いいか?人間の人生にはたまたま運命の歯車が噛み合って異常なまでに幸運が舞い込む時期ってもんがあるんだ。  
神の采配か、はたまた宇宙の意思か?とにかくそういったもんに全力で背中を後押しされてる時期ってもんがあるんだよ。  
いいか?大事なのは、今自分にその時期がやってきていることを自覚できるかどうかだ。  
調子がいいと思ったらそのチャンスを逃すんじゃねぇ。  
それが自分の本来の実力の賜物なんだと自惚れて、その時期を安穏と過ごしたんじゃ、後になって悔やんでも遅いんだぜ。  
もう一度だけ言ってやる。  
誰にでも世界に祝福されたみたいな絶好調な期間があるんだよ。  
異性にモテまくる『モテ期』ってやつがな!  
 
 
あー、上の妄言をくれぐれも信じないように。  
なにせ、このどうしようもなくアホな自説を俺の隣で得意げに語っているのは谷口なんだ。  
もはや自身の存在で自説の誤りを証明しているようなもんだ。  
「なに言ってやがる!俺はお前のために言ってやってんだぞ!」  
どうも谷口は自分の話に傾聴しない俺に不満らしいが、そんなもん、わざわざ春休みにくだらん妄想語りを聞かされる俺のほうがおおいに不満ありだ。  
恐らく『春休みを無為に過ごす高校生ランキング』でトップ10入り出来る自信があるね。  
「いいか、キョン。悪いことは言わねぇ。モテ期の今のうちに涼宮をゲットしちまえ。お前が女と付き合うラストチャンスかもしれねぇんだぞ」  
まだ、そのアホな話題を続けるつもりか。しつこいヤツだ。  
いいか、谷口。いくら自分が女と縁がないことに悲嘆にくれてるからって、そんな宇宙規模の摂理を持ち出して自己弁護せんでもいいだろ。  
世の中にはモテるいい男とそうでない男の2種類がいて、お前はモテない側の人間ってだけなんだ。  
辛い現実かもしれんが、どうか受け入れてくれ。  
「馬鹿野郎!俺の話は実体験に基づいてんだぞ!俺にもあったんだよ、『モテ期』が!」  
例の光陽園に通ってる彼女のことか?クリスマス前に付き合いだして、バレンタイン前に振られたっていう例の。  
「それじゃねぇよ。もっと前のことなんだけどよ、それこそその頃は引く手あまた、とっかえひっかえに彼女が出来てた時があったんだよ」  
例えキリスト日本死亡説を信じたとしても、そんな超常現象は信じられねぇよ。  
せめてそれを言ってんのが国木田だったならもう少し説得力もあるんだがな……  
「ちょっとあんたたち!往来で馬鹿なこと喋ってんじゃないわよ!恥ずかしいったらないじゃない!」  
谷口、どうやらお前のトンデモ学説は厚顔無恥なハルヒでさえ恥ずかしいもんらしいぞ。  
 
 
さて、今俺達は相当変わった取り合わせで春休み中の街中をいつもの喫茶店に向けて歩いていた。  
俺と谷口はいいとして、そこにSOS団団長のハルヒと、それが地球における正式服飾とでも思っているのか相変わらず北高制服を着ている長門。  
加えて俺の妹という奇天烈異業種混在パーティーだ。  
この場にいない朝比奈さんは進学説明会だそうだ。まさかあの人がこの時代で進学するとも思えんのだが……  
古泉は『機関』の集まりがあるんだと。本人によれば「今年一年の決算報告のようなもの」らしい。なんだそりゃ?今年度の営業成績ナンバーワンでも決定すんのか?  
本来なら今日はSOS団全員参加の市内探索ツアーの予定だったらしい。ハルヒの頭の中では。  
無論ハルヒにとっての予定というものは自分が思いついた瞬間に絶対的決定事項となるものなので、いちいち他のメンバーの了解をとってなどいない。  
『予定』という言葉は読んで字のごとく『あらかじめさだめる事』なんだが、そう考えるとハルヒの辞書には『予定』という単語は記載されていないということになる。  
多分『不可能』と『敗北』と『我慢』の項目もないだろうから、こいつの脳内辞書はとんだ欠陥品だ。  
クレームをつける出版社が存在しないことが残念でならないね。  
とにかくハルヒの突発的思い付きに都合を合わせることができない人員がいたことで、SOS団は一時メンバー変更を余儀なくされちまったってわけだ。  
で、なんだって小学生一名とアホ同級生一名がその不幸な抽選に当選しちまったかって言うとだな……  
 
 
今朝方のことだ。その時の俺はまだハルヒからの呼び出しの電話も受けておらず、その日一日を惰眠をむさぼることに費やそうと思っていた。  
神は世界を作るのに6日かけて、1日は休暇に充てたそうだからな。これこそ神話も認める休日の正しい過ごし方ってもんだ。  
だが、それはあくまで神のスケジュールであって、俺には適用されないらしい。  
同じく春休み中の妹が部屋にやって来て、「おはよう」と言うよりも前にこんなことを言いやがったんだ。  
「キョンくーん、シャミがいないよー」  
我が家でぬいぐるみの代行業を請け負っている三毛猫、シャミセンの不在をうったえてきた。  
シャミセンよ、なにもお前までもが俺の安らかな休日を奪うことはないだろ。  
お前とは肩を並べておおいに語り合った仲じゃねぇか。男同士の友情が芽生えていたっておかしくない。  
猫が3日で恩を忘れるってのは確か迷信だったはずなんだが、俺の記憶違いか?  
「ねぇねぇ、キョンくん。一緒にシャミを探してよぉ」  
なぁ、いくらシャミセンが曲がりなりにも家族だからって、あんまり束縛するのはよくねぇぞ。  
あいつだってたまには気ままな猫ライフを過ごしたい時ってもんがあるのかもしれん。  
ここはあいつの帰巣本能を信じて、ほおっておいてやろうじゃないか。  
「キョンくーん、おねがぁい。シャミ、探そうよぉ」  
こいつ、ちっとも聞いちゃいない……  
あと数日で小学校最高学年になろうというのに、こんなことでいいんだろうか?  
俺は兄としてもっと毅然とした態度で臨み、こいつの精神的成長をうながすべきなんじゃないか。  
「なぁ」  
「あれ、キョンくん。電話がプルプルいってるよ」  
聞けよ、人の話を……  
えっと、なんだ?机の上で充電中の俺の携帯が面白味のないノーマルな着信音を鳴らしているのはたしかだった。  
「出てあげるぅ」  
「こら、人の電話に勝手に触るもんじゃない」  
俺は妹の襟を掴んで動きを抑え、携帯の液晶画面を覗いた。  
発信者は……ハルヒだ。  
「もしもし、どうした?」  
『キョン。今日10時に駅前集合ね』  
相変わらず、時節の挨拶やら前ふりといったあれやこれやをすっ飛ばした、自分が伝えたいことだけを伝えるハルヒの声が俺の耳に入ってきた。  
「ハルにゃん、キョンくんは今日はシャミを探さないといけないの」  
「こら、なにを勝手なことを言ってんだ」  
人の電話に割り込むなんて行儀の悪いマネをするんじゃありません。  
まったく、唯我独尊なハルヒの性質がうつってきてるんじゃないだろうな。こいつの情操教育上、もう少しハルヒと距離をおかせる必要があるのかもしれん。  
『なに?シャミセンいなくなっちゃったの?まさかあんたがいじめたんじゃないでしょうね』  
「失礼なことを言うな。俺は動物にも人にも地球にも優しい優良エコロジストだ」  
むしろ小動物をいじめるのはお前の専売特許だろ、鳩とかメイドとか。  
『まあ、いいわ。安心して、妹ちゃん。あたしも探してあげる』  
「ほんとー。ハルにゃん、ありがとー」  
 
 
こうして妹はシャミセンを探すという名目で俺達と行動を共にしているわけだ。  
え?谷口?  
谷口はそこら辺をぶらついていたのを発見したハルヒが  
「どうせヒマでしょ。手伝いなさい」  
と、無理矢理引っ張ってきた。  
役に立たんと思うんだがなぁ……  
 
 
いつものメンバーでもないのに、律儀にもいつもの喫茶店でいつものようにくじ引きでグループ分けをする俺達。  
もうすっかり顔馴染みになっちまったウェイトレスが俺達のことをほほえましげな表情で見ているのがやたら恥ずかしい。  
で、結果は、印つきの爪楊枝を引いたのが俺の妹。  
印のないのは俺と長門、それに谷口だった。  
ハルヒは自分の手の中に残った爪楊枝を親の仇みたいに睨んでいる。そんなに視線を送ってもスプーンのように曲がったりしないぜ。  
そういえば何故自称超能力者は金属製のスプーンしか曲げないんだろうな。木製スプーンが嫉妬するぞ。  
「フン!まあ、いいわ。あたしたちはキョンの家の周りを調べるから、あんたたちはそれ以外ね。さぼるんじゃないわよ」  
長門が一緒なんだから、さぼる暇もなく一発解決なんだろうが、あえてこいつにそんなことを言うまでもないだろう。テキトーに相槌をうっておく。  
「それ以外ってなんだよ!?町中全部探せって言ってるようなもんじゃねぇか!」  
谷口がごちゃごちゃ言ってるがハルヒは聞く耳なんぞを持っちゃいない。きっと母親の子宮にでも置いてきたんだろう。  
こいつは俺よりもハルヒとの付き合いが長いくせに、今だにハルヒ相手に文句をたれても通ることはないってことを理解していないらしいな。  
俺はといえばわざわざ疲れることをしたいとも思わんので完全無視だし、長門は谷口なんぞに興味はなさげだ。  
野球のときに一回会っただけの妹にいたっては「このひとだれー?」ってカンジの顔をしているからな、谷口を援護しようなどというおひとよしはいない。  
谷口、そんな無駄なことをしてないで、カプチーノの泡を口元いっぱいにつけた長門でも眺めて心を癒してろよ。  
 
 
やたらはしゃぎまわる妹を伴ってやたら肩をいからせながら、ハルヒは俺の家の方向へと歩き去っていった。  
「ハルにゃん、待ってー」  
「行くわよ、妹ちゃん!シャミセンだけといわず近所じゅうの猫をかたっぱしから捕まえてやりましょう!」  
「おー」  
あの様子じゃあもしハルヒの傍にシャミセンがいたとしても、大地震の予兆のようなそのオーラだけで退散させてしまいそうだ。  
こりゃ、あいつがシャミセンを探し当てるのは無理だな。  
「なんだって俺が猫探しなんぞにかりだされにゃならねぇんだ。これだから涼宮と同じクラスにいるとロクなことにならねぇ」  
仮にお前が別のクラスだったとしても、それでお前の人生に幸運のプラス修正が入るとも思えんがな。  
まだぶつぶつと事態を好転させるわけもない不毛な愚痴をこぼしている谷口を横目に、俺は小声で長門に相談した。  
「なあ、シャミセンの居場所はわかるか?」  
「わかる」  
期待通りの答えだ。長門にかかれば失せ物探しなんぞは読書の片手間でできるイージーミッションだ。  
そうだ。高校卒業したら2人で探偵事務所でも開設するか?お前が所長で、俺が助手で。  
「………考えておく」  
そう言いながら長門はスタスタと、ハルヒたちとは反対方向に向けて歩きだしちまった。  
「おい谷口、こっちだ。長門に心当たりがあるんだと」  
「心当たりだぁ!?そんなもんがあるなら最初からお前等だけでやってろよ」  
うるさいやつだな。そんなだから女にモテずに、妙な『モテ期論』なんて考案しちまうような馬鹿になっちまうんだぞ。  
「俺の考えを馬鹿にすんじゃねぇ!お前は絶対に後悔するハメになるからな!あとになって泣きついてきても知らねぇぞ!」  
俺の人生が今後どう転ぼうがお前に泣きつくなんてことはねぇよ。そのときになってももう少しマシな人材を選択するさ。  
おっと、谷口にかまって長門を待たせるわけにはいかないからな、俺は早朝の商店街のように心のシャッターをおろして谷口の言葉に門前払いを喰らわせつつ長門の後に続いた。  
 
 
20分ほど歩いただろうか、俺達3人はまるで北高前を思わせる長い坂道の中腹あたりにその身を置いていた。  
長門によれば、この坂の頂上に位置する洋館が目的地らしい。  
あの怠け者のシャミセンがよくもまあこんな自宅から遠く離れたところまでやって来たもんだ。運動不足を痛感してウォーキングでも始めたのか?  
なかなかに急勾配なこの坂道を上るのは確かにかなりのダイエット効果が期待できそうだが、頼むから迎えに来る人間のことも慮ってくれよ。  
セイタカアワダチソウが脇に生い茂る坂道をひいこら言いながら上る俺と谷口。隣の長門は平然としてるんだから、男としてなさけないことこの上なしだ。  
「なんだって俺は休みの日まで坂を上ってんだ。お前んとこの猫は俺に恨みでもあんのか?」  
いくら寝るのが日課のシャミセンといえども、お前なんぞに恨みの念を送っているような暇の持ち合わせはないだろうよ。  
さて、いくら急な坂道とはいっても終わりというものはしっかりと存在しており、俺達は何分もかかるということもなく古びた洋館の門前に到着した。  
その洋館、部屋数はよくわからんが少なくとも俺の家よりはデカイ。そこそこ広い庭もあるみたいだしな。立派なもんだ。  
ただ煉瓦造りの壁面にびっしりと蔦を絡ませていて年代モノであることを嫌でも思い知らせているのがマイナスポイントかな。  
この場合、歴史を感じさせる風靡な趣きがある、とでも表現してやるのが優しさというものかもしれんが。  
門は開けっ放しなんだが、さて、入っていっていいもんなのかね?  
「長門、ここって空き家じゃあないんだろ?」  
2階のあたりを意味もなく見据えながら俺は隣にいるはずの長門に確認をとる。  
「………」  
返事はないが否定もしない。つまりは長門的肯定ってことだ。  
「シャミセンはここにいるんだな?」  
「………」  
またもや無言。まあいいさ。この無口ぶりを不快に感じるようなヤツは長門とつきあってはいられない。  
家人に事情を話して、探させてもらえれば御の字なんだがな……  
ピンポーンと澄んだチャイムが周囲に響く。  
それを耳にし、視線を発生源であろう玄関に落とすと、そこには躊躇い無くインターフォンを押す長門の姿があった。  
へ?  
「長門?なんでそこにいるんだ!?」  
いつのまに俺の隣から移動したんだ!?一瞬前まで気配があったってのに!?  
別にいまさら長門が瞬間移動したからって驚きゃしないが、問題なのは谷口がここにいるってことだ。  
人目のある状況で宇宙人的能力を発揮するようなヘマを長門が犯しちまうなんて信じられん。  
あわてて長門がいたはずの空間に目を向ける俺だったが  
「………」  
そこには俺が今まで話しかけていた長門が確かに黙って立っていた。  
なんだ?なにが起こってる?長門が気まぐれに分身の術でも披露してるのか?  
「………」  
俺の横にいる長門はいつも通りの三点リーダ発生装置ぶりを発揮していた。  
 
小柄で、無口で  
 
腰まである長髪を揺らす、私服姿の長門が……  
 
「って!長門じゃねぇっ!?」  
「………」  
なんてこった。俺が話しかけていた長門は実は長門じゃなかった。  
どうやら俺はたまたま近くにいただけの赤の他人を長門と勘違いしたあげく、シャミセンがどうのこうのと喋っていたらしい。俺は馬鹿か?  
「なに馬鹿やってんだ、キョン」  
だが馬鹿にそう指摘されるのはムカつくもんだ。この屈辱はしっかりと心の日記帳に書き留めておいて、やがて訪れる反撃の機会の際にはその原動力とさせてもらおう。  
 
谷口のほうは一旦置いておいて、長門っぽい少女のほうだ。  
よく観察するとわかるが、その子は雰囲気こそ長門に酷似しているが、容姿においてはかなりの相違点があった。  
まず身長。長門も結構身長は低いほうなんだが、その子は長門の肩のあたりまでしか背がない。  
中一ぐらいなんだろうか?  
それと髪に独特の特徴がある。ロングヘアなのは言った通りなんだが、さらに前髪の一房だけがピンクに染まっている。  
校則違反じゃないのか?その辺が緩やかな気質の学校なんだろうか?  
「………」  
ただ、そういった外見の違いを含めたとしても、どこか人間離れしたその雰囲気は長門を彷彿とさせるものがある。  
「アー、悪い。そこの知り合いとあんたを勘違いしてたんだ。意味不明なことを話しかけちまってすまない」  
「………」  
その少女は俺の謝罪を受けたからなのか、それとも最初から興味がないのか、特に機嫌を悪くしたという感じでもなく、無表情を貫いていた。  
さて、一方の『そこの知り合い』こと長門はといえば  
『……や………でして…』  
「………」  
インターフォン越しに聞こえる声とずっと押し問答をしていた。  
いや、長門はずっと無言だから、実際には相手が延々と喋ってるだけなんだが……  
ともかくあのままにはしておけんだろう。俺は長門に代わってその声に応対するために門をくぐり、長門の隣へとやって来た。  
『とにかくお名前だけでもお訊かせ願えませんかね?………おや、こちらの可愛らしいお嬢さんのお連れさんですか?』  
そのインターフォンから聴こえる音声は、まるで胸に『俺』と描かれたサイコロ頭が発するような甲高いものだった。  
口ぶりからするとこちらの様子は見えているらしいから、見掛けによらずこの家にはいっぱしのセキュリティ設備が備わってるんだろう。  
この声は中の人間がボイスチェンジャーでも使ってんのか?  
変わった趣味だと思ったが、立場上余計な詮索はよしておいたほうがいいな。  
俺は手短に用件を説明することにした。  
「あのー、すみません。ここにうちの猫が入りこんでしまったみたいで、ちょっと探させてもらいたいんですけど」  
『それはお気の毒に。一応その猫の特徴などを伺ってもよろしいでしょうか?』  
相手は変調マイクを使って対応するなどという失礼なマネをするわりには、話のわかる親切な性質をしているらしい。  
猫を探しに来た高校生コンビ、なんつう怪しげな人間の言うことにまともにとりあってくれるんだからな。  
俺ならそんな宗教の勧誘以上に危なそうな来訪客は完全無視を決めこんでるところだ。  
「雄の三毛猫です。飼い猫なんだけど首輪はしてなくて………あと、ズボラなヤツなんで動きが鈍いし、ほとんど鳴きません」  
普段はそんなことを思いもしないが、こんなときだけはシャミセンに首輪を付けていないことが悔やまれる。  
シャミセンがうちの猫だと証明するのが面倒かつ困難でしょうがない。  
しかもシャミセンは雄の三毛猫だ。売りに出せばそこそこのお値段になるだろう。  
下手をすると飼い主でもなんでもないやつが金目当てに捕獲に来たと思われるかもしれん。  
だが、そんな俺の危惧は取り越し苦労に終わった。  
『確かにその特徴に該当する見慣れない猫が1匹おりますな。琴梨さんが張り合いがなくてつまらないと申しております』  
コトリさんとやらはよくわからんが、とにかくシャミセンはいるらしい。  
「多分そいつです。良ければここに連れて来てもらえませんか」  
『はぁ、お返しするのにはやぶさかではないんですが、少々お待ちいただけますか?』  
そう言って音声は途切れた。なかなかにスムーズに事が進んでくれるもんだ。ハルヒが絡まないと物事が簡単に片付いてくれてありがたいな。  
ハルヒといえば、アイツにシャミセンが見つかったことを報告しておかんと……  
俺は携帯の電話帳からハルヒの番号を呼び出し、コールボタンを押す。  
すぐにつながるがハルヒのヤツはなかなか呼び出しに応じず、コール音が何度か鳴ったあとに留守電メッセージに切り替わっちまった。  
気付かなかったのか、それとも手が離せない状態なのか……  
まあ、後で向こうからかけなおしてくるだろう。  
 
『あー、ちょっといいですか?』  
俺がそんなことをしているとだ、再びインターフォンから甲高い声が聞こえてきた。  
『当家のうるわしのお嬢様がたが、この猫の名前を知りたいとおっしゃっておられるんですが、お教え願えますか?』  
その声は、うるわしのお嬢様がた、などという恥ずかしい物言いをした。  
まさかこの家は俺の想像以上に金持ちのものなんじゃなかろうか?しがない小市民であるところの俺はそんな疑念が湧いた途端、意味もなく緊張してしまう。  
「シャミセンです。シャミセン」  
『はい、ありがとうございました。ではもうしばらくお待ちください』  
素直に答える俺、そして再び途切れる音声。またもや待たされることになる俺と無言の長門。  
後ろの方じゃ、谷口が例の長門っぽい女の子に話しかけているのを感じる。不安だ。  
門から動く気配がないところを見ると、あの子はこの家の者なんじゃないだろうか?谷口がその軽薄な低脳ぶりを晒しちまうことで中の人間に不信感を抱かせる結果にならんといいんだが……  
いや、いくら谷口とはいえあんな小さな子をナンパしたりはせんだろう。頼むからそう信じさせてくれ……  
俺の内なる声が届いたのか、谷口はことさらにその子に執着する様子を見せるでもなく、俺のところに歩いて来た。  
ただ隣にその無口な女の子もくっついてきたんだが……  
「おい、キョン。まだなのか?」  
「ああ、ちょっと待っててくれってさ。シャミセンを連れてきてくれるらしい」  
それを聞いた谷口は面倒くさそうな面をさらにわざとらしく強調して見せると、肩をすくめながら言葉を続けた。  
「じゃあ俺、もう行っていいだろ?これ以上涼宮のくだらない遊びに付き合ってらんねぇよ」  
お前はシャミセン探しをくだらないと言うがな、きっとハルヒの頭の中の重要度ランキングではシャミセンはお前の遥か上に位置してると思うぞ。  
下手すると俺よりも上かもしれん。徳川綱吉の生まれ変わりか、アイツは?  
などと、俺達がうだうだとやっていると、玄関のほうがなにやらガヤガヤと騒がしくなってきた。  
どうやらいよいよ家の人間がおでましになるらしい。  
どんな人間がやってくるのやら……  
やっぱりボイスチェンジャーを使って俺の対応をしていた人が出てくんのかね。  
声からじゃどんな人間なのか窺い知れんが、口調からすると新川さんみたいなロマンスグレーの執事ってとこか?  
いや、性別すらよくわからん声だったし、やたら殺人現場やら浮気現場やらを目撃しちまう婆さんみたいな家政婦かもしれん。  
 
 
はたして玄関のドアを開けて中から出てきた人間は、俺の予想を大きく裏切るものだった。  
 
 
洋館からはぞろぞろと5人もの人間が出てきたんだ。  
以下はその内訳。  
 
 
まずは先頭。右手でシャミセンの首根っこを掴んでいる、俺達と同じぐらいの年頃だろうと思われる少女。  
「やあやあっ、君がシャミセンくんのご主人さまかい?この猫くん、もっと鍛えなきゃあ、大人しすぎてつまんないさっ!でも肝はすわってるねっ。可愛がられてる証拠だっ!」  
その元気な子を見た途端、俺は奇妙な気分にかられちまった。  
まるでそこに鶴屋さんがいるような気がしちまったんだ。  
もちろん顔はまったくの別人だし、鶴屋さんのチャームポイントとも言うべき艶やかな長髪はそこにはなく、色素の薄い栗毛をショートカットにしているような子だ。  
容姿に共通点は一切ない。  
だが彼女は鶴屋さんを鶴屋さんたらしめている特徴を2つも持ち合わせていた。  
すなわち、見ている人間を無条件に楽しい気分にさせる屈託の無い笑顔と、独特のイントネーションをもった言葉遣いだ。  
その2点が、まったく似ていないはずの彼女に、鶴屋さん的空気を醸し出させているんだ。  
もし彼女がこの家に下宿している鶴屋さんの双子の妹だと言われたら、信じるね、俺は。  
 
 
「可愛がってなどいるものですかっ!」  
そう非難の声をあげたのはその鶴屋さんっぽい子の背後に陣取る、これまた同い年ぐらいの女の子だった。  
鶴屋さんに匹敵するほど見事な黒髪は、生まれてから一度も鋏をいれたことがないんじゃないだろうかと思うほどの長さを誇っている。  
なにせ後頭部で縛っているにもかかわらず、端が床に届きそうなほどの長髪だ。  
後頭部で髪を縛っている。  
そう、彼女はポニーテールだった。  
ポニーテール萌えたる俺があえて言わせてもらおう。  
最高ランクだ。  
いや、もう本当に最高だね。この子には他の髪型なんぞ似合わないだろうし、この子以上にポニーテールが似合う子もいないだろう。  
ポニーテールの申し子と言っても決して言いすぎじゃあない。  
だからこそ、そんな彼女に非難めいた目を向けられるのは心底悲しいね。  
「よりにもよって猫にシャミセンなどという名前を付けるだなんて!一体なにを考えているのですか!」  
まったくもってその通りだね。その言葉、ぜひ名付け親であるハルヒに言ってもらいたい。  
 
 
「あれ、凌央?この人たち、凌央の知り合い……じゃあないか」  
谷口の隣の無口少女に『リョウ』と呼びかけたのは、ポニーテールの子の隣に立つ青年だ。  
年は……よくわからんな。同年代のような気もするし、もっと年上のような感じでもある。  
気のよさそうな平凡な顔をしている。  
国木田からもうちょっと毒気を抜いたらこんな感じになるんじゃないだろうか、という雰囲気の男だ。  
 
 
「小渕総理、また遊びにきてね」  
シャミセンのことを3代ほど前の首相の名前で呼びながら別れを惜しんでいるのは、青年のさらに後ろにいる中学生くらいの女の子だった。  
セミロングの髪にワンポイントとしてオレンジ色のマスコットらしきものを付けている。もしかしたら、みかんなのだろうか?  
デッサンが狂っているので確証は持てないがおそらく羊を模しているのであろうバスケットボール大のぬいぐるみを両腕に抱え、柔らかな笑顔を絶やさない少女。  
今までの人生においてただの一度も人間の悪意に触れたことがないような裏表のない笑い方をする彼女を見ていると、自然と微笑ましい気分になってくるから不思議だ。  
いっそシャミセンを本当に小渕総理と改名してもいい気にさせられてしまう。  
 
 
「ほら、ののちゃんも小渕総理にお別れしよ?」  
「は……あうう……あ」  
さらにその後ろ、この中では群を抜いて小さい女の子はなぜか蚊の鳴くような声でうめいていた。  
テコやジャッキを使っても引き剥がせなさそうな必死さで額に星型の模様のある子犬を抱きしめている。  
年のころはうちの妹と同じぐらいだろうか?  
基本的には可愛らしい顔立ちをしているんだが、いかんせん今にも泣き出しそうな瞳を頻繁にあっちこっちに向けるもんだから、愛でるよりも先にその挙動不審な様子にひいてしまう。  
で、なんでその子が泣きそうなのかというと、シャミセンとの別れが悲しいというわけではなく、どうも俺達に怯えているからのようなのだ。  
チラチラとこちらの様子を窺ってるみたいだしな。  
いや、小学生をいきなり怯えさせるような強面じゃないと思うんだがな、俺達は。  
あるいは谷口が女性の敵であることを本能で感じとっているのやもしれん。侮れないな……  
 
 
以上、谷口の脇にひかえる長門モドキ少女も含めると総勢6人。  
この6人がこの家の人間ということらしい。  
えっと………兄妹?  
それともたまたま遊びに来ていた友達とかも含まれているんだろうか?  
 
 
「よし、シャミセン。帰るぞ」  
「にゃる」  
まあ、他人の家の事情を俺があれこれと想像するのも失礼な話だ。せっかく素直にシャミセンを連れてきてくれたことだし、ありがたくシャミセンを返却ねがって早々に退散することとしよう。  
「シャミセンくん、また来るといいさっ!なんならここで彼女も探すかいっ?お嫁さん候補は選り取りみどりだよっ!」  
お見合いセッティングが趣味の親戚の叔母さんみたいなことを口にする元気な少女からシャミセンを受け取り、さて帰ろうかと思った瞬間。  
ポケットの中の俺の携帯がけたたましくその着信音を鳴らした。  
わざわざ俺達のために玄関まで出てきてくれた人たちの前で携帯に出るのは失礼であり、そんなものは常識的に考えて一旦電源を切るべきだ。  
だが、俺には今この状況で電話をかけてくる相手に心当たりがあり、それを考えるとこの電話に出ざるをえないのは自明の理だった。  
「ちょっと失礼します」  
そう断ってから携帯の液晶を確認した。  
やっぱりハルヒだ。  
すかさず通話ボタンを押すと、前置きのないハルヒの声が俺の耳に届く。  
『キョン。さっきの電話、なに?』  
「ああ、こっちでシャミセンが見つかったんでな。報告しようと思ったんだ」  
『そう。一体シャミセンはどこにいたわけ?』  
「シャミセンにしては珍しく結構遠出してたぞ。そうだな、場所は……」  
俺がハルヒと携帯ごしに会話するのをよそに、長門は例の無表情な女の子と無言で見つめあっていた。  
似たもの同士、感じあうものでもあるんだろうか?  
谷口は家から出てきた少女たち、主にポニーテールの子に話しかけている。  
ワシントン条約で保護されるべきポニーテール美少女を谷口の魔の手にさらしておくべきではないんだが、いかんせん俺は手が離せない。  
誰でもいいからそいつを止めてくれないか。  
「おい、谷口。あんまり失礼になりそうなことはすんなよ。えっと、長門……ここって住所はどのあたりに」  
と、俺がハルヒに伝える現在地の住所を長門に確認しかけたその時  
「あーっ!」  
突然俺の言葉をかき消す叫び声が誰かからあがった。  
俺はもちろんのこと、その場のほとんどの人間、さらには電話の向こうのハルヒまでもが今まで自分のしてきたことを忘れ、叫び声の発生源に注意を向けることとなった。  
『ちょっとキョン。さっきの大声、なに?』  
「いや、よくわからんが」  
俺達の視線の先ではさっきまで谷口と話していたはずのポニーテールの少女が、肩を震わせながら俺達の方を睨みつけている。  
顔は怒りを必死に堪えているかのように紅く染まり、今にも掴みかからんばかりの形相だ。  
「あなた!よくもおめおめわたしの前に顔を出せたものね!」  
『キョン!なんか痴話喧嘩っぽい声が聞こえたわよ!あんた何やらかしたわけ!』  
「待て、ハルヒ。お前は致命的な勘違いをしているぞ」  
「この女性の敵!この場で出会ったからにはしっかりと引導を渡してあげます!」  
ああ…また俺の状況説明を遮るようなタイミングで怒号が……  
『女の敵って!キョン、あんたSOS団団員としてあるまじきことをやってるんじゃないでしょうね!』  
「落ち着け!あの子が怒鳴ってる相手は」  
『言い訳は聞きたくないわ!辞世の句を用意して待ってなさい!』  
その言葉を最後に電話は切れちまった。  
あの口ぶりだとここに来るつもりなんだろうか?まだここがどこだかの説明も終わってなかったっていうのに……  
大体あいつは大きな勘違いをしているんだ。  
ハルヒはどうも俺が女の子に責められてると思ったようだが、実際はそうじゃない。  
彼女の怒りの矛先、憎しみの視線を一身に受けているのは  
「今こそ十年来の恨みを晴らすときです!覚悟なさい!谷口さん!」  
そう、谷口だった。  
 
 
「ちょっと巴、落ち着いて」  
「これが落ち着いていられますか!長きに渡ってわたしを苦しめてきた怨敵がそこにいるというのに!」  
トモエと呼ばれた彼女は今は隣の青年に止められているが、見るからに一触即発といった雰囲気だ。ただ事じゃない荒れようだぞ。  
「谷口、お前あの子にどんな失礼をはたらいたんだ?」  
「知らねぇよ。今日始めて会ったってのに、あそこまで怒鳴られる覚えはねぇ」  
その谷口の言葉にまたまたトモエさんは過剰な反応をしめした。  
「覚えていないというのですか!わたしはあなたに受けた辱めを片時も忘れたことがないというのに!」  
ともすればその視線だけで気の弱い人間のひとりやふたり殺せそうなほどの睨みっぷり。  
そんな中、ふいに谷口の顔をまじまじと観察していた鶴屋さんっぽい子が、なにかに気付いたような声をあげた。  
「あー、谷口くんかぁ。ひさしぶりっ!」  
「へ?」  
間抜けな声を漏らす谷口には思い当たるふしがないようだったが、そんなことはおかまいなしにその子は立て続けに自己紹介を開始しだした。  
「あたし、鴻池琴梨っ。向こうは佐々巴っ。昔、結婚の約束したじゃんっ。覚えてないのかいっ?」  
「結婚!?」  
結婚の約束とは穏やかじゃないな。意外そうな谷口の様子からするとまったく覚えていないようだから、そりゃ相手としては怒り心頭にもなろうというもんだ。  
「こうのいけことり?ささともえ?………あ」  
「なんだ、谷口。思い出したのか?」  
「え、いや。でも、幼稚園の頃の話だぜ!そんな昔の話を引っ張り出されてもだな…」  
「でも巴は今でもときどき恨み言を言ってるからねっ。ほら、あれだっ!三つ子の魂百までってやつだよっ」  
微妙に意味が違う気もするが……  
「あれ?でも巴がふられた相手って確か山ノ内って名前じゃなかったっけ?」  
と、これはトモエさんをなだめるのに必死な青年。  
「だから(仮)って言ったじゃんっ。ホントの名前は谷口だったのさっ」  
「ふーん。谷口だから山ノ内ね。なんとなくわかるようなわからないような仮名だな」  
どうやら向こうも情報が完全にいきわたっていない模様。事情をちゃんと把握しているのは佐々さんと鴻池さんの2人だけということらしい。  
ところでいい加減蔑ろにされているのに飽きがきたのか、みかんを頭に付けた子が一時休戦の提案をした。  
「ねえねえねえ、家にはいろうよぉ。立ちっぱなしはクタクタクタクタだよ」  
クタの回数が2回ほど多いよ、君。  
 
 
結局うやむやのうちに屋内へとご招待されちまった。  
この家にはシャミセンをはじめとする猫科生物を引き寄せるなにかがあるのか、床のそこかしこを色とりどりの猫が歩き回っていた。  
そういえばシャミセンが最初にいたのも長門のマンションの裏手にあたる猫の溜まり場だったし、こいつにも群れへの依存心とでもいうべきもんがあるのかもしれん。  
今回のことも、その内なる衝動がゆえの行動だったのかもな。  
それはともかく、ハブの喉元に食らい付く隙をじっと窺うマングースのような鋭い目つきで谷口を睨む佐々さんをよそに、俺達はお互いに名乗りあう。  
それによると、青年の名前は逆瀬川秀明。驚くべきことに大学1年ということらしい。いやはや、なんとも童顔なことで。  
この家はその秀明さんの祖父の家で、彼以外の女の子はここに下宿しているとのことだ。  
さて、佐々巴さんと鴻池琴梨さん以外の子はそれぞれ  
長門っぽい子が、雪崎凌央  
常時ニコニコとしている子が、掛川あろえ  
その子に『ののちゃん』と呼ばれていたオドオドとしている子が、三隅埜々香というらしい。  
俺の第一印象とは違い、雪崎さんは中3、三隅さんは中1だとのことだ。  
まあ、これはそれほど重要なことでもない。今、問題なのは谷口と佐々さんの過去のことだろう。  
 
 
詳しく話を聞いてみると、なるほどそれはたしかにヒドイとしか言いようの無いシロモノだった。  
事の起こりは10年程前。  
当時幼稚園で同じスミレ組だった谷口と佐々さんは将来を誓いあったカップルだったらしい。幼稚園児がなにをマセたことを、と思わんでもないが、まあいい。  
しかし卒園と同時に谷口は引越してしまい、2人の交際も終焉を迎えることとなったそうだ。  
まあ、これはいたしかたないことだろう。  
幼稚園児に遠距離恋愛という概念があったとも思えんし、またロクに字も書けん幼児にそれが可能だとも思えん。  
ここまでであればそれは不幸な運命に他ならず、決して谷口の落ち度とは言えないだろう。  
問題はその先にある。谷口は別れの際、彼女にこんなことをほざいたらしいのだ。  
「いつか白い馬に乗って迎えに行く。それまで待っていて欲しい」と。  
もしその場に俺が居合わせていたのなら、あらゆる比喩表現を用いてアホと連呼していただろう。  
こんなことを言う谷口も谷口だが、困ったことに恋する乙女だった佐々さんはそれを鵜呑みにしてしまったのだ。  
以降2年間、彼女は谷口が自分を迎えに来るのをマジで心待ちにすることとなったそうだ。呆れるしかない。  
そんなある日のこと、佐々さんは再度の引越しによってわりと近所に来ていた谷口に偶然再会したらしい。  
ところがその再会、めでたしめでたしハッピーエンド、というわけにはいかなかったそうな。  
なんと谷口、そのときにはすっかり佐々さんへの熱も冷め、巴さんの隣に住む鴻池さんと付き合っていたとのことだ。  
なんというか、もしこれが深夜ラジオへの投稿ハガキに記されたエピソードだったなら5分は笑い転げるだろう喜劇だな、そう思った。  
とはいえさすがに当事者3人の前で笑うような度胸はない……  
 
「あはははっ!巴ってばあんときショックで寝込んじゃってっ、この乙女っ、純情っ、ヤマトナデシコっ」  
たとえ当事者のひとりが爆笑しているとしてもだ……  
「琴梨!あなたは笑いすぎです!とにかく!わたしはあれ以来、男性のすべてが信じられなくなったのです!」  
そりゃお気の毒に。話の馬鹿らしさはともかく、心の底から同情するね。  
「谷口、お前最低だな……これを期に縁をきってもいいか?」  
「待て待て!他愛もないガキのころの話じゃねぇか。しょうがねぇだろ」  
つうか今思い出したんだが、こいつの言っていた『自分にもあったモテ期』というのはその幼稚園から小学校低学年ごろの時期のことらしい。  
お前は劉禅クラスのアホか。諸葛孔明もサジを投げるっつうの。  
「しょうがないとはなんですか!わたしが当時から今に至るまでに被ってきた精神的苦痛は、あなたが今後の人生を賭して償うべきほどの深さなのですよ!」  
どうも谷口の発言は佐々さんの怒りの炎に薪をくべる結果にしかならないようだ。その火で湯を沸かし火力発電に転用できれば夢の永久機関が完成しそうなほどの堂々巡りっぷりだ。  
「谷口、とにかく謝れ。彼女に許してもらうにはお前が人として最低限の誠意を見せるしかないだろう」  
「そうはいってもなぁ……」  
谷口の野郎が渋ってやがる。10年前の、本人は罪とも思ってなかったような行為に対して、謝るということに抵抗があるらしい。  
そんな谷口の一挙手一投足にこの場のほとんどの人間が注目していた。  
気にしてなさそうなのは長門と雪崎さんの無口コンビだけだ。  
「あ」  
谷口が口を開いた瞬間、館全体にいき渡りそうな大音量の警報らしき音が周囲に鳴り響き、そして唐突に鳴り止んだ。  
なんだ?火災報知器かガス漏れ警報機だろうか?すぐに鳴り止んだということは、誤動作か?  
絶妙なタイミングで発言を妨害された谷口が気を抜かれて呆然としているが、今はほっとこう。  
「長門、今のはなんだ?わかるか?」  
俺はなんでも知っているであろう長門に確認し  
「あろえ。ちょっとガニメデ貸して」  
秀明さんは妙に緊張した面持ちで掛川さんからぬいぐるみを受け取って廊下のほうへと出て行った。  
この家の他の面々も表情を心持ち引き締めているようだ。  
「長門、なにか危険があるのか?火の気とかガス漏れとか」  
いかに目に見えそうなほどに怒りの炎を燃え上がらせていた佐々さんとはいえ、内面描写の火で火災報知器を作動させてしまうほど非常識な怒りかたはしちゃいないだろう。  
長門は質問した俺の顔を数秒眺め、その後周囲に視線をめぐらし、そして一言だけ口にした。  
「大丈夫」  
大丈夫、か。長門が言うからには間違いなく大丈夫なんだろうが、俺としてはもう少し詳しい説明が欲しかった。  
とはいえ、俺以外の人間がこれだけ大勢いる状況で人間離れした物知り具合を見せるのもマズかろう。長門なりの気遣いだと思っておくか。  
 
 
そんなときだった。本日何度目かの携帯の着信音が俺のポケットから流れ出してきた。  
なんだ、またハルヒか?遅まきながら俺達がどこにいるのか自分が知らないことに気付いて、確認の電話をいれてきたのか?  
そう思って携帯を開いたが、意外なことに相手は古泉だった。  
「俺だ、どうした?」  
『古泉です。さし迫った状況なので手短に言います。そこに涼宮さんはいますか?』  
携帯から聴こえる古泉の声はいつもに比べて余裕のないものだった。どうしたってんだ?  
「悪いが今は別行動中だ。なにかあったのか?まさか閉鎖空間か?」  
俺の声は周りにも丸聞こえなんだが、特に問題もないだろう。事情を知らない人間が『閉鎖空間』なんて単語を聞いても意味わかんねぇだろうし。  
『はい。閉鎖空間が発生しています。しかもかなり厄介な形で。事ここに到っては、もはやあなたと涼宮さんに例の最終手段をとってもらうしかないと思っていたんですが』  
こいつはまたそれを言いやがる。俺がOKするとでも思ってんのか?  
「どうした?また前みたいに、お前等が入れない閉鎖空間なのか?」  
『侵入そのものは可能です。しかし問題はたった今出現した神人にあります』  
俺はいつかハルヒと一緒に閉じ込められた閉鎖空間に現れた大量の神人を思い浮かべた。  
「対処しきれないぐらいに数が多いのか?」  
しかし、この問いにも古泉はNOの返答を返してくる。  
『いえ、数も通常どおり1体のみです。ただ……』  
「ただ、なんだ?」  
 
 
『ただ、我々の攻撃が一切通用しません。ですから、このままでは確実に世界は終焉を迎えます』  
世界の終焉を告げるにはいささか重みに欠ける淡々とした物言いだと思った。  
 
 
「冗談だろ?」  
『僕も冗談は好きですが、それでも言っていい冗談と悪い冗談があることはわきまえているつもりです』  
「………一切通じないってのはどういうことだ?」  
『文字通りの意味です。我々のあらゆる攻撃が効果を発揮しません。どれだけダメージを与えても今回の神人は無傷なんです』  
「……とりあえず聞いておきたいんだが、猶予はあとどれぐらい残ってるんだ?」  
『閉鎖空間が最終段階まで拡大した前例というものがないのではっきりとしたことは言えませんが、おそらくあと3時間ほどかと』  
あと3時間で世界が終わっちまうだと………  
俺はごく普通の高校生であって、世界のタイムリミットを聞かされたり、あげくの果てにそれをどうにかしなくちゃならんなんて立場とは本来無縁のはずなんだが。  
まったく、俺の肩に世界の運命が乗っかるのはこれで何回目だ?世界から見て、俺の肩ってのはそんなに乗っかりやすそうに見えるんだろうか?  
『現在、神人の周囲を数名で飛び回り、出来る限り注意を逸らしていますが、焼け石に水としか言いようがありませんね。  
正直我々にはもう打つ手がありません。やはりあなたが涼宮さんをどうにかすることによって閉鎖空間ごと神人を駆逐するより他にないと思うんですが』  
断固拒否したいんだが、古泉の『思うんですが』あたりのセリフがいつもよりも3割ほど力を込めた口調で、有無を言わさぬ迫力を感じさせる。  
「仕方ない。それじゃあまずハルヒを見つけるか」  
『よろしくお願いします。とにかく急いで。必要とあらば、そちらに車をまわします』  
「ああ、頼「ちょっといいかな?」  
俺の声は横合いからの声にかき消される。  
いきなり俺と古泉の会話に割り込んできたのは不細工なぬいぐるみを抱えた秀明さんだった。  
「いや、すみません。今、たてこんでるもんで、後にしてもらえます?」  
どんな用かは知らんが、世界が消えるかどうかって問題より重要ってことはないだろう。ここは心を鬼にして  
と思った矢先、ビクンと携帯を持つ手に重みを感じる。  
「………」  
見ればなぜか長門が俺の右手を掴んでいる。なんだ?  
「聞いてあげて」  
 
 
長門の勧めのまま、俺と長門、そして秀明さんは廊下へと場所を移し、電話の向こうの古泉も交えた会話を開始した。  
口火を切ったのはなんと  
『失礼ですがあなたと、古泉さんでしたか、彼との通話内容はすべて盗聴させてもらいました。まあ、非常時ということでどうかご容赦のほどを』  
秀明さんの腕の中に納まっている羊のぬいぐるみだった。  
変声機を使ったような機械音声、つうか玄関で俺の対応をした声そのもの、を発するぬいぐるみに不気味なものを感じる。  
「ガニメデによるとその古泉くんのいる場所と、EOSの反応があった場所がほとんど同じらしいんだ」  
「イーオーエス?」  
聞きなれない単語の出現に俺は思わず訝しげな声をあげた。  
俺もこれまで古泉や朝比奈さん(大)にいろいろとアルファベットを組み合わせた専門用語を聞かされてきたが、最初がEって単語はなかったように思う。  
『古泉さん。単刀直入に申し上げます。先ほどの会話内にあったシンジンという存在。そのどこかにピンクに発光する場所、並びに回転する円盤は見受けられますか?』  
これはガニメデと呼ばれたぬいぐるみの発言だ。  
その質問に驚いたような感情を隠せない声色で古泉が答える。  
『よくわかりましたね。通常青く発光している神人ですが、今回はピンクに発光しています。  
それと円盤なんですが、確かに胸部にそれらしきものが確認できますね』  
「やっぱりEOSだな」  
『カサンドラが反応を見失うものですからどうしたかと思いましたが、まさか異空間に取り込まれているとは』  
古泉の返答に一人と一体はなにやら確信したようだった。  
って、俺は置いてきぼりかよ。  
『相手がEOSとなれば、その対処は我が家の美しきワルキューレ達でなければ務まりますまい。そうと決まれば秀明さん、早速皆さんに知らせてください』  
「わかってるよ」  
そう言い残し、秀明さんは居間へと戻って行き、数十秒後には逆に居間からこの家の女性陣が全員廊下へと駆け出してきた。  
そのまま奥の方へと消えていく。  
わけがわからん。一体なにがどうなってるんだ?イーオーエス?カサンドラ?ワルキューレ?  
頼むからその単語のうち、どれかひとつでもいいんで説明してくれないか。  
ただ、わからないことだらけの今の状態の中、ひとつだけはっきりとわかることがある。  
「つまり今回の神人に関しちゃ、あの子たちがプロフェッショナルってことか?」  
長門が無言で首肯する。  
つまり自転車の鍵で玄関の扉は開けられないのと同じで、ピンク色の神人は古泉たちの手には負えず、それ相応の専門家がいるってことだな。  
なら話は早い。ようはあの子たちを閉鎖空間に案内すればいいだけのことだ。  
「古泉、今すぐこっちに車をよこしてくれるか?逆瀬川邸ってとこなんだが、住所は」  
『今、逆瀬川と言いましたか?』  
「ああ」  
『それならば住所の説明はいりません。割と有名な方のお宅ですから。それにしても本当にあなたは変わった人と知り合いになるのが得意ですね』  
ほっとけ。  
 
 
携帯を切った俺は手持ち無沙汰になったこともあって、長門に廊下の奥へと向かった子たちの様子を聞いてみることにした。  
「ところであの子たちは今、なにをやってるんだ?」  
「地下で着替え」  
着替えね。作業着でも着てるのか?  
『作業着とは無粋な!私みずからデザインした天使が纏うに相応しきコスチュームですぞ!』  
耳に不必要に響く甲高い声と共に、秀明さんとガニメデが俺の隣へと戻ってきた。  
ということは、現在居間には谷口がひとりで残ってるってことか。そこはかとない不安を感じるんだが。  
つうかさっきはワルキューレって言ってなかったか?  
「ガニメデの言うことは8割ぐらい聞き流しといてくれるかな。碌なことは言ってないから」  
『なにをおっしゃいますか!私の発言は常に聞く人を幸せと豊饒の園へと導く金言ですよ』  
「そりゃ初耳だな。お前の口から飛び出す言葉の大半はセクハラ発言だったと僕は記憶してるんだけど」  
『セクハラとは心外な。魅力的な女性をあらゆる手段をもって愛でることこそ男性の喜び。それを助長する私の発言に問題があるわけがありません!  
そもそも秀明さんが私の発言に真剣に耳を傾けてさえいれば、今頃はこの世の全男性の夢であるところのハーレムENDを迎えられていたものを!  
真面目な保護者という枠組みに囚われていたがために個別エンディング行きとなってしまったではありませんか!  
私はこれからどうやって巴さん以外のちょっといけないイベントを鑑賞すればよいのですか!?』  
玄関越しに話すだけじゃわからんもんだな。まさかこの声のあるじがこんな性格破綻者だったとは。  
「頭の中で考えるだけにしとけ。それならギリギリ犯罪にもならないしな」  
『もういいです!秀明さんのような性欲の枯れ果てた人は知りません!見限らせてもらいます!  
ねえ、あなた。ここで知り合ったのも何かの縁です。ちょっと私に「更衣室の様子が見たい」と命令してくれませんか。  
私は人間に忠実なコンピューターですからね、ご命令とあらばただちにモニターに映し出す所存です。ぐへへへ…』  
「遠慮しとく」  
性犯罪者になる気はない。  
『なんですって!?信じられません!まったくもってあなたがたは揃いも揃って、男として恥ずかしくないんですか!  
すぐ傍でうら若き美少女が肌もあらわな状態でいるというのに、それに興味がないとは嘆かわしい!  
やっぱりあれですか!?環境ホルモンの異常による性欲の減退とかそういうのですか!?』  
「「常識をわきまえてるだけだ」」  
おっと、ハモっちまった。  
 
 
それから5分ほど経ったころだろうか、新川さんが運転手を務めるタクシーが門前へと到着した。  
ただ、その後ろにぴったりとくっつくように無人のオープンカーが停車するのを見たときは流石にたまげたな。ナイト2000はいつのまに日本に輸入されていたんだ?  
なんでもこの車にはあのガニメデというぬいぐるみの中身と同じ物がつまれており、走行に運転手を必要としないそうだ。  
ただし、目撃者の混乱を避けるためにカモフラージュとして秀明さんが運転席に座るとのことだ。  
その混乱の第一被害者となってしまった俺としては、ぜひそうしてもらいたいと切実に思うね。  
着替えを終えて出てきた子たちと俺とで2台の車に分乗する。と言っても、タクシーの方に乗るのは俺と新川さんを除けば鴻池さんだけのようだ。  
残念、佐々さんと同乗できれば俺的にはかなり幸せな気分に浸ることが出来たんだがな。  
「そりゃ駄目さっ!巴の指定席はひーくんの隣だからねっ。巴からそれを取り上げたら蘇我馬子に蹴っ飛ばされちゃうよっ!」  
イルカの爺さんがそんなアルバイトをしているとは知らなかった。  
ちなみに長門と谷口は留守番だ。  
谷口なんてとっとと帰しゃいいと思うかもしれんが、佐々さんが着替え前に  
「わたしが留守中に逃げ出しているようなことがあれば、ただじゃおきませんからね!」  
と釘をさしたらしく、そのおかげで谷口のやつを逆瀬川邸に拘留しておかなきゃならなくなったわけだ。  
そんなわけでやむなく長門を谷口の見張りとして残すことになっちまった。  
別に俺だって残っていたって構わないんだが、古泉とこの6人の橋渡し役も必要だろう。  
 
 
「じゃあ、新川さん。お願いします」  
「承知いたしました」  
了解の合図と共にタクシーは急発進し、俺の体は慣性の法則にのっとり後部座席に押し付けられる。  
法定速度とか身の安全とかを一切合財無視したスピード最優先な運転に俺は全身の血の気が一気に引くのを感じた。  
「やっほー!はっやいねー。窓開けたら気持ちいいかなっ?」  
「それは少々危険ですのでご遠慮ねがえますかな?」  
なんでこの子はこの状態ではしゃげるんだ?新川さんもブレーキを一切踏まない殺人的コーナリングの最中に返答するような余裕をみせないでくれ。心臓に悪い。  
しかもさらに驚くべきことは、タクシーはスピードメーターが振り切れるほどの速度であるにもかかわらず、後ろの車が後れずにぴったりとついてきていることだ。  
思い出してほしいんだが、後ろのセダンはオープンカーである。乗ってる人間は生きた心地がしないだろう。  
後ろの5人には悪いが、つくづくこっちに乗っていて良かったと思う。  
「ところで鴻池さん」  
「同い年なんだしっ、琴梨でいいさっ、キョンくんっ」  
たしか俺はしっかり本名を名乗ったはずなんですが、あなたもそのあだ名を使いますか、そうですか。  
じゃあ俺も遠慮なくラフな口調でいかせてもらおう。  
「EOSってのは一体なんなんだ?あと琴梨たちは何者なんだ?」  
「EOSは異世界からの侵略者でっ、あたしたちは正義の味方さっ!んで、ひーくんは司令官で、巴はその恋人だっ」  
『あ、あ、あなたはいきなりなにを赤の他人に言っているのですか!大体誰がこ、こ、恋人だというのです!』  
琴梨の襟元に付いている盾を象ったようなピンバッジからくぐもった佐々さんの声が聞こえる。どうやら通信機ということらしい。  
「どもってる、どもってるっ。今はやりのツンデレってやつだっ。ひーくんもこれにコロッとやられちゃったのさっ!」  
いや、そんなことはまったくもってどうでもいいことだ。俺の今後の人生に活かせそうにもないしな。  
しかも下手をしたらあと3時間足らずで人生そのものが終わっちまうかもしれないわけだし……  
だから肝心なのは恋人うんぬんの部分じゃなく、『正義の味方』ってところだ。  
「本当に『ソレ』で正義の味方的な活動が出来るのか?どう見てもただのスケートボードに見えるんだが」  
俺の視線は琴梨が自分の脇に持ったスケートボードに注がれている。話によると、EOS退治にはそれが必要らしい。  
本当か、と疑いたくなるのも当然だ。スケートボードで化け物退治だなんて……  
そのうえ琴梨以外の面々が持ってきたものも、およそ戦闘に向いているとは考えられないものばかりだった。  
佐々さんが手にしてきた竹刀はまだいい。いや、よくはないんだろうが他のメンバーに比べりゃマシな方だ。  
なんせ雪崎さん、掛川さん、三隅さんが携えてきたものはそれぞれ、筆、スケッチブック、リコーダーだったんだから。  
フリーマーケットにでも出掛けるのか、とつっこんでやりたい。  
「大丈夫っさっ!どーんっとあたしたちにまかせときなさいってっ!」  
だが、俺の不安をよそに琴梨は自信満々の笑顔で胸を叩いている。  
「頼もしいかぎりですな。おおいに期待させていただきます」  
その言葉と共に新川さんは一直線に目的地に向かってタクシーを走らせた。  
 
 
逆瀬川邸を出発して5、6分。俺の乗るタクシーと、後ろのセダンは見事なドリフトをきめながらゴール地点、、無人の交差点に停車した。  
ふらつきながら俺は後部座席から降り、キットが運転していた暴走車の様子を窺うと、佐々さんは青ざめた顔で秀明さんの腕にしがみつき、掛川さんと三隅さんはブレーキングの衝撃で上下逆さまになっていた。  
さすがにこの2人の姿勢は大げさすぎると思わんでもないが、かといって雪崎さんのように顔色ひとつ変えないというのもどうだろう。  
さて、交差点のど真ん中に駐車する2台に駆け寄ってくる一人の人物がいた、っていうか古泉だ。  
「お待ちしていました。こちらの6人が今回の切り札ですか?」  
「そういうことらしい。ここの人払いは『機関』がやったのか?」  
『そちらに関しては私が手を回しておきました。警察に連絡してここ一帯の区画の立ち入り禁止規制をしてもらっています』  
羊型エロコンピューターにそんな能力があったとはな。その機能を性犯罪に活かさなきゃいいんだが。  
「はじめまして。古泉一樹です。今回は我々にご協力いただきありがとうございます」  
そう挨拶しながら古泉は6人にそれぞれ握手をしてまわる。  
もっとも佐々さんと三隅さんには拒絶されてるがな。古泉の美形スマイルといえどもこの2人の攻略は無理だったらしい。  
「それにしても皆さん、随分と可愛らしい格好をしておいでですね」  
今さらそれを口にしちまうか、古泉。  
これまであえて触れることをしなかったが、ガニメデが言うところの『天使が纏うに相応しきコスチューム』とやらは、可愛い、というかとにかく変わったセンスをしていた。  
例えるならそれは、人類がその居住地を宇宙に移す際に着ていそうなデザインというか、とにかく未来チックなものだった。  
あと首元あたりに出版社の違いを感じさせる雷をモチーフとしたような飾りがあしらってある。って、俺はなに言ってんだ?  
「それにしても合計7人ですか。これは侵入だけでも一仕事ですね」  
大変なら俺は留守番しててもいいぞ。どうせ閉鎖空間の中に行っても俺は役立たずだしな。  
「いえいえ、ここまで来たら最後まで付き合ってくださいよ。僕とあなたの仲じゃないですか」  
どんな仲だってんだよ。気色悪い言い方をするんじゃねぇ。  
「では皆さん、どこでもいいので僕の体に触れていてもらえますか。すぐに済みます」  
古泉の言葉に全員がその体に手を添えていく。佐々さんも渋々従い、初対面の古泉相手に怯えていた三隅さんも  
「ののちゃん、大丈夫大丈夫。こわくないよ」  
という掛川さんの励ましのおかげでなんとか手を伸ばすのに成功した。  
その様子に俺は思わず、獅子舞を始めて見た近所の子供の反応を思い出しちまったんだが、まさか北高でも女性ファンの多い古泉が獅子舞と同レベルになる日がやってこようとは……  
「では全員目を閉じてください」  
素直に目を閉じつつも  
「おい、古泉。この状態で歩くのか?難しいぞ」  
と抗議しておいた。  
今の俺達はまるで古泉を取り囲んでかごめかごめでもしているかのような様相を呈している。この状態でさらに目も見えないとあっては、歩いた途端に2、3人はすっ転んじまうだろう。  
「いえ、その必要はありません。もう目を開けていただいても構いませんよ」  
再び古泉の言葉に従い目を開けると、そこは確かに既に閉鎖空間内部だった。色彩が普通の空間とまるで違うんで一目瞭然だ。  
「閉鎖空間の拡大に合わせて場所どりをしていましたから、移動の必要がなかったんです」  
つまり俺達が目を閉じていた間に閉鎖空間の方から俺達のことを飲み込んできたということか。賢いね。  
「うわっ!?なにこれ?」  
「ひ……う………」  
「わおっ、曇りみたいな夜みたいなヘンなトコだねっ」  
閉鎖空間初体験の面々がおもいおもいの驚き方をしている。  
ところで神人の方はといえば………  
 
 
「ひーくん、あっちにピンクの透明人間がいるよ。大きい大きいねぇ」  
と、まるで『投稿特ホウ王国』のリポーターのようなコメントをする掛川さんの指差す方向にいた。  
ピンクの大きい透明人間とはよく言ったものだ。  
その神人の姿は古泉の言の通り、虹の最外周部のような淡いピンクに光る、輪郭のぼやけた巨人といった風体をしている。  
見ればその周囲をいくつもの紅点が飛び交っている。古泉のお仲間なんだろうが、微妙に遠巻きかつ遠慮がちな距離をおいているのがなさけない。  
いや、その場で命を張ってるわけでもない俺がこんなことを言うのも失礼な話なんだが。  
神人はその赤い光をあたかも蠅でもおっぱらうみたいに腕をあっちこっちに振り回しており、そのおかげか付近のビルは比較的無事だった。  
「そちらのガニメーデス氏の話によれば、あれは神人とEOSとの複合存在ということらしいですね。  
推論にすぎませんが、おそらく神人とEOS出現のタイミングがほぼ同時だったため、EOSが神人を構成素材としてしまったんでしょう」  
『この空間ではカサンドラとのリンクが不完全なので正確とはいえませんが、エネルギー保有量が通常のEOSとは桁違いですね。これも融合が引き起こした弊害かと思われます』  
猛と健太郎がバロムクロスで合体するみたいなもんか。とはいえ友情を決裂させて分離させるわけにはいかないんだろうな、こっちは。  
「では僕も援護に行ってきます。皆さん、あとはよろしくお願いします」  
そんな言葉を残しつつ、古泉も神人の周りを飛び回る紅玉の仲間入りをしにいく。  
頼んだぜ、古泉。お前同様俺もこの世界にそれなりの未練を残してるんでな。  
「ちょっと、あなた!」  
なんですか?佐々さん。  
「神人というのがあんなに巨大だとは聞いていませんわよ!」  
「ほんとうだね。とってもとっても強そうだよぉ」  
『《核》の位置も厄介ですね。あれでは我々の攻撃が届きませんよ』  
ちょっと待ってくれ!今さらそんな弱気になってもらっても困る!あの神人はあれでも通常サイズなんだ。一体どんな大きさを想像してたんだ!?  
「それは、神『人』というぐらいですから、普通に人間サイズだと思ってましたわ」  
『今までのEOSの平均サイズからいって、体長10m弱と踏んでいたんですがねぇ……』  
そんな楽観的な……長門のお墨付きがあったから俺はこの人たちをここに連れてきたんだぞ……  
「そうは言っても僕らがどうにかしなくちゃならないのには変わらないんだし、皆、なんとか頑張ってみよう」  
「そうそうっ!あんなにデッカイなんてラスボスみたいで面白そうじゃんっ!」  
萎えそうな全員の士気を秀明さんがなんとか励まし鼓舞し、それに琴梨が気楽な合いの手を入れる。  
「ラスボスでしたら2日前に博士を追って消えましたわ。ともあれ確かにわたし達がアレを処理するしかないようですし、やってみますわ」  
『意気込みはともかく、実際のところどうします?大きさもさることながら、エネルギー体であるEOSの強さは保有エネルギー量に正比例するんですよ。  
なにか作戦があるんですか?』  
「まずは埜々香に攪乱してもらおう。ぴょろすけにも手伝ってもらって。うまくいけば《核》のある上半身部分を地面近くに引き寄せられるかもしれない」  
「うう……」  
秀明さんの発言に自分の名前があがった三隅さんがまるで本番当日に病欠した主役の代理に抜擢された大道具担当の演劇部員みたいな自信なさげなうめき声をあげる。  
ところで俺は彼女の口からうめき声以外が出てくるのを聞いたことがないんだが、どういうことだろうね?  
 
 
まあ、それはともかく三隅さんをはじめ、奇抜な格好をした女の子5人は自分の背中に手を伸ばし、いくばくも待つこともなく全員の体は普段の神人を思わせるような青い燐光を放つようになった。  
「あれは?」  
俺は秀明さんの腕の中のガニメデに、この不思議現象の正体を伺う。  
『コスチュームに搭載されたDマニューバの効果です。ほぼ完璧な物理衝撃防御効果とEOSに対する攻勢効果があります。  
EOSは一見普通の物質のようでいて、その実、異次元エネルギーが物質の真似事をしているような存在ですからね。  
同種かつ正反対なベクトルのエネルギーであるDマニューバでの攻撃しか通用しません』  
なるほど、これが彼女たちが今回の切り札である所以か。でも、じゃあ彼女たちが持ってるスケボーだの筆だのはなんだ?持ってる意味はあるのか?  
『Dマニューバはあくまでエネルギーの制御デバイスにすぎません。実際にエネルギーが宿っているのは彼女たちが持っている器物です』  
なるほどなるほどと俺が感心する中、攻撃1番手を指名された三隅さんは抱きしめていた子犬をアスファルト上に降ろし、リコーダーを口に持って行く。  
自分の四肢で地面に立った子犬、こいつがどうも『ぴょろすけ』という名前らしいんだが、そいつは神人の方を意思のこもった目で睨みつけると、なんと一瞬で成犬に、いやそれ以上の大きさに成長したじゃないか!?  
「お願い……ぴょろすけ」  
笛を口にくわえる前に三隅さんは俺にも意味が聞き取れるはっきりとした発音でそう懇願し、それを受けたぴょろすけはまるで体育祭時の長門のような猛スピードで神人へと向かって行った。  
まともな生き物にあれだけの速度での行動が可能なのか!?ひょっとしたら、目測では数km先にいるであろう神人のもとにもすでに到達してるんじゃないだろうか?  
額の星マークは伊達じゃないってことなのか。  
狼みたいな大型犬ぴょろすけの事は一旦置いといて、続いては三隅さん本人の番だ。  
彼女はリコーダーを口にし、必死な表情でおもむろに演奏を開始した。  
 
やねよ〜り〜た〜か〜い〜こいの〜ぼ〜り〜  
 
と、思わず歌いたくなるような稚拙なメロディ。なぜに『こいのぼり』?  
だがそんな陳腐な疑問を浮かべている場合ではなかった。  
演奏が始まった途端、彼女の周囲の空間に歪みのようなものが現れ、それは見る間のうちに先ほどのぴょろすけをディフォルメしたような3体の動くぬいぐるみみたいなものに変化を遂げたからだ!  
それぞれ赤、青、黄色の3原色に色分けされた派手な外見で、大きさは昔動物園で見かけた白熊ぐらいだろうか?  
いきなりこんなもんが空中から出現したら、そりゃビビるって……  
ただ、いい加減驚きのリアクションをとるのにも疲れてきたんでな。平然を装っておくことにする。  
「埜々香!?その大きい精霊犬はどういうこと!?」  
なんであなたが驚いとるんですか、秀明さん?  
ほら、その声に驚いた三隅さんがリコーダーから口を離しちまって、巨大な犬も消えちまったじゃないですか。  
「あー、埜々香ごめん。でも、ガニメデ、さっきのはどういうことだ?」  
『原因はわかりませんが、なぜか異次元エネルギーが通常の数十倍に活性化しておりますな。なにはともあれ好都合ではないですか』  
つまり、秀明さんが知らないうちになぜかはわからないが彼女がパワーアップしており、それに驚いた、と。  
普段のことなんて知らんから想像で補うしかないわけだが、そんなとこだろう。  
 
(閉鎖空間が生まれ、神人が生まれるときに限り、僕は異能の力を発揮出来る)  
 
(威力は閉鎖空間の10分の1。これで充分と判断されたんでしょうか)  
 
俺は唐突に古泉が過去に発したふたつのセリフを思い出していた。  
神人に対するカウンター機構。世界を維持するワクチン。それが古泉たち、超能力者だ。  
神人を倒す必要があるから古泉たちには超能力があり、その強さも神人を撃破できるに足るレベルに調節されている。おそらくはハルヒの無意識によって。  
なら、今回の神人退治に5人の能力が必要であり、しかし力量においては不足しているというのであれば、どうなる?  
当然能力の引き上げがなされることになるだろう。これまたハルヒの無意識によって。  
つまりはそういうことなんだろう。閉鎖空間という特殊な状況が生み出した偶然の産物だ。  
俺は自分の推論を、ハルヒうんぬんの部分は伏せつつ、秀明さんに説明する。  
これを活かしてなにか有効な作戦を立案してくれればいいんだが……  
 
 
「琴梨。もし《核》の位置がしばらく移動しなかったとしたら、近くのビルから《核》に向かって突撃できるかい?」  
「心配無用っ!あの高さなら屋上がおんなじあたりになってるビルはゴロッゴロッあるさっ」  
「ありがとう。それならいけそうだ」  
なにやら策を思いついたらしい。  
「みんな、作戦を伝えるよ。  
まず、埜々香の《へかて》でヤツの注意を分散、時間稼ぎをする」  
「う……ん」  
「その間に巴、琴梨、凌央の3人はEOSの傍まで移動。あろえは絵を描いて、EOSの動きを封じてくれ」  
「わかった。なに描こうかなぁ」  
「3人が位置に着いたら、凌央は《でうかりおん》の攻撃で《核》を露出させる」  
「………」  
雪崎さんが無言で首を縦に振る。  
「あとは巴と琴梨の突撃で一気に《核》を粉砕するんだ」  
「ちょっと!?それってわたしに琴梨とスケートボードの二人乗りをしろとおっしゃってるの!?」  
「しっかたないじゃんっ。巴は空飛べないしっ、あたしの体当たりじゃ《核》壊せないかもしんないんだしっ」  
「巴。頼む。どうしても巴の圧倒的な攻撃力が必要なんだ」  
しぶる佐々さんに対して秀明さんはまっすぐ目を見つめながら強く願い出た。  
見る見るうちに佐々さんの顔が赤く染まっていくのがわかる。なるほど、これが琴梨の言っていた『ツンデレ』ってやつか。  
「し、しかたありません。そこまで言うのであれば、ひ、一肌脱いであげますわ」  
「うん。頼りにしてるよ」  
そういえば館の谷口は元気でやってるだろうか?原因不明のむなしさとかに襲われたりしてないといいんだが……  
 
 
「んじゃっ!行って来るねっ!のの、あろえ、まっかせたよっ」  
後ろに佐々さんを同乗させ、脇の下に雪崎さんを抱えた琴梨はスケボーを走らせ、神人の近くのビルへと向かった。  
あの地面をキックすることもなく高速で移動が可能なスケボーは《あたらんて》という名前だそうだ。  
タクシーん中で失礼なこと言って悪かった。確かにそれはネコ型ロボットのポケットに入っていてもおかしくない、便利アイテムだよ。  
さてさて、こちらも負けず劣らずの便利アイテムであることをさっきまざまざと見せつけられたリコーダー、《へかて》。  
その《へかて》を三隅さんが起動させ、再び空中に3頭の巨大犬が現れる。ちなみに今回の演目は『チューリップ』だ。  
「ののちゃん、がんばれー」  
残念ながらその掛川さんの声援を聞くような余裕は三隅さんにはまったくないらしく、視線をリコーダーの指穴に固定しつつ必死の形相で演奏を続けている。  
三隅さんが生成した原色戦隊イヌレンジャーは桃色の巨人の鼻面に向かって飛んでいく。  
古泉たちよりよっぽど大きく、目立つ外見である浮遊物の出現に、神人は馬鹿正直に標的をそちらにスイッチさせた様子だ。  
闇雲に振り回される神人の腕の間をよろよろと掻い潜る3色の光がここからでも見てとれる。  
「さ、あろえ。今のうちに」  
「わかった、がんばるねー」  
秀明さんの指示が2番手である掛川さんに飛び、それを受けた彼女はおもむろにスケッチブックを開くと、そこへ鉛筆を走らせた。  
『あろえさんの持つ《あぐらいあ》は描いた絵を実体化出来るというまことに汎用性の高いDマニューバです。  
ただ本人の画力がそれに伴っていないのがたまにきずなんですよねぇ。  
まあ、こういう可愛らしい欠点のひとつやふたつはあった方が女性の魅力は引き立つというものです』  
その汎用性の高い能力とやらで、もう少しまともな性格のサポートコンピューターを実体化させるべきなんじゃないかね?  
とかなんとかやってる間に掛川さんの絵は完成したらしく、眩しい光と共に《あぐらいあ》はなにやら巨大な白い布のようなものへと変化した。  
「包帯だよー」  
なるほど、それであの神人を縛りあげて動きを封じようってわけか。しかし、なんでロープや鎖じゃなく包帯なんだ?  
「うん?だってやっぱり透明人間には包帯だよねー」  
なぜにその若さでそんなマイナーな藤子キャラを知ってるんだ、君は。  
しかし理由はともかくとして、効果の方はバッチリだった。  
包帯となった《あぐらいあ》は瞬く間に神人に巻きつき、その巨体を束縛するのに成功した。  
『ひーくんっ、到着したよっ。いつでもオッケーさっ』  
3人のピンバッジから琴梨の声が響き、作戦が最終段階にきたことを告げる。  
「よし!凌央、頼む」  
『………』  
なにも聴こえなかったが、多分通信機の向こうで雪崎さんが首を振ったんだろう。  
『ちょ、ちょっと、凌央!あなた、なんてこと書いてるの!?』  
『うひゃひゃっ、それいいねっ』  
なんだか向こうが騒がしいな。なにをやってるんだ?  
俺がそう思った次の瞬間、身動きの取れない神人は突如爆発四散しやがった。  
爆煙も爆風も生まない静かな爆発の中、《核》と呼ばれる円盤だけが残っているのがかろうじて見て取れた。  
「今だ!巴!琴梨!」  
秀明さんの檄と同時に、その円盤に高速で青い光が突進した!  
そのまま光は円盤を貫き、あっけないほど簡単に《核》は砕け散った。  
青い光はそのまま俺達の傍の地面を数十m削って着地。よく見ればそれはスケボーに乗った佐々さんと琴梨だった。  
どうもパワーアップにあかせて、あのスケボーで空中を数kmも疾走したらしい。とんでもないことだ。  
「わ、わ、わたし、なにがあろうと金輪際あなたのスケートボードには乗りませんから……」  
琴梨の首にしがみつき、顔面蒼白になりながらそう主張する佐々さんの様子が印象深かった。  
 
以上、これが規格外神人退治の顛末である。  
 
 
 
閉鎖空間が崩壊していく中、俺はひたすらに考えていた。  
 
ハルヒのつくる閉鎖空間  
 
ハルヒの能力を利用したとはいえ、あっさり長門に改変されちまう、世界  
 
自分達に都合のいい未来に世界を誘導しようとする、朝比奈さんとは別勢力の未来人  
 
そして今回の敵、EOS  
 
いくらなんでも世界はあまりにも不安定すぎやしないか?  
かつて古泉はこんなことを口にした。  
「人間は崖っぷちで爪先立ちをする道化師なのかもしれない」と。  
それを聞いたときには、こいつはなにを酔ったようなことを言ってやがんだ、と思ったもんだ。  
だが、この1年を波乱万丈の事件の連続で過ごし、そして今また俺達が把握していなかった危機が存在していることを見せつけられるにいたり、俺も似たような感慨を抱かずにはいられなかった。  
いや、正確にはもっと恐ろしい仮定が頭をもたげている。  
ひょっとしたらその道化師の後ろには、今にもその背中を押してやろうと狙っているやつがいるんじゃないだろうか。  
そしてその悪意あるやつの名、まさか『世界』って名前じゃないだろうか、と。  
 
 
「それはないんじゃないかな」  
唐突なその男性の声に、俺は心底驚き、慌ててその声の発生源、つまりは自分のすぐ右隣に視線を移す。  
そこには、今まさに三本の矢の話を息子に語って聞かせてやろうとしている毛利元就のような顔をした秀明さんが立っていた。  
あの、もしかして俺、声に出してました?  
「まあね。  
君が心配するのも仕方ないのかもしれないけど、でも大丈夫だよ」  
そんなあっさりと気楽なことを言わないでもらいたいね。  
実際のところ、今回だって世界はわやくちゃになっちまう直前だったんだ。到底安心なんて出来るもんじゃない。  
いや、俺は別に自分の境遇を嘆いてるわけじゃない。  
もう既に俺の日常には不可思議現象がこれ以上ないくらい深く組み込まれちまってるし、そういった諸々を含めて俺は今の非現実的日常が気に入っちまってるんだ。  
古泉んところの敵組織だろうが、長門を寝込ませた宇宙人モドキだろうが、今更どんな類の敵対存在がしゃしゃり出てこようが驚いたりはしない。  
だが、もし『世界』自体が敵なんだとしたら、一体俺達はどうすりゃいいんだ?  
「でも、今回だって世界は滅びなかった。  
僕らは今までも世界がどうにかなりそうなのをどうにかしてきたし、多分君達もそうなんだろう」  
そりゃ、俺は今の世界が気にいってるわけで、特別な属性なんて持ってないなりに頑張ってきたつもりではある。  
「世界が本当に、人間なんてどうとでもなってしまえ、なんて考えているなら、そもそも巴たちに力を与えたりしないさ。  
世界をこのままにしておきたいと思う君の心、  
そしてそう考える自分自身が紛れも無く世界の一部であること、そのことにもっと自信を持ってもいいんじゃないかな」  
恥ずかしいですって、そんなの。  
あなた、もしかしていつもそんな詩人みたいなことを考えてるんですか?  
「まさか。  
これは道に迷った高校生に、人生の先輩が送る気の利かないジョークみたいなものさ」  
そう言って童顔に微笑を浮かべるその姿には、これからも自分達が世界を守っていくという確固たる自信が透けて見えた。  
俺よりも3年余計に人生経験を積んでるだけのことはある、ってことかね。  
『なにを言っておるんですか、秀明さん!この人にはもっと別のアドバイスが必要でしょうが』  
4本の手だか足だかをカサカサ動かしてガニメーデスがやって来た。ゴキブリみたいで不気味だ。  
『どうも見ていると、この方は秀明さんに匹敵しそうなほどの朴念仁なご様子。  
どうせ、長門有希さんと言いましたか、あの大人しそうな美少女にもまったく手を出してないんでしょう。  
嘆かわしい、ああ嘆かわしい。DNAに致命的な欠損があるわけでもないでしょうに、そんなことでどうするんです!  
あなた、そんなことじゃこの秀明さんの二の舞を踏むことになりますよ。  
まずは自己改革が必要ですな。試しに彼女と顔をあわせた途端に「脱げ」と言ってみるのはどうでしょう。  
私の勘では、あのテのタイプは案外素直に脱いでくれると思いますよ。どうです、興味ありませんか!?』  
黙れ、このスケベバスケットボール。  
主人公っぽいシリアスな会話を台無しにしやがって。  
 
 
さて、世界を守るためにやっておかないといけないことがある。  
そりゃもちろん、ハルヒの突拍子も無い勘違いを正すことに決まってる。  
あいつはどうも団員に女性の敵らしき行動をとってるやつがいることが不満みたいで、今回の閉鎖空間を生み出しちまったみたいだからな。  
また厄介なことにならんうちに、真の悪は谷口であるとしっかり説明せんと。  
そんなことを帰りのタクシーの中で考えていたわけなんだが、そんな心配も無駄に終わった。  
逆瀬川邸に帰ってきた俺達は、なんとハルヒに出迎えられたんだ。  
聞けばこいつは自力でここを発見したらしい。流石としか言いようがない。  
ちなみに妹は家に置いてきたそうだ。ハルヒと言えども自分の無尽蔵の体力に小学生がついてこられないことは理解していたらしいな。  
既にハルヒは長門から事情の説明を受けたらしく、俺がどうにかするまでもなく誤解を解いていた。  
辞世の句なんて詠んでる暇はなかったしな、助かったよ。  
「さぁ、谷口。あんたにはなにをやってもらおうかしらねぇ」  
「やはりそれ相応の報いは受けてもらわなくてはねぇ」  
なにやらいつのまにかハルヒと佐々さんはえらく意気投合しちまったみたいだ。しばらくは谷口で遊ぶのに夢中だろう。  
これで当分は閉鎖空間の再発もないだろうし、万々歳だな。  
 
 
「それじゃあ色々とお世話になりました」  
延々と谷口がいじくられるのをしばらく見物したあと、俺達は逆瀬川邸をおいとまさせてもらうことにした。暗くなってきたしな。  
「キョン……なんで助けてくれねぇんだよ……俺になんか恨みでもあんのか……」  
気のせいだ、谷口。俺はお前に馬鹿呼ばわりされたことなんてちっとも気にしてないぞ。  
「元気でね」  
「あなた、もう少しその猫を大切に扱ってあげなさいな」  
「バイバイ、キョンくんたち」  
「………」  
「あ……さ………ら」  
逆瀬川邸の面々がそれぞれに別れの挨拶をして、俺達を見送ってくれる。  
色々と変わったメンバーだが、やはり基本的には気のいい連中だ。ちょっと帰るのが惜しい気さえしてくる。  
「キョンくんっ」  
ん、なんだ?琴梨。  
「さっきも言ったけど、お嫁さん候補はいっぱいいるからねっ。また遊びに来るといいっさっ」  
「ああ、そうさせてもらうよ」  
この怠け者のシャミセンがここまで遠出してまで発見した溜まり場だ。たまには連れてきてやってもいいだろう。  
「んじゃあねっ」  
そう最後の挨拶を済ませながら琴梨たちは玄関を閉じ、俺達4人と1匹が残された。  
それにしても今日はいろいろと大変だったな。  
俺としても進級前にはもう世界がどうのこうのなるような事態に巻き込まれることはないだろうと油断していたから、今回のことはまさに寝耳に水だった。  
しかし有意義な1日だったとも言える。  
特に、俺みたいな気苦労をしょいこんでるのが俺だけじゃないと知ることが出来たのがなによりの収獲だな。  
情けないと思わんでくれ。面倒事を抱え込んでる人間は、自分以外にも似たようなやつがいるってだけで安心できちまうものなんだよ。  
「さて、それじゃあ帰るか」  
「待ちなさい。キョン」  
まるで、お気に入りのテレビ番組に自分の嫌いなタレントしかゲスト出演していないのを番組表を見て気付いちまったみたいな顔をしたハルヒが不機嫌そうな声で俺に呼びかけてきた。  
「さっきの娘の言ったこと、どういう意味?」  
どういう意味もこういう意味も、聞いた通りの意味だし、俺にはなぜにお前が機嫌を悪くしてるのかがわからん。  
「また来い?お嫁さん候補?アンタ本当はここでなにやってたのよ!?」  
こいつはなにを言ってるんだ?と、思いつつ、俺は先程の琴梨の発言を一語一句正確に思い出してみた。  
(さっきも言ったけど、お嫁さん候補はいっぱいいるからねっ。また遊びに来るといいっさっ)  
……………  
主語が入ってねぇ……  
「そういえばここ、やたら可愛らしい女の子がたくさんいたわよね。アンタ、SOS団団員としての本分を忘れて女遊びに現を抜かしてたんでしょう!」  
うわ、なんでそんな訳のわからん勘違いをするかな、こいつは?長門、お前からなんとか言ってやってくれ。  
「二人称……」  
……長門?お前まで一体なにを意味不明なことを言ってるんだ?  
「あなたの鴻池琴梨に対する二人称が、わたしの監視下から離れているあいだに変更されていた。なにがあったのか、わたしも興味がある」  
うぅわ!?なんでそんなこと気にするかな!?別になんもなかったぞ!  
「あなたは極めて親しい関係にならないかぎり、個人名の発言には苗字を使用する。現にわたしは今だにあなたに長門と呼称されている。  
このことから考えると、鴻池琴梨との関係が劇的に変化する事象が発生したと推測せざるをえない」  
ない!ない!まったくもって大層な出来事なんざこれっぽっちもなかった!  
「キョン…大人しく白状しちまえ。俺が涼宮に絞られてる間になにやってやがったんだ」  
テメェ!谷口!お前には友達の身の潔白を信じようって殊勝な気持ちはないのか!?  
「おやぁ?たしかお前の方から縁を切ったんじゃなかったっけかぁ?  
縁が切れた以上、俺がお前を助ける義理はねぇよなぁ」  
この野郎!さっきの仕返しのつもりか!?お前の心はバチカン市国なみの狭さなのかよ!?  
さながら今の俺は漢軍に取り囲まれて歌を歌われる楚の兵士のようなありさまだ。  
なにやらさっきから、また俺の携帯が鳴ってるみたいなんだが、知ったこっちゃねぇ!  
どうせ古泉のやつが、また閉鎖空間がでましたハルヒをなんとかしてくれ、とかなんとか言うつもりに違いないんだ、出るだけ無駄だ。  
神人の相手はお前の仕事で、俺には俺で別にやることがあるんだよ!  
俺は必死にハルヒたちを宥めながら、秀明さんとの会話を思い返し、そしてこう願わずにはいられなかった。  
世界さんよ、俺達がこんなに一心不乱に馬鹿らしい努力をしてるんだ、どうか自殺なんて早まったことはしてくれるんじゃねぇぞ!ってな。  
 
 
 
【おまけ】  
 
賑やかなお客たちが帰り、さて、僕はそろそろ夕食の準備をしなくちゃな、と思ったんだけど、ふいにこんな疑問が湧いたものだから、本人に問いただしてみることにした。  
「ところで凌央、さっきはなんて書いたんだ?巴が随分と慌ててたみたいだけど」  
僕の疑問に凌央は手に持った筆を半紙に走らせ、そして次の4文字を僕の前に突き出した。  
 
『野外露出』  
 

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