ブロックで作られた薄暗い部屋には、砂ぼこりと汗と老朽化が混合された独特の匂いが充満していた。  
 通風孔と明かり取りを兼ねた天井付近に開く穴からは、湿った空気とうっすらした光が差し込み、  
そこから不規則にしてリズミカルな地面を叩く大量の音をあわせて伝えてくる。  
 
「暇だな」  
 布団として使うには少々硬いマットに寝転がり、俺は漠然と天井に視線を送りながら呟く。  
 俺の格好が体操着に短パンなのは一・二時間目に体育の授業があったからだ。  
「……暇ね」  
 隣から同じようにマットに寝転がり、足をバタ足のようにゆっくりぶらぶらさせながら、天井を仰ぐハルヒが答える。  
 こちらも俺と同様、体操着にブルマという体育授業の正装姿をとっていた。  
 
 
 
 校庭隅にある体育具倉庫。鍵がかけられ、外は雨。  
 俺とハルヒは、そんな閉鎖空間の中にいた。  
 
 
 
「次の体育を待っても無駄みたいね」  
 ハルヒが両足をマットに投げ出し大の字になる。まあ、普通は雨の中校庭で体育なんて事はしないな。  
 体育館やホール、ちょっと変わった所だったら渡り廊下の下とか、とにかく屋根の下での授業に変更するだろう。  
 河童か水泳授業でもない限り、わざわざ好き好んで濡れたいと思う奴なんていない。  
 まあ谷口辺りなら「濡れた体操着を着た女子の胸元が……」と色々言い出しそうだが。  
 とにかく、これで三・四時間目に誰かがここへ来る可能性は殆ど無くなった訳だ。  
 それどころかこのまま雨が続けば昼休みを過ぎ午後の授業、更には放課後になっても誰も来ないかもしれない。  
 
 ……いや、あいつらがいる限りそれはないか。  
 ハルヒは──最近は俺もらしいが、宇宙人や未来人や超能力者たちの派閥から監視すべき対象とされている。  
 俺たちがここに閉じ込められている事ぐらい、既に殆どの派閥が把握済みのはずだ。  
 その上で誰も助けに来ないと言う事は、何処もかしこも俺たちへの非干渉を選択したと言う事なのだろう。  
 
 まあやたらめったら干渉されるよりは、何もしてこない方がはるかにましだと思うがな。  
 例えばトイレの紙がなくて困っている時に、すっと新川氏あたりが現れて  
「どうぞ、これをお使いください」  
 などと言いながら上質の紙を持って来られた日には、正直どうしていいのか対処しきれん。  
 森さんならば少し考えさせてくれ。  
 
 
「キョン、携帯は?」  
 残念だがカバンの一番奥だ。流石に体育の授業中は邪魔だから持ち歩いていない。  
 そういうお前は……って聞くまでも無い事だった。もしハルヒが携帯を持っているのならば、わざわざ俺に聞かず  
自分の携帯を使ってとっくに誰かに電話しているはずだ。  
 
 ハルヒは身体を起こし、座ったまま俺を見下ろす。  
「何だか意外に冷静ね、キョン」  
 そりゃそうだ。どんなに俺たちの運が悪かったとしても、放課後には出られると確信しているからな。  
「どうして放課後なのよ。この雨じゃどの運動部も中止かもしれないわよ」  
「それでもSOS団は活動するだろ?」  
「あ」  
 このまま俺たちがここに閉じ込められ続け、二人揃って連絡もなく部室に顔を出さないなんて事態になれば  
流石に他の団員達が不審になって探し始めてくれるだろう。  
 少なくとも俺だったら探してみる。お前だって探すんじゃないか?  
「でも有希たちの救援を待つ場合、最悪お昼抜きで五時間もここで閉じ込められてなきゃならないのよね」  
 そうなるな。せめて雨が降ってなければ、もう少し早く誰かが来てくれる可能性があがるんだが。  
「あぁ、残念。せっかく今日は月に一度の『一ポンド唐揚定食』の日だったのに」  
 うちの学食にはそんなふざけたメニューがあったのか。それともあの生徒会長の表事業の結果なのか。  
 俺はマットに寝転がったまま、雨の音を伝えてくる通風孔をぼうっと眺めていた。  
 
 
「……意外にでかいな」  
「なっ、突然何言ってるのよ! このエロキョンッ!」  
 俺がぽつりと呟いた途端、ハルヒは顔を真っ赤にしながら何故か自分の胸元を片手で隠し、空いた手で寝転がっていた  
俺のボディにどずっと勢いよくパンチを打ち降ろしてきた。  
 あまりの不意打ちに、一瞬思考も呼吸も命もとまる。  
 むせ返りながら声なき声をあげ、俺は腹に手を当てながらマットの上を転げまわった。  
 
「いきなり何しやがる! お前は俺を殺す気かっ!」  
「あんたがセクハラな事言うからよっ! いっぺん死んで反省しなさい、このおっぱい魔人っ!」  
 は? セクハラだと? 何の話だいったい。  
 俺は頭の上に疑問符が浮かびあがるぐらい考えこんでみるが、全く以って思い当たる節がない。  
 その間もハルヒは一度自分の身体に視線を落として、何やら呟く。  
「そ、そりゃ、意外に無いとか言われるよりはいいけどさ……でも、そういうのはセクハラって言うのよっ!」  
 顔を真っ赤に、ムキーッと叫びながらも視線がとにかく泳ぎっぱなしの状態で、ハルヒはやっぱり片手で胸元を隠しつつ  
もう片方の手をぶんぶんと振り回して俺の事を攻撃してくる。  
 そんなハルヒの妙な行為に、俺はようやくこいつが何を言っているのか理解した。  
 
「ま、待てハルヒ! 勘違いするな! 俺がでかいって言ったのはお前の事じゃない、アレの事だ!」  
 俺はぶんぶんと振り下ろされるハルヒの拳をかわしながら、慌てて壁の通風孔を指差す。  
 ハルヒが指差されたその先をじっくり三秒ほど見つめる。  
 やがて自分の勘違いに気づいたのか、赤らめてた顔を更に真っ赤に染め上げると、再び俺の方へギッと睨むような  
きつい視線を向けてきた。  
「な、何よっ! つまりあたしの胸は別に大きくも何ともない、その辺によくあるような平凡乳だって言うわけねっ!?」  
「何でそうなるんだ!?」  
「やっぱりみくるちゃんみたいな巨乳がキョンの好みなんだ! このエロキョンっ! バカ! 死んじゃえっ!」  
 悲痛の叫びも空しく、俺はハルヒの唱える理不尽極まりない理由によって、理不尽極まりない攻撃を受ける事となった。  
 全く以って理不尽極まりない。今度労災がおりるか古泉に聞いてみようと思う。  
 
 
「ハルヒ。お前、あそこ抜けられるか?」  
 改めて俺は通風孔を指差し尋ねる。何故か全身に痛みを感じているが、今は訴えるのを我慢した。  
「どうかしら……微妙ね。みくるちゃんみたいな巨乳だったら無理かもしれない。  
 でもどうせあたしはみくるちゃんみたいに巨乳じゃないし、少々狭くったって行けるかもしれないわよ」  
 いい加減そのネタから離れろ。  
「だけど、あんな高さにあったらどうやっても届かないわよ」  
 
 通風孔は天井近くにあり確かに普通じゃ届かない。試しに俺がジャンプしてみたが無駄だった。  
「キョンを踏み台にしてもちょっと無理よね」  
 いきなり最初の案が踏み台かよ。もう少し俺をいたわる優しい案は無いものだろうか。何故かさっきから全身が痛くてな。  
「何よ、キョンがエロエロなのが悪いんでしょ。……そうだっ! ねぇ、肩車なら届くんじゃない?」  
 踏み台が肩車になった事は喜ばしいが、俺とハルヒの肩車でもまだ通風孔には届かないと思うぞ。  
「だから、キョンがあのサッカーボールのカゴに乗っかればいいのよ。それなら何とか届くでしょ」  
 おいおいマジかよ。ボールが詰まっているとはいえ、カゴの上で肩車なんてかなり不安定な状態になるぞ。  
「何言ってるの、全てはこの密閉された空間から脱出する為なのよ。  
 そう! あたし達に残された手段はこれしかないのっ! キョン、覚悟を決めなさい!  
 あたしたちに後退は無いわ! SOS団のモットーはいついかなる状況に於いても前進あるのみっ!  
 助けを待ってるなんて一般人がすることよ! さあキョン、行くわよっ! あたしたちにはやるしかないのよっ!」  
 何だか映画のアクションシーン前の様なセリフをはきながら、ハルヒは俺の肩に手を置くと通風孔を指差した。  
 何処の部隊への勧誘ポスターだ、お前は。  
 どう見たってこの状況を楽しんでいるのがバレバレなぐらい瞳を輝かせながら、ハルヒは満面に笑みを浮かべていた。  
 
 こんな娯楽設備の無い密室でハルヒと二人のんびりと最大延長五時間も過ごすよりは、まだここからの脱出を  
試みていた方が健全かつ建設的であろうと考え、俺はハルヒの出した案に乗ってみる事にした。  
 壁際にカゴをくっつけ、更に俺たちがさっきまで寝転がってたマットを重ね置きしてそばに置く。  
 カゴをできるだけ固定する為と、万が一カゴの上からコケた時の安全策だ。  
 カゴが大体固定されたのを確認し、まず俺がカゴの上に乗っかり、壁に向かって手を突きながらしゃがみこむ。  
 
「大丈夫? ぐらぐら揺れない?」  
 そう言いながらハルヒがカゴをガッシャンガッシャン揺らしてくる。バカ、マジで怖いからやめろ。  
「うん、大丈夫そうね。……よっと」  
 ガクッとカゴを大きく揺らしてハルヒが乗り、四つん這いの状態からゆっくりと手を伸ばして俺の背中を掴む。  
 ゆっくりと身体を移動させ、俺の背中にしがみ付く感じで身体をピッタリとくっつけてきた。  
 当然そのハルヒの行為全てが、壁を向いてしゃがんだ格好を取り続けている俺の視界外で行われている。  
 頼むから背中を掴む時ぐらい何か声を掛けてくれ。  
 俺の方も身体のバランス取りや心構えなど、色々準備しておきたい事がある。  
「何言ってんのよ。この程度でビビってたら、クララなんていつまでたっても立てやしないわよ」  
 俺の知っているクララは、間違ってもボールカゴの上で立とうだなんて考えたりはしないヤツだ。  
 
「んじゃ乗っかるわよ。……ほらもっと頭下げて」  
 溜息を吐きながらもハルヒの言うとおりにする。  
 同時にハルヒが俺の肩と頭に手を置き、いっきに片足を跨がせて肩に乗っけてきた。  
「い、よっとっ!」  
 勢いに乗ったままもう片方の足も俺の肩に乗せてくる。が、勢いをかけ過ぎたのか、乗っかってきたハルヒの身体が  
そのまま俺を飛び越えていきそうになる。  
「うわわわわっ!」  
 ハルヒは慌てて俺の頭を自分のお腹の方へと抱え込み、さらに両足をおもいっきり閉じて俺の頭を挟み込み、  
自分の体重移動になんとかブレーキをかけようとする。  
 俺もとっさに壁から片手だけを離し、頭の上へ伸ばしてハルヒの身体が前に転がらないように支えようとした。  
 
 
 ふにょん。  
 
 それは例えるなら、少し空気の抜けた大きな軟式テニスボールを掴んだような。  
 ちょっと軟らかい不思議な感触を俺は手のひらに受けた。  
 
「んきゃあっ!」  
 併せてハルヒの叫び声、更に肩に乗ったハルヒの両足が今まで以上の締め付けを行う。  
 すねをクロスに交差させ、足のかかとを俺のわき腹目掛けてドスドスと叩き込んでくる。  
 結果、仄かに熱を帯びたこれまた柔らかい太ももの感触が、俺の両頬にぐいぐいと押し付けられる状態となった。  
 
「ちょっと何処触ってんのよ! このバカっ! エロキョンっ! おっぱい魔神っ!!」  
 またしても不名誉な魔人の称号を授かりつつ、ハルヒにビシバシと何度も頭を叩かれる。  
 その動きに再びお互いの体勢が揺れ動き出すが、ハルヒは全くお構いなしだ。  
 慌てて伸ばした手を引っ込めると、ハルヒの太ももに腕をかけて駄々っ子のようにばたつく足を止めにかかった。  
 
「きゃあっ! ちょ、キョン! アンタさっきからあたしの許可無く何色んなところ触ってんのよっ!」  
「いいから落ち着け、状況を見ろ! マジで危険だから暴れるなっ!」  
 太ももをがっしり押さえつつ壁につく手と両足で踏ん張り、身体の重心をぐっと落としてバランスを整える。  
 万が一倒れるとしても、後ろのマットの上へ落ちればまだ被害が少ないだろう。  
 そんなアフターケアまで俺が考えている間も、ハルヒからの抗議を込めた攻撃は止まらない。  
「全然良くないわよっ! 胸の次は太ももだなんて、実はお尻とかも狙ってるんじゃないの!? このエロキョン!」  
「誰が狙うかっ!」  
 そんな事をすればたちまち宇宙人や未来人や超能力者といった非日常集団からつけ狙われる破目になる。  
 いや、それ以前に想像するのも恐ろしい方法でハルヒに殺されるのが先かもしれない。  
 悪いがまだ俺は命が惜しい。少なくともハルヒの尻を触ってバッドエンドを迎える人生はまっぴらゴメンだ。  
 
 
 ハルヒがばたつくせいで、太ももを押さえていた手が滑る。  
 真ん中辺りからヒザ付近まで、ももの内側部分を俺の指が一気になぞった。  
「くっひゃああっ!」  
 と、突然ハルヒが一瞬だけ震えて、普段出さないような変に高い声をあげてくる。  
 そのまま俺の頭を抱え込んだ姿勢のまま、まるでネジが切れた自動人形のようにピクリとも動かなくなった。  
 何だ何だ、いったいどうした。あまりに突然で不気味すぎるぞ。ついに頭のネジでも切れたか。  
「……んな、何でもないわ」  
 小さな声で一言だけ返し、先ほどまでの大騒ぎがまるでウソの様にハルヒはじっと沈黙し続ける。  
 
「本当にどうした、ハルヒ」  
 ハルヒの顔色を伺いたく首を上に向けようとするが、両足の締め付けがそれを簡単に許さない。  
 ギュッと頭を締め付けてくるハルヒの両足に対し、俺は首を小さく左右に振って隙間を稼ごうと試みる。  
「あ……んぁ……っ!」  
 やはり一瞬だけビクッと震え、息を吐くような小さな呟きをもらしてきた。  
 そして首筋に腰を押し付けるぐらい深く座ってくると、両足で俺の顔を今まで以上にきつく挟み込んでくる。  
 この状態でハルヒが後方バク転をすれば、かのスタイナーの必殺たる技『フランケンシュタイナー』の完成だ。  
 マットに沈めば一発KO。下手すれば首がぼっきり折れ、俺の波乱に満ちた人生があっさり不正終了する事間違いなし。  
 俺の命運というかまさに命そのものが、今やハルヒの手に掴まれた、いや足に挟まれた状態だった。  
 
 くそっ、今ここで死んだらどうなる。俺はまだ後を濁しまくっている状態だぞ。  
 部屋にあるアレがばれるのも困るし『みくるフォルダ』を残したままでコンピ研にパソコンをいじられるのもダメだ。  
 俺が死んだら即座に積荷を燃やしてくれと、もし今度があったなら長門にでも伝えておこう。  
 
 そんな風に俺の思考を遥かプレセペ散開星団の辺りまで飛ばしている間も、ハルヒは俺の頭を両手で鷲づかみにしながら  
深呼吸を何度も何度も繰り返している。落ち着きを取り戻そうと必死に努力しているようだ。  
 何だかよくわからんが、今は刺激しない方がいいだろう。仕方無しに、俺は再び頭を振って顔を前に向ける。  
「ふぁ、くぅあんっ! こ、こら、キョン! あんまり刺激すんなっ!」  
 太ももから全身にかけて身体を震わせつつ、何故か当の本人に叩かれながら注意されてしまった。  
 ……いったいどういう事なんだか、誰か俺にもわかるよう原稿用紙一枚程度で簡潔に説明して頂きたい。  
 
 ハルヒに首筋を跨られたまま、ただ時間だけが経過する。  
 俺はいつまで『待て』の命令を聞いてればいいんだろうか。まるでルソーにでもなった気分だ。  
 これで阪中に溺愛されているのならまだ許せるが、言葉通りハルヒの尻にひかれている状態である。  
 
「なあ、ハルヒ。俺はこれからいったいどうしたらいいんだ?」  
「……大丈夫、落ち着いたわ。キョン、もう立っていいわよ」  
 何が大丈夫で落ち着いたのか、まずその辺りから教えてくれ。いったい俺の見えない場所で何が起こってるっていうんだ。  
「べ、別に、あんたには関係ないわよ。いいから、とっとと立ちなさい!」  
 先ほどまでの妙な沈黙状態は何処へやら、いつの間にか普段通りの命令口調に戻っている。  
 そろそろコイツの暴君っぷりに対し、校舎裏か屋上の辺りでこっそり涙してもいいだろうか。  
 俺は肩を落として溜息をついた。  
 
「あうんっ! こ、こら、勝手に身体を揺するなっ! いきなりなんて卑怯よ!」  
 鷲づかみにされた指に力が込められ、頭が締められるように痛い。俺はいったい何処で人生の選択肢を間違ったんだ?  
 このままハルヒとバッドエンド確定なのか?  
 たまらず溜息をもう一度吐き、俺はハルヒの攻撃で更に頭を痛める事となった。  
 
 
「それじゃ立つから、ちゃんと掴まってろよ。できれば鷲づかみしている指を少し緩めてくれると俺の頭が大いに助かる」  
 片ヒザ立てた状態から、両足に力をこめる。バランスを取りながらゆっくりと俺は立ち上がった。  
「うんっ……あっ、ふあ……っ!」  
 身体が動くたびにハルヒが何やら奇妙な声をあげる。  
 両足をしっかり閉じようと太ももに力が込められ、頭に乗せられた両手は容赦ない力で掴んできた。  
 
 片手は壁につき、もう片手はハルヒのヒザ上を押さえた状態で、カゴの上に何とか立ち上がる。  
 不安定に揺れ動くカゴは地道に俺たちの身体を揺すり、その行き着く先は  
「はう……うぅ……んんっ……!」  
 ハルヒがもらす謎のうめき声へと変換され続けていた。  
 
 流石にハルヒの態度が気になる。さっきからどうもおかしい。  
 俺は「まさかな」と否定しつつもある一つの考えに思い至り、おもいきってハルヒに尋ねてみる事にした。  
「……なあ、ハルヒ。一つだけ聞いていいか?」  
「んはっ……な、何? こんな時に、聞く事なわけ?」  
 妙に息も絶え絶えにしつつ、必要以上に俺の頭にしがみつきながら、ハルヒはか細い声で聞き返してきた。  
 いやこんな時というか、お前がそんな状況だからこそ聞くんだが。  
 
「いったいどうしたってんだ。さっきから奇妙なうめき声ばっかあげてきて、どうみてもおかしいぞ」  
「違っ! な、何言ってんの、おかしい事なんて全然全くこれっぽっちのミジンコも無いわよ!」  
 全然全くこれっぽっちのミジンコも訳がわからん。そもそも何だその例えは。  
 
 何かを隠しているようだったが、ハルヒが言わないつもりならば仕方ない。  
 俺はそうかと一言で返し、ハルヒが再び落ち着くのを待つ事にした。  
「そう、そのまま! そのまま……動いちゃダメよ」  
 腹の減り具合を考えると、閉じ込められてから二時間ぐらいたっているだろうか。  
 俺はその間ハルヒの吐息とうめき声、それに通風孔からの雨音ぐらいしか聞いていない。  
 全く以って静かな時間が流れ続けていた。  
 
 
 ──────?  
 何かが俺の心に引っかかった。ハルヒの態度の事じゃなく、別の何かが。  
 
 俺はその心の引っ掛かりが何なのかと、なるたけ首を固定したままで辺りを見回してみる。  
 何故か視界の下半分は肌色一色で埋め尽くされており、ぶっちゃけ殆ど何も見えない状態になっているのだが。  
「うぁ……キョ、キョン……それ、微妙にくすぐっ……ダメっ」  
 その上脱出する気があるのか無いのか、ハルヒはずっと俺にしがみつきっぱなしだ。  
 雨の音にかき消されそうな小さな声で、呟くようにハルヒが訴えてくる。  
 こいつの頭の中からは、既に『脱出』という言葉は羽を生やして飛び去っているのではなかろうか。  
 無駄だとわかりつつも、俺は聞いてみる事にした。  
「どうだハルヒ、通風孔に手は届くか? 登って行けそうか?」  
「……え、ノ、ボ?」  
 本当に心此処にあらずだな。頼むから人の話ぐらい聞いててくれ。  
 仕方なく、俺はハルヒの足を掴んで意識をこっちに向けさせる。  
「ふぁ、ダメ! そんなしたら……慢、でき……っ!」  
 何か呟いているが無視し、俺は上を向いて太ももを更に少しだけ掴みながらもう一度尋ねた。  
 
「行けそうか、って聞いたんだ」  
「イケ……そう、イケそうなの。……でも、いったら…」  
 通風孔から差し込む仄暗く青白い光を受けて、ハルヒの頬が真っ赤に染まっているのが見て取れる。  
 その表情はまるで何かに耐えているかのように、目をギュッとつぶり、眉間にしわを寄せている。  
 行けそうだと答えてきたが、どう見ても普通の状態じゃない。  
 いったいどうしたのかと聞こうとして、突然ズンッという振動が倉庫内を駆け巡った。  
 衝撃は俺の身体を走りぬけ、上にしがみつくハルヒにまで届く。  
「っきゃあうっ! な、何、今の……凄っ……ああっ!」  
 腰を押し付けてくるというか擦り付けてくるというか、ハルヒはもうまともな思考状態になっていない。  
 
 ……ってハルヒのヤツ、まさか俺の頭の上で妙なスイッチが入っちまったのか?  
 俺は確かめるべく、太ももを支える手をすうっと動かし、その軟らかくも引き締まった筋肉をゆっくりなぞってみた。  
「あひゃ、あ、はあああっ! な、何、キョン! 何すん、のよっ!」  
 嬌声をあげてハルヒが首を締め付けてくる。だがエロキョンだのおっぱい魔人だのと言った最初の様な突込みは無い。  
 こりゃ確定だな。俺に突っ込む余裕すらもう無いって事か。  
 
 
 俺の頭の上で必死になって騒いで…………まさかハルヒがこんなに肩車を怖がるだなんて、俺は思わなかった。  
 
 
「ハルヒ、正直に言え。お前、本当は行く事なんでできない状態だろ」  
 さっきからハルヒが必要以上に腰を押し付けている状態を考えれば、いくら俺が万年発情ロンリーボーイの谷口に  
『キョンよぉ。お前ってホント、そう言った女心の微妙な変化とかに鈍感だな』  
と言われていたってわかる。谷口よりは長門の表情を読むのに長けている俺としては、その評価自体心外なのだが。  
 腰が抜けてるのか、ただ純粋に力が入らないのか。  
 どちらにせよ今のハルヒには通風孔から脱出どころか、俺の肩で立ち上がる事すら無理のはずだ。  
 
「無理、よ……だって、今、イッたらあたし……もれ……っ!」  
 ハルヒが呼吸の合間に声を出して答える。いい加減この状態でいるのも限界のようだ。  
 俺はカゴの状態とマットの位置を再度確認し、ハルヒの頭に何とか手を伸ばしてそっと撫でた。  
「気にすんな。お前の事、ちゃんと受け止めてやるからよ」  
「……え?」  
 最悪マット以外の場所に落ちそうになっても、俺がちゃんと下敷きになってやるって。  
 腹に肝を据え、俺が覚悟を決めると  
「……本当に、受け止めてくれる? こんな……姿の、あたしでも? みっともない所、見せちゃっても……?」  
 ああ、全部受け止めてやろうじゃないか。  
 神人や宇宙生命体や怪しい未来人と対峙するよりははるかにましだし、それにこういう事こそ俺の役目なのだろうからな。  
「だから我慢すんな。お前に、そんな我慢の表情は似合わねえよ」  
 
「う……うわ、キョン……キョン、キョンキョンキョンキョンキョ─────────ンッ!」  
 ハルヒが泣きながら、俺にしがみついてくる。どうやら決心したようだ。  
 後はハルヒを降ろすだけかと考えていると、ハルヒが今まで以上に身体をゆすり、擦り付け、暴れ始めた。  
 何だ、何だ!? パニックでも起こしやがったのか!?  
「おいハルヒ! どうしたんだお前!」  
「もう、だめ、ダメっ! とまら……ないのっ! イクの、このままイキたいのおっ!!」  
 本当にパニック状態になってしまったらしい。俺の声が全く届いていない。慌てて片手でハルヒの腰を押さえて、  
ハルヒが落ちないようバランスを取る。  
 くそっ、こうなったらこれでどうだ!  
 俺は動かせる限り首を横へ向けると、ハルヒの太ももに噛み付いた。これで正気に戻って────  
「ああああああうっ! きゃ、きゅあ、あ、ああああああぁぁぁ────────────────っっ!!」  
 今までで一番の締め付けと共に、ハルヒが甲高くも可愛い嬌声をあげる。  
 同時に遠くで何かが砕け散るような音、近くではブシューッという激しくも籠った水音が耳に届く。  
 首筋から背中にかけて流れ落ち、体操着にじんわりと染みていく暖かい何かを感じつつ  
 
 
 
「うおあああっ!?」  
 
 俺は怪しげな叫び声をあげながら、マットからがばっと飛び起きた。  
 
 
 
- * -  
 あまりの状況の変化に思考が追いつかず、俺はしばらくの間呆然とし続ける。  
 背筋を中心に、何か濡れた感触を感じる。よほど寝苦しかったのだろうか、尋常でない寝汗をかいたようだ。  
 俺の隣では、ハルヒが俺と並ぶようにマットに寝転がり、身体を横にして丸めている。  
 先ほどからすぅすぅとリズミカルな呼吸音が聞こえてくる。どう見ても眠っているようだった。  
 通風孔の下にボールカゴは無く、また通風孔へ登ろうとした形跡も全く見られない。  
 
 夢、だったのだろうか。  
 俺は頬を叩いて意識を覚醒させると、さっきまで体験していた事を思い返した。  
 
 肩車を怖がるハルヒを思い出し、即座にそれを否定する。  
 そう、ハルヒが肩車を怖がる事なんてありえないんだ。  
 何せ孤島に行った時、こいつは俺の肩車に乗りながら水鉄砲を片手に持ち、様々な物を的にしていた過去がある。  
 砂浜で人一人抱えてダッシュなんていまどきスポコン漫画でもやらねえぞ、と愚痴った事を俺は憶えていた。  
 
 夢、だったのだろう、あれは。  
 やれやれと相変わらずひねりのない口癖を漏らし、俺は盛大なる溜息を吐くと再びマットに沈み込む。  
 どうしてだろうか、濡れた背中にはあまり不快感を感じなかった。  
 
 
「なあ、そこにいるのか」  
 俺は扉に向けて呟いた。少しして扉が開き、傘を差した髪の短い制服姿の少女が姿を現す。  
 
「今、何時間目だ」  
「四時間目。後三分二十秒で昼休憩になる」  
 そうか。どうりで腹が減ってきたわけだ。  
 さてどうするかと考えたのも一瞬で、俺は身体を起こすと入口に立つ長門に頼んだ。  
 
「俺とハルヒの荷物、部室に持っていっておいてくれるか?」  
 コイツが起きたら一緒に部室へ向かうからよ。  
「わかった」  
 長門が短く答える。すまないな、後で何かおごってやるから。  
「いい。……それより、今度付き合ってほしい事がある」  
 また図書館に行こうと言うのだろうか。まあいいさ、それぐらいの頼み事ならいくらだって構わないぜ。  
 長門は頷くと、姿を見せた時と同じように音も無く扉を閉めた。  
 
 俺は眠ったままのハルヒを見つめる。さて、コイツはいつになったら起きるんだろうね。  
 起きたらとりあえず雨の中を部室まで疾走し、服を着替えてから遅い昼飯だ。  
 俺の弁当を半分奪われそうな気もするが、武士の情けとしてそれぐらいは譲歩してやろう。  
 
 
 
 校庭隅にある体育具倉庫。鍵は外され、外は雨。  
 俺とハルヒは、相変わらず体育倉庫の中にいた。  
 
 

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