アンドロイドの顔を思い出しながら、一路駅へと直行した。  
 
 先程まで停留していた地域は、俺の生活圏とさほど離れてはいなかったようで、長門のマンションには割かしあっけなく到着することができた。  
 すっかり手馴れた仕草で、俺は長門の部屋をコールする。  
『…………』  
「あー、俺だ。解るか?」  
『…………』  
「えー、そこの和室で寝かせてもらっている者だ。そいつより、もうちょい未来から来た」  
『入って』  
 こうして俺は三年前の長門と何ヶ月ぶりかの再会を果たした。俺の時間でもここの時間でも何ヶ月ぶりという言い方で合ってるってのが手っ取り早くていい。  
 
「どうだ、最近。元気にやってるか」  
 俺の長門と比べてますます無反応なこちらの長門が、急須と湯呑みを乗せたお盆をカチャカチャいわせながらコタツテーブルへとやってくる。  
 長門は俺の質問を受けて一瞥をくれるが、すぐまた視線を戻し俺の対面側で正座を始めた。  
「すまないな、長門。またお前に頼っちまって」  
「いい」  
 眼鏡に反射する蛍光灯の光が、よりこいつの機械的というか何というか、そういう部分を引き立てている。  
 そういやさっき自分でも言ったが、このふすまを隔てた向こうには、もう一人の俺と朝比奈さんが揃って爆睡してるんだっけ。マジックで顔にいたずら書きとかしたら怒られるだろうか。  
「それは推奨できない」  
 いやいや、冗談に決まってるだろ。そもそもこのふすま、今は開かないんじゃなかったか?  
 まあいい。ともかく今は冗談で時間を潰している場合ではない。まずはあの可愛らしい上級生を探し当てることに全神経を注ぐのみだ。  
「なあ、俺は今回も朝比奈さんと一緒にここへ時間遡行したんだ。朝比奈さんってのは解るか? そこで俺の隣で眠ってる人だ」  
 俺がそう言ってふすまの方を指差すと、長門は僅かにうなずく。  
「そうか。その朝比奈さんなんだが、消えたのか失踪したのか、どうにも途中で居なくなっちまったんだ。何とか探し出せないか?」  
 長門は四、五秒ほど瞬きもせずジッとこちらを見つめ、  
「消失時の状況を説明してほしい」  
「わかった」  
 俺はできうる限り詳しく、あの暴走車突撃シーンの筋書きを懇々と語った。  
 とはいえあれは一瞬の出来事であり、細部まで余すところ無く説明したところで、さほど時間は掛からなかった。  
「どうだ。何か解らないか?」  
 俺は説明を終え、期待の視線を長門に送る。  
「…………」  
 解らないのか。  
「わたしの推測でよければ」  
 ああ、十分だ。お前の推測は、俺の絶対的な確信の数百倍も信用するに足りる。  
「彼女、隣の部屋で凍結中の彼女の異時間同位体は、まだこの時空に居る。ただし場所の特定は不可能」  
 よかった。とりあえず無事ってことでいいんだな?  
「存在が確認できるだけ。ここからはわたしの推測になる。彼女が姿を眩ましたのは、恐らく自身の意志ではない」  
「どうしてそう思うんだ?」  
「簡単。彼女の運動能力で、その一瞬での移動は不可能」  
 久々に解りやすい説明だ長門。確かに言われてみりゃ、俊敏に動く朝比奈さんなんて出鱈目に想像外だ。  
 となると、やはり誰かの仕業というわけか。どいつだまったく、俺の朝比奈さんに不埒を働きやがるA級戦犯野郎は。  
 今すぐにでもここを飛び出して朝比奈さん探索に没頭したいところだが、いかんせんもう外は暗闇真っ只中だ。  
 ならば今日は早めの就寝を心掛けて、明日に早起きして活動した方が効率は良さそうだ。  
「すまんが長門、今日ここに泊めてもらってもいいか?」  
「構わない」  
 即答してくれる長門にひたすら感謝である。  
「恩に着るよ。ほんとお前には世話になりっぱなしだな」  
「いい」  
 グーとパーの中間くらいの拳を作って指の背で眼鏡の位置を直しつつ、長門は小さく呟いた。  
 
 気付けば晩飯時な時刻を短針が指していたので、俺と長門は毎度お馴染みのレトルトカレーで簡単な晩飯を済ませる。相変わらずの山盛り具合だったので、もう腹十二分目くらいだ。  
 そしていよいよ就寝かと思われた夜もたけなわ、ここで俺的にはちょっとした問題が浮き彫りになった。  
 殺風景なリビングでくつろいでいる俺に、長門が布団を抱えて持ってきてくれた。それはいい。  
 だが俺がそのままリビングに布団を敷き、ちょうど横になった時、  
「……長門」  
「なに」  
 なにってお前。  
「なんでお前までここに布団敷いてんだ」  
「いつも寝ているのはここ」  
 いやいやちょっと待て。  
 いくら相手が長門といえども、年頃の男女が一つ屋根の下はおろか一つ部屋の中で寝んごろなんてのは、特定の意味でまずい。  
「問題ない。気にしないで」  
 いやいや、俺が大いに気にするんだが。  
「大丈夫。何もしない」  
 何もしないってお前、意味わかって言ってんのかそれ。ていうか、ふつう俺が言う台詞だろ。  
「そう?」  
 長門がそう言って首をほんの僅か傾けたのもつかの間、そのまま流れるように布団に入ってしまった。  
 俺が移動しようかとも思ったが、やっぱり何だかちょっと惜しい気もする。いや別に長門をどうこうしようというわけでは断じてないぞ。  
 俺は誰にしているともつかない言い訳を頭の中で反芻させつつも、結局長門の傍で寝ることを決めた。  
 ちらっと横に視線をやってみるが、野比家の末裔かもしれない長門の寝つきっぷりは見事なもので、すでに寝息を立てて夢心地のようである。  
 こうして寝顔だけを眺めている分には、こいつがナイフを素手で捌くような奴だとは思えないよな。  
 アナログシンセサイザーのたゆたうような響きにも似たその神秘的な寝息を子守唄にし、俺は瞼を閉じて間もなく、いつの間にか眠りについていた。  
 
 
 
 そして翌日。  
 いつもならこれからが寝本番だといわんばかりに熟睡中も真っ盛りな時間帯。  
 なんと俺は起きていたと言ってやりたいところだが、そこはやっぱり俺であり、俺であるからこその必然なわけで、早い話がつまりは寝坊である。  
 何の為に昨日、誘惑にしては楷書体の印影並に淡白な長門の思い掛けない添い寝にも動じずに、わざわざ就寝時間を前にずらしたのか解ったもんじゃない。  
 俺は自分の決行力の弱さに失望の意を隠しきれずも、フラフラと布団から這い出るのだった。  
「おはよう、長門。早いな」  
 俺が遅いだけだろとセルフでつっこみを入れつつ、俺は長門が持ってきてくれたお茶に手を掛ける。  
 朝はコーヒー派なんだが、今は仮にも居候の身であり、それは贅沢が過ぎるってもんだろう。そもそも長門がコーヒーを好むようには思えんしな。  
 朝比奈さんが淹れた琥珀色の液体より僅かばかり味の劣る、それでも十分美味いんだがとにかく俺はそれを飲み干し、早くも未来人探索に向かわんと玄関へと足を運んだ。  
 
 無言で長門に見送られて家を出るという、同棲生活初日にしては端から倦怠期を予感させる刹那を堪能した俺は、まず昨日朝比奈さんとはぐれた辺りの場所へ向かう事にした。  
 電車にして二駅、そう遠くもなく、かといって自転車ではちと面倒な距離である。  
 そして最初に向かうべきスポットはあそこ以外にはないだろう。そう、朱色で地図に印されてあったポイント、あの錆び付いた公園だ。  
 何らかのヒントが転がっているとすればまずあそこだろうし、うまくいけば大きい朝比奈さんに遭遇する可能性だって無いとは言えない。  
 
 そんなわけで早速到着である。  
 話が早いような気がしないでもないが、移動中の状況をこと細かく実況したところで、そんなもんは単なる俺の自己満足で、それ以上でも以下でもない。  
 そういうのが好きだってんなら、ラジオでプロ野球でも聴けばいい。いいぞあれは。あんな一瞬の出来事を早口でリアルタイムに実況するんだから、ありゃ只者じゃないぜマジで。  
 齢十六にして早くもおっさん化しつつある俺は本当に一般人なのかと自分に問い詰めつつ、公園に足を踏み入れる。  
「ん? あれは」  
 最初に視界に入ってきたのは、これまた思い掛けないものだった。  
 ブランコを僅かに揺らし、俯き加減で鬱オーラを放っているという感情はブルーだが服の色はイエローな少女。  
 間違いない。昨日のプチ家出少女だ。  
 俺はゆっくりと少女に近づき、  
「よ、また会ったな」  
 少女は一度俺の方を見上げてまた視線を下げるという、長門ばりの仕草で返してきた。  
「どうしたんだ。もしかして昨日、家に帰らず仕舞いか?」  
「……ううん。帰った」  
 そりゃ一安心だ。流石にこの歳で野宿を経験するにはいささか早過ぎる。いや、早くなくともそんなもん経験したくもないが。  
「で、今日は朝から家出か」  
 続けて俺は理由を訊き出そうと試みるが、  
「…………」  
 少女は押し黙ったまま俯き続けている。  
 何やら訳ありっぽい雰囲気だな。立ち入り過ぎない程度に話を聞いてやるとするか。  
 
「ふう」  
 俺はゆっくりと少女に横付けする形で、隣のブランコに腰を落ち着かせた。  
 まったく、昨日に引き続き俺は一体何をやってんだか。見ず知らずの少女を更正させる為にわざわざ三年もの時間を遡ったわけではないのだが、どうにも放っておけない。  
 いや、そもそも何をする為にここへ来たのかも全く解らんのだが。  
 これなら魔王を倒すという明確な目的がある分、おつかいロールプレイングゲームの方が幾分マシだ。  
「なあ、何があったんだ? よかったら訳を話してみようじゃないか」  
 少女は言うか言うまいか迷っているような感じで、ちらちらと俺の顔を窺いながら、  
「……無くしたの」  
 無くした?  
「うん」  
 うんって、述語だけじゃ解らんぞ。  
 ここで少女はまたもや言うか言うまいかを迷っている仕草を見せ、やがてゆっくりと口を開き始めた。  
「最近ね、お父さんとお母さんが仲良くないの。それはもう、うん、とっても……」  
 親子仲ではなく、夫婦仲が原因か。  
「わたしには、どっちに付いて行くか決めときなさい、とか、お母さんの方がいいわよね、とか最近そんなことばっかり……」  
 ちょっとばかし俺には難しい問題だ。あまりたいしたことを言ってやれそうにないな。  
 俺の家庭はそういう事態に陥ったことはないし、きっとこれからもないだろうと思う。仮に陥りかけたところで、なんとなくだが、あの無邪気な妹がうまい具合に中和剤になってくれそうな気がしなくもない。  
「それでね、こないだテーブルに離婚届けが置いてあるのを見ちゃったの。そしたらわたし、もうどうすればいいのか解らなくなって……」  
 俺には縁遠いものだとしても、昨今の日本の家庭事情としてはさほど珍しいものでもないのだろう。  
 だが実際にこういった事情に直面しているのを目の当たりにすると、やっぱりそれは遺憾の意を表さずにはいられないし、嘆かわしい。  
 こういう親は子供のことを何だと考えているのか、まったくもって理解不能である。くそ、何だか俺まで腹が立ってきた。  
「離婚させないように、一緒にテーブルにあったお母さんのハンコを……持って外に出ちゃったの。そのあと……」  
 無くしたのか。  
「……うん」  
 離婚届けの捺印に使うような印鑑。実印か。そりゃ結構な事態だな。何といっても日本は判子社会であり、実印の効果といえばそりゃもう絶大だ。  
 まあ、テーブルに実印を出しっぱなしにしてしまう少女母もどうかと思うが。  
「どうしよう、わたしが無くしたこと知られたら……」  
 少女は今にも泣きそうな雰囲気で続ける。  
「ただでさえ家の雰囲気悪いのに、これ以上……」  
 確かに実印を紛失したことに関しては大いなる問題だが、それはこの少女の両親の不仲という原因あってのものだからな。  
 俺にしてみれば子供の気持ちも考えない親の方も十二分に悪い。  
「どの辺で無くしたのかは解らないのか?」  
「たぶん、この公園だと思うの。でも、探したけど見つからない」  
 丸腰での談合中に討ち入られた幕末志士のような、半分諦めが感じられる言い方である。  
「よし、ちょっくら俺も探してやる」  
 と、俺は重い腰を上げ掛けたのだが、  
「ありがとう。でも、たぶん無いからもういい……」  
「いや、良くないだろ。ちゃんと探……」  
「お兄ちゃんも何か用事があってここを通り掛かったんでしょ。じゃあ駄目だよ、ちゃんと用事済ませないと」  
 言われてみれば俺は朝比奈さんの手掛かりになるようなものを探しに来たんだっけ。またしてもトコロテン状態に頭から押し出されるところだった。  
「でも、いいのか? キミはこれからどうするんだ?」  
「あとで別の場所を探してみるから」  
 
 俺の脳の原材料が寒天だったことが判明してからまもなく、俺は自分の仕事に戻ろうとブランコから腰を上げることした。  
 やおら立ち上がろうと、視線を前に戻したそのすぐだ。  
「ん?」  
 一瞬だが、何かとてつもなく見覚えがあるような人影が視界に写った。と同時に、  
「ほげっ」  
 捕鯨? そんなもん三年前どころかもっと昔にすでに禁止されているはずだが。誰だまったく、こんな公衆の面前で堂々と犯罪宣言をする輩は。  
 その犯罪予告者は俺に見つかったのがまずかったのか、奇声を上げてからすでに姿を隠していた。  
 しかし見慣れた人影であることは、俺の右脳が確実だと告げている。いや、見慣れているというか、昨日まで見ていたというか……。  
 恐らく間違いない。  
 ……何をやってんですか、朝比奈さん。  
 予想もつかなかったお尋ね者の登場ぶりに頭を抱えつつも、俺はそのお尋ね者が現れたポイントへ駆け寄る。  
「くそ、居ないか」  
 すでに逃げたようで、朝比奈さんの姿は見当たらない。  
 だがそこで、朝比奈さんの代替とするには役不足もいいところだが、また別のものが目に留まった。  
 くるぶしの辺りが何かモゾモゾすると思い視線を下げてみると、  
「…………」  
 グレー掛かった小犬が、俺の足周りをちょこちょこと動いていた。  
 待て、何かこいつも見た覚えがあるような気がする。このムラのある灰色具合といい小さな躯体といい。  
 お前、確か昨日の暴走車事件を引き起こした犬っころじゃないか。いいよなお前は無邪気で。半分お前のせいで俺がこんな死活問題を抱えていることなんざ、脳細胞一つ分も解っちゃいないんだろうな。  
「ていうかだな」  
 あまりにも偶然にしては出来過ぎてないか?  
 今の俺の立ち位置に朝比奈さんが姿を現したと思ったのもつかの間、今度はこの犬っころにすり代わっていた。何のマジックショーだ。朝比奈さんがこいつを連れてきたのか?  
 解らん。  
 これは一体なんだってんだ。とにかく朝比奈さんを発見できた。そこまではいい。だがその朝比奈さんの行動の意図も含めて俺にはさっぱり解らん。  
 割と早めに定期考査の問題用紙の下端まで辿り着いたと思ったら、裏面もびっしりと問題で埋め尽くされていたっていう結局そういうオチかよ。何だか俺の学園ライフを体現したような展開だな。  
 こうして甘露煮よりは甘い考えを見事に焦げ付かされた俺は、毎度のことなんだから潔くこの難題に取り組めよと自分に喝を入れていると、  
「なんだ?」  
 グレー犬が纏わり付いている俺の足元に注目である。この犬自体に気を取られて気付かなかったのか、便箋の切れ端のようなものが地面上で目に入った。  
 俺は腰を曲げてそれを手に取り、  
「確かこれは……」  
 いい加減、今日はもう言い飽きたがこれも見覚えがある。もうとにかく今日は見覚えがあることづくめだ。  
 えーとこれは確か朝比奈さんいわく、最優先の命令コードってやつだったか。  
 これまた何でこんなところに。逃げる時に破れ落ちたのか、それともわざとなのか? にしてもギリギリ本文が見えないのが残念だ。  
 だが確信した。  
 朝比奈さんは一人で未来からの指令を遂行している。  
 しかし、どうしてまた一人でなんだ。これも指令なのか? 一人でやれっていう。  
 だが、ただ朝比奈さん一人でやれば済むことなら、俺がここに連れて来られた理由が解らない。  
 ならば、俺をフリーにすることに意味があるのか?  
 あるいはその両方か、だ。  
 
「……やれやれだ」  
 てか、こんな短時間にどれだけ強引に詰め込んでんだ色々と。グラム売りの服屋とかでたまにやる一袋詰め放題五千円とか、そういう感じの外注の切り方してんのか朝比奈さん(大)は。  
 流石にちょっと考え疲れてきた。年寄り臭いと時折言われることがあるが、脳年齢はそう老け込んでいないはずだ。いうほど頭を使わずとも今んとこ脳の老化などは心配あるまい。いったん引き返すか。返すか。  
 俺はこの犬っころに別れのハンカチ代わりに頭を撫でつけてやろうと、腰を下ろして手を出そうとしたのだが、  
「またお前が原因だったか……」  
 立っていると気付かなかったが、目線をこいつに近い高さまで落として、ようやくそれが目に入った。  
 親指ほどの太さの円筒状の物体。見た目から察すると、材質はオランダ水牛っぽい。それがこいつの小さな顎に咥えられている。  
 印鑑だ。たぶんあの少女の母親のものだとみて間違いない。  
 俺はこいつの口元目掛けて手を伸ばす。が、  
「あ、待て」  
 自分の目前に俺の手が迫るのを見て自分に危害が加えられると思ったのか、犬っころは素早く走り去る。  
「くそっ」  
 そもそも人間が犬に走行スピードで敵うはずはない上に、さらに俺の鈍足さも相まってか、一瞬にして俺の視界から犬っころは消えてしまった。  
 朝比奈さんといい犬といい、今日は皆が俺を避ける。俺ってそんなに嫌われてたのか。  
 俺は社会問題の筆頭に挙げられる陰険ないじめを受けている気分に陥りつつも、疲れた頭を上げて今日辿った道を引き返していた。  
 決定、今日も長門との甘さ成分ゼロの同棲生活だ。  
 
 
 ひとしきり思考の限りを尽くして疲れきった俺は、長門の部屋に戻るや否や活動中という姿を今だ見たことがない動物園のコアラのように寝そべって、適当な妄想で脳をほぐしていた。  
 なんか一気に力が抜けた。  
 朝比奈さんは無事な上、一人で何やらこなしているようだし、一体俺は何をしてこの時間旅行を満喫すべきなのか皆目見当もつかない。長門に茶々を入れつつ適当に遊んでいればいいのだろうか。  
 まあ、何か俺に仕事があるとすれば朝比奈(大)印の斡旋業者が俺に手紙か何かを寄越すだろうから、それがなけりゃ文字通り何もないってことで捉えておこう。  
 朝比奈さんという次世紀のヴィーナスに一人で仕事をさせるというのは、俺としては非常に芳しくない心持ちだが、本当にやることがないのだからしょうがない。  
 こうして時間旅行中の日程表を白紙のまま進行させることを決めた俺の傍に、長門が無音で近寄ってきた。  
「晩ご飯、どうする?」  
 いいね、なんか、こういうの。たとえその相手が長門だとしてもさ。  
 
 
 
 そしてまた翌日。  
 取り入ってすることがないとはいえ、一つ気掛かりな問題が俺の脳内ちゃぶ台に置きっぱにされていたことを思い出した。  
 それを蔑ろにしておくのもどうかという俺の良心めいたどこまでも安い責任感により、再び電車で二駅先のあの地域に出張中である。  
「全く見当たらないな。どうだった、そっちは?」  
「うん、駄目。全然……」  
 俺のすぐ目の前で首を横に振っているのは、お察しの通りあの少女である。  
 印鑑を昨日犬が咥えていたことを伝え、俺と少女はこの地域に拠点を置いているであろうあのワン公を見つけ出してやろうと、無駄に全力疾走シーンの多い熱血刑事ドラマのような捜索を行うことになった。  
 そして二人で手分けしてあちらこちらと探し回ったのだが、生憎お尋ね者は姿を見せなかったのである。  
 で、今はあの公園で報告会議中というわけだ。  
「でもね。見つけたとしても、さすがにもう口に咥えてはいないと思うよ」  
 いい指摘だが、むろん俺もそこまでは計算済みだ。  
「ああ、解ってる。もし見つけたら、静かに跡をつけるんだ。あの犬だってどこか家的な、拠点としている場所があるかもしれない。ハンコもそこにあるかもしれないだろ?」  
「……うーん、どうなんだろ」  
 正直、自分でも結構な絵空事だと解っているが、他に手段が思いつかないのだから何もしないよりはマシだろう。  
 そういう俺の最大公約数的な意見によって、もう一度探してみることになった。今度は二人一緒にである。  
 悠々とスローモーに探してやるかと、散策気分七割捜索気分三割くらいの軽い具合の意気込みで公園を出ようとしたところ、  
「あ」  
 と五十音中トップバッターである発音を少女は声にした。  
「もしかして、あれ?」  
 続いて少女はそう言って、公園の出入り口の方向を指差す。  
 俺もそちらに視線を向け、  
「……ああ、あの小犬だ」  
 どうやらお気に入りの場所らしく、またしてもこの公園に出没である。だが目を凝らすと、やはり印鑑はもうその口には咥えていない。  
「よし、跡をつけよう」  
 秘密の尾行にしてはえらく対象が安っぽいが、それでも俺と少女は息を潜めてその対象の動向を見守る。  
 しばらく公園内をうろついていたが、やがて公園を後にし、チョロチョロと蛇行しながら公道を歩み始めた。俺と少女もそれに続く。  
「このまま住処なり何なりに真っ直ぐ帰ってくれればいいんだけどな」  
 なんせ犬の尾行なんざ、こちとらちっとも楽しくない。美少女の尾行ならアドレナリンが分泌されまくりなんだろうが、それ以外ならせいぜいドーパミン程度が関の山だ。  
「うん、ほんと、ありがとう。こんな楽しくもないことに付き合ってくれて」  
 少女は申し訳なさそうに頭を下げる  
「いや、これは俺が勝手に首を突っ込んだことだ。どうせ暇だしな。お礼なんて言わなくていいぞ」  
 少女が俺に気を使うところを見て、気さくな兄やんを演じてやろうと俺は少女の頭にポンと手を置いてやる。  
「暇? 高校には行ってないの?」  
 いつか訊かれるだろうと思っていた質問なんだが、俺は特に解答を用意していたわけではなく、  
「いや、ちょっと、なんと言うかだな。あれだ、旅行でここに来ているだけなんだ」  
 我ながら捻りの欠片もない受け答えだ。秋の涼しさでは、まだ俺の脳は活性化の兆しを見せてくれない。要するに冬以外は俺の脳は使えないということか。冬眠の逆バージョンだな。今度正式な言い方とかあるか調べておこう。  
「旅行……そうなんだ」  
 信じたのかそうでないのか掴みかねるニュアンスだが、少女はそれ以上追求しようとはしなかった。  
 
 数十分ほど尾行し続けただろうか。そろそろ飽きが俺と少女の歩みを阻害しようと企み始めた頃合である。  
 俺と少女の拠点である公園よりも大きい、垣根で囲まれた憩いの場的な公園だ。そこに小犬が入っていった。  
 俺たちもそれに続き公園内に足を踏み入れると、そこには、  
「よぅーしよし、いい子ですねぇ。やっぱり可愛いなぁ」  
 しゃがんで膝を左手で抱え、空いた右手で小犬の頭を撫で回している国際A級優しさライセンス所持者、朝比奈さんの可憐なお姿が目に留まった。  
 またしても意外な登場っぷりに臆する事なく、俺はなんとか平常心で、美少女と小犬のツーショットという絵にならずして何になるであろうといった、そのお一人と一匹のモデルに近づいていく。  
「……あの、何をやってるんですか、朝比奈さん」  
 その美少女モデルは顔を上げ、俺の存在を認識すると、  
「ふえっ。もももう来ちゃったんですか! いえ、これは、あの……」  
 凄まじいまでの慌てぶりで、手がなんだかよく解らないジェスチャーになっていらっしゃる。  
「ひ、ひひ人違いですっ!」  
 どう考えても信じ難い嘘を叫んで、走り去ってしまった。  
 いやいや、あなたが朝比奈さんじゃないってんなら、これほどの美少女が割と近くに二人も居ることになる。もしそうなら、俺は退学してでも第二朝比奈さん探索三千里行脚に出ることになんら躊躇いを持たないことだろう。  
「今の人、誰?」  
 少女は尋ねてくるが、もちろん真実など話すわけにもいかず、  
「いや、知り合いかと思ったんだが、どうやら人違いだったらしい」  
 俺は適当に答えておいた。  
 こうして置いてけぼりを食らったこの小さな犬っころは、さして悲しそうな様子も見せず、俺の足に擦り寄って尻尾を振っている。  
「あはは。これあげてみて」  
 そう言って少女は懐からちょっと高級そうなクッキーを取り出し、俺に渡してきた。  
「うまそうだな。どっちかというと俺が食べたいくらいだ」  
 いやマジで。これ一枚150円くらいするやつだろ。オシャレなカフェとかに置いてそうだ。  
「まだあるから後で一緒に食べようよ」  
 なら、と俺は犬っころの手前にホレと置いてやる。  
 すると、まるで一枚150円の価値など我存ぜずとばかりに、いや実際わかっちゃいないんだろうが、とにかく一緒に地面も食べそうな勢いであっという間に平らげた。  
「可愛いなあ」  
 少女は目を細めて、この犬っころに見とれている。  
 高級クッキーを瞬時に片付けた犬っころは、まだ物足りないのか二足で立って俺の足に寄り掛かってきた。手を出すと舐めてくる。  
 まあ、確かに可愛い。俺は特に犬好きというわけでもないのだが、この飴玉のようなつぶらな瞳でキャンキャン懐いてこられると、正直たまらないものがある。すまん、愚かな浮気者を許せシャミセン。  
「ねえ、この子に何か覚えさせてみたいな。『待て』とか『おすわり』とか」  
「それは構わんが、飼い慣らされていない野良犬には、ちと厳しいんじゃないか?」  
 少女はしゃがんで犬っころの頭を優しく撫でながら、  
「多分この子、前は誰かに飼われてたんだと思う」  
 どうして解るんだ?  
「色がこんなだし、ちょっと汚れてるから最初解らなかったけど、雑種じゃないような気がするの」  
 捨て犬か。  
「だと思う。可哀想に……」  
 確かに、人間に慣れている感じだしな。  
 しかし、ほとほと人間ってのは身勝手な生き物だ。全国の保健所では一日に平均約千匹の犬が殺処分されているというのをテレビのニュースか何かで見たことがある。  
 
「よし、何か仕込んでみるか」  
「うん」  
「じゃあ、ちょうど食いもんもあるし『待て』でも教え込んでやろう」  
 俺は少女から再びクッキーを受け取り、適当に四等分してからその一つを地面に置き、  
「よし、『待て』」  
 パク。  
 速攻食われた。  
「まあ、いきなり出来るわけないしな。もう一回だ」  
 再び、一欠片を地面に置き、  
「待て」  
 パク。  
 またもや速攻。  
「人間、根気が大事だ。『待て』」  
 パク。  
 刹那の出来事。  
「待て」  
 パク。  
 それこそ残像拳。  
「待て」  
 パク。  
「待」  
 パク。  
 すまんが、どうやらお前も処分決定のようだ。  
「駄目だよ! そんなこと言ったら」  
 少女は小犬を庇うように抱き、俺に抗議の声を上げる。  
「冗談だよ。嘘に決まってるだろう」  
 
 こうして俺と少女は当初の目的をすっかり忘れて、日が西に傾くまで犬っころと遊び呆けていた。  
 完全に俺たちに懐いてしまった小犬は、帰る時も後ろからちょこちょこと俺に付いて来てたのだが、流石に電車に乗せるわけにはいかず、可哀想だが市街地に出てからダッシュで撒いた。  
 ちなみに印鑑については、帰る直前に思い出し、なんとか見つかった。あの小犬が掘ったであろう小さく浅い穴に無造作に入れられていたのである。  
 とにかく楽しかったし目的も達成したしで何よりだ。初めて、あの少女も元気な姿を見せてくれたしな。印鑑も見つかったし、家でうまくやってくれるといいのだが。  
   
 
 
 その翌日。時間旅行内でもう四日目になる。  
 空恐ろしいことに、ふと気付けば二駅分の切符を買っている自分に寒気を感じる。毎日気付けば文芸部室に向かっているように、習慣というもの自体が習慣づいているのかもしれない。つまり俺にとってあの公園がこの時空での文芸部室ということらしい。  
 だが、あの少女は今日からちゃんと学校へ行くと指切りしてくれたし、公園には居ないはずだ。なら犬っころでも可愛がってやるとするか。もしかすればまた朝比奈さんに遭遇するかもしれんしな。  
 それはそうと、朝比奈さんの仕事は一体いつ終業なんだ。やっぱ未来でもサービス残業とかがちょっとした社会問題になってたりするんだろうか。デスクに向かい残業に勤しむ朝比奈さん。何だか想像の範疇を超えた光景だ。  
 未来のサラリーマンたちが給料を上げんと奮起する春闘の行く末を案じつつ、俺はお馴染みとなった公園に足を踏み入れる。  
 だがそこで俺が見たものは、いかんとも許すまじき光景だった。  
 
「お願い、やめてあげて!」  
 少女だ。学校の制服を身に纏っているので、通学途中だったんだろう。  
 だがそれは置いといてだ。彼女が悲痛な面持ちで願いを請う先に、彼女と同学年くらいだろうか、数人の男子生徒が何かを囲んでいる。嫌な予感がする。  
「うるせえ! こいつがあんなことするからだ!」  
 男子生徒のうちの一人が少女にそう言い捨て、輪の中心にある何かを蹴っている。少女はその男子の袖を引っ張るが、所詮は女の子の力。引っ張られている男子が強く振り払うと、彼女は簡単によろめき尻もちをついた。  
「きゃっ」  
 あのガキ、なんてことしやがる!  
 俺は即座に走り寄り、  
「おい、お前ら! 何やってんだ!」  
 少女に手を貸して起こしたあと、輪の中心にあるものが何かを確かめるべく、俺は自分の前を遮る男子生徒たちを横に薙ぎ払う。  
 そして、いよいよ輪の中心に存在するものが俺の目に入る。  
「くそっ、酷え!」  
 紛れもない、今や俺にすっかり懐いてなかなか離れようとしない、あの小犬だった。だがその姿は見るも痛々しく、フラフラと片足を引きずってバランスを気にしながらようやく立っている。見るとその片足からは血が流れている。  
 情報統合思念体に対しての時以来だろうか。俺は怒りをあらわにせずにはいられなかった。  
「お前ら……なんてことしてんだ!!」  
 思いっきり怒鳴りつける。周囲の目なんぞ今はもちろん無視だ。  
「……こ、こいつが、せっかくのこれを食っちまったから……」  
 男子生徒たちは俺の勢いに一歩ほど後退りし、それを俺に見せるべく目の前に出す。  
 これは昨日、少女が持っていたクッキーじゃないか。  
「キミがあげたのか?」  
 少女は強く首を横に振り、  
「ううん、わたしじゃない。でも、昨日わたしが持っていたものと同じ……」  
 どういうことだ。なぜこいつらがそれを持っている。  
 いや、まあいくら高級でも市販の物だろうから、偶然こいつらが持っていたということもありえるだろうが。  
「さっき、すげー可愛い姉ちゃんに貰ったんだよ。せっかくうまそうだったのに、いきなりあの犬が食いついてきたんだ」  
 おい、まさか。  
「その可愛い姉ちゃんってのはひょっとして、背が低くて、栗色の長い髪で、童顔の割に胸がめちゃくちゃ大きかったりする姉ちゃんか?」  
「うん、そんな感じだった。兄ちゃんの知り合いか?」  
 おい、何なんだよ一体。何をやってんだ朝比奈さんは。もとい、何をやらせてんだ朝比奈さん(大)は!  
 なんで俺の犬っころをこんな目に遭わせなきゃならねえんだ!  
 これが規定事項だってのか? どんな規定事項だ。  
 何の為かしらんが、そんな規定事項なんぞくそ食らえだ!  
 
「大丈夫? 大丈夫?」  
 少女は今にも泣きそうな表情で小犬を労わっている。  
「大丈夫だ、俺がなんとかする。キミは早く学校へ行け。お前らもだ」  
 俺は少女と男子生徒たちを学校へ向かうよう促し、小犬を抱える。  
 男子生徒たちはしょぼしょぼと公園を後にし、少女もそれに続いて足を進め始める。  
 少女は最後に俺の方を振り返り、  
「お願い、その子をなんとかしてあげて」  
 ああ、任せろ。こうやって誰かに背中を押された時の俺は、けっこう行動力あるんだぜ。  
 とにかく死にはしないだろうダメージでよかった。重傷なのは左後ろ足くらいだ。今はヘタってはいるが、きっと大丈夫だろう。  
 俺は、早くこいつをなんとかしてやりたい一心で駆け足を始めた。左後ろ足からの流血がまだ止まらないのが痛々しい。  
 動物病院しかないか。あそこなら走って行けそうだ。  
 俺は何度か傍を通り掛かったことのある動物病院を思い出し、目的地を定めて駆け足を続けた。服がこいつの血で汚れるが、そんなこと今は関係ない。  
 
 
 ああこの辺って東中の近くだなとか、どうでもいいことを一瞬頭によぎらせつつも十数分ほど走っただろうか。息を切らして、ようやく目的地の辺りに辿り着いた。  
 だが、一向に頭に描いている見覚えのある建造物が見当たらない。  
 どういうことだ。場所はここで間違いないはずだ。  
 ここで俺の理解が及ばなかったのも一瞬、重要にして当然の事に気付いた。  
 しまった、今は三年前だ。ここが開業したのは俺が中三の頃、つまり三年前ではまだ開業していない。  
 くそっ、どうする? 今から新たな動物病院の在り処を調べるのは、ちときつい。  
 そういえばよくよく考えると、病院とかって俺の身分を証明させられたりするんじゃないのか? 動物病院も恐らくその可能性が高そうだ。そうなるとマズイな。  
 なら仕方ねえ、残された選択肢はあれしかない。  
 長門に治してもらおう。  
 事あるごとに頼ってばっかりでほんとすまないが、お前ならどんな世界的名医よりも信頼できる。頼むぜ長門。  
 俺は急遽方向転換、長門の部屋を目指すことにした。  
 
 そして、また東中の近くだなとか二度も忌々しい感慨にふけっていると、俺とは反対車線側の道沿いのマンションのベランダだ。えーとあそこは四階だな。そこに見慣れた人影が植木鉢を持って立っているのが見えた。  
 またもや朝比奈さんである。なんなんだ一体。今度は何をしでかす気だ。  
 あの状態で植木鉢を抱えているってことは、まさか盆栽の手入れをしているわけではあるまい。  
 落とすつもりだ、下の道に。  
 おいおい、まさか誰かの頭にでも落とすつもりじゃなかろうな。まさか朝比奈さんがそんな大それたことをやらかすとは考えられん。  
 俺は植木鉢の目標になるであろう人物、あるいは物体をいち早く突き止めるべく、そのマンションの傍を通り掛かる全てのものに神経を尖らせる。  
 そして一人の少女にふと視線が奪われた。  
 東中らしき制服、長い黒髪、そして何より我が道顔で威風堂々と歩道をズカズカと進んでいく姿、間違いない。あんな奴日本中探したって、せいぜいこいつ以外にあと一人居るかどうかも怪しい。  
 中一ハルヒだ。  
 まさかハルヒの頭目掛けて落とすってのか? いやいや、いくらなんでもそれはマズイだろ。いくらハルヒでも肉体は一応人間だ。直撃したらたぶん死ぬぞ。流石の俺もハルヒが死んじまうってのはちょっと遺憾だ。  
 そうやって俺が曲りなりにもハルヒの生死を案じている間に、朝比奈さんの手から植木鉢ミサイルが放たれた。  
 一瞬焦ったが、俺はすぐさま安心を取り戻した。脳天直撃コースではない。これならハルヒの手前コースだ。  
 ガシャン。  
 予想通りハルヒの手前に不時着。  
「……な」  
 ハルヒは目を見開いてあっけに取られている。だが瞬時に気を取り直し、あの凄まじいまでの眼光で上を睨みつけ、  
「誰! 大人しく出てきなさい!」  
 周囲の視線など全く気にする様子もなく、ハルヒは大声で叫ぶ。  
「ひえっ」  
 朝比奈さんはとっさに身を隠すが、  
「見えたわよ! 今隠れた奴ね! ははーん、さてはあたしを狙う悪の組織か何かでしょ。間違いないわ!」  
 何だかどこかで聞いたことのある台詞だなおい。  
「今からそっち行くから逃げるんじゃないわよ! いいわね!」  
 そう言ってハルヒは何の迷いもなくマンション内へと入り込んでいく。  
 だがベランダにはすでに朝比奈さんの姿はなかった。  
 部屋に入ったのか、それとも未来的手段で逃げたのか。  
 俺は朝比奈さんを絞めるハルヒという物騒な場面を思い描いていると、俺に抱えられている小犬が、くぅーん、とすがるような鳴き声を出してきた。  
 おっと、俺は悠長に観衆化している場合ではなかった。こいつを長門のところまで連れて行かなけりゃならん。  
 すまん、余計な時間を食っちまったな。  
 俺は再び急ぎ足で、いざ長門宅へと激走を開始する。  
 
 重ねて言うが、こいつを電車に乗せるのは流石に無理がある。だがこの距離を走るにしては我が足腰は情けなくも弱すぎるため、俺は最終手段を取ることにした。  
 懐は傷むが仕方ない。俺はタクシーを拾って長門の部屋を目指した。  
 流血している犬を抱えているゆえに乗車拒否される可能性も考えたが、運良く運転手さんがいい人で、状況を説明すると急いで車を走らせてくれた。ただ行き先がマンションだったことに疑問を感じていたようだが。  
 とにかく、ようやく長門のマンションに到着した俺は、小犬をエントランスの手前にゆっくりと降ろし、「すぐ戻ってくるから待ってろ」と呟いて長門の部屋へとダッシュする。  
 ガチャ、と長門が扉を開けてくれるや否や俺は長門の手を取り、とんぼ返りで再びエントランスへ向かう。  
 長門は問いたげな視線でじっと俺を見つめながらも、俺に手を取られたまま小走りだ。  
「長門、急ですまないが、怪我を治してやって欲しい奴がいるんだ。いいか?」  
 エレベーターに入り、俺が簡単な事情を話すと長門は、  
「わかった」  
 そう言ってくれるお前がひたすら頼もしいぜ。  
 一階到着を告げる合図音が鳴り、扉が開くと同時に出た俺は、  
「あそこに……あれ?」  
 と指を差して長門に場所を告げたそこには、小犬の姿は見当たらなかった。  
「まさか、逃げたのか?」  
 なんてこった。この期に及んで無駄に元気っぷりを見せ付けてくれるぜ、まったく。  
 しかしあの足の怪我だ。まだそう遠くには行っていないはずだ。  
 俺は小犬を探そうとエントランスを出ようとする。が、長門の口からとんでもない真実が語られた。  
「あなたが連れて来た小さな有機生命体は、現在この時空での存在を感知できない」  
 俺は立ち止まり、長門の方へ振り返る。  
「……どういうことだ。ついさっきまでここに居たんだぞ」  
「そう。消えたのもつい先程」  
 消えたってもな、俺には状況がさっぱりだ。  
「あなたがここからわたしの部屋へ向かっている時、ここの座標も含めた半径六キロメートルにおいて、この時空とは別次元に新たな空間が構築された」  
 長門は一度眼鏡の位置を直し、続ける。  
「その発生源は、涼宮ハルヒ」  
 そういうことか。ならば答えはこれ以外にない。  
「閉鎖空間か」  
「そう呼ぶ者たちも居る」  
 となると原因は、あれしかねえ。  
 マンションのベランダを鋭い眼光で見上げるハルヒが俺の脳裏に浮かぶ。  
 ちくしょう、朝比奈さん(大)は何を考えてんだ一体! こんなに小犬を虐めて楽しいのか?  
 とにかくあの足の状態であの灰色空間はまずい。犬っころも灰色だが、保護色になったところで特に身を守る手段にはなりえない。それこそ青い巨人が犬っころの近くで暴れ始めた日には、それは大いに危惧すべき事態だ。  
 
「長門! お前の力で俺をあの空間に入れてもらえないか?」  
 あんな訳の解らん世界には二度と入るまいと誓っていたが、ここは仕方ねえ。  
「それはできない。しない、という意味ではなく、わたしの能力では不可能」  
 くそっ。俺はここでじっと待っていることしかできないってのかよ。  
「わたしが直接、空間内に侵入させることはできない。でも、他者を介入しての侵入は可能」  
「どんな手段でもいい。とにかく入れるんだな?」  
 俺がそう確認すると、長門は小さく頷き、  
「涼宮ハルヒ自身が能力を与えた、その空間内の為の能力者。その内の誰かに接触すること」  
 あれか。あの赤い玉になる奴らのことだな。  
「でもだな、どうやったらそいつが能力者だって解るんだよ。もしかしたらお前には解るのかもしれんが、お前も付いて来てくれるのか?」  
「わたしが、おおよその時間と場所を指定する。あなたはそこへ向かえばいい」  
「ちょっと待て。その場所に能力者だけが通るってんなら俺でも解るだろうが、一般人に紛れてるとかなら俺に探し出せるわけないだろうが」  
「あなたが思う人でいい。でも、よく観察して」  
 長門にしちゃ適当だなおい。本当にそんなんで大丈夫なのかよ。  
「大丈夫」  
 マジかよ長門。  
「マジ」  
 珍しい長門の俗語に驚嘆している俺を尻目に、長門はすっと俺に近寄り、  
 カプ。  
 噛まれた。  
「不可視遮音フィールドをあなたのみに展開した。今、あなたの存在は有機生命体には認識できない」  
 そうか。能力者も一般人にいきなり触れられて、そのまま灰色空間に入るなんてことはしないだろうからな。普通に頼んでも無理だろうし。  
 てことはだな。今俺は透明人間というわけか。  
「そういうことになる」  
 ……いや、何というかだな、別にやましいことを妄想したわけでは断じてないぞ。  
「フィールドは時間制限で解除されるように設定した。おそらく、あなたが空間内に侵入してしばらくした後」  
「解った。じゃあ時間と場所を教えてくれ」  
 長門はまたしても小さく頷き、淡々と俺に伝えた。  
 そして俺はすぐさま長門指定の地点へ向かい始める。  
 
 待ってろよワン公。  
 無事に戻ってこれた暁には、うちのシャミセンと一戦交わらせてやる。いや、逆に迷惑かもしれんが。  
 
 だから、とにかく無事でいてくれ。  
 
 
 
 長門が指定した場所までは、およそニキロメートルほどの距離だった。  
 何だか突っ走ってばかりの一日だったので、正直、俺の下半身中の筋肉が悲鳴を上げまくっている状態だ。  
 だが透明人間のままタクシーに手を上げたところで気付かれるはずはなく、気付いたら気付いたでそっちの方が反って問題である。  
 よって俺は自分の足で目的地へ赴くことを余儀なくされ、鎮痛な思いでようやく到着したというわけだ。  
 長門指定の時間までもうあまり余裕はない。  
 俺は長門の指示通り、どいつが赤玉なのか街行く人々の顔色をこれでもかと凝視しまくり、すれ違う人々に、お前か、お前なんだろ、とテレパシーを散弾させていた。これで俺の姿が見えていたとすれば、今頃しかるべき職務質問の真っ最中だったことだろう。  
 やがて、この街の人口の十分の一くらいはテレパシーを送ったかと思われた頃、一人の少年が俺の視線を釘付けにした。  
 俺はそいつを見て苦笑せずにはいられなかった。  
「そういうことか長門」  
 なるほど。確かにこりゃ、ぱっと見じゃ気付かなかったかもしれん。よく観察しろとはこういうことだったのか。  
 顔は今よりずいぶん幼いが、このハンサム顔といい幼くもキザったらしい雰囲気といい、間違いない。  
 中学一年の古泉一樹だ。  
 俺は自分の知る古泉より二十パーセントほど可愛げがプラスされた少年に遠慮なく近づいていく。もちろん少年は俺の存在には気付かない。もし気付いたところで、今のあいつは俺のことなど知らんだろうが。  
 長門いわく、確かこれを目印としたラインが空間の境目。俺はそのラインより三歩ほど少年側に進み、俺に近づいてくる少年を待つ。  
 三メートル、二メートル、一メートル、タッチ。  
 と、触れたその瞬間。  
 
 
 空と雲の織り成すグラデーションが消え、一面が灰色に塗り変わる。それと同時に人々の喧騒が消え、薄暗さと静寂が一気に辺りを支配する。  
 約一年ぶりの光景。閉鎖空間。  
 久し振りだ。だが、今はそんな感傷に浸っている場合ではない。  
 俺と小犬の五体満足での大脱出劇を成功の狼煙で終わらせるべく、疲れきった足腰に動けと念じる。  
 さて、まずは犬っころがどの辺りで俺を待ち呆けているのか。  
 簡単だ。消えたのが長門のマンションの辺りなら、ここに侵入した時もそこで間違いないだろう。  
 だとすれば、小犬までの距離は約二キロメートル。遠い。筋肉内の乳酸が作る距離の壁。  
 巨人は二体。ちょうど左側の方のでかぶつの辺りが俺の向かうべきところだろう。  
 だとすれば、これは一刻の猶予もならない。あの辺りが長門のマンションだとすれば、巨人との距離はいかほどのものでもない。  
 無宗教な日本人特有の都合のいい時だけの神頼み。そんなもんこれっぽっちも効果がないことが解っていながらも、俺は祈らずにはいられなかった。  
 だが俺は激走のまっさなかであり、手を合わせて祈るのもままならない。心の中で十字を切りつつ、がむしゃらに走り続ける。  
 そうしている間にも、巨人によって破壊の限りが尽くされていく。  
「くそっ。ちっとはおとなしくしやがれってんだ!」  
 しかしとにかく走りにくい。ラバーソールに伝わるモルタルなどの瓦礫の感触が、その足場の悪さを物語っている。馬場で言うと稍重くらいだろうか。  
 そろそろ巨人の手刀が生み出す衝撃を、波紋状に広がっていくのが体感できるくらいの距離にまで来た。  
 それに伴い、破壊されて飛び散る建築材料もちらほらと降り注ぐようになる。それが空の灰色と相まって無駄に黒光りするのが気味が悪く、俺の不安感をいたずらに煽る。  
 そろそろだ。爆心地は近い。  
 だが、もともと体力は病み上がりのレッサーパンダくらいの俺が、これほどの爆走を繰り広げたからにはその代償は大きい。  
 一瞬聴覚がハウリングを起こし、足が電気アンマの如く震えている。距離にすればあとほんの僅かだが、耐え切れずに瓦礫で荒れた地面に膝をつく。  
「はあ、はあ、ちょっとばかし厳しいぜ」  
 休憩を余儀なくされ、俺は不本意にも座り込む。  
 五、六分ほど経っただろうか。俺が息を整えている時だ。  
「うおっ」  
 大きな衝撃が俺の鼓膜を揺さぶった。  
 近い。  
 見れば長門のマンションから百五十メートルほどのところに巨人が迫っていた。相変わらず規格外にでかい。  
 ちっとは体力も回復したところで、俺は再び駆け出す。  
 
 そこからはすぐだった。  
 俺はマンションの敷地内への出入り口辺りに目をやる。  
   
 ――いた。  
 
 降り注ぐ凶器めいた建造物の破片にも逃げ出さず、俺の言いつけ通りに待ち続けていた。  
 なんて奴だ。  
 お前こそが忠犬ハチ公の生まれ変わりなんじゃないだろうか。きっと未来の渋谷にはお前の銅像が建っているに違いない。今度朝比奈さんに訊いてみよう。  
 俺が未来の渋谷駅前の妄想に思考を奪われていると、犬っころはこちらの存在に気付いたようで、左後ろ足を引きずって近づいてくる。  
「無理するな! 待ってろ!」  
 俺も駆け寄ろうとするが、すぐさま停止を余儀なくされる。  
 俺と小犬が作る距離のちょうど中間辺りに、カノン砲なんざメじゃなさそうな手刀が降り注ぐ。  
「のわっ」  
 マンションを囲うコンクリートの壁が砕かれ、水道管が破裂し、凄まじい水圧の即席噴水が作られる。  
 いよいよ本気でやばい。  
 続けざまに拳が振り下ろされる。小犬に近い。血の気が引き、大量の冷や汗が噴き出す。  
 ドゴッという感じの擬音と共に、再び小犬が見えなくなる。  
 ……おい、まさか。  
 最悪の事態が頭をよぎる。  
 俺は杞憂であることを祈りながら前に視線を固定する。すると拳が取り払われ、小犬との間の障害物が消える。俺はすぐさま安否を確認。  
 いた。無事だ。  
 どうやら杞憂だったようで、俺は胸を撫で下ろす。  
 だが、おそらく小犬の真下だったんだろう。そこに埋められてある水道管が破裂し、その水圧がまともに小犬を直撃した。  
 キャンッという痛々しい声と同時に小犬は横倒しにされる。  
 
 そこで俺は決定的なものを目にした。  
 
 こいつが纏っていたムラのある灰色。これはおそらく長期の野良生活で毛に染み付いた汚れだったんだろう。  
 雨程度では流されることなく、むしろ雨だと余計に汚れる場合もあるかもしれんが。  
 とにかく俺は見逃さなかった。  
 凄まじい水圧でそれが流された一部分。  
 そこに見えたこいつ本来の姿。  
 
 白馬にも勝らん純白に輝く毛並みが、俺に姿を見せた。  
 
 そして瞬時に。  
 
 
 俺は全てを理解した。  
 
 
 そうか。そういうことだったのか。  
 きっとこれが、俺に課せられたこの時間旅行での役割。  
 暴走車も、クッキーも、植木鉢ミサイルも、全ては俺がこの役目をやり遂げる為。  
 朝比奈さんにとっての鶴屋さんが居るように、きっとハルヒにとってあの少女は、いずれそういう存在になってくれるのかもしれない。  
 だから、仕方ねえ。  
 あいつにとって大事な、そのきっかけを作ってやる為に、俺は何があろうと必ずこいつをここから無事に連れ出してやるさ。  
 ハルヒ、俺の体を酷使させた借りは、いずれきっちり返してもらうぜ。  
 
 瓦礫の舞うグラウンドゼロで、犬っころは左後ろ足が体に吊り下げられた状態で必死にこちらへ進む。  
 そこでふと見上げた俺の視界に入ったのは、巨人が大きく拳を振りかぶる姿。その拳が向かう先は。  
 ――まずい。  
 犬っころを止めないと、これはおそらく直撃。それはゲームオーバーにほかならない。  
「おい動くな! 止まってろ!」  
 俺は叫ぶが、やはり効果はなく小犬は直進を続ける。  
 くそっ、どうすりゃいい。もう時間がない。  
 だがここでさじを投げるわけにはいかん。  
 こいつを無事にあの少女のもとへ送り届ける為。  
 そして、その少女がいずれあいつの大事な存在になる為に。  
 何しろ俺自身、この犬っころには情が移っちまったしな。  
 灰色の空に映える青い拳が照準を合わせる。位置エネルギーが運動エネルギーへと変わる瞬間。  
 俺は、声の限りを尽くして叫ぶ。  
 
 
「ルソー! 『待て』!」  
 
 
 止まった。ピタッと。  
 その刹那、ルソーの手前に拳が現れる。  
 セーフだ。そして青い拳のUターンと同時に、俺はルソーのもとへ駆け寄る。  
「えらいぞ。よく頑張った」  
 抱きかかえて頭を撫でてやる。  
 よくぞ止まってくれたもんだ。初めて呼ばれたであろう自分の名前を、こいつは瞬時に理解したのだろうか。たいしたもんだ。いっそハチ公って名前にするか?  
 だがその改名案を通すのは未来を変えるに同意義かもしれないので、それは自分の胸に仕舞っておくことを決め、早々にこの場から離れることにした。  
 もう一体の巨人をやっとこさ始末し終えたのか、やがて幾つかの赤い玉がこちらの方の巨人へと標的を変えた。古泉もこの中に紛れているんだろうか。  
 青い光に赤い光が重なり、それが紫に見えたりするヴィヴィッドな光景は、教会のステンドグラスを連想させる。  
 その幻想的な色合いを、俺とルソーはじっと眺めていた。  
 とうとう巨人は体の大部分を失い、それこそ本物のグラウンド・ゼロのあの高層ビルのように崩れ落ちていく。  
 灰色の空に亀裂が走り、古泉いわくのちょっとしたスペクタクルな光景、久々のそれに俺は目を奪われる。  
 
 
 
 日光を浴び、人々の気配を取り戻して、俺は無事戻ってこれたことを実感した。  
 ようやく肩の荷が降りた気がして、ふう、と溜息をつく。  
 長門のマンションへ帰ると、俺たちを待っていてくれたのか長門と朝比奈さんがエントランスの外で立っていた。  
「ふえっ。キョンくん……よかった、ほんとに無事でよかったぁ。えぐっ」  
 いきなり朝比奈さんに泣きつかれた。  
 あんまり俺にくっつくと汚れますよ。外面的な意味で。  
「キョンくん、ごめんなさい。ほんとにごめんなさい。あたしのしたことが、キョンくんをこんなに大変な目に遭わせて……」  
 いえいえ、きっと必要なことだったってのを今さっき知りましたから。それに、どんなに大層な厄介事だって、あなたの涙をもってすれば諭吉でお釣りが返ってくるという信じ難い事態になりますので、結局はプラスです。  
「長門、ありがとな。お前がいなけりゃ、またどうにもならないところだったよ」  
 俺と朝比奈さんのやり取りを微動だにせず見つめていた長門に、俺はお礼の言葉を述べる。  
「いい」  
 口以外の部分を全く動かすことなく、長門はそう返してきた。  
「長門、これが最後の頼みだ。こいつの足を治してやって欲しい。それと、ちょっと風呂を貸してくれないか?」  
 ずいぶんと汚れたしな。俺もこいつも。  
「朝比奈さん。あとでびっくりするものを見せてあげますよ」  
 俺は、小犬の足を痛々しそうに見ている朝比奈さんに前振りをしておくことを忘れない。  
「え? び、びっくりするものですか? なんだろう……」  
 朝比奈さんが首を傾げているうちにドクター長門の秒間オペが終了したようで、俺は小犬を連れて風呂でお互いの汚れをさっぱり落としてやった。  
 犬っころの汚れはなかなかしぶとく、石鹸でゴシゴシ洗ってようやく落ちた感じだ。最後にドライヤーで緩く乾かしてやると、みるみるうちにふわふわの毛並みが現れた。  
 それを朝比奈さんに見せて差し上げると、  
「ええっ! これって……もしかしてこの子って、そういうことだったんですかぁ……」  
 期待通りの反応に俺は満足しつつ、  
「ええ、びっくりしたでしょう?」  
 俺はどっちかというと、びっくりしたというより妙に納得しちまったって感じだったけどな。  
「そういうわけで、今から俺は最後の仕上げに行ってこようと思います。それまでもう少し待っててもらっていいですか?」  
「わかりました。キョンくん、頑張って!」  
 両拳を胸のあたりで、ぐっ、とやる朝比奈さんという、俺の脳内高性能パノラマカメラがシャッターを切らずにはいられない光景を見届けて、俺は長門の部屋を出る。  
 中学って授業終わるの何時くらいだっけかと記憶の引き出しを開け閉めしつつ、俺はあの公園へと向かった。  
 
 
 どうやら時間的に早かったようで、少しばかり待つ羽目になった。  
 まあ犬っころという遊び道具を引き連れて来たということもあり、まず退屈はせずに済みそうなのでさほど気にはしない。適当にこいつと戯れながら待つとしよう。  
 将来を見越して火の輪くぐりでも仕込んでおいて損はないだろうが、俺の肩書きに前科が付くのは今のところ御免被りたいので、至極健全なお遊びで時間を潰すことにした。  
 そうして俺が小犬と遊んでやっているのか逆に遊んでもらっているのか、小犬にしてみればどっちでも良さそうな状態がしばらく続き、  
「あ、よかった。居たんだ」  
 制服姿の少女がこちらへ走り寄ってきた。  
「授業お疲れさま。ちゃんと勉強してきたか?」  
「うーん、そこそこかな。それにしても良かった。この子の怪我、治してくれたんだね」  
 少女は俺に抱かれている小犬の頭を、よしよし、と撫でる。  
「ああ。それにずいぶん見てくれ変わっただろ、こいつ」  
「うん、綺麗になった。やっぱりわたしが言ったとおり、雑種っぽくないね」  
 実際、雑種ではないからな。えーと、なんつったっけ。ホワイト何とか……確かそういう感じの種類だったな。  
「なあ、ちょっと頼みがあるんだ。聞いてくれるか?」  
 少女は犬っころの頭を撫でながら、「なに?」と顔をこちらへ向ける。  
「俺さ、ちょっと当分遠くへ行かなくちゃならないんだ」  
 俺がそう言うと、少女は目を俯かせ、  
「え……そう。そうなんだ……。お引越し?」  
「まあ、そんなところだ。そこで、こいつのことなんだが、キミが飼ってやってくれないかと思ってな」  
 すると今度は少女は目を丸くして、  
「え? わたしが?」  
「ああ。俺が飼ってやろうかとも思ったんだが、引越し先がペット禁止でな。それに、あれだ、キミの両親もこいつに心和まされて、離婚なんてやめようと思うかもしれないだろ?」  
 それに、うちにはシャミセンがいるしな。妙な響きになるが、犬と猫は犬猿の仲だ。  
 少女は少し考えるような仕草を見せ、  
「……うん、わかった。わたしもこの子と一緒に暮らせるなんて嬉しいし。飼えるよう頼んでみるね!」  
 明るい笑顔で、少女はそう答えてくれた。  
「ありがとう。それと、実はもう名前も考えてある」  
「名前かぁ。いいなあ。ね、どんなの?」  
 目を輝かせながら、俺の顔を覗き込んで訊いてくる。  
「ルソー、ってのはどうだ? 賢そうだろう?」  
 俺がその名前を口にすると、少女はその名前を何度か小さく呟き、  
「ルソー。ルソー、か。うん、いい。すごくいい名前!」  
 気に入ってくれたようで、よもやハチ公にならずに済んだことに俺は安堵の息を漏らす。  
 こうして、俺に課せられたこの時間旅行での最後の役割も無事終了し、少女はルソーを連れて帰宅することになった。  
 少女は俺に手を振りながら公園を後にし、俺もそれに答えて手を振ってやった。全てが終わったことを実感する。  
 がんばれよ。キミもルソーも。幸福な家庭を取り戻す鍵は、きっとキミたちにある。  
 キミたちが頑張れば、両親が離婚なんて絶対にない。  
 それは何年後かの俺が保障してやる。  
 嘘じゃない。  
 なぜかって、そんなの言うまでもないだろ?  
 なんせ俺はすでに知ってるからな。  
   
 
 少なくとも十六を過ぎるまでは、キミの苗字は変わらず「阪中」だってことをさ。  
 
 
 
 
 四日間のうち丸三日を動物愛護に費やしたという、どこぞのボランティア団体のような出張を終え、俺と朝比奈さんはもとの時間軸へと帰還した。  
 俺はなんだか妙にシャミセンが恋しくなり、その日は帰宅してからずっとシャミセンを玩具にしていた。当の本人はちょっと迷惑そうだったが。  
 うむ、たまには生魚でも食わせてやるか。  
 
 
 そして翌日。  
 授業の合間に挟まれている短い休憩時間だ。  
 俺は自分の席を立ち、お馴染みの面子が揃う方へ向かうと、  
「俺よお、今度の連休、東京に遊びに行くことになったんだぜ」  
 田舎もん丸出しのアホ面が、ひとはた上げてくるべと言わんばかりにぼやきだした。  
「へえー、東京かあ。でもさ、東京って普通に遊ぶには良さそうだけど、観光って感じじゃないよね。まあ、僕はまだ行ったことないんだけどさ」  
「俺も行ったことはないが、国木田に同意だな。イメージ的にはそんな感じがする」  
 俺と国木田の軽いジャブを受けて、谷口はより声を上げ、  
「ばっかお前ら、東京だぜ東京! そんなもん渋谷でナンパに決まってんじゃねえか! きっと大漁だぜ大漁」  
 こいつにしてみれば東京が何らかの攻撃を受けたとしても、日本の機能の停止とかじゃなく、そっちの方を心配するんだろうな。  
「谷口、渋谷に行ったら、あの駅前の銅像が違う犬になってないか確かめてきてくれ」  
「……は? 何言ってんだお前」  
「どうしたの、キョン?」  
 いや、そんな二人して今にもカウンセリングを勧めてきそうな目で見なくてもだな。  
「……いや、なんでもない。単なる思い違いだ」  
 あの小さな犬っころが拡大されて石の塊になっている絵が脳裏に浮かんだ。  
 そこで俺は、無意識に窓際後方の席へと視線を移していた。  
 俺の目に入ったのは、  
 
「…………のね」  
「そう、よかったじゃない。じゃあ今週末、みんなでJ・Jに会いに行くわ」  
「うん、待ってるから。きっとルソーも喜ぶと思うのね」  
 
 傍目から見れば、なんてことのないクラスメイトの日常会話。  
 だがそれを織り成すのは、  
「キョン! 今度の土曜日、SOS団課外活動があるから絶対に空けとくこと、いいわね! J・Jの様子を窺いに阪中宅へゴーよ!」  
 
 孤独な中学時代を過ごした一人の少女。  
 それと、いずれその親友になるであろう一人の少女。  
 
「やれやれ。もともと俺の予定なんざ関係ないんだろうが、どうせ」  
 そしてそれを紡ぐのは。  
 
 
 二人の人間を支えるにはあまりにもか弱い、一つの小さな命なのさ。  
 
 
 
 
 
 
 
 
                                 ――――ワンハングドグラウンドゼロ  
 

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