「暑い…」
思わず言葉が漏れる。
もう九月も終わりだってのにいったいこの惑星はどうしちまったって言うんだ。
俺はこの星が徐々に太陽に吸い込まれていく様を思い描き、頭を振った。
なんだかそんな馬鹿な考えすら今では洒落にならないような気がするからだ。
しかしそんな茹だるような暑さの中にあっても律儀に文芸部室に向かっている俺は何を考えているんだろうね。
当然部室にはクーラーなんて備え付けられてないし、あるのは最近どうも調子の悪い扇風機が一台だけだ。
まあいいさ。家に帰ったところで暑いのは同じなんだ。だったら朝比奈さんのお茶と笑顔を楽しめるこちらを選択するのもけっして間違いとはいえないだろう。
コンコンと部室の扉を二回ノック。朝比奈さんの着替え場面に遭遇してしまわないようにと習慣化してしまったが、そろそろそんなドッキリハプニングが懐かしくなってきた。
「はーい。どうぞ。」
いつもどうりの返事。きっと中ではメイド服の朝比奈さんがけなげに給仕活動に勤しんでいる事だろう。
果たしてそのとおり、中にはいるとメイド姿の朝比奈さんは
「今、お茶を入れますから少し待っていてくださいね。」
と明るく笑っていた。
ああ癒される…
今この瞬間、蒸し風呂のようなこの文芸部室はたとえどれほどの高級リゾートであろうと及びもしないパラダイスだ。
しかし朝比奈さん、あなたそんな恰好で暑くないんですか…
忠実にハルヒの命令を守り続ける朝比奈さんの忠義に目頭を熱くしていると、
「やあ、どうも」
と、この暑さの中でも関係ない古泉の爽やかスマイルが目に飛び込んできてしまった。
パラダイスが一転して元の文芸部室に戻った心地だ。
「涼宮さんは今日は来られないようですね。それでもしっかり部室にやって来るとは、あなたもご苦労な事ですね。」
そんな事は自分でも分かっているが、お前には言われたくないぞ。
さて、ハルヒが今日はいないという事は残りの団員はただ一人。
隅の方に目を向けてみると、分厚い本に目を落としていた少女がこちらを向き小さく会釈した。
我等が団員にして、唯一の文芸部員でもあるその少女、
喜緑江美里がそこにいた。
?
何か言いようのない違和感を感じる。
しかしどれだけ考えたってその違和感の正体に行き着くことはできなくて、
「どうかしましたか?なにやら変な顔をなさっていますが。」
と古泉が尋ねてくる。
「いや、気のせいかも知れないが、なんか変な感じがしないか?」
「変な感じ…ですか?朝比奈さんの恰好もいつも通りですし、喜緑さんもいつもと変わりません。涼宮さんがおられないのが唯一の……ああ、そういうことですか。」
と、ニヤニヤという音が実際に聞こえてきそうな笑みを俺に向けてきやがった。
違うぞ!そういうんじゃないからな!
「まあ、そういうことにしておきましょうか。」
クソ、古泉なんかに話すんじゃなかった。
しかし実際にどうにも妙な感覚が絶えないのだ。
ちょうど去年の先月頃に体験したエンドレスサマーでのあの感覚に似ていて…
そういえばあの事件はどうやって解決したんだったか。
たしか朝比奈さんと古泉が異変に気づいて、でも確信を持ったのはあいつが…
??
駄目だ。咽元に引っかかった小骨がどうやっても取れないような…
いや、違う。小骨なんて言葉で済ませていい物じゃないはずだ。もっと大切な何か…
結局それからは、古泉は独りボードゲーム、朝比奈さんはすかさず空になった湯飲みに茶を注ぎ、喜緑さんは読書し続け、俺はウンウンうなって答えの出ない考え事をし続けるだけだった。
ハルヒのいない時の活動はこんなもんだ。いつも通り。
そう、俺以外はいつも通りのはずなのに…
家に帰り自室に戻ってからも俺の疑問は続く。
なにかおかしいんだ。今日の部室はどこかおかしかった。
俺が一年と半分近くを過ごした思い出とはどこかが…
思い出…
「そうだ、アルバム!」
名案だ。思い出の中にある部室と違ったというのなら、その思い出と実際につき合わせてみればいい。
俺にアルバムを残すような趣味はなかったが、ハルヒが事あるごとにパシャパシャ撮っては現像して渡して来るのだ。
捨ててしまうのも忍びないので保存しておいたものがここに…
アルバムの中にある部室の景色、それは今日目にした風景となんら変わりのないものだった。
ハルヒがどの写真でもど真ん中に写っていて、古泉は変わらぬ爽やかスマイル。
朝比奈さんは控えめに、俺は憮然と。
そして端のほうで椅子に座りながら、本に落としていた目を少しだけ上げてはっきりと微笑んで写っている…喜緑江美里…
「違う」
そうだ、違う。今度ははっきり分かった。
喜緑さんが座っている辺りだけ安っぽい嵌め込み合成したような違和感がある。
例えどんなアイドルのアイコラ写真すら見破ってしまうような夢のない男に見せたところで、この写真は本物だと保証してくれるだろう。
そりゃそうだ。実際に本物なんだろうから。
これは俺だから気づくんだ。
俺の知ってる宇宙人はこいつじゃあない。無口で無表情で、でもけっして無感情ではなかった。
この写真のこいつのように、作ったような器用な笑い方はできなかったんだ。
今年の七夕頃、四年前の七夕の思い出を話していたのは…
その時、表情の作り方を知らなくて、不器用に、でもはっきりと微笑んでいたのは…
そうだ、忘れていいはずがない。
俺は驚きと喜びと共にその瞬間を脳裏に焼き付け、これからなにが起ころうとも今この瞬間のことは一生忘れないだろうと思っていたんじゃないか。
「長門っ!」
その名前は自然と唇から漏れ出した。