北高を卒業してから七年が経った。
東京の大学に進学したハルヒは「進化の可能性」だとか「時間の歪み」、「神様」などといった奇妙な背景を持たない、そういう意味ではまったく普通の人間になっていたが、奇態な性格はあまり変わらず、
「面白いことや不思議なことがないなら、自分で作ればいいじゃない!」
と言い放つと、ここでもやはり高校のときと同じように強引に気の合う仲間を集めて、各種イベントを企画・運営するサークルを立ち上げ、トップとして君臨しつつ方々を駆けずり回っては様々な事件を巻き起こし、ついにはそのまま会社にまでのし上げてしまった。
その日ハルヒは大きなイベントを成功させて、打ち上げを終えて気分よく帰宅した。
マンションのポストから郵便物の束を取り上げて一人暮らしの部屋に戻るとシャワーを浴び、リビングのソファに身を沈め、テレビを見ながらテーブルの上に投げ出した郵便物を選り分け始めた。
「つまらないメールばっかりねー。いったいどこで他人の住所を調べるのかしら、まったく……」
舌打ちして眉をしかめたハルヒはダイレクトメールを次々ゴミ箱に直行させて、下から現れた一通のはがきを摘み上げた。
文面をぼんやりと眺めたままハルヒは静止していた。理解が意識の端に達するまでに驚くほどの時間がかかった。脳の芯が痺れて、全身の機能が停止したかのようだった。
はがきは結婚式の招待状だった。
震える指先ではがきを裏返す。
差出人の二人の名前はよく見知っているものだった。
花嫁の名前は有希、旧姓長門。
並んでいるのは、ついに一度も呼ぶことがなかったキョンの本名に間違いなかった。
一週間ほどハルヒは不安定なまま過ごした。どうかしたんですか、と心配そうに声を掛けてきたスタッフに生返事をして、彼らがひそひそとささやき交わしている様子にも気付いていない。招待状は机の引き出しにしまい込まれている。返事はまだ出していない。
キョンとはもうずいぶん長い間会っていなかった。学力の差からキョンは地方の、東京から遠く離れた大学に入学した。胸が締め付けられるほどに痛んだが、その頃にはもうハルヒもその別れを受け入れられるほどには大人になっていたので、周囲が心配したほどに大騒ぎすることはなかった。声が聞きたくなれば特に用事がなくても電話すればよかった。帰郷するたびに会えると楽観視していたし、年を経るごとに回数こそ少なくなったものの、事実そうしていた。
しかしハルヒはサークルのために次第に忙しくなったし、キョンもまた自分の時間を持つようになった。在学中に小説家としてデビューしたのだ。ハルヒがその道にキョンを引っ張り込んだようなものだったから、当時は自分のことのように喜んで祝福した。
最初の数冊は会えない時間を埋めるように読んだ。しかし社会人になってからは忙しさにかまけてつい読みそびれていたし、お互い会うこともなかった。
今日も仕事が手につかないまま一日を過ごしたハルヒは会社を定時で上がり書店に立ち寄った。キョンがあれから何を書いたのか知りたかったのだ。
指先で棚をなぞるようにして大学の頃のキョンのペンネームを探したが一冊も置いていなかった。もう今は書くのをやめてしまったのだろうか。なんとなく不安になって、ちょうど通りかかった店員に尋ねると、彼は「ああ、その作家ならこちらです」と言って台の上を示した。キョンの小説は平積みされて、印刷されたポップで大きな賞を取ったと宣伝されていた。
ハルヒは受賞作を一冊買って帰った。
高校の頃の懐かしい空気がそのまま詰められた缶詰のような本だった。つい読み耽っていると携帯が鳴っているのにしばらく気がつかなかった。知らない番号だったが慌てて通話のボタンを押すと、
『もしもし、ハルヒか?』
聞こえてきた声に心臓が跳ね上がった。
「……キョン」
『久しぶりだな、元気か?』
電話の主はキョンだった。屈託のない明るい声がハルヒの耳を打った。目の前が揺れるようだった。
「そ、そうね。久しぶり。何か用? こんな時間に」
時計はちょうど九時を回ったところだった。
『いや、ほら、返事がなかったからさ』
「返事?」
何の、と言いかけてハルヒは口をつぐんだ。
『結婚式だよ。出てくれるんだろ?』
「結婚式──」
『そうだよ、俺と有希の』
聞きなれない呼び方に眩暈がした。
「結婚、するの?」
『何だよ、知らなかったのか?』
「ご、ごめんなさい、最近ちょっと忙しくて。招待状、出してくれてたの? 気がつかなかったわ」
答えながら机まで歩いて、引き出しから招待状を取り出した。
「──あー、あったわ。……そう、本当に結婚するんだ」
有希と。ハルヒはその名前を飲み込んだ。
『届いてることは届いてたんだな。で、出てくれるんだろ?』
「そうね……。うん、もちろん」
『そう言ってくれると思ったぜ』
弾む声が辛かった。久しぶりの電話なのに切りたくてたまらない。
『お前には絶対出て欲しかったんだよ。何しろお前は、』
やめて──
『お前はSOS団の団長だからな』
結婚式の前日、ハルヒは地元の空港に降り立った。帰ってきたのは一年ぶりのことだ。
ロビーに出ると長身の青年が手を振った。古泉の変わらない爽やかな笑顔がハルヒを出迎えてくれた。
古泉はハルヒと同じ大学に進学したが、学部も違ったし色々と都合が合わないことが多かった。また彼は大学を卒業後はある一流企業に就職して一年のほとんどを外国で過ごしていることもあり、いつの間にか疎遠になっていたのだが、先日向こうから連絡があって迎えに来てくれる手はずになっていた。
「古泉くん、お久しぶり。今日はありがとう」
「これはどうも。ご無沙汰しております。涼宮さんにはお変わりありませんようで何よりです」
「古泉くんも元気そうね。──で、その子は?」
無遠慮に指を差すと、古泉の後ろに隠れるようにして立っていた人影がひょいと顔を出して頭を下げた。
「お久しぶりです、涼宮さん」
「あなた、もしかしてみくるちゃん?」
驚きに目を瞠る。高卒後、両親と共に外国へ行ったはずのみくるが成長した姿でそこにいた。
古泉が大きく手を広げた。
「二年ほど前に向こうで偶然再会したのですよ。彼女も彼の結婚式に招待されておりまして、一緒に帰国したというわけです」
「涼宮さんを迎えに行くって聞いたんで、どうしても会いたくってついてきちゃいました」
屈託なく笑う。外見はともかく、内面的には二人ともあまり変化がないようで、ハルヒはほっと表情をほころばせた。
ひとしきり再会を喜んだ後で、古泉はハルヒの荷物を受け取って車へと案内した。ハルヒは後部座席に乗り込んだ。
車の中で三人は始めお互いの近況を報告しあっていたが、話は自然と思い出話になり、この場にいない二人の話になった。二人とも日本に帰ってきたときには必ずここに立ち寄っていたそうで、ハルヒの知らない二人の話を交互に聞かせた。
「彼もなかなか順調のようですね。まさか小説家になろうとは、あの頃には想像もしませんでしたが」
キョンは卒業後地元に帰って就職し、働きながら執筆を続けていたが、去年大きな賞を取ってどうやら専業でやっていけるめどが立ち、とうとうプロポーズしたらしかった。
古泉が語るキョンの話をハルヒは黙って聞いていた。四ヶ月前出席を確認する電話があってから、キョンとは一度も話していない。視線は窓の外に固着していたが、何も見ていなかった。
「それにしても、あの二人が結婚するなんてね……」
吐息が漏れた。ミラー越しの視線がちらりとハルヒを眺めた。
「四年越しのつきあいでしたからね。そちらはそれほど不思議ではありません」
「長門さん──いえ、有希さんとは学生の頃からずっとおつきあいしていたんですよね。キョンくんがスランプに落ち込んだときも支え続けて、ついには立ち直らせたって。なんだかロマンチックですよね……」
「みくるちゃん、何言ってるの? 有希はあたしと同じ大学だったわよ」
ハルヒが聞きとがめると古泉は訝しげに眉をひそめた。
「? 始めから彼と同じ大学でしたよ。彼女の学力ならもっと上の大学も充分狙えたはずなのですけどね」
混乱する。ハルヒと古泉と有希は同じ大学に進んだ、とハルヒの記憶ではそうなっているのだが──。
そんなハルヒの様子を見て古泉は心配そうな表情を作った。
「……今日はこれからどうされますか? 僕たちはお二人に会いに行こうかと思っているのですが、ご一緒されませんか?」
「そうね……」
窓の外を眺めたまま溜息のように呟いて、ゆるゆると頭を振った。
「ううん、今日はちょっと疲れたし、遠慮するわ。悪いけど私の家に送ってくれる?」
実家の前にハルヒを下ろして車は去った。荷物を置いたハルヒはほんのしばらくの間休息したが、どうにも落ち着かず家を出た。さまようような足取りで昔のように街を歩く。二人に会いに行こうと思えば行けたけれど、どうしても踏ん切りがつかなかった。
街並みは変わらないようでいて少しずつ変わっていた。記憶通りの景色に混じって、知らない建物が上塗りしたように置き換わっていた。北高に続く坂道は相変わらず急だった。高校は一部改装されて、あの文芸部の古い部室は今はないらしい。駅前の喫茶店はコンビニになっていた。
結婚式は祝福するような晴天だった。ヴァージンロードを歩む新郎はひどく緊張しているようで顔つきが強ばっていた。数年ぶりに見る顔は思ったよりもずっと大人になっていた。
有希は背格好も顔つきもあの頃からほとんど変わっていなかった。ただ、髪が中学生の頃のハルヒのように長く伸びていた。そしてやはり固形化したような横顔だったけれども、高校のときとは明らかに質の違う無表情だった。もうあの仮面のような無表情ではない。その下には感情が息づいていた。
新婦の前に進み出た二人は誓いの言葉を述べ、指輪を交換した。ハルヒはそこで下を向いてしまったので、カメラのフラッシュが照らすキスシーンは見なかった。
参列した客たちが出迎える用意を済ませると教会の扉が開いてキョンと有希が姿を現した。そして初めてハルヒは有希の笑顔を見た。満面の笑顔──なんて顔で笑うんだろう。何故か逆に泣きたくなった。
有希の投げたブーケに若い女性たちが嬌声を上げて群がった。昔のハルヒなら誰と結婚する気がなくてもわれ先に飛びついただろうけれど、今は拾う気にもならなかった。
披露宴が終わって、親しい者たちだけで二次会の席に移動した。有希は髪をアップにして現れた。唐突にいつか聞いたキョンのセリフが蘇った。有希が何でそうしているのかは聞くまでもなかった。
三次会への道すがら、キョンと有希、古泉とみくるが並んで先を歩いていた。四人はハルヒの知らない話で盛り上がっていた。有希は昔のように無口だったけれど、キョンを見るときの仄かな微笑は百万言よりも雄弁だった。
足元の地面が頼りなくやわらかいように思えた。
七年前までのハルヒはずっと彼らの中心にいて、彼らを牽引していたはずだった。そう思っていた。けれども実際にあの時のハルヒたちの中心にいたのはキョンだった、それはキョンがハルヒの心の中心を占めていたからということに、今更気付いた。
四次会まで付き合ったが、そこで限界だった。少し飲みすぎていた。足がもつれるほど酔ったハルヒは、誰かに支えられてタクシーに乗せられた。
「おい、大丈夫か?」
キョンの声だった。肩を支えていた腕が外されそうになって、思わず袖をつまんだ。
「──キョン」
「何だ?」
顔を見上げる。確かに何かを伝えたいのに、何と声を掛けたらいいのか言葉に詰まった。それでも最後に一言を搾り出そうとしたとき、
「…………」
キョンの肩越しに有希の顔が見えた。暗がりの中でもキョンに対する信頼と、二人の間に通う心への自信がありありとわかった。言葉はのど元に届く前に霧散して、ハルヒは何もいえなくなった。
「おめでとう。お幸せにね」
結局、ありきたりの社交辞令しか出てこなかった。キョンは一瞬面食らったように目を瞬かせたが、すぐに歯を見せて微笑んだ。
「ありがとよ。落ち着いたらまた連絡するからさ、暇があったらうちにも遊びに来てくれよ」
キョンが身を引いた。側に有希が寄り添った。ドアが閉じて、タクシーが滑るように走り出した。二人の姿はたちまち消えた。
夜景が車窓を流れてゆく。光が滲む。スカートを握り締めた手の甲に雫が落ちた。溢れる涙が頬を伝ってこぼれていた。
タクシーのドアが閉じたとき、引き戻しようのない過去との絆が音を立てて切れたのだ。置き去りにしてきた過去はそのままの姿でいつまでもそこに留まっているような気がしていた。しかし現実にはそこではハルヒと違う時が流れて、いつしか枝分かれした木の先のように遠く道をたがえてしまっていた。あの日々を永遠に失ってしまったことを今更ながら悟った。
何で忘れていたんだろう。こんなに大切だったのに。
時間は立ち止まらない。もうこの街に帰る場所はどこにもない。抱えきれない喪失感が胸を押し潰した。
小さな嗚咽が号泣に変わるまで、それほど時間はかからなかった。