「それは、親しみを込めて使う言葉」
あれは、俺が高校に入る前、残りわずかな中学最後の春休みを過ごしている時だった。
「キョンくん、朝だよー。」
「キョくん、行ってきまぁす。」
「キョンくん、宿題教えて。」
すっかり俺のことを叔母発案のあだ名で呼ぶことに味を占めたわが妹は、いまや手当たり次第にその口から発する言葉の先頭に『キョン君』をつけて話しかけてくるようになっていた。
最初は妹もおもしろ半分で、いずれ飽きて以前のように『お兄ちゃん』と慕って呼んでくれる日が戻ってくると信じていたが、いまだにその日は訪れない。
「キョンくん、おかえりー。」
俺が外出先から帰ると、妹が迎えてくれた。その後ろに、妹と同い年とは思えないほど背の高い女の子が立っていた。
「お・・・お帰りなさい。お邪魔しています。」
その子は、やっぱり10歳とは思えないほど大人びた容姿をしている妹の親友だった。
「よお、ミヨキチ、いらっしゃい。」
ああこんな妹がいてくれたらなあと思っていると
「ほらほらミヨちゃん、キョンくんに!」
「えっ待って待って。」
妹がミヨキチをつついて何かせかしだした。なんだろう。またどこかに連れて行ってほしいとか言うのか?しかしそれにしてもミヨキチはまだ俺に対して何か硬いな。まあ俺が年上ってのもあるけどついこの間一緒に映画行って飯も食ったんだから、もう少し打ち解けてくれてもいいのにな。あの時もなんか無理に背伸びしてる感じだったしな。
妹がミヨキチをせかし、ミヨキチがためらっているやり取りは、俺にこのようなことを考えさせるのには充分な時間であった。
「あのあの、実は・・・。」
ようやくミヨキチが意を決して俺に近づいてきて、何かを差し出してきた。それはクッキーだった。
透明な袋に入れられたそれは、ざっと見10個はあった。
「手作りですっ!このあいだのお礼ですっ!」
一気に言葉を吐き出すと、ミヨキチは軽く息を切らしていた。ちょっと俺は驚いた。なぜかって?わが妹からはこんな気遣いをされたことがないからだ。
「ミヨキチぃ、ありがとうな。」
俺は素直にお礼を言い、クッキーを受け取った。ミヨキチは嬉しそうに
「全部食べてくださいね、キョ、キョンくんっ!」
うんうん、全部食べるぞって、待てミヨキチ、今最後になんて言った??
「あはは、ミヨちゃん言えたねー!」
主犯格と思しき人物が、顔を真っ赤にしている実行犯の背中を叩いた。
「お前なぁ、ミヨキチにまで広めやがって・・・。」
がっくりと肩を落とす俺を見て、ミヨキチはまるで受験生を扱う母親のように
「あのう・・・やっぱり嫌でしたか?」
と聞いてきた。
「え?嫌ってわけじゃないんだが・・・。」
そのとき、俺の体に刺すような視線を感じた。ミヨキチの後ろから、妹が今まで見たこともないような鬼の形相で俺を睨んでいた。背筋が凍った。
「・・・ま、そのほうが親しみがあっていいんじゃないかな。俺もミヨキチって呼んでるし、そっちもあだ名で呼んでいいよ。」
俺は妹がいつもの間の抜けた顔に戻ることを祈りながらミヨキチに答えた。
「は・・・はいっ!」
そのときのミヨキチは、クリスマスにサンタクロースから希望通りのプレゼントをもらった子供のような笑顔をしていた。このときばかりは叔母にお礼を言いたくなったね。
「ミヨちゃん、ばいばーい。」
「うん、また明日ね。」
「ミヨキチ、送ろうか?」
「いえ、大丈夫です、キョンくん。」
ミヨキチが帰ると、妹が何で送ってやらないのと言いたそうな顔をしていた。俺は妹の頭を軽くコツいて、自分の部屋に戻った。そしてクッキーを静かに食べ始めた。
「高校に行ったら、どんなやつがこのあだ名で俺を呼ぶんだろうな。」
そんなことを考えながら。
終わり