「ねえキョンくん、お肉ばっかり食べてたら良くないと思うのね。お野菜も食べないと」
「ん………まあ分かってるけどな、この年頃だと肉が食べたくなるんだよ」
「あはは、キョンくんってなんだかワンちゃんみたいね」
「………褒め言葉じゃないよな、それ」
阪中はそんなこと無いよと言って笑っているが、しかし犬といわれて喜ぶ人は特殊な一部の人以外にはいないだろう。
………まあ、なんと言われても食べたいものは食べたいし、せっかく豪華な食材があるのだから食わなきゃ損である。
映画出演の縁で呼ばれた谷口も、俺を遥かに凌駕するスピードで皿の上のものを平らげていっているし、国木田だっていつもより箸の進みがいい気がする。
女性陣は俺たちがいる手前そんなにがっつくことは無いが(ハルヒ除く)、それでも楽しそうにおしゃべりをしながら、それと同じくらいの配分で箸を動かしていた。
―――ここはSOS団の部室、そして季節は春、別れと出会いの季節である。この度わが団は、一年間関わりを持った人々を一堂に集めて、感謝祭を開くことにしたのだ。
祭りとは言ってもそんな大層なものではなく、せいぜいこれまでの様々な事件の依頼者と協力者を数人集めただけの小さなものだ。
しかしそれでも、俺はこの会合を開く意味は大いにあったと思う。
例えばハルヒなんかは、クラスが変わってしまえば谷口や国木田なんかと話す機会は少なくなるだろうし、俺だって阪中と会うことも少なくなるだろう。
それならここでひとつドカンと縁を作って、その程度では他人になってしまわないようにしよう、というのがこの会の真の目的だ。多分。
「ねえ、キョン」
「あん?どうしたハルヒ」
こんなにみんなが楽しんでいるというのに、ハルヒはどこか納得いっていないような顔をしている。何かトラブルでもあったのだろうか………?
「最初に乾杯したでしょ?みんなでジュース持って、こう」
そう言って乾杯のポーズをとるハルヒ。で、それがどうかしたのか。
「実はあの時配ったコップの中、一つだけウイスキーが入ってたのよ。しかも割ってない。
本当は私が配って、そんでアンタのところに置く予定だったんだけど、先にみくるちゃんが配っちゃったじゃない?」
「あー、確かにそうだったかもな………ってお前また下らんことをやりやがって」
「それは置いておいて」
置いとくのかよ。
「その後みんな結構直ぐに飲み干してたでしょ?少なくとも今はみんな二杯目。
でも誰も潰れてない、どころか酔ってる素振りすら無いのよね………」
「………そんなことで悩んでたのか。アレだろ、大方鶴屋さんあたりが知らずに飲み干したんじゃないか?ほらあの人って強そうだろう」
「たしかににょろにょろ言ってるけど………ま、気にするだけ無駄かしらね」
呟いて、ハルヒはまた女性陣の輪の中に戻っていったのだった。
その後に聞いた話によれば、女性陣の中に酒を飲んだ覚えのある人はいなかったそうだ。
「それじゃあ今日はこれくらいで解散にしましょう。今後も私たちSOS団をよろしくねっ。何かあったらオトモダチ価格で解決してあげるから!」
タダじゃねえのかよという俺のツッコミは華麗に無視され、時刻も既に八時を刻み外も完全に暗くなった頃、ハルヒのその一言で学年末感謝祭はお開きとなった。
これだけの人数がいるのにもかかわらず食料が足りなくなるなんて事態は発生せず、というかむしろ足りすぎて俺なんかは腹十二分目になってしまっているのは、
ひとえに家の冷蔵庫からありったけのものを持ってきたという鶴屋さんのお陰だろう。
全員での片付けを終え、部室の施錠をし、学校から出て坂を下りきったところでみんなと別れた。
「しっかし………設立した時にはここまで大きくなるとは思わなかったな………」
とは言っても団員の数は全く変わっていないのだが、それにしても関わった人たちの人数はそれなりの数に上る。
年上だったり年下だったり、体育会系だったり生徒会だったり、敵だったり味方だったりと本当にバラエティに富んだ人たちである。
普通に生活していれば知り合うことも無かっただろうと思うと、SOS団に参加している意味もそれなりにあったのかとも思える。
こんなことを言っていると谷口あたりにからかわれそうだが。そんなことを考えていると家が近付いてきた。
………そういえば今日は親が家を空けているんだった。この時間だと妹は起きているかどうか微妙だな………なんとなしにポケットの中の鍵を探す………って、
「………おいおいおい………勘弁してくれよ………?」
右のポケット、左のポケット、胸、カバンの中。携帯にはさまれていないか、財布の中に紛れ込んでいないか。
考えうる全ての場所を探したが………
「無い………やばいなこりゃ」
そう呟いて俺は、今来た道を逆に歩き出した。
*
「食ってる時に一回触った記憶があるから………落としたとしたら部室か、それか帰り道か?」
できれば部室であって欲しい。この暗い中で鍵を探すのは大変だからな………先に部室を探してしまおう。
それで無かったら帰り道を徹底捜索だな………。
一時間前とは真逆のベクトルで急降下を続ける気持ちになんとかムチを入れながら暗い路地を歩いていると、前方に人影が見えた。
あれは………阪中か?なんか楽しそうに喋っているが相手は見えない。電話でもしているんだろうか。
「よう阪中、また会ったな。帰ったんじゃなかったのか?」
「あっ、キョンくんっ。あのね、途中で涼宮さんと会ったのね。で、楽しかったからこんな時間になっちゃったの」
色々と説明が足りていないような気がするが補完しながら理解すると、
つまり帰るために駅に向かう途中でハルヒと偶然また会って、そんで話が弾んで今に至るということらしい。
元々ハルヒとはウマが合う阪中の事だからそれは大して不思議ではないのだが、一番わからないのは、
「ええと阪中。そのハルヒはどこにいるんだ?」
話している相手のハルヒがどこにもいないという事だ。というか周りには俺たち以外は人一人見当たらない。
そこには電柱が一本あるだけだ。阪中はタレ目がちな目を少しだけ吊り上げて怒ったように言う。
「あのねキョンくん、目の前にいる人をいないなんていうのは失礼だと思うのね」
ねえ、と言って細長いコンクリの柱を俺に紹介してくる。アレだろうか、ハルヒは今「壁の中にいる!」なのだろうか。………じゃなくて。
「なあ、それ電柱なんだが」
「え〜?あはは、もしかしてお酒飲んだのってキョンくんだったのかな?ね、そんな状態で歩くとあぶないよ?」
お前だ。すごい、こんなベタな人は逆にすごい。
普段はおとなしめなのに妙にテンションが高い阪中、しかも電柱を知人だと言い張るなんてもう酔っ払い確定である。
見た目には変わりないものだから、あの時は気付けなかったのだろう。こうなったのもハルヒのせいって事か………。
このまま放っておいたら一晩中電柱と語り明かしてそうだし、それはそれで面白いと思うのだがさすがに危ないし、団長のミスは団員のミスでもある。
これは送っていかないといけないかもしれないな。
幸い阪中の家は例のお犬様の騒ぎの時に訪れたこともある―――というかあんなデカイ家忘れるわけが無い―――
ので、急遽予定を変更して、阪中を彼女のおうちに連れて行くことにしよう。
「ほら阪中、送ってってやるから早く帰ろう」
「え?………でもこんな時間に悪いし、涼宮さんもいるし………」
「ハルヒはさっき帰ったぞ。何か用事があるとかで。ほれ、後ろ見てみろ」
あれ?なんて言いながら後ろを振り返る阪中。
「あれ?ホントだ。ねえキョンくん、なにも言わずに帰っちゃうなんてひどいと思うのね」
どうやら今度はちゃんと電柱を電柱と認識できたらしい。なんとも都合のいい酔っ払い方だ。
「聞いてなかっただけだろ。時間のことなら俺は大丈夫だから。ほら、さっさと行くぞ」
「ううん、大丈夫よ、わたしはちゃんと帰れるから。見ててくれればわかると思うのね」
言って歩き出す、が。
「なあ、そっちは壁なんだが」
「あはは、そんなこと………きゃんっ」
もしかしたら朝比奈さんよりもそっちの才能があるのかもしれない。
その後も色々とごねる彼女を何とか説得して、家まで送ることを納得してもらったのだった。
*
その後は、あらぬ方向にどんどん歩いていく阪中をなんとか導きながら電車を乗り継ぎ、やっとの思いで目的地の豪邸にたどり着いた。
何度見ても、世の不条理とスタートラインの格差を思い知らされる家である。
今日はでかい駐車場には高級車が一台だけ置いてある。
確かお兄さんは医大生だったはずだし、父親に至っては会社の社長なのだから、帰りが遅くても不思議ではないか。
あの美人の母親だけでもいてくれれば酔っ払いの世話は事足りるだろう。
何故か後ろめたさを感じながら仰々しい門を押し開け、玄関に向かう。
「おい阪中、家に着いたぞ?鍵は………そういえば人がいても掛けてあるんだっけか」
鍵は持ってるよな?と聞くと阪中は緩慢な動作で、かわいらしい白のバッグから鍵の束を取り出した。
束からは白い犬のマスコットがぷらぷらと揺れている。
分かっていたことだがこいつ、相当の愛犬家だな………。
「………あれれ?開かない………。これ、どの鍵だったっけ………」
「おいおい、まさか………」
「えへへ、わすれちゃったみたいね」
みたいね、ってまるで人事みたいに………。
自宅の鍵がどれだったか忘れる人間がどこにいるというのか………と言いたいところだが、気持ちもわからないことは無い。
何故ならこの家、玄関に鍵を三つも付けているのである。
そりゃあ外から見てもこれだけ『金目の物が沢山ありますよ』オーラを放つ家なのだから、家の人が警戒するのも無理は無い。
阪中は総当りで鍵を開けようとするが、酔っているからかどうにも手元がおぼつかない。
「………分かった、開けるのは俺がやるから」
「ごめん………」
申し訳なさそうに縮こまる阪中に気にするなと言葉を掛けて、作業に取り掛かった。
渡された鍵の束を見ると、どう見ても三本よりも多い数の鍵がある。
何に使っているのか聞くのは失礼だからやめておくが、きっと金持ちには金持ちにしか分からない気苦労があるのだろう。
うちなんかはあくまで中流家庭であって、もしかしたら一番価値のあるものが、三毛ネコのオスであるシャミセンになってしまうかもしれない。
考えていてもどうにもならないので手当たり次第に鍵穴に入れていき、一つ目、二つ目と鍵を解除していく。
なんかドロボウでもしてるような気分だな………。
「あ、一番下の鍵はその白いの。特別に作ってもらったから覚えてるのね」
「ああ、これか」
他の鍵よりもどこか高価そうなそれをよく見ると、円形の部分にRousseau≠ニ彫り込んであった。
つくづく犬バカだ。最後の鍵を差し込んで回し、全ての鍵を開け終わった。
これでやっと帰れるな………その前に家の鍵を探さないといかんが。
「じゃあ親御さんにヨロシクな。今日は早めに寝といたほうがいいぞ」
言って早々に駅まで帰ろうと歩みを始めた………ところで、後ろから服を引っ張られた。
急いで帰ろうとしていたので首が絞まる。
「がっ………ちょっと阪中、苦しい………」
「あっ、あのね?ちょっと休んでいって欲しいの。
だって送ってもらってそのまま帰らせちゃうって失礼だと思うし、そんなことしたらお母さんに怒られちゃう」
苦しむ俺はお構い無しに話を進める阪中。なんとか手を離してもらって向き直る。
「ごほっごほっ………あー、気持ちは嬉しいんだけどな、
さすがにこんな時間に家に上がるのも迷惑だろ?家族の人も困ると思うぞ」
「あ、それは大丈夫。家は今誰もいないのね。今日はみんな出かけてて遅くなるって言ってたから」
………………………余計ダメだろうそれは。
「………んじゃ、帰るわ………んげっ!」
「ね、お願い。お茶を飲んでいくくらいでいいから」
「わ、わかったから………わかったから手を離してくれ阪中………首が絞まる………」
女子とはいえ、バレーでハルヒと共に活躍するほどの運動能力を持つ阪中。
引っ張る力も尋常ではなく、あえなく俺はお茶を頂いていく事となった。
しかしこれは阪中の素なのか、それともただ酔ってタガが外れているだけなのか………
どっちにしろ俺はまた、厄介ごとに巻き込まれている気がしてならなかった。
願わくばこのことが、ハルヒにの耳に入りませんように………
*
渋々玄関を通って家の中に入る。
お茶を持ってくる前に着替えてくるからと言われ、俺だけ先に応接間に通された。
この家はどれだけ部屋があるのだろうか。
ウチだったらお客が来たらリビングに通してしまうところだが、こんなところでも財力の違いを肌で感じることとなった。
まったく、コレだけ苦労させられているのだから、来世はこれくらいの家に産まれたいものである。
そこの所どうなのか神様、と問いかけたくもなるが、もしもハルヒが神様だったときのことを考えてやめておいた。
ハルヒがいわゆるゴッドであったなら、俺がそんなお願いをしたところで聞くはずも無く、むしろ逆のことをしそうだからな。
そんな事を考えていると、向かいの扉がガチャリと音を立てて開かれた。
「待たせてごめんね。紅茶の葉を探してたら手間取っちゃって」
そう言いながらお盆を運んでくる阪中の横から、何か白く丸い物体が飛び出してきた。
「うわっ………!」
突然の襲撃に思わずひるむ。しかし、部屋の中をくるくる回り始めたその姿を見て一気に和んだ。
あいつは俺が阪中と、クラスの顔見知り以上の関係になる切っ掛けにもなった立役者だからな。
「久しぶりだなルソー。元気してたか?」
「うふふ、喜んでるみたいね。こんな時間にお客さんが来ることってあんまり無いから」
ひとしきり動き回った後は、俺の脚にじゃれ付きながらわふわふ言っている。
特に動物に好かれるタイプでもないので、もしかしたら食べ物の匂いが残っているのかもしれない。
聞くまでも無く元気のようだ。
最後に見たときは、珪素なんたらとかいうもののせいで少しやつれていたのだが、もうすっかり元通りになったみたいだ。
「あのね、ちょっといい葉を使ってみたの。お礼の気持ちだから遠慮しないで飲んでね?」
「ああ、そりゃどうも」
………しかし、遠慮するなとは言うが、もともと豪邸なこの家でも普段は使われていない葉っぱなんて、いくらするか想像も付かない。
多分部室においてあるどれよりも高価、どころか数倍の値段がするのではなかろうか。
もしかしたら数十倍とかのレベルかもしれない。
「あの、紅茶は嫌いだった?」
「いやいやいや、そんなことはないぞ?」
ただ高いものは飲みなれていないだけで。
向かいのソファーに座って、ルソーを膝の上に抱きながら不安そうな顔でこっちを見てくる阪中。
さすがに恐れ多くて飲めません、なんて言えるわけもなく、俺は最初の一口を………
「………………?………………!!ごはっ!」
思いっきり吐き出した。
液体の着弾点にいた阪中は、その運動神経を生かして華麗に被弾を回避する。小脇にルソーを抱えて。
「………あのね、一度口に入れたのを出しちゃうのはお行儀が悪いとおもうのね」
そう言いながらカップに口を付ける。
なんか普通に飲んでるが、俺の舌が確かだったならあれは………
「それ、酒じゃないか?しかも度数が思いっきり高い」
「え?そんなことないよ?だって私、お酒なんて飲んだことないし」
そしてまた一口。
しかしさっきのは確かに………テーブルの上に置かれたポットの蓋を開けて、中身を確認してみる………と、アルコールの独特の臭気が部屋中に広がった。
立ちくらみを起こしそうになりながらも中を覗き込むと、中には茶色の液体がちゃぷちゃぷと揺れている。
匂いはどうやら日本酒のようなのだが、色が付いていると言うことはコレは………
「阪中、本当に葉っぱを使ったんだな?」
「うん、そうよ?だってただのお水飲んでも意味ないと思うのね」
どことなくぽーっとしながら答える。
阪中がこんな露骨な嘘をつくとも思えないので………多分、紅茶の葉っぱを使ったのは本当だろう。
で、その『お水』が問題なのだが。
多分、ミネラルウォーターとか紅茶用の水と間違えて、日本酒をどばどばと入れたのだろう。
あまりにも危険な熱燗だ。ドジッ娘属性と言う点では完全に朝比奈さんを抜いた。
アルコール摂取状態で、という制限つきではあるが。うう、口の中が酒臭くて堪らん………
「阪中、悪い、ちょっとお手洗いを借りたいんだが。あとその紅茶はあまり飲まない方がいいぞ」
酒とはあえて言わない。多分堂々巡りになるだろうから。
「あ、それならここを出て右に曲がった突き当たりにあるのね。きっとすぐ分かると思うけど」
「ごめんな、こんな時間に上がりこんどいて」
そう言って部屋を出た。俺の後ろからルソーも着いてくる。
主人の酔っ払う姿に耐えられなかったのか、それとも部屋に漂うアルコール臭に中てられたのか。どちらにしても、
「苦労してるよな、お互いに………」
俺を見上げるつぶらな瞳に、君ほどじゃないよ、と言われた気がした。
洗面所とは逆の方向に歩いていくその背中に俺は、優雅な生活を送る愛玩動物としての余裕を見たのだった。
*
「あー、まだ少し口の中に違和感が………」
洗面所で口をすすいで見ても、あの珍妙な紅茶と日本酒の醸し出す独特の香りは消えてくれなかった。
鏡に映った顔は少し赤みがかっている。
どうやら俺は酒を飲むと顔に出るタイプのようだ。
逆に阪中は外見では全く分からないタイプで、しかも酔いやすいくせに相当の量が飲めると見た。
あれだけ濃いアルコールを酒と気付かずに飲んでしまうというのは、かなりの酒豪だということだろう。
言ってみれば隠れウワバミという感じだ。隠れウワバミ。なんかツチノコみたいな感じだな。
あまり阪中をほおっておくのも危険な気がするので、さっさとさっきの部屋に戻るか。
………いや、もう一回だけ口の中をゆすいでおこう。
「しかし妙な事になったな………あの状態でほっとくのは良くないよなあ………」
帰るに帰れない状態になってしまった。
阪中が飲んですぐにつぶれてしまうような人だったら良かったのだが、それはどうも無理そうだ。
というかよしんばアイツが寝てくれたとしても、俺はこの家の鍵を閉める手段を持っていないわけで、
俺が帰宅できる条件といったら、阪中が正気に戻ってくれるか、もしくは家の人が誰か帰ってきてくれることくらいだろう。
まったく、最初はただ鍵を探しに戻っただけだったというのに、とんだ災難である。
とはいえ愚痴っていても何も変わらないわけで、結局俺は、阪中の待つ応接間に戻ってきたというわけだ。
ノブに手を掛け扉を開けた―――
「悪い阪中、ちょっと待たせたか………ん?」
―――のだが、なにやら様子がおかしい。
阪中の目になにか涙のようなものが浮かんでいるような気が………
って、おい、本当に泣いてないか?
「お、おい阪中、どうしたんだ?何かあったか?」
心配になって問いかける………と、俯いている阪中が、なにか呟いているのが聞こえた。
「………ソー………」
「………え?なんだって?」
よく聞こえなくて近くに寄る………すると、急に顔を上げて、
「………ルソー!」
抱きついてきた。
「え………うおああ!?阪中、お前なにやってんだ!」
「ねえルソー、あのね、急に居なくなっちゃうなんてひどいと思うのね」
「俺はルソーじゃないって!」
どうやら俺をあの白むくのお犬様と間違えているご様子。
つうか見た目も大きさも全然違うだろうが。
「あれ………ルソー、ちょっと大きくなった?」
だから違うって気付けって!
「なあ阪中、俺はあれだ、いわゆるところのキョンくんなんだ。よく見ればわかるだろう?」
何とか説得にかかる。俺の言葉に目を細める阪中。………しかし。
「………嘘なんか付いて………私が怒れないってわかっててしてる?」
つうか会話してる時点でおかしいと思わないのか………いや、酔っ払いに対してそんな常識を説くのは意味がない。
ついさっきまで電柱と楽しくお話くしていたような人なのだ、こいつは。
背中に回された腕の力が更に強まる。
「もう………分かったわ、いつものしてあげればいいのね?」
いつものってなんだ、と聞き返すより先に、俺の口は、阪中の口で塞がれていた。
「ちゅっ………ちゅっ………」
唇の上に何度も唇を押し付けられる。
こいつルソーにいつもこんな事してるのか………!なんて羨ましい犬か。つうか俺のセカンドキス!
「おい、ちょっとやめ………んむっ!」
「ほら、喋っちゃダメよルソー。んちゅっ」
犬相手にはあり得ないツッコミを平然とかましてバードキスを続ける阪中。
ウワバミのくせにバードとはこれいかに………いや、そんなくだらないことを考えている場合じゃない。
未だかつて無いほどに近づけられた阪中の口からは、はっきりとアルコールの香りがする。
このままで居たらこっちまで酔ってしまいそうなほど濃厚だ。
顔越しに机の上を見ると、既に空になって倒れているポットが見えた。あれ全部飲んだのか………!
「あ………なにルソー、お紅茶飲みたい?」
「ぷはっ………言ってないって」
「そうなのね。じゃあ一緒に飲みましょうね。アレ高いんだから」
聞けよ。
しかし案の定聞く耳を持たない阪中は、一旦体を離して机の上のティーカップを手に取ると、
中になみなみと注がれていた紅茶もとい日本酒を一口含み、またこっちに戻ってきた。
そして何故今の間に逃げなかった俺。自問自答している間に再び腕が背中に回される。
「じゃあ飲ませてあげるね?」
「待て待て阪中………ふむっ………!」
口を重ねられると、今度はその柔らかい舌で俺の唇をこじ開け、口の中の液体を流し込んでくる。
所々に感じられる唾液のぬめりに驚いている間に、阪中は含んだ全てを俺の中に注ぎ込んだ。
「ふぉう?ほいひい?」
(こいつの犬への愛情は底なしなのかッ―――!)
阪中にしてみれば大したことの無い量でも、俺にとっては致死量に近い。
口をふさがれて自由に呼吸が出来ないために、その気が無くても喉が動き、
高濃度のアルコールが次々と体の中に入っていくのが分かった。
口の中に何もなくなったというのに、阪中はまだ口を離してくれない、
どころかその動きは激しさを増す一方だ。
「ちゅっ、ん、ふはあっ………あのねルソー、寝る前には歯磨きをしなくちゃいけないとおもうのね」
「う、はあっ………は、歯磨き………?」
俺はたった一杯のアルコールで骨抜きにされて、もう身動きが取れなくなってしまっている。
それを知ってか知らずか、口を離した阪中は俺の目をじっと覗き込んでくる。
「………う………阪中?何を………」
「あはっ、今日のルソーはなんだかいつもより大人しいのね。
おりこうさんだからしっかり汚れを取ってあげる」
犬用の歯ブラシでも使うのだろうか………なんか痛そうだがさっきまでの状態よりはいいかもな………
なんて思っていると、また阪中は唇を重ねて、俺の閉じた唇を強引に舌で押し割ってくる。
もう俺の唇は全くもって純潔ではなくなってしまった………と、舌が今までとは違う動きを示し始めた。
歯茎やその周辺をねちっこくねぶってくる。
「くちゅ………あむっ、はっ………れろっ」
(うああ、歯磨きってこれか―――?)
前部の歯をあらかた舐め尽された。しかしそれだけでは止まらない。
阪中はしっかり汚れを取ってあげる≠ニ言ったのだ。犬への愛情がこの程度のはずが無い。
しっかりと、奥まで掃除できるように、阪中は顔の角度をより傾け、貪るように咥内を蹂躙してくる。
阪中は舌が長いのだろうか、結構な奥まで綺麗にされて、俺の思考も完全に真っ白だ。
その時、急に足から力が抜けた。もう一度踏ん張ろうとするよりも早く、かくん、と膝が折れる。
俺の身長とあわせるために少し背伸びしていた阪中も一緒になって床に倒れこむ。
机にぶつからないように、なんとか体をよじった。
「くっ!………いてて、阪中、大丈夫か?」
「いったーい。ね、ルソー、急に人の上に倒れこんじゃダメよ」
人の上………?その言葉に自分の今の体勢を確認する………と、
その通り、俺は阪中を押しつぶすようにして倒れていた。
「うわっ、すまん!怪我無いか!?」
言って体を起こそうとするが、どうにも力が入らず、かろうじて阪中の横に体を転がす。
「もう、やっぱり甘えん坊さんなのね。今日は大人しいと思ったのに」
それでも酔いの醒めない阪中は、そう言って体を寄せ、また俺の顔を掴んで「歯磨き」を再開した。
ああ、こんな所親御さんにでも見られたらどんな言い訳をしたらいいのかっ。
さっきにも増して体を寄せてくる阪中の柔らかさに戸惑いながらもこの後の展開を考えていると、
何故か体が濡れていることに気が付いた。
というか上の方から水のようなものが零れてきている………
視線を上げると、机の上で倒れたカップから中身がぽたぽたとこぼれているのが見えた。
ってことはこれも酒か………今日は本当に踏んだり蹴ったりだな………まあ役得とも言えるが………。
「ちゅうぅっ………れろっ、んっ、ちゅっ………」
それも気にせずに作業は続けられる………と、視界の隅で小さなものが動いたのが見えた。
あれは………ルソー!そうだ、ホンモノを見せればさすがの阪中でも納得するんじゃないか!?
犬を見上げるというかつて無い体勢で様子を伺っていると、床に倒れてごそごそやっているのが気になるのか、ルソーはこっちに向かって歩いてきた。
よしっ、これでなんとかなりそうだっ!
近付いてきたルソーを抱え上げ、阪中に見える位置に持ってくる。
「んくっ、ぷはあっ!おい阪中、見ろ!これがルソーだ!俺は人間だっ!」
「え………?あ、ルソー、こんな所で何してるの?
いまちょっとルソーの歯磨きで忙しいから後にして欲しいのね」
「えええええええ」
全ての矛盾を突っ切って阪中は走り続けるようだ。
ルソー(本物)ににっこりと微笑みかけると、すぐにこっちに顔を戻してまた口付けた。
「んちゅっ、ぴちゃっ………んくっ」
もう俺の口の中はコレでもかというくらいに征服されてしまった。
自分の口の中が以前はどんなものだったか、いまでは思い出せないくらいに阪中色に染められている。
他の人を知らないので実際はどうなのか知らないが、阪中の唾液は粘度が高いように思える。
口の中全体に味が広がって、舌の上にそれが滴るたびに背筋が痺れた。
と、まだ俺の手の中にいたルソーが急に暴れ始めた。
わふわふと激しく体を動かして俺の手から脱出する。
「く〜ん」
(構ってもらえないからスネたか………俺が悪いのかコレは………?)
いつに無く不機嫌に見える犬っころは、俺の体の上を心なしか力強く進み、
阪中と俺とが向かい合って倒れている真ん中にぐりぐりと入り込んだ。
なんだろう、俺たちを引き離したいのだろうか。
しかしルソーよ、お前からしてみれば俺が間男になるのかもしれんが、
その俺を離してくれないばかりかありえないほど積極的なスキンシップをとっているのはお前の飼い主様なんだ。
俺を恨むのはお門違いだぞ………。
そんな思いを知ってか知らずか、ルソーは俺にケツを向け、阪中のほうに視線を集中させている。
未だにくちゅくちゅと音が響く咥内から何とか意識をはがしてその顔を見ると、
何かふんふんと鼻を鳴らしていた。そしてその目がきらりとひかり、
「わふん」
阪中の服の中に頭から潜っていった。
………なんだこの展開は。
一体あの綿菓子は何をしようとしているのか………と、服の中からぷち、ぷち、と何かを噛み切るような音が聞こえた。
それが数秒続き、そしてルソーが外に顔を出す。
その口にくわえられているのは見紛う事なき聖なる布………
(ブラくわえてやがるっ!?あいつヒモの部分噛み千切ってやがったのか………なんて犬だ………)
ブラを乱雑に放り投げた後で俺のほうを一瞥し、そしてまた服の中へ。
これから何が始まるというのか………言い知れぬ不安を覚えていると、急に阪中の様子が変わった。
「あっ、んっ、やぁ………ルソー、そこは………ひゃあっ!」
(………!まさか………はちみつプーさんかっ!)
バター犬のやんわりした表現である。
桃色吐息の阪中の体を見てみると、胸の辺りにちょうどルソーの頭の形がぽっこりと浮き出ていた。
そして耳を澄ませば聞こえる、ハッ、ハッ、という獣じみた息遣い。
なんとルソーはここで野生の衝動を思い出したのだ。
室内犬として甘やかされる怠惰な日々が消し去った緑の景色を、
奇しくも甘やかしの張本人である阪中の作った紅茶もどきによって呼び起こされたのだ。
「っくっ、ああっ、だめなのねっ、おいたしたらダメよっ」
そしてその結果、ご主人の命令も聞かないという事態に陥った。
今やルソーは一匹の雄となり、自らの本能が指し示す行動をひたすらに実行するようになったのだ。
すなわち、「このメスを奪い取れ!」
………いや、自分で言っててわけ分からんのだが、きっとアルコールのせいなのは間違いないだろう。
ルソーはこんな子じゃなかったはずだ。
「はあっ、はっ、やあっ………」
阪中の息も、ルソーの舌の動きに比例して高くなっていく。
あれだけ高いアルコールでも染められなかったその頬は、既に飼い犬から与えられる刺激で真っ赤になっていた。
目の前で繰り広げられる非日常的な光景に、俺の思考力も奪われていく―――
と、獣舌にあえいでいた阪中が、今度は舌を俺の舌に思い切り絡ませてきた。
もしかして反撃しているつもりなのだろうか、それなら全く意味がないのだが………
アルコールと「歯磨き」で大分良心を削られた俺は、
反射的に、それに自分の舌をもって応えることを選択してしまった。
「んはっ………ちゅるっ、ちゅっ………あっ、やあっ」
「ちゅ、じゅるっ、ちゅっ………」
舌の上に、そして裏に全神経が集まったように、
たかだか名詞一枚分ほどの面積の肉が、体中にその刺激をフィードバックしてくる。
耳に届くより先に脳でその淫らな音が感じられるような、
自分の舌がどこまでも広がっているような、それなのに濃密な感覚が脳髄を震わせる。
どちらともなく唾液を流し込み、それが嚥下されたのを見届けると、今度は舌をつついて相手の唾液をねだる。
まったく俺というやつは、マトモに話すようになって数ヶ月、互いに異性を意識したこともないであろう相手と、
数時間でこんなやりとりをするようになってしまうとは………。
「んふっ………んっ、あふっ、ちゅるっ………」
「ん、んくっ、ちゅっ………」
これで再び二人の時間だ。
先ほどの愛撫で気を惹いたと思っていたルソーは、面白くない、と思ったのだろう。
服の中から抜け出して、今度は下方へとその標的を変えた。
下の方と言ったらもうあの部分しかないだろう。
舌を絡ませるたびにぷるぷると震える太ももをぺろりと一舐めして、ルソーはそのスカートの中へ突入していった。
………胸があいた。俺もついでだから揉んでおこう。
「はっ、うんっ………あっ、あっ、あっ、ひゃああんっ!ルソー、そこはダメっ!」
どうやら口撃を開始したようだ。
俺もそれにならって、歯磨きのお返しとばかりに舌を歯茎に沿わせ、そして胸に這わせた手を動かす。
ルソーの唾液でベタベタになった乳房は、酔った頭にはよりいやらしく思えて、
とがった先端を指先で摘み、そして弾いた。
「ああっ、んむっ、だめっ、だめなのっ!」
「んっ………ぷはっ、いや俺は犬だから。人の言葉は分からんな」
そう言って再び口付ける。
阪中の体は痙攣するように動いて、もうきっと自分の意思どおりには動いていない。
それなのに舌だけは貪欲に絡み付いてきて、俺の劣情をどこまでも刺激した。そして。
「あっ、駄目ぇっ!ねっ、お願いだからそこは舐めないでっ………あっひあああっ!」
どうやら俺じゃないほうの犬もラストスパートに入ったようだ。
そうなると俺も応えないわけにはいくまい。一匹の犬としてっ!
「んはっ………ぢゅるっ、ちゅっ………ふあぁっ、お願いなのね、ルソー、やめてっ………」
「だから俺は言葉が分からないんだって。犬だから」
ドジなご主人サマにそう告げて、最後に思い切りその舌を吸い、そして胸の突起を千切れるほどに捻りあげた。
多分下の犬も似たような事をしたんだろう。阪中の体が今までにないほど撓り、
「あっ、あっ、ダメっ、ふぁ、あっ、くぅぅっ、ああーーっ!」
そして今日一番の嬌声を上げ、くたりとして動かなくなった。
*
―――ン………ョン………―――
………ん?誰かの声が聞こえる。
なにやらいつも聞いているような声だ。
目を開けようとすると、急に太陽光が飛び込んできてひどく眩しさを覚えた。
強烈な光源をバックに誰かが立っているのが見えるが、逆光の為によく姿は見えない。
そしてさっきから断続的におこる鈍い頭痛。
コレは一体なんなのか………なんだか体中ぎしぎしいっているような気がする。
―――ョン………こら、起きなさいっ!キョンっ!―――
「うおあっ!」
いきなり耳元で起きた大声に驚いて、思わず上半身を起こす。
なんかいつもより重い気が………
「ねえ、キョン、起きた?」
「なんだハルヒか………なんでお前がウチにいるんだよ………」
「ウチ?へ〜え、いつの間にかあんたと阪中さんの仲は、すごーく進展したみたいね」
「………………………え?」
言われて周りを見渡すと、どう見てもここは俺の部屋ではなかった。
というかベッドにすら寝ていない。ここは一体………
「ねえ、説明してもらえる?どうしてアンタがここで寝てたのか。それと………」
ハルヒの視線が横にずれる。その先を追いかけて、俺の思考は停止した。
「………なんで阪中さんとしっかと抱き合ってたのかってことを、ねっ!」
………昨日のことはよく覚えていない。思い出してしまったら終わりだという警報も鳴り止まない。
こんな時、人が取り得る最善の行動はたった一つだけだ。
きっとコレは夢だろうから、だから―――俺は、二度寝した。
*
あの日ハルヒは、阪中と会う約束をしていたのだそうだ。
そして家まで行ってみると、呼び鈴を押しても誰も出ない、ばかりか三つの鍵が全て開いている。
不審に思って中に入って、そして見つけたのが、抱き合って眠る俺たちだったというわけだ。
俺が落とした鍵もしっかりと持ってきてくれていた。あいつも忘れ物を取りに戻ったところで見つけたらしい。
………当然二度寝をハルヒが許すわけも無く、
ぶん殴られて現実をコレでもかというくらい認識させられてからこってりと尋問されたのだが、
俺も阪中も全くといっていいほど覚えておらず、結局全ては謎のままだ。
現場に残されたポットからアルコールが検出されたため、
送っていった後にうっかりアルコールを口にして酔いつぶれた、という結論で一応の終幕となった。
多分実際もそれとは大して変わらないだろう。
そしてこの事件も他のドタバタですぐに忘れ去られ、平穏な日常が戻ってきた。
クラスが変わったって、今までとは何一つ変わらない。―――ただ、
「ね、キョンくん。お弁当作ってきたのね。食べて?」
「ん、ああ悪いな」
阪中が、事あるごとに俺を餌付けするようになったことを除いては。