「まったく、暑苦しいわね。この部屋」
暑苦しいのはお前だ、ハルヒ。しかし今はそんなことに突っ込みを入れてる場合ではない。
今はこの課題を終わらせることが先決だからな。
それに我が家は今、電気代節約キャンペーン中なんだ。七月からクーラー使い過ぎたせいで、
電気代の請求書を見た母上のご機嫌は粉飾決算が発覚した直後のどっかのIT会社の
株価なみに絶賛下落中なんだ。
夏休み早々の合宿から戻って以降、お盆まで音沙汰のなかった我らが団長様が、
お盆を過ぎると同時に怒涛のSOS団活動に熱中したお陰で、俺の課題消化スケジュールは
大幅に狂ってしまったわけで、その結果、八月三十一日の今日、俺は山積みになっている
夏休みの課題を相手に、朝からシャーペンを走らせるはめになったわけだ。
まあ、夏休み最後の一週間を課題にひいひい言いながら過ごすのは、俺にとっての
恒例行事とも言えるわけで、その点では、今年は長門や古泉のお陰で例年よりは楽に
こなせそうだが、そもそも俺は、お盆明けからの二週間で課題を片付けるつもりだったのだ。
中学までは一週間で何とかしてたのだが、さすがに高校ともなると一週間では無理だと考えて、
二週間を割り当てたんだからな。だからその分、お盆明けまで遊び倒したさ。
しかし、予定は未定であって決定ではなかった。
その想定していた二週間は、ハルヒによって、市民プール、盆踊り、花火大会、バイト、
天体観測、バッティング練習、昆虫採集、肝試し、金魚すくい等などで完璧に消化されて
しまったんだからな。で、昨日。ハルヒの考えた全ての夏休みノルマをこなして、
喫茶店でアイスコーヒーを飲んでいたとき、俺は、自分の夏休みの課題が何一つ消化されて
いないことに遅まきながら焦りを覚えたってわけだ。
「明日で夏休みも終わりね。何かやり残したことってないかしら」
考え込むような顔をしてそう言ったハルヒの言葉に、俺は、明日も何かの行事に
付き合わされるんじゃないかと多少の不安を感じながら、つい呟いてしまったのさ。
「……課題」
その声にハルヒが反応しないはずもなく。
「キョン、何か言った?」
「いや。なあ、明日は休みってことでいいだろ?」
明日潰れたら、俺は白紙の課題を提出しなければならないんだよ。
これから国木田んとこ行って、今晩からでも課題を写させてもらおうと思っている
くらいなんだからさ。
「何よ、あんた。明日何か用事でもあるの?」
「え? ああ、まあ、用事ってほどでもない……いや、うん、そうだ、ちょっと
用事があってさ……」
「なに? はっきりしないわね。用事って何よ? 何だったら手伝ってあげようか?」
「いや、そんな大層なものでも……」
そう呟く俺に、ハルヒがチェシャ猫笑いで、顔を近づけてくる。
「ふーん?」
猫にいたぶられるゴキブリの気持ちが少しだけ解るような気がしたぜ。
ここは一つ正直に言うべきか。いや、ハルヒに知れたらまた何かと厄介なことになる
ような気もする。少なくともバカにはされそうだ。だが、現時点で課題を残している
と言うことはそんなに恥ずべきことなのか? まだ夏休みは残っているではないか、
一日だけだが。それに、そもそも俺の予定を潰したのはハルヒなのだ。
ええい、ここは正直に言ってしまえ。
明日を潰されるくらいなら、今、馬鹿にされたほうがまだマシってもんだろ。
「……課題が残ってるんだ」
そう小声で言った俺に、ハルヒがきょとんとした顔を向ける。
「課題? 何の?」
「何のって、夏休みのだよ」
「夏休みの課題……?」
「ああ」
「馬鹿?」
ああそうだ、すまんな、俺には last-five-minute-person の素質があるのさ。
「そういえば僕もまだ半分ほど残ってまして……」
ナイスフォローだ古泉、お前はいい奴だな、うんうん。
お前の課題なんて、どうせ機関とやらが勝手に課題を片付けてくれるんだろ?
などと考えていたことを悟られないように頷いていると、
朝比奈さんも小さく手を挙げて、
「あたしもまだ少し残ってるんです……」
さすがは朝比奈さん、そのフォローで俺はハルヒに立ち向かう勇気を得ました。
朝比奈さんなら、未来か過去に跳んで、そこで課題を片付けた後、今の時間に戻れば
楽勝じゃないですか、なんて考えてしまった俺を許してください。
「ということで明日は活動を休みにして、各自課題を片付けるってことで……」
そう場を締めようとした俺の言葉を無視してハルヒは長門に向かい、
「有希は?」
「終わってない」
無表情で即答する長門にしばらく視線を固定したハルヒは、がっくりと首を垂れ、
「なんてことなの、みんな課題を残してたなんて」
婆さんみたいな声で呟くと、やおら立ち上がって俺を指差し、こう宣言した。
「じゃあ、明日はみんなで課題を片付けましょう!」
なんでそうなる?
「ハルヒ、お前一体何を言って――」
「黙りなさい。今日の今日まで課題を積み残してたようなあんたが、一日のうちに
自力で課題を終わらせることなんて無理よ、無理」
ぐっ、言い返せん。
「だからみんなで教えあって片付ければいいわ。あたしの課題を見せてあげるし、
みんなでやれば早く終わるじゃない」
と、まあそんなわけで、夏休み最終日、なぜか俺の部屋でみんなで課題を片付ける
ことになったわけだ。なぜか朝比奈さんも一緒に。俺は図書館でいいんじゃないかと
言ったんだが、
「図書館じゃ静かにしないといけないじゃない? その点、キョンの部屋なら
騒いでも迷惑にならないし」
俺の家族は迷惑じゃないのか、つか、なぜそこで騒ぐという単語がでてくる?
頼むから騒ぐのは勘弁してくれ。ま、課題が片付くんなら文句はないけどさ。
それが昨日の話で、今日は、夏休み最終日。
大きな騒ぎになることもなく、ゲームしたり妹と遊んだりしているハルヒを尻目に、
俺たちは粛々と課題を片付けていた。
「こんなのも悪くないわね」
ゲームにも飽きたのか、俺のベッドの上に胡坐をかいて座ったハルヒは、
必至でシャープペンを走らせる俺たちを眺めて、太陽神のような笑顔を見せた。
「我々凡人にとっては、これも毎年の風物詩のようなものですよ。毎年毎年夏休みの
終わりには、こうして溜まった課題を片付けながら、来年こそは計画通りにしよう、
そう思うんですけどね」
そんな古泉の言葉に、
「でも楽しいじゃない? こんなのは漫画か小説の世界の話だと思ってたけど、
何となく夏休みの最後って感じがするわ」
などと、何もしてないくせに、能天気なことを言うハルヒ。
俺のような計画性のない奴にとっては、毎年のこの行事は苦行そのものなんだがな。
そんなこんなで、夕方近くになってやっと課題が終了したときは、俺はもうそのまま
ベッドに倒れこみたい気分だった。
見ると、朝比奈さんもどこかぐったりした様子で、妹が持ってきた麦茶を飲んでいる。
さすがに古泉も疲れたのだろう、シャープペンを置いて、右手の中指を揉んでいた。
長門だけは相変わらず無表情でテーブルに向かって正座したままだったが。
「やれやれ、やっと終わったか」
そう呟いて、俺は床に寝転び思い切り伸びをした。と、指先に何か触れるものがある。
何だ? そう思いつつ、それを手に取ると、何かのレポートのようだった。
何気なくページを開いた俺の視界にマンコという文字が目に飛び込んできた。
「マ? なっ、な、なんだこれは……」
思わずそう呟いたとき、頭上からハルヒの声が聞こえた。
「何よ。あんた、あたしのレポートに文句でもあるの?」
レポート? マンコが?
「みくるちゃんのレポートの参考になるかと思ってさ、ねえ、みくるちゃん?」
「ええ、参考になりました」
そう穏やかな微笑を浮かべる朝比奈さん。
な、何を言っているのでしょうか朝比奈さん。
もしかして未来では隠語の意味も変わってるんでしょうか。
「何よ、あんた小学生みたいね。固有名詞に反応するなんてさ」
固有名詞?
「マンコ・カワク。初代インカ皇帝じゃないの」
インカ皇帝だって? そう思いながらハルヒのレポートに視線を落とす。
何だそのガス会社のCMで聞いたような名前は? いやいや、あれはカワックか。
そう思った俺の耳に、古泉の声が流れ込んでくる。
「なかなかユニークな名前ですね。インカ皇帝ですか」
そういやどっかで聞いたことがあるぞ。クスコの王、最初のインカ人。
「でも、マンコ・カワクって何だよ、乾いてんのか? お前」
そう呟いた俺に、それでもハルヒは顔色一つ変えずに、
「ふん、だから何なの? 固有名詞なんだから仕方ないじゃない。何度でも言って
あげるわよ、マンコ・カワクって。
まったく、そのいやらしい連想は何とかならないのかしら」
そう胸を張って言い放ちやがった。
そのときの俺の心情を理解して頂けると嬉しいのだが。
俺は疲れていたんだな、きっと。
「カパックもしくはカパクだろ?」
「え?」
「マンコ・カパック。カワクじゃない。乾いたら大変じゃないか」
「へ?」
ハルヒはやっと自分の間違いに気付いたらしい。俺の手からレポートをひったくると、
殺人光線でも出てるんじゃないかと思わせる眼光でレポートを注視する。
「なっ、何よっ、ちょっと間違えただけじゃないっ!」
「いつも変な想像してるから、そんな妙な間違えかたするんだろ」
こみあげる笑いを堪えつつそう言った俺に、ハルヒは憤然とした顔を向けて、
「ふん、付き合ってられないわね。本当、子供なんだから。ちょっとコンビニで
涼んでくるわ」
そう言い放つと、どすどすと足音を立てて部屋を出て行った。
「やりすぎじゃないですか?」と古泉。
「そんなことはないだろ」
「でも、あなたが突っ込みを入れなければ、それなりに収束してた可能性が」
そんなことを古泉と言い合っていると、急に長門が立ち上がった。
なにやら天井を見上げている。
「どうした? 長門」
「時連続性に異常発生。大規模情報フレア発生の可能性……」
「なんだって? どういうことだ?」
情報フレアといえば、ハルヒか? 状況を詳しく聞こうとしたそのとき、
「ひょえっ、な、ななななんですかっ? 緊急? 強制割込みコード? ええっ?」
ぴょこんという擬音を背負って朝比奈さんが飛び上がり、なにやら意味不明なことを
喋り始めた。なんだなんだ? どうしたんだ? 長門だけじゃなく朝比奈さんまで。
「き、緊急事態ですぅ、この時間平面が捻れているみたいで……って、あっ、
切れまちゃいました」
「切れたって何が? 何の話ですか?」
「どうなってるのぅ……」
どうなっているのか聞きたいのは俺です、朝比奈さん。
そう言おうとした俺の耳に入ったのは、長門の冷静な声だった。
「涼宮ハルヒが空間情報に干渉している」
「……どういうことだ?」
「この時空が時連続性を失いつつある。このままでは時空が閉塞する」
俺にも解るように説明してくれないか、長門よ。
「時間が止まるということですか?」
いつになくまじめな顔で確認する古泉に、長門は、
「……違う」
そう呟いて、俺に非難めいた視線を向け、
「時空が巻き戻る。過去に戻る」
と言った。すまん、意味解らん。
「ええっ? 時空をループさせるなんて、そ、そんな、いくら涼宮さんでも、まさか、
そんなことができるだなんて……」
朝比奈さんの狼狽した声が耳に入る。
「すまない、長門。意味が解らん。噛み砕いて説明してくれないか」
その俺の声に、古泉が反応する。
「涼宮さんは、今日をなかったことにするつもりなのでしょう。で、やり直すために
時間を巻き戻している。僕らは、これからもう一度今日をやり直すことになるのかも
しれません」
「やり直すだって?」
「そうです。先ほどのあなたの言葉は、涼宮さんにとって耐え難いものだったのでしょう」
「しかし、マンコ・カバックの名前の間違いを指摘しただけで――」
「違います。問題はあなたの言った『乾いてんのか』です。それは、若い女性にとって
屈辱的な一言なのではないでしょうか」
確かにそうかもしれん。しかし、しかしだな、そんなしょうもない下ネタ的突っ込みに
過剰反応しなくてもいいじゃないか。それにそもそも間違ったのはあいつのほうだぞ。
などと、現実逃避気味にイイワケを用意していると、朝比奈さんが、
「あの、意味が解らないんですけど、何か心当たりがあるんですか?」
いーや、朝比奈さん、あなたは聞かないほうがいいです。
そんな俺の気持ちを無視して、古泉が朝比奈さんと長門に説明しやがった。
「さっ、さいてーです、キョンくんっ!」
「…………」
朝比奈さんの軽蔑の視線と長門の氷点下の視線を全身に浴びながら、俺は、何でこんな
ことになったのだろうと考えていた。
とりあえず、これからは何が起ころうと、ハルヒを家に呼んで一緒に夏休みの課題を
片付けるようなことは、二度とするまい。
俺はそう心に誓った。
◇ ◇ ◇
結局、彼がその決意を翻したのは、一万五千四百九十八回目のシークエンスであり、
それがループから脱出するキーとなった。それを知っているのはわたしだけ。
しかし疑問がある。あそこが乾くことは、それほどまでに屈辱的なことなのだろうか。
理解できない。ループから脱出した今日、喜緑江美里に訊いてみよう。