部室の前まで来て、一度立ち止まる。朝比奈さんが着替えてやしないだろうな。  
 そう思って、ノックしようとして苦笑した。朝比奈さんがどんな格好していようが、俺には裸に見えるんだっけか。  
 馬鹿馬鹿しい。  
 
 そう、朝起きてみればいきなり人の服が透けて見えるだなんていう、とんでもない状況に陥っていた。  
 冷静に考えれば、これは非常に羨ましい状況のはずなのだが、俺は自分の置かれた環境を喜んで受け入れることはできなかった。  
 そりゃそうだ、普段顔を合わせるクラスメイト、さらにはハルヒの服まで透けて見えてしまう。  
 まぁ、あれだ。つまり俺が凝視するほどの度胸もなく、困り果てているだけなんだが。  
 
 部室の前で再び溜め息をついて、俺は扉に手を伸ばす。  
 ノックしようとした時、部室の中からハルヒの声が鋭く扉を叩いた。  
「あ、あいつがそんなこと言ってたのっ!?」  
 なんだよ一体。  
「ええ、そうなんですよ。今日の昼休みのことです。最近、涼宮さんがとても綺麗に、かわいく見えて仕方ないと僕にそうこぼしたんです」  
「そ、そんなわけないでしょ! 古泉くんまで一緒になって、あたしをからかおうっていうのね」  
「まさか! 僕はそんなことはしませんよ。これは本当のことです。彼は何度もあなたのことを褒めていましたよ。とても美しい、まともに見ることが出来ない。顔を見るだけで恥ずかしくなってくる、などとね」  
「冗談はやめてよ。あいつが、そんなわけないじゃない」  
 
 ……このまま、どこだかわからねぇゴールに倒れこみたくなった。  
 なにを話してやがるんだ古泉のヤツは。  
 俺は気合を入れなおして、部室の扉を開けた。びくっと、ハルヒが椅子の上で固まったのが、なんとなくわかった。  
 どうせ古泉はニヤニヤしてやがるんだろう。どうやら朝比奈さんもいるらしい。  
 
「なんだよ、俺の顔になんかついてんのか」  
「そ、そうね! 眼鏡がついてるわ!」  
 そういやそうだったな。  
 
 俺はふらふらしそうな足を、なんとかいつも座っている席の前まで運ぶと、椅子に座り込んだ。  
 足元に鞄を放り出し、重い溜め息を吐く。  
「おや、遅かったですね。どうしたんですか?」  
「なんでもねぇよ」  
 くそっ、この野郎。  
 
 
 ハルヒに馬鹿な話を吹き込みやがって。俺が陥ってる状況をなんとかしようとしてくれてるのかもしれないが、面白がってるだけのような気もしてしまう。  
 一応、こんな眼鏡まで借りたことだし、悪くは思いたくないが……。  
 
「どうぞ、お茶です」  
「あ、ありがとうございます」  
 朝比奈さんの癒しボイスが降ってきて、俺の目の前に湯飲みが差し出される。  
 やっぱり朝比奈さんはいい。未来の生んだ癒しの極みだ。  
 
「うふふ」  
「あはは」  
 朝比奈さんは俺の隣に立ったまま、じっと俺のことを見ていた。なんだろう。  
「どうしたんですかこの眼鏡。キョンくん、目が悪くなったんですか」  
 そう言うと、ひょいと俺の眼鏡を外した。  
「ちょ、ちょっと朝比奈さん」  
「どうしたんですかー。あはは、変なキョンくん」  
「うをっ……ぱい」  
 故意じゃないぞ。そうさ、わざとなんかじゃない。  
 目の前に朝比奈さんの、その、あれだ。うん、おっぱいだ。なんてボリュームだよ。  
 嘘だろ? こんなにでかくていいのか? 犯罪じゃないのか? 白く盛り上がった、美しい胸だよ。  
 見てるだけで、その感触が脳みその中で想像されてしまう。  
 
「か、返してくださいよ」  
「えーっ、なんでですか」  
 朝比奈さんは、俺から奪い取った眼鏡を、自分でかけていらっしゃる。  
 突如現れた眼鏡っ娘メイドさん。これには眼鏡属性の無い俺も、あっさりと転んでしまいそうだった。  
 
 それよりも、なんか朝比奈さん怒ってないか?  
 気のせいだよな?  
 
「と、とにかく返してください」  
 俺は半ば無理やり、朝比奈さんのお顔にかかっている眼鏡を外し、それをかけた。  
 ちょっとばかし惜しい気もしたが、おそらく笑いをこらえているであろう古泉が机の向こうにいるわけで、あまりまじまじと見る気にはなれない。  
 ちくしょう、こいつに話すんじゃなかった。  
 
 さっきまで、人の服が透けて見えることに対して嫌悪感を抱いていたのに、朝比奈さんの素敵なお胸を見てあっさりと気分が回復するのだから、俺も相当な単細胞だ。  
 仕方ないだろう。だって、背も小さくてロリーな朝比奈さんの体に、ソフトボールみたいなサイズの球体がふたつもだね。  
 
「ちょっと、キョン」  
「……なんだよ」  
 忘れていたが、ハルヒの機嫌を取らないことには今の状況を脱することはできないのだ。  
 神がいるとしたら、おそらくハルヒ並の傍若無人なヤツに違いない。どうして俺にこんな恥ずかしい試練を与える必要があるのか。  
 
 思い返すと、相当恥ずかしいことを言ったような気がする。  
 眼鏡をかけているので、ハルヒがどんな表情をしているのかはわからない。  
 だが、腕を組んで偉そうにしているのはなんとなくわかった。  
 
「べ、別に用があるわけなじゃいけど、春だからって脳みそが馬鹿になったあんたを、団長として心配してるのよ。どうせ悪いものでも食べたんでしょうけど」  
「食ってねぇよ」  
「あっそ。どっちにしても、あんたが馬鹿みたいになって、人に迷惑かけたりしたら、SOS団の名誉も地に落ちるというものよ。自重してもらわないと困るんだから」  
 この団に名誉などというものがあったのか、などという些細な疑問はどうでもいい。  
 
「大体ねぇ」  
 ハルヒが立ち上がり、つかつかと歩いてくる。  
「こんなもんかけて、あんた何考えてるのよ」  
 顔面めがけて、ハルヒが手を伸ばしてくる。  
 なんでみんな、眼鏡を外したがるんだ。予想はしていたので、ひょいと避けてやる。  
 だが、避けたと思った矢先にひょいと外される。くそっ、無駄に手の早いヤツめ。  
 ハルヒが俺から奪った眼鏡を、パソコンを置いてる団長机の上に放り投げる。  
 
「返せよ、それ」  
「全然度が合ってないんでしょ。何よ、こんなのする必要ないじゃない」  
 必要なんだよ。そいつが無いと、人の服が透けて見えてしまうんだからな。  
 俺はハルヒの体に視線を落としそうな眼球を、無理やり窓の外へと向けた。  
 
「だから、返せって」  
「嫌よ。それから、人と話す時はちゃんと人の目を見なさい」  
「珍しいこともあるもんだな。お前がまともなこと言ってるぞ」  
「話を逸らすな!」  
 ぐいっとネクタイが引っ張られる。こらこら、人のネクタイを引っ張るんじゃありません。  
 眼前に突きつけられるハルヒの顔。別に深い意味は無いけれど、綺麗だとかかわいいだとかわけのわからないことを口走りまくってたせいか、妙にこいつがかわいく見えてくる。  
 
「な、何顔赤くしてんのよ馬鹿ッ!!」  
「してねぇっ」  
 自分じゃわかんねぇし。  
「大体、お前も顔赤いだろうが」  
「気のせいよ!」  
 
 せっかく朝比奈さんの素敵おっぱいのおかげで上向いてきた気分も、ハルヒの容赦ないアタックで地面に叩き落される。  
 こいつがすべての元凶じゃねぇかよ。なんで俺がこんなに苦労しなきゃならん。  
 いっつも俺を意味不明な事態に巻き込んで、本人は何も知らずに暢気なものだ。この一年の間、俺はどれだけハルヒの持ち込んだ厄介ごとに振り回されてきたんだ。  
 今回も、こいつが何を思ったのか、変なことを望んでこうなったんだろう。お前の願望なんて知るか! なんで俺がこんなに迷惑を被らなきゃならないんだ。  
 
 
「そもそも、お前がそんなにスタイルが良いから悪いんだ」  
「はぁっ?! 何言ってんのよあんた」  
「そうだ、全部お前のせいじゃねぇかよ! なんで俺がお前の体見て変な気持ちになんなきゃならねぇんだよ。お前がそんなに綺麗じゃなかったら、俺がこんな苦労することなんてねぇんだよ。  
 わかってんのか、お前が美人でかわいくて、スタイルさえも良いから俺が困ってんだよ。全部お前のせいだ」  
 
 気がついたら、俺はハルヒの体に覆い被さるようにハルヒを見下ろしていた。  
 体を後ろに反らしているハルヒが、口元を微妙に痙攣させ、目を見開いている。何か言おうとしているらしいが、空気だけがハルヒの口から漏れて霧散した。  
 
 冷静に、今自分が口走ったことを振り返ると、意味不明なことを喚いていただけのような気がする。  
 それだけじゃなくて、相当恥ずかしいことを言っていたような気が……。  
 
 
「な、何よ、そりゃあたしは自分で言うのもなんだけど、十分美人の範疇に入るし、スタイルだって良いと思うわ。冬の間ちょっと増えた体重も落としたし、そうね、ウェストも細くなったかも。  
 あっ、でもバストは増えたのよ、って何言わせんのよこの馬鹿ぁ!」  
 
 ハルヒの額が俺の顎にぶつかった。いくらなんでも頭突きはねぇだろ、などとのんびりしたことを考えながら、俺は関節が外れたんじゃないかと思うほどの衝撃を受けた顎関節を手でさすった。  
 いや、マジで痛いなこれ。  
 
「明日までにはその馬鹿みたいにのぼせた頭を冷やしときなさい!! 冷えてなかったら、あたしが氷水に突っ込んであげるから!」  
 俺が痛む顎を抑えていると、ハルヒは横をするりとすり抜けて、扉のほうへ向かっていった。  
 その後姿が目に飛び込んでくる。確かに、ウェストも細い。しかし、ヒップはさほど盛り上がっておらず、スレンダーというか、やや中性的な感じにも見えた。  
 肉付きはよくないが、引き絞った弓のように力強さを感じる細い腿も、長くすらりと伸びた両足も、悔しいとかわけわかんねぇこと考えちまうくらい綺麗だった。  
「おい、どこ行くんだよ」  
「帰るのよっ!!」  
 振り返りざま、俺に怒声を放ったハルヒは、部室に硬い残響を残して去っていった。  
 
 
「なんだってんだあいつ」  
「キョンくん、そんなに涼宮さんのことを……」  
 振り返ると、俯いて肩を震わせている天使の姿が目に入った。誰だよ俺の天使にこんな顔をさせた悪党は。  
「あたしも帰りますね」  
 そう言って、朝比奈さんが衣装かけに近づいていく。うーん、朝比奈さんの肉付きのいい体もやはり魅力的だ。  
 まだ幼い気もするが、これがいずれ朝比奈さん(大)のような肉付きのいい大人の女性になるのだから、人の成長というのは恐ろしい。  
 黙ってその後姿を見ていると、古泉が近寄ってきて俺の肩を叩いた。  
 
「出ましょう」  
「ああ?」  
「女性の着替えをまじまじと見るものではありませんよ」   
 気持ち悪い笑みで俺にそう言った古泉が、さもおかしそうに肩を竦めた。  
 
 
 廊下の窓を開け放ち、体を乗り出しながら、暖かい風に溜め息を乗せてやった。  
「おい古泉、あれだけ言えばハルヒも満足だろ」  
「だと良いのですが、さてどうでしょう」  
 頭が痛くなってきた。多分、もう二度と口にするようなことが無いことを、あいつに向かって言ったと思う。  
 どうせ言うのなら、朝比奈さんに向かって言いたいものだが、俺にそんな度胸なんてものは無い。  
 
「これだけ言っても、まだ何の変化も無いぞ」  
「まぁ焦らないことです。今はこれで十分でしょう。明日にでもまたお願いします」  
 今度は胃が痛み出したぜ。明日には多分心臓が痛むね。  
「それとも、そのまま人の服が透けて見える人生を送りますか? 悪いものではないでしょう。さきほども、あなたには女性陣の裸が見えていたというのですから、いやはや羨ましいですね」  
 春の陽気ほどの軽さで古泉がそんなことを言う。まったく実感のこもってない、完全に他人事だと思ってる言い草だ。  
 やっぱりこいつに話したのは間違いだっただろうか。  
 なまじ、服が透けて見えるということを知っているだけに、こいつの前じゃロクに人のことを見たりできないだろう。  
   
「安心してください。僕はあなたが誰をどのように見ようとも、気にしたりしませんし、それについてどうとも思いませんから」  
 俺の考えを見抜いたかのように、古泉がそんなことを言った。  
 しかし、朝比奈さんが目の前で着替えをはじめようとしてても判らないというのも困り者だ。  
 そもそも俺たちがいるのに着替えをおっぱじめないでいただきたい。古泉に朝比奈さんの柔肌を見せるのには抵抗があった。  
 別に朝比奈さんは俺のものでもないのだから、そんなことを思うのはおかしいのだろうが。  
 
 
 
 やがて、部室から出てきた朝比奈さんが、俺たちに向かってぺこりと頭を下げて去っていった。  
 俯いて顔を翳らせたその姿があまりにも胸を締め付けたので、思わず何か話しかけようと思った時。  
「やっぱりあの時、もっと強引にでも……」  
 などとぶつぶつ独り言を喋っていて、話しかける気力が散ってしまった。  
 
 俺は後姿を見送ることも出来ず、再び外の陽気の中に陰気な溜め息をこぼす。  
「さて、僕も帰るとします」  
 古泉は足元に放り投げていた鞄をひょいと背負うと、何処の芸人かと思うくらい気障な仕草で手を振って去っていった。  
 
 あいつ、自分の服が透けて見えるかもしれないということを知っていながら、なんであんなに堂々としていられるかな。  
 お前の無駄な度胸を少しは分けてほしいものだ。  
 
 再び深く息を吐き出す。軽く頭を振って、深く窓枠に体重を預けた。  
 アルミサッシに食い込んだ手が少し痛い。  
 
「勘弁してくれよ……」  
 誰に聞こえるわけでもない、独り言が穏やかな風に乗って流されていく。  
 明日も俺は同じようなことを繰り返さないといけないのだろうか。そもそも、治る見込みがあるのだろうか。  
 シャミセンが普通の猫に戻ったように、俺も元の目を取り戻せるのだろうか。  
 
 ぐるぐると頭の中を巡った疑問は春の陽気にも溶けず、わだかまって体に圧し掛かってきた。  
 帰ろう。もう今は何も考える余裕が無い。  
 
 部室の中に置きっぱなしにした鞄と眼鏡を取りにいくため、俺は部室のドアを開けた。  
 いつもと変わらない部室の中で、ひとつだけ違うものが目に入った。  
 
「長門……」  
 ずっと忘れていたが、おそらく長門は部室の中で本を読んでいたんだろう。  
 長門は俺が普段座っている椅子の傍にぼうっと佇んでいた。  
 
「ど、どうしたんだ長門?」  
 俺は慌てて目を背けながら、長門にそう尋ねた。女としての長門の体は、まだ発展途上と言わざるをえない。  
 ちらっと見た限りでも、体つきは高校生というよりは中学生のようだった。  
 
 今頃になって、俺は罪の意識のようなものに囚われていた。俺は、長門の裸だけは見たくなかったのだ。  
 別に魅力が無いからというわけではなく、今まで何度も世話になり助けてもらった長門に対して不誠実な行為を働くことが許せなかった。  
 さらに長門自体が純粋に思えたからかもしれない。新雪を踏みにじるような野暮な真似はしたくない。  
 
 
 
「あなたは今、他人の服が透けて見えるという状況に陥っている」  
 長門の口から発せられたのは、驚くべき言葉だった。  
「……なんで知ってるんだ」  
 まさか廊下で古泉と話しているのを聞かれたのだろうか。こいつの聴力がどれほどのものか知らないが、長門なら可能なように思えた。  
 
「それにだな長門。それが解ってるのなら、俺の前に姿を現さないでくれ。お前の裸は見たくないんだ」  
「………………」  
 そっぽを向いたまま、俺はそれだけ言った。  
 
「あなたにその能力を施したのはわたし」  
「はぁっ?!」  
 思わず首がごきっと鳴るほどの勢いで長門のほうへ視線を移した。相変わらずの無表情だ。  
 
「ちょっとまて、どういうことだ?」  
「あなたの眼球から人の肌のみに反射する電磁波を発し、反射した情報を通常の視覚情報に再現するプログラムを注入した」  
「よくわからんが、それのせいで服が透けて見える、というのか」  
「そう」  
 
 俺は天を仰いだ。つっても天井しか見えねぇ。  
 えーと、どういうことだ。長門が俺に服が透けて見えるような能力を授けたというわけか。  
 何故だ? ホワイ? そんなことをすることに何か意味があるのか?  
 
 俺は命乞いをする兵士のように声を震わせながら訊ねた。  
「な、なぁ長門。そりゃ一体、なんのためだ」  
「4センチ」  
「はぁ?」  
「わたしの胸囲が4センチ上がった。これは驚異的」  
「だから何だよ、ギャグのつもりか?」  
「…………4センチものサイズアップ。もはやCカップ」  
「いや、だからそれがどうしたんだ。まぁ喜ばしいことだとは思うが」  
「………………」  
 そこで黙るなよ。  
 
「なぁ、まさかそれを俺に見てほしいがために、俺にこんなわけのわからん力を与えたとかいうんじゃないだろうな」  
「そう」  
 即答しましたよ長門さん。  
 
「一週間ほど前、以前から行っていた情報統合思念体へ対して行っていた申請の許可が下りた。それが胸の大きさを変えること」  
「……そ、そうか」  
「一秒に約480回近い申請を二日ほど続けて、ようやく」  
「それは嫌がらせとか脅迫と言わないのか?」  
 一秒に480回て。長門の親玉も大変だな。  
 
「交渉の結果、ようやく落ち着いたのがこのサイズ。しかし、あなたを含め誰も気づくことはなかった」  
「そりゃ、人の胸をじろじろ見たりしないだろ普通」  
「あなたはいつも朝比奈みくるの胸元を見ている」  
 すいません、見てます。でもじろじろじゃないからな、ちらっと見るだけだからな。  
 
「で、業を煮やした長門は、俺にこんな能力を与え、自分の胸が大きくなっていることを知って欲しかった、と」  
「そう」  
 女を殴りたいと思ったのは生まれて初めてだ、なんてのは嘘ぴょんで、俺は全身から力が抜けてしまっていた。  
 がくりと膝をついてくず折れる。両手を床につき、逆転のチャンスで併殺打を放った打者のようにうな垂れる。こいつは グレートにまいったぜ。  
 
 
 つまりなんだよ、俺がハルヒの仕業だと思ってたこの怪現象は長門によるもので、ハルヒは一切関係なかった。  
 勘違いした俺はハルヒの機嫌を取るために、綺麗だのなんだのと歯が水素原子よりも軽くなるようなことをほざきまくったと。  
 今更ながら、ハルヒに言ったセリフが思い出される。  
 
 そういえば古泉が言ってたな。最近ハルヒに不安定な要素は無いとかなんとか。  
 まさかあいつ、ハルヒの仕業じゃないと知ってたんじゃないだろうな。いやまさかそんなことは無いだろう。  
 
 
「と、とりあえずだ長門。お前の胸が大きくなったのはいいことだ、おめでとう。だからさっさと治してくれ」  
 それだけが私の望みです。もう嫌だこんなの。  
「わかった」  
 長門がぺたぺたと足音を立てながら、近づいてくる。白い素足が見えて、俺はいつぞや朝倉に襲われた時のことをなんとなく思い出していた。  
 立って、と短い声がして、俺はようやく立ち上がるだけの気力を振り絞る。  
 裸を見ないよう、俺は固く目を閉じながら、祈りを捧げるかのように軽く上を向く。  
 
 そっと、俺の手が長門にとられた。やっぱり噛むのか。っていうか、いつの間にこいつは俺の体にそのプログラムだかなんだかを施したというのだろう。  
 寝て起きたらだから、寝てる間か?  
 
 ふと、俺は何かがおかしいのに気づいた。なんだっけ、何かが違ったような気がした。  
 たいしたことではないのだろう。俺はそう思い、長門が行う甘噛みを受け入れようとした。  
 
 
 ふにょん。  
 
 手のひらが何か柔らかいものに触れた。いや、想像はついてるけどさ。  
 俺は目を開け、長門の体を見下ろした。相変わらずの無表情で、長門は何度か俺の手を胸に押し付けて、その弾力をあますところなく伝えてきた。  
 
「何をしてるんだ長門」  
「4センチ」  
 嬉しそうに見えるのは気のせいじゃないだろう。無表情ではあるが、いつもより瞳が輝いているような気がする。  
「いやだから、そうじゃなくてまず俺の体を元に戻してほしいんだが」  
 
 
 なんでこう、予想の斜め上を行くというかギリギリ崖の上を行くというか、意味不明な事態に巻き込まれなければいけないのか。  
 今まで、まさかという坂をまッ逆さまに転がり落ちては来たが、ここでこんな障害にブチ当たろうとは、誰が予想できるというのだろう。  
 長門の胸に手を置きながら、俺は深い溜め息を吐こうとした。  
 その時、今まさに浮かびかけた疑問が氷解した。俺は、長門の胸に、肌に直接触れている。  
 さっきも長門の足音は、裸足で歩いたような音だった。靴を履いていないから、浮いて見えもしなかった。  
 つまり長門は今、裸でいるってことか?  
 
 そこまで考えが追いついた時だった。  
 勢いよく部室の扉が開く。こんな勢いよくこの扉を開けるヤツなんて、この世に一人しかいない。  
 
「わわわ忘れ物〜って何やっとんじゃーっ!」  
 後頭に物凄い衝撃が走って、俺は前のめりに倒れこんだ。その拍子に長門の体を押し倒してしまう。このままじゃ長門の体が床と激突しそうだったので、咄嗟に抱き締めるように長門の背に手を回した。  
 
「このエロキョン!! 何やってんのよ! 有希に何したの? なんで有希は裸なのよ!!」  
 ちょっと待てハルヒ。お前が蹴ったと思しき俺の頭が非常に痛いんだ。もうちょっと待て。  
 などという願いも虚しく、首元を掴まれたと思うと一瞬のうちに引っ張り上げられた。  
 
「説明しなさいキョン。あんた有希を強姦しようとしてたんじゃないの」  
「強姦っ?!」  
 小市民でチキンな俺に、そんな真似ができるかよ! 女の裸ってだけですでにドキドキしてまともに見れやしないへたれだぜ。  
 大体、度胸があったとしても俺はそんなこと絶対にしない!   
 
 ハルヒは俺のネクタイを掴みあげ、額どうしがぶつかりかねない距離で俺を睨みつけた。  
「ち、違うぞハルヒ。誤解だ! まったくの誤解だ」  
「何がよ?! あんた、あたしに散々あんなこと言っといて、今度は有希を襲おうとしたの? 最悪、最低、クズだわ」  
「違うっ! 俺が好きなのはお前だけだ! そんなことはしない」  
「はぁっ?!」  
「ハァッ?」  
 何言ってんだ俺。ちょっと待て、今のなし、タンマ。俺はなんて口走ったんだよ。  
 
 
「ふ、ふーん、そうなんだ。へー、キョンがねぇ」  
 何故かにやにやしながら俺の顔を見下ろすハルヒ。  
「違う、今のは口が滑ったんだ。今の無し」  
「口が滑ったってことは、本音ってことでしょ。へー、そうだったんだ。まぁキョンもあたしの美貌に惹かれたってことね。でも残念だけど、あたしはそんなに安い女じゃないの。あんたがそれなりに服従の意思を示すなら考えてあげないこともないわ」  
 
 何勝手に勘違いしてやがるんだ。今のはあれだ、さっきまで綺麗だのなんだの言いまくってて俺の頭が馬鹿になったから出てきただけの言葉で、まったく意味は無い。  
   
 
 
「なるほど、謎は解けたわ」  
 なんのだよ。つーかどこに謎があった。  
 
「有希、ついに牙を剥いたのね!」  
 俺の首元を押しのけると、長門をビシッと指差した。  
 ハルヒもついに頭が馬鹿になったのか。いや前からそうだったかもしれないが、一体何がしたい。  
 
「なんか変だと思ったのよね。キョンが無理やり服を脱がせたのなら、服が散乱しててもおかしくない。けど、有希の服はテーブルの上にきちんと畳んで置いてある。つまり、自分で脱いで、その体でキョンを誘惑しようとしたということ」  
 得意気に胸を張って、ハルヒはそんなことを言い放った。確かに、長門の制服一式は、丸テーブルの上に、まるで商品のように畳んで重ねてある。  
 っていうかハルヒ、お前それに気づいててなんで俺の頭を蹴り飛ばす。  
 
「でも残念だったわね有希。キョンはあたしにぞっこんなんだって。もうあたし無しじゃ生きられない愚かな男なのよ。あたししか愛せないのよ」  
「いや全然そんなことはないぞ」  
 そこまで言ってないし。  
 
「落ち着けハルヒ。そうじゃない、ただ長門はだな、あれだ、その、胸が大きくなったんでそれを知ってほしかったらしいんだ」  
「だったら服を脱ぐ必要なんかないじゃない」  
 ごもっともだ。  
「どうせ、キョンがあたしを愛してることが判明して焦って色仕掛けに走ったのよ」  
「いや、だからお前はもう黙ってろ」  
 そんなことはどうでもいい。俺はさっさとこの目を治してもらわないと困る。  
 
「とりあえず長門、服を着よう、話は後で聞くから」  
「ちょっとキョン!」  
 俺はハルヒの手を取ると、部室の外へ出た。ハルヒが俺の手を振り払うと同時に、扉が久しぶりといった様子で静かに閉じる。  
 
 
「なんだってんだ一体……」  
 服が透けて見えるようになったのは長門の仕業で、勘違いした俺はハルヒを口説くかのようなセリフを発しまくり、挙句の果てに好きだとかいう俺の心の中には1ミリたりとも存在していないものを出してしまったと。  
   
 そもそも長門は何故こんな真似をした。胸が大きくなったとか言ってたな。そりゃよかったな、おめでとう。だが、それを俺に見せる必要はないだろう。  
 しかも人の服が透けて見えるようにしてまでだ。  
 
「キョン、あんた有希に何したの」  
「何もしてねぇよ!」  
「嘘ね。あたしが部屋に入った時、有希のおっぱい揉んでたじゃない」  
「も、揉んでねぇよ」  
 窓の外に視線を移したままそう言うと、ハルヒが俺の襟を掴んで自分のほうへ体を向きなおさせる。  
 まだ服が透けて見えるんだ。頼むからそういうことをしないでくれ。  
 
「こらっ! ちゃんとあたしの目を見て話なさい。目が泳いでるってことは、やましいことしたってことでしょ!」  
「違う。俺は別に……」  
 説明しようにも、何を言えばいいのか。たとえ本当のことを言ったところで、信用されないだろう。いや、服が透けて見えるということを信じてもらったところで、俺にとってそれが喜ばしいわけではない。  
 
「だから……、あれだ。長門はこの頃、スタイルがよくなったらしい。俺がハルヒのことばかり褒めていたから、自分の体も見てもらおうと思ったんじゃないのか?」  
「……なにそれ?」  
 知らんがな。  
 怪訝そうに眉をしかめたハルヒ。  
 
「ふぅん。有希ってば貧乳キャラだと思ってたのに、大きくなってたんだ。そんなの許されることじゃないわ」  
 人を勝手に乳の小さいキャラ設定にするなよ。普通は成長するもんだろう。あいつの場合はどうか知らんが。  
「で、その乳で誘惑されて揉んだっていうわけね」  
「だから、揉んでねぇよ」  
 ちょっと触れただけだ。とはいえ、柔らかかったな。手の平に、ちゃんと乳首が当たってるのもよくわかったし。  
 そのまま指に力を入れて形を変えてみたかった。  
 
 などとぼんやり考えていると、ハルヒがじと目で俺を睨んでいた。緩んだ表情を引き締めなおす。  
「へー、そう。有希のおっぱいのこと思い出してたんだ。へー」  
 しっかりバレてた。  
「こんなのがそんなにいいわけ?」  
 ハルヒは自分の乳を下から持ち上げて、その形をあらわにした。長門よりも大きく、形の整った胸が強調される。  
 こいつ、かなりでかいじゃないか……。わずかに透けた血管が青白い。少し小さいだろうかと思える乳輪と、ブラに押されているのかへこんだ乳首。  
 ぬぅ、たまらん。  
 
「間抜け面」  
「わ、悪かったな間抜け面で」  
 ハルヒは服が透けて見えてるだなんてことを知らない。知られたら困るんだが……。それにしても、本当にいい体をしている。  
 美容に気を遣ってるようには見えないんだが、本人はかなり努力していたりするんだろうか。いやでも、夏には日差しを気にせずに遊んで日焼けしてたりしたよなぁ。  
 
「ねぇキョン」  
 なんだよ。  
「触ってみる?」  
「……はぁ?」  
「か、勘違いしないでよね!! ちょっとだけよ! あたしも、有希みたいな貧乳キャラに乳で負けたとあっては黙ってられないわ」  
 いやいや、負けっぱなしで結構。  
「いいから触りなさいよ! あたしのこと、好きなんでしょ! 触らせてあげるって言ってるんだから大人しく言うこと聞いてればいいのよ」  
 それは誤解だ。俺はお前のことなど、どうとも思ってはいない。ああ、そうだとも。  
 ハルヒは顔を真っ赤にして、怒っているのか泣いているのかよくわからない形に眉を怒らせていた。  
   
 業を煮やしたのか、ハルヒが俺の手をぐいっと掴むと、そのまま自分の乳へと持っていった。  
「うおっ!」  
 服ごしだったが、その大きさは十分手に伝わってきた。  
 
 ばたん、と気味の良い音がして、長門が部室から出てくる。裸だが、おそらく服を着ているんだろう。  
 肩に鞄を提げたいつもの下校スタイルだ。  
 気のせいかもしれんが、長門が俺を睨んでいる。いや、気のせいじゃないよな。その黒い瞳から冷たい風でも吹き出してるんじゃないかと思うほど、俺の肌を粟立たせている。  
 
「あら、有希じゃない」  
 暢気にハルヒがそんなことを言う。乳に置いたままだった手を、俺は無理やり引き剥がして体の後ろへ持っていった。  
「…………」  
 無言で俺を睨み続ける長門。俺が何をしたというんだ。  
「ねぇ有希、あんた胸大きくなったんだって? ごめんね、元が小さいから全然わからなかったわ」  
 なんてことを言うんだこいつは。人の体のことをとやかく言うもんじゃないだろう。  
 何か注意しようと言葉を捜していると、  
 
「残念だったわね有希、あんたも少し大きくなったのかもしれないけど、あたしもここ最近大きくなって、もうほんと参っちゃうわ」  
 全然参ってない口調でハルヒが胸を逸らす。うむ、確かにでかいよな。って、そんなことを考えてる場合じゃねぇよ。  
 ふと長門を見ると、冷たい視線どころか体からどす黒いオーラのようなものが出ているような気がした。  
 あれは憎しみで人が殺せたらなぁ、とか考えてる人のオーラだ。  
 
「ハルヒ、お前なぁ、女は胸の大きさじゃないだろう。そんなもん、どうだっていいんだよ。長門は長門で、その、なんだ……、頼りになるやつじゃないか。ああ、大切な仲間だろう」  
「へぇ、その仲間がなんであんたに裸で迫るのよ」  
「そんなもんは知らん。長門に訊いてくれ」  
「なんでなの有希?」  
「…………」  
 質問を受けた有希は無言で、ただ黙って俺の目を見ていた。なぜ俺を見るんだ長門。こんな顔見たって面白くもなんともないぞ。  
 
 
「とくかくだ、ハルヒ。お前はもう帰れ。俺は長門と話があるんだ」  
「はぁっ? 何言ってんのよ! なに、女なら誰でもいいってことなのキョン?」  
 俺の胸座を掴むと、ハルヒは怒声を張り上げた。いちいち俺の服を掴まないでくれ。この勢いじゃ卒業前に制服がボロボロになる。  
 怒りで顔を強張らせていたハルヒだったが、ふぅと溜め息のようなものをついて、俺の服を放した。じと目で俺を睨み、まるで詐欺師が目の前に現れたかのような反応をしている。  
 
 
「大丈夫だ、やましいことは何も無い」  
「本当かしら? あんたみたいなケダモノ、何するかわかったものじゃないわ」  
「大丈夫だって言ってるだろ? それにすぐに済む」  
 噛んでもらうだけだからな。  
「わかったわ。まぁ勝手にすれば? ただ、あたしの中の好感度が10ポイントは下がるわね。あたしを手に入れるのに多少遠回りになるかもしれないわよ」  
「あーもう、わかったわかった。そんなもんどうでもいいから。長門、こっち来てくれ」  
「ちょ、このバカキョン!」  
 
 俺はさっきから置物状態になっていた長門の手を引くと、廊下を走り出した。多少引っ張ったところで、長門は転ぶまい。  
 部室棟の非常口を出て、階段を下る。旧館と校舎を繋ぐ渡り廊下ばかり利用していたので、こっち側に出るのはよく考えれば初めてだ。  
 階段を下りたところで、さっと辺りを見渡す。さっきまであった騒ぎが嘘のように静かで、ついでに言えばどこからも見られることのないスポットでもあった。  
 
 ずっと長門の手を掴んだままだったので、ゆっくりと手を放す。  
「なぁ長門、とりあえず、胸が大きくなっておめでとう。よかったな。それはそれでいいとして、俺のこの状態をなんとかしてくれないか?」  
「わかった」  
 等身大フィギアがいきなり喋りだしたかのように、長門がそれだけ言って、再び俺の手を取った。  
 また胸に手を持ってくなんてことしないでくれよ。俺はまた目を閉じて長門の行為に身を委ねる。  
 
 前腕の産毛に、長門の吐息が軽く触れてくすぐったい。暖かい息がぶつかるのを感じてからすぐに、軽く歯が俺の肌を押し込んだ。  
 俺の瞼が無意味に痙攣している。  
 
「終わったか?」  
 うっすらと目を開けながら、俺は長門に問いかけた。どうやら成功だったらしい。  
 俺の目にはちゃんと長門の制服が見えたのだから。たった半日の間見なかっただけで、随分と新鮮に見えるな。  
 
「ふぅ……。ようやく元通りだぜ」  
 噛まれた右腕をさすりながら、俺は安堵の息を漏らした。さっきまで溜め息ばかりだったからな。  
 
 
 
 やれやれだ。  
 朝起きていきなり人の服が透けて見えるだなんていう、洒落にならん状況に陥ったものの、なんとか元通り。  
 つっても、全部長門の仕業で、俺は振り回されただけだが。  
 
「長門、もうこんなことしないでくれよな。胸が大きくなったんなら、直接言ってくれりゃいいし」  
「…………」  
 無言で俺を見つめながら、長門はほんの数ccの息を吐いた。ちゃんとわかってるんだろうな長門。頼むぜ本当。  
 
「それに、別に胸なんて小さくたっていいじゃないか。大きければいいってもんでもないぞ」  
 長門の肩を軽く叩いてそう言うと、俺は部室に置きっぱなしの鞄を取りに行くため、もう一度階段に足をかけた。  
 
「長門はどうするんだ?」  
「……帰る」  
「そうか、じゃあな」  
 
 片手を挙げて、俺は階段を駆け足で昇った。心なしか体が軽いぜ。  
 この春の陽気がようやく俺を祝福してくれているようだ。つっても、単に元通りになっただけの話で、何か良いことがあったというわけじゃないんだが。  
   
 
「随分機嫌よさそうにしてるじゃない。何があったの?」  
 スキップ混じりの軽い足取りと、自然と溢れた鼻歌を引っさげて部室に戻ってくると、ハルヒが俺を睨んでいた。  
 俺がいつも座っている椅子に腰掛けて足を組み、偉そうな態度でふんぞりかえっている。  
「なに、って……。お前には関係ねぇよ」  
「ふーん……。へーえ……。どうせ、有希に告白でもされて浮かれてるんでしょ」  
「はぁ?! んなわけねぇだろ」  
「しらばっくれても無駄なんだからね! それ以外考えられないじゃない」  
 俺は机の上に放り出されていた眼鏡をケースに収め、鞄の中に突っ込んだ。  
   
「で、有希と付き合うとか言うんじゃないでしょうね?」  
「お前が何を想像してるのか知らんが、そんな色っぽい話はまったく無い」  
「本当かしら? あんたのことだから、どうせこれ幸いとばかりに有希とくっついたりしそうだけど」  
「だから、俺は長門とくっついてもないし、くっつくつもりもないっつの」  
「ほんとに?」  
「当たり前だろ」  
 今日はもう疲れた。さっさと家に帰ってごろごろしよう。いつまでもハルヒに構ってなんかいられない。  
 これ以上追求されても、本当のことを言えるわけもないし、言ったところで信じてはもらえないし、信じられてもそれはそれで大問題だ。  
 
「ね、ねぇキョン……」   
「なんだよ」  
 ハルヒは唇をもごもごと動かしたかと思うと、ごくりと唾を飲んだ。細い首筋の動きが、妙に色っぽく見えてしまう。  
「あ、あんたさ……。さっき……、あたしのこと」  
 なんなんだ一体。言いたいことがあるなら、いつものようにはっきり言いやがれ。  
 
「そ、そうだわ! あんた、実は巨乳フェチなのね!」  
 突然立ち上がったかと思うと、ハルヒは俺を指さしてそんなことを言い放った。おいおい、誰が巨乳フェチだ。と、いうか大きなおっぱいは男なら誰だって大好物だろ。  
「そりゃ、大きければいいかもしれんが、そんなもんどうだっていいだろ。人間、大切なのは中身だ」  
 お前は中身は壊滅的だがな。なんていう言葉を声帯の下へ無理やり押し込んで留めた。  
 
 
 
 翌日の朝、昨日に続き爽快に晴れ渡ったまるで宇宙の神秘が降り注いでいるかのような透き通る青空の下を俺はのんびりと歩いていた。何が言いたいんだかよくわからん。  
 この上り坂、いつもよりちょっと緩くなったんじゃないか。そんなことを考えてしまうほど足取りは軽かった。  
 朝の静かで冷たい空気を鼻腔からいっぱいに吸い込むと、実に爽快な気分になれる。朝起きて、今度は人の骨が見えたりしたらどうしようなどと考えていたが、そんな事態には陥らなかった。  
 
 いつもより早めに出たおかげで、ゆっくりとした気持ちで坂を登ることができる。そうやって歩いていると、見知った後姿に気づいた。  
「おはよう長門。お前、来るの早いんだな」  
 全国爽やかグランプリがあったら古泉について入賞できそうなスマイルで、俺は長門の肩を叩いてその横顔を覗き込んだ。  
「…………」  
 土砂降りの雨と雷。そんなイメージが何故か俺の脳裏をよぎった。長門はいつもと同じ無表情だ。だが、こいつとの付き合いも長い俺にとって、その無表情の中に嵐のような激しさをだな、  
 
「ど、どうしたんだ長門。なんか機嫌悪そうに見えるけど」  
「……そんなことはない」  
 いや嘘だろ。いつもより瞳が冷たく見えるぜ。もしかして、昨日のことで何か引きずってるのだろうか。  
 もしかすると、長門は俺に胸が大きくなったことを、俺自身で気づいて褒めてほしかったのだろうか。  
 
「そ、そうだ長門。お前、その、あれだ。胸、大きくなってるよな。うん、前と比べてだいぶ大きくなってると思うぞ。俺にはわかる」  
 制服の生地を心なしわずかに押し上げている胸元を見て、俺はそう言った。こういうささやかな歩み寄りが、異文化コミュニケーションとかいうヤツなんだろう。  
   
「……昨夜、情報統合思念体からの処分が下された。特別な理由もなく現地の住民に対してわたしが能力を使ったことに対して」  
 現地の住民て、俺のことか。嫌な響きだな。それより、処分ってなんだよ。  
「わたしの胸のサイズを元に戻された。そして、これ以降外観に関する申請を無条件で却下するというもの」  
「へ、へぇ……」  
「つまり、わたしの胸は以前と同じサイズ。大きくなっていない」  
 ささやかに歩み寄った第一歩は地雷だったらしい。長門は足を早めて、すたすたと歩き去っていく。  
 その背中に、俺は鬼を見たような気がした。気のせいであってほしい。  
 
「ちょ、ちょっと待てよ長門。いや、今のはだな」  
「……」  
「それに、昨日も言ったけど、人間大事なのは中身だって。長門は今まで何度も俺を助けてくれたし、凄い感謝してる。そう、人間中身だって」  
 あれ? これを言ったのはハルヒに対してだったかな。  
「わたしは人間ではない」  
「いや、それは物の例えであって……」  
 どうやら怒っていらっしゃるようだ。無表情だからわかりづらいけれど。  
 
 とにかく、長門の機嫌が悪いっていうのは具合が悪い。今まで、何度となく俺の命を救ってくれた恩人であり、部活の仲間だ。  
 俺の言葉で気分を悪くさせてしまったのなら、それは問題がある。  
 
「な、なぁ長門」  
 校門をくぐった長門に、俺はやや小走りで追いついた。  
「ずっと前から思ってたんだけどさ……」  
 聞いてくれているかどうかはわからんが。  
「お前って、かわいいよな。髪も綺麗だし、顔だって凄くかわいいと思うぞ。お前のファンだって沢山いるらしいし、ほんと、俺もお前のファン一号になりたいくらいだぜ」  
 
 昨日もそうだったが、俺は人を褒めたりするのが苦手らしい。何を言ってるのかわからん上に、浮ついている。こんな言葉が出てくる時点でもはやどうかしてるとしか思えない。  
 多分、昨日ハルヒに意味不明なことを言いまくった影響だろう。  
「とにかくだ。俺は、お前と会った時からかわいいなぁ、と思っていたわけでだな」  
 最初は無口で変なヤツだと思っていたような気もするが……。  
 
 適当に話し続けたが、長門はすたすたと変わらず歩いている。もう昇降口まで辿り着こうとしていた。  
 まだ足りないというのか。妹なら食い物で機嫌を直してくれるが、長門なら何で買収すればいい?  
 長門といえば本。本といえば長門だ。  
 
「そ、そうだ。最近暇だし、これから春休みだろ? なんか本読みたいんだけど、お薦めがあれば教えてくれないか?」  
 長門がぴたりと止まった。危うく後ろから追突しそうになってしまう。ガス欠を起こした車でももっとゆっくり止まるぞ。  
 しかし、今のは脈があったんだろうか。  
 
「図書館に、お薦めの本がある」  
 振り返った長門が、いつもの無表情でそう言った。よかった、多少は機嫌が直ったらしい。  
「そうなのか。タイトル教えてくれよ。俺でも読めるようなヤツならいいんだが」  
「……図書館の中でも、入り組んだ場所にある。探すのは困難」  
 入り組んだ図書館ってのはどんなのだ。ハリーポッターじゃないんだから。大体、検索機能があるからタイトルがわかれば探せるだろうに。  
 
「ちょうど、次の日曜日がわたしが今借りている本の返却期限……」  
「ん? それがどうかしたのか?」  
 そう言った時だった。ぽん、と誰かに肩を叩かれた。  
 誰だよ、と振り返った途端、頬に指が突き刺さる。ああ、見事なまでに引っ掛かったぜ。こんなの引っ掛かるのは実に久しぶりだ。  
 
「なにすんだよハルヒ」  
 ハルヒにしては、随分と早い登校だ。  
「あら、こんなのに引っ掛かるなんて馬鹿じゃないの。あんたが馬鹿なのは知ってるけどさ」  
 俺の肩に置いていた手をおろして、自分の首筋にかかった髪を払う。実はその仕草が結構好きだなんてことは口が裂けても言えない。  
「余計なお世話だ」  
 朝っぱらから、人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべ、フフン、と鼻で笑ってやがる。  
 
「で、あんたはこんな朝早くから、有希になんのちょっかいかけてんの」  
「別に……、ちょっかいなんてかけてねぇよ。ただ、なんかお薦めの本があったら教えてくれって頼んでただけだ」  
「ふーん。そうね、あんたみたいな馬鹿でも、本を沢山読めば少しは賢くなれるかもね」  
 失礼な。こう見えても昔は随分本を読んでたんだぞ。  
 
「ああ、そういえばちらっと聞こえたんだけど。有希、次の日曜が本の返却日なんだって? ちょうど良かったわ。その日は団員のみんなで図書館探検に行くわよ」  
 図書館のどこを探検する気だ。  
「やっぱり、どっかの本を押したら秘密の扉が開くっていうのは基本よね」  
「市立図書館ごときにそんな大層な仕掛けは無い」  
「まぁいいわ」  
 何がだよ。  
「とにかく、次の日曜はみんなで図書館に行くわよ。あんたも、有希のお薦めだかなんだかを借りられるし、有希は本を返しにいけるし、みんなで楽しく探検できるし、良い事づくめね。はい、決まり」  
 ひとり納得して手を打つハルヒ。まぁ別に俺が困るようなことでもないし、それ自体は構わないけどな。  
 
「じゃ、詳しい時間とかはそのうち言うから。さて、キョン、さっさと教室に行くわよ」  
「あ、おいっ」  
 俺の手首を掴むと、俺とハルヒのクラスの下駄箱がある方向へと歩き出す。  
 
   
 とりあえず、長門の機嫌は直ったと思っていいんだろうか。そう思って、俺は振り返って長門の表情を見た。  
 見なきゃよかった。背後に黒い影が見えたぞ。  
 
 
 昼休み、メシを食い終えた後、部室棟と教室のある棟の間にある、意外と人の訪れない場所で古泉に眼鏡を返した  
 何を邪推したのかニヤニヤしてやがる古泉に、とりあえず意味不明な透視能力は無くなったと説明しておく。  
 長門が絡んでることは伏せておいたが……。  
 
「そうですか。それはよかったですね」  
 などと、バラエティ番組に出る美人枠のギャルより中身の無い言葉を吐いた古泉は、満足そうに頷いていた。  
 金輪際こんなのは勘弁してほしいぜ。そう思ってふと空を仰ぐ。  
 ん?  
「朝比奈さん?」  
 部室棟へ向かう渡り廊下を、朝比奈さんらしき生徒が駆けていた。その生徒はすぐに教室棟へ走り去ってしまったので、正確にはわからなかったけれど。  
 なにか部室に用事でもあったんだろうか。  
   
 
 
 
 
 
 放課後になって、鞄を肩にひっさげながら廊下を歩く。妙に天気がいいせいか、下校する生徒の声も心なしか明るく聞こえた。  
 渡り廊下を歩いて部室棟へ向かう途中、快晴の空が深く浮き上がっていて、そろそろ暖かくなりそうな気配が感じられる。  
 まぁどうせ、季節の神様の気紛れで寒くなったりを繰り返すうちに梅雨、って感じだろうけどな。ロマンスの神様はもう少し気が利いてることを祈るぜ。  
 
 陽気に誘われて、シャミセンがいつもするようにでかい欠伸をひとつして、何度か目を瞬いた。  
 部室のドアをノックして、朝比奈さんが着替えていないことを確認してから扉を開ける。  
 
「……」  
 
 なんだよ一体。  
 妙な違和感を感じて、俺は扉を開けたまま立ち止まった。部室の中では、いつものようにハルヒが団長机に座ってマウスを操作し、長門が本を読み、古泉はボードゲームを引っ張り出してきている。  
 朝比奈さんはナース服で、筒先の細長いヤカンに温度計を突っ込んでいた。ん? ナース服?  
 
 俺が入ってきても、誰も挨拶なしかよ。なんて思いながら席につくと、古泉が持っていたサイコロを手のひらで転がしながら、にやにやと笑っていやがる。  
 
「なんだよ……」  
「いえ、別に何も」  
 軽井沢みたいな軽い笑顔で、古泉はボードの準備を始めだした。誰もやるだなんて言ってないんだがね。  
 
 椅子に深くもたれると、ギシ、という経年劣化を如実に示す音が鳴った。その音に気づいたのか、朝比奈さんがちらりとこちらを見る。  
「あっ、キョンくん。来てたんですか」  
「ええ、今来たところで……す」  
 振り向いた朝比奈さんの胸元が、はちきれそうに盛り上がっていた。サイズが合ってないんじゃないのか?  
 そもそもあれはハルヒが勝手に注文したヤツだからな。それに朝比奈さんの身長ぐらいで、胸元がキツくない服ってのが無かったのかもしれない。  
 ほら、特殊な服だし。  
 
「朝比奈さん、今日はメイド服じゃないんですね」  
「はい、ちょっと汚れてきてたんでクリーニングに出すことにしたんですよ」  
「へぇ……」  
 120円を自販機に入れてボタンを押したのに、ジュースが出てこない。そんな時の、あれ? という感覚に襲われた。  
 ただ、入れた小銭がそのまま小銭受けに落ちたっていうだけの、単純な話なんだが、その単純さが何なのかがわからない。  
 
 かちゃかちゃと、慣れた手つきでお茶の用意をする朝比奈さん。  
 どうでもいいが、朝比奈さんはお尻もいい形をしている。キツめのジーンズを履いて階段を登ってるところを後ろから見たいものだ。  
 
 なんって、何回考えてもどうでもいいことを考えながら一息つくと、朝比奈さんがお茶を差し出してくる。  
「はい、熱いから気をつけてくださいね」  
「ありがとうございま……す」  
 ずいっと俺の横から体を乗り出してきた朝比奈さんの胸が、俺の左肩に触れる。ぐにっと、明らかな弾力が肩に伝わってきた。  
 ついでに、胸元をひょいと覗くと、大きく盛り上がった胸が、その、胸が……。って、明らかにサイズが合ってねぇ。  
 
「あ、どうもありがとうございます」  
「味わって飲んでね」  
 そんなことを言い残して、メイドさん改め看護婦さんはお盆を胸に抱えて去っていく。  
 ハルヒの趣味だったのかやたらとスカート丈が短くて、ついその姿を見送ってしまう。  
 
 
「いてっ!」  
 ぼんやりしていると、頭に衝撃を受けた。何か飛んできたのかと、飛んできた方を見ると、ハルヒが口をひん曲げて意地悪そうにこっちを睨んでいるじゃないか。  
 その手には消しゴム。どうやら、そいつを千切って投げたらしい。それにしては、妙に痛かったような。  
 
「何すんだよハルヒ」  
「あんたこそ何よ。みくるちゃんをエロい目で見てんじゃないわよ」  
 そう言って、性懲りもなく消しゴムのカスをを投げてくる。さすがのハルヒも、小さな消しゴムの切れ端を正確に投げることが出来ないのか、俺の頭上を越えて大きく外れた。  
 かと思った瞬間、そいつは落ちてきた。エアガンで撃たれたかのような鋭い痛みが走る。  
 
「い、いてぇなおい! 止めろっつってんだろ」  
 俺は椅子から立ち上がって、頭を押さえた。  
「何よ、消しゴムくらい当たったってどうってことはないわ」  
 そう言いながら、またひょいと投げてくる。今度こそ外れた。と、思ったのだが、横に逸れた消しゴムの切れ端は大きく軌道を変えて俺の額にブチ当たる。  
 
 正直、結構痛かったぞ今の。  
 
「だから、ハルヒ止めろって言ってるだろ馬鹿」  
「あんたこそ、いい加減みくるちゃんをエロい目で見るのを止めたら?」  
 そう言いながらまた投げてくる。今度は狙いもバッチリだったらしい、消しゴムの切れ端はあろうことか突然加速して、またしても額に直撃。  
 
 おかしい、消しゴムごときが当たってこんなに痛いわけがねぇ。っていうか加速したぞ今。  
 
 ちらりと長門のほうを見る。長門は本に視線を落としたまま、じっとしている。  
 だが、本を読んでいるようではなかった。視線は動かないし、何よりページをめくろうとしない。  
 
 不意に、またハルヒが消しゴムの切れ端を投げようとしていた。  
「ま、待てハルヒ!」  
 俺の言葉もむなしく、消しゴムのカケラが宙を舞う。と、同時に長門の口元が何やら高速でもごもごと動いた。  
 ずびしっ、と小気味の良すぎる音を立てて俺の額の中央にまたも何かが激突。  
 いや、痛いって地味に痛いぞ。  
 
「なに大袈裟に痛がってんのよ」  
「いや、そうじゃなくて」  
 俺の行動に苛立ったのか、ハルヒはわざわざ立ち上がる。  
 
「ちょ、ちょっと待て」  
 飛んでくる消しゴムのカケラを止めるべく、手をかざすが、するりとカケラが曲がって俺の額にぶつかった。  
「長門! お前も黙ってないでだな」  
「……」  
 くそっ、だんまりかよ! ってお前の力で消しゴムを加速させてるんだろ。  
 次の弾を用意しているハルヒに気づいて、俺は後ずさった。足元にあった鞄で防御すべく構えるが、長門の力の前では張りぼてにもならない。  
 弾は正確に俺の体を捉えて、服の上からでも痛みを感じるほど威力があった。  
 
 助け船を期待して古泉のほうを見たが、にやにやと笑っているだけ。朝比奈さんはというと、俺が痛がっているのが何故なのか理解できないのかきょとんとしている。  
 
 
 
 なんで俺がこんな目に遭うんだ。  
 結局、ハルヒの投げる消しゴムが尽きるまで痛みに耐えるしかなかった。  
 
 
 

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