『風邪の日』
すっかり気候が冬らしくなり、ひどく肌寒くなってきたある日曜日の夜のことだ。
「む……38度2分か。なかなか下がんないわね」
部屋のベッドに寝込んでいる俺の隣で、ハルヒが旧式の水銀体温計の目盛りを睨んでうなる。まったく、俺の体温はなかなか38度線の停戦ラインを越えてくれない。
「なに言ってんのよ……バカね」
クスッと笑いながら、ハルヒはそっと俺の額に浮かんだ汗をタオルで拭いた。すまん、ハルヒ。
「病人が気を遣うもんじゃないわよ。ちょっと頭を上げて……氷枕、新しいのに換えてくるから」
ハルヒは俺の頭を上げさせ、氷枕をとると、トントンと階段を下りていった。
やれやれ……溜息をついたからといって、どうなるものでもないのだけれど。
実を言うと、今、俺とハルヒは二人っきりである。妹と両親は、祖母のところに行っている。月曜が妹の学校の創立記念日で、三連休を利用した旅行というわけだ。
「なにも一人っきりのときに風邪引かなくてもね」
俺の口にお粥を運びながら、ハルヒが呆れたように言う。まったくもって同感だ。あと、恥ずかしいから、自分で食べさせてくれ。
「ふん、二人きりじゃない。あんた、病人なんだから、黙って食べなさい!」
ハルヒが少し頬を赤くして、怒ったようにスプーンを突き出す。俺は諦めて口を開けた。もぐもぐ。
「……おいしい?」
「ああ、うまいよ」
ハルヒは俺の言葉に、にっこりと笑って、「よかった」と嬉しそうに呟いた。やれやれ、こんなハルヒ、めったに拝めるものじゃないぜ。
「キョン、食べたら寝るのよ?」
まるで聞き分けのない子供に言い聞かせるようにそう言うと、ハルヒは食器を盆にのせて立ち上がった。そのまま部屋を出ながら、ハルヒが何でもないことのように言う。
「あー、あと、あたし、泊まっていくから」
……ハルヒ、視線をそらしているが、耳が真っ赤だぞ。
「……おいおい、大丈夫なのか?」
「うん、親には、友達のところに泊まるって連絡したし、着替えとかも持ってきてるし、寝袋持ってきたし……キョン!」
ハルヒがこっちを向いた。なんだ?
「ちゃんと治すのよ?治ったら……明日、あんたの分もお弁当つくってあげるから……おやすみ!」
顔を茹でたカニみたいに真っ赤にしながら、それだけ言うと、ハルヒはパチンと部屋の電気を消して、ごそごそと寝袋を敷き、その中にもぐりこんだ。
「……ハルヒ」
俺は、暗闇の中で、ハルヒに声をかけた。
「な、なに、キョン」
すぐにハルヒが、上ずった声で答える。やれやれ、さっきから緊張しきっているのは俺だけじゃなさそうだ。
「いろいろ、ありがとうな」
「…………うん」
「なんというか……すごく助かった」
「…………うん」
ええい、俺、正直に言え。目をつぶりながら、思い切って言葉をつなぐ。
「その、すごく嬉しかった、本当に……ハルヒ、俺――――むぐ!?」
唇にあたった柔らかい感触に、俺は目を開けた。いつのまにかハルヒが俺におおい被さっていやがる。
「――――ぷは」
暗闇のなかでハルヒと見詰め合う。たぶん、真っ赤になっているんだろう、ハルヒはぎこちなく視線をそらして横を向いた。
「一日看病した……駄賃よ。これぐらい、いいでしょう?」
やれやれ。
「ちょっと駄賃としては多すぎるな……お釣りをもらおうか」
…………
ああ、くそ。俺はなんてバカなことしちまったんだ。
水銀体温計を見ながら、俺は溜息を吐き出した。
朝、すっかり熱が下がって、ハルヒ特製の朝食を食べているとき、こともあろうにあんなことを言うなんて……ああ、今思い出しても、あの一言が悔やまれる。
『お前が風邪引いたら、今度は俺が付きっ切りで看病するよ』
「キョン、何度ある?」
「……38度2分だ」
頭に氷枕を敷き、俺のベッドに横たわったハルヒは、顔を熱で真っ赤にしながら、それでも心底嬉しそうに、ニヤッといたずらっぽい笑みを浮かべた。
おしまい