「今回は、2503回目に該当する」  
 
2503回の繰り返し。  
14をかけて日数に直せば、35000と42日。そいつを単純に365で割ったとしても、割り出される答えは96年だ。  
携帯の電卓機能がそんな馬鹿みたいな数字をたたき出した。  
 
「お前はずっとこの2週間を繰り返してきたのか?」  
「そう」  
冗談だろう?  
本を持っていなかったのもそれが原因なのか。  
2500回も連続して同じ本を、繰り返し読み返すだなんて飽きるには十分すぎる行為だ。  
百年にも程近い時間を、こいつは、ただただ繰り返してきたのだろうか…?  
誰にも文句も言わず、誰とも記憶を共有することもなく、ただ自分一人きりで。  
 
 
「お前……」  
長門が小鳥のように首を傾けるて、俺の方を見る。  
「お前は……お前は寂しくなかったのか?たった一人で」  
──何度も何度も、何度も何度も……  
「同じ2週間を繰り返して」  
──俺に  
「俺達に言ってくれれば……俺達なりに何か出来たかもしれないのに、なんで今まで黙っていたんだ?」  
 
 
 
「私の役割は観測だから」  
…………  
「それがインターフェースとしての私の役目」  
長門有希は、情報統合思念体に作られたインターフェースで、更には有機生体アンドロイドで、その目的はハルヒの観察だ。  
でも、それは公としての長門の話だ。  
個としての、目の前にいるこいつとしての意思はどうなんだ?  
普段は、まるで巨大な堰でもあるように、その感情を無表情に抑えた長門が俺に伝えた想い。  
それは、確かなこいつの意思だ。  
長門にだって、意思がある。少なくとも、俺だけはそのことを知っている。  
 
「お前は、この2週間がリセットされるかも知れないって知ってて……俺に……?」  
「そう」  
長門の小さな唇が言葉を告げる。  
「あれは私の独断の行動。本来は許されないこと」  
「なんでだよ」  
何で、そんな当たり前のことを望んだらいけないんだ。  
誰かを好きになって、想いを伝えて……  
そんなことがたったの14日だけで終わっていいのか?  
 
「私の仕事は涼宮ハルヒを観察して、入手した情報を統合思念体に報告すること。生み出されてから三年間、更には繰り返される14日間のシークエンスを、私はずっとそうやって過ごしてきた」  
──そんなの、悲しすぎるじゃないか。  
『エラーデータ』と長門は言った。  
でもな、エラーこそが正しいんじゃないのか?  
生まれて来た感情。  
そいつは本当にバグなのか?感情がないことこそが、エラーなんじゃないのか?  
情報統合思念体がどれだけ偉いのかを、俺は知らん。知りたくもない。  
だが、そんなに偉い存在だというなら、長門のほんの小さな我侭くらい聞けないのか?  
 
少し膨らんだ楕円の月が、東に傾いている。  
真夜中だっていうのにセミの奴等が馬鹿みたいに鳴いているのが聞こえてきた。  
俺の知る限り、皆勤賞でやって来た秋が、どこまでも果てしなく遠いものに感じられた。  
 
「今回の事態は私の独断。今までのシークエンスにおいて、私はこのような行動を起こしてはいない」  
淡々と、長門の口が事実だけを告げる。  
「そして、これからのシークエンスにおいても、私はこのような行動を起こすべきではない。今回のことはあくまでも私の内部エラー」  
なあ、エラーなんて言葉で、決め付けるなよ。長門。  
お前は今、確かに悲しい表情を浮かべているんだから。  
 
 
〜更待月〜  
 
家に帰ってベッドへと寝転がったが、睡魔の奴は休業中だった。  
長門の言葉を思い、ハルヒの荒唐無稽すぎる行為に苦悩の溜息をつき、布団をかぶって重くならない瞼を閉じる。  
気がつけば、朝が来て、いつもの集合時間が差し迫っていた。  
 
 
心の中で悪罵を吐きながら駅前に向かうと、団長以下SOS団の連中の姿はそこには見当たらなかった。  
──流石に一番か。  
考えながら、時間を確認するためにポケットから携帯を取り出すと、ほぼ同時に着信の音楽が鳴った。  
 
──♪午前2時 踏切に望遠鏡を担いでった ベルトに結んだラジオ 雨は降らないらしい  
「ふっ、今日はちk」  
「今日は天体観測よ!!有希のマンションに7時に集合。望遠鏡は古泉君が持ってきてくれるみたい。そんじゃ!」  
 
「おいっ!」  
文句を言おうとした電話口からは、既に電子音以外帰ってこなかった。  
サポートセンターだったら、即その商品を返品したいところだね。  
 
──ひょっとして、あいつは俺を遅刻させようと、わざとやってるんじゃないだろうな?  
 
そんな馬鹿な考えを抱きながら、家路につく。  
 
帰ってから泥のように眠った。  
連日の疲れの上に、昨晩から起きっぱなしだ。当然といえば、当然だろう。  
 
そして、更に追記すると、さも当たり前のように俺は遅刻の憂き目に遭った。  
──やれやれ  
 
 
天体観測といっても、市内から見る空は満天からは程遠い。  
等級の低い星だけがちらほらと疎らに見えるしょぼい空だ。  
 
 
さっきから嬉々として古泉は、用意してきた望遠鏡のレンズ調整にいそしんでいる。  
どこかうつろな目をしてぼんやりと突っ立っているのは朝比奈さんだ。天体観測どころではないのだろう。  
一人元気全開で、流れ星だの、UFOだの、撃墜された宇宙船だのを肉眼で探しているのがハルヒ。  
長門はどこか寂しそうに、棒立ちで星空を見上げていた。  
地球人が海を見たときに感じるようなノスタルジーでも感じているのだろうか?  
 
 
手持ち無沙汰に転落防止柵に寄りかかっていると、ハルヒの大声が聞こえてきた。  
「地球は狙われてるのよ!!」  
なんだハルヒ。お前はいつの間にグラドス星人とのハーフになったんだ?  
これで、宇宙人を探す必要もなくなったな。  
 
「キョン!UFOを見つけるのよ。きっと衛星軌道には今も奴らの先遣隊が潜んでいるはずだわ」  
宇宙人ならすぐ傍にいるが、生憎とUFOは見せてもらったことがない。  
「宇宙人が地球侵略を企てるとは限らんだろう」  
例えば、夏休みを延々と繰り返そうとする誰かを観察しにくるとかな……  
「あんた、たまにはいいこと言うじゃない。そうね……あたしも考えを改めるわ」  
ポンっと手を叩くと、楽しげに望遠鏡に空を見上げる。  
「そうよ。火星人だってきっと友好のはずだわ。見つからないのはあれね。地表にはいないで、隠れてるのよ。多分、隣人は恥ずかしがりやなんだわ」  
何を突飛なことを言い出すかね、こいつは。  
火星探査機がいきなり生命を発見したら、そいつは俺のせいだろうか?  
今のうちにNASAに謝っておくべきかも知れん。  
 
 
 
「調整が終わりましたよ」  
古泉のニヤケスマイルが立ち上がる。  
どれ、見てみようかね。本音を言えば、少しだけ楽しみなのさ。  
 
 
そのまま俺達は順番に望遠鏡を覗き込んだ。  
なんだかんだで、惑星の模様やら月表面やらの観察というのも悪くないものだね。未確認飛行物体も幸いなことに見つからなかったし。  
 
 
 
「有希。月には兎がいるのよ」  
俺がレンズを覗きこんでいる間に、ハルヒがなにやら長門に吹き込んでいた。  
望遠鏡から目を離した時、不思議そうな表情の長門が「そうなの?」とでも、いいたげにこちらを見ていた。  
世にも珍しいね。  
 
 
 
俺の傍らで、転落防止策に寄りかかったハルヒがすーすーと寝息を立てている。  
「何がしたいんだろうな?こいつは」  
反対側の傍らで、星を眺める古泉に俺は尋ねた。  
ハルヒの隣には、もたれかかられた朝比奈さん。こちらも既に夢の中だ。  
 
 
「遊び疲れたんじゃないでしょうか?」  
「俺達より疲れているとは思い難いがな」  
──本当に何を望んでいるんだ、ハルヒは?  
「みんなで仲良く楽しく遊んでいるとか、そういうものか?」  
「あるいは……その先でしょうか?」  
古泉が髪をかきあげる。生ぬるい夏の夜風が吹いていた。  
「何のことだか」  
「ここへ来て、オトボケですか?あなたは、長門さんと………いえ、これは失言ですね」  
 
 
 
「なあ、俺はどうしたらいい?」  
戯れに古泉に問い掛ける。  
「試みに、背後から突然抱きしめて、耳元でアイラブユーとでも囁いてみてはいかがです?」  
…………  
言葉も出んな。  
 
沈黙を否定と決め付けたのか、古泉が言葉を続ける。  
「なんでしたら僕がやってみましょうか?」  
この時俺はどんな表情をしていたんだろう?それを確かめる術は俺にはなかった。  
俺の目に入ってきたのは、古泉のどこか歪んだマイルと鏡のように澄んだ瞳でこちらを見つめる長門だけだったから。  
「軽い冗談です。僕では役者が不足でしょう」  
そう言って、目の前のニヤケスマイルは喉の奥で音を立てて笑った。  
 
 
 
「なあ、俺はどうしたらいい?」  
再度、同じ質問を繰り替えす。  
「それは……あなたが決めることです」  
古泉はことも無げにそう答えるだけだった。  
 
 
 
「食べて」  
長門の白い手が目の前に陶器の皿を差し出してくる。  
15年の人生で何度も嗅いだレトルトカレーの匂い。大盛りの刻みキャベツがカレーのそばに鎮座している。  
「いただきます」  
スプーンを動かしてカレーを口に運ぶ。  
対面では既に長門が黙々とスプーンを動かしていた。  
「おいしい?」  
一見すると普通のレトルトカレーだが、食べてみるとこれは凄い。普通のレトルトカレーだ。  
しかし、カレーとキャベツってのは別段悪くないし、なんといっても長門が作ってくれたものだというだけで自分で作ったものとは全然違う気がする。  
プラシーボ効果って奴だろうか。  
 
「美味いぞ」  
「そう」  
言葉をかけると、長門は、俺だけにしか分からない程度で、その表情を喜びのものにかえていた。  
「いつかお前が笑うところを見てみたいな」  
頬を朱に染めて微笑む長門……悪くない……いや、むしろ最高だ。  
 
 
再びスプーンを動かす。栄養も素っ気もなさそうなニンジンが口に入ってきた。  
こいつは、いつもこんなもんばっか食ってるのかね?栄養バランスとか、大丈夫だろうか。  
「長門」  
呼びかけると、ガラス玉みたいなその瞳がこちらを向いた。  
「話があるんだ」  
 
 
 
 
 
 
「お前、ちゃんと飯とか食ってるか?カレーとキャベツはバランスがいいらしいけどさ。栄養、足りてるか?」  
ゴソゴソと、持ってきた鞄に手を突っ込む。  
「これ、ちょっとちっちゃいけどピーマンだ」  
鞄から野菜を取り出す。  
「で、ピーマンだけだと寂しいと思って……」  
再び鞄に手を突っ込む。  
「ピーマンだ」  
更に鞄の底に残っていた野菜を浚えてやる。  
「最後にピーマンだ」  
 
…………  
 
……………………  
──って、ネタ濃すぎだろーーーーーー!!  
誰も分かんねえよ!!分かった奴は出て来い。ある意味凄いぞ、賞賛の言葉をかけてやっても良い。  
 
 
って違う、違う違ーう。  
俺が言いたいのはこんなことじゃない。  
「なあ」  
一区切りおいて仕切りなおす。  
「今日、泊まっていっても良いか?」  
帰宅が遅くなることを告げると、親は「あんたも青春ね」とか何とか喜んでいた。  
俺の親ってのは今までの夏休みでもこうだったのだろうか?身内としては、違ってほしいもんだね。  
 
 
「……いい」  
長門は、返事をすると、無機質に食器を片付けようと立ち上がった。  
 
どこか照れているような、その背中を抱きしめる。  
その耳元で、俺は『その言葉』をかけた。  
 
 
 
 
 
 
月が出ている。半月が膨らんだような楕円の月だ。  
月に兎はいないし、今のところ地球を侵略しようとする異星人もいないらしい。  
けれど、俺の目の前には宇宙人が居て、白磁よりも美しいその肌を晒している。  
 
 
見ているだけで吸い込まれてしまいそうな双眸がこちらを見ていた。  
急に手を止めたからだろうか。  
「す、すまん」  
軽く挙動不審に陥る。なんせ、こんなことするのは初めてだ。  
「いい」  
小さな唇が健気な言葉を発する。  
「ごめんな」  
俺の唇がその唇を塞ぎ、俺の舌がその舌を塞ぐ。  
俺の腕がその体を撫でて、俺の指がその体を撫でる。  
 
 
 
 
月が出ている。半月が膨らんだような楕円の月だ。  
星が出ている。星座なんか数えるくらいしか見えないけど、星空だ。  
 
どれだけ俺が望まなくても、明日は太陽と顔を突き合わすことになる。  
 
 
──なあ、俺はどうしたらいい?  
三度目になるその言葉を俺は自分だけで飲み込んだ。  
 
 
〜叢雲〜  
 
 
今日のSOS団巡業先はバッティングセンターで、何故だか超監督指導のもと、130kmケージの打撃を余儀なくされた俺は、既に長年使い込んだ布団みたいにくたくたになっていた。  
こんな時は休むに限ると、ベッドに寝転んでいるとまるで責務であるかのように携帯が鳴り出した。  
何故こう毎日、電話が鳴るんだ?誰かの陰謀だろうか、あるいはゴルゴムの仕業って奴だろうか?  
 
──♪ 昨日の今日で君よ去るのか それなら僕も君を追うのか 明日になれば船よ出るのか 波間に浮かんだ君よどこへ……  
 
 
「何だ?」  
携帯の表示を見て、なげやりな態度で答える。  
「よう、キョンか。」  
「で、何の用事だ?谷口」  
「なんだ、つれねえな。ああ、そうか。涼宮からの電話でも待ってたのか?」  
品のない笑い声が、電話口から聞こえてくる。  
「用事がねえなら、切るぞ」  
「まあ、待て待て。今、国木田の奴が泊まりに来てんだが、おめーも来ないか?」  
 
──ふむ。  
連日連夜色々なことが起き尽くめで疲れてるんだが、まあいいさ。  
たまには、男同士で馬鹿話でもして親睦を深めるのも悪かないだろう。  
変なことを想像した阿呆には古泉を紹介してやる、公園のトイレにでも行ってこい。  
「分かった。せっかくだからお前ん家に向かうよ」  
 
「ほら、親父の部屋からギって来たぜ」  
谷口が、包み紙にくるまれたモクの箱をこちらに放り投げる。  
掴み取ると中から小箱がバラバラとこぼれてきた。深い青と、薄い青地に、金字で書かれた社名入りの煙草。  
「開封済みじゃねーか」  
「しゃーねーだろ。文句言うなよ」  
 
さてさて、俺達が何をしているかというと……簡潔に言おう。  
『ワルイコト』だ。  
もっとも男子高校生数人が夜間に集ってすることといや、徹夜で麻雀するか、ワルイコトくらいではないだろうか。  
まあ、勉強会をしようとする奇特な奴や、古泉のような奴もいるかもしれんが。  
 
「僕は、これを」  
国木田が取り出してたのは、酒のボトルだ。緑の横文字がラベルに踊った洋酒の瓶。  
「ウォッカなのかな。生だときついから、ジンジャーエールも」  
 
「俺は、これだ」  
持ってきたコンビニ袋をさらけ出す。缶ビールと缶チューハイが半々ずつ。  
道中のコンビニに寄ったら普通に購入できた代物だ。  
身分証明書提示は求められなかったが、それは俺が老け顔だってことか?  
少しショックだぜ、コンビニ店員よ。  
 
 
「よし。飲むか!」  
俺達は乾杯した。特に理由もなく。  
 
 
暫くの間、俺達は本当にくだらない話で馬鹿みたいに盛り上がった。  
「最近の■のRPGはもうダメだ」とか  
「谷口のナンパ議論」だとか  
「そういえば、自らの国家や民族に固執する右翼系の 若者が世界的に増えているという事実も、多少気になるところ」だとか  
「朝倉はどうしてるか」だとか──この部分では、俺は黙秘を決め込んだ  
「少年ジャンプがこの先生きのこるには」とか  
「ドリルと裸エプロンは、どちらが男のロマンNo1か?」とか  
「宇宙ヤバイ」とか  
 
そんな書く必要が見出せないような、取り止めのない話を経由して、俺達の話題はクラスメートの恋愛談へと移っていた。  
「しっかし、榊の奴はもてるよな……」  
「そうなのか?」  
「ああ、なんでもグリークラブとやらの方でも人気があるらしいぜ」  
「へえ、それは僕も知らなかったな」  
「俺もグリークラブってやつに入ってやるか。ああ……でも、グリークラブって何やるとこだ?」  
「知らないで言ってたのかい?」  
「グリーってのは、合唱のことだろ」  
「へえ、キョン。よく知ってんなぁ。俺はてっきりグリークって外人でも愛でるのかと思ってたぜ」  
「アホか」  
「いやー、しかし羨ましいよな。もてんのは」  
「聞けよ」  
 
 
一息ついて、ジントニックの缶を傾ける。  
大量に買ってきたはずの缶チューハイは、既にこいつが最後だ。  
目の前の谷口は、既に国木田の持ってきた酒を割って、がぶ飲みしている。  
 
「そういや、キョン。お前はどうなんだよ?」  
赤ら顔を下品に曲げながら谷口が問い掛ける。  
「あ?」  
「ああ、それ。僕も気になるな」  
「何がだよ?」  
 
 
「決まってんだろ。涼宮とどうなんだ。ぇえ?キスぐらいしたのか?」  
そうとうキているのか、杯を片手にアホくさい質問をしてくる。  
「あのな。なんでそこでハルヒの名前が出てくる」  
「くけけ。誤魔化すな、誤魔化すな。」  
 
 
あとで思った。なんで、俺はこんなことを言ったんだろうか。  
「寝た」  
「は?」  
 
「長門に告られて、あいつと付き合って、あいつを抱いた」  
 
 
…………  
 
 
沈黙が俺達の間を支配する。  
 
 
…………  
「おい、キョン」  
無音を最初に破ったのは谷口だ。  
「一発殴らせろ」  
「断r……」  
言い終わらなかった。  
気がつけば床に転げていて、頬に焼け石でも押し当てられたかのように熱と痛みがあった。  
自分で言うのもなんだが、無様だ。  
「何しやがる!!」  
「止めなよ。二人とも」  
拳を納めない谷口と、立ち上がった俺との間に国木田が割り込んだ。  
「お前な!涼宮は……あいつはどうなる?俺は……俺はお前だから……」  
谷口が叫ぶ。  
興奮のせいだろうか、顔が限界を越えたように真っ赤だ。  
「俺は……俺は涼宮が……涼宮のことが!!」  
言いよどみ。怒り。苦悶。  
苦悶?  
「ゥげェェぇエエェエエ」  
床に転がった空っぽのコンビニ袋を引っつかむと、谷口が思いっきり胃の中身を吐き出す。  
「谷口。トイレにいってきたら?」  
国木田が谷口に声をかける。  
「ああ……」  
 
 
谷口のいなくなった部屋で国木田が声をかける。  
「僕は何も言わないよ」  
…………  
水洗トイレの流れる音。しばらくして青い顔の谷口が帰ってきた。  
「谷口。何で殴りやがった?」  
 
 
「…………忘れちまったよ」  
 
 
俺達の間の空気は相変わらず胸糞悪くなるような険悪だ。絶えきれないで、手元にあった煙草に手を伸ばした。  
『火は?』口を開かないで身振りで尋ねると、黙ったまま蚊取り線香を指差された。  
クソ谷口め。相変わらず、気のきかない奴だ。  
蓋を開けて、中のマッチを取り出す。  
喫茶店の名前が入ったマッチをこすり、咥えた煙草に火をつけた。  
 
肺の中にどっと紫色の煙が流れ込んでくる。  
──何でこんなもん吸うんだろうな?  
誰かが煙草に火をつけるのを見る度に今までそう思ってきたが、少しだけ分かった気がした。  
 
体の中を空虚なナニカで埋める為だ。  
 
 
暫くヤニまみれのろくでもない煙を吸いこんでいると、突然猛烈な咳き込みが襲撃を開始してきた。  
ゲホゲホと空虚な煙を肺腑から全て吐き出す。  
 
訂正しよう。  
──何でこんなもん吸うんだろうな?  
 
 
 
窓を開けて、湿気を帯びた夜の空気を吸いこむ。  
部屋の中では、楽しげな馬鹿笑い。  
「お前もやっぱオコチャマだな」  
振り返ると親愛なる馬鹿が笑ってやがる。癪に障る奴だ。  
さっきの報復に、とばかりに軽く小突く。  
 
古来より男の喧嘩は殴り合いで片がつくもんだ。これで片がつくだろう。  
「さ、3人で飲もうよ」  
国木田が杯をこちらに渡してくる。俺達は再び、乾杯した。今度は友情に。  
 
 
 
 
空虚な煙を全て吐き出した筈なのに、何故だろう、体中を虚しさが縛っている。  
厚い雲が月を覆い隠し、雨がしとしとと降っている。  
この夏、俺は太陽と顔をかち合わせ過ぎじゃないだろうか。久方の雨が、不思議と心を癒してくれる気がした。  
今の俺には、太陽にも月にも会わせる顔が無いから……  
「よし、飲むか」  
それから、俺達はまた本当に下らない話で夜通し盛り上がった。  
ジンジャーエール割の魔力が作り出す酒は飲みやすく、既に半ば出来あがった俺達にはいささか軽すぎるようにさえ思えた。  
 
 
 
翌日、頭上で神人が暴れまわるような二日酔いがやって来た。  
………気持ちわr………うっ……  
 
 
〜下弦〜  
 
ループを抜け出すための答えはどこにあるのだろうか?  
絵日記に書いたような夏休みは続き、その間も時間は徒に流れていった。  
 
ある日は、どこかの川の釣り大会へ行き。  
またある日は、ボーリング場で暴れまわり。  
またある日は、集まって怪談をした。  
 
そして俺達は太陽の下で、月光の下で、毎日のように顔をつき合わせた。  
 
 
 
〜二十三夜月〜  
 
──♪ 君がいた夏は 遠い夢の中 空に消えてった 打ち上げ花火 君の髪の香はじけた 浴衣姿がまぶしすぎて お祭りの夜は胸が騒いだよ…  
 
もはやお馴染みとなった携帯の着信が、俺の眠りを妨げる。  
面倒くさいので表示すら見ない。この時間にかけてくるのはどうせ、あいつだろう。  
「よぉ」  
「何よ、あんた。やる気ないわね!今日は花火大会よ、花火大会。祭りなんだからもっとパーっと騒ぎなさい」  
──知ってるさ。  
昨日、古泉から会場が見つかったと聞いて、お前が子供みたいにはしゃいでたからな。  
「あたし、花火って好きなのよ。なんかこう、ばーって来てドーンってなるのがいいのよね。今から楽しみだわ。」  
なんだ、その漠然とした表現は。  
「じゃ。いつもの場所に今日も集合だかんね。覚悟しときなさい!」  
そういって、電話は切れた。  
 
 
 
集合場所には、3人の姿が見えた。  
こちらに軽く会釈する古泉と、そわそわと浮かない表情で浴衣をまとった朝比奈さん。  
前回と同じように幾何学模様の浴衣を着込んだ長門。  
ハルヒの姿は見えなかった。  
 
珍しく債務は免れたか……  
一息ついて、ベンチに腰掛ける。  
「わっ!!」  
後ろから突然の不意打ち。  
 
「うおっ!?」  
古典的かつ友好的な奇襲だ。  
「甘いわよ、キョン。あたしがいないと思って油断を大敵に回したわね」  
 
 
文字通り悪戯が成功した子供のような顔をしながらハルヒが背後から現れる。  
──アホか、お前は  
言いかけた言葉が口の中でストライキを起こす。  
目から飛び込んできて、脳みそが許可もなく結びやがった映像が口の戦意をこそぎ落としたらしい。  
 
 
 
 
「さ、みんな行くわよ!」  
何を馬鹿なこ事やってるんだろうね。こいつは?  
心臓がいまだに早鐘を打ち続けてる。ハルヒの突拍子もない行動のせいだ。  
 
俺の手首を引っつかんでずいずいと引っ張る浴衣姿の背後で、本物の尻尾みたいに髪が揺れていた。  
相変わらず本物には、少し足りない長さ。でも、あの時よりも少しだけ長い髪。  
 
 
 
 
 
 
ハルヒは髪をポニーテールにしていた。  
 
 
 
 
 
 
花火大会というものには人手がつき物で、人手があるということはそれに付随した商売があるということである。  
会場の浜辺には沢山の人間と、ちょっと怪しいオニイサン達の経営する屋台が立ち並んでいた。  
 
「開始までは多少の時間がありますね」  
腕時計を見つめながら古泉が言う。  
「じゃあ、古泉君。悪いんだけど、場所取りお願いできる?あたしは何か屋台で買ってくるわ」  
「了解しました」  
古泉が、二つ返事で答える。  
「みくるちゃん。迷子になっちゃ駄目よ。知らない人に声をかけられてもついてっちゃいけないんだからね」  
「は、はい」  
どこか上の空で、朝比奈さんが返答する。本当に聞いているのだろうかこの人は。  
長門の方に視線を移すと、的屋の兄ちゃんの手によってたこ焼き機の上を回転するたこ焼きの方をじっと見つめている。  
 
宇宙には、たこ焼きなんてないのかね。火星あたりにはありそうなもんだがな。  
なんてことをぼんやりと考えていると、団長様からお呼びの声がかかる。  
「こらーーーっ、キョン。財布が来ないと始まらないでしょ」  
大げさに腕を振り回して、袖を揺らしているハルヒが目に入る。  
 
分かった分かった。すぐに行ってやる。  
だが、少し時間をくれないか?  
ちょっと、ため息をつかせてくれ。  
 
──やれやれ  
 
 
人ごみを逆行して、俺たちは進んだ。  
目指すはピーチ味のかき氷。ハルヒがどうしても食いたいらしい。  
レモンだろうが、イチゴだろうが、ピーチだろうが大して変わりはないと思うがね。どうせ砂糖水さ。  
 
「ん?」  
気が付くと屋台はあたりに見当たらなくなっていた。人波も途切れて、まばらになっている。  
「来過ぎちまったみたいだな。戻るか」  
 
ハルヒからの返事はない。  
「あんた」  
かわりに、俯いた首のままハルヒが呟いた。  
なんだよ。藪から棒に。  
「有希となんかあったでしょ」  
 
周りに人はいない。  
ハルヒからの言葉。  
 
ハルヒの双眸は、進行方向のずっと先をじっと見つめている。  
その方角には何もない。宇宙人や、未来人、超能力者は勿論、かき氷の屋台すらなかった。  
「有希と何があったの?答えなさいよ」  
「…………」  
その問いかけに対し、俺はただ3点リーダのみを用いて返事をする。  
 
 
──俺はなんと答えるべきだろう?  
 
真実を伝えるべきか?違う、それは駄目だ。何でかって。世界が危ないから……だろうか。  
じゃあ、嘘を?それも駄目だ。簡単にばれるような嘘しか、今の俺にはつけない。  
いや……そんなの誤魔化しだ。  
 
俺が真実を伝えようと、偽ろうと結局あいつのことを悲しませる。  
 
 
「…………なんでそう思うんだ?」  
だから、そのときの俺に出来たのは、質問を質問で返すことぐらいだった。  
「あんた、プールの時からずっと有希のこと見てる」  
古泉も言っていた。どこを見ているわけでもない俺の瞳は、多分長門を見つめていたのだろう。  
「ねえ、有希と付き合ってるの?」  
 
俺は黙っていた。息さえ止めていたかもしれない。  
答えあぐねる俺に代わって、ハルヒは話を続ける。  
「あんた自身はさ、気づいてないかもしれないけど。あたしはあんたの方を見てたから」  
 
ハルヒが振り向く。  
くるりと回った浴衣と合わせて、束ねた髪が魅力的に揺れる。  
「あんたはさ、有希のことがやっぱり好きなの?」  
ハルヒの顔が近づく。  
瞳の中に映る下弦の月が見えるくらいに。  
「あたしは……」  
困惑を絵に描いたような顔で、ハルヒがこちらを見つめている。  
無音の夜、動いているのはハルヒの唇だけみたいに思えた。  
「その…………あ…あんたのこと」  
それが今のハルヒの精一杯だろうか。不恰好な決然とした瞳で、俺をにらむように見つめてくる。  
「あたしは、あんたのこと……」  
 
 
 
 
 
空を切る音。火の花が開く轟音。  
金属が引き起こす炎色反応の光が、ハルヒの顔を照らし出して真っ赤に染める。  
 
花火だ。  
夜空には、月を背にして赤い花火が上がっていた。  
 
音が空中に響ききると、少し離れた場所から歓声が上がった。  
夜空には何発もの花火が舞い上がり、にわかに会場は盛り上がりを見せていた。  
…………  
目の前には涼宮ハルヒ。夜風に髪が舞う。  
二人の間には、ただ沈黙だけがあった。  
 
…………  
…………  
 
……………………  
……………………  
 
──俺は………  
 
…………  
 
 
 
「携帯」  
──♪ 星空見上げ 私だけのヒカリ教えて あなたはいまどこで誰といるのでしょう?………  
抑揚の感じられないハルヒの声が、着信を継げていることを気づかせる。  
「鳴ってるわよ」  
──♪大好きな人が遠い 遠すぎて泣きたくなるの 明日目が覚めたら ほら 希望が生まれるかも Good night…  
「もしもし」  
 
 
「あ、キョン君ですか……えっと、あのあたし迷子になっちゃったみたいで……」  
間延びした朝比奈さんの声が、電話口から返ってくる。  
「ぼーっとしてたら、ぜんぜん知らないところに……あっ、古泉君」  
 
「良かったぁ。」  
「えっ、その字を読むんですか?えーっと、英語ですよね。えー……あい……あーる?」  
「ふ、ふえぇーーー」  
 
…………  
「●<マッガーレ」  
 
ツーツーツー  
…………  
 
 
「戻るわよ」  
電話を切ると、同時にハルヒが呟く。  
言うが早いか、ハルヒは既に歩きはじめていた。  
 
 
花火がかき消した言葉。  
俺の耳は、その言葉を知らない。  
だけど、皮肉なことってのが世の中には、往々にして存在する。  
かき消した花火が、照らした光が艶やかに動くハルヒの唇を、その唇がつむぐ言葉を教えてくれた。  
 
 
 
 
『わたしはあなたが好き』『あたしは、あんたのこと……』  
長門の言葉。ハルヒの言葉。  
俺に出来たのは、解答を先延ばしして逃げることだった。  
 
 
「キョン。かき氷の奢り、忘れてないでしょうね?」  
先を行く背中が振り向いて、俺を睨みつける。  
「ああ」  
 
「ならいいわ」  
行きと同じ道を二人で歩く。同じ道を歩いてる筈なのに、俺達の距離は行きよりも遠い気がした。  
 
 
 
 
 
「遅かったですね」  
古泉が、俺達二人に手を振っていた。  
「…………」  
一心に花火を見つめていた長門の瞳が、こちらに移動してきた。  
理由は分からないけれど、俺は不自然にならない程度にその視線から目をそらしてしまった。  
 
「あ、キョン君、さっきはすいませんでしマッガーレ」  
「いえいえ、こちらこそ。大丈夫でしたか?」  
「あ、はい大丈夫でsマッガーレ」  
 
…………  
 
まあ、本人が言うんだから大丈夫なのだろう。  
 
「みんなこれ終わったら、あたし達でも花火やるわよ」  
花火に負けない大声でハルヒが騒いでいる。  
 
 
 
俺達は空に咲き誇る花火を見て、そのあとで海岸に集まって花火をした。  
まるで、何も起こらなかったみたいに。  
 
 
〜鎮静の月〜  
 
 
セミの人気歌手がアブラゼミからツクツクボーシに移行しても、俺達の夏休みは終わらない。  
何もなかったような日々は続き、夏休みを終わらせる方法もどこにも見つからなかった。  
 
昼はみんなで騒いで、夜には時々長門に会いに行った。  
朝比奈さんの語尾には、3日間ほどマッガーレが接続した。  
ハルヒの髪は元通りに戻った。  
世の中は何の変化もなかった。  
 
ただ、月だけが欠けていった。  
 
 
〜二十六夜月〜  
 
──♪大理石の台の上で 天使の像ささやいた 夜になるとここは冷える 君の服を貸してくれる タイムトラベルは楽しメトロポリタンミュージアム……  
 
ハルヒからの電話だ。たまにはボケてみようか。  
「おかけになった電話番号は現在……」  
「何いってんのよ!馬鹿キョン」  
左の耳まで、突き抜けそうな怒鳴り声が右の耳から入ってくる。  
変な冗談なんか言うもんじゃないな。  
「今日は、図書館に行くわよ」  
「ああ」  
 
──約束……果たさねえとな。  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「羊男を捜しに行くわよ!」  
到着早々に、ハルヒが叫ぶ。人のことを言えた義理じゃないだろうが、図書館では静かにしてくれ。周りの目が痛い。  
「あの、羊男って何ですか?」  
朝比奈さんが、何がなんだかわからないと言った様子で聞いている。  
「羊男はドーナッツを揚げるのが上手いのよ」  
ハルヒよ、それでは何の説明にもならんぞ。  
「あと、いるかホテルとかにもいるわね」  
朝比奈さんが、クエスチョンマークを多数浮かべて、首をひねっている。  
まあ、当然だろう。こんな説明では何がなにやら分かるまい。  
 
長門の方に目をやると、到着してから数分もたっていないというのに、早くもうずたかく詰まれた分厚い本に囲まれていた。  
一心不乱に、手を動かすその様子はどこか嬉しそうだ。  
 
──来てよかったな。  
「楽しんでるか?」  
「わりと」  
「そっか」  
「…………そう」  
こくりと小さくうなずく。その姿はなかなかに愛らしい。  
「この夏で図書館に来たのは?」  
「今回が初めて」  
メトロノームみたいに正確に文字を追っていた瞳が、こちらに向き直る。  
「あなたのお陰」  
じっとこちらを見つめてくる。えーっと、それは感謝の意なのか?長門。  
「良かったな」  
長門の頭をぽんぽんと叩いて、そのまま撫でてやる。  
「そう」  
蛇がはった様にしか見えない文字列の並ぶ本に戻った長門の横顔は、やはりどこか嬉しそうに見えた。  
 
 
 
さて、俺はどうしたもんかね?  
『読みきってない本があるんだ』ああ、それもそうだ。あの本でも読むことにしようか。  
件のコーナーに行くと、古泉の姿があった。ルビー文庫を持っているのかは、つっこまないことにさせてもらうが。  
 
えーっと、作者の名前は何だったけな?時々、谷口と間違えられそうな名前だったような気がするが。  
ああ、あったあった。  
で、古泉。何故、これ見よがしにその本を俺に見せる。  
なんだ、その『そう・・・。そのまま飲みこんで。僕のエクスカリバー・・・』とかいう訳の分からなすぎるカバーの文字は。  
 
 
「んーーーっ」  
ぱたりと本を閉じて大きく伸びをする。  
気が付けば夕方だ。読みかけの本もなんとか最後まで行くことが出来た。  
もっとも前回読んだ時は、主人公の現状を整理するのに疲れて眠ってしまったんだが。  
 
普通の少年が不思議な事件にまきこまれる話。  
彼は、変なコトに興味をもつ同級生とともに、事件を解決していく。そんな話。  
なんとなく自分の境遇に重ねるところを見出して、主人公に同情する。  
 
 
みんなはどうしているだろうか?周りを見つめてみる。  
ハルヒは『オスマントルコ収税史の日記』をなめるように読んでいる。羊男をまだ諦めていないのだろうか?  
古泉の本の帯は、『教官、僕―――バックも上手いんですよ・・・?』に変わっている。頼むから、近寄るな。  
朝比奈さんは、『お弁当のおかず100選』を読んでいる。らしいといえばらしいな。  
 
 
長門は……  
うわぁ、本の通天閣やー(彦摩呂風に)  
 
なんだあれ?  
机の上にうずたかくタワーが出来ていた。  
よく分からないが中心部に長門がいるのだろうか?  
「長門」  
「なに?」  
『封神榜演義』と書かれた本のあたりから声が聞こえる。  
「すごい本の量だな」  
「そう」  
「出られるのか?これ」  
「問題は無い」  
さっきとは少し違うところから声が返ってくる──『The Old Man and the Sea』、読み終えたのだろうか。  
「質量情報を改竄すれば、簡単」  
ああ、なるほどな。って。  
「ハルヒがすぐそばにいるぞ、どうするんだ?」  
「…………うかつ」  
「なんとか救出してみせるから、しばらく待ってろ」  
 
「何、その、本の要塞みたいなやつ?」  
振り向くとハルヒがいた。  
「長門御殿だ」  
「ひょっとしてその中に有希がいるわけ?」  
「そういうことだ」  
「でも、どうすんの?もうすぐ閉館時間よ」  
「助け出すしかないだろ」  
「まあ、それもそうね」  
ハルヒは頷くと、本の山に手をかける。  
「有希。上の方から本棚に戻すけど、いいわね?」  
「わかった」  
また別のところから声がする──『Преступление и наказание』何語だ。こりゃ?  
 
 
 
 
「とっとと片付けちゃうわよ」  
「ああ」  
うずたかく積まれた山の上の方から本を取って元の場所に戻していく。  
 
何度目の往復の時だろうか、隣のハルヒの手と、本の山に伸ばした俺の手が重なった。  
あの時、閉鎖空間でつかんだ手。  
この夏休みで健康的に黒く日焼けした手。  
 
本の向こうには長門。隣にハルヒ。  
「……いつまで触ってんのよ」  
 
先に手を離したのはハルヒだった。  
少し朱がさした頬は、差し込む夕陽のせいだろうか?  
「あんたは、あんたのしなきゃならない事をしなさい!」  
「そうだな」  
俺は、俺がするべき事をしないといけない。  
 
 
空には月。三日月を逆さにしたような月。  
 
俺の背中に誰かの手が重なる。  
白く透き通るような手。長門の手。  
俺の口が誰かの口を塞ぐ。小さな唇。  
「…………ん」  
くぐもった声が耳から聞こえてくる。  
 
誰かの声が頭の中で響く。見知った誰かの声。  
 
──止めろ  
 
長門の体を触る、髪を撫でる。  
誰かの声が響く、誰かが頭に浮かぶ。  
長門の手を握る。白い手。あいつの手とは違う手。  
あいつの声がする。幻聴だ。そんなことは分かってる。  
あいつの顔が頭に浮かぶ。目の前には長門だけしかいない。  
 
 
「…………ハルヒ」  
耐え切れずに俺は、その名前を呼んだ。  
 
言ってから、気が付いた。  
「最低だな……俺は」  
 
「いい」  
「でも……」  
「これは、私が望んだこと。あなたに責任はない」  
儚げに長門が呟く。  
 
 
空には月。三日月を逆さにしたような月。  
この月が消える時、俺と長門の夏は終わる。  
 
 
 
 
 
 
 
 
〜晦日月〜  
 
「どっか行きたいところはあるか?」  
「…………図書館」  
少し逡巡した後、長門が答える。  
「また図書館か?本当に本が好きなんだな」  
 
「……今度は二人で」  
「そっか」  
木々が立ち並ぶいつも歩いた町並み。  
今日は長門と二人きり。  
 
 
 
 
 
図書館につく、長門の隣に座る。  
「あー、非常に悪いんだが、少し眠ってもいいか?」  
「いい」  
「悪いな」  
「あなたは寝不足。睡眠を取るべき」  
「今度はこまめに片付けろよ」  
微笑むと、俺は目を閉じた。  
 
 
 
 
 
 
 
昨日の事だ。  
いつもの喫茶店。いつもの面子が顔をそろえている。  
「これでSOS団夏休みの活動は終了よ!明日は予備日だったけど、休みでいいわ。各員、ゆっくり休息を取って英気を養いなさい」  
予定表を見回し、頷くとハルヒは席を立とうとした。  
 
 
──待て  
 
冷水を浴びせ掛けられたような強烈な既視感が襲ってくる。  
これが、夏休みを終わらせる鍵だ。  
遠ざかるハルヒ。  
 
 
 
「ハルヒ」  
周りの客がこちらに振り向く。大声で呼んだせいだ。  
 
 
──なんて言えばいい?  
答えは何だ?  
 
頭の中をいろいろなものがグルグル駆け回る。  
長門、プール、ハルヒ、盆踊り、バイト、長門、ハルヒ、……、月、花火、ハルヒ、長門………長……ハルヒ。  
「夏休み……楽しかったぞ」  
こんなことしか言えない自分が憂鬱だ。  
 
 
「……ん」  
目を開ける。  
図書館。長門の湖みたいな目が俺を覗き込んでいた。  
手を伸ばしてその髪を撫でてやる。  
「今、何時だ?」  
「16:48:53:02……もうすぐ閉館時間」  
 
「ずっと寝てたのか……ホント、悪い」  
「いい……あなたは疲れてる。休んで」  
「いや、大丈夫だ。もう閉館だろ」  
 
 
 
「これからどこへ行く?」  
小動物のように軽く首を傾けて長門がこちらを見る。  
「…………あなたの行きたいところに」  
俺の行きたいところね……  
 
「俺の家に来ないか?」  
小さく頷く。  
「気づいたんだ」  
首を傾げて、長門がこちらに振り向く。  
「俺は、この夏休みの課題を全くやってない。手伝ってくれ」  
「このシー……」  
長門が言葉を言い終える前に、人差し指を立てた右手を口に近づける。  
「さ、行こうぜ」  
俺は長門の手を引くと、少しだけ歩くスピードを上げた。  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
==  
 
「今回のシークエンスは、巻き戻りが確定した」  
嘘だろ?  
「本当」  
嘘だ。  
「厳密に言えば、99.95%の可能性で、巻き戻りが確定したといえる」  
 
「そ、そんな」  
朝比奈さんが、地面にへたり込む。  
「俺は認めない」  
感情のやりどころがないせいだろうか、俺は怒鳴るように叫んだ。  
「落ち着いてください」  
拳を振り上げたところを古泉が押しとどめた。  
 
 
「もうすぐ体育祭か……ひょっとして、SOS団もクラブ対抗リレーに出ることになったりしてな」  
普段ならあまり笑えない冗談を言って、笑う。  
「意外と優勝しちまったりするかもな」  
「あなたはそれを望んでいる?」  
「分からん。だが、勝つことに悪い気はしないぞ」  
「そう」  
 
「体育祭のあとは、文化祭だな。うちのクラスはまとめるやつがいないからな、どうせろくなことをやらんだろ」  
実際の話、朝倉がいなくなったうちのクラスというのはどうにも纏まりにかけている。  
「あと、ハルヒが何か馬鹿をやるかも知れん。すまんが、その時はよろしく頼む」  
「わかった」  
道すがら俺達は、学校が始まってからの話をした。  
夏休みが終わり、二学期が始まってからの話を。  
 
 
 
 
 
 
==  
 
 
お前は何でそんなに落ち着いていられるんだ?  
「今回、ループを抜けることに失敗したことには落胆していますよ。しかしですね……」  
言葉を切る。  
「極論を言ってしまえば、夏休みが繰り返されたとしても僕にとってこれと言ったデメリットはないんですよ」  
大げさな身振りと手振りが加わった説明口調。  
「勿論、世界にとってあるべきでない形ですので、望むらくは2504回目の僕達には何とかしていただきたい所です」  
 
お前は、この夏休みが巻き戻ることを享受するって言うのかよ。  
「では、言わせていただきましょうか」  
こちらを見るその目はいつもより幾分か真剣だ。  
「これがあなたの選んだ結果ですよ」  
俺が選んだ結果だと?  
「あるいは、あなたには別の選択肢が与えられていた。しかし、あなたはこの結果を選んだ」  
「買いかぶりすぎだ。俺は極々普通の一般人に過ぎん」  
「ですから、僕はあなたを恨むことをしません」  
軽くため息をつく古泉。  
「あなたに委ねたのは、僕にも責任がありますからね」  
「キョン君のせいじゃありません」  
「あなたに責任はない」  
 
 
 
あつらえ向きに家には誰もいなかった。  
夏休みも最後だから、家族でお出かけらしい。  
リビングのテーブルにあった置手紙で知った。長男としての俺の尊厳って物はないのかね?  
 
 
 
 
「あなたの考えは理解できない」  
難しいかもな。その考えは。  
それは、男のロマンとかそういうやつさ。  
「欲を言えば、勉強を見てる間だけで頼む」  
「わかった」  
 
目の前には、大量にたまった問題冊子。机に散らばった消しゴムのカスと、文房具。  
オプションで眼鏡の長門有希。最強だね。  
 
「そこは正弦定理を使うべき」  
「ああ、なるほど。a/sinA=b/sinB=c/sinC=2Rってやつだよな?」  
「そう」  
 
「あー、ここはcだよな?」  
「違う。cは、主人公の状態を表す選択肢として不適切。ここはaが正しい」  
 
「そこは、分詞構文を使うべき。その表現は不適切」  
 
「平等院鳳凰堂は誤り、ここは中尊寺金色堂が正しい」  
 
「テキストヒライテー テキストヒライテ−」  
「それは何?」  
「なんでもない。ただの妄言だ」  
 
「ブレンステッド・ローリーの定義によれば、その酸はプロトン供与体であり……」  
「さっぱり分からん」  
「プロトンは主として軽水素の陽イオンのこと、この場合では単純に水素イオンと考えればいい」  
 
 
 
 
 
「うし。終わったーー」  
長い戦いが終わった。何せ40日分近い宿題を一日で終えたんだ、なかなかの激戦だったといえるだろう。  
ひとえに長門のお陰である。  
「これで、明日から学校が始まっても大丈夫だな」  
「あなたは知っているはず」  
そう、俺は知っている。  
「何故?」  
再度、人差し指を立てる。今度はその手を長門の口に持っていった。  
 
この夏休みが終わるなんて、俺はまだ認めるわけにはいかない。  
人間には無駄だと分かっていてもやらないといけないこともあって、今はその時だ。  
「ハルヒに俺達の関係のこと、言ってみようと思うんだ」  
 
「推奨しない」  
「だが、それ以外にもう方法はないだろ」  
「このシークエンスのくり返しは、既に確定している」  
「99.95%なんだろ?0.05%でいいんだ。可能性があるなら、俺はそれにすがってやりたい」  
「正確には、現時点で99.976%に増加している」  
数字の問題じゃない。  
 
「やはり、その行為は推奨しない」  
長門は淡々と言葉を続ける。  
「その行為によって、涼宮ハルヒがどう行動するかが、わからない」  
「だが……」  
「場合によっては、この世界そのものが再構成される可能性もある」  
「説得してみせる……あいつだって、前とは違う。俺はあいつを……それなり、いや曲がりなりにもかなり信用してる」  
 
そうだ、俺は……  
 
「白状しないといけない事があるんだ」  
昨日感じた猛烈なデジャビュ。過去幾度かの俺、あるいは俺達からの助言。  
「俺は、あの時……」  
 
ハルヒのこと、長門のこと。  
「一瞬だが、このまま夏休みが繰り返してほしいと願っちまった」  
 
「そんなの、間違ってるんだ。だから……」  
長門の小さな体を抱きしめる。  
俺の腕で、その身体を包んでやる。  
 
「だから、俺はこの夏休みを終えないといけない」  
 
 
携帯を取り出す。  
この夏休み、何度も俺の安寧を妨害してきたあいつのナンバーをコールする。  
通話ボタンを押そうとしたとき、手から携帯が滑り落ちる。  
 
──なんだ?  
ぐらりと、大きく視界が揺れた。  
 
「大丈夫」  
ながと?  
「血中内に睡眠導入剤を作用させただけ」  
一瞬、何を言っているのか分からなかった。  
左腕に、まるで蚊に刺されたみたいにかすかな感触。  
「あなたの行為は非常に危険」  
分かってるさ。でも、やらないと……  
「私はこの世界を……あなたを失いたくない」  
 
 
 
 
「私のエラーデータの大部分は解消が出来た。問題はない」  
嘘だろ?  
お前の感情は、どんどん大きくなってるように見えるのは、俺の独り善がりか?  
「大丈夫、処理は可能。次のシークエンスからは、また元通り」  
「……まだお前に伝えてないことがいっぱいあるんだ。」  
 
体育祭……文化祭……  
「秋はさ」  
紅葉とか、月とか綺麗なんだ。  
そうだな。食い物も美味いぞ…………みんなで集まって枯葉で焼き芋なんていいかもな。  
あと……読書の秋って言ってな……秋の夜長は本を読むのに最適なんだぜ……  
 
 
──まだだ。寝るにはまだ早いんだ……  
頭がくらくらする。  
時計の針が刻一刻と迫っている。  
 
月だ。消えてしまいそうな細い月。夏の終わりの最後の月。  
 
 
 
「ハロウィンとか、月見だとか……イベントもいっぱいあるんだ……」  
文化祭の準備で忙しかったら出来ないかもしれんが……  
「そう…だな……結構、長門は魔女の格好とか似合うかも知れないな」  
黒いローブの長門を想像する……悪くないな  
 
 
 
 
瞼が重い。  
嫌だ……まだだ。まだ俺の夏休みは終わってない……  
 
 
「このシークエンスの間、あなたと過ごすことが出来てよかった」  
長門………  
「私は、観測用のインターフェースに過ぎない」  
長門……  
「でも」  
長門…  
「この夏の間、あなたといて感じたことは」  
……  
「わたしのもの」  
…  
「ありがとう」  
 
 
 
時計の針は止まらない。  
シンデレラが、舞踏会から帰る時間。  
振り返った長門の背中が遠ざかる。  
 
 
長門……長門……なが………t  
「有希ーーーーーーーーーーー」  
叫んだ。ありったけの声を出して。  
 
ガラスの靴が外れる音。長門の足が止まった。  
 
 
それは、夏の初めに聞いた言葉。  
そして、夏の初めに聞いた言葉。  
誰かに言わされた言葉でもなく、振り絞ってやっと声にした言葉でもない、長門の言葉。  
くるりと振り返ると同時に長門が言った。  
 
 
「だいすき」  
 
 
硬く動かない頬が痙攣したみたいに少しだけ動いてた。  
かすかに開かれた唇と唇の間から並びそろった歯がのぞく。  
 
 
──ああ、長門……そんなの……そんなの全然微笑じゃないぜ……  
不器用すぎる笑顔。  
俺以外には、多分分からないような笑顔。  
涙が出そうになった。  
 
 
 
──なあ、何回目の俺よ。お前は知ってるか?長門のことを  
何十回目の俺よ。お前は知ってるか?長門の心を  
何百回目の俺よ。お前は知ってるか?長門の微笑みを  
何千回目の俺よ。お前は知ってるか?長門が、こんなにも愛しい存在に感じることを  
 
 
 
 
なあ、何度目かの俺よ。  
お前なら長門を幸せに出来るのか……?  
 
 
 
 
 
 
可能な限りその微笑を焼き付けながら、意識は深く深く落ちていった。  
 
 
 
 
こうして、俺の夏休みは終わった。  
 
 
〜満月 epilogue〜  
 
─♪たった一つの星に捨てられ 終わりない旅君と歩むと いつくしみふと分けあって 傷を舐め合う道化芝居 コスモス宇宙をかけぬけて 祈りを今君のもとへ コスモス宇宙をかけぬけて 祈りを今君のもとへ  
 
「もしもし?」  
寝ぼけ眼で電話に出る。  
誰からだろうか?  
 
 
「ありがとう」  
 
 
一言だけで、電話は切れた。  
通話履歴を調べる。おかしい……誰からも着信の形跡はなかった。  
──誰の声だったかな  
 
聞いたことある声。  
でも、誰のものか思い出せない。  
カーテンが開いている。絵に描いたような美しい満月が空に出ていた。  
 
 
「ごめんな……」  
 
その言葉を聞いたのは多分、月だけだった。  
何故だろう。  
自然と言葉が出てきた。  
 
 
携帯の時計を見ると、日付が変わっていた。  
8月17日。  
最近どうにも静か過ぎる。そろそろ団長様から連絡でも来そうな気がなんとなくした。  
 
 
満月を見上げて、大きくため息をつく。  
 
 
 
 
 
 
──俺の夏休みはまだまだ長そうだ。  
 
 
 
 
 
 
〜the end〜  
 

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