日曜日というありがたい一日の事を知っているだろうか。  
 別にキリスト教的に言えばミサの日ですとか、会社が残業だらけで日曜なんてありませんとか、そんな極めて特殊な事情を聞きたいわけじゃない。  
 大事なのは、そういうのを省いた上で残るもの。そう、国民の休日であるという確固たる共通認識だ。  
 その認識は、年中馬鹿騒ぎというか象鯨騒ぎな俺たちSOS団にとっても例外ではなく、毎週日曜日と言えば、偶に例外もあるとは言え、土曜を不思議探索で潰されるかわりのお目こぼし的に与えられている、週に一度の終日ホリデイだった。  
 つまり、ほとんどの毎日を涼宮ハルヒという爆弾娘に注意しながら生活しなければならない俺にとってみれば、ここぞとばかりに昼まで惰眠を貪ったり一日中テレビの前で寝転がったりしながら、次の一週間の英気を養う大切な日だったわけだ。  
 少なくとも、  
『そこの三人乗り自転車! さっさと停止しなさい!』  
「ほらキョン、さっさと足動かしなさい。追いつかれそうじゃないの」  
「キョンくん、がんばれー」  
「いや、どっちかと言えば止まりたいんだけどな俺は」  
『コラぁ! ガキども! いい加減止まらんと、留置所で一泊してもらうことになるぞ!』  
「ちょっと、聞いたキョン? 腐食していく警察機構の姿を体現したようなあの脅し文句。あいつら、誰の税金でおまんま食べていけてると思ってるのかしら! これはもう絶対に負けるわけにはいかないわね。私達の双肩に、日本の未来がかかってるわ」  
「ふしょくー」  
「だから、三人乗りはばっちり違反だっての。というか、あんまり変なことばかり妹に教えないでくれ」  
『おい、あいつらの前に出ろ! 車体で足止めするぞ!』  
「まずい、追いつかれる……キョン! 次の角を右よ!」  
「みぎー」  
「……右は確か階段があったような気がするんだけど、違ったか?」  
「安心して、全然違うから。妹ちゃん! 合図したら、右に思いっきり身体を傾けなさい!」  
「うん!」  
「おかしいな、この歳で記憶違いなんてのは無さそうなもんなんだが」  
「もう、ゴチャゴチャ言ってないで行くわよ! さん!」  
「にー」  
「いち……ってほら、やっぱり階段じゃねえか。いやあ、良かった良かった。さすがにこの歳でアルツハイマーにでもなってたらショックだもん」  
「「ゴー!」」  
「なぁ……ぁぁあああああーーー!!」  
 
 少なくとも、自転車で空を飛ぶ日ではなかったと思う。  
 
 
 話の発端なんてのはもういつかわかりはしないのだが、強いて言うなら一月ほど前になる。   
 ここ一年、常に低い位置で酔っ払いのようなランダムウォークを続けていた俺の成績は、新しく春を迎えるにあたり、いよいよ洒落にならない所まで来ていた。危急存亡の春ってやつだ。  
 まあ、たしかに高校に入ってからはSOS団にかかりっきりで、ただでさえ僅かだった日々の勉強時間が、ほとんどゼロになってしまっていたから、当然といえば当然の結果だろう。  
 だが、さすがの俺も、赤点を二つも取ってしまっては、焦燥感に駆られずにはいられない。  
 親をはじめとする周囲の冷たすぎる視線に文字通り震え上がった俺は、氷漬けの海に浮かんだ藁にもすがる勢いで、後ろの席でふんぞり返っているハルヒに向かってこう言った。  
「頼むハルヒ。俺に点の取り方を教えてくれ」  
 こいつの教師としての腕前は、以前ちょっと勉強を教えてもらった時に嫌と言うほど痛感していた。こうなったら、家庭教師の長期契約を結んでもらうしかあるまい。  
「任せときなさい。私が勉強のイロハをじっくりみっちり叩き込んであげるから」  
 切羽詰っていたその時の俺にとって、ハルヒが浮かべた微笑は、阿弥陀如来よりも神々しく見えた。赤点は人を盲目にする。  
 結局、一月のあいだ馬車馬の比じゃないぐらいしごかれ続けたお陰で、限界を超えて潜航していた俺の成績は、夏を前にして無事浮上。ようやく人並みに息継ぎできるようになったってわけだ。  
 と、ここまでは良い。めでたしめでたし。問題はその後だ。  
 何故か知らんが、ハルヒの奴は家庭教師の契約期間を終えた後も休みの日になる度に俺の家にやってきて、夕方まで居座るようになった。  
 本人曰く、「習慣ってのは恐ろしいわね。気付いたらあんたの家の前に立ってるんだから。ところで、さっさと鍵開けなさい」。  
 いや、別に嫌ってわけじゃないさ。とんだ迷惑娘ではあるが、少なくとも一緒にいて退屈することは無いし、一応は我らが団長様だし、家庭教師をしてもらった恩もあるしな。  
 だが、ただでさえ平日プラス一日をSOS団に献上しているこの身体。さすがに週一ぐらいはゆっくりと過ごしたいなんて思っても、罰は当たらないだろ?  
 なんせ、こいつと一緒にいてトラブルが起きない確率なんてのは、宝くじの一等前後賞を取るより低いんだ。  
   
 
「キョン、喉かわいた。ジュース持ってきなさい。もち果汁百パーセントのやつね」  
 夏らしくラフな格好をしている割に、俺に対する態度は四季を通して変化しないハルヒ。キャミソール姿のマリーアントワネットだ。  
「こないだみたいに気の抜けたサイダーは勘弁してよ。何か無性に腹立つから」  
 それこそ気の抜けたコーラでも見るような目をこちらに向けてくる。勝手に他人の家に来といてここまで偉そうにできる奴を、俺は他に知らない。  
「悪いが、冷蔵庫にはサイダーと麦茶しか入って無いんだ。他のやつが飲みたいんなら、自分でコンビニにでも行って買ってきてくれ」  
 そしてそのまま電車に飛び乗ってどこか遠くに旅立ってくれ。三週間ぐらい。  
 そんな慎ましやかな願いも虚しく、ハルヒは「じゃあサイダーでいいわ」とだけ言うと、ベッドに寝転がってマンガを読み始めた。それ、さっき買ってきたばっかりで、俺も読んで無いんだけどな。  
 
 
「あー、暇ねー。何か面白いことないかしら」  
 なんて言いながら、お茶請けに出したポテトを噛み砕くハルヒオンマイベッド。白いシーツの上に、コンソメパンチの雨が降り注ぐ。  
「お前な、食うならせめて座布団の上で食ってくれ」  
「うっさいわねー。ポテトぐらいいいじゃないの。あんたのベッドなんてどうせ黄ばんでんだから」  
 黄ばんでねぇよ。驚きの白さだよ。  
「大体、こんな狭い部屋にじっとしてても面白いことなんてあるわけないだろ。たまには女子高生らしく、友達を誘ってカラオケとかにでも行ったらどうだ」  
「何? あんたカラオケ好きなの?」  
「いや、俺は好きでも嫌いでも無いな」  
 というか、滅多に行くこともないし。  
 俺の言葉を聞いたハルヒは、何故かつまらなそうに眉を歪めると、またしてもポテトを貪り始めた。コンソメパンチの雨、再び。  
 もう注意する気も起きない俺は、そのまま床に寝転がって天井を眺める。人工ハイハットみたいに交互に響くページを捲る音とポテトが砕ける音を聞いていると、瞼が重くなってきた。  
 あー、もう寝ちまおうかな、なんて思った矢先、  
「ぶふぉっ」  
 顔面に分厚い雑誌が降ってくる。こいつと一緒にいると、屋根すら何の意味もなさない。  
「ちょっとあんた、人がわざわざ来てやってるのに、なに寝ようとしてんのよ。主人は客をもてなすっていうのが封建制度時代からの慣わしでしょうが!」  
 口角泡を飛ばす勢いだ。お前こそちょっとは客人らしく慎ましやかにしろよ。  
 俺が眉間にしわを寄せながら顔面に張り付いた雑誌を振り落とすと同時に、部屋のドアから軽やかなノックの音が響いた。  
 これは……妹だな。一応あいつも友達が来てる時なんかは、ノックぐらいするんだ。  
「開いてるぞ」  
 ドアの隙間から、ちっこい頭が飛び出した。  
「あー、こんにちはー」  
「あら、こんにちは妹ちゃん」  
 ハルヒの奴、いつの間にか座布団の上で正座してやがる。母親だと思ったに違いない。  
「何か用なのか?」  
「んー。キョンくんじゃなくて、」  
 妹はハルヒの方を見ながら、  
「えーっとね、お母さんがね、どうせなら一緒に晩ごはん食べていったら、だって」  
 ハルヒは、お姉さんぶった笑顔で首を横に振る。  
「それはさすがに悪いわ。夕方にはお暇するから、どうぞお構いなくって伝えといて」  
 こいつは滅多な事で遠慮する奴ではないが、何故か俺の家族の誘いに対しては遠慮しがちだった。その気遣いを、一割でもいいから俺本人に回してくれないだろうか。  
「わかったー。おかまいなくって言っとくねー」  
 鼻歌を歌いながら階段を駆け下りていく妹。何でいつもそんなに楽しそうなんだ。それとも最近の小学生は皆あんな感じなのだろうか。今の教育現場って大変そうだな。  
 
 俺が今後の教育のあり方について思索を巡らせていると、ドアの方をじっと見ていたハルヒが、起き上がりこぼしみたいな勢いでこちらを振り向いた。  
「ねえ、キョン」  
「何だよ」  
「あんたなんで妹ちゃんから『キョンくん』って呼ばれてんの」  
「……えーとだな、」  
 急に今更な事聞くなよ、と思いながらも、いかに妹が俺のあだ名を気に入っているのかを粛々と説明してやった。  
「じゃあ、最近『お兄ちゃん』って呼ばれたことはないわけね」  
「最近というか、もう何年も呼ばれてないな」  
 まあ、兄妹なんてそんなもんかも知れない。俺は逆にあいつを名前で呼ぶ事なんて滅多に無いし。   
「なるほど。そうね、そういうのもあるわよね」  
 ハルヒは何事か呟きながら、瞳に天然ガスが着火したような激しい色を灯し、唇を吊り上げた。兎を見つけた狼の顔だ。  
 こいつがこんな表情をする時は、碌なことがあったためしがない。  
 まあ、どんな表情でも碌なことをしない奴なんだけどな。感じなれた悪寒に背筋を震わせる俺に対して、ハルヒは口元を怪しく歪めながら人差し指を突きつけると、  
「キョン! あんたがお兄ちゃんって呼ばれないのは、お兄ちゃんと呼ばせる何かが決定的に欠けているからなのよ!」  
 お前は大脳思考野が穴あきチーズみたいに欠けてるよな。  
「でも安心して。私があんたに、兄としてのイロハをじっくり叩き込んであげるわ!」  
 一人で息をまくハルヒオンマイザブトン。  
 いつの間にやら、兄をやるにも誰かの指導が必要な時代になっていたらしい。末期的な話だ。  
 
 
 お、  
「お」  
 にい、  
「にい」  
 ちゃん。  
「ちゃん」  
 繋げて言うと?  
「キョンくん!」  
 見ろよ文部科学省。これがゆとり教育ってやつだぞ。  
「あんたこそ現実を直視しなさい。ここまでお兄ちゃんって呼ばれない兄は、世界であんた一人だけよ」  
「いや、今時どの家でもそんなもんだろ。代名詞で呼ばれないだけまだマシだ」  
 俺と妹の後ろで、ベッドに座りながら悩むように腕を組んでいるハルヒに反論してやる。  
「問題は何なのかしら……やっぱり、顔とキャラが兄っぽくないっていうのが大きいのかもしれないわね」  
 聞けよおい。あと兄っぽくないって何だ。  
「ねえ、妹ちゃん。こいつの主にどの辺りが、お兄ちゃんとして問題なのかしら」  
 すでに俺の方に問題があることになっていた。  
 冤罪を被せられる兄の心境も鑑みず、妹は楽しそうに身体を揺すりながら、  
「キョンくんはキョンくんだもん」  
 哲学的な答えだな。末は髭の無いニーチェか髭の無いソクラテスだ。  
「末期的ね……」  
 ハルヒは失望したようにため息をつきながら、ホスピスの患者を見るような目で俺を見つめていた。  
 何でだろう、無性に誰かを殴りたい。  
「あのな、末期的だろうと終末的だろうと構わんから、この件はもうお終いにしてくれ」  
 大体、今更お兄ちゃんなんて呼ばれたくない……わけじゃないが、別にキョンくんでも一向に構いやしないのも、また事実である。  
 妙なあだ名にだって、長年呼ばれ続けてれば愛着ぐらい湧くもんさ。  
 しかし、ハルヒは何故かそれに不満があるようで、  
「キョン、あんたにはこころざしってものがないの? もっとこう、四十代の男性とかからもお兄ちゃんって呼ばれるぐらいの気迫を身につけたくないわけ?」  
 ねえよ。  
 ハルヒは無気力に答える俺に対し、一つため息をついたあと、  
「みくるちゃんなんて、あらゆる世代の老若男女から可愛いって言われてるわよ。古泉君は女子の連中からカッコいいって言われてるし、有希は無口だけど何でもできて人気者。それに比べて、あんた何? 特に誰からも何とも思われて無いじゃない! 個性ゼロよ!」  
 何でだろう、言っている事は何一つ間違っていないような気もするが、無性にこいつを殴りたい。   
「……わかった。じゃあ俺をその、何だ、兄貴っぽくしてみせてくれよ」  
 要するに暇つぶしができれば何でもいいんだろ、こいつは。だったらもっと壊滅的なことを考え出す前に、適当な所で合わせておくのが一番だ。  
 この歳にして妥協の極意を掴みつつある自分に対し、中間管理職の中年が抱くような切なさを感じていると、ハルヒは唇を吊り上げて、  
「それじゃ、まずは外見からね! とりあえずその南国の草を被せたみたいな髪型から何とかするわよ!」  
 迷うことなく引き出しを開けて工作用のハサミを取り出す。  
 事態は俺にとって壊滅的な方向に進もうとしていた。  
 
 
 ハサミを手にしたハルヒの凶行は、トイレに行こうと思ったら月に着いてましたぐらいにぶっ飛んでいて、俺のもみあげがこの世から消失するのも時間の問題かと思われた。  
 しかし、もみあげ的に崖っぷちのところで騒ぎを聞きつけた母親が登場。もつれあっている俺たちを生温い視線で眺めた後、無言で妹を連れ出してしまった。  
 何やら妙な誤解をされてしまっていることに気付いた俺とハルヒは慌てて弁明したものの、母親は悪戯の言い訳を並べ立てる小学生に向けるような笑顔で頷くだけ。  
 居た堪れなくなった俺たちは逃げるように家を出て、勝手についてきた妹と共に美容室へ向かい、無邪気な子供に弄ばれた南国の草みたいになっていた髪の毛を観葉植物レベルに整えてもらった後、昼を過ぎて賑わう駅前を冷やかしていた。  
   
 
「もう。せっかくいい感じの髪型になりそうだったのに」  
 自転車の荷台に乗ったハルヒが、いかに不服かを表すように、俺の肩に置いた手に力を込めている。二度とカーブが投げれなくなりそうだ。  
「あれをどの角度から見たらいい感じに思えるんだ。腐りかけの椎茸みたいになる所だったぞ」  
 自分の自転車に乗って並走している妹が、俺の言葉を聞いてきゃらきゃらと笑う。  
 まったく、高校生の男子にとってみれば全然笑い事じゃないっての。   
「でもまあ、割とさっぱりしたじゃない。妹ちゃんもとっても可愛らしいし。さすがプロの美容師ね」  
 私には劣るけど、と根拠の無い自信を誇らしげに翻すハルヒに対しては、もう突っ込む気すら起こらない。  
「で、これからどうするんだ」  
 正直、誰かさんのせいで家には帰り辛いんだが。  
 普通に尋ねた俺に対し、ハルヒは後ろから料理番組のコメンテーターみたいな調子で、  
「その主体性の無さ、お兄ちゃんポイント−1ね。ちなみに、今現在の合計は−23だから」  
 いつの間にポイント制度が導入されていたのか、またいつの間に二十三失点もしてしまっていたのか問いただしたい所だったが、そこはあえて無視して、妹に同じ事を聞いてみると、  
「雑貨屋さん」  
 と意外な答えが返ってきた。  
 何だかこいつはもっとこう、公園で長縄跳びがしたいみたいなことを言い出すと思っていたんだがね。  
「ぬいぐるみ集めてるの」   
 玩具のビー玉みたいにキラキラした瞳。俺に買えと言っているのか。  
 誠に遺憾ながらこの薄っぺらい財布にそんな余分な紙幣は入って無いんだよ。だから一日百五十円のお小遣いをこつこつ貯めて購入しなさいって言おうとした俺の首は後ろから締めあげられ、行き場を失った声が呻きとなって喉から漏れた。  
「来たわよキョン! お兄ちゃんポイントを上げるチャンスじゃない! さあ妹ちゃん、その店に案内してちょうだい。お兄ちゃんが何でも買ったげるからね」  
 何でお前が決めてんだよ。いや、今はそれより一刻も早く首から手を離してくれ。マジでチアノーゼになる五秒前なんだ。   
 妹は、唇の色を紫陽花の紫に変える俺を、いつものアホっぽい笑顔で眺めていた。  
 家族の情はいずこ。  
 
 
 それから、ハルヒに言われるがまま妹の言いなりになって輸入雑貨屋のぬいぐるみだのやたらと高いお菓子だのを買い漁ること一時間。気付けば俺のお兄ちゃんポイントは、−28になっていた。  
 断言してもいいが、世の中は間違っている。   
 客観性の欠片も無い採点基準に頭を捻りつつ、両手に余る紙袋を抱えながら自転車の元に戻ってみると、  
「……撤去されてるわね、自転車」  
「あー、ホントだー」   
 今日から大殺界に入ったのだろうか。とにかく踏んだり蹴ったりな一日だ。  
「仕方ない。自転車を取りに行くのは今度にして、今日はもう家に帰るか」  
 結構遠いからな、保管所って。  
「じゃあハルヒ、また明日な」  
 帰る方向が違うし、ここで解散だろう。  
 しかし、ハルヒは俺の手からひったくる様にして紙袋を奪い、  
「歩いてくんなら、さすがにかさばるでしょ。ちょっとぐらい手伝ってあげるわよ。妹ちゃんに持たせるわけにもいかないし」   
 そのままスタスタと歩き出す。  
 俺は笑顔の妹と一瞬顔を見合わせてから、その後を小走りに追いかけていった。  
 
 
 十分ほど歩いた所で、ハルヒが空いた方の肩を回しながら呟いた。   
「やっぱり、歩きだと結構遠いわね」  
 そりゃな。妹の歩幅に合わせてるわけだし。  
「バスにでも乗るか?」  
「そこまでする距離でもないでしょ」  
 確かに。中途半端な距離なんだよな。   
「キョン」  
 何だ。やっぱりバス使うか?  
「そうじゃなくて、これ使えるんじゃない?」  
 ハルヒはそう言って、道路脇の粗大ゴミ置き場を指差した。  
 その先では、カゴのついたでかい自転車が、元は綺麗な赤色だったであろうくすんだ桃色のボディを大仰に横たえていた。  
 堂々とした不法投棄だな。   
「ゴミに出されるぐらいだから、どうせ走りゃしないだろ」  
「いや、絶対使えるわよこれ。何となくそんな気がするから」  
 何となくって、お前な。   
 ハルヒは俺に荷物を押し付けると、倒れていた自転車を引き上げ、妹と共にあちこちをチェックし始めた。  
「これ電動機がついてる。バッテリーも入ってるみたいよ。結構いいやつじゃないの」  
「え、ホントか」  
 それって坂道とかも楽に行ける奴だよな。昔ちょっと欲しかったんだ。  
 興味を引かれた俺は、荷物を一旦地面に下ろすと自転車の方に駆け寄った。   
 微妙に錆びてるしチェーンも緩いが、走れないってほどではない。サドルも結構清潔そうだし、ブレーキワイヤーもきちんとしてる。タイヤもパンクしてないみたいだ。  
 使えるな、確かに。  
「……そうだな。リサイクルがてら拝借するか」  
 これは思わぬ拾い物かもしれない。捨てるにはやけに綺麗過ぎるのが何となく気になったりもしたが、まさかあれで誰かが停めてるってわけでもないだろう。  
 ブレーキの効きを確かめたあと、妹を膝に抱いたハルヒが後ろに乗るのを確認して、いつもより重いペダルを思いっきり踏み込むと、電気の力を借りた自転車は思った以上にスムーズな動きで走り出した。  
 お、結構いいな、これ。  
「ほら見なさい、やっぱり走れるじゃないの! キョン、あんたの目は洞穴に生息する虫以上に節穴ね」  
 言い返せない俺に対して容赦なく降りかかるハルヒの罵詈雑言をBGMに、一路我が家へと進路をとる。  
 
 
 ハルヒの目も電気ウナギ並に節穴だったことが判明するのは、その三分後のことだった。  
    
 
 家を目前にして、緩やかな下り坂に差し掛かった頃、    
『そこの自転車、ふた……三人乗りは違反です。停止してください』  
 ノイズだらけの声を聞いて振り返ると、すぐ後ろにパトカーが噛り付いていた。ひっくり返った鮫みたいなフォルム。   
 この道には滅多に来なくせに、何で今日に限って真面目に巡回してるんだ。やっぱり大殺界だなこりゃ。  
 自分の不運さを慨嘆していると、後ろのハルヒはどことなく楽しげな声色で、    
「止まっちゃダメよキョン。こっちが止まったら罪を認めてしまうようなもんじゃないの。別に悪い事してないんだから、このまま行っちゃいなさい」  
 いや、三人乗りはばっちり交通法違反だから。  
 どうせ家は目と鼻の先だし、こっからは自転車を押していけばいいか、と思いながらブレーキレバーをゆっくりと握り締め……  
「……あれ?」  
 何か、手ごたえがまるで無いんだが。減速する様子も無いし。  
 というかむしろ、  
「何よ、加速してるじゃない。やっぱり撒くことにしたのね? よしよし、それでこそSOS団の一員だわ!」  
「うわー、はやーい!」  
『そこの自転車! 停止してください!』  
 いや、停止したいんだけど、ペダル、ペダルが勝手に、おお、おおおおおお!  
「や、やるわねキョン……足の動きが早すぎて目で追えないわ」  
 何だこりゃ、どうなってやがる!   
「ハルヒ! サドルの下にあるバッテリーを引っこ抜いてくれ!」  
「は? 何でよ」  
「いいから! というか頼む!」  
 とりあえず勝手に動くペダルを何とかせんと、足を離すに離せないんだよ。  
 俺の背中からマグマのように迸る必死さが伝わったのか、ハルヒは真面目な声で、  
「……わかったわ」  
 早くしてくれ、パトカーの方から何やら不穏な視線を感じるんだ。  
「キョン」  
「何だ!」  
「こう言っちゃなんだけど、バッテリーを抜くのは無理ね」  
 は? 無理?  
「何でだ!」  
「熱過ぎて触れない」  
「…………マジ?」  
「超マジよ。正直ハムエッグが作れちゃうぐらい熱いわ」  
 随分多機能な自転車だな。  
「おまけになんかバチバチいってるし」  
 一家に一台必要だな。  
「ひょっとして、ブレーキも効かなかったりするの?」  
「ああ、全然効かん」  
「……ちょっとまずいかもね」   
 いや、かなりまずいだろ。  
『そこの赤い自転車! いい加減止まりなさい!』  
「ああ、もう! うるっさいわね! キョン、何でもいいから、とりあえずあいつを撒いちゃいなさい」  
 確かにこのままじゃ、止まったにしても補導されちまうだろうな。  
 覚悟を決めた俺は家の方に向かうルートを諦め、狭い脇道に車体を滑り込ませる。  
『あ! コラ! 逃げるんじゃない!』  
 ひび割れた怒声を背にすると、犯罪者コースまっしぐらな自分の人生を慮らずにはいられない。  
「しっつこいわね。妹ちゃん、中指を立ててやりなさい」  
「んなことさせんな!」  
 
 
 で、命がけのダイブをかましてパトカーを撒いたはいいものの、自転車を停止させる術を見つけることができないまま、今は買い物客で賑わう商店街を爆走してるってわけだ。  
 さっきから道行く人たちが動物園から脱走してきた虎を目の前にしたような悲鳴を上げて俺たちを避けているということは、相当のスピードが出ているような気がしないでもない。  
 車輪がアパレルショップのマネキンを弾き倒すと同時に、ハルヒは危機感という言葉を習得していない幼子のような暢気さで、  
「思い切って足を離してみればいいじゃないの」  
「お前な、このスピードで万が一にも転倒したらどうなる」  
 さすがに小学生の妹を怪我させるわけにはいかんだろ。まあ、当の妹はさっきから楽しそうな歓声をあげまくっているわけだが。  
 すると、ハルヒは感心したように、  
「今のはなかなか良かったわ。お兄ちゃんポイント二点プラスしてあげる」  
 そりゃどうも。   
 異様に落ち着いている後部座席組との温度差をひしひしと感じながら、必死にベルを鳴らしつつ通行人を避けまくっていると、馴染みのある声がどこからか聞こえてきた。  
「おーい! キョンくーん!」  
 横の車道に目をやると、いかにも高級そうな黒塗りの外車が俺たちと併走している。  
 俺の知り合いの中で、こんなブルジョワ的な乗り物に乗る人なんて、約一名しかいない。  
「鶴屋さん! あ、朝比奈さんも!」   
「おぉ、やっぱりキョンくんじゃないか! ひょっとして後ろに乗ってるのはハルにゃんかい? さらにその膝に乗っているのは妹さんだねっ。いやー、相変わらずめがっさ可愛いにょろ!」  
「わ、本当だぁ。みなさんもおでかけですか?」  
 後部座席の窓から顔を出しているのは、常に満点笑顔の鶴屋さんと、妹に向かって手を振る、放射能まみれの焼け野原に咲く一輪のタンポポこと朝比奈さん。このスピードの中でさえ可憐だ。  
 足を猛烈な勢いで動かしながら癒されていると、後ろのハルヒが身を乗り出して、  
「二人とも見てよこの自転車! さっきゴミ捨て場で拾ったんだけど、何か凄いスピードで走るの!」   
 何で自慢してんだお前。あきらかに欠陥品だぞ。  
「ありゃ、そう言えばあんまり車のスピード落としてないかも。ちょっと運転手さん、今何キロだしてる? え? 五十キロ? うわ、マジ!? ぶわっはっはっは! ご、五十キロだって! キョンくんめっさすごいねー。将来競輪の選手にでもなったらどうだい?」   
 ほとんど原チャリにょろー、と爆笑する鶴屋さん。見ている人にとっては喜劇でも、当事者からしたら悲劇である。  
 隣の朝比奈さんは目を白黒させながら、  
「あの、キョンくん。そんなに速くて大丈夫なんですか?」   
 いや、停止したいのは山々なんですけど、ブレーキが壊れたみたいでして。  
「……たた、大変じゃないですかぁ! 鶴屋さん、何とかしてあげましょうよ!」   
 顔を青くして 鶴屋さんに取りすがっていらっしゃる。なんて優しいエンジェルなんだ。彼女のために教会を一つぐらい建ててしまってもいいんじゃなかろうか。    
 鶴屋さんは笑いを引っ込め、しばらく思案顔で唸った後、  
「じゃあ、この車でいっちょガツンといってみるかい?」  
 大惨事の匂いがする。  
「あの、もうちょっと安全策を考えて欲しいんですけど……」  
 俺がそう言うと、鶴屋さんは再び笑顔に戻り、  
「ははっ、ちょろっと冗談を言ってみたかっただけっさ!」  
 ちろりと健康そうな色の舌を出して見せる。  
「んー、でもどうにかしろって言われてもなぁ。いくら可愛いみくるの頼みでも、できることとできないことがあるよ。あ、でもとりあえず……」    
 とりあえず?  
「とりあえず、前を向いて運転した方がいいにょろ」  
「え?」  
 横に向けていた首を前に戻すと、目の前の信号が赤色に……   
「……って、危ないだろ!」  
 思いっきりハンドルを曲げ、横断歩道に突っ込みかけた車体を急カーブさせる。  
「おぉうっ! ナイスカービングだねキョンくんっ!」   
「あー、赤信号になっちゃいました……えっと、み、みなさーん! とにかく気をつけてくださいねー!」  
 ドップラー効果で小さくなっていく朝比奈さんの声援を胸に、俺は再び走り出した。どことも知れぬゴール目指して。  
 で、いつ止まれるんだこれ。   
「今の運転は荒かったかもね。ねぇ、妹ちゃん、マイナス何ポイントぐらいかしら」  
「えーっとねぇ……楽しかったから許してあげるー」  
「らしいわよ。命拾いしたわね、キョン」  
 何でお前らそんなにポジティブなんだ。  
 
 
 次々と現れる信号のせいで、どうやって止まればいいのか考える暇も無いまま市内を縦横無尽に走り回っていた俺たちは、気付けば狭い裏道に入り込んでいた。   
 どうも飲食店が密集しているらしく、さっきから色んな食い物の匂いが鼻の奥をくすぐり回している。  
 そう言えば腹が減ってきたな。ほとんど勝手に動いているとは言え、足を動かしっぱなしだからカロリー消費率もきっとすごいことになっているに違いない。  
 舌の裏から間欠泉のように溢れてくる唾液を飲み込んでいると、  
「あれって、国木田と谷口じゃない?」  
 ハルヒが肩越しに指差した先にいるのは、確かにあの二人組みだ。飯でも食っていたんだろうか。くそ、羨ましいな。  
 向こうも俺たちに気付いたようで、こちらを指差しながら何事か話し合っている。  
 絶対くだらんことを言ってやがるんだろうが、今はそれを追求するどころではない。  
「危ないからどいてろー!」  
 俺はそう叫びながら、片手で追い払う動作をした。  
 様子がおかしいことに気付いたのか、脇に下がる国木田。  
 そして、もう一方のアホはというと、  
「お前らやっぱり付き合ってんだろー!」  
 著名人の浮気現場を押さえたゴシップ記者のようにニヤニヤしながら、あろうことか道の真ん中に立ちはだかる。  
 大方、俺たちが一緒にいることを誤魔化すために走り去ろうとしているに違いない、とか考えているのだろう。短慮は身を滅ぼす。  
 俺は頭を抱えたい気持ちを抑えて、  
「いいから避けろ! 危ないっての!」  
「へへ、見ろよ国木田。あいつ何か言い訳して……って、キョン、ちょっとお前速過ぎるんじゃ……」  
 あと十メートルほどの距離に来て、ようやく唯事でないと悟ったらしく、急に慌てはじめる谷口。  
 遅すぎるんだよ、ったく。  
 俺は最後の良心を振り絞り、目の前に迫る谷口に向かって叫んだ。  
「右だ谷口! 右に避けろ!」  
 お互い逆方向に動けば、まだ何とか避けられるはずだ。  
 さあ跳べ、谷口!  
「み、右って俺にとっての右かそれともお前にとってのみ」  
「もうちょっとフレキシブルに生きろこのアホ!」  
「ぎゃーーー!!」  
 鈍い感触と悲鳴だけを残して、谷口は視界から消失する。  
「速度緩衝材にもならなかったわね」  
 まったくだ。  
 
 無益な殺生に心を痛めることもなく裏道を抜けると、またしても人通りの多い表通りに出てしまったらしかった。  
 直線上にある車道を避けるため、スーパーの店先に出された季節のお野菜コーナーを吹き飛ばしながら直角にカーブすると、主婦の皆さんの混合絹を無理矢理裂いたような悲鳴が聞こえ、蜘蛛の子を散らすように人々が逃げ惑う。  
「失礼ね、人を逃亡中の凶悪犯か何かみたいに…………あ、妹ちゃん、このトマト結構いけるわよ」  
 ほとんど凶悪犯みたいなもんだからな。  
 俺は大声で平謝りしながらもさり気なく加速しつつ、辺りを見渡して人通りの少ない道を探していると、  
「おや、これは奇遇ですね」   
 全然奇遇って感じがしない声が聞こえてきた。  
 顔を横に向けると、いつの間にやら、どっかで見た覚えのあるタクシーがこれまたぴったりとくっついている。  
 俺の知り合いで、タクシーなんてものを我が物顔で乗りまわしてる奴は、約一名ほどしかいなかったような気がする。   
「あ、古泉君じゃない。これからバイトなの?」  
 猛スピードで走り回る暴走自転車に乗っているとは思えないほど普通の問いかけをするハルヒに対し、後部座席の窓から顔を出した古泉は、漂白剤を塗りこんだような白い歯を見せながら、  
「ええ、そのようなものです。いやはや、それにしても皆さん仲良くツーリングとは、SOS団の活動以外に彩の無い生活を送っている僕としては羨ましい限りですよ。それに三人ともそうしていらっしゃると、まるで子供づれの夫婦のようにも見え……」  
「おい古泉! わけのわからんことを言ってないで、この状況を何とかしてくれ!」  
 どうせ何も説明せんでもわかってるんだろ。  
 古泉は笑顔のままで軽く頷いてみせると、見たことの無い運転席の男性、多分機関とかなんとかの怪しい人物なんだろうが、とにかくその人に耳打ちして、車を自転車の横ギリギリまで寄せてきた。  
 そのまま顔を突き出し、俺にだけ聞こえるぐらいの大きさで、  
「その自転車、ただ壊れているだけとは思えません。おそらく涼宮さんの力が働いていのでしょう」  
 そんなのはとっくにわかってるっての。さっきから何のかんの言って転倒しそうに無いしな。この都合のいい展開は、もういい加減お馴染みだ。  
 古泉は我が意をえたりとばかりに微笑んで、  
「さすがです。僕も涼宮さんのことに関しては専門家を自負させて頂いていますが、やはりあなたには敵わないかもしれませんね」  
 たわ言を吐きながらも、ちらりと後ろに目を走らせる。  
「ちなみに、どうして涼宮さんがこのような状況を作り出したのかということについての僕なりの見解を述べさせていただきますと、あなたと一緒にできるだけ長く……」  
 聞いてねえんだよこの野郎。というか、その嫌味な笑顔をこれ以上近づけるんじゃない。     
「んなことより、これを止める方法を教えてくれ!」  
 古泉は首を竦める様な仕草をしながら、  
「それこそいつも通りですよ。涼宮さんが満足して止まってもいいと考えるか、あとはそうですね、長門さんにでも頼めば、力技で何とかなるかもしれません」  
 長門か……。  
「古泉、ちょっとあいつに電話してみてくれ」  
 俺は見ての通り、手が離せる状況じゃない。  
「了解しました」  
 それだけ言うと、古泉は車の中に首を戻した。  
「ちょっと、男二人でなに内緒話してんの。率直に言って気持ち悪いわ」  
 うるさいな。俺だって気持ち悪いっての。あと一々前置きせんでも、お前が率直はことしか言えないのはもう知ってるから。  
 こちらの気も知らずに妙な視線で俺を見つめるハルヒのせいで、何となく落ち着かない気分になっていると、古泉が窓から顔を出し、  
「今図書館にいるそうですよ。丁度閉館時間になったので建物の前で待っている、とおっしゃていました」  
 図書館、か。車の少ない道を上手く使えば、十分ぐらいで行けるかもな。  
 古泉は俺に向かって一つ頷くと、  
「では、僕はこの辺で失礼させていただきます。三人とも、道中お気をつけてくださいね」  
 自分の役目は終わりだといわんばかりに、レッドカーペットを歩く芸能人のような仕草で手を振る古泉を乗せたタクシーは、俺たちをあっという間に追い越していった。  
「ちょっと、どういうこと? 図書館に誰がいるっての?」  
 長門だよ、長門。  
「うわー、ユキちゃんと会うの久しぶり」  
 妹は歌うように言う。  
 一方のハルヒは少し怪訝そうに、  
「有希なら、この自転車を何とかできるわけ?」  
 ああ、多分な。  
 俺は短く答えると、ファーストフードのマスコットキャラを粉みじんに吹き飛ばしながら、再び脇道に飛び込んでいった。   
 もうこの辺には二度と顔を出すまい。   
 
 
 実際の所ブレーキの無い自転車でそう上手く行くはずも無く、赤信号の度に急カーブを繰り返し、複雑な図形を地図上に描きながらも何とか図書館の前に辿り着いたのは、日も暮れかけた頃のことだった。  
「ふわぁ〜」  
 妹はさっきから盛んに欠伸を繰り返している。この状況で眠いなんて、とんだ大物だな。俺は道を曲がる度に失禁しそうなんだが。  
 ハルヒも少しはテンションが落ち着いたようで、  
「ねえキョン、本当に有希なら何とかできるの? まさか、あの子に危ない事させようってんじゃないでしょうね」  
 なんて、割とまともな発言をするようになっていた。    
「大丈夫だ。あいつはお前が思っている以上に何でもできるから……お、いたいた」  
 数百メートル先にあるベンチの上で、本を広げる小柄な姿。間違いないな。  
 長門もこちらの接近に気付いたのか、膝の上の本を閉じると、ゆっくりとベンチから立ち上がった。ここからでは見えないが、ちいさな口を凄い速さで動かしているに違いない。  
 その証拠に、回りすぎてバターになりかけていた俺の足は、ゆっくりと回転数を下ろしていき、やがて長門の目の前に到着する頃には、車輪の回転が完全に止まっていた。  
 俺はペダルから足を離し、アスファルトを靴底で踏みつける。  
 ああ、久方ぶりの地面の感触だ。  
「凄いわ有希! 一体どうやったの!」  
 荷台に座ったままのハルヒが驚嘆混じりにそう聞くと、長門はアンテナのついた小型ラジオのようなものを取り出し、  
「特殊な電磁波を使用することで、特定の規格を持つ電化製品の機能を阻害することができる」  
「へぇー、世の中には便利な物があるのね」  
 限りなく嘘臭い、というか絶対嘘なんだが、ハルヒが信じているので問題無いだろう。    
 安心して息をつきながら痙攣する足をもみほぐしていると、長門がじっと俺の方を見つめていることに気付いた。  
「ん? どうした、長門」  
 ひょっとしてマッサージでもしてくれるのか。  
 しかし、長門は俺ではなく、俺がまたがっている自転車を指差すと、   
「その自転車を譲って欲しい」  
「え? でもこれ、壊れてるぞ」  
「構わない」  
 まっすぐに俺の目を見つめてくる。  
 長門がこんなに自己主張するなんて珍しいな。そんなに自転車が欲しかったのか?   
 いや、こいつがそんなもん欲しがるとも思えないな。走った方が速いだろうし。  
 何となく気になった俺は、素直に尋ねてみることにした。  
「なんでまた、こんなのが欲しいんだ?」  
 長門は四分休符を置いてから静かに目線を下げると、本でぼこぼこになっているバックを漁り、その中から一枚の紙切れを取り出した。雑誌か何かのコピーみたいだ。  
「えーっと、なになに、『夏の怪談特集第三弾 ―呪われた自転車―』……?」  
 何だこりゃ、えらいB級の匂いが漂うゴシップ記事だな。  
 
 
『  
  最近、ネット上を騒がせているこんな話をご存知だろうか。それは乗せた人を次々と死なせる、呪われた自転車の話だ。多くの都市伝  
 
 説と同じように、数年前から人々の間で囁かれ始めたこの話は、しかし幾多のオカルト的寓話とは異なり、確かな実像を持って我々の目  
 
 の前に立ち現れてくる。  
  今しがた確かな実像を持ってと書かせていただいたが、話の概要としては、最初の持ち主を交通事故で亡くした赤い電動機付き自転車  
 
 が、不意に誰かの目の前に現れては死亡事故を引き起こし、いつの間にか消えさっているという、ともすれば有りがちな作り話の一つと  
 
 して埋もれてしまいそうなものだ。しかし、そんな有りがちな作り話に現実的な信憑性を持たせる事件が、去年の暮れに某県で起こって  
 
 いるのである。  
  それは、某市の女子高生Kさん(享年十六歳)が乗用車と衝突事故を起こして死亡するという、何とも痛ましい事故だった。そしてその  
 
 事故の際に、彼女が赤色の電動機付き自転車に乗っていたことが某県警により確認されている。さて、賢明な読者諸氏はもうお分かりだ  
 
 ろうと思うが、この赤色の自転車こそが、「呪われた自転車」なのではないか、と考えられているのだ。   
  ここからは、その論拠とされている、事故における二つの奇妙な事柄をあげてみよう。  
  まず一つは、その赤い自転車が、Kさん自身のものでは無かったという事だ。Kさんは事故の数日前に愛用していた自転車を盗難され  
 
 ており、遺族や友人もKさんが事故当時乗っていた自転車には見覚えが無いと証言している。つまり、この自転車は、事故の直前にKさ  
 
 んがどこからか拾ってきた物だったという事である。  
  そしてもう一つは、Kさんの死が事故として処理された後、廃棄のために某市役所の保管庫に移送された件の赤い自転車が、後日跡形  
 
 もなく消えていたという事だ。これは当時発刊された某新聞が地方欄で掲載した記事にはっきりと記述されており、回収業者と某市役所  
 
 職員数名の証言も大きく取り上げられている。  
  さて、これら二つの実際に起こった出来事を踏まえた上で、最初の話を思い出して欲しい。どこにともなく現れ、誰かの命を奪い去り、  
 そしていつの間にか消えている赤い色の自転車。噂をなぞるかのように起こった事故であるということは、もはや疑いようが無い。また、  
 この事件に関する記事が、ある日を境にぱったりと掲載されることがなくなったこと、そして現在も某市役所がこの件に関する一切を「ノー  
 コメント」としていることも、噂の信憑性に拍車をかける要因の一つとなっている。   
  勿論、こんな話はただの眉唾もので、全てはただの偶然だと言い切ることは簡単だろう。しかし、Kさんが亡くなったのは動かしがたい事  
 実であると同時に、彼女が乗っていたとされる赤い色の自転車が誰の目にも触れないどこかへ消え去ったままなのもまた事実であり、そ  
 こには無限の可能性が介入する余地が残されているのだ。  
  もしもあなたがやけに綺麗な赤色の電動機付き自転車を拾った時は、十分に気をつけて欲しい。その赤い色は、自転車に呪い殺された  
 
 誰かの血で染められた色なのかもしれないのだから。  
                                                                                       』  
 
                                                             
 俺は記事を読み終えると同時に自転車から跳び下り、ついでに荷台に乗ったままのハルヒも妹ごと引きずり下ろした。  
「いった! ……ちょっと、いきなり何すんのよ!」  
 ハルヒに襟首を掴み上げられながらも、  
「なあ、長門。ひょっとして、この呪われた自転車って……」   
 一応そんな事を聞いてみる俺を他所に、長門は薄紅色の車体を穴が開くほど、というよりもむしろ分子構造まで解析するように見つめながら、  
「興味深い」  
 
 
 怪しすぎる自転車を譲り受けたことが嬉しかったのか、無表情なりに上機嫌っぽかった長門と別れ、カルピスの原液なみに密度の濃かった今日一日を振り返りつつ、冬の小熊のように眠りこけてしまった妹を背負いながら歩いていると、  
「妹を背負う兄。これはなかなかポイントが高いわね。プラス五点追加したげる」  
 俺の一歩先を行くハルヒが、振り返らないままでそんなことを言い出した。   
「まだやってたのかよ、それ」  
 というか、いつになったらマイナス点を払拭できるんだ俺は。  
「さあ、あと一年ぐらいじゃない? もっとも私の指導が無ければ、あと十年は堅いけどね」  
 十年ってお前、妹もう二十歳越えてるぞ。  
 しかし、そこまで行って兄貴と認められないのは、確かに嫌だ。よっぽど俺の人格に問題があるみたいじゃないか。   
「そうね。だから来週もあんたの家で指導したげるから、平伏して感謝しなさいよ」  
 やれやれ、どうやら来週の休みも潰れちまうらしい。  
 俺がわざとらしくため息を吐くと、    
「何よ、文句でもあんの? …………まあ別に、どうしても嫌ってんなら、私はそれでもいいんだけど」  
 ちっともよくなさそうなトーンで、そう付け加えるハルヒ。   
 すまんな。生憎と俺は正直者だから、自分に嘘がつけないんだ。   
「ああ、今日みたいなのは正直かなり嫌だ……って、いってぇ! お前、足踏むなよ!」  
「わざとじゃないわ」  
 嘘つけ。  
 俺は、不機嫌そうに重機じみた足音を立てながら歩みを速めるハルヒの後姿を眺めながら、    
「それよりさ、来週からはまた勉強の方を教えてくれないか」  
 折角挽回したってのに、二学期のテストでまた酷い点を取ってしまえば、今度こそ親に監禁されてしまうかもしれないしな。  
 そう言った俺に対し、ハルヒは歩くペースを少し落として、怒ったような顔で振り返ると、人差し指を突きつけてきた。  
「しょうがないわね。じゃあどっちもやったげるから、今度からちゃんと果汁100パーセントのジュース用意しときなさい」  
 釘を打ち付けるように言うと、前を向いて歩き出す。  
 つくづく、そしてどこまでも偉そうな奴だ。  
 こっそりとため息をついてみても、妹の楽しげな寝言を耳元で聞いていると、頬が緩んでくるから困ったもんさ。  
 俺はすっかり陽が沈みきった濃い紫色の空を見上げながら、愚痴るように呟いた。  
「さらば、俺の日曜日」  
「……いきなり何言ってんの。足動かしすぎて頭やられた?」  
 気にすんな。ただの独り言だ。  
「それよりどうだ、偶には晩飯でも食っていけよ。妹も喜ぶと思うぞ」  
 ハルヒは前を向いたまま、両手を紙袋ごと高く突き上げて気だるそうに欠伸をすると、  
「ま、あんたがそう言うんなら、そうしてもいいかもね」  
 
 
 
 
 
 ちなみに例の自転車だが、翌朝には長門の元から綺麗さっぱり消え去ってしまっていたらしい。  
 何と言うか、いやまったく、この世は不思議なことだらけだな。  
   
 

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