「涼宮さん、これを渡しておきます」  
 そう言って小泉君は斧を差し出した。私の腰から上までの長さはある太い木の先には、片刃  
の無骨な鉄の塊が備わっていた。  
「熊や猪ぐらいならこれでなんとかなるでしょう。ただし……」  
 不安そうな表情を浮かべた小泉君の言葉を遮り、私が続けた。  
「こんな斧じゃどうにもならないヤツが……いるんでしょ?」  
 途端に小泉君の表情からは不安が消え去り、変わりに現れたのは恐怖だった。彼の額からは  
汗がいくつも流れ落ち、過去に経験したのであろうその恐怖を思い出しているようだった。  
「話してよ。いったいここに何が棲んでいるのか」  
 私の言葉に意を決したのか、深く深呼吸を一度すると……小泉君は語り始めた。  
「身の丈二メートル余り……、推定年齢百五十歳……、通称、夜叉猿!」  
 言い終えると、それまで普段と変わらない笑みを崩していなかった小泉君が目を大きく見開  
き、何かに吹っ切れたかのように真剣な顔をして話を続けた。  
「こいつに出遭ったら何もかも捨てて逃げてください! 悪いことは言いません、僕も組織の  
命令とはいえ、伊達に半年も監視をしてるわけじゃありません!」  
 いつもとは違う真剣な顔の小泉君を見れて得をした気分になった。大声で一気に喋ったせい  
か、小泉君は息を切らせて肩を上下させていた。  
 一瞬とも永遠とも思えるほどの沈黙の後、私は彼から渡された斧を静かに、ゆっくりと彼に  
向かって差し出しながら、  
「小泉君、有難いけど……、これ、やっぱり返すわ」  
 そして私はいつもの笑顔を作りながら言った。  
「せっかくの忠告は有難いけど、今私が逢いたいのは、まさにそういう怪物なのよ!」  
 
 
 深い夜の森の中、周りを小振りな岩で囲まれた体育館ほどの砂地がそこには広がっていた。  
 古泉君から聞いた夜叉猿の出現ポイント。そこで私は一人正座をし、瞑想をしている。虫の  
囀りも風の音すら聞こえない静寂の中、正座する私の前にくべた焚き火の炎だけが時折木のは  
じける音とともに、私を現実へと繋ぎ止めている。  
 それは突然の出来事だった。  
 古泉君から聞いた夜叉猿の体格からして、それが近づいて来れば足音や木の枝の折れる音、  
あるいは息遣いや匂いでわかるはずと思っていた。しかし、それは何の前触れも無く突然私の  
背後からやってきた。  
「ホギョアアアアアアアアアアアアッ!」  
 両腕を掲げ、仁王立ちのような姿で私の背後にそれは立っていた。  
 全身を黒々とした毛で覆われ、ゴリラのような体格をしている。足は短く、腕は肩から足先  
まで届きそうなほど長い。全身を覆う毛の下に見える筋肉は厚く、一目見ただけでそれが人の  
比では無いことが解る。やや上を見上げる形で、目だけは私をしっかりと捉えており、大きく  
開いた口には鋭い牙が何本も並んでいた。  
夜叉猿が放った咆哮は、空気を激しく震わせる。一生物が発したとは思えないその咆哮は、  
空気だけに留まらず、大地をも振動させた。そして私をも。  
「や……夜……叉…………ザ……ル……」  
 私は恐怖した。  
 古泉君から聞かされていたし、頭の中でも想像していた。覚悟も決めていたし、むしろ未知  
との遭遇が出来ることに喜びを感じてさえいた。しかし、実際には夜叉猿の雄叫びにより私の  
足は震え、涙さえも浮かべている。  
 怖いもの知らずと思っていた私が、今は夜叉猿に心から恐怖している…。飼い慣らされた裸  
の小猿が今山に放され、実力を思い知らされている……。  
 
 夜叉猿が飛び掛ってきた。  
 仁王立ちの状態から掲げていた両腕を地面に降ろすとその反動を活かしたのか、その巨体か  
らは想像できない速さで一気に私との間合いを詰めた。そして私まで二メートルほどまで迫っ  
たところで再び地面に丸太のような腕を振り下ろしたかと思うと、その巨体を宙に浮かせた。  
 そのまま私の上に覆いかぶさる形になり、私は真後ろへ押し倒される。  
夜叉猿の体重をそのまま浴びせられた私は頭部だけは何とか庇ったものの、背中を地面に叩  
きつけられ身動きが取れなくなった。  
「たす……たす……けて…」  
 ここには誰もいない。誰の助けも借りられない事はわかっていたはずなのに、私は無意識に  
助けを求めてしまっていた。  
「ホギョアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」  
 夜叉猿は勝ち誇ったかのように何度も雄叫びを上げる。  
「も…もういい……」  
 そう呟きながら、私は必死にその場から逃げようとした。しかし、恐怖と先ほどの背中への  
ダメージによって上手く歩くことが出来ず、腹ばいの状態で夜叉猿とは反対方向の闇に向かっ  
て手を差し伸べるしかなかった。  
「た……」  
 もう一度助けを求める声が私の喉から漏れたその時、無情にも私の足首が夜叉猿に掴まれた。  
「ひっ! た…たす……」  
ゴキッ! ブチブチブチッ!  
掴まれた足首からそんな音が聞こえてきた。実際にはそんな音はしなかったのかも知れない。  
しかし、私にははっきりとその音が聞こえてきた。骨の折れる音と腱の引きちぎられる音が。  
「ぎっ…! ぎぃやああああああぁぁぁぁぁぁ!」  
 
 

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