背後からゆっくりと身体に両手を回し、長門の身体を抱きしめる。
「……ありがとう」
マンションの屋上、月光と街灯に挟まれた世界の中。ショートヘアの少女は俺にそう告げてきた。
俺は黙って頷く。残された時間は、もう数秒程度だった。
「さよなら」
情報思念統合体によって派遣されたインターフェース。
彼女が、彼女の意思だけでここへ来ることは、おそらく無いだろう。
だがそれでも、俺は抱き寄せた少女の耳元にこう告げた。
「それじゃ、またな」
制服の襟をはためかせながら、少女は俺に背後から抱かれたまま不器用に、おそらく、微笑んだ。
強い風が吹く。
俺がその風に一瞬視界を取られた隙に、少女は空へと還っていった。
身体が寒さを感じ出した屋上で、俺はしばし目を瞑り今日一日の事を思い出す。
「……ありがとう」
そよぐ風の音に乗せて告げられた、静かに透き通った長門の声をリフレインさせながら。
- * -
無事に終業式も終え、俺たちは文芸部室でいつも通り今年度最後のSOS団活動に勤しんでいた。
いつも通りの活動、それすなわちいつも通りぐたぐたに過ごしているというだけなのだが。
さて僅か一週間程度の春休みといえど、我らが団長が歩みを止めるわけもなく。
「いよいよ明日から春休み! 明日はお花見に行きましょう! いつもの場所に集合ね!」
そんな鶴の一声で明日、記念すべき春休み一日目の予定は一方的に決定されたのだった。
そろそろバイト料を何処かに請求しても悪くないような気がしてきたのははたして俺だけだろうか。
とまあ俺はいつも通りの生活をしていた訳だが、今日はちょっとだけいつもと違う事があった。
それは駅前でハルヒと朝比奈さんを、次いで古泉を適当に見送りだした後の事。
「さよなら」
珍しく長門が別れの挨拶を告げてきた。どうした、いつもなら無言で帰るくせに。
「……何となく」
そうか。でもお前がさよならって言うとちょっと寂しい感じがするな。
淡々と語る長門口調だと、どうにも今生の別れに聞こえてならない。
「そうだな……『また明日』とか『それじゃまた』とかどうだ。どうせまたすぐに会うんだし」
長門はしばし瞳の奥底でのみ思考している素振りをみせ、頷くと
「それじゃ、また」
ああ、それじゃまたな。上書きされた挨拶と共に俺たちはそれぞれの帰路へとついた。
- * -
翌日、相も変らぬ着順で俺が集合場所に訪れる。
毎度毎度気になるが、一体こいつらいつからここに立ってるんだ? 実は昨日からいるんじゃないか?
「そんな訳無いでしょ。まあ今日に限ってはアンタが何番目に来ようが奢りなんだけどね」
俺が理由を聞く前にハルヒは自分と朝比奈さんの持つモノを見せつけてきた。
「おはようございます、キョンくん」
「おはようございます朝比奈さん。それはもしかして今日の花見の?」
「ハイ、お弁当です。頑張って作ってみましたけど、期待しないで……」
「何言ってるの! 思いっきり期待していいわよ、キョン! みくるちゃんのも、もちろんこのあたしのもねっ!」
朝比奈さんの言葉をさえぎりハルヒが告げてきた。バスケットを振り回しているが問題ないのかそれ。
この二人特製弁当への期待度なんてハルヒに言われるまでも無く、弁当の存在を知った瞬間に百パーセントを越えている。
一年間のSOS団活動を経て天使から天使長へと進化した朝比奈さんと、まぁついでに料理の腕は確かなハルヒ特製の
弁当が食べられるというのなら、五人分の飲み物代なんて快く大盤振る舞いで払ってやろうじゃないか。
「それじゃ、キョンは有希と買出しね。あたしたちは場所取りに行くから」
長門? 古泉じゃなくて? そう思い古泉の方を見ると、
「おはようございます。僕はコレらの荷物もちですよ」
そう言って足もとにあるゴザやら雑貨やらを指差した。なるほど、頑張ってくれ。
「飲み物とお菓子を頼むわよ。場所が決まったら連絡するから、そうしたらすぐ飛んでくるのよ?
早くしないとアンタの分もみんなで食べちゃうんだから」
それは困る、連絡を受けたら死ぬ気で飛んでいこう。俺は決心を固めながらハルヒたち三人を見送りだした。
さて俺は残されたもう一人の買出し要員へと目を向ける。そいつはいつもと相変わらず分厚い本に目を落としていた。
「よう、長門」
俺が声をかけると長門が首を上げる。じっと俺のことを見つめてくると
「おはよう」
殆ど表に出ない表情で短く挨拶を返してきた。おやまあ珍しい。
昨日といい今日といい、長門の中では今挨拶するのがブームにでもなっているのだろうか。
「……それじゃ行きますか」
本をしまいちょこんと立ち尽くす長門を連れて、俺は駅前の大型スーパーへと向かっていった。
- * -
飲み物と菓子を買うのが俺たちの使命だ。カートを用意して食料品売場を回り始める。
リッターサイズを五本も買えば飲み物は十分だろう。禁酒は夏からの団の規律に入ってるしな。
次いで菓子コーナーを回る。長門が徳用菓子を適当に何個か選び、俺の持つカゴへと入れていく。
そつないチョイスに俺は少なからず感心した。お前の事だからてっきりカレー味で統一してくるかと思っていたぞ。
「…………」
俺とかごの中の商品を見比べ、そしてカレー味の商品に目線を移し始める。
あ、いや別にこのままでいいんだ。よしもう会計しよう。
カゴに入れた飲み物と菓子を確認しレジへと向かう。有名医師を三人ほどレジに渡し、硬貨を受け取る。
菓子と飲み物に分け袋に詰めると、長門はすっと飲み物の袋を手に取った。
「重いぞ。俺が持つからお前はこっちを持て」
「わたしは大丈夫」
実際長門なら全く重さを感じずに持つ事ができるだろう。だがコレは俺の気分の問題だ。
俺が全ての飲み物を持ち長門に菓子を託す。いいから、お前はこっちを持て。
「……非効率的」
ぼそりと告げてくるが、その表情が訴えているものではない事はすぐにわかった。
- * -
『映画の時の公園覚えてる? あそこに決めたからすぐに来なさい、オーバー』
へいへい、オーバー。ハルヒから連絡を受け、俺は長門と駅へ向かった。
両手荷物の俺に代わり、長門が切符を二枚買って来る。何とか自動改札をくぐり、ホームで次の電車を待った。
ふと、袖を軽く引かれる。何かと思えば長門がホームに設置された椅子を見つめていた。
ありがたい。早速俺は両手の荷物で椅子を一つ占領し、赤くなった両手を振ってほぐした。
「手を出して」
長門の言葉に素直に従い手を差し出す。と、長門はその小さい白い手でギュッと両手を握ってきた。
ひんやりと冷たく、火照りと痺れで赤くなった俺の手にとってそれはまさに気持ちいい感触だった。
「な……」
何を、と言おうとして無粋な事に気がつく。きっと俺の手を冷やす為、なんだろう。
荷物を持つと言った俺へのお礼だと考えていいんだよな。
「いい」
「……そうか」
人が行き交う駅のホームで互いの両手を握り合う姿だなんて思いっきり恥ずかしい構図だが、長門の精一杯の心意気を
むげにすることもできず、結局俺は電車が来るまでずっと長門に両手を握られ続けたのだった。
- * -
「キョーン! 有希ーっ! こっちこっちーっ!! 遅いぞーっ!!」
桜色に染まりだした公園の一角を陣取るハルヒたちが三者三様に手を振ってくる。
まだ宴もたけなわどころか始まってすらいないってのに何たってあんなに元気なんだろうね、ハルヒのヤツは。
「きっと楽しいから」
突然の回答に思わず歩みを止め長門の方を見る。長門は我関せずといったまま歩き続ける。
「今のわたしはおそらく楽しんでいる」
歩みを止め頭だけをこちらに少し向ける。長門はただまっすぐな視線をこちらへと向けてきた。
「あなたは、どう?」
……それもそうだな。これから花見で、しかもこのメンバーで騒ごうっていうのに
「楽しくないわけないだろ」
そう言うと俺は荷物いっぱいの手で長門の手をなんとか掴み、ハルヒたちのもと目掛けて走りだした。
- * -
「それでは、SOS団の色々に向けて! カンパーイッ!」
どっかで聞いたような団長挨拶の元、俺たちは紙コップを交わして各々乾杯をする。
その後は俺とハルヒと長門の戦争だった。朝比奈さんとハルヒの用意した重箱弁当をとにかくつつきまわす。
「相変わらず料理の腕は上手いな、お前」
「美味しい」
俺と長門がハルヒの唐揚を口にし、揃って賛辞を述べる。
「あったり前でしょ! いざ孤島や雪山で遭難した時に美味しい料理が食べられた方が元気が出るってもんよ!」
まあ確かにその通りで、実際その通りになったんだが。
「はいキョンくん、こっちもどうぞ。ポテトサラダは自信作なんですよ」
ありがたくいただきます。そう言ってからこちらも一口。俺に合わせて横から長門がフォークを伸ばしてくる。
朝比奈さんの作ってくれたモノなら、どんなものでも美味しいと思いますが、そんな色メガネ無しにしても
十分美味しいと思います。コレをまずいと言うヤツがいたとすれば、それはそいつの味覚の方がおかしいのだ。
お前もそう思うだろと話を振ると、長門は数ミリ単位で頷き
「思う。量販物以上の深い味を出している」
こちらもまた俺に習って朝比奈さんの料理を褒め称えた。多分。
長門にまで褒められるとは思っていなかったのか、朝比奈さんは少しびっくりした後、
「あ……うふふ、そう言ってもらえると頑張ったかいがあります〜。どんどん食べてくださいね」
桜の花びらを纏いながら上機嫌に微笑んだ。そのお姿は、思い出すだけで三倍飯が食べれるぐらい素敵な笑顔だった。
「珍しいですね」
古泉がそんな姿を見つめながらぽつりと語る。どうした、仲間はずれにされてて寂しくなったか。
「それもありますが、僕が言ったのは長門さんです。今日はいつもより社交的に振舞っているよう感じられますが」
流石にお前もそう感じたか。俺の言葉に古泉は頷く。
「ええ。彼女が朝比奈さんの料理に感想を述べるなんて姿、僕は初めて見ましたよ」
まぁな。言われた朝比奈さんですらびっくりしてたし。
でも、俺はこれはこれで良い事だと思ってる。感情の出し方がわからず改変を起こした時に比べればずっと、な。
「そうですね。組織としても長門さんの……」
古泉はそこで言葉を止める。ゆっくりと瞬きをしながら笑みを浮かべると
「……いえ、よしましょう。折角の宴席に失言でした。謝ります。
長門さんの変化についてですが、僕個人としてはあなた全く同じ意見を持っています。もちろんその理由も。
これは神に誓っても構いません」
一瞬だけハルヒに目線を投げ、すぐに俺に戻す。
なるほど、神に誓うね。お前がそこまで言うのなら本当なんだろう。
俺は古泉の発言に目をつぶると、そのまま朝比奈さん特製の卵焼きを堪能する事にした。
- * -
持ってきた弁当も買ってきた飲み物も菓子も全滅させ、それでも一時間ぐらいは騒いでいただろうか。
「流石に何も無いと寂しいわね」
ハルヒが空の菓子袋を振りながら聞いてきた。
どうする? 公園を降りて近場まで買い出ししてきてもいいが、いっその事場所を変えるというのも手だろ。
「それもいいわね、うん。でも何処に行こっか?」
何処がいいかと思慮を巡らせていると、ふと自分に向けられている視線に気がついた。どうした長門。
「構わない」
そこに至るまでの経緯を全て省略し、結論と思われる一言だけ述べる。後はただじっと見つめてくるだけだ。
あー、それはつまりあれか。この後俺たちがお前の家に移動して宴を続けても構わない、って事だよな。
省略された内容を予測し俺が補完した回答を述べてみると、長門は小さく頷いてきた。
「だ、そうだ。ハルヒ」
「オッケー。それじゃ途中で買い物してから、有希の家で一晩力尽きるまでパーティよ!」
お前がいつ力尽きるのか結構気になるが、そこまで付き合う前に俺の命が先に燃え尽きるかもしれん。
まあ、たまにはとことん付き合うのいいかもしれない。
舞い落ちる桜の花びらの中で楽しく騒ぐハルヒたちを見て、俺はそんな風に考えていた。
- * -
長門の家で俺たちは意外なものに遭遇する。
「あれ、有希この鍋はなに? あっ、おでんじゃない! こんなにいっぱいどうしたの?」
新たに買い出した食材を台所に置きながら、ハルヒがコンロに乗った土鍋を見つけた。
「持って行く手段が無かった。うかつ」
どうやら長門は今日の為におでんを用意していたようだ。しかしそれを入れていくものが無かったと。
流石に土鍋を持って歩くわけには行かないだろうし、冷えたおでんじゃ魅力も半減だ。
しかしお前がおでんとは驚きだ。俺はてっきりこんな場合でもカレーを作ると思っていたが。
「今日のような場合、カレーは家から持っていくものではない。外で作るもの」
そう言いながら台所脇に置かれたものを見る。長門が見つめる先にはいくつかの飯ごうが用意されていた。
「確かにそうね。んじゃ、今度は有希の希望を取り入れて、飯ごうすいさん付のキャンプにしましょう!」
ハルヒが飯ごうを楽しげに振り回しながら、さっそく次回の予定を決定していた。
河川敷で飯ごう炊いて、地元民から警察やら消防署やらに通報されない事を祈ろう。
暖めなおした長門特製おでんを中心に、台所を借りて作ったモノや買い出した菓子やらジュースやら酒やらが並ぶ。
「っていつのまに酒なんて買ったんだ」
「古泉くんに頼んだの。有希がそばにいたら買えないでしょ」
そりゃそうだ。長門は相変わらずのセーラー服姿であり誰がどう見たって高校生だ。それと仲良くつるむ連中なんて
いくら普段着で大人びてみようと誰だって高校生だと思うだろう。
「そこで僕一人が別行動で買いに行っていたんです。……もしかして気付きませんでした?」
ああ、全く。悪いが俺は荷物とゴミの運搬に必死でお前の行動を観察する暇なんて一秒たりともなかったからな。
「ご苦労様です。おかげで助かりました」
困っていた素振りも助かったというような素振りも見せず、相変わらず爽やかさがウリの笑顔を見せながら、古泉が
アルコール缶の一つを差し出しつつ礼を言ってきた。
- * -
「美味しいわよ、有希。さすがは我が団きっての万能選手ね!」
「本当です。今度レシピを教えてもらえませんか?」
そんな評価からスタートした第二部は、時間の経過とアルコール摂取量に比例してバカ騒ぎをみせ始める。
「だからさぁ、目玉焼きにはめんつゆが意外と合うって阪中さんが言ってたのよ」
「違いますよぅ。飛ぶのはモトラドじゃありませんよぅ」
「炎の魔女とか傷物の赤とか、せっかくですからバイト用の二つ名があってもいいかと僕は思うんですよ」
限定能力者が何を言う。だったら適当に『水星症候群』とか名乗ってろ。
「ユニーク」
そしてクリスマスの時に使ったツイスターで必死に勝負を始める。
「……左手青。右手青。左足青。右足青」
何で青しか出ないんだそのルーレットは。誰かの陰謀か。いやまあそれはいい。そんな事より突っ込ませろ。
何で俺は女性人三人の前で古泉なんかとツイスターしてるんだ、おい。
「わかってるはずです。これもまた」
ハルヒが望んだ事ってか?
「いいえ、僕のほんのささやかな策略です」
長門、次のルーレットで右手を相手の顔面にってヤツを当ててくれ。
「……唇、相手の唇」
「そ、そんなの書いてあったんですかぁ!?」
「いけー! ぶちゅっといけー!」
悪いが全力で拒否させてもらう。負けを認めよう。だから俺から離れてくれ古泉。
今ならまだお前の目が据わり顔が赤いのはアルコールのせいだと言う事にしておいてやる。
だから離れろ、マジで。
- * -
いつの間にか眠っていたらしい。コタツに下半身を突っ込んだ状態で俺は目覚めた。
部屋の電気は落とされ、窓から月と街による夜光が差し込んでいる。
携帯で時間を確認。日付が変わってから既に三時間、まさに深夜と言った時間帯だ。
寝そべったまま窓から空を見上げると、僅かに欠けた月が天頂を越え、そろそろ沈もうかと動いているようだった。
静かに起き上がり部屋を見渡す。
ハルヒが大の字になり、その腕の下でハルヒにすがる感じで朝比奈さんが丸まっていた。
部屋の片隅では古泉がジャケットを身体にかぶせて座ったまま眠っている。そして
「起きた?」
台所からグラスを持って長門が近づいてきた。どうやら水を持ってきてくれたらしい。
アルコールを飛ばす意味も込め、俺は長門が渡してくれた水を一気に飲み干す。
「ありがとよ。……ずっと起きていたのか?」
小さく頷く。それにしては本を読んでいた形跡とかはない。いったい何してたんだ。
「あなたたちをずっと見ていた」
俺はみんなを起こさないように抜け出ると、長門を連れて外へと出た。
春がもうすぐという季節とはいえ、夜風はまだまだ肌寒い。先ほどまで部屋で温まっていたからもあるだろう。
火照った身体を冷やすには少々きついかな。そんな事を考えていたら後ろからそっと手を握られた。
途端に先ほどまで感じていた寒さが、次第にゆっくりと緩和されていく。駅でされたのと同じようなものだろう。
「寒くない?」
ああ。俺は頷くとそのまま長門の手を引いて階段を登っていった。
錆びた金属音を立てながら開く扉を抜け、マンションの屋上に出る。
屋上に光源はなく街灯も届かない。月光だけが静かに宵闇に眠る世界を照らしていた。
手を離そうとすると、長門は小さく、でもしっかりと握ってくる。
「……寒くなる」
そうか。それじゃ仕方ないな。俺は屋上出口の壁に座って寄りかかると両足を広げて伸ばす。
長門は一度手を離すと俺に背を向け、背中から抱っこされるような形で俺の両足の間に座ってきた。
左手を長門の脇からお腹の方へと伸ばすと、長門が右手で掴み指を絡めてくる。
長門の左手は俺の足を、そして俺の右手は長門の頭を。お互いにゆっくりと撫でていた。
「今日は楽しかったか」
長門が小さく頷く。聞くまでも無い、今日一日の長門の姿を思い出せばそんなの明白な事だ。
寂しそうな背中を見せつつ、小さく頷いた答えが返る。
「楽しかった」
そうか、それはよかった。
暫く二人で空を見上げる。満点に輝く星空が、ただ静かに俺たちの事を見上げていた。
そのまま長門が身体全体を俺に倒し、思いっきり体重をあずけてくる。
「名前を」
長門がぽつりと告げてくる。どうしたんだいきなり。
「あなたにわたしの名前を呼んでほしい」
ちょっとだけうつむき小さな声で、でもはっきりと言ってくる。
「お願い」
俺はそんな長門の頭をもう一度優しく撫でると、彼女の期待に応えてやった。
「あぁ、わかったよ────────朝倉」
彼女の身体がぴくっと動く。ゆっくりとうつむいていた顔をあげると少しだけこちらに傾け、
「………正解。よくできました」
長門から、長門らしからぬイントネーションで言葉が返ってきた。
「いつ、わたしだって気がついたの?」
今日一日、お前の態度が微妙に長門らしくなかったんで気になってはいたんだ。
お前が朝倉だってわかったのは、あのおでんだ。過去に一度食べた事があったからな。
お前もそれが狙いだったんじゃないのか。俺に気付かせようと狙ってあのおでんを作ったんだろ。
「ええ、そう。でもちゃんと覚えていてくれたんだ、嬉しいな」
状況が状況だったからな。あんな最高にして最悪だったおでんの味を忘れろと言う方が無理ってものだ。
「長門さんの精神が、昨日からオーバーホールに入ったの」
長門の姿をした朝倉は俺の肩に頭を乗せ、空を見上げながら話し始めた。
「稼働時間は五・六百年経ってるし、外敵や想定外の要因からの負荷とかも結構あったでしょう。
そこで今回、長門さんを一度フルメンテナンスしようって事になったの。
本来なら上がざっと精神を再構成して一瞬で終わらせられるんだけど……でも、長門さんはそれを拒否したわ。
あなたなら、その理由はわかるわよね」
産みの親であれ自分の精神をいじられたくない、そういう事か?
「正解。よくできました」
「今、長門さんは喜緑さんの監修の元、自分自身で一つ一つチェックを行っているわ。
記憶の整理やエラーの処理など、六百年弱分をこつこつとね。
で、その間長門さんの生活に支障が無いよう、わたしがこうして代役をしていたって訳。
ちなみにこの身体は長門さんのよ。憑依しているって思ってくれたら早いかしら」
なるほど。お前が長門の姿をして俺たちといた理由はわかった。
だが何でよりにもよってお前なんだ。正直こうしてお前と話してる間も、俺は内心ひやひやしてるんだぞ。
俺の膝を軽く撫でながら、朝倉は楽しげに言葉を出す。
「春先の教室や冬の時みたいに、またわたしがあなたに襲いかかるかもしれないから?
大丈夫、それは無いわ。だって、わたしは朝倉涼子であって朝倉涼子じゃない存在だもの」
何だそりゃ、朝倉であって朝倉でないとは一体どういう事だ。
「わたしは今回の為に長門さんの上、つまり主流派によって新規に構成された存在なの。
いうなれば急進派朝倉涼子をオリジナルとした模造品、メイドバイ主流派の朝倉涼子ってとこかしらね。
長門さんのメンテ中の代役が任務だから涼宮ハルヒを観察する義務も無い。
つまりは涼宮ハルヒの出方を見る必要も無いので、あなたを襲う理由は全く無いって事。
……あなたがこの長門さんの身体に不埒な事をしようとするなら、話は別だけれどね」
するか。いや、長門の身体を抱いている今のこの状況はもしかしてしてる事になるのか?
微妙に問題ある状況はとりあえず考えない事にして、俺は話を続ける。
つまり長門の任務のバックアップではなく、長門自身のバックアップを行うのが、今のお前の任務なんだな。
「そう。わたしなら長門さんの事もあなたたちの事も、他のインターフェースより詳しく知っている。
そしてわたしという存在は既に消失していて、今は宇宙のどこにも無い。
逆を返せば長門さんの代理をする間、自分の身体を隠す必要も、他人に対し不在の理由をフォローする必要も無い。
ちょうどうってつけの存在だったのよ、わたしは。
そこで白羽の矢が立ち、めでたく今回わたしの思考が再構成された……と、こういう訳」
朝倉は俺の手を両手で包みこみながら、長門の淡々とした声に少しだけ楽しさを乗せて話してきた。
「長門はいつ頃戻ってくるんだ?」
「三百十五秒後。さっき最終調整に入ったって連絡があったわ」
朝倉は俺の手を離して立ち上がると、両手を空へ伸ばして軽く伸びをする。
「今日一日、本当に楽しかったわ」
何だか今回のお前は妙に人間的だな。急進派か主流派かってだけでこうも変わるものなのか。
「急進派、主流派は関係ないわ。わたしが人間的に見えるのは、多分人間の時の記憶が残っているからよ。
有機生命体、いえ、人の感情と言う曖昧なロジック。今なら何となく理解できるかな」
そして数歩前に出ると、後ろ手に指を組み軽くうつむいた。
そういえば、朝倉が正体を明かして以降、俺は長門──朝倉の表情を一度も見ていない事に気付く。
おそらく故意的に見せないようにしているのだろう。
「……お前はどうなるんだ」
気になったことを聞いてみた。長門がその身体に戻ってきたら、こいつは一体どうなるのだろうか。
「長門さんのシンクロを確認したら、もちろん空へ帰るわ。その後の事についてはわからない。
そりゃ今のわたしにとって、ここは魅力的な場所よ。あなたたちの存在を含めて、いえ、あなたたちが居るからこそ。
でもこの場所に居続ける為の身体はもう無いの。それはあなたが一番よく知っているはず。
自業自得。因果応報。あなたを殺そうとした罰があたったのよ」
今日の夕飯を決めるような、そんな軽い口調で朝倉が告げてくる。
「朝倉、お前はそれで──」
「ストップ」
朝倉は振り向くと、俺の口を指一本で塞いでしまった。
初めて朝倉としての長門の顔を見る。だが表情は殆どなかった。
まるでいつもの長門のような、微妙な変化を見せる表情だ。
「一時の感情で言ってもムダな事なら言わないで。それとも、長門さんとわたしを天秤にかけるつもりなの」
朝倉の身体がない以上、朝倉を繋ぎとめると言う事は長門の事を捨てる事になる。
いくらなんでもそんな事はできない。それこそ朝倉が言うように一時の感情で、だ。
「そういう事。それにわたしもこの身体で生きるのはお断りするわ。わたしは長門さんとしてここにいたいんじゃない。
わたしは、朝倉涼子としてここにいたいの」
そして俺に背を向けると、両手を横に伸ばして天を見上げた。
「……わたしに同情してくれるなら、抱きしめて。気分的には口づけしたいけど、長門さんに怒られそうだしね」
背後からゆっくりと身体に両手を回し、長門の身体を抱きしめる。
「……ありがとう」
マンションの屋上、月光と街灯に挟まれた世界の中。ショートヘアの少女は俺にそう告げてきた。
俺は黙って頷く。残された時間は、もう数秒程度だった。
「さよなら」
情報思念統合体によって派遣されたインターフェース。
彼女が、彼女の意思だけでここへ来ることは、おそらく無いだろう。
だがそれでも、俺は抱き寄せた少女の耳元にこう告げた。
「それじゃ、またな」
制服の襟をはためかせながら、少女は俺に背後から抱かれたまま不器用に、おそらく、微笑んだ。
強い風が吹く。
俺がその風に一瞬視界を取られた隙に、少女は──朝倉涼子は空へと還っていった。
身体が寒さを感じ出した屋上で、俺はしばし目を瞑り今日一日の事を思い出す。
「……ありがとう」
そよぐ風の音に乗せて告げられた、静かに透き通った長門の声をリフレインさせながら。
そして意識が戻るなり抱きしめられた状態で驚いているのか、小さな表情で振り向いてくる少女に、俺は告げた。
「お帰り、長門。お疲れさま」
「────ただいま」
長門は相変わらず微笑む事は無く、でも少しだけ何かを加えたような感じで答えてきた。
- * -
そんな事が懐かしく感じられるある日の事。
俺の携帯電話が見慣れない番号を表示しながら鳴り響いた。
いぶかしみながら俺が電話を取ると電話の相手は名乗りもせず、ただ一言だけを俺に告げてきた。
『────ただいま』
初めて電話越しに聞いたその懐かしい声に、俺は当然の受け答えを返してやった。
- 了 -