いつものように放課後になり、いつものようにSOS団の基地となった文芸部室に足を運ぶ。  
ハルヒは掃除当番なので、まだ部室にはいないだろう。  
朝比奈さんは鶴屋さんと用事があるらしい。あの天使が宝石で飾られてるがごとき  
スウィートエンジュエルボイスで謝られたら、世界中どころか宇宙中の男は許すだろうね。  
そうすると中にいるのは長門と古泉しかいないわけで、ノックの必要はなし。  
ドアを開けてみると、いつものように窓際で読書に勤しんでいる長門がひとり。  
いつもの席に座ると、長門が本から視線をこっちに向けていた。  
「古泉一樹から伝言」  
どうした? 古泉が長門に伝言なんて。  
「バイトがあるので、今日は帰る。と」  
それだけ言って本に目を戻す。  
となると、今日の残りはハルヒだけか。つまりハルヒの思いつきに振り回されるのが  
必然的に俺ひとりになるわけだが、気づかなかったことにしよう。  
 
   長門有希の検査  
 
朝比奈さんもいないことだし、ふたり分のお茶を煎れて、長門の手の届くところにひとつ置く。  
自分の席に戻り、お茶をすする。しかし自分で煎れるお茶と、  
朝比奈さんが煎れてくださるお茶はやっぱり違うね。長門もこの違いはわかるんだろうか。  
本から目を離さないまま湯飲みに手を伸ばし、まっすぐ口に運ぶ長門をうかがう。  
長門が一口飲んだところで動きが固まった。微動だにしないのは珍しくはないが、  
なぜこっちを見るんだ。  
「エラー発生」  
エラー? なにが起きた。  
「口腔内の一部で痛覚を感知」  
痛いってことか。  
わずかに頷く。なにかお茶に入っていたか?  
「違う。神経系の痛覚。異物混入は感知していない」  
長門が湯飲みと本を置いてから、可愛らしく小さな口を開ける。  
「確認して」  
確認してって、俺か?  
 
しかし長門がその状態から動きそうもないので、椅子を正面に動かして開けられた口を覗き込む。  
「いぎのおこのほー」  
いぎのおこ? ああ、右の奥か。口を閉じてから喋ってもいいんだぞ。  
宇宙人とはいえ、女の子の口の中を覗くっていうのはなぜかドキドキするな。  
それはともかく、綺麗に並んだ下歯の一番右奥の根元が、少し色が変わっているような……  
これは虫歯のなりかけか?  
「虫歯?」  
宇宙人でも虫歯になるんだな。それだけ長門が人間に近いってことなんだろうか。  
あれだ。口の中で悪い菌が歯を悪くしちまうんだ。そこにお茶が沁みたんだろ。  
詳しくは長門が検索したほうが早いんだけどな。  
「そう」  
長門なら歯医者に行かなくても、再構成すれば治せるから大丈夫だな。  
「虫歯についてデータベースにアクセスした。再構成による構造修復、及び保護は可能」  
よし、じゃあやっちまえ。お茶が冷める。  
「その前に確認したいことがある」  
動かした椅子を元の位置に戻す前に、長門が口を開いた。  
「あなたの口腔内」  
ちょっと待ってくれ。口腔内? 俺の口の中?  
「データベースには模範的な口腔内のデータしかない。しかしデータによると、  
口腔内は個人によって差異が存在する。わたしはあなたの口腔内を確認したい」  
見てどうするんだ。それに俺もそんなに歯とか綺麗なほうじゃないんだが。  
「構わない。あなたはわたしの口腔内を見た。わたしもあなたの口腔内を見る権利がある」  
そう言われてもな。そんな見せるほどのもんでもないというか。  
「古語にもある」  
長門は一歩も引き下がるつもりはないらしい。  
「歯には歯を」  
違うだろ。しかも『目には目を』を飛ばすな。  
 
諦めてくれそうもないので、しかたなく戻そうとしていた椅子をそのままに、  
長門に口を開けて見せた。こんなことなら体育が終わった後に、  
うがいをしっかりしておくんだったな。  
長門は椅子から立ち上がり、しばらく視線を向けていたが、  
いきなり右手の人差し指を口の中に入れてきた。  
な、長門さん!?  
「視覚による確認だけでは細部の状況を把握するのは困難」  
だからって指を入れるのはどうかと思うんですが!  
白くて細い指が歯をなぞっていく。舌をひっこめて固定しているつもりでも、  
かすかに触れる長門の指をなんだか意識してしまう。  
長門がわざと舌に触れているとは思えないが、なんだか口の中が甘い気がしないでもない。  
長門の指のせいだろうか。  
「噛んで」  
なんだって?  
「噛んで」  
指先は下側の左奥歯の上で、そこから歯並びに沿って置かれていた。  
このまま噛んだら長門の指の大部分を挟み込んでしまうだろう。  
長門ならライオンに噛まれても即座に治してしまいそうだが、本気で噛むわけにもいかない。  
細い指が傷つかないように、甘噛みのように軽く噛んでみる。  
自然と頬の内側が指に触れるが、これはしかたがないというか。  
長門には何も変化がないように見えた。が、少し目が潤んでるようにも見える。  
「開いて」  
口を開けってことだろうな。言われたとおりにすると、指が引き抜かれた。  
「目を閉じて」  
口を閉じる前に、目を閉じろってことか? わけわからん。  
しかし長門の指の甘さか恍惚感か、口に残ってる感覚に思考力を奪われる。  
目を閉じると、首の後ろに圧力が加わった。まるで腕を回されたような。  
そして口がやわらかいものに塞がれた。  
目を見開くと、長門が俺の口に吸いついていた。  
 
「……ちゅ……ん、む……」  
長門の舌が官能的に口の中を蹂躙する。歯の表面と裏側、唇や舌までところかまわず。  
「ちゅ、ちゅ……あむ……」  
たっぷり5周分ほど嘗め回した後、首に巻きついていた腕が解かれた。  
細く透明な糸がふたつの口を橋渡しして、床に落ちる。  
「視覚による確認だけでは、細部の状況を把握するのは困難。  
また口腔内は舌部の接触が最も多い。よって舌部で確認するのが最適」  
じゃあ指でやらなくてもよかっただろ。いや、舌だったらいいってわけじゃないが。  
口端から垂れた涎を拭う。まさか長門から奪ってくるとは……  
「視覚による確認、手指と視覚による同時確認、舌部による接触確認。  
これで口腔内のデータがより完全になる」  
長門は自分の椅子に座ると、  
「口腔内の再構成を開始」  
ゆっくりとまばたきする。  
「再構成を終了」  
そこで部室のドアが勢いよく開かれる。もちろんこんな開け方をするのはひとりしかいない。  
「はーい、お待たせ!」  
ハルヒが足を踏み鳴らしながら団長席に向かう。  
「みくるちゃんはいないのね。キョン、お茶!……て、有希、どうしたの?」  
相変わらずの団長様に目を奪われていたが、長門に目を戻すと、  
細い自分の指を口にくわえている。  
それはさっき俺の口に入れていた指なわけだが。  
長門は口から指を引き抜くと、俺にだけ聞こえるような声でつぶやいた。  
「ユニーク」  
 
特に目立ったハルヒの動きもなく、本日のSOS団の活動も早々に終わる。  
ハルヒは戸締りを俺に押しつけて帰ってしまった。  
鍵をかけ、長門と校門まで並んで歩く。  
「聞きたいことがある」  
長門がこちらを見上げていたので立ち止まってみる。  
「人間は口腔内の衛生状態を保つため、歯磨きという作業を行う」  
そうだな。お前も歯磨きくらいやってるだろ。  
「データとしては持っている。しかし、より効果的な方法を教えてほしい」  
歯磨きより効率的な方法? そんなのあったか。  
「正確には、より効果的な歯を磨く方法」  
なるほど。といっても念入りに時間をかける、とかだろ。  
「教えてほしい」  
教えるって、そんなの――  
「……あむ」  
いきなり長門が俺の手を取り、人差し指をくわえていた。  
 
つまりは俺の指を歯ブラシ代わりにして、動かして見せろということだった。  
こら、上目づかいはやめてくれ。  
 
その後。指で教えるのは丁重に断り、ふたりでドラッグストアに寄って  
新しい歯ブラシやフロスなどを購入。長門がよくわからないらしく、俺が選んだ。  
ついでに俺も今の歯ブラシがヘタれていたので、自分のを買った。  
そして帰宅後、ドラッグストアの包装から出てきたのは長門が買った歯ブラシだった。  
電話して確認してみると、長門のところには俺が買った歯ブラシがあるらしい。  
『明日、持ってきて』  
今夜と明日の朝の歯磨きはどうするんだ。  
『かまわない。使って』  
そうは言われてもな。明日、コンビニに寄って新しい歯ブラシを買うべきか。  
『わたしもあなたのを使う。交換。それで対等』  
 
まさか歯ブラシを前に頭を抱える日が来るとは思わなかった。  
 

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