それはある日の昼休み。俺は弁当と依頼品を持って部室を訪れていた。
「よう、長門。相変わらず昼間も読書か」
こくりと頷く長門を横に、俺はいつもの指定席ではなく団長の席につく。目的はパソコンだ。
電源をいれパソコンが立ち上がる間に、俺はお茶を二人分入れる。
一つを長門に渡し、自分の分を持って再度着席。
弁当と依頼品を広げつつネットブラウザを立ち上げると、俺は検索エンジンを基点に様々なサイトへとアクセスしだした。
「…………」
ふと気づけば長門がこちらを見つめている。いや、正確に言うなら『俺の持ってきた依頼品を』か。
「ああ、これか? これは『犬の言葉がわかる機械』だよ」
「翻訳機?」
「そこまで大したもんじゃないけどな。阪中のなんだ、これ」
それは特にこれと言った深い事情も、宇宙的未来的超能力的な陰謀も無い、まさに日常茶飯事至極簡単な話であった。
今日の朝、阪中はこの機械を俺たちに見てもらえないかと聞いてきた。
昨日、阪中が親友にして家族である愛犬ルソーにつけて遊んでいたら、突然電源が落ちて起動しなくなったのだとか。
「苦手なのね私、こういう機械とかって」
機械に疎いらしい阪中一家は自力修理をあっさりと断念。メーカー修理に出そうという話になった。
ただ、メーカーに出す場合戻ってくるまで一ヶ月近くかかってしまうケースもあると聞く。
「でも、実は簡単に直るかもしれないのね。電池交換とかみたいな感じで」
そう考えた阪中は、修理に出す前に一度誰かに見てもらったらどうかと両親に提案してみる。
「そして阪中一家から白羽の矢を立てられたのが、かつてルソーを救った実績のある我らSOS団だった、という訳だ。
後は団長閣下からの勅命さ。『あんた、とりあえず見てみなさいよ』ってな」
俺が簡単な事のあらましを伝える間、長門は『犬語翻訳機』を手に取り興味深く見つめていた。
さて、もう少し検索してトラブルQ&Aとか探してみようと思っていた矢先、
「装置の一部に電圧異常を確認。これが原因と考えられる」
長門はあっさりと故障の原因を見抜いてしまった。流石は宇宙の神秘、インターフェースはダテじゃない。
「直せそうか?」
「修復可能。ただ、もう少し詳しく調べてみたい」
明日まで預かるって言ってあるからそれは問題ない。珍しく能動的な長門に、俺は内心嬉しく感じていた。
「それじゃ、そいつの修理は任せていいか」
「いい。私自身もこの装置に興味がある」
長門は目の色を少しだけ輝かせながら頷いた。
翌日。長門から修理されて少々形の変わったブツを受け取ると、ハルヒと共に坂中へと渡す。
やばい所を開けたんでメーカー保障が効かなくなったが、その分サポートは長門がしっかり行うらしい。
俺の知る限り、世界一優秀なサポートセンターとなる事だろう。
「助かったのね、ホント。ありがとう」
「有希にかかれば、それぐらいどうって事無いわよ」
そして放課後、阪中が喜んでいた事を長門に告げ、この件はあっさりと終了した。
──そう。少なくとも、この時の俺は『この件はあっさりと終了した』と全く疑いもしなかった。
- * -
翌日。俺は阪中に翻訳機の調子を聞いてみることにした。
「よう、阪中」
「なにかな、ルソー」
阪中がこれ以上無いというぐらいの、何ていうか至高だか究極だかといった謎の言葉がぴったり当てはまるぐらい
幸せ全開な満面の笑みを浮かべて答えてきた。
さて、俺はいったい何処から突っ込むべきだろうか。悩んだ挙句、まず俺はルソーではない事を阪中に確認させた。
「あ、ご、ごめんね! つい反射で」
何の反射で俺がルソーになってしまうんだろうか。更に突っ込みどころ満載だ。
今の阪中が相方ならあと十年は突っ込んでいけそうに思える。
一体全体何が普段は大人しめのお前に、まるで俺の後ろに鎮座するヤツの様なヒマワリが咲き乱れると言った形容詞が
似合う程の笑顔を浮かべさせ、まさに脳内ハッピーセット状態と言った状態へと陥らせているのだろうか。
どうかその辺り、じっくりとご説明して頂きたい。
「えっとね、あの機械のおかげかな」
あれが直ったのがそんなに嬉しいのか。よっぽどルソーと話したかったんだな、お前。
「もちろんなのね。あ、でもちょっと違うの」
どっちなんだよ。相変わらず不思議で不器用な喋り方だ。俺が更に問いただそうとしたが、
「ほら始めるぞ。お前ら席に着け」
と、岡部がやってきてしまった為に話は中断されてしまった。
まあ、とりあえずちゃんと直っているようなので問題ないだろう。長門の腕を疑ってるわけじゃないけどな。
しかし、それから更に数日後の放課後。
「いったいどういう事だか説明しなさい」
知らん。俺が誰かに聞きたいぐらいだ。
特別教室を掃除しながら、俺はハルヒと二人で話していた。議題は『阪中の態度について』。
「何かさ、最初は阪中さんが……キョンの事を好きになったのかな、って思ったの。今思えばありえないバカ話よね。
でももしそうだとしたら、キョンにたぶらかされてキズモノになる前に、友人並びに団長としてキョンを好きになるの
だけはやめときなさいって注意するつもりだったのよ」
誰がたぶらかしてキズモノにするっていうんだ。俺は理性の無いケダモノか何かか。
「でもさ、何か違うのよね。こう、恋って言うよりは全てを包み込む慈悲の心? って感じで」
ハルヒの感想は実に的を得た答えだった。
実はここ数日、阪中の様子が目に見えておかしくなっていってた。
俺を見る態度が何故か慈愛に満ちたモノになり、俺が喋る言葉を一字一句逃さず聞きとろうと真剣な表情をみせる。
いったい阪中の中でどんな心境の変化が訪れたというのだろうか。
「直接聞いてみたらどうだ?」
「うん……やっぱそれが手っ取り早いわよね。でも……」
なるほど、一応ハルヒなりに気後れしていたわけか。だったら背中を押すのが俺の役目だろう。
「友達なんだろ。だったら普通に聞けば大丈夫さ」
「……わかった。今から聞きに言ってくる!」
部活の真っ最中にかよ。はた迷惑この上ないから、今日一緒に帰るとかその程度にしておけ。
今にも駆け出しそうなハルヒの襟首を捕まえ、俺は遠慮という言葉をハルヒに教えてやった。
どうせ二秒で忘れるだろうがな。
- * -
さて、更に次の日。
阪中の『慈悲の心』病はどうやら伝染する事がわかった。なぜなら
「……いいなぁ、JJ。あたしも犬飼おうかなぁ」
「どうしたんだハルヒ、お前まで」
「え、あ、な、何でもない、わよ!?」
あからさまに目に見えてまず間違いなくハルヒが阪中に病気を移されていたからだ。
こりゃマジでやばいかもしれん。俺はそう思い、ハルヒ以外のメンバーを昼に緊急招集しこの事を伝えた。
「昨日の帰りに阪中さんのお宅まで一緒に帰られたのなら、下校中か阪中宅かで何か楽しい事があったのでしょう。
昨日から涼宮さんの精神がプラス思考に不安定な状態を見せています」
涼宮ハルヒ専門精神鑑定医の古泉が答える。まあどう考えてもそうだろうな。
「きっと涼宮さんはルソーさんの可愛らしさが改めてわかったんですよ。わたしも会いたいなぁ」
それだけなら良いんですが。長門、お前はどう思う。
「情報不足。判断できない」
「ここはやはり現場百遍。阪中さんのお宅を訪れてみるのがいいかもしれません」
阪中の家へ、か。確かにそれが一番手っ取り早いかもしれんな。だが、どう理由つける。
「翻訳機の様子がみたい、そう言えばいい」
なるほど。それじゃその線で阪中に話をふってみる事にしよう。
「いつでも大歓迎なのね、わたしの方は」
阪中は相変わらず満面の笑みを浮かべて答えてきた。それを横で聞いていたハルヒは片手を挙げて立ち上がると
「それじゃ今週のSOS団活動は、全員でJJに会いに行きましょう!」
阪中に負けないぐらい笑みを浮かべてそう高らかに宣言した。
そんな訳で土曜日。
俺たちはいつもの場所に集合し、電車に乗って阪中宅へと移動した。何度みても人生に不公平さを感じる家である。
「歓迎するのね、いらっしゃい」
阪中に迎え入れられて玄関をくぐると、廊下に目的のお方が鎮座していた。
「こんにちは、JJ! ハルヒが遊びに来たわよっ!」
ハルヒが豪快に手を振って挨拶をする。後ろがつかえてるからとにかく靴を脱げ、俺がそう突っ込もうとすると
『おう、遊ぼうハルヒ!』
聞き覚えのあるような無いような声で、ルソーがハルヒに答えてきた。
あまりの出来事に一瞬凍りつく。今喋ったのはルソー、なのか? シャミセンの次はルソーだというのか?
俺が目線を古泉に送る。これは一体どういうことだ。
古泉は表情はそのままで、ただ瞳には困惑の色をみせるという器用な表情を浮かべていた。
「え、ど、どうしたんです、キョンくん。そんなはしゃいじゃって」
後ろから朝比奈さんが何故か俺に聞いてくる。って、どうして俺に話を振るのでしょうか。
「だって今遊ぼうって答えたの、キョンくんでしょう?」
更に話がこんがらがる。こうなったら最後の手段とメンバー最後の一人に目線を送ると。
「順調」
もう訳わからん。どこがどう繋がっているのかわかる人間がいたら教えていただきたい。
「何やってんのアンタ、まるでバカみたいよ? まぁバカで合ってるんだけど」
『バカ?』
ルソーが返す。ハルヒは俺を無視してJJに語り始めた。
「覚えてるかなJJ。キョンに有希に古泉くんにみくるちゃん! みんなJJに会いに来たのよ!」
『覚えてる! みんな来た! 遊ぼう、遊ぼう!』
マジで会話していやがる。とにかくどうすればいいのか考えをめぐらせていると、古泉がふと手を叩いた。
「……なるほど、そういう理由でしたか。それなら全てに頷けます」
全然わからん。そこで一人納得するな。俺は古泉にどういう事かと詰問する。
だが古泉より先に長門がこの奇妙な状況の解答を示した。
「喋っているのは翻訳機。順調。よかった」
- * -
「元々の翻訳機はあまりに稚拙。この惑星における既知の技術を逸脱しない範囲で改良を施した」
……逸脱してないのか、コレ。凄いな人類。全世界の技術を合わせれば犬と会話できるところまで行っていたとは。
「それにしたって凄いのね! ルソーがお喋りしてくれるのね!」
「凄くない。解析したルソーの言葉をサンプリングにより音声化しているに過ぎない」
オーバーテクノロジーギリギリの範囲だと思うが、とりあえずそれはいい。
お喋りどころかこっちの言う事をルソーが理解しているような気もするが、それも置いておく事にしよう。
それよりも長門、一つ重要な事を聞かせてくれ。
「何?」
何たってルソーのサンプリングボイスが俺の声なんだ。
朝比奈さんが勘違いした理由はここにある。ルソーの言葉はどうにも俺の声で喋っているようなのだ。
人間は自分の声を正しく認識する事はできない。
自分が発音した声は、耳で聞くのと同時に直接頭蓋骨にも響いているからだそうなのだが、俺には詳しい事はわからん。
それゆえ俺自身はルソーの声を聞いても「俺の声ってこんな杉田智和っぽかったか?」と少々首をひねる部分がある。
ただ朝比奈さんや古泉が俺の声だと言っているので間違いはないのだろう。
「違和感の無いサンプリングボイスの作成には、数多の組み合わせに対応できる数多のデータが必要となる。
わたしの持つデータの中で最もサンプルデータが多かったのがあなただった。だから」
そう告げながら、長門は自分の胸にそっと手を置いていた。
長門の所持するサンプルデータとは、それはつまり長門の記憶って事だ。
コイツの事だ。きっと俺たちが今までしてきた会話の全てをその胸の中に記憶しているのだろう。
「記憶している。……わたしにとって、何よりも大事なモノ」
それにしても俺が一番サンプル数が多いって事は、長門に関わった連中の中で俺が一番長門と喋ってたって事なのか。
意外と言えば意外な事実に驚いた。
お茶菓子として出されたシュークリームを食べながらハルヒが言ってくる。
「もう最初見て聞いた時はビックリしたわよ! なんせJJがキョンの声で迫ってくるんだから!」
そう言ってルソーの方をみると、ルソーは今は朝比奈さんとじゃれているところだった。
「ルソーさん、こんにちは〜。わたしの事はみくるちゃんって呼んでくださいね」
『みくるちゃん、覚えた。みくるちゃん遊ぼう、さあ遊ぼう!』
「ハ〜イ、遊びましょうね〜。くひゃっ、ルソーさん、舐めたらくすぐったいですよ〜」
『遊んで遊んでー! みくるちゃん舐めちゃうぞー!』
……何だかもの凄く恥ずかしいやり取りを聞いてしまった。しかもアレは俺の声だ。
穴があったらルソーと共に埋葬されたい気分になってきた。
「今の朝比奈さんのようにああしてルソー氏とたくさん遊んでいたからでしょう。
あなたの声がルソー氏の声でもあるとお二方に刷り込まれた結果、教室でのあなたへの妙な態度となった訳です」
俺が喋ればルソーが喋ってるようにも聞こえ、それで阪中が反応してしまっていたって訳か。
「そうなのね。ルソーがいる気分になるのね、声を聞いちゃうとどうしても」
「あたしも次の日は混乱したわよ。ギャップも激しいし」
ギャップ?
「あんたは絶対あんな事喋らないでしょ?」
ハルヒが頬を赤らめつつ、ニヤリと笑いながら再度朝比奈さんとルソーに視線を移す。
『みくるちゃん大好き! だから遊ぼう、遊ぼう!』
「ふあっ!? だ、だい、す……?」
『大好き! みくるちゃん大好き!』
朝比奈さんは顔を真っ赤に染め、一瞬こちらに視線を送ってくる。
「あ、あはっ、あはは〜〜っ! いいですよー、どんどん遊んじゃいましょう〜!」
そして何かが切れたように、朝比奈さんはルソーをとにかく撫で回していた。
俺は最後の理性でどうにかシュークリームを落とさないよう手に持ちながら、さて穴掘り用のシャベルはどこに
あるのかと絶望と銷沈を込めた眼差しで部屋を見渡していた。
「みくるちゃん、JJの独り占めはずるいわよ!」
ハルヒが手についたクリームを舐め、ルソーの下へと走り寄る。
『ハルヒも遊ぶ! ハルヒ甘い! ハルヒ大好き! ハルヒ大好き!』
「きゃっははははははっ! ル、ルソー可愛いーっ!! ほら有希もおいでよ!」
手に残った甘味を舐められながら、ハルヒはちらちらとこちらに視線を投げてくる。
そのまま俺の表情を伺いながら、コレ以上無いぐらいの笑いを見せつけてきた。
絶対変な想像をしてる顔だ、あれは。
……は、はは、ははははははははははははははははははははははは。
もう何ていうか笑うしかねえだろコレ。
なんともいえぬ虚脱感と疲れが全身を駆け巡り、俺はただ笑いながらソファーに横倒れた。
ハルヒに呼ばれ、長門もシュークリームをもふもふ食べながらルソーに近づく。
「ほらJJ。この子があなたの病気を治してくれた有希よ」
『有希、覚えた! 有希も甘い匂い! 有希大好き!』
シュークリームの甘い匂いをかぎつけたか、長門のそばへと走っていく。
「有希?」
ルソーを撫でながらそうぽつりと呟き、そのまま首だけ回して俺の方をじっと見つめてくる。
ハルヒは既に笑いすぎて死にそうな状態だ。
「どう、有希! 可愛いでしょうJJ!」
「……ユニーク」
長門、頼むから今すぐ声を変えろ。変えるんだ。変えなさい。変えてくれ。変えてください、お願いします。
魂が抜け出るような脱力感を全身に受けながら、俺は心で涙を流しながら訴えた。
そんな俺の悲痛な願いに、その場にいた全員が反応を見せる。
「ええーっ! いいじゃないコレ、あんたらしくなくてメチャクチャ面白いわよ!」
「そうですよ、キョンくん。せっかく長門さんが作ったんですから、このままにしておきましょうよ〜」
「凄く寂しいのね、ルソーが話さなくなるのは」
「僕はあくまで涼宮さんに賛成です。わかってますよね?」
「……有希?」
ハルヒが目に涙を浮かべながらヒマワリの如き笑いを浮かべ、朝比奈さんと阪下は瞳をブリリアントカットした
ダイヤモンドに負けないぐらい輝かせ、古泉はいつもの調子で微笑み、最後に長門が数ミリ程度の寂しさを浮かべ、
首をかしげて俺を見つめてきた。
いや誰も機能を変えろとは言ってない。俺はただ、声を変えて欲しいと言っているだけだ。
「却下。団長命令ね」
あっさりハルヒが返す。横では古泉が『ご愁傷様です』とでも言いたげな視線を送ってきていた。
ダメだ、どう見たって旗色が悪い。朝比奈さんの表情なんて純粋無垢な最終兵器だ。
俺は盛大に溜息をつくと、しぶしぶプライドとか尊厳とかがつまった心をボッキリ折る事にした。
「…………好きにしろ」
『オシッコー!』
絶妙のタイミングでルソーが叫び、自分用トイレへと走っていく。
全員がルソーを見つめ、次いで俺を見つめて同じ表情を見せる。変わらないのは長門ぐらいか。
そうして一瞬後、全員がこれ以上無いぐらいの大笑いを始めた。古泉まで目を押さえて本気で笑っていやがる。
ああもう勝手にしやがれ、俺は倒れ込んでいたソファーにうつぶせ、何も聞こえないふりをした。
かつてハルヒが望んだ通り、世界は楽しい方向へと向かっているようだった。