「Face To Face」  
 
陸上部でもなんでもなく、SOS団という得体の知れない団に所属する俺がなぜ今学校へと続く殺人的な長い坂を全力で走っているのかというと、理由は単純、遅刻しそうだからである。  
そしてなぜ遅刻しそうなのかといえば、もうすぐ電池が切れますよ、と音声で教えてくれるくらい気の利いた機能がそろそろついてもいいんじゃないかと思う時代になっても未だ秒針が止まる寸前までその症状を現さない目覚まし時計が俺の寝ている間に止まっていたからで、俺は駅伝選手に転向するわけでもなく校門を走り抜け下駄箱を通過し階段を走り上がった。  
時計を見るとHRまで後3分。何とか間に合いそうだ。  
ここで俺は走る速度を落としておくべきだったのだが、慌てている時はそこまで思考が回らず、教室の引き戸も開いていたのでそのまま走り込んだ。すべり込みセーフ、なんていうありふれた言葉を発する前に  
ドンッ!!  
教室に一歩入ったところで誰かとぶつかってしまった。しかも走っていた俺のほうに勢いがあり、そのまま押し倒すように倒れこんでしまった。  
「うわあ・・・」  
クラス中から、芸能人を街で見かけたときのような視線を向けられた。  
「ご・・・ごめん。大丈夫か?って、あ?」  
ぶつかった衝撃で瞑っていた瞼をゆっくりと開けると、俺の視界いっぱいに頬をほんのりと赤くしたハルヒの顔が映った。  
「あ・・・う・・・」  
俺が主語も何もない単語を発していると、  
「ちょ、ちょっといつまで乗ってんのよ・・・」  
ハルヒが蚊の鳴くような声を発した。俺はだんだんと今の状況を把握し始めた。俺はぶつかった拍子にハルヒを押し倒し、1cmくらいの距離まで顔を近づけてしまっている。そしてこの感触は・・・  
俺の左足がハルヒの両足の間に絡み合うように潜り込んでいる。そしてもうひとつの感触。そう、これだけ顔を近づけてしまっていれば、ハルヒの吐息が俺の頬にかかっているのは言うまでもない。  
「いや〜ん、朝から大胆〜!」  
前のほうの席から聞こえるこの声は垣ノ内か。  
「おいキョン。朝っぱらから見せつけんじゃねーよ。」  
このアホ声は谷口か。これらの声を導火線にクラス中が蜂の巣をつついたようにざわめきだした。  
「ねえ見て。涼宮さん顔真っ赤よ。」  
「あれがキョンでなかったら今頃殴られてただろうな。」  
「やっぱりあの二人・・・いや〜ん!!」  
俺はこれ以上ドロ沼離婚劇をスクープされる芸能人のような気分に浸りたくないので体を起こし、ついでにハルヒも抱き起こした。  
「す、すまんハルヒ。どこかぶつけてないか?」  
「う、うん大丈夫。あんたとぶつかったのが一番ダメージでかいわ。」  
 
うつむきながらこれまたちいちゃな声でボソボソ答えるハルヒ。てかその胸元を片手で押さえるしぐさやめてくれ。俺がお前を襲ったみたいじゃないか。  
そのすぐ後チャイムが鳴ったのでクラスメイトからの視線からはとりあえず開放された。ただ阪中から羨望にも似た眼差しを向けられたことはここでは割愛しておく。  
 
その不可抗力の出来事のせいか、その日ハルヒの挙動がずっとおかしい。俺と目が合うと磁石の両極同士がはじきあうように顔を逸らしてしまう。休み時間も席にちっちゃくうつむいて座っている。  
「おまえ、胸でも触ったんじゃねーの。」  
弁当の時間学食を食べにハルヒが居なくなるのを見計らったように谷口がニヤニヤしながら聞いてきた。おまえ、午前中ずっとそんなこと考えてたのかよ。しかしハルヒの胸を触っていないと断言できなかった俺は  
「んなことあるか。」  
の一言しか言い返せなかった。  
 
「それじゃあ今日は解散ね・・・」  
放課後のSOS団の活動も、ハルヒはいつもより早く切り上げそそくさと帰ってしまった。人前で平気でバニーになる団長様はついに最後まで俺と目を合わせなかった。  
「また何かしたんですか?」  
肩をすくめながら原因はお前だろ分かってんだよという視線を古泉が向けてきた。原因というか何と言うか・・・。俺は充分心当たりがあるので今朝の顛末をニヤケ顔に話した。  
「なるほど。しかしそれは涼宮さんを不機嫌にさせることでしょうか。」  
古泉はどこかの推理ドラマの探偵のように人差し指で鼻をこすりながら答えた。どういうことだ。  
「確かに今日涼宮さんの様子がおかしいのは分かりますが、僕にはイライラしているようには見えなかったんです。今のあなたの説明で分かりました。つまりー、」  
つまり何だよ。  
「照れているんですよ。あなたに。」  
はあ?  
「お分かりになりませんか?この学校で涼宮さんに近い存在は僕たちSOS団団員です。そしてさらに最も近い存在はあなたです。以前大規模な閉鎖空間が発生したあの時もこちらの世界からあなただけが選ばれた。これは大変な信頼関係にあるといっていいでしょう。そんなあなたにクラスメイトの面前で不可抗力とはいえ押し倒されたら・・・。もう、お分かりですね?」  
さっぱり分からんね。長ゼリフの途中からニヤケ率が増大していく古泉の顔に怒りを覚えながらも、俺は黙って聞くことにした。  
「まあとにかくハルヒは不機嫌にはなってないんだな?」  
「ええおそらく。」  
「ならいいじゃないか。閉鎖空間も発生しないだろうし、おまえのバイトとやらも無いだろうよ。ハルヒが照れるなんて異常気象も真っ青な現象だが、明日になれば元のバカ明るい顔になってるだろうよ。」  
閉鎖空間の発生という懸案がクリアされたことで肩の荷が下りたが、まだ俺に意味深なニヤケ顔を向けてくる古泉が新たな懸案になった。何なんだよ。  
「本当は嬉しいんではないですか?」  
殴るぞお前。  
 
SOS団の活動も団長が帰ってしまったのでそのまま解散、俺はいつもより早く帰路につけたことが少し嬉しかった。何しろいつも放課後文芸部室で何をするわけでもなく古泉とゲームばかり、しまいにはハルヒに振り回されて自分の時間というものをあまり持てなかったからな。しかしいざ自分の時間を持てたからといってそれを有意義に使えるとは限らない。ベッドに横になっているうちウトウトと睡魔に襲われた。朝ダッシュのせいだな。  
ピリリリ・・・  
目覚まし時計ではなく携帯の呼び出し音によって俺は睡魔から逃げ出した。相手は・・・古泉か。  
「古泉です。何と言いましょうか、閉鎖空間が発生しています。」  
閉鎖空間、という言葉で完全に睡魔から開放された。ハルヒは不機嫌になってるわけじゃないから閉鎖空間は発生しないんではなかったのか?  
「ええ、僕もそう思っていたんですが・・・どうやら安易な考えだったようです。しかも今回は緊急事態と言ってもいいでしょう。」  
なんだなんだ?まさか以前のようなことをまたハルヒにしろとか言い出すんじゃないだろうな。  
「実は、今までの閉鎖空間とは異質のものでして」  
確か、ハルヒは何も無いところから情報を創り出す能力を持っていると長門が言っていた。その能力で新しい形の閉鎖空間を創り出したのだろうか。  
「どんなものかは、聞いてみれば分かります。」  
聞くとは?古泉の言葉の意味が今ひとつ理解できなかったが、携帯のレシーバーの向こうでガサガサと携帯を動かしているような音がしだした。やや間があって、やけにエコーのかかったどこかで耳にしたような人のものと思われる声が聞こえてきた。  
「キャ〜キョンに押し倒されちゃったあ。どうしよう。クラスの連中の注目の的だわっ。みんなあたしとキョンが付き合ってると思ってるかもお。どうしよどうしよっ。」  
・・・何だこれは。はしゃいでるハルヒの声じゃないか。  
「聞こえましたか?これ、神人が喋っているのです。」  
冗談はよせ。  
「本当ですよ。涼宮さんが僕の前でこんなオノロケを言うはずありません。」  
古泉の説明では、その声はハルヒそのものの声で間違いないらしい。神人というのはハルヒの精神状態を反映したものだから、その声はハルヒの心の声だというのだ。まったく俺たちの神と評される団長様の手にかかれば本来なら自重で立つこともできない巨人が別世界で暴れまわり、挙句の果てには顔の骨格も違えば声帯なんてものがあるのかどうかも分からないのにその創造主の声色で喋るのかよ。俺は携帯を落としそうになりながらひとつの疑問が湧いてきた。  
「古泉。閉鎖空間とやらは、ハルヒの精神状態が不安定なときに発生するんじゃなかったのか?今のあの声は、どう聞いてもはしゃいでる声だぞ。」  
「確かにそうです。しかし精神状態というのは、必ずしも不機嫌なときに不安定になるとは限らないということでしょう。」  
つまり、またややこしいことになるということか。  
「まあ、そんな悲観なさらずに。今回のことに当てはめてみれば、涼宮さんは朝のあのアクシデントが実は嬉しかったんですよ。けれどあなたとクラスメイトの手前それを表に出せなかった。でも心の中では嬉しさが記憶とともに増大していく。しかし恥かしくてあなたと目を合わせることもできず誰にも言えない。それがストレスになったのです。ほら、聞いてください。」  
長時間携帯を近づけていたせいで少し痛くなってきた俺の耳に、再び神人の声が聞こえてきた。  
「あ〜ん、キョンのばかあ〜、キョンのばかあ〜、あんたがはっきりしないからあ〜」  
その子供のように嬉しそうな声と共に、建物か何かが破壊される轟音が響き渡る。さしずめハイテンション神人か。  
「おい古泉。」  
「何でしょう。」  
やけに余裕のある返事だな。  
「さっさとそのハルヒ神人を片付けろ。単に喋るってだけで、後のスペックは今までと変わらんのだろ?」  
「ええ。その通りです。しかしー、」  
こいつ、何か企んでるな。  
「もう少し、涼宮さんのオノロケ声を聞いていたいという誘惑に駆られていまして」  
 
決定。明日必ずこいつの頬をつねってやる。  
 
 
終わり  

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