俺がまっとうでない人生を過ごしている現在時間をさかのぼる事、三年前。七夕が少し前に過ぎ去った日のこと。  
 朝日もまだ昇っていないうちから、東中の下駄箱に怪しく蠢く二つの影があった。  
 まあ、俺と朝比奈さんなんだけどな。  
「す、す、す、数奇屋、鈴木、涼宮、……朝比奈さん! こっちにありましたよー!」  
「はーい!」  
 可愛らしいサンダルを履いた朝比奈さんが、森の小動物のように軽い足音を響かせながら駆け寄ってくる。  
「あ、こっち側だったんですね」  
 丸めて結い上げた髪の毛と、ブラウスの下のタンクトップが夜気にまぎれてもなお眩しい。夏っていいな。  
「ごめんねキョンくん、ちゃんと下調べできてなくて」  
 全然かまいませんよ。朝比奈さんと一緒なら、懐中電灯で下駄箱の名前を確認するような陰険な真似をしてても、俺の胸は爽やかな春風で満たされっぱなしです。  
 俺の言葉を聞いた朝比奈さんは、暗闇の中でも衰える事のない輝く宝石じみた笑顔で頭を下げると、一転して緊張した面持ちになりながら、ポケットから小さな箱を取り出して、ゆっくりと開く。  
「じゃあ、今のうちにやってしまいましょう…………あいたっ!」  
「だ、大丈夫ですか?」  
「ううー、刺さっちゃいましたぁー」  
 朝比奈さんの手元に懐中電灯を当てると、白く柔らかそうな指先の一点に、ドット欠けのような暗い染みができてしまっていた。ああ、痛ましいお姿。  
「俺がやっときますから、朝比奈さんは手元照らしといてください」  
 指を自分の口の中に入れて消毒する朝比奈さんに、栄えあるルネサンス期の絵画にも劣らぬ芸術的価値を見出しながら、箱を受け取って中身を二つ摘まみ出す。  
 明かりの下で鈍く輝く、尖った金色。  
 要するに画鋲だ。  
「すまんな、ハルヒ。これも、えーっと、何か知らんが、多分未来のためだ」  
 適当な事を言って罪悪感を誤魔化しながら、でかいフォントのゴシック体で『涼宮』と書かれたシューズの中に、針を下にして画鋲を入れる。  
 あいつは鋭いからすぐ気付くだろうが、万が一刺さったりしたらさすがに可哀相だしな。  
「よし、完了です」  
「うぅ、何から何まですいません……」  
 いえいえ。指を口に咥えた可憐な姿、こちらこそごちそうさまです。  
「じゃあ、取りあえずここを出て時間を潰しましょう。腹も減りましたし、ファミレスなんかどうですか?」  
「うん、そうしましょう。手伝ってくれたお礼に、私が奢ってあげますね」  
 昇り始めた朝日に照らされて、ぼかした様な灰色を取り戻しつつある下駄箱の間で、俺たちは笑い合う。  
 人のシューズに画鋲を入れるという、無視するには微妙に大きすぎる後ろめたさをかき消すための笑いだった。  
 なんか、みじめだな。  
 
 
 さて、たしかに俺はハルヒに対して、自然災害によって家を滅茶苦茶に荒らされるお年寄りのような感情を抱くことも多々あるのだが、いくらなんでも時空を超えてまで、いじめらっれ子の小学生がするような仕返しをしたいと思ったことは一度もない、と思う。  
 そんな俺がどうして三年もの気の遠くなるような時を越えて、ハルヒのシューズに画鋲を仕込んでいたのかと言えば、  
「本当にごめんね、キョンくん。未来からの指示だからって、こんな事に付き合わせちゃって」  
 ま、こういうことだ。  
 俺に朝比奈さんのお願いを聞いて頭を横に振る機能なんて備わっている筈が無く、二つ返事でお誘いを承諾した結果、もう何度目か分からない三年前の時空に足をつけてるってわけさ。  
「にしても、中学時代のハルヒのシューズに画鋲を入れとけって、さっぱり意味がわからない指令ですね」  
 いつもの事っちゃいつもの事だけど。  
「ええ。でも、大切なことらしいですから。……涼宮さんには、やっぱりちょっと申し訳ないですけど……」  
 ガムシロップたっぷりのアイスコーヒーを啜っていた朝比奈さんは、義務感と罪悪感が複雑に混じりあったような顔で小さく息を吐く。  
 いかん。せっかく朝比奈さんと二人っきりという夢のような時間だってのに、こんな雰囲気のままじゃ近所の霊園とかで無縁仏の供養をしてしまいそうだ。  
「ハルヒには悪いけど、これも規定事項ってやつなんでしょう。それに、あいつのシューズに画鋲が入ることが、皆にとってすごくいい結果に繋がるかもしれないじゃないですか」  
 風が吹いても桶屋がもうかるぐらいだしな。世界の食料危機とかが改善されるきっかけになるかもしれん。  
「だから、悩んでてもしょうがないと思います。それより、夕方までの時間を何に使うか決めませんか? そっちの方が、きっと楽しいですよ」  
 実は未来からの指令はもう一つあって、それは『夕方の六時まで同時空に留まっておけ』というものだ。  
 ハルヒには本気で申し訳ないという気持ちもありつつ、合法的に朝比奈さんとデートできるチャンスを見逃すことができないアンビバレンツな男子高校生の気持ちを、どうか理解して欲しい。  
 朝比奈さんは少しの間、考え込むように俯いていたが、すぐに顔をあげると、  
「そうですよね。うん、折角だし、夕方まで楽しんじゃおっか」  
 春の陽射しみたいに暖かな笑顔を見せてくれた。氷河期の恐竜たちに見せてやりたいね。  
 
 
 その後、俺と朝比奈さんは駅前で三年前の流行を眺めてみたり、電車に乗って普段行かないような観光名所なんかを回ったりした。  
 俺の感想はただ一言で足りる。生きててよかった。  
 しかし、世の中ってのは複雑に見えて単純にできている。子供の頃やったシーソーとブランコを思い出してみればいい。高い所の次に待ってるのは、地面すれすれの最低だ。  
 それに昔から言うだろ、ほら、因果応報、勧善懲悪。  
 とにかく、人の靴に画鋲を入れるような悪い事なんて、するもんじゃないってことさ。  
 
 
「……やっぱりダメ。時間移動どころか、通信すらできなくなってる……」  
 北高にある狭いトイレの個室の中。朝比奈さんの綺麗な顔は、窒息寸前のように青ざめている。  
「落ち着いて、朝比奈さん。もう一回、もう一回試してみてください」  
 朝比奈さんは首を横に振る。頭の上で丸められた長い髪の毛も、それに倣って不安そうに揺れていた  
「何度やっても同じ。強烈なジャミングがかかってるみたいなの。それが無くならない限り、TPDDが正常に作動するとは思えない……」  
 簡略化すると、帰れない、ってわけだ。  
 三年前の時空に取り残される二人。冬の雪山よりはまだマシかもしれないが、ロマンスには程遠いな。  
 脳漿でベストドラマー決定戦でもやってるんじゃないかと思うぐらい痛む頭を抱えながら、俺は情けない声をあげる。  
「原因とかってのは、わからないもんなんですか」  
 朝比奈さんは壁の方を向きながら、独り言のようなトーンで、  
「……正確にはわからない。でも、涼宮さんの作り出した時間震動に似てるかも……そういえば、ここは震源時空からも近いし……けど、さっきまでは問題なく……」  
 バラけた思考を整理するように、壁に向かって呟き続けている。  
 俺も閉じたままの便器に腰を下ろして、役に立たないなりに善後策を講じようとしたが、自分が一般人だということを思い出して、すぐに止めた。閃くはずの電球がそもそも無いからな。  
 しかし、ほとほと三年前ってのは俺と縁が深いらしいな。この時空の長門の部屋では、数ヶ月前の俺が暢気に爆睡してるだろうし、家では中一の俺が晩飯で食ってるはずだ。  
 普通に考えたら気が狂いそうな話だが、まあ俺にとっちゃ今更だ。宇宙人だの未来人だの超能力者だのと付き合ってたら、いつの間にか免疫ができて……  
「……そうだ!」  
 突然の大声にピクリと震える朝比奈さんに構わず、俺は続ける。  
「朝比奈さん、長門の家に行ってみましょう。あいつなら原因を知ってるかもしれないし、何か上手い手を教えてくれるかもしれません」  
 最悪、また三年ばかり寝かしてもらえばいい。  
 長門には迷惑をかけちまうかもしれないが、身を隠したまま三年も過ごすってのは、さすがにぞっとしないからな。  
「……そうですね。どちらにしろ、私たちだけではどうにもなりません。長門さんを頼らせてもらうのが、一番の近道かも」  
 俺と朝比奈さんは頷き合うと、トイレの個室から足を踏み出した。  
 ちなみに、今までいたのは女子便所である。  
 俺は城主の寝首をかけ、失敗すれば一族の命はないぞという命令を受けた凄腕忍者のように、人の気配を窺いながら慎重に歩を進めた。  
 ニンニン。  
 
 
 もうお馴染みとなった三年前の長門は、いつもどおりの無愛想さで、快く俺たちを迎えてくれた。  
 俺の横で正座している朝比奈さんは、友達に無理矢理誘われてやった悪戯がばれてしまった気弱な少女のように恐縮していた。  
 対面の長門は、一口も飲んでいないお茶を両手で覆ったまま、  
「涼宮ハルヒが、この時空を他の時空から切り離すために、大規模な時空震を発生させている」  
 やっぱりハルヒか。ナマズと勝負できるぐらいの地震娘だな。違うのは髭の有無ぐらいだ。  
「しかし、彼女がその様な行動を起こすに至った原因は、あなた達にある」  
「ひぇ?」  
 朝比奈さんが小鳥みたいに不器用な声で疑問符を浮かべている。もちろん俺も同じ気持ちだ。  
「俺たちって……俺と朝比奈さんのことか?」  
「そう」  
「……今お前と喋ってる俺たちのことか?」  
「そう」  
 はは、そんな馬鹿な。俺たちが今日やったことといえば、シューズの中に画鋲を仕込んだり、朝比奈さんと楽しいひと時を過ごしたぐらいで、悪い事は何にも……あれ?  
「ひょっとして……」  
 長門は、まだ外していない眼鏡の下から、射抜くような目で俺を見つめながら、  
「今朝早く上履きの中に画鋲が入れられているのを発見した彼女は、誰かが自分に危害を加えようとしていると判断し、非常に大きなストレスを発生させている」  
 嫌な予感が、タービンで蒸気を発生させるぐらいのフルスロットルで加速し始める。  
「加えて、放課後まで同級生を締め上げ続けても誰がやったか分からなかった彼女は、絶対に犯人を逃がしたくないと強く願い、この時空に閉鎖的な属性をもたらしている」  
 朝比奈さんの、湯飲みを持つ手が震えている。  
 それもそのはず。今回起こった大規模な時空震は、完全に俺たちのせいだった。  
 ていうか、仕返しのためだけに時空を切り離すって、無茶にも程があるぞ。  
 朝比奈さんが堪らずに声をあげる。  
「で、でも、未来からそういう指示が来てて……」  
 対する長門は冷静に、  
「おそらく、この事態を見越した上での指示だと思われる。時空震が起きたのは、午後五時五十三分。学校が閉まり、犯人探しができなくなった時間。それ以前から飛べば、時空のブレに巻き込まれる可能性がある」  
 夕方六時までこの時空に留まれってやつか。それまで朝比奈さんと楽しく遊んでいた俺としては、なんか美人局の詐欺に遭った気分だな。  
 かなり失礼なことを考えつつ、三年後より微妙にとっつき難い長門に尋ねてみる。  
「それじゃあ、これから俺たちはどうすりゃいいんだ?」  
「そこまではわからない。しかし、これは絶対的な時空断層ではない。時間を置けば解決する可能性が高い」  
 時間って、どのぐらいだ?  
「それも不明。一日かもしれないし、一年かかるかもしれない」  
 
「い、一年ですか!?」  
 朝比奈さんがうろたえたている。心配しないでも、あなたは何年経ったって美しいままです。だが、俺は薄汚いおっさんになる可能性もある。それは勘弁願いたいな。  
「他の手はないのか、長門?」  
 長門は頷いて、ずれた眼鏡を戻しながら、  
「簡単な手がある。私達で、涼宮ハルヒの心を安定させればいい」  
 なるほど。あいつが自分でストレスを処理するのを待たず、こちらが打ち消してやればいいわけだ。自分でやったことの尻拭いを自分でやるって感じだな。  
 しかし、こっちだって未来からの指示で仕方なくやったんだぜ。そう考えると、何となく納得いかない話だな。  
 それとも、また三年寝太郎ごっこをやれってことなのか?  
「それは推奨できない」  
 冷蔵庫の稼動音より小さく、長門が呟いた。  
「この部屋は、もう既にあなた達が眠っているので使えない。もう一つ部屋を用意することになれば、どちらかに私の目の届かない部分が出てくる危険性がある」  
 眠ったままどうにかされるってのは、御免被りたいな。それに、戻れる可能性があるのなら、これ以上長門の手間を増やす道理はない。  
「わかった。あいつの傾ききったご機嫌を直してやりゃいいんだな?」  
 長門は三年後と同じ角度で、小さく頷いた。  
 そうと決まれば話は簡単だ。ここ一年そればっかりやってきたんだからな。餅は餅屋って奴さ。  
「あの……本当にごめんなさい」  
 湿ったような言葉が、横から聞こえてきた。朝比奈さんの方をみると、大きな目一杯に涙を溜めながら、ぺこぺこと頭を下げている。  
「ごめんなさいキョンくん。変なことに巻き込んじゃって……私、こんな事になるって知らなかったから……長門さんも、また迷惑かけちゃいました」  
 下手糞な泣き笑いの顔で、自分の頭を小突く。  
 朝比奈さんは自分の頭を叩くときの仕草も、泣きそうな顔も壮絶に可愛らしいが、笑顔でいらっしゃる時はその二億倍可愛い。  
「そんなの、全然ですよ。むしろ楽しいぐらいです。なんせしばらく学校に行かないでよさそうですし。気を張らないで、休暇気分で頑張りましょう」  
 朝比奈さんと旅行に来たと思えば、迷惑どころか、金を払いたくなってくる気分だ。  
「それに長門だって、そんなの気にしちゃいないですよ。な?」  
 長門は朝比奈さんの方を真っ直ぐに見詰めながら、   
「できる限りのことは、する」  
 小さいが、温度のある声だ。  
 朝比奈さんはそれを聞いて、ますます涙を流し始めた。  
 結局、泣きつかれた朝比奈さんがころりと眠ってしまったこともあり、俺たちは元の時間に帰れるまで、長門の部屋で世話になることになった。  
 頭が上がらないね、まったく。  
 
 
 翌日から、俺と朝比奈さんと長門によるハルヒのご機嫌矯正ミッションがスタートした。  
 といっても、直接あいつに会うことは避けなくてはならない。  
 今の俺はあいつにとって、キョンではなくジョンである。見つかったら絡まれることは間違いないだろう。  
 もしそんな事になって、俺の顔をあいつがはっきりと覚えてしまえば、未来が変わってしまう危険性がある……とは長門の弁だ。  
 それは朝比奈さんにも言えることで、俺と違って非凡な顔立ちをしていらっしゃる朝比奈さんを間近で見てしまえば、ハルヒの頭はハイエンドのデジカメばりに高解像度で記録してしまいかねない。  
 加えて、中学生なんてほとんど学校と自宅の往復だ。まさか学校に侵入したり自宅に押し入ったりするわけにもいかないだろう。  
 というわけで、俺たちは限られた時間の中、限りなく婉曲的な方法でハルヒの機嫌を直さなくてはならず、予想以上の苦戦を強いられていた。   
 
 作戦その一 『お菓子の家のハルヒ』  
 登校する途中、道端に点々と落ちているパンくずを想像して欲しい。  
 ほら、非日常の匂いがぷんぷんするだろ。  
 グレーテルのようにパンくずを追いかけていった先には、何と古びた宝の地図(長門作)が!  
 ちなみに、さすがに宝を用意する時間は無かったので、長門の家にあったレトルトカレーを埋めといた。  
 冒険ってのは結果じゃない。大事なのは、過程でいかに大切な仲間達との出会いを、  
「ふぇ、キョンくん! パンくず、カラスに食べられちゃいましたぁ!」  
 よし、撤収。  
 
 
 作戦その二 『行け! 東中卓球部』  
 下校する途中、道端にそっと置かれた卓球大会のチラシを想像して欲しい。  
 ほら、胡散臭い匂いがぷんぷんするだろ。  
 ちなみにこれは、以前ハルヒが野球大会に申し込んだ時の事を思い出して作られた作戦だ。  
 といっても、いまのあいつにはSOS団なんてありはしないから、一人でもできる競技ということで、タイミングよく掲示板に張られていた卓球大会のお知らせを使わせてもらった。  
「涼宮さん、まだ来ませんね」  
 俺たち三人は、東中の真横にある軽食屋の二階で、ハルヒが通るのを待っていた。  
 揃って窓から身を乗り出している姿は死ぬほど怪しいが、長門のミラクルパワーが発動しているのか、いまだ職質は受けていない。  
「あ、来ましたよ!」  
 朝比奈さんの声を聞いた俺は、校門から出てくるハルヒの前に、軽く丸めたチラシを投げつける。  
 急に飛んできた紙くずに、ピクリと反応するハルヒ。  
 これは釣れたな! と思った瞬間、  
「あ、何だこれ?」  
 横からやってきたアホそうな顔の男子中学生が、チラシを拾い上げてしまった。  
 ていうか、谷口じゃねえか……。   
「卓球大会? お、賞品は旅行券だってよ。どうだ涼宮、一緒にダブルスでも……」  
 アホをスルーするハルヒ。懸命だ。  
 俺はアホに向けてフォークを投げつけてやりたい気分だったが、相手は中学一年生だ。大人の俺が、我慢しなくてはならない。  
 野郎、三年後に戻ったら鼻の穴を三つにしてやる。  
 
 
 盛大にため息をつきながら、フローリングの床に寝転がった。頬に当たる冷たい感触は、何となく長門を思い出させる。部屋は主に似るってわけか。  
 当の長門は、朝比奈さんと揃って買い物にでかけてしまっている。  
「俺が行くから」と言ったのだが、朝比奈さんはまだ責任を感じている様子で、頑として聞き入れようとしなかった。  
 長門は長門で、「途中で過去の知人と遭遇してしまう可能性がある。目を離すわけにはいかない」と言って、こっそり後をつけていってしまうし。  
 男女の役割逆だろ、とは言わないでくれ。わかってるから。  
 そんなわけで、俺は今日の反省会を一人寂しく行なっているというわけだ。  
 しかし、あいつの機嫌を直すのがこれほど難しいとは思わんかった。  
 やっぱり直接接触できないってのが最大のネックだよな。作戦の幅がかなり限られてる。長門もこういうのは苦手分野みたいだし。  
 いっそ俺が出て行って説明した方が早い気がしてきた。お面でもつけときゃ、顔もわかんないだろ。    
 いや、でもお面なんてつけてたら、明らかに変質者だ。しかもあいつのことだから、絶対お面を引っぺがそうとするに違いない。  
 というかそもそも、あいつのロールシャッハテストで見せられる絵のような思考体系をトレースするのは、俺みたいな凡人じゃ不可能なわけだから……  
「くそ、わからん」   
 頭をかきながら立ち上がり、ベランダに続くガラス戸を開く。  
 外に出ればいい考えが浮かぶかもしれない、なんて追い詰められた芸術家みたいなことを考えたからだ。  
 実際はそう都合よく天啓が下りてくるはずも無く、隣のビルの窓を数えるのにも飽きた俺は、何となく空を見上げてみた。  
 七階だけあって、暗い藍色をぶちまけたような空がすぐ近くに感じられる。クーラーの室外機が無粋な音を立てているが、気になるほどじゃないな。  
「……いつ、帰れるかな」  
 記憶ってのは、人の弱気につけ入るもの。高校生のハルヒの顔や、妹の小六とは思えないガキっぽい顔や、おまけに白い歯が嫌味に輝く古泉の顔まで思い浮かべてしまう。  
 まだ二日目だってのに、俺は随分とホームシックになりやすい体質みたいだ。  
 自分に対して皮肉めいた笑いを投げかけながら、視線を元の位置に戻すと、  
「……おい、ちょっと……」  
 すぐ隣のマンションの屋上。七階より少し低い位置だ。いや、それはどうでもよくて、フェンスの上に、何か黒いものが……。  
「……人じゃないか?」  
 思わず身を乗り出した。目を細めて視野をぎりぎりまで絞る。間違いない、誰かが屋上のフェンスによじ登ってやがる。  
 頭の中が、錆びたエンジンみたいに軋んだ音をたてながら回転を始める。   
 あんな所に登るのは、どんな時だ。  
 決まってるさ、壁の補修かなんかだろ。  
 あんな小さい奴がか?   
 おいおい、差別はよくないぞ。小柄な修理工だっているかもしれない。  
 いや、それは無いな。Tシャツに短パンの修理工なんて聞いた事が無い。  
 じゃああれだ、フェンスの向こう側に財布でも落としちまったんだろ。  
 冗談だろ、縁まで何センチも無いんだぜ。  
 そうか。じゃあ次で決まりだ。ほら、シーソーとかブランコを思い出せよ。  
 ああ、なるほどな。  
 高い所の次は、低い所だ。  
 
 冷静になって考えてみれば、警察にでも電話すりゃ良かったんだろうが、生憎とそう都合よく回るタイプの頭を持っていないんだ。  
「長門!!」  
 叫んでから気付く。あいつは今いないんだった。  
「おい! そこの奴! ちょっとそのまま待ってろ!」  
 びっくりしたように、こちらに顔を動かす人影。小柄な顔だ。  
「子供かよ、くそ……いいか! 絶対落ちるなよ!」  
 俺は部屋を飛び出すと、一階で停止しているエレベーターを横目に、転がりながら階段を下りて、隣のマンションに飛び込んだ。  
 オートロックを開けて出てきた若い男と入れ違いに中に入ると、一階から上昇していったエレベーターに見切りをつけ、階段を駆け上る。  
 機械ってのは、なんでこう肝心な時に役に立たないんだ、などと現代文明の功罪について感慨を抱きながら舌打ちしつつ、最上階から開きっぱなしの非常階段を抜けて屋上へ。まるでピンボールになった気分。  
 邪魔臭い給水塔を迂回して、長門の部屋が見える位置に走りこむ。  
 徐々に見えてくる小さな人影。   
 フェンスの上の一番高い所で、子供はまだ俺の事を待っていた。  
「……な、何だよ!」  
 何だよじゃねえよ、チクショウ。  
 腰の引けている声を聞いて胸を撫で下ろしながら、真夏日の犬みたいに舌を出してへたり込む。   
 ゲーセンに行ってる奴は、もうちょっとピンボールのことを労わるべきだと思うね。  
 しばらく経ち、息も落ち着いてきたところで、フェンスの上に足だけでまたがっている子供を見上げる。  
 小学校高学年ぐらいか。ちょうど俺の妹と同じような雰囲気だ。身体は小さいし、変声期前で男か女か分からんが、さっきの口調からして男だろう。  
 俺は少年(多分)に一応聞いてみた。  
「お前、何やってんだ」  
「……見ればわかるだろ! 飛び降りだよ! 自殺だよ!」  
 やっぱりな。これで「財布落としたんです」なんて言われたら、こっちが飛び降りたい気分になるところだ。  
 少年は乳歯みたいな牙を剥きながら、俺にむかって吠え立てる。  
「何だよ! 止めたって無駄だからな! 絶対落ちるからな!」  
 絶対落ちる度胸ないなこいつ。でも、こんな所にいたら本当に何かの拍子に落ちてしまうかもしれん。  
 目の前でそんなスプラッタなシーンを見たくなかった俺は、説得を試みることにした。  
「危ないからとりあえず下りろ。なんか世間に不満があるなら、俺が聞いてやるから」  
 凡百の言葉しか出てこない俺の口。今度広辞苑でも読んでみた方がいいかもしれん。  
「お前まだ小学生だろ。自分の人生を諦めるには早すぎるんじゃ……」  
「中学生だ!」  
「……失礼。あー、まだ中学生だろ。せめてお前、高校生になるぐらいまで頑張ってみろよ。そしたらあれだ、ほら、人生を変えるような出会いがあるかもしれないぞ」  
 どっち方角に変わるのかは知らんが。  
「うるさい! 別にそんなの無くていい!」  
 駄々をこねるようにぐずる少年。  
 やっぱり俺は説得とか苦手分野だな。ハルヒか古泉なら、上手くやるんだろうけど……。  
 あ、そうだ。長門に連絡を取って、力ずくでも引っぺがしてもらおう。  
 すっかり存在を忘れていた携帯を取り出すと、頭上から怯えたような声が降りかかる。  
「あ、け、警察に電話するのか?」  
「いや、お前を助けてくれる知り合いに電話するだけだ。それにお前、いつまでもそんな所にいたら、すぐに誰かが警察呼ぶと思うぞ」  
 警察沙汰になるのは嫌みたいだ。俺としては、下にマットでも敷いてもらえりゃ、安心できるんだけどな。  
「……ふん、誰を呼ばれたって下りないからな!」  
「いや、下りるね。なんたって、俺が呼ぶのは宇宙人だ」  
 少しでも興味を引こうと思って、そんなことを言ってみる。すまん長門。本当のことだから、勘弁してくれよ。  
 
「宇宙人?」  
 しかし、少年の反応は俺の予想していたものよりはるかに大きかった。  
 こちらを大げさに指差すようにして、  
「お前、涼宮ハルヒの仲間か!」   
「あ、ハルヒ? って、おい、馬鹿! 危ないっての!」  
「え……、うあ、うわぁ!」  
 無理な体勢でバランスを崩した少年が、顔を真っ青にしながらフェンスの上に両手でしがみつく。小便でも漏らしそうな雰囲気だ。  
「あー、もう!」  
 見てるこっちが先に心臓麻痺で死んでしまう。  
 俺は携帯を放り投げ、走り高跳びの要領でフェンスにしがみつくと、田舎で親戚の子と遊びまわった経験をいかして蜘蛛のように上りまくり、まだ目をキョトンとさせている少年の首根っこを片手で掴むと、自分の体ごと屋上の床に放り出した。  
「いっつぅ……」  
 華麗に着地しようとしたが、さすがに足を捻ったらしい。カッコよくは決まらないもんだな。  
 足首を押さえて蹲る俺を動物園のでかいイグアナを見るような目でみていた少年は、腰を抜かしたように座り込むと、わんわんと泣き出した。  
 泣き虫ってのは、どこにでもいるもんだ。  
 
 
 フェンスの下で肩を並べながら、俺は少年の話を聞いていた。  
 なんでも彼の親は頻繁に転勤を繰り返しているらしく、それに連れられてあちこちを転々とする少年は、まったく友人を作ることができず、一人でずっと悩んでいたらしい。  
 それに加えて、  
「お前をいじめてる奴の名前は、本当に涼宮ハルヒっていうのか?」  
 少年は目を擦りながら頷いた。  
「宇宙人とか、未来人とか、超能力者とかは、みんなあいつの仲間なんだ」  
 あいつ、中学校でもそんなこと言ってんのか。しかもいじめっ子。  
 俺はただただ身内の愚行に恥じ入るばかりだった。さすがに情けなさすぎるぞ、ハルヒ。  
 拳骨の一発でもくれてやりたいところだが、今の俺にはできんことだ。三年後に戻ったら、絶対たんこぶ作ってやる。  
「もう、死んだ方が楽かもって思ったんだ。……今だって、そう思ってるよ」  
 にしては腰が引けてたな、なんてことは口が裂けても言わない。あんな高い所、誰だって怖いに決まってるだろ。本人は涙を流すぐらい真剣だったんだ。  
「よっしゃ、わかった」  
 子の罪は親の罪。ハルヒも原因の一端を担ってるようだし、俺がなんとかするしかないだろ。  
「今は無理だが、その涼宮ハルヒとかいう奴には、俺が責任を持ってお仕置きをしといてやる。必ずだ。友達の方は、そうだな、今は俺だけで我慢しとけ」  
 まあ、すぐいなくなっちまうんだけどさ。  
「別にいいよ。そこまでしてくれなくても」  
 冷たい反応。思春期ってやりづらいな。  
「実はな、俺も今実家から出てきて、親戚の家に居候してるんだ。でもそこは女性しかいなくてさ、どうにも話が合わなくてな。話し相手になってくれる奴が欲しいなって思ってたんだよ」  
「……うそっぽいよ」  
 まあ嘘だけどな。女しかいないってのは本当だ。  
「いや、本当だって。学校にも行ってないし、暇で暇でしょうがない。な、どうだ。俺がこっちにいる間だけ、話し相手になってくれよ」  
 俺の言葉を聞いた少年は、両手で膝を抱えたまま、戸惑うようにコンクリートのつなぎ目を見つめていたが、その内ゆっくりと頷いた。  
 
 
 それから俺たちは中身の無い馬鹿みたいな話をしたあと、明日もここで会う約束をして、それぞれの部屋に戻った。  
 新しい友達ができた、と思っていいんだろう。  
 時間旅行ってのも、そう悪いもんじゃないな。  
 
 
 三年前、三日目。妙な響きだが、事実なんだからしょうがない。  
 昨日の少年の話を聞いた後では、正直ハルヒのご機嫌窺いなんて蚊の血を吸う部位の正式名称ぐらいどうでもよくなっていたんだが、俺たちが帰るためには、どうしてもあいつをご機嫌にしてやらねばならん。  
 娘を人質に捕られたジャック・バウアーみたいなもんさ。  
「昨日の涼宮ハルヒは、私達の用意した作戦の端緒にさえかかっていなかった。方法を根本的に変える必要がある」  
 とは言え、俺達が積極的に介入するわけにはいかないしな。せいぜい道端に何か仕掛けるぐらいしか……  
「そこで、動かしやすい第三者を使う」  
「動かしやすい?」  
 ……長門、まさか、お前。  
 驚愕する俺に、長門は目だけで頷く。  
 朝比奈さんは、子犬が飼い主を見るような目で俺達を交互に見つめていた。  
 
 
 作戦その三 『小さな恋のメロディー 映画編』  
 
 朝の早い時間。俺は長門がどこからか調達してきた易者変装セットを身に着け、裏道の影で息を潜めていた。  
 やがて、欠伸をしながら表を通りかかる、アホそうな中学生。  
「おい、そこの賢そうな中学生」  
「え? 俺?」  
 お前賢くはないだろ、と叫びだしそうになる自分を抑えて、俺は鷹揚に頷いた。  
「そう。お主だ。お主は他の人にはないオーラを持っている。だからついつい呼び止めてしまったのだ」  
「ふーん、おっさん、見る目ありそうだな」  
 のこのことやってくる谷口。将来が心配だ。  
 俺はできるだけ潰したような声を作ると、  
「その体から溢れ出しているオーラに免じて、特別にただで占ってしんぜよう」  
「え、マジで! らっきー」  
 そこまで素直に喜ばれると、さすがに良心の呵責を感じるな。しかし、これも元の時間に帰るためだ。  
 俺はおみくじみたいな奴を適当にしゃこしゃこ振り回し、それっぽいのを一本取り出して、  
「お主は今、恋をしているな?」  
「え? あ、うん。してるかも……」  
「相手の苗字は、す、から始まってる。名前は……は、から始まる。違うか」  
 谷口はビックリしたような顔でカクカクと頷く。インチキマジシャンと純真な少年。  
「そうだろう。しかし、お主と彼女の相性は、あまり良いとはいえん」  
 正直、最悪だ。  
「ほ、ホントかよ?」  
「ああ。だが、私の目には、それを何とかする手立てが見えておる。聞いてみるか?」  
「もちろんだ! 聞かせてくれ!」  
 ああ、何て思い通りのリアクションをしてくれる奴だ。お前が魚なら、五秒で釣れる自信があるぞ。  
「彼女は、今自分が置かれた状況に、かなりの不満を感じておる。というか退屈しておる。そこで、」  
 俺は服の下に忍ばせた映画のチケットを取り出し、  
「このペアチケットを使って、お主がその退屈を紛らわせてやるのだ」  
 谷口は目を輝かせながら、  
「そ、それ、くれるのか?」  
「うむ」  
 料金は三年ローンにまけといてやろう。  
「ありがとう、おっさん! おれ、頑張るからな! 友達にもあんたのこと宣伝しといてやるよ!」  
「頑張るのだぞー」  
 俺はひらひらと手をふって、スキップするような足取りで去っていく谷口を見送った。  
 しばらくして、偵察役の長門から連絡が入る。  
『涼宮ハルヒは、彼の誘いを承諾した。今日の放課後、さっそく駅前に向かう模様』  
 よし、これであとは、谷口が上手くやらないまでも、少しでもハルヒの気を紛らわすことができれば、何とかなるかもしれん。  
 ……無理だろうな、絶対。  
 
 その日の夕方。  
 またも買出しと尾行に出かけた女性陣二人を待つ間、隣のマンションの屋上で、少年と二人でお喋りをする。  
 実際、女性二人に対して男一人、しかも一つ屋根の下ってのは何となく気を張ってしまうため、年下の同性と話をするのは実際結構楽しかった。  
「そのハルヒってのは、ガキ大将みたいな奴なのか?」  
「うん。もうすごいよ。いっつも怒ってばっかりで、竜巻みたいに大暴れしてるんだ」  
 俺は前に聞いた古泉の言葉を思い出していた。あいつの精神状態、一時期ひどかったらしいもんな。  
「クラスの中に、そいつを止められるような男気溢れる奴とかいないのか?」  
「……うん。いることはいるけど、それでも、いつもってわけにはいかないしさ」  
 じゃあ、そいつらにくっついてればいいんじゃないか?  
「それもちょっと、かっこ悪いし……」  
 そんなもんかね。   
「ま、お前も男だしな。もうちょっとでかくなれば、そんな奴なんてすぐに……」  
 ……しまった。ハルヒに現在進行形で振り回されている俺には、あんまり偉そうなことは言えない。  
 俺が別の言葉を言おうとすると、少年は自嘲気味に、  
「いいよ、僕は。そんなに強くならなくても、やりすごせれば、それでいい」  
「……ま、そうだな。人には向き不向きってものがあるしな」  
 たしかに、あのエイリアンに寄生されたじゃじゃ馬より性質の悪い娘を相手にできるのなんて、限られた一部の人間だけだろう。  
「それよりさ、何で実家を出てきたのか、聞いていい?」  
 ええっと、  
「あれだ、ちょっと悪いことしちまってな。親からは、その始末をつけるまで帰ってくるなって言われてる」  
「悪い事って?」  
 悪い事、悪い事……どうしよう。なかなか思いつかないな。  
 しかたない。無理矢理話題を変えるか、と思い顔を横にやると、少年の様子がおかしい事に気付いた。   
「どうした?」  
 少年は答えない。俯いたままで、じっと肩を抱いている。  
 なんだ? ひょっとして寒いのか? 馬鹿な。今は夏だぞ。いや、夏風邪かもしれないよな。心配になって、少年の額に手を当てようとすると、  
「ひっ……」  
 手のひらに怯えるようにしながら、俺から遠ざかっていく。少年の背中に当たったフェンスが、海鳴りのような音をたてた。  
 俺は慌てて差し出した手のひらを見てみたが、何がついているわけでもない。  
「……おい、どうしたんだよ。大丈夫か」  
 少年はそわそわと周りを見渡すと、   
「み、みず……水、買ってきてくれないかな……」  
 焦ったように言葉を紡ぐ。  
「水?」  
 病気か何かなのか?  
「あそこに、コンビニがあるから」  
 指差した先には、見慣れたコンビニの看板。  
「でも、俺は鍵持ってないから、一回出たら入って来れなくなるかもしれない」  
 昨日入れたのはラッキーだったし、今日は少年の部屋に連絡して開けてもらった。  
「そうだ、俺がお前の部屋に行って、水持ってきてや……」  
「水道水じゃダメなんだ! 鍵なら僕のを貸すから!」  
 投げられた銀色の鍵を、慌ててキャッチする  
「わ、わかったよ。ちょっと待っててくれ」  
 何か知らんが、よっぽどのことらしい。  
 俺はまたしても転がり落ちるように階段を下りると、コンビニに向けて走りだした。  
 たまにはエレベーターを使わせて欲しいもんだな。愚痴っぽい事を考えながらも、大急ぎでミネラルウォーターを買ってエントランスに戻ると、鍵を差し込んで扉を開く。  
 すぐに閉まろうとする扉を潜る直前、天井のライトの陰に、赤色の突起があることに気付いた。  
 何かのスイッチだろうが、まあ、今は気にしてる場合じゃないな。  
 急いで階段を駆け上り、屋上に行ってみると、  
「あれ?」  
 そこに少年の影は無く、代わりにぺらぺらの紙が一枚、置石にされたタイルの下で、申し訳無さそうに揺れていた。  
『調子が戻ったので、部屋で眠ることにしました。鍵の方は、そのまま持ってて。明日返してくれればいいです。それと、心配かけてごめんなさい。全然大丈夫なので、どうか気にしないで下さい。じゃあ、また明日。水は飲んでもらって構いません 』  
 
 俺はしばらく呆然としたまま、コンビニの袋を握りしめていた。  
 
 
 三年前、四日目。  
 少年の事が気になりはしたが、気にするなと書かれていたし、夕方には事情を聞けるはずだ。  
 今はとにかく、ハルヒである。  
 
   
 作戦その四 『小さな恋のメロディー 遊園地接触編』  
 
 またしても早朝。  
 俺は易者のコスプレをしながら、  
「彼女さ、映画が始まって十分もしないうちに、帰っちまったんだ……」  
 昨日とはうってかわって、さめざめと泣く谷口の人生相談に乗っていた  
「しかし、お主の誘いを断らなかったということは、脈は無くも無い、ということが無きにしも非ず、のような気もするぞ」  
 何だか本気で慰めてしまう俺。  
「それによく考えてみろ。明日は学校が休みであろう? 昨日の雪辱デートをするには、絶好のチャンスではないか」  
「でも俺、彼女にあんまり好かれてないような気がする……」  
 昨日の上がりっぷりとは対照的な下がりっぷりだ。振り子みたいな奴。  
「大丈夫だ。今日はお主のために、昨日よりも素晴らしいものを用意しておいた」  
 懐から取り出したるは、遊園地の一日フリーパスが二つ。  
 俺の財布は火の車どころか、燃えることすらなくなった。もう小銭しか残ってないからな。  
 今すぐ返品したいところを、断腸の思いで谷口に差し出す。  
 谷口は、チケットを目にして、二三度瞬きをすると、湿っぽい声になりながら、  
「おっさん、何でそこまでしてくれるんだ……」  
 ドキュメンタリー番組の司会にはない正直さで、かなり感動している。  
 そんな奴に、ぶっちゃけ自分のためだ、とは言えるわけもなく、  
「お主の黄金色に輝くオーラが、私をそうさせるのだ」  
 エロ本の裏表紙より胡散臭い言葉を並べ立てる俺。何か自分がどんどん汚れていくようだ。  
「頑張るのだぞ。私はいつでも、君を応援しておる」  
 せめて、谷口には楽しい思いをしてもらおう。  
 心に魚の骨が刺さったような罪悪感を感じながらも、俺が激を送ってやると、  
「わかった。わかったよ、おっさん! 俺、彼女をデートに誘う、そんで、明日こそ告白するよ!」  
 え?  
「いや、ま、待て。告白はせんでもいいんだ。ちょっとばかりハルヒの退屈を解消して……」  
「本当にありがとう! 今度友達を百人ぐらい連れてくるからなー!」  
「あ、待てこら、告白はいかん。いかんぞ。私の占いによると、一旦成功はするが、五分というカップラーメンに丁度いいスピードで……」  
 最後まで言葉を聞かず、ブレーキの壊れた勢いで走り去っていく谷口。  
 俺は呆然と見送ったあと、長門から預かった携帯で連絡をいれる。  
「あ、もしもし、長門か? その、悪いんだが、遊園地の着ぐるみを一つ……」  
 
 
 やがて日が沈もうとする頃、屋上には人影が二つ。  
「ほら、水」  
「え?」  
 え、じゃないだろ。お前が買ってこいっていったんだぞ。  
「飲んでもらってよかったのに」  
 俺はミネラルウォーターを買って飲むほど金持ちじゃないんだ。  
 ペットボトルを不意打ち気味に放ってやると、少年は余裕でキャッチした。  
 意外と運動神経はいいのかもしれない。   
 飲もうとはせずに、ペットボトルを手の内で遊ばせる少年に、俺は尋ねる。  
「お前、病気なのか」  
「ちょっと違うけど、似たようなものかな」  
 意外にもさらりと答える。  
「今日は大丈夫なんだな」  
 少年は顔を上げ、周りをキョロキョロと見渡したあと、  
「うん。多分ね」  
 なんだよ。風邪のウィルスでも見えてるのか?  
「……そんな感じかも」  
 少し言い淀んだ。何かありそうだが、人の事情にどこまで入り込んでいいかわからず、俺はそこで止めることにした。  
 君子危うきに近寄らず、だ。  
 俺はポケットから鍵を取り出すと、   
「鍵、俺が持ってて大丈夫だったのか」  
「え? ああ、うん。ガス管のとこに、合鍵置いてあるからね」  
 なるほどな。  
 納得しながら鍵を手渡そうとしたが、何故か少年は顔をあげると、  
「投げてよ。キャッチするから」  
「ああ、いいけど」  
 今度は落ちないようにゆっくり投げてやると、機敏な動作でキャッチする。  
 野球部にでも入ってるんだろうか、こいつは。  
 それでも部活のことは聞かず、いつも何して遊んでるとか、俺の妹の話とかをしているうちに、時間は砂のように流れていく。  
 話の合間、少年はフェンスの外を指差した。  
「あれ、何やってるの」  
 人差し指を向けられた方角では、蛍がとまっているような光が点々と高台を色づかせていた。  
「ああ、あれは祭りの準備してるんだだ。あそこには神社があるからな。たしか、もうすぐじゃなかったっけ」  
 終業式あたりの日に開催されてるはずだ。  
 少年は「へぇー」と気の抜けた声をあげながら、俺の方を振り返ると、  
「行った事ある?」  
「ああ。毎年行ってるよ」  
 最近は友達と行ってるけど、昔はよく妹を連れていってたよな。あいつ、変な着ぐるみに風船貰って喜んでたっけ。  
 ノスタルジックな気分に浸っていると、   
「毎年親戚の家に来てるの?」  
 あ、そうだった。俺は少し迷ったが、自分の家の方を指差して、  
「実はな、実家って、あの辺なんだ」  
 ぼかしとけば大丈夫だろ。  
 それを聞いた少年は、失礼なことに、口をタコみたいにして吹き出した。   
「プチ家出じゃん」  
 うるさいな。多感な時期なんだよ、俺は。  
 言い訳しながら長門のマンションの方に目を向けると、七〇八に明かりが灯っている。  
 二人とも帰ってきたみたいだな。  
 俺は立ち上がり、少年に別れをつげる。  
「ああ、そうだ。明日は用事があるから、朝から遊ぼうぜ。お前、学校休みだろ」  
 思い出して付け加えると、  
「うん。わかった」  
 と素直に頷く少年。  
 何だかんだで、結構仲良くなってしまったな。   
 その内来るであろう別れが、少しだけ遅くなればいいな、と思った。  
 
 
 三年前、五日目。  
 朝方、少年とコンビニで買ってきた将棋で遊んだ。  
 不思議なもので、青空の下でやってると、ペラペラの紙将棋をしていても運動した気分になった。プラセボってやつか?  
 古泉と鍛えた俺の腕に、少年が敵うはずもなく、結果は俺の全勝。  
 悔しがる少年を尻目に、俺はタンニングマシンの中みたいな昼前の屋上を後にした。  
 向かうは、遊園地。  
 
 作戦その五 『小さな恋のメロディー 遊園地発動編』  
 
 ハルヒと谷口が来る前に、俺はまたしても長門がどこからか持ってきた犬のマスコットキャラ(従業員用のパス付き)の着ぐるみを被って、遊園地内部に潜入を果たしていた。  
 これなら不自然に思われずに、直接監視できるな。  
 谷口が暴走してハルヒにちょっかいを出さないよう、見張らねばならん。  
 だってほら、あれだろ。そのせいでハルヒの機嫌が悪化したら、大変だろ。   
〈二人がバスから降りた。入り口付近で待機していて〉  
「了解」  
 インカムで長門とやり取りを交わしながらも、  
「ねー、一緒に写真とってー」  
 さっきから大人気の俺。子供達と一緒に写真を撮られまくりだった。ポーズも取れない棒立ちの巨大な犬と写真を撮って、嬉しいんだろうか。  
 お詫びの気持ちを込めて、大げさに手を振りながら最後の家族連れに別れを告げたあと、大急ぎ、といっても足がでかすぎて走れないので早歩きで入り口に向かうと、丁度二人がゲートを潜ってくるところだった。  
 遊びにくるには気合の入りすぎている格好の谷口と、ラフすぎる格好のハルヒ。二人の温度差を示しているようだ。  
「す、すす涼宮。最初はどこに行きた……」  
 無視してスタスタと歩き出すハルヒを、アヒルの子供みたいな足取りで追いかけていく谷口。  
 俺はさらにその後ろを、ぺたぺたという足音を響かせながら、アヒルの孫みたいに追いかけていった。  
 
 ジェットコースターにて。  
「やっぱ最初はこれだよな。涼宮、こういうの大丈夫な方?」  
「私並んでくるから、あんたはここで荷物持っといて」  
   
 フリーフォールにて。  
「これこれ。日本一の高さらしいぜ。やっぱりこれに乗らないと……」  
「興味ないわ」  
 
 宇宙生物的お化け屋敷にて。  
「うわっ! ……はは、何だ、大したことなギャーー!!」  
「あー、もう!うるさいわね!」   
   
 レストランのテラスにて。  
「ご注文はお決まりですか?」  
「涼宮、ここは俺が払うから、じゃんじゃん好きなの頼んでくれ!」  
「じゃあこの最高級特選フィレステーキ300gと、ジャンボチョコレートパフェと、ドリンクバー」  
「……俺、水でいいです」  
 
 観覧車の前にて。  
「お二人で乗られますか?」  
「いえ、一人づつでお願いします」  
「…………一人づつで」  
 
 メリーゴーランドにて。  
「無理」  
 
 
 途中から涙なくしては見られなくなったデートも、そろそろ終盤に近づきつつあるようだ。  
 夕暮れの色を弾き散らす人工の湖が、成人男性一人分ぐらいのスペースを開けてベンチに座っている二人の顔を照らしている。  
 谷口は干されたスルメのようになって俯き、ハルヒはハルヒでソフトクリームを舐めながら、つまらなそうに道行くカップルなんかを眺めていた。  
 カップルどころか、どう見ても他人です。  
 しかし、谷口は夕日に炙られたスルメのように顔をあげると、ベンチから立ち上がり、座ったままのハルヒと向かい合う。  
 あいつ、まさかこの状態で本当に……  
「すすすっす涼宮ハルヒさん!」  
「何よ」  
 目も合わさずに応じるハルヒ。  
 それを見て、谷口は一歩後ずさったが、それでも目を瞑りながら、  
「その、もし、もしよければ、おおお、俺と、つぅ、付き合ってくれ!」  
 二人を後押しするかのように、一斉に街灯が灯りだす。何だこの状況。  
 ハルヒは眩しそうに眉間にしわを寄せながら、  
「……別にいいわよ」  
 と短く答えた。  
 一瞬呆然とする谷口。しかし、次第に言葉の意味が脳に届きはじめたのか、顔を夕焼けよりも真っ赤に染め、放心したように立ち尽くしている。  
〈落ち着いて〉  
 どこからか監視している長門の声を聞いて、勝手に前に出ようとしていた俺の足が動きを止めた。  
 いや、しかしだな、別にハルヒが誰に告白されようと知った事ではないが、谷口というのはいかん。俺としてはもっとこう、あいつを更正させられるぐらいのできた男とだな、  
〈いいから〉  
 少しきつめの声に、俺がたたらを踏んでいると、ハルヒが立ち上がって谷口と向かい合い、  
「ただし、次はもっと面白い所に連れてきなさい」  
 下僕に命令する上流貴族のようなことを言い出した。  
「お、おう! 実はもう、明日の事を考えて……」  
 鞄から何か取り出そうとする谷口を置いて、ハルヒはさっきまでと同じくさっさと歩き出す。  
 ただ、その後ろに慌てて続こうとする谷口の顔は、目を背けたくなるほど崩れきっていた。猫が福笑いをやってもあれよりマシだろう。  
 俺は何となく釈然としないものを感じつつ、舌を出した犬面のままで、できたてカップルの後を追った。  
   
 谷口は早歩きでハルヒと横並びになると、手をわきわき動かし始める。  
 何だ、呼吸しやすいように空気でも揉んでるのか、と思ったら、その手がハルヒの手の方に微妙に近づこうとしているのが見て取れた。  
 まさか、もう手を繋ごうってのか。  
 ダメだ。中学生ってのは、もっとこうプラトニックに付き合うもんで、取り敢えずは交換日記ぐらいか始めないとダメだ。  
〈あなたがダメ〉  
 二人の間に手刀を振り下ろそうとする俺を、長門がまたしても制止する。  
 だが長門、こいつらってば中学生のくせして、  
「何よあんた」  
 前を見ると、ハルヒの視線と俺の視線が正面から衝突する。  
 ……まずい。   
「何で真後ろで手を振り上げてるわけ? ……ていうか、あんた昼からずっと私達にくっついてたわよね」  
「そ、そうだったのか?」  
 ハルヒの言葉を聞いて、胡散臭そうな目を向けてくる谷口。  
 俺はとりあえず振り上げた手を自分の頭に持っていき、『てへっ』ってかんじのポーズをとった。朝比奈さん直伝。  
 悪意の無い可憐な犬を装う俺に、ハルヒの眼光が鋭く迫る。  
「さてはあんた、私を狙う秘密組織か何かの……」  
「おかあさーん! ほら見て見て! あの着ぐるみ、ルソーにそっくり!」  
 聞き覚えのある声。見れば、二人の後ろから小柄な少女が走ってきている。さらに後ろでは、見覚えのある女性が心配そうに、  
「こら、ちゃんと前を向いてないと危ないでしょ……あっ、ほら、前!」  
「へ? あ、きゃぁっ!」  
 叫ぶ少女。  
「「あ」」  
 ハモる俺とハルヒ。  
「あれ?」  
 そして、少女のタックルにより、柵の隙間から飛び出した谷口。  
 ちなみに、下は湖だ。  
「あれえぇぇー」  
 湖や 谷口飛び込む 水の音  
 すまん。字余りだ。   
 
 
 二分後、集まってきた野次馬に見守られる中、自力で這い上がった谷口に対し、ハルヒは心底あきれたように、  
「そういう面白さはいらないわ」  
 と一言で切り捨てると、さっさと一人で帰ってしまった。  
 カップラーメンの恋も、これでおしまいだ。  
 平謝りする少女とその母親、というか阪中親子の言葉も耳に入らない様子で、真っ白に燃え尽きている、というか無理矢理消火させられた谷口。  
 かける言葉も見当たらず、俺がその様子を眺めていると、その内係員が現れて、三人をどこかに連れて行ってしまった。  
 谷口。今度一緒に、フィレステーキ食いにいこうな。  
 着ぐるみのでかい手で合掌のポーズを作りながら、さて帰るか、と思ったとき、道端にチラシが落ちているのに気付いた。  
 谷口が鞄から取り出してたやつだ。  
 俺は何気なくそれを拾い上げると、着ぐるみの穴から覗き込む。  
 ああ、例の夏祭りのチラシだな。そういや明日だったっけ。  
 懐かしいな、と思いつつ字面に目を走らせていた俺は、その文章を見た瞬間、思わず被っていた犬の頭を放り出していた。  
 小学生が描いたにしちゃ上出来な神社のイラストの下。  
 小さいフォントでプリントされた、短い一行。  
『アルバイト急募! 君もヒーローになってみないか!』  
 閃光のような鮮やかさで、いつかの記憶が甦る。   
 夏祭り。沢山の屋台。小さな妹。風船を配るヒーロー。  
「……これだ」  
 
 
 三年前、六日目。  
 夏祭りの日だ。  
 普段はハトぐらいしかいない神社の境内に、多くの人々がひしめきあっている。  
 信心深いんだか現金なんだかよくわからない群集の中で、俺は一際目立つ格好をしていた。  
 燃え上がるような、というにはいささか蛍光色すぎる赤色に全身を包み、子供たちに風船を配るニューヒーロー。えーっと、何とかレッドだ。たしか。  
「すいません。この子にも風船下さい」  
 俺の膝ぐらいまでしかない子供に、赤い風船をプレゼント。最近のヒーローは、地道なPR活動が重要なんだぜ。  
 しかし、澄ました仮面の表情とは違い、昨日よりピッタリとした着ぐるみの中は、暑いと言うよりもはや熱いレベルにまで達していて、気をぬいたら失神しそうだった。  
〈聞こえる?〉  
 胡乱になりつつある意識の中でも、耳元にはめたイヤホンから聞こえてくる長門の声は、蠢く熱量に突き刺さったアイスピックみたいに鋭い。   
「ああ、ばっちりだ」  
〈あなたの予想通り、涼宮ハルヒは自宅を出て、神社の方に向かっている〉  
「一人か?」  
〈そう〉  
 やっぱりな。三年前とはいえ、あいつがこんなイベント見逃すはずがない。  
 つまらなそうに道行く人々を睨みつけながら、女王のような居丈高さで道を歩いている姿が目に浮かぶようだ。  
〈私もすぐそっちへ向かう〉  
「ああ、頼んだぜ」  
 できれば、俺が気を失う前にな。  
「あの、」  
 おっと、お客さんだ。俺は営業スマイルをマスクにまかせて、風船を一つ差し出した。  
「いや、俺じゃなくてこの子に欲しいんですけど」  
 顔を下に向けると、俺の足元に小さな少女がまとわりついている。  
 ん? 何か見たことのある顔だな、こいつら。  
 ……いや、見たことあるというか、毎日見てるというか、  
「うわぁー、レッドだー。キョンくん、レッドだよ!」  
「ほらやめろ。中の人に迷惑だろ」  
 聞いたかよ、この可愛げのない台詞。こんなこと言う奴なんて、間違いなく俺か俺ぐらいのもんだぜ。  
 ヒーローの俺は昆虫みたいに小さな妹に、二つ風船を握らせてやる。身内だけの特別サービスだ。  
「いや、一つでいいんですけど」  
 お前は黙ってろこの野郎。というかなんだその可愛げの無い顔は。喧嘩売ってんのか。  
 かつてない類の憎しみを自分に抱きながら、妹の頭を撫でつけてやる。  
「ありがとー!」  
 生えたばかりの紅葉みたいに小さな手を振りながら、妹とその付き添いは人ごみの中に消えていった。   
 俺は何とも言えず息をつく。  
 まさか、あの着ぐるみが自分だったとはな。  
 ということは、あの時も俺はここにいたわけで、今もここにいる俺は、ぐるぐると時間を……  
「風船くださーい」  
 はいはい、とマスクの中で呟きながら、それ以上は考えず、順調に風船を捌いていった。  
 
 
 俺が原案を出し、長門が練った『ハルヒのご機嫌矯正ミッション・ファイナル』はこうだ。  
 まず、俺が祭りの運営委員に連絡を取り、あまりの辛さに超不人気と言われる、入り口での風船配りに参加し、着ぐるみをゲットする。  
 そして祭りの当日、いつものように長門はハルヒの監視役。朝比奈さんは長門宅で待機してもらい、時空震を計測してもらう。  
 ハルヒが祭りに来たところで、俺がヒーローからストーカーに、長門は一歩はなれた場所から色々な小細工をしてもらう役にチェンジ。  
 あいつが射的や輪投げなどのゲームをはじめたら、俺が横から颯爽と登場。同じゲームで見事パーフェクトを取る俺〈ていうか長門〉。  
 するとどうだ。あいつの一ミリぐらいしかない導火線にはたちまち火が点り、対抗意識をむき出しにして俺と競い合おうとするちがいない。  
 そうすればもうこっちのもんだ。あとはあいつの気の済むまで遊びまくり、いい感じで勝ったり負けたりしながら、あいつの憂さを綺麗さっぱり晴らしてやる。  
 要するに、あいつは今一人で悶々とストレスを抱えているのが問題なわけで、あいつと正面から向き合える奴がいれば、簡単に事は運ぶはずだ。  
 ちなみに、「キョンくん、なんだかんだ言ってやっぱり涼宮さんのことよく見てますよね」なんていう意見もあったが、それは木を見て森を見ずって感じの、酷い誤解なのであしからず。    
 
 
 夕暮れ前の紫に映える、薄い朱色に彩られた浴衣姿のハルヒが境内に続く階段の下に現れたのは、九十二個目の風船を配り終えた時だった。  
「来た! 来たぞ長門!」  
〈私はもう高台に移動している。全ての屋台を補足可能〉  
 長門の言葉を聞いた俺は、九十二人目の子供に残りの風船を全て渡すと、ハルヒと並んで人ごみの中に入っていく。  
 ハルヒはちらりとこちらに目をくれたが、それも一瞬の事。人ごみに怖気づくこともなく、威風堂々と歩いていく。海が割れなくてもモーゼはモーゼだ。  
 最初に向かったのは、意外にもたこ焼き屋だった。  
「おっちゃん、それちゃんとタコ入ってんのよね」  
 早くもケンカを売る勢いだ。思わずなだめてしまいそうになる自分が恐ろしい。これも生活習慣病の一種なんじゃないだろうか。  
 でかい口を開けてたこ焼きをほおばりながら、次に向かったのはアメリカンドッグ。  
 また食うのかよ、と突っ込んでしまいそうになった自分が恐ろしい。末期症状なんじゃないだろうか。  
 そして、次の屋台。  
「長門、ストラックアウトだ」  
〈任せて〉  
 頼もしいね。  
 ハルヒはいかにもって感じのおっさんに百円玉を渡すと、真剣な表情で九つに分かれた的に向き合う。  
 教科書に載りそうな綺麗なフォームと、細腕に似合わぬ剛速球で、次々と的を沈めていく。しかし、  
「あー、惜しい。あと一個でパーフェクトだったのにね」  
 おっさんの酒に焼けた声が響く。  
 くやしそうに顔をしかめるハルヒの肩に、俺はそっと手を置いた。  
「……何よ、あんた」  
 俺は手で、「よく見てろよ、お嬢ちゃん」といったジェスチャーをして、おっさんに百円を渡した。  
 軽めの球を、ぐっと握り締める。  
 頼むぞ、長門。   
 
 
「パーーフェクトぉー!!」  
 巻き起こる拍手。憧れの視線。何ともいえない快感と後ろめたさが、俺の背筋を震わせる。やばい、病み付きになりそうだ。  
〈主旨を忘れないで〉  
 冷水を浴びせられるような長門の一言で目を醒ました俺は、一人面白くなさそうにしているハルヒの目の前に人差し指を持って行き、くいっと手前に引いてやる。  
 安い挑発だが、こいつに火をつけるには十分だろう。  
 予想通り、ハルヒの顔に歪んだ笑みが広がる。顔が整ってるだけに、中一とは思えん迫力だ。  
「ついて来なさい」  
 それだけ言うと、ハルヒは人ごみの中にまぎれていく。  
 俺はその後ろを歩きながら、まるで久しぶりの我が家に帰ってきたような気分になっていた。  
 これ病気だろ、絶対。   
 
 
 その後の俺とハルヒは、ただ勝負を楽しむばかりだった。  
 最初は掘りこまれたように仏頂面ばかりだったハルヒも、激戦の末勝利を得た射的を境に、いつものぎらついた笑顔をみせてくれるようになっていた。  
 対する俺も、途中でインチキだということは忘れ、夢中でハルヒと競いあっていた。  
 こいつは天災みたいに迷惑な奴ではあるが 台風と一緒に外で踊れるようなテンションの時には、悪くない相手だ。  
 だから、朝比奈さんから〈時空震が晴れました! 元の時間に戻れます!〉という通信が入ったときも、少しばかりがっかりしてしまったぐらいだった。  
「次は早食いで勝負よ!」  
 浴衣を泥だらけにしながら、楽しそうに笑うハルヒを、俺はそっと片手で制す。  
「……? 何よ、どうしたの?」  
 ジェスチャーでなんとか、と思ったが、さすがに無理そうだったし、三年前のこいつと喋るのは久しぶりだしな、と言い訳しながら、ハルヒの耳に口の部分を近づける。   
「残念だが、俺はもう行かなきゃならない」  
 ハルヒは目をぱちくりさせながら、やがていつものアヒル口になると、  
「ダメよ。まだ花火も上がってないじゃない」  
「いや、子供たちの助けを呼ぶ声が聞こえるんだ」  
「……今まで散々迷子の放送シカトしてたくせに」  
 さすが、よく見てるな。俺はマスクの下で笑いながら、  
「君と遊ぶのは楽しかった。また来年……というわけにはいかんが、そうだな、四年後ぐらいにまた遊ぼう」  
 間の三年はシーズンオフなんだ。  
 ハルヒはしばらく不服そうな顔でマスクに開いた穴を凝視していたが、やがてわざとらしいため息をつくと、  
「わかったわ。あんた嘘つかなそうだから、四年後まで我慢してあげる。その代わり、四年後勝負できなかったら、見つけ出してギロチンの刑だからね」  
「ああ、もちろん」  
 死刑はいやだからな。  
 俺はハルヒの若草みたいに柔らかな髪を撫でると、最後の忠告を口にした。これだけは言っとかないとな。  
「君こそ、学校で誰かをいじめたりしてはいけないぞ。もしそんな事をしたら、拳骨の刑だからな」  
 頭に置いた手を、拳骨の形に変える。  
 しかしハルヒは、心外そうに目をしばたかせるばかりだ。  
「は? 私がそんなくだらないことするわけないじゃない。あんた意外と見る目無いのね」  
 …………。  
「君は、台風みたいに大暴れして、クラスメイトをいじめてるんじゃないのか?」  
「だから! なんで私がそんなことすんのよ! たしかに、こないだ腹の立つことされて、その時何人か軽く締め上げたりしたけど、いじめなんて真似するわけないじゃない!」  
「……君のクラスに、なよっとした感じで、男か女か分からんような顔の、小さい男子生徒はいないか」  
 細かい特徴も付け加える。  
「全然いないわ、そんな子。ていうか、何で私がよりにもよってそんな弱そうな奴をいじめないといけないのよ! そこまでみじめったらしっくないっての!」  
 ハルヒの機嫌が目に見えて下がっていく。しかし俺の頭は、別のことでぐるぐると回っていた。  
「もう! せっかくおもしろい奴に会えたと思ったのに!」  
「……すまん、ハルヒ。でも、約束は絶対守るからな」  
 俺はそれだけ言うと、人ごみを掻き分けて走り始める。  
 後ろからハルヒが何かを叫ぶ声が聞こえたが、喧騒に紛れてすぐに消えた。  
 
 
 剥ぎ取ったマスクを片手に走る道すがら、耳元で悲鳴のような声がサイレンみたいに鳴り響く。  
〈キョンくん! また時空震が出てる! 何かあった〈今度は涼宮ハルヒが原因ではない。彼女か作った閉……〉  
「わかってる!!」  
 俺はそれだけ言うと、イヤホンを外してポケットにしまいこんだ。  
 立ちはだかるオートロックの扉。  
 俺は鍵の差込台によじ登ると、天井の角に作られたスイッチを押し込んだ。強制解除。  
 扉は間抜けなブザー音をあげながら、あっさりと開いた。  
 やっぱりアナログが最強だな。     
 エレベーターに目をやることもなく、そのまま階段をかけのぼる。  
 もうすっかり頭に入っていた番号の部屋。ノブを引いても、硬い手ごたえしか返って来ない。  
「おい! 開けろ!」  
 反応なし。  
 俺は少しもためらわず、ガスメーターの扉を力任せに引き倒すと、ガス管の裏を探る。パイプとは明らかに違う、金属の手触り。  
 セロテープでとめられていた合鍵を使うと、錠はすぐに外れた。チェーンは……かかってないな。  
「おい! いるんだろ!」  
 暗くて狭くて、物が全く無い部屋だ。テーブルの上に、食べかけのコンビニ弁当が投げ出されている。  
 布団も一つ。コップも一つ。  
 何が親の転勤だよ、ホラ吹きめ。  
 部屋を全てまわっても、誰もいやしない。  
 あいつ、どこに行ったんだ。  
 フェンスの上でじっと待っていたあいつの姿が頭をよぎる。  
 ……考えるまでもなかった。  
 俺たちが会うのは、冷たくて硬いコンクリートと、ぼろいフェンスがある場所だ。  
 
 そいつは屋上のフェンスの隅っこで、星の出てきた空に潰されるようにして膝を抱えていた。  
「探したぞ」  
 少年は答えず、ただ下を向いて震えている。  
 俺はゆっくりと近づきながら、ここ数日のことを思い出していた。  
 画鋲。機嫌の悪くなるハルヒ。逃げられない俺たち。年下の友達。いつも膝を抱えていた手のひら。失敗する作戦。ふられる谷口。楽しかった祭り。笑うハルヒ。  
 そしてこの段になって、俺は自分の役割って奴にようやく気付いた。  
 にしてもだ。  
 まったく、画鋲の一つ二つでこんな大事になるなんてな。今度大きな朝比奈さんに会ったら、絶対文句言ってやる。  
 気付けば少年は目の前だ。俺は膝を折り、目線を同じ高さにした。  
「近くにいるんだな?」   
 少年は答えない。  
 俺は肩に手を置こうとして、  
「近寄っちゃダメだって!」  
 跳ね上げられた手を掴んだ。  
 
 
 星が消え、コントラストは狂い、灰色に染まる。  
 愕然とした様子の少年を尻目に、俺は立ち上がると、フェンス越しにあたりの景色を俯瞰する。  
 この建物より高いものなんて、もう何も残っちゃいなかったからな。   
「これはまた、随分と平らになったもんだな」  
 見渡す限り瓦礫の海だ。震度十でもここまでひどくはならないだろう。  
 地平線まで続く灰色を眺めていると、激しい振動が辺りを襲った。地鳴りのような音が、遮蔽物のなくなった街に響き渡る、  
 俺は給水塔の裏に回りみ、音の震源地を見やる。  
 祭りがあっていた高台で踊る、闇をくりぬいて作られた巨大な人影。  
 少女の鬱憤の塊だったものだ。  
 野郎、祭りの会場を無茶苦茶にしやがって。まだ花火も上がって無いんだぞ。  
「行くぞ」  
 俺はまだ口を開けたままの少年を無理矢理抱えあげると、今上ってきたばかりの階段を下りはじめる。  
 もうすぐ一階に着く、という頃になって、ようやく少年が声を出した。  
「……い、行くって、どこに……」  
 俺はわかりやすいように、指で示してやる。  
「あいつのところ」  
 黒い巨人は、ちょうど神社の本殿を叩き潰しているところだった。  
「何言ってるの! あんなとこに行ってどうすんだよ!」  
「そんなの、あれをやっつけるに決まってるだろ」  
 なんせ俺はレッドだからな。巨悪を放っては置けないんだ。  
「やめろ! 下ろせ! 下ろしてよ!」  
 こっちだって下ろしたいよ。重いし怖いしで泣きそうだ。  
 それでも俺は、ぐずる少年を無視して、マンションの外に踏み出した。  
 瓦礫の世界。ぞっとしないね、まったく。  
 転ばないように気をつけていても、そこら中に散らばった瓦礫のせいで、身体はあっというまに傷だらけになった。マキロン必携だ。  
 俺が傷口の数を数えるのを止めた頃、少年も抵抗するのを止めていた。  
 
 途中で何度も休憩をいれつつ、たっぷりと一時間かけて、神社の階段だったものが見えるところまでたどり着いた。  
 息はすっかり上がってしまい、膝も爪弾いたメトロノームみたいにせわしなく揺れている。  
 俺は肩に担いだ少年を下ろすと、砂埃にまみれたどっかのビルの外壁に腰を下ろした。  
「さあ、へっぴり腰のお前をここまで連れて来てやったぞ」  
 神人が足を踏み鳴らすたび、少年は肩を震わせている。  
「だけど、俺はここまで。さすがにこれ以上いくと、踏み潰されて求人情報誌ぐらいの薄さになってしまうからな」  
 本当にすぐ近く。あのデカぶつにしてみりゃ、あと五歩も無いだろう。俺としてはあと二千マイルぐらいは離れていたいんだがね。  
「ここからはお前の仕事だ」  
 少年は俺の隣で、ただじっと蹲っているだけだ。  
「お前、もともとあいつを倒すためにここに来たんだろ?」  
 居心地が悪そうに動く肩。  
「それが見ろよ。お前が仕事をサボってたせいで、一面瓦礫だらけだ」  
 俺たちが帰れないわけだ。こんなのを放っておいたままじゃ、近いうちに現実に影響がでるぐらい壊しきってしまうだろう。  
「まあ、ハルヒの機嫌は直ったし、神人の数も大分減ったはずだ。もうちょっとしたら、ここにもお前の仲間が来てくれるだろうな」  
 神人が歩くたび、そこら中の石ころがポップコーンみたいに跳ね回る。   
「でも、それまではまだ時間がある。お前はこのまま、黙って見てるのか?」  
 こんな時に子供に説教してる俺は、一体なんなんだろうな。   
「今やらなくても、きっといつかやらないといけない日が来るんだぞ」  
 少年は変わり果てた世界の陰に隠れるようにして、目と耳をじっと閉じていた。  
 やれやれ。  
 ここまで近づけば、自衛のために頑張ってくれるかとも思ったんだが、甘かったみたいだな。  
 俺は盛大にため息をつくと、立ち上がってズポンについた埃を払う。  
「よし、わかった。お前がやらないんだったら、俺がやってやる」  
「え……?」  
「いいから、お前は黙って見てろ」  
 走る膝が震える。疲れてるだけってわけでもないさ。でも、こいつがやらないんだったら俺がやるしか無いだろ。  
 どっちみち、こいつを倒さないと元の時間に戻れないみたいだからな。  
 頬を叩いて気合を入れ、ただの坂になってしまっている階段を一気に駆け上がる。  
「やめろって! 本当に死んじゃうよ!」  
 悲鳴が聞こえる。不吉なことを言うな、ちびっ子め。    
 坂を上りきった先には、見上げれば首がへし折れそうなほどでかい巨人が、破壊の限りを尽くしていた。  
 様々なものが一瞬で壊れる濃密な音が耳元で弾け、しなる竹みたいに鼓膜を揺する。  
 目の前で花火の四尺玉が連発されてるみたいだ。そういや、そろそろ花火が上がる時間だな。  
「おい! ハルヒ! ……とはもう違うのか。とにかく、そこのでかいの! いいかげん大人しくしろ!」  
 神人は、まるで俺のことなど眼中に無いかのように、というか実際に眼中に無いんだろうが、壊しきった屋台を、また掬い上げて壊している。  
 木のクズだのボンベだのが雨みたいに降り注ぎ、一秒だって同じ場所にはいれない有様だ。  
 グラウンド・ゼロで必死に走り回る俺。谷口あたりがみたら、爆笑すること間違い無しだろう。  
 くだらない想像で気を紛らわしながら、下手糞なステップを踏み続ける俺の傍の地面を、巨大な足が踏み抜いた。  
 砂利道が粘土みたいにひしゃげて、足元の地面が捲れ上がる。  
 上半分を無くしたストラックアウトの屋台が、岩の中に沈んでいくのが見えた。  
 巨人は、それすら顧みない。  
「ムカつく奴だな、この野郎!」  
 俺はそのまま神人の足元に突っ走る。  
 むき出しの岩盤を蹴り、青いシートを飛び越え、猫のキャラクターのお面を踏み潰して、鉄板の欠片に躓きながら、でかい柱みたいな足の真下に。  
 しかし、鯨の背中みたいにのっぺりとした足首にローキックを食らわせてやろうとした矢先、もう一本の足が空から降ってきて、今度こそ俺はそこら中の破片と一緒くたに吹き飛ばされた。  
 目玉を洗濯機に放り込まれたみたいに視界がぐるぐると回り、体中のあちこちを何かわからないものに打たれまくり、とどめに頭を硬い何かに思いっきり打ちつけた。  
 一瞬辺りがストロボを焚いたように真っ白になり、激しい耳鳴りが襲ってくる。  
 肺が石になったみたいに重くなり、脳までミキサーにかけられて、感覚の一つも上手く手繰り寄せることができない。  
 ずっと握り締めていた赤色のマスクも、いつの間にか消えてしまった。  
 レッド、敗れる。  
 
 
「……! ………ぇ! 起きてよ!」  
 始めに戻ってきたのは、聴覚だった。  
 一つ掴めばあとは簡単だ。全ての神経を耳の先から引っ張り出して、身体に思い出させてやる。忘れていた呼吸が戻り、咳き込みながら胃液を漏らす。  
 と同時に、神経に電極を直接差し込まれて電流を流されるような痛みが、全身をかけめぐった。  
「い……っっってえ」  
 とにかく全部痛い。痛くない所は感覚が無い。  
 歯を食いしばって痛みに耐えていると、視界を覆っていた白い靄が消え、灰色の代わりに、鼻水と涙でぐちゃぐちゃの顔が見える。折角のいい男が台無しだな。  
「何で、こんな……」  
 泣き声を払うように、痛む肩を無理矢理動かして腕をあげ、多分北の方向を指差す。   
「ほら、あっち見ろよ。あのカップアイスみたいに抉られてる所な、俺の高校があった場所だ」  
 そこからちょっとばかり動かして、  
「で、あのちり取りの中に入ったゴミみたいにぐしゃぐしゃな一帯に、俺の実家があった。多分」  
 あーあ、あれじゃせっかくの一戸建てが台無しだ。   
「お前も知ってるとは思うけど、あいつをずっと放っとけば、この世界が現実になるかもしれないんだ。ずっとだぞ。はっきりしてないんだ。明日かもしれないし、一年先かもしれない」  
 喋るたびに、喉からヒューヒューと音がした。草笛みたいで懐かしい。  
「だから、俺はあいつを今すぐぶっ飛ばしたいわけだ。それが見ろよこの有様。半死半生もいいとこだ。できるのにやらない誰かさんのせいでな」  
「……っ! 僕のせいじゃないよ! 涼宮ハルヒのせいだろ!」  
 それはその通り。あいつの我侭はいつだって行き過ぎてる。だけどな、  
「そのハルヒに、あいつ自身を諌めるための力を与えられたのが、お前らだろ」  
「あいつが勝手に僕を選んだんだ! 何が組織だよ。勝手にそんなのの一員にされて、言われたままに飛び回って、そんなこと、したくないんだ!」  
 だろうな。俺だってそんなこと頼まれても、途中の川にでも捨てちまうさ。  
「まあ、何したってお前の自由だと俺も思うよ。でも、屋上から飛び降りるのも、あいつに潰されるのも、大して変わらないだろ。だったら……」  
「うるさい! どいつもこいつも、勝手なことばっか言うな!」   
 子犬みたいに吠える少年。裏切られたといわんばかりの暗い瞳。  
「そうだな。勝手な言い草だ。いきなりクラスメイトに死んでとか言われるようなもんだ」  
 世の中ってのは理不尽にできてるもんさ。なんたって、ちょっとベランダに出ただけで、人が死のうとしてるんだぜ。  
 
 俺は一度咳き込んで、喉の奥に絡まったものを吐き出すと、また口を動かし始める。  
「実は俺な、自分から何かできるタイプじゃないんだ。他人の勝手な言い草にでも乗らないと、エンジンさえ掛かっちゃくれない」  
 今回も、未来の誰かの口車に乗せられたようなもんだからな。  
「でもさ、ずっとそうして流されてたら、最近はそんなのも面白いかなって思ったりして、そしたらいつの間にか自分の意志で走ってたりして……」  
 少年は目を閉じて涙を流した。だけどでっと、耳は閉じていない。  
「だからお前だって、できる事を頑張ってやってみればいい。そんな凄い力を持ってるんだ。俺なんかよりよっぽど色んなことを選び放題遊びたい放題の人生が待ってるぞ」  
 いい加減、自分で何を言ってるのかわからなくなってきた。やっぱり俺は説明とか説得とか向いてないんだよ。  
「とにかく、あー、もう、何ていうかな、俺は今もたまにさ、空を飛んで怪獣を倒したり秘密組織の一員になったりして、世界を救ったりしてみたいって思う時があるんだよ! お前みたいな奴に憧れるんだ!」  
 くそ、恥ずかしくて死にそうだ。ハルヒなんかには、死んでも聞かせられん言葉だな。  
「だから、お前も七階から落っこちる前に、少しばかり俺の口車に乗せられてみろよ! 小難しい理屈はいいから、お前に憧れてる友達と、そいつが住んでる街のために、あのデカイ化け物をぶっ倒してみせてくれ!」  
 我ながら反吐がでるぐらい身勝手で、残酷な言葉。  
 少年はそれに鞭打たれ、歯を食いしばって巨人を見上げる。  
 でも、きっとこれが俺の役割なんだ。色々な思惑の上に乗って、朝比奈さんと共にここに来た、俺の役目だ。  
 だけど、それだけじゃないさ。  
 お前ともう一度会うために必要な言葉だから、俺は自分の意志で言うんだ。  
 別にお前に会いたくてしょうがないってわけじゃないが、まあ、SOS団は今のところ五人いるわけで、俺は結構、それが楽しい。  
 だから。  
 痛む肺と、軋む骨を無視して、大きく息を吸った。  
 灰色の煙が立ち込める中、神人が星の無い空を仰ぐ。声無き咆哮。  
 よくわかってるじゃないか。お前の命運も、そろそろおしまいだぜ。   
「立って戦え!! 古泉一樹!!」  
 
 へっぴり腰のままで立ち上がった少年の顔は、涙と鼻水でキラキラと輝いていた。     
 
 神人と超能力少年との戦いは、とてもじゃないが正視できる代物じゃなかった。  
 弱ったハエみたいにふらふらと飛び回りながら、無軌道に振るわれる腕を紙一重で避け、その間にセミの小便みたいな攻撃を続ける。  
 見てるこっちが心臓麻痺を起こしそうな有様で、俺は地べたに這いつくばったまま何度も悲鳴をあげ、賞賛し、罵倒した。  
 とにかく叫ばずにはいられなかったんだ。  
 それもそのはず。なんせ少年は、自分で登ったフェンスの上で、青い顔して震えあがってるような奴だ。アメリカに行けば間違いなくニワトリって言われるだろう。  
 それでもそいつは、自分の何百倍もでかい巨人を、一人っきりで倒してみせた。  
 涙と鼻水を垂らしながら、みっともなく戦うヒーロー。  
 何事もスマートに決めてキザったらしく笑う奴より、何倍もかっこいいのは確かだな。  
 
「もしもし、朝比奈さん?」  
〈……え? き、キョンくん!? ……うぅ、よ、よかったですぅ〜! いきなり通信は切れるし、長門さんは反応が消えたって言うし、私、私……〉  
「す、すいません! 色々と立て込んでしまって……その、それより、時間移動の方は……」  
〈ひぅ、ぐし、うぅ……じ、じく〈時空震は解消された。時間移動は十分可能〉  
 長門、ナイスフォローだ。  
〈そちらは、どう〉  
「ああ、何ともない」  
 気付いた時にはマンションの屋上にいて、身体の傷も無くなっていた。  
「長門、心配かけて悪かった。朝比奈さんにも謝っといてくれ。もうちょっとしたら、そっちに戻るから」  
〈わかった。待ってる〉  
 ピンマイクのついたマスクを放り投げ、硬いコンクリートに腰を下ろす。  
 いつの間にか、花火は終わってしまっていたようだ。皆と一緒に見たかったな。ま、あと半年もすれば、俺たちには夏がくるし、その時までお預けか。  
「ねえ」  
 何だよ。  
「何でいろいろ知ってるの? 涼宮ハルヒのこととか、巨人のこととか、僕らのこととか……やっぱり、宇宙人?」  
 だから、一般人だっての。  
「嘘だよ」  
 嘘なもんか。宇宙的かつ未来的でしかも超能力的な保障つきの一般人だぞ。  
「……じゃあ、神様とか?」  
 何でもかんでも神様と結びつけるのは、宗教的事情は置いといて、あんまり感心しないな。   
 
「まあ、そんなことはどうでもだろ」  
 俺みたいな一般人のことなんて、詮索しても小銭ぐらいしか出てこないぞ。  
 尚食い下がろうとする少年を片手で追い払いながら、フェンスに寄りかかって下を見る。  
 祭り帰りの人々の流れ。服の色と髪の色と人の色が混じりあい、星空を映した極彩色の川みたいに輝いていた。  
 空と地べたを流れる星の川に挟まれながら、俺は少年に向き直る。  
「さて、俺はもう帰らねばならん」  
「……帰るって、実家に?」  
「ああ、そうだ。お前もまた、別の場所に行くんだろ」  
「……うん。多分ね」  
 秘密組織も大変だな。  
「ちゃんと、やれそうか?」  
 少年は再び俯くと、  
「わかんない」  
 弱気な声で呟いた。見慣れた姿だ。  
 しかし、少年の目は、少しだけ上を向いていた。  
「でも、やってみようとは、思ってるかも」  
「……そうか」  
 それがいい事なのか悪い事なのかはわからないが、三年後のお前は、結構楽しんでるみたいだぞ。  
「それに、辛くなったらどっかで震えてればいいさ。そしたらまた、俺みたいな変人が寄ってくると思うから」  
 その言葉には頷いてくれない。思春期の男子は複雑だ。  
 俺は少し笑いながら、膝を屈めて、まだ小さな少年と真正面から向き合った。  
「じゃあ、お前ともしばらくお別れだ。だけど、そのうち嫌でもまた会うことがあると思うから、その時が来たら俺によろしくしてやってくれ」   
 頭に手を置いてやると、猫みたいに目を細める。  
 と、そうそう。無駄かもしれんが、こいつの未来のために一応忠告してやらんと。  
「それとな、確かにハルヒは悪い奴ではないが、すさまじくはた迷惑な存在であることは確かだ。間違っても、神様だの何だのご大層なもんじゃないということを、よく覚えとくんだぞ」  
 頭の上にハテナマークを浮かべる少年を置いて、俺は非常口階段に足を向ける。  
 最後に振り返ると、少年はこちらに向かって両手を振った、ガキっぽい仕草。  
 俺も手を振り返しながら、片手で口元にメガホンを作る。  
「さっきの戦いなーー」  
 戦う超能力少年に、エールを込めて。  
「結構、カッコよかったぞーー!」  
 少年は嫌味に整った顔を、恥ずかしそうに伏せていた。  
 
 
 眼鏡をかけた長門と一緒に夕飯を食べ、平伏して礼を述べたあと、俺と朝比奈さんはもとの時間軸に戻ってきた。  
 朝比奈さんは最後まで恐縮しきりで、お礼に今度何か奢ってくれるとまで言ってくれが、俺はそれを辞退する代わりに、二人でお茶を買いに行く約束を取り付けた。  
 やっぱり、時間旅行は悪いもんじゃないな。  
 
 そして翌朝。  
 実際は一日ぶりだが、俺にとっては一週間ぶりの学校だ。  
 いっそ滑り台にでも改造した方が子供達のためになりそうな坂道を登っていると、後ろから俺を呼ぶ声が聞こえた。  
「おはよっす、キョン」  
「おう、谷口」  
 変わらぬアホ面を見ていると、帰ってきたんだと実感できるな。ちょっと嫌だが。  
「お前、風邪とかひかなかったか」  
「全然。何でよ?」  
 いや、最後に見たお前はびしょ濡れだったからさ。  
「はあ? お前こそ風邪ひいてんじゃねーのか?」  
 額を触ろうとしてくる谷口に蹴りをいれて、のんびりと坂を登っていく。  
   
 
 箸にも棒にもかからないような話をしながら、少し懐かしくもある教室の扉を開けると、  
「てい!」  
 という掛け声とともに、何かが俺の頬を掠めていった。  
「ごぶっ」  
 後ろを見ると、顔面にビニールボールをめり込ませた谷口。すごいブサイクだ。  
「あー、惜しかったわね」  
 舌打ちしながら物騒なことを呟くハルヒ。  
「お前、何してんだ。また野球の試合でも申し込んだのか」  
 尋ねる俺に、西部劇のような仕草で人差し指を振ると、  
「私、今年の夏祭りに、宿敵との決闘が控えてるの。なかなかの強敵だからね。今から鍛えといて早すぎるってこともないわ」  
 そう言うハルヒの瞳には、核の炎が燃えていた。  
 あの着ぐるみ、持って来ときゃよかった。まだ保管してあるといいけどな。  
 まあ、今はそんな未来のことよりも、  
「おい、ハルヒ」  
 自分の席に座り、後ろで偉そうにふんぞり返っているハルヒと顔を合わせる。  
「何よ。何か面白いもんでも見つけたの? ラージノーズグレイとか?」  
 そんなもん見たけりゃ、FBIにでも就職しろ。お前ならいけるぞ。  
「嫌よ。あんなのアメリカの犬じゃない」  
 国際問題になりかねないようなハルヒの発言を片手で制し、   
「面白いもんは見つけてないが、面白いことを考えた」  
 ハルヒは猫缶を前にした野良猫のように目を輝かせながら、  
「やっとあんたもわかってきたじゃないの。いいわ、そういうことは、団長の私にどんどん言ってみなさい!」  
 じゃあ、遠慮なく。  
「俺とお前で、団員の労をねぎらうための、慰安会でも開いてみるってのはどうだ?」  
 ハルヒは銀紙を噛んでる猫を見るような目で、俺の顔を見つめている。   
「俺はあんまり何もしてないが、朝比奈さんは何かにつけお前の言う事に従ってるし、長門はお前を助けてくれてるだろ。それに、古泉は企画とかを積極的に考えてきて、団に貢献してるじゃないか」  
 涙ぐましい努力だ。朝比奈さんなんて、たまに本当に泣いてるしな。    
「団長からも、何か具体的なお返しを考えてもいいんじゃないか」  
 珍しく黙って聞いていたハルヒは、腕を組んだまま上唇をぴこぴこと動かす。何かにつけて器用な奴め。  
「それもそうね……団長たるもの、団員の働きはきっちりと評価してあげなくちゃいけないわ。来週は丁度連休があるし……」  
 昼にかけて跳ね上がっていく夏至の温度計のように、笑顔の色を強めていくと、  
「よし、キョン! 早速今日の夜から、あんたの家で秘密会議よ! SOS団の活動が終わったら、校門前にこっそり集合ね!」  
 そう言うハルヒの肩の上では、少しだけ伸びた髪が、楽しげに揺れていた。  
 拳骨だけは、勘弁しといてやるか。  
 
 
 時差ぼけで眠りこけていた授業時間も終わり、放課後。  
 俺の足はまたいつものごとく、コンビニの光にたかる羽虫のように何も考えないまま文芸部室に向かっていた。  
「ちわーっす」  
 本から顔を上げた裸眼の長門と目礼を交わし、座るたびに軋みがひどくなっている椅子に腰を下ろす。  
 今度どっかから新しいの持ってこよう、と悪巧みしていた俺の横から、湯飲みを持った白磁の手がそっと差し出された。  
「どうぞ、キョンくん」  
「どうもです」  
 三国志の時代でなくとも、家を一つ買えるぐらいの価値は十分にある朝比奈さんの淹れてくれたお茶を飲みながら、春の陽射しを眺める一時。体中がミトコンドリアごと癒される気分だ。  
 俺がチョモランマの難峰で溶かしたチョコレートを飲みながら命を繋ぐ登山家みたいに息をはいていると、正面から低めの無粋な声が聞こえてきた。  
「今日は何やらお疲れのご様子ですね」  
 ああ。一週間ほど旅行に行ってたもんでね。  
「おや、昨日もたしかこの部屋でご一緒していたと思ったんですが、僕の記憶違いでしょうか。それとも……」  
 ちらりと朝比奈さんの方を流し見て、  
「また何やら未来的な事件にでも巻き込まれていたんですかね?」  
 やかましい。無粋な詮索はするもんじゃないぞ。  
 古泉は気取った仕草で肩をすくめると、棚から将棋盤を取り出した。  
「どうでしょう。涼宮さんもまだいらっしゃっていませんし、たまには将棋でも一局」  
「……ああ、構わん」  
 お前には負ける気がしないしな。  
 朝比奈さんが見守る中、一日ぶりの対局がはじまる。  
「なあ、古泉」  
 パチ。  
「はい」  
 パチ。  
「お前さ」  
 パチ。  
「何でしょう」  
 パチ。  
「ミネラルウォーターの代金、いい加減返してくれないか」  
 パチ。  
「…………」  
 パチ。  
「…………」  
 パチ。  
「……あれって、奢りじゃなかったんですね」  
 はい、王手。  
 俺が王将を奪うと同時に、部室のドアが廊下にデイジーカッターでも落ちたみたいにやかましく開かれる。  
「みんな、体操服に着替えなさい! 今日は野球部と合同で投球練習よ! 各自十個は三振を獲ること!」  
 無理だ馬鹿。  
 朝比奈さんは怯えた猫のような声をあげ、長門が本を閉じる。  
 俺は顔の向きを変え、そろそろ桜が咲き始めそうな外の様子を眺めながら、ここ一週間で一番大きなため息をついた。   
 そんな空気の中、気の合う遊び相手を見つけた子供のように、心底楽しそうな顔で両手を広げるキザ野郎が一人。  
 
「素晴らしい提案です、涼宮さん」  
   
 

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