ちょうど腹部に打撃を入れられたらしく、俺は深い眠りをぼんやりと破いたんだ。
朝になると俺の体をサンドバッグか何かと勘違いした妹が、わざわざ起こしにやってきてくれるわけだが……。
「……なんでお前裸なんだよ」
「え?」
馬乗りになって俺を見下ろす妹は、見事にすっぽんぽんだった。お前の裸なんか見ても面白くない。
つーかなんで裸なんだ。なんの冗談だ。
「えいっえいっ」
「やめろ馬鹿。もう起きたから」
「起きてないよー」
裸で兄の寝起きを襲う妹。それなんてエロゲな展開にうんざりしながら、俺は妹の腋の下に手を突っ込んで体を持ち上げた。
「ん?」
裸の妹に触れたはずなのに、手に伝わってきたのは布地の感触だった。
「ほら起きてーっ」
持ち上げられながらも必死でもがく妹。何がおかしい。
「だからな、お前なんで裸なんだ?」
「裸じゃないよ。キョンくんねぼけてるの」
「寝惚けてなんかいない。寝惚けてるのはお前だ」
「むー」
ひょいと床に妹を降ろしてやる。
時計を見ると、いつもより少し早い時間。あと10分は寝ていられたはずだ。
妹が俺の部屋からパタパタと走り去っていく。ドアくらい閉めていきなさい妹よ。
「おかーさーん。キョンくんが起きないよー」
「じゃあフライパン持って行きなさい」
「わかったー」
それをどう使う気だ妹よ! そしてそんなものを渡すな母さん。
リビングに下りると、母さんも父さんも裸だった。
顎の関節が緩んだね。ああ、しかしまぁなんていうかさ、こういうのはさすがにナシなんじゃないのかな。
「あれっ、キョンくん起きたの? 残念」
心底残念そうにフライパンを見詰める妹もやっぱり裸だ。
「仕舞ってきなさい」
俺はある確信を持ちながら、妹の背中を押した。やっぱり、こいつは服を着ている。だが、俺には見えないのだ。
手で背中をさすると、トレーナーらしきやや固めの生地の感触を知ることができた。
こんなわけのわからない現象を引き起こせるヤツは、俺の知り合いにたった一人しかいない。
ハルヒだ。あいつがまたわけのわからないことを望んだに違いない。
俺は寝起きの顔も洗わないままに、玄関に置いてあった父さんのサンダルを履いて表に出た。
日中は随分暖かくなってきたが、朝の空気は獲物を狙う猟師のように静かな寒気を包んでいる。春先の冷たい風が、頬にぴりぴりと刺激を与えてきた。
ちょうど家の前を出勤途中の車が通り過ぎようとしていた。運転手のオッサンは裸だった。
「……春、だな」
制服に着替え終えると、俺は携帯電話のストラップに指を絡ませながらベッドに腰掛けた。
無理やり喉の奥に流し込んだ朝食が、胃袋の中で文句を立てているらしく、胃がぐるぐると痛んだ。
「さて、どうするよ俺」
続きはwebでとか言いたいところだが、そうもいかない。
もうトンデモには慣れたわけで、どうすべきかは一応検討がついている。
長門か古泉に、俺の状況を話してこれからどうすりゃいいのかアドバイスを求めるというものだ。
どちらに相談すればいいのか、それが問題だった。
まず俺が現在おかれた状況を説明しなきゃならないのだが、そんなことを話してもすぐに今の状況が改善されるとは思わない。
実は人の服が透けて見えるようになったんだ。どうすりゃいい?
それを俺は人に相談するのか。どうなんだそれは。恥ずかしくないのか。
長門も女の子だ。まさか自分の服が透けて見えるだなんて知ったら、俺の前に姿を現したりはしないだろう。
会わないまま、電話で解決を求めるというやり方で、なんとかなるんだろうか。
古泉はまぁ、別に裸を見られたって困るわけでもないだろう。あいつの裸体なんざ見たくなんかないがな。
どっちが頼りになりそうかというと、今のところ古泉に傾いていた。あいつなら、ハルヒの精神についてのの自称専門家だし、ビシッと解決策になりそうなものを示してくれるかもしれない。
もっともその方法がマトモなものになるのかどうかはわからないし、解決方法を示してくれるかどうかもわからない。
あるいは、誰にも相談せずに自分で解決策を探るか、だな。
俺はベッドから立ち上がり、窓の傍に立った。カーテンを開け放って、家の前の道路を眺める。ちょうど、犬の散歩をしているおばさんが裸で歩いていた。
おばさんの裸も見たくねぇな……。どうせなら朝比奈さんの裸体を……。
ああ、そうなんだよな。ぶっちゃけた話、せっかく手に入れたこの能力だかなんだかを、自分の欲望のために使ってみたいな、なんてことを少しは考えるわけだよ。
だってさ、俺はホモでもない健全な高校生なんだぜ。あわよくば女の子の裸を見たいなぁ、なんて考えるのが筋ってもんだろう?
「なぁシャミセン?」
「……にゃあ」
「そうか、お前もそう思ってくれるか。お前もオスだもんな。って、お前はメス猫の裸見放題じゃねぇかよ! チクショウ、なんか不公平だぞ」
「にゃ」
呆れたようにシャミセンが尻尾をふらふらさせながら、俺の部屋を出て行った。
すまん、俺がアホだった。
自転車を押しながら、裸の妹と一緒に歩く。
やっぱり、すれ違う人はみな裸だった。その、なんだ。困る。
「じゃあねーキョンくん!」
ぶんぶん手を振りながら、友達の元へ駆けていく妹。その友達たちも裸だ。最近の小学生は発育がいい子もいるんだな。
じっと見ていると、向こうの子が俺に軽く手を振ってくれた。
さすがに、登校途中の坂道まで来ると、かわいい女の子が沢山歩いてたりするんだよな。
真正面から見れば、ブラジャーで形を保たれた胸を見ることが出来たし、もちろん下の毛もバッチリだ。
まぁその……。勃ってしまって俺が困る。
爽やかな春先の風が心地よく、本来なら思わず口笛でも吹きたくなるような陽気に包まれているというのに、俺は俯きながら歩くしかなかった。
落ち着いたところで再び周りを歩く女子生徒を眺めてみたりもするが、罪悪感を感じてしまってすぐに目を背けてしまう。
小心者もいいところだ。
廊下を歩いてみても、教室に入ってみても、みんな裸だ。
ふざけんなと、神様に悪態をつきたくなる。休み時間のように、クラスメイトたちは適当なグループを作って談笑している。
俺は窓際の自分の席に腰掛けて、ひたすら窓の外を眺めた。白を混ぜ込んだ青空が清々しく、思わず溜め息をこぼしてしまう。
頬杖をついて窓外に見える海を思ってぼんやりしていると、突然声をかけられた。
「おはようキョン。今日はいい天気ね、うん。なんかいい事ありそう」
「あるわけないだろ馬鹿」
ぼんやりしてたのがまずかった。俺は話しかけてきた女のほうへ視線を向けてしまったのだ。
俺の目の前に、突き出されるように盛り上がった乳房があった。当然だ、俺は座っていて、女は立っているんだ。
「どうしたのよキョン。間抜けな顔しちゃって。まぁ、いつものことかしら」
「……うるさい」
俺はそれだけ言って、再び窓の外の海の青さとか自然の雄大さとかそんなことを無理やりにでも頭に浮かべながら、さっき目に飛び込んできた、ハルヒの胸を山奥にでも不法投棄してやった。
「なによ、あんたが間抜けなのはいつものことでしょ。なんか反論でもある?」
「無い」
話しかけるな。俺は今、精神を落ち着けたいんだ。お前のその美乳に感動してる暇はないんだ。
しかし、見事に綺麗な形をしていたな。もう少し重力のせいで垂れ下がったりとかしないんだろうか。
よく考えれば、服が透けてるんだから、ブラジャーをしている状態なんだよな。だから綺麗な形を保ってるんだろう。
まぁそれを差し引いても、ハルヒの胸は綺麗だと思えた。
細く括れた腹の白さも魅力的だったな。多分、エロ本かなんかでこんな体を見ちまったら、そのページを末永く愛用するだろうね。
誰にだってあるだろ、そういう心を揺さぶるページがな。
って、何を考えてるんだ俺は。精神が落ち着くどころか、昂ぶってきてるじゃないか。
目を閉じ、手で顔を掴むようにしてまなじりを揉み解す。
授業中は、出来るだけ窓の外を眺めるようにした。
だが、どうしたって人が俺の視界に入るのを防ぐことはできない。
開き直って、もう女子の裸を見まくってやろうとも思ったが、どうやら自分で思っていたよりも俺はうぶらしかった。
何気にクラスメイトの女子は、どいつもこいつも可愛い顔してやがったり、よく見てみればかなり乳のでかいヤツもいたりで困る。
昼休みになると、俺は弁当をひっさげて教室を出た。
どうしたんだと声をかけてくる裸の谷口も放っておく。
「いやあ、あなたから逢引きのお誘いを受けるとは思いませんでした。はてさて、一体どういったご用件でしょうか」
校舎の脇にある丸テーブルを挟んで、古泉がにこやかに笑いながら椅子に腰掛ける。
逢引とか言うな。そりゃ誰にも知られないように来いとは言ったが。
「ハルヒのやつが、またロクでもない力を発揮しやがった」
俺はそっぽを向きながら、そんなことを言った。
教室を飛び出した後、俺は人目の無い部室棟へ行き、そこから古泉に電話をかけてここへ呼び出した。
何も訊かずに来てくれるのはありがたいんだがな。
「涼宮さんが、ですか……。一体どのようなことが起きたのでしょう? 近頃は不安定な要素を感じなかったのですが……」
古泉は浮ついた笑みを消し去ると、そう訊ねてくる。
「それはだな……」
「それは?」
「……」
言うのか? まさか人の服が透けて見えるだなんてことを、こいつに言わなくちゃならんのか。
「安心してください。あなたが話したことはすべて秘密にします」
言いにくい内容だと悟ったのか、古泉がそんなことを言う。
溺れてる時の板切れ程度にありがたい言葉だが、素直に全て喋ってしまっていいものか。
しかし、今頼れるのはこいつくらいのものだ。
「実はだな……」
俺は古泉のほうを見ようとしないまま、今俺に降りかかっていることを喋った。
朝起きたら、突然人の服が透けて見えるようになったことを、だ。
「……それは、驚きですねぇ」
驚いているのかどうかわからない声で古泉がそう言った。
「本当にそうなんですか? さっきから僕のほうを見ないのは、その為ということですか? 疑うわけではありませんが、あなたが実際に服が透けて見えるということを証明していただきたいのです」
どういうこったい。
「僕の体を見て、本当に透けて見えているのかどうか検証しましょう」
おいおいおいおいおい。なにキモいことを言い出すかなこいつは。
「実は僕の体のある箇所にホクロがありましてですね」
「すまんな古泉。お前に頼った俺が馬鹿だった」
立ち去ろうとした俺に、古泉は苦笑交じりに冗談です、と声をかけた。
本当に冗談だったんだろうな?
「しかし、人の服が透けて見えるとは。男なら誰でも一度は考えるシチュエーションですね、いやあ実に羨ましいです」
「全然羨ましく聞こえないんだが、まぁそれはいい。さっさと解決策を寄越せ」
「おやおや、僕は解答用紙じゃないんですから、そう簡単に答えを出したりはできませんよ。しかし、あなたが僕を頼ってくれたことはとても誇らしいことですし、僕も微力ながら力を貸しましょう」
そりゃ頼もしいな。さぁ早くなんとかしてくれ。
「服が透けて見える、などということは不可能な現象ですからね。そしてあなたは、人が着ている服だけを透視することが出来る。つまり、あなたの認識によってます服を着ているという情報を得てから、透視の能力を発揮するということでしょう」
「んなこと訊いてねぇよ」
誰がそんなこと解説しろなどと言った。うんざりして、俺は向こうに生えてるケヤキに向かって溜め息をついた。
「靴も透けて見えるんですか?」
「ああ、そうだ」
「と、いうことは靴の厚さの分、人がわずかに浮いて見えるわけですね」
「……そういえばそういうことになるな」
はっきり言って、そこまで具体的に見てはいなかった。厚底ブーツ履いてる人だったら、それはもう超能力者のごとくはっきりと浮かんでいるんだろう。
携帯電話を取り出したのか、カチッという軽い音がしてから、カシャッというカメラで何かを写す音がした。
「これを見てください」
「ああ?」
古泉が差し出した携帯電話の画面を見ると、古泉のズボンが写っていた。
「透けて見えますか?」
「見えん。つーか見たくねぇ」
何故股間を写す必要がある。透けて見えたら大惨事だ。
「なるほど、あなたが直接目にしないと、透視はできないということですね。身につけているアクセサリーなども透けて見えるわけですか」
「ああ……」
こいつに相談してよかったのかどうかを自分に問いながら、何度目になるのかわからない溜め息がこぼれた。
春先の陽気があまりにも気持ちよかったが、どうにも気分は暖かくなりゃしない。
「とりあえずだな、そんな確認はどうだっていいんだ。どうすりゃ治るのかだけ教えろ」
「そう言われても答えに窮しますが、もしこれが涼宮さんの力によるものなら、簡単です。彼女がそう望んだからです」
「あいつが真性のアホだとしても、人の服が透けて見えることを望んだりはしないだろ」
「彼女が自分の裸を見られることを望んでいる、と解釈できますね」
「それこそ普通じゃねぇ」
あいつに露出狂じみた性癖があるとは思えない。
「いえ、わかりませんよ。乙女心は複雑ですからね。裸を見てもらいたくなるような理由があったんじゃないでしょうか。例えば、スタイルが良くなったとか」
「……そんなわけないだろ」
「おや、彼女が望まない限り、そのような不可思議な現象は起こらないと思いますよ。あなたがどう思おうともね。つまり、彼女はあなたに裸を見てもらいたがっている可能性は高いでしょう」
「嘘だろ」
俺は丸テーブルに突っ伏して、目を閉じた。
あいつも女だし、スタイルの良さとかそういったものを見てもらいたいと思っても不思議じゃないとは思う気もする。
そりゃあいつは、やたら食うくせに痩せてるし胸もそこそこあるさ。スタイルとか顔だけで言えば、それこそAランクだとかそんな谷口的尺度で測れば高い位置にいる。
よくよく考えれば、どこに出しても恥ずかしくないくらいのプロポーションをしてるんじゃないだろうか。
俺は机に顔を埋めたまま、古泉に問いかけた。
「もし、お前の言うことが当たってたとしてだな、どうすりゃ俺はこのとんでもない状況を抜けられるんだ」
自分で言っておいて、ある程度は検討がついてたさ。
「彼女の容姿、スタイルなどを褒めちぎることですね。終わらない夏もそうでしたが、彼女が満足すれば不思議な現象も治まるかもしれません」
「俺には無理だ……」
「おや? どうしてですか。別に彼女のスタイルの良さを褒めたところで、それは何の嘘でもありませんし誰も傷つきませんし、良いことづくめじゃありませんか」
「けどな、面と向かってそんなこと言えるか?」
「言えばいいじゃないですか。それとも、このまま過ごしますか? 実害はありませんよ」
「他人事だと思いやがって……」
くそっ、やるしかないのか。
どの面下げて、あいつの体を褒めろというんだ。
「とりあえず、対症療法としてひとつの案を思いつきました。試してみましょう」
俺をぽつんと残したまま立ち去った古泉は、10分ほどしてから戻ってきた。
そろそろ昼休みも終わろうという時間だ。春の陽気と、机に突っ伏してたこともあって、俺はうとうとしながら古泉の持ってきたものを眺めた。
「……なんだこりゃ」
「見てわかりませんか?」
わかるさ。眼鏡だろ。特に目が良いわけでもないが、眼鏡が必要になるほど悪くも無い。
「まさか、これが俺の力を抑える特殊な眼鏡とかいうんじゃないだろうな」
「そんな大層なものではありません。普通の眼鏡ですよ」
開けたケースの中に収められた、縁無しの眼鏡をまじまじと見下ろす。
「ちょっとかけてみてください」
俺はまず重い息をテーブルに落としてから、右手でそいつを摘み上げた。
かけてみると、目の奥に鈍い痛みが走り、視界がぼやける。
「おい、どういうつもりだ?」
そう言って古泉の方を見ると、ぼんやりとだが、服を着ている男の姿が映った。
「どうでしょう?」
「……どうだろう」
「あなたがしっかりと人を認識することが出来なければ、服が透けて見えるということも無いと思ったのですが」
「なるほどな。大当たりだ」
ただ、こいつをかけたまま歩くというのも難しい。
目の奥の痛みは次第に治まって来たが、それでもぼやけて滲んだ世界には慣れないでいる。
自分の手の平でさえよく見えないんだぞ。
「必要があれば外せばいいじゃないですか。さすがに眼鏡をかけたまま外を歩くのは危険でしょうが、学校の中であればなんとかなるでしょう」
投げやり気味な言葉に、俺は舌打ちをした。
「つーかこんなもん、どっから調達してきたんだ」
「クラスメイトにお借りしました。出来れば早いうちに返してほしいかな」
「借り物かよ……。大丈夫なのか」
「眼鏡が無いほうが似合ってますよ、と言ったら喜んでましたし、しばらくは大丈夫かと」
「……その女子生徒、問題ありすぎだろ」
「男子生徒ですよ?」
死んでしまえ。あますところなく死んでしまえ。
「ありがとよ古泉。とりあえず、こいつは借りとくぜ」
「ええ、それよりも、涼宮さんの件、お願いします」
ぼやけた視界の中でも、古泉がニヤけているのがなんとなくわかった。
教室に戻るのも一苦労だった。ぼやけていても、なんとなく歩けるんだが、足元に対しての距離感がいまいちわからず、階段を昇る時なんか手すりに手をかけてないと不安になってくる。
誰かとすれ違うこともあったが、ちゃんと服を着ているんだろうということは判った。
ようやく教室に戻ってきて席につくと、俺は目を閉じて眼鏡を外した。
しばらく目を休めておかないと、本当にこいつが必要になっちまいそうだ。
俺は目元をぐりぐりと解しながら、さぁどうするべきかを考えていた。このまま古泉の言うことに従って、ハルヒのことを褒めちぎるしかないのか?
そうじゃないと、俺は人の服が透けて見えるという、妄想の中でだけ楽しめるような下らない能力を持ったままかよ。
俺は普通の人間でいたいんだ。目からビーム出すのも、赤い玉に変身するのも無しだ。
「なにやってんのあんた」
誰か人が近づいてくる気配がしたと思ったら、ハルヒだった。俺は眼鏡をかけて、目を開ける。
大丈夫、視界はぼやけたままだ。俺は後ろに座ったハルヒのほうへ向き直った。
おそらく腕を組んでいるんだろう。
「あんた、目ぇ悪かったの?」
「ああ、最近ちょっとな。それより……」
言うのか俺? マジで言うのか?
「それよりなによ?」
「お前、すげぇ綺麗だよな」
言っちゃったよ俺。
反応は無かった。ハルヒが動いた様子は無い。
無言のまま、じっとこっちに顔を向けているのだけはわかる。
「あんた、目と一緒に頭まで悪くなったの?」
言うにことかいてそんなことを言いますかこいつは。
「違う。本当にそう思ってる。最近、痩せたんじゃないのか? 凄くスタイル良いから」
「馬鹿じゃないのあんた」
途中で言葉を遮られた。
「どうせなんか企んでるんでしょ。なんの罰ゲーム? 谷口あたりが差し金かしら」
ハルヒが自分の髪を払いのけているのがわかった。
「そんなんじゃない。本気でそう思っただけだ。お前が、綺麗だから」
誰か背後から俺を殴ってくれ。今なら許す。
俺の口はこんな馬鹿なことを言うために出来てるんじゃないだろう。言ってて段々恥ずかしくなってきた。
しかも、ハルヒは全然喜んでないと見た。
「この眼鏡も罰ゲーム? 大体、今日の昼までかけてなくて、昼休み終わったらかけるってのが怪しいのよ」
すっとハルヒが両手を伸ばし、俺のかけている眼鏡を取りやがった。途端に、ハルヒの体が目に飛び込んでくる。
本能なんだ。仕方ないだろ。わかってるのに、胸に視線をやっちまうんだ。
「ば、馬鹿やめろ! 返せよ」
「はいはい、馬鹿はあんたでしょ」
指先で摘んだ眼鏡をぶらぶらさせながら、ハルヒは意地悪く目を細めながら俺を見ていた。
「返せって」
手を伸ばすが、ひょいとハルヒが手を上げてしまい、俺の手が空を切る。
「必要ないでしょ。あんた目悪くないんだし」
「そいつが無いと、まともにお前のこと見れないんだよ!」
ハルヒがびくっと震えた気がした。自分が思っていたよりも大きな声を出していたことに気づいたのは、周りが余りにも静かだったからだろう。
ふと周りを見渡すと、俺に視線が集中している。どいつもこいつも、目を見開いてるのは何故だ?
お前ら馬鹿なのか? そんなぽかんとした表情をするんじゃない。
「お、おいキョン!! どうしたんだお前!」
谷口が俺の服を掴む。
「わたしも聞きたいの」
すぐ近くに居た阪中も何故か俺のことを真剣な表情で見ている。
ちょ、なんだお前ら。
そう思っているうちに、俺は谷口と阪中に引っ張られて教室の入り口の辺りまで連れて行かれた。
不思議なことに、人が増えていた。谷口と阪中だけではなく、ロクに話もしない女子生徒まで寄ってきてるのだ。
困ったことに、俺にはそいつらも裸に見えてしまうのだ。ボリュームは無いが、綺麗なお椀のような形をした阪中の胸も、あいつ、実は巨乳なんだぜ、などと谷口がほざいてた成崎まで。
「なんだよお前ら!」
俺はそいつらを見ないよう、目を閉じようと思ったが、あちこちから押されていて、目を瞑ったら確実に倒れてしまう。
「キョンよぉ、お前どうしちまったんだ」
「寄って来んな谷口!」
「わたしも気になるのね」
放っとけ! 道端のアリンコくらいの勢いで気にすんな。
「わっ、凄い顔が真っ赤!」
「ほんとだ! 照れてるんだ!」
「きゃーっ、ついにこの時が来たのね! みんな待ってたんだから」
なんの話だ。てめぇら寄ってくるんじゃねぇ。特に女子! 野郎が寄ってきてもそれは困るが、とりあえず女子は来るな。
「だーっ、お前ら離れろって」
半ば悲鳴じみた声だったかもしれない。ちょうどその時だった。
「お前ら、授業始まるぞ。なに騒いでるんだ、まったく」
数学の吉崎の声だ。嫌いなダミ声だったが、今だけはムハンマドに天啓を告げるガブリエルの声のように神々しく感じられた。
こいつの機嫌を損ねると後で面倒になるというのは、周知の事実だ。俺の周りに群がっていたヤツらが、散り散りに席へ戻っていく。
ぼんやりとしているハルヒから眼鏡を取り戻し、俺はそいつをかけることもなく、ずっと目を閉じたまま5時間目を過ごした。
授業の内容は1ミリリットルも俺の脳みそを満たすこともなく、右から左へ、左から右へと風のように流れていく。ああ、大丈夫なのか俺の成績。
そうは思ってみても、目を開けることが今は怖かった。
人の服が透けて見える。女子生徒の服も透けて見えるんだぜ? これが幸福でなくてなんなんだろう。
けれど、俺はその幸せな能力が憎たらしかった。欲しいヤツがいたら、大量の熨斗でくるんで放り投げてやる。
そうだ俺は小心者さ。笑うなら笑えと、自分を笑ってみる。結局、じっくりと女の裸を眺めることも出来ずに、俺は自分が陥ったこの状況に馴染めずにいる。
気が狂いそうだ。
昔、古泉が言ってたな。突然意味もなく自分が超能力に目覚めたと。自分が狂ってしまったんじゃないかと思っただなんて。
今ならあいつの気持ちが少しだけ理解できた。俺もトンデモな事態には慣れたと思ってたが、人の裸には慣れない。
5時間目が終わっても、俺はじっと座ったまま休み時間を過ごした。目を閉じていたが、周りの気配が何かおかしいのには気づいた。
普通の休み時間の喧騒ではなく、何かを狙っているかのような、そんなピリピリした空気を感じる。
動いたら殺られる。そんな意味不明な言葉が脳裏に過ぎった。
6時間目もほとんど俺は目を閉じたまま過ごした。寝てるんじゃないかと教師に咎められなかったのは幸いだった。
実のところ、何度か眠気に負けて落ちてしまっていたのだが、それは仕方ないだろう。
放課後を告げるチャイムが鳴る前に、現国の教師が授業終了の合図を出し、委員長が起立と礼を促す。
俺は眼鏡をかけて、周りを見渡した。曇りガラスの向こうのような世界の中で、誰かがこっちを見ているような気がしてしまう。
誰も見てなんかいないさ。そうさ。
荷物をまとめて鞄に詰め込んで立ち上がると、空気を読まないことにかけては定評のある谷口が話しかけてくる。
「キョン、お前さぁ……」
「黙れ、いいから黙れ。お前にミジンコ並の頭があるなら、黙れ」
「……やれやれ。いいさ、詳しくはきかねぇよ。けどな、」
俺は谷口を無視して、廊下へ出るべく歩き出した。くそっ、こんなもんかけてるヤツってのは、どれだけ目が悪いんだよ。
教室の壁に手をつきながら、俺は廊下へとたどり着く。背後からやたらと視線らしきものを感じるが無視だ。
一人になれる場所に行きたい。
そう思って俺の足が向いたのは、昼休みに古泉と話したテーブルだった。温い風が頬をぐりぐりと撫でてくる。
ああ、鬱陶しい。何もかもが鬱陶しい。なんで俺がこんな思いをしなきゃならない? 誰の陰謀だよ。
ハルヒのせいか? ちくしょう、なんてことをしやがるんだあいつは。俺がこれだけ苦労してるんだから、お前も少しくらい裸を見てもいいんじゃないのか?
倒れこむように、俺は椅子にへたりこんで溜め息を落とした。
「やれやれ……」
しばらくの間、俺はぼんやりとしていた。
もうこんなのはうんざりだ。なんだって、俺がこんなに苦労しなきゃいけないんだよ。
古泉が言うように、俺がハルヒを褒めちぎることでこの状況を脱することができるのなら、もうそれをするしかないんだろう。
もう段々どうでもよくなってきた。もうこれから先、二度と言うことが無いような美麗字句を並べ立ててやる。言ってるほうも聞いてるほうも恥ずかしくて死にそうなヤツをな。
全部解決したら、今度は二度とこんなことを起こさないようどうすればいいかを、古泉あたりにでも相談しなきゃならない。
頼むから余計なことだけはしでかさないでくれよハルヒ。
ハルヒは部室だろうか。
俺は重たく垂れ下がった脚を、無理やり前に進ませて部室を目指した。
今まで色んな目に遭っては来たが、これからまた予想の斜め上を飛び交うような事態になるとは思っていなかった。いや、予想もできるはずがない。