ある晴れた日のこと、特に特別なことが起こるでもない静かな午後がまったりと流れる部室。
寒気を纏っているであろう風が安普請の窓を叩いてガタガタと音をたてているが、
そんな冬将軍の残存兵力ごときでは甲子園開会式の高校球児なみに規則正しく行進してくる春の日差しに抗しきれるはずもなく、
部室内は眠気を誘発することこの上ないほどの暖かな空気で満たされている。
まあ、普段の部室であればたとえ高級マスクメロン栽培ビニールハウスなみの完璧な温度管理がなされていようとも、
団長様が突然なにをのたまうのかわからない緊張感のため、とてもじゃないが睡眠欲なぞ喚起されている場合じゃないんだがな……
しかし、現在部室は静かそのものだ。
なんせ俺と、地球上に存在するあらゆる文字媒体を読み尽くそうとしているアンドロイド、長門しかいないんだからな。
ハルヒを含めた団員3名はそれぞれのかばんを団長机の上に置いたまま、どこかにお出かけ中だ。
長門が定期的に奏でるページめくり音と、冷風をシャットダウンしてくれる窓がつむぐガタガタメロディを聴いていると、
つくづく人間が惰眠をむさぼることができる状況ってやつは平和の象徴だと実感するぜ。
教師も授業中に机につっぷしてる生徒を注意する前に、もっと今ある平和な世界を心の底から堪能すべきだね。
「………」
おっと、半分まどろんでいた俺の思考に割り込みをかけるかのように、いつのまに席を離れたのやら長門がすぐ隣に立ってるじゃないか。
「どうした?長門」
問いかける俺に、長門はいつかのメッセージ付き栞入りハードカバーを差し出したときのように、今まで黙々と読んでいた本をさしだしてきた。
「読んで」
旧校舎独特の揺れる窓枠が放つ振動音のみをBGMにしながら、長門がたった3音だけの意思表示。
こりゃやっぱなんかの伝言入りに違いないな。
こいつもいい加減こんな回りくどいことせんでもいいだろうに……
「長門、なんか言いたいことがあるんなら、ここで言ってもいいんだぞ」
幸い今はハルヒも古泉も朝比奈さんもどっかにいってるしな。
まったく今度はどんな悪巧みで朝比奈さんを泣かせてるのかね。
「そうじゃない。今ここで読んで」
だが、しごく当然な帰結をみた俺の予想とは違った返答が長門からは返ってきた。
はて、ここでこれを読む?
俺はあらためて長門が手渡してきた、わら半紙製のみすぼらしい本をとにかく受け取った。
ふむ、市販品ではありえないちゃちな装丁だ。
俺は、つい最近ハルヒのやつが自分の知り合いを総動員して(一部知り合いでもなんでもない人間も含まれる)つくりあげた機関誌を思い出したわけだが、
むき出しになったホッチキスの針といい、安物のコピー機を使ってかすれちまってる印刷といい、こいつもそれによく似た雰囲気を醸し出していた。
案外俺達が入学する以前の文芸部が発行した機関誌なのかもしれんな。
さて、続いて俺は表紙に目を向け、飾り気のないワープロ文字で『機関誌』と記されているのを確認、自分の洞察力にちょっとした優越感を感じつつ、それに続く文字群
『枕元に置いておきたい童話100選』
これを目にした瞬間、俺の脳みそはその活動を停止した。いや、嘘だが。
「読んで、聴かせて」
えっと、このときの俺がどれだけ鳩が豆鉄砲食らったような顔をしてたか、想像ができるだろうか?
どんなマヌケ面を思い浮かべたかは各人の自由に任せるが、どれも現実とはかけ離れているであろうことは保証しておいてやろう。
なんといっても俺の顔を覗いていた長門が、あの長門が目の奥に驚きの色をうかべていたくらいなんだ。俺自身にすらどんな顔してんだか想像できん。
だってお前、長門が童話を読んで聞かせろってなぁ……
俺はまるで、一流レストランで舌鼓を打っていたところ、偶然厨房を覗いたらコックが『しゃべる!DSお料理ナビ』を使ってるのを目撃したような気分になったね。
しかしまあ、長門は読書に関してはかなりの悪食、好き嫌いなしだからな。
童話に興味を持つ可能性だってゼロじゃあないはずだ。
長門には世話になりっぱなしだし、この程度の頼まれごとであればいくらでもきいてやるさ、お安い御用だ。
「いいぜ、長門。読んでやるよ」
「そう」
俺が承諾するのを確認するやいなや、長門はわざわざ自分の所定位置、窓際のパイプ椅子に移動した。
なにもわざわざ動かんでも……俺の傍にはいたくないか?
「違う。読書中はここを動かないよう涼宮ハルヒに指示されている」
「なんだそりゃ」
そう言いつつ俺はその機関誌の目次に目を通した。
『桃太郎』
『浦島太郎』
『マッチ売りの少女』
『シンデレラ』
などなど……
うん、どうやら和洋折衷、とにかく子どもの好きそうな有名どころの童話が片っ端から集められてるようだな。
こう見えても俺の童話読みテクニックはなかなかのもんなんだぜ、長門。
妹や親戚の子相手によく絵本専用ナレーターをやってやったもんだからな、シンデレラ以外ならわりとなんでもござれだ。
「………」
てなわけで心なしか期待に目を輝かせているような長門に読みきかせるべく、俺は早速最初の収録作品『桃太郎』を音読し始めた。
『桃太郎』
昔々あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。
おじいさんとおばあさんは子宝に恵まれず、そのことを大層気に病んでおりましたが、それでも仲むつまじく幸せに暮らしていました。
「さあ、おばあさん。今日はどんなコスプレにする?やっぱ基本のメイドにしとこうかしら?」
「ふえー、や、やめてくださいぃ」
ええ、仲むつまじいんです。これもきっと愛情表現の一種に違いありません。
さて、そんなある日のこと、その日に限っておじいさんが洗濯をすると言い出しました。
「なんかね、予感がすんのよ。きっと不思議なことが起こる前兆よ、これは!」
おじいさんの行動はそのほとんどが直感頼み、今日は川に行きたい気分なんでしょう。
そんなわけでおじいさんが川で洗濯をしていると、川上から大きな桃が、どんぶらこどんぶらこ、と流れて来ました。
「こんな大きな桃、普通じゃありえないわ!間違いなく不思議なものね。案外桃源郷あたりから流れてきたのかも」
おじいさんは喜び勇んでその桃を拾うと、数十キロはあろうかというそれを軽々と抱えて家に帰りました。
って、あなた本当に女性ですか?いや、おじいさんなんだから性別は男に決まってるんですけど……
「長門……この本、おかしくないか?」
「………」
長門は俺がなにを言っているのかわからないとでも言いたげな顔で俺のことを見つめている。
………まあ…そうだよな。長門が桃太郎を詳しく知っているとも思えんし……
「読んで」
「ああ、そうだな…すまん、途中で切っちまって」
先を促す長門に応えて、俺は腑に落ちないものを感じつつも続きを読みだした。
桃を割って中から生まれた男の子にふたりは桃太郎と名付けると、それはそれは大切に育てました。
愛情の注ぎ方がちょっと歪んでいるおじいさんと、正直愛情を注ぐくらいしかとりえのないおばあさんに育てられた桃太郎はわりとまっとうに成長しました。
さあ、そんなある日のことです。
桃太郎の家に、都からお姫様が供も連れずにお忍びでやってくるではありませんか。
「………」
「あのー…なにかしゃべっていただかないと、なにもわからないんですけど……」
大層無口なお姫様の来訪に、メイド姿のおばあさんはビクビクしどおしです。
和装のお姫様、洋装のメイド姿のおばあさん、少女にしか見えないおじいさんがひとところに集まるカオスな空間。
我が家の異常性を改めて実感した桃太郎は、「早いところ家、出ないと俺は頭がおかしくなるんじゃ」と思いました。
自分が桃から生まれたことは棚の上に丸投げです。
「………」
その無口なお姫様が無口なりに一生懸命に訴えるところによれば、なにやら最近都では鬼ヶ島からやって来る鬼が悪さを働いているとのこと。
お姫様の涙ながらの訴えに、桃太郎の心は強く奮い立ちました。
「………」
「あの…ずっと無表情なんですけど、お姫様……」
泣いてるんです!きっと、心の中で。
「許せないわね、鬼のやつら。あそこはいい温泉が多い上に美味しい焼き鳥屋が豊富、そのうえ蒲鉾もイケル、めちゃくちゃいいとこなのに……」
おじいさん、それは山口県長門市です。桃太郎の舞台は岡山ですよ。
「長門!今『長門市』って固有名詞が出たぞ!?」
「………いいから読んで」
おかしい、この本は絶対におかしい、そんな思いを強めながらも、同時にこれ以上気にするのはよそうとも考える俺だった。
そうだろ、最初の話でこんなにつまづいててどうすんだよ……
もうちょっと大人になろうぜ、俺よ……
おじいさんの強い勧めもあって、桃太郎は鬼退治に乗り出します。
「ふん!鬼のやつらも間抜けなことね。『泣いた赤鬼』の鬼だったら見逃してあげたのに。
桃太郎!やつらに出演作を間違えた己の不幸を存分に味あわせてやりなさい!」
桃太郎は「いっそお前が直接行ってくりゃいいだろ」と思いましたが、そんなことを言ってしまえば最後、
おじいさんの暴走を誘発する結果にしかならないことは長年の同居生活で嫌というほど思い知らされています。
なんとかその言葉を胸の奥にしまい込み、桃太郎は素直に旅立ちました。
腰にはおばあさん特製の吉備団子をくくりつけて。
そして道中で仲間になったお供が3匹。
「面白そうなことは大歓迎だよっ!アハハ」
育ちの良さそうな犬。
「なんで俺がこんなことにつきあわされてんだ?」
愚痴の多い猿。
「まあまあ、いいじゃない。こういうときに助け合っておくと、あとで自分がこまったときにひとりひとりの負担が軽くなるもんだよ」
能天気っぽい雉。
集まった仲間を見て桃太郎が思うことはひとつ。
「誰かひとり忘れられてるんじゃ……」
てっきり作り笑顔と解説が得意なキャラが仲間になるだろうと予想していた桃太郎は拍子抜けです。
そしてとうとう鬼ヶ島に上陸した桃太郎一行。
待ち構えていたのは2人の鬼でした。
ひとりはエリート然とした眼鏡の似合う二枚目の鬼。
もうひとりはいかにも本心は隠してますよと言わんばかりの不自然な笑顔を絶やさぬ二枚目の鬼です。
「……そっち側に配置されちまったのか、お前……」
「はい、なぜか」
なかば哀れみすら感じた桃太郎の呟きに、鬼の片割れが不本意そうな声をあげました。
ですが、なにはともあれこの事件も佳境を迎えました。
正直鬼二人程度の戦力、なにげに無敵っぽい犬だけで充分かたが付きそうだと思わないでもない桃太郎でしたが、
ここでさぼってしまうと後でおじいさんに何を言われるものかわかったものじゃありません。
気乗りしないながらも、桃太郎は先陣をきって鬼へとむかっていくのでした。
さて、そんな桃太郎の様子を都にいながらにして観察する二人の人物がいました。
ひとりはこの都の無口なお姫様。
もうひとりは薄緑色の美しい髪の中に小さな二本の角を生やした可愛らしいお嬢さんです。
「頑張ってますね、桃太郎さん」
「………彼はやるときはやる人……」
二人にとってみれば都と鬼ヶ島を隔てる距離なんて観察を阻害される要因にはなりえません。
奮戦する桃太郎の様子を楽しげに見ています。
「それにしてもあなたも結構悪どいですね。わたしたちに都を襲わせて悲劇のヒロインを演じ、桃太郎さんの気をひこうだなんて………」
「……実害はでないよう、配慮している……」
そう、今回の件、すべては都のお姫様と鬼ヶ島のお姫様との共謀なのです。
「勘違いしないでくださいね。わたしはあなたを責める気は毛頭ありませんから。
わたしとしてはこの程度の悪評と鬼二人の犠牲で、物資の乏しい鬼ヶ島への援助の約束を取り付けることができて大変満足しているんですから」
人間の姫と鬼の姫の密約、このことを知っている者は誰ひとりとしていません……
「ところで」
「なんでしょう?」
「次はいつ襲ってくれる?」
「……味、しめちゃったんですか」
どうやら桃太郎の第二回鬼討伐はそう遠くないことのようです……
〈おしまい〉
「……長門、ひとつだけ言っておくぞ」
「なに?」
いろいろつっこみたいことはある。
なんか登場人物に見覚えがありすぎるだとか。
おじいさんとおばあさんのキャスティングがあきらかにおかしいだとか。
だが、その大部分は長門に言ってもしょうがないたぐいのもんだ。
だから俺はひとつだけ、釘をさしておくことにした。
「本来の桃太郎は、こんな黒い話じゃないからな。今の内容は忘れちまえ」
「……………そう」
なんか頷くまでの間が長すぎないか、長門。
本当、忘れろよ。頼むから。
さて、そんじゃ俺はこのへんで夢の中の住人になろうかな………て、長門、なぜそんなに真摯な眼差しを向けてくるんだ?
「続き、読んで」
続きって………
俺は「楽してお金を儲ける大人になりたい」というふざけた夢を語る生徒に説教をたれる小学校教師のごとく長門を説き伏せることにした。
「言っちゃなんだがな、長門。その本はなんというか教育によろしくないぞ。今度、俺がもっとまともな童話の本を持ってきてやるから、それまで待ってくれ」
「読んで」
長門は自分の無表情をどのような角度で見せれば男を篭絡できるか研究しつくしたかのようなベストな上目遣いで俺を見上げてくる。
くそ、可愛いじゃねぇか。
「いや、俺はお前に童話を読んでやるのが嫌でこんなことを言ってるんじゃないぞ。
あくまでお前の健やかな人格形成を願ってのことなんだ。わかってくれ」
「それを読んで」
どうも長門はどうあっても引くつもりはないらしい。
結構頑固だからなぁ、こいつも。
ええい、この本のどこにここまで長門を固執させる魅力があるっていうんだ?
「わかった、わかったよ。読んでやるから……」
「そう」
かなわねぇよな、こんなほっとしたような顔されたんじゃ……
えっと、次は……白雪姫か……
『白雪姫』ならびに『人魚姫』
文芸部発行機関誌に収録されている絵本童話をご覧ください。
挿絵もついているので、そちらのほうがお勧めです。
「なんじゃこりゃ!」
俺はいそいで本の表紙と奥付を確認した。
無論著者名が『古泉一樹』となっていないか、確かめるためだ。
くそ!タイトル以外書いてねぇ!
「これが白雪姫と人魚姫。記憶した」
「待て!早まるな、長門!これはでたらめだ!」
「………」
ある意味幼稚園児よりも無垢な宇宙人に、地球を代表する名作童話を勘違いのまま覚えさせるわけにはいかない。
俺は地球文化の尊厳のため、必死に白雪姫と人魚姫のあらすじを説明した。
「つまり、こう?」
『人魚姫』(長門有希 改定版)
発言が自動的に「禁則事項」に変換される有機生命体青年期女性体が存在する。
その個体は好意を持つ異性に告白する権限を持っていなかったので、こっぴどく振られた。
その後、情報結合解除され、消えた。
「違う!」
「……………そう」
なんか頷くまでの間が長すぎないか、長門。
まさか朝比奈さんになにかうらみでもあるんじゃないだろうな?
「次、読んで」
次か?………次は『浦島太郎』だな。
ちょっとはマシな内容だといいんだが……
『浦島太郎』
昔、あるところに浦島太郎という漁師の若者がおったそうな。
ある日、いつものように漁に出かけようとした太郎は、後一歩で死にそうになっていた亀を助けてやったんじゃ。
「お兄さん、ありがとう。お礼に竜宮城にご招待いたします」
大層利発そうな顔をした亀は、太郎にお礼がしたいと、竜宮城に誘ったそうな。
「いや、いい。なんかオチが読めるし」
太郎はあっさり断ってしもうたんじゃ。
「そんな!わたしの出番はなしですか!」
時の果てでセクシーな美女がひとり、嘆きの声をあげたとさ。
めでたしめでたし。
〈おしまい〉
「これも朝比奈さんの扱いがひどいぞ!」
「次」
『一寸法師』
むかしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。
子どものない二人は毎日子どもが授かるよう神様に祈っていました。
「神様、どうか私たちに子どもを授けてください。どんな子どもでも構いません」
そうやって毎日のように祈っていましたところ、驚いたことに二人は本当に赤ん坊を授かってしまいました。
眉の太さが一寸もある可愛らしい女の子です。
二人はさっそく一寸法師と名付け、宝物のように育てました。
「いくら朝倉でも眉毛の太さは3センチもねぇよ!最近30周年を迎えたお巡りさんじゃあるまいし!」
「次」
『金太郎』
静岡県駿東郡小山町金時公園にあるちょろりの七滝は金太郎が産湯を使ったといわれています。
この変わった名前は金太郎が産湯の順番待ちをしている赤子を見て
「ちょろんと待ってて!すぐに順番回ってくるからねっ」
と言ったのが由来といわれています。
「実在する名所のエピソードを捏造すんな!」
「次」
『里見八犬伝』
時は室町時代の中頃、里見家の領主・里見義実(さとみよしざね)には一人娘がいた。
名を伏姫(ふせひめ)という。
大層犬好きな姫君で、なんと八房(やつふさ)という自分の飼い犬と結婚していたほどである。
ある日、伏姫は仙童に「八房の子が出来ている」と告げられる。
本来であれば畜生の子を孕んだことで絶望した伏姫は自害。
腹に宿った玉が各地に散って八犬士を産み、やがて壮大なドラマが展開されるはずなのだが
「ああ!これがあたしと八房との愛の結晶なのね!嬉しい!」
この伏姫の犬好きは筋金入りであった。
その後、伏姫は八房と8人の子どもと末永く幸せに暮らしたとのことである。
「ストーリーが始まりすらしねぇのかよ!」
つうか、里見八犬伝って童話か?
「なあ、長門。そろそろ勘弁してくれ」
俺としても長門の頼みをきくのはやぶさかではないんだが、いかんせん俺の精神にも人並みの限界ってもんがあるんんだよ。
ハルヒと出会ってからはその上限が引き上げられたみたいなんだが、この機関誌音読イベントのSAN値消費量はその程度でおっつくようなもんではない。
自分で声出して読んで、すかさずそれにツッコミをいれる。
まるで俺は自宅でノリツッコミの練習をしている売れない芸人みたいじゃねぇか。
たまらん。つらい。心が寒い。30分ほど前まで感じていた春の息吹はどこに単身赴任しちまったんだ?
「あと、これだけ、読んで」
無謀にも世界チャンピオンに挑戦したあげくボコボコにされた挑戦者のごとき俺に、観客でありセコンドである長門は遅ればせながらタオルを投入した。
あと1話読めばこの地獄から開放してくれるとのお達しだ。
長門が投げ込んだタオル、その名は
『シンデレラ』
シンデレラかぁ……
実のところ、俺はシンデレラの話が苦手なんだ。
といっても、別に読むのが苦手ってわけじゃない。
一時期、妹に毎日毎晩のように読まさせられたもんだから、慣れちゃいるんだ。目をつぶっていてもソラで言える自信があるくらいだ。
だが……なんていうのかな。話自体がどうにも俺に馴染まないんだよ。
理由はよくわからん。
日本人特有の判官びいきみたいなもんで、あんまり人気があり過ぎるもんだから逆に抵抗感を感じてるのかもしれんな。
「長門……シンデレラじゃなきゃ駄目か?」
「駄目」
いや、だからその『捨てられた子犬を拾ってきて、飼ってもらえるよう親に訴える子ども』みたいな目で俺を見つめるのはやめてくれ。
お前のそれはとりわけ強力なんだよ……
「わかったよ。読めばいいんだろ」
「………」
もう一度言っておくが、長門は頑固なんだ。あるいはその頑固レベルはハルヒ以上かもしれん。
逆らっても無駄だし、俺はそもそも長門相手に逆らうほど恩知らずでもない。
長門がシンデレラを読んでほしいってんなら、俺はたとえ一万五千四百九十八回だろうが読んでやるつもりだ。
二回も命を助けられた代金としちゃ安すぎるぐらいさ。
『シンデレラ』
その国はとても豊かでした。人々が飢えに苦しむような飢饉もなく、国民は常に日々の糧を存分に受けることができました。
そんな中でも荘厳なお城とその庇護のもとにある城下町はとりわけ恵まれていました。
さて、しかしそんな中にあって、その恩恵を受けることのない娘がいたのです。
エラという名前のその娘は早くに実の母親を失い、継母とその連れ子である姉達に日々苛められ、まるで使用人のようにこきつかわれていました。
1着の服すら用意してもらえず、その体はいつも灰で薄汚れています。
「灰まみれでなんてみすぼらしい娘なんだろうね!お前なんてシンデレラ(灰かぶりのエラ)だよ」
娘はシンデレラと呼ばれ、毎日をなんの希望もなく過ごしていたのです。
そんなある日、シンデレラの家にお城から舞踏会の招待状が届けられました。
義理の母や姉達は大喜びで着飾り、お城へと出かけていきます。
でも、シンデレラはお留守番です。なぜってシンデレラには舞踏会に着ていくようなドレスがないのですから。
暖炉の火が消えた寂しい家で、シンデレラはひとり涙にくれていました。本当はシンデレラも一緒に行きたくてたまらなかったのです。
「どうして泣いているんだい?」
誰かが尋ねました。
泣き腫らした赤い目でシンデレラはその人を見上げました。
それは一人の魔法使いでした。
「お前も舞踏会へ行きたい、そうだね?」
シンデレラはため息とともに、黙って頷きました。
「畑へ行って、カボチャを取っておいで」
杖で打たれたカボチャはむくむくと膨らんで金の四輪馬車に変わったではありませんか!
それから、ハツカネズミ捕りの罠にかかっている六匹のハツカネズミを杖で打って、灰と白のまだらの六頭の馬に変えました。
ネズミ捕りにかかっていた三匹の太ったドブネズミのうち、一番ひげが立派なのに杖で触れると、たいそう立派なひげの御者に変わりました。
「ほら、もう舞踏会に行くに充分な馬車も御者もそろったよ。嬉しくないのかい?」
「ええ、あの……でも私、こんな汚いボロで、行けるでしょうか……」
そこで魔法使いがシンデレラの服を打つと、金糸銀糸に宝石の縫い取りのきらびやかな服に変わり、おまけに、この世で一番美しいガラスの靴をくれました。
「楽しんでおいで。ただし、この魔法は夜中の十二時までしか効かない。それまでには必ず帰ってくるんだよ」
シンデレラは夢心地で舞踏会へ出かけて行きました。
誰も知らない立派な姫君が到着されたと報せを受けて、王子様は走って出迎え、馬車から降りるシンデレラに手を貸して大広間に案内しました。
すると、広間はしんと静まり返りました。踊りも音楽もやんで、この美しい姫君に注目します。
女性たちは参考にしようとシンデレラの髪形やドレスに食い入るような視線を送り、老いた王様さえ「こんなに美しく愛らしい女性に会うのは久しぶりだ」と声を潜めて王妃に囁かずにはいられないのです。
王子様はまっさきにシンデレラをダンスに誘いました。シンデレラのダンスはそれは上手で、それにもまた人々は見とれるのでした。
王子様はシンデレラに夢中になり、豪華な夜食も目に入りません。ずっと彼女の側にいて、愛の言葉を囁くのをやめませんでした。
ふたりの目には互いの顔が映っています。他の何もかもが溶けて消えてしまい、シンデレラはただそれを見つめるのに夢中になりました。
そのとき、重々しい鐘の音が響きました。夜中の十二時を告げる、お城の大時計の音です。
はっとして、次にさっとシンデレラは青ざめました。
十二時です。この鐘の音が全て鳴り終わると魔法は消え去り、シンデレラは灰まみれのみすぼらしい女の子に戻ってしまうのです。
ものも言わず、シンデレラは牝鹿のように身を翻しました。驚いた王子様が何か言いながら追いかけて来ますが、後も見ずに階段を駆け下ります。
十二時の最後の鐘が鳴り響く頃、あの美しい人はお城から駆け去り、どこにも見えなくなっていました。
王子様は呆然としたまま階段に立ち尽し、ふと、キラキラときらめくものが落ちているのに目を留めました。
それは、美しく輝くガラスの靴でした。
今までの話はなんだったのかと問いただしたくなるほど、至極まっとうな内容のシンデレラがそこには掲載されていた。
だからこそ、俺はここまでで読むのをやめちまった。
突然現れる魔法使い。
ガラスの靴を持って迎えに来る王子。
王子と結婚して幸せになるシンデレラ。
そして、専用椅子に腰掛けて俺の語り口にじっと耳を傾ける長門。
ああ、そうか。長年疑問に思っていたが、ようやくわかったよ。
俺がなんだってシンデレラが苦手だったのか。
ようするに俺はこの、個人の努力なんて幸せになるためにはなんの役にもたたないんだ、って諦めがついてまわってるストーリーが気に食わなくてしょうがないんだな。
なにが魔法使いに王子様だ。
シンデレラはそんなスーパーヒーローが二人も手助けしなきゃ幸せになれないほどの人間なのかよ。
そんなもんが出てくる前に、もっと周りが気遣ってやらなきゃならんのじゃないか。
頑張ってるじゃねぇか、シンデレラは。
もっとまっとうな幸せを掴んだっていい人間なんじゃないのか。
つくづくそう思う。なんせすぐそこにまんまシンデレラみたいなやつがいるんだからな。
長門だ。
俺の目の前にいる統合思念体製ヒューマノイドインターフェースだ。
心の底から断言してやるが、こいつほど滅茶苦茶頑張っているやつはどこを探したって他にはいないはずだ。
今の世界が平和なのは間違いなくこいつのおかげなんだ。
それこそ世界中の人間から感謝され、拍手喝采を浴びたっておかしくないくらいだ。
そんなやつだっていうのに、こいつは人並みの幸せすら感じさせてもらえない。
何回世界を救おうが、いつまでたってもハルヒの観察係だ。
あんまり追い詰めちまったせいで、こいつはとうとう魔法に頼って別人になったあげく、嘘っぱちの舞踏会に行っちまった。
なんだよそりゃ。馬鹿馬鹿しい。
こいつは幸せにしてやんなきゃいけないんだよ、王子でも魔法使いでもない、俺やハルヒみたいな町民Aがな。
そうだ、俺たちだ。
何度も命を救われた俺なんてその筆頭だ。
ハルヒだって長門には世話になりっぱなしだ。
事あるごとに長門の能力に頼ってる古泉にも文句を言わせやしねぇ。
いくら長門が苦手とはいえ、お優しい朝比奈さんは一肌でも二肌でも脱いでくれるだろう。
ほら見ろ長門。お前に比べりゃなんとも頼りない連中だけどよ、こんだけお前のために頑張ってくれそうな連中がいる。
お前には魔法使いも王子も必要ないんだぜ。
だから………こんなまっとうなシンデレラはこいつにきかせるべきじゃねぇ。
俺はもはや用なしになっちまった機関誌を静かに閉じた。
「長門………続きだ、よく聞いとけ」
俺は今からシンデレラのストーリーをぐちゃぐちゃにしてやるつもりだ。
グリム兄弟がそろって難癖つけてきそうだが、知ったことか。
今、長門に語ってきかせてやってるのはお前等じゃねぇ、この俺だ。
文句があるなら今すぐここにやって来て、長門が幸せに浸れるような話を作ってみやがれ。
それは一夜の夢でした。
夜が明けてシンデレラに残されていたものは楽しかった舞踏会の思い出と、変わりのない灰まみれの自分だけでした。
今日からはまたつらい日々がはじまるのでしょう。
でも、シンデレラはそれを変えていけるような気がしました。
楽しい思い出はシンデレラの胸の中でちっぽけな勇気にかわりました。
もうしばらくしたら継母たちが帰ってくることでしょう。
まずは彼女たちに訴えてみようと思います。
自分も幸せになりたいと、自分も幸せになれるはずだと。
だって自分も輝くような女の子になれることを知ってしまったのですから……
〈おしまい〉
「とまあ、こういうわけだ」
どうにもこっ恥ずかしいな。シャルル・ペローが「素人がなにやってんだ」と嘲笑しそうな内容だ。
だがな、ペローさんよ。
長門は舞踏会から帰ってきて、それでまだエンディングは迎えてないんだよ。
ま、ようするにまだ機会は残ってるってわけだ、まともなハッピーエンドを迎える、な。
あざ笑うんならそれが失敗してからにしてくれ。
「……………」
長門はただただ黙って俺の顔を見つめている。
らしくもないくさい話を披露しちまった俺としちゃ照れるよりほかないわけで。
「長門、このシンデレラは幸せだと思うか?」
思わず感想なんて訊いちまったわけだ。
「………………わりと」
「そっか、わりと、か」
「そう」
長門の保証つきなら、まあそういうことなんじゃねぇか………
「有希!読み終わった!」
突然なんの前触れもなく、ハルヒのやつが部室のドアを粉砕せんばかりの勢いで顔を出した。
こら、なんの文句も言わずにお前にその身を差し出している文芸部室をもっといたわってやれよ。
「あらキョン、来てたの?」
来なきゃ文句を言うくせに、なんて言いぐさだ。
「って、なんであんたがその本持ってるのよ!有希に、読んで、って渡したのに!」
「その長門に、読んで、って渡されたんだよ、俺は」
俺とハルヒがそんな実にもならないことを言い合っているうちに、残りの朝比奈さんと古泉も中に入ってきた。
うお、一気に部室が狭くなったような感じだな。
「古泉、揃ってどこに行ってたんだ?」
「どこに行っていた、と言うよりも、純粋にこの場を外していたんですよ。長門さんにじっくり読書を楽しんでもらうために」
なんだそりゃ?
俺が古泉の言わんとしていることを理解できないでいる中、ハルヒは団長机の上の自分の鞄をごそごそとまさぐっている。
「さて、ちゃんと撮れたかしら……」
そしてハルヒが取り出したものは、映画撮影のときに俺が持たされたハンディカメラだった。
………って!
「お前!長門を盗撮してたのか!」
「人聞きが悪いわね。あたしはただ有希の自然な表情を撮りたかっただけよ。有希だってちゃんと、どうぞ、って言ってくれたんだから」
『読書中はここを動かないよう涼宮ハルヒに指示されている』
唐突に、長門が言っていたことを俺は思い出した。
あれはそういう意味だったのか。
「実はですね、涼宮さんがどうしても長門さんの笑顔が見たいとおっしゃいましてね」
ハルヒがカメラの画面をチェックしているのを遠巻きに眺めながら、俺は古泉から種明かしをされていた。
「長門さんが笑うような本を用意してくれ、と頼まれましてね。ですから不完全ながらもこんなものを渡したというわけです」
そういって手元の機関誌をぺんと右手の甲で叩く古泉。
「じゃあそれを作ったのは」
「はい。我々『機関』の面々です。ちゃんと表紙に書いてあったでしょう、機関誌だと」
馬鹿野郎。機関誌って聞いて、誰がお前等の機関のことだなんて思うかよ。
せいぜい俺と長門と朝比奈さん、それと喜緑さんと生徒会長……
くそ、結構いるじゃねぇか。
「まあ、この程度の内容で長門さんの表情を崩せるわけはないんですが…おや?」
ぺらぺらとページを斜め読みしていた古泉が、訝しげな声をあげやがった。
「ちょっと内容が我々が作ったときとは変わってますね」
「ああ、人魚姫なら長門がいじくっちまったぞ」
「いえ、そうではなくシ「キョン、もうちょっと芸のあるつっこみしなさいよ。有希がクスリともしてないじゃない」
うるせえ、撮られてるとわかってりゃもうちょいギャラリーを意識したつっこみをしてるさ。
「で、なんだって?」
「いえ、いいです。そうですね……つまりシンデレラはまだガラスの靴を待ってるのかもしれない、ということですね」
「………お前の例えは相変わらずよくわからん」
俺の脳裏に白紙の入部届けなんぞが浮かんだが……
馬鹿言うなよ。俺はそんな自惚れやじゃねぇぜ。
脇でにやにやしている古泉にむかっ腹のたった俺はちょっと反撃してやることにした。
「ところでその桃太郎を書いたのは誰だ?」
「たしか森さんだったと思いますが」
「お前、森さんに嫌われてるんじゃねぇのか」
「……あはは、そ、そんなことはありませんよ」
声が震えてるぞ。
「やっぱ文字情報じゃ限界があるのかしら。そうだ!今度は実演しましょうよ!みくるちゃん、はだかの王様とかやってみたくない」
「えー!なんではだかなんですか!」
「いいじゃない。ほらほら女王様、馬鹿には見えない美しい服ですよ。早速着替えましょう!」
「やめてくださいー!」
「………」
ハルヒと朝比奈さんの狂乱の様を黙って見ている長門を眺めながら、俺は改めて思う。
長門、ガラスの靴なんか履いたって足が痛いだけだぜ。
裸足で踊っても痛くないように、俺達が必死に掃除してきれいな床を用意してやるよ。
そうしたら思いっきり馬鹿騒ぎしようぜ、俺達全員でさ。