「…キョンくん。あたし……未来に帰ります」
俺はいつものように朝比奈さんから、お茶という名の誰もを幸せな気分にさせる甘露を頂戴していた
のだが、そんな二人っきりのSOS団部室でなんの前触れもなしに朝比奈さんは、俺を驚愕の底に
叩き落とすような一言を吐き出した。
彼女は二度とは過去には戻ってこないという。その上、期限はあと1週間だとも……。
朝比奈さん、いったいどうしたっていうんですか?
朝比奈さんの言葉には、本気だと信じざるを得ないような苦悶に満ちていた。彼女の愛らしい顔には、
さんざん思い悩んだのだと窺い知ることの出来る表情が、ぎこちない笑みに隠れながらもうっすらと
垣間見られた。
ひょっとしたら、原因はハルヒのセクハラや、あまりの暴虐ぶりに耐えきれなくなってのことかとも
考えたが、彼女はそんなことは絶対ありませんという風にかぶりを振った。
その後いくつかの質問を重ねたが、結局彼女は核心に触れる部分は答えてくれなかった。これには俺
も参ったね。というよりも多少のショックを憶えた。
もちろん彼女が未来に帰るということもそうだが、それ以上に俺を信頼してくれなかったことだ。
いや、信頼していないというのは言い過ぎかも知れん。だが、俺と朝比奈さんの間には、うっすらと
した、しかし確実に冷戦時代のベルリンの壁のような決して越えられないものが存在しているようだ。
思い当たる節があるのは、ハルヒの作った閉鎖空間に俺がハルヒと共に行く原因を、朝比奈さんが作っ
たと自分自身で思い込んでしまい、それに責任を感じるようになってからか。
それ以来、俺と朝比奈さんの心の距離は、一定以上に近くなることもまたそれとは逆に離れることも
なくなった。
それが、朝比奈さんが俺に全てを語ってはくれない理由の一つには数えられるだろう。
「やっほー!待ったー?」
俺と朝比奈さんとの間で気まずい空気が流れていたとき、ハルヒが無闇に上機嫌で、かつ臨界を迎えた
ウランのような、無限のエネルギーを発散しながら部室に入ってきた。
時々うらやましくなるよ。その溢れんばかりのエネルギーを人のために役立てりゃ、ちっとは感謝される
だろうぜ。
なんなら、ウランの代わりにハルヒを原子炉に入れてみたらどうだ?この国は半永久的に電力に困らなく
なりそうだ。
まったく、悩んでいるのがバカバカしくなるような元気ハツラツぶりだ。
そしてハルヒの後から、長門と古泉が舎弟よろしく親分に続いて部室に入ってきた。
すると、それまで沈み込んでいた朝比奈さんが、そんな空気を吹き払うような一段と明るい声で、
「じゃあ、お茶を淹れますね」
と立ち上がり、彼女が一年近くの間に培ってきた、お茶汲みスキルを遺憾なく発揮した。
「みくるちゃん。お茶を淹れるのがさらに上手になったわね!」
何を言ってやがる。わずが3秒間でお茶を飲み干す奴にそんなこと言われても、朝比奈さんも微妙な笑み
を浮かべるしかないだろうぜ。
それでも朝比奈さんはお優しいから、素直に喜んでいるようにも見えるがね。
「本当にね、朝比奈さんの淹れるお茶は絶品です。文句のつけようがありません」
古泉、その意見には同意するが、お前が言うとハルヒへのお追従にしか聞こえないし、その意見もどこまで
本当か信じがたいんだよ。
長門だけがいつものように無言無表情でSF小説に読み耽っている。ま、こいつは当たり前か。
その後、俺は古泉と花札をやっている最中に朝比奈さんの表情をチラ見してみると、俺と目があって微
笑みを浮かべそうになりながらも、すぐさまそれを打ち消すかのように、表情を硬くした。そのくせ、し
きりにこちらをチラチラと見ているように感じた。
まったく、わけがわからん。
──こんな時、俺のように女心に疎い男は苦労するぜ。彼女の心がいっこうにわからないんだからな。
まるで霞をつかもうとしているようなものだ。それに、これ以上彼女から無理に聞き出そうとしても
かえって逆効果になりそうだしな。
「ねえ、キョン。今日はやけに落ち着かない様子ね。それにさっきからみくるちゃんの顔ばかり
見ているし…。──ひょっとして、妙なこと考えているんじゃないでしょうね?」
ハルヒは俺の態度に不審を抱いたのか、俺の心を見透かすようなことを突如言い出した。
妙に勘の鋭い奴だ。
俺はそんなにあからさまな態度をとっていたのか……?
だが俺には、朝比奈さんをどうにかしようというようなよこしまな気持ちなんて米粒ほどの大きさも
ない、ということだけは言っておく。
ハルヒは「ふうん、そう?」と顔をアヒル口に変化させて言いながらも、それ以上深くは突っ込んでこ
なかった。
下校時間を迎え、SOS団の活動が終わると、ハルヒは全ての事柄においてトップを目指す彼女らしく、我
先にと部室を出ていった。
すると、朝比奈さんも俺たちに詰問されることに恐懼を抱いて居づらくなったのか、着替えを済ませると、
ハルヒの後を追うようにそそくさと出て行った。
それを見届けると、俺は残った2人に知恵を借りるため、事情をかいつまんで話した。
ハルヒにはまだ話さない方が良いだろう。下手に教えれば何をし出すかわからないからな。
たいして長い話ではないので、2人は相づちを打つまでもなく黙って聞いていた。
「そうですか。それは何とも突然の話ですね。非常に残念です。彼女が未来人だということを飲み込んだ
としても、我々SOS団には欠かせない人物ですからね」
「すまん、古泉」
と言うと、何故あなたが謝るのですか? というような表情が見て取れた。
「俺が謝ったのは、お前のことを少し見くびってたからだ。機関の人員であるおまえからすれば、過去に
ちょっかいを出してくる未来人は邪魔者のはずだ。それなら、朝比奈さんが帰ったところで、おまえにす
ればなんの痛痒も抱かないどころか、かえって好都合のはずだ。だが、今のお前は心底残念そうな表情
をした。だから謝ったのさ」
俺は少し表情をゆるめて、そう古泉に言った。
「もちろん僕にも、そんな考えだった頃はありました。しかし今はこのSOS団にこそ帰属意識を持っている
つもりです。そこには涼宮さんがいて、朝比奈さん、長門さん、そして──あなたがいるのです」
と言って俺にバチッとウィンクをした。
やめてくれ、気色の悪い。
長門はどうだ?
「……別に」
……それだけか?
「わたしの観察対象はあくまでも涼宮ハルヒ。未来人の彼女がいなくなれば、涼宮ハルヒを取り巻く不安定
要素の一つが消える」
そうか……それも仕方がない。別に責めはしないさ。
ということは、長門の協力は得られそうにないから、頼りは古泉だけか……。
しかし、いくら鋭くどこまでも見透かす力を持ち、なおかつ頼れるお人だとはいえ、鶴屋さんに助けを求め
るわけにはいかない…。それに、さすがに朝比奈さんが未来人であることを話すわけにはいかん。
そう、彼女に助けを請うのは、あくまでも最終手段だと心得よう。
結局2人とは──といっても古泉だけだが──情報の収集と善後策を練るということで一致した。
その後2人と別れ、俺は帰宅するべく下駄箱の前へとたどり着いた。そして靴箱の扉を開けると、いつか見
たような1通の手紙がそこにはあった。
差出人は朝比奈さんだ。中身は一枚のピンクの便箋で、内容は簡潔に『部室で待っています』だった。
それを見た俺は、あわててもと来た道を引き返した。
だが、今また俺を呼び出すなんて……ひょっとして真相を話すつもりだろうか?俺は怪訝に思いながらも
足を速めた。
果たして、たどり着いた先に彼女はいた。
「キョンくん、しばらくね」
そこにいたのは、朝比奈さんに変わりはなかったが、朝比奈さん(大)だった。
俺は以前、彼女の指令を受けた朝比奈さん(小)とともに、彼女たちから見れば過去に当たる、俺たちの
生きている現代の歴史をいじくるという、何件かのおつかいのような作業を強いられた。
そういったことを踏まえた現在の俺は、彼女に対して日本一大きな湖の水量に比して一滴ほどと言ってい
いぐらいのわずかだが、しかし確実に不信感を抱いているといっても差し支えない。
その現在の俺の心境を読み取ったのか、朝比奈さん(大)は苦笑を浮かべながら、
「キョンくん、そんな困った顔をしなくても、今日は過去に行ってなんて言わないから安心して」
よほど険しい表情をしていたんだろうな。しかし、そんなに顔に出やすいのか俺の感情は…?
「今日は、あなたも今困っている懸案についての説明とお願いに来ました」
幾分顔を引き締めて、朝比奈さん(大)は説明を始めた。
「この時代にいる過去のわたしが、つい先日、現在の監視任務を解いて欲しいと、そして未来に帰りま
すと、わたしたちの組織に申告してきました。もちろん任務を途中で放棄するようなことが認められる
わけない。そう言うと彼女は、組織を辞めますとまで言ってきたの」
これには俺も驚いた。彼女はそこまで思い詰めていたのか。
……朝比奈さん(小)はそこを辞めたいと…。何故なんです? 理由は?
「詳しくは話してくれなかったみたいなの。でもわたしは、彼女と同じ人間だから少しわかる気がする。
この時代、わたしは言いようのない無力感にとらわれていたの。今になればこそわかるけど、なぜこの
時代になんの情報も携えることなしに任務に就かなくてはならないのか、自問自答していたわ。あな
たに励まされもしたけど、自分の部屋で泣きはらすこともあったわ」
ハルヒの指示によりドジッ子メイドを演じるうちに、それが地になってしまった感があるけれど、彼
女はれっきとした未来人であり、普通の女の子としても生きながら、任務を全うしなくてはならない
んだ。
それは、とても言葉では言い尽くせない苦労だろう。しかも彼女は、未来人という特殊事項を除けば、
あくまでも一般人だ。俺と変わらない…な。古泉や長門ほどの鋭さを感じさせない点でもな。
だが、何故なんです?あなたにしてもいつか通った道じゃないんですか? それならいずれ時が解決す
るんじゃないんですか?
すると、朝比奈さん(大)は首を振り、
「実はそうじゃないの。わたしは、辞めるなんてことを一度も言ったことがなかったわ。つまりわた
しが経験してきた歴史とは変わっちゃっているの。そこでキョンくん、あなたにお願いしたいんです。
どうかこの時代のわたしを説得して、未来に帰ることを思いとどまらせて欲しい。このままじゃ歴史
が変わっちゃうの。しかもわたしが発端で…。それに、あなたなら大丈夫。きっと何とかしてくれる
でしょ?」
また歴史が変わる……か。何か引っかかるんだよな、この言葉……。のどに小骨が刺さっているよう
な感覚だ。なにかわかりかけているような、そんな感覚だ。
もっとも、俺はハルヒや古泉、長門のように頭の回転が良いわけではないからな、速やかに答えを
導き出すというわけにはいかんが。
だがまあいい、俺も朝比奈さん(小)を止めたいと思っていたからな。思惑の一致だ。
いいですよ。俺も彼女を失うわけにはいきません。我がSOS団には必要な人材なんです。止めて見せ
ますよ。
俺にとっても切実だ。彼女の微笑みや仕草は俺を癒してくれるし、お茶が飲めなくなるのは痛い。
「ありがとう。キョンくん」
と言って、俺の頬に軽いキスをすると、二言三言交わした。しかし、あまり長くはこの時代にいられ
ないらしく、彼女はきびすを返すと、部室を去っていった。最後にもう一度俺に懇願した上で…。
さて、後は家に帰って考えをまとめてみるとするか。
一晩考えあぐねた結果、俺は朝比奈さんを止めるための策をなにも導き出すことは出来なかった。
なにをやってんだかな、俺は…。
そんな俺の焦燥と後悔などお構いなしに一日は過ぎてしまった。
そして翌日の放課後がおとずれた。
俺はいつものように、SOS団の部室にやったきたのだが、なにやらハルヒと朝比奈さんとおぼしき話し
声がするので、してはいけないと思いつつも、すぐには部屋に入らず聞き耳を立てた。
「ねぇ、みくるちゃん。あなた最近ちょっと様子が変じゃない?」
「はぅっ!えぇ、そ、そんなことないですよぉ」
朝比奈さん、嘘をつくのが下手すぎます。それじゃあ顔色をうかがわなくとも、声の調子だけで嘘だっ
てことがまるわかりですよ。こんなのハルヒじゃなくてもわかります。
「ひょっとして……みくるちゃん。あなた、キョンのことで悩んでいたの?」
『!?』 ハルヒの奴、声をうわずらせながら何をとんちんかんなことを言っているんだ。朝比奈さんが
悩んでいるのは、そんなんじゃないんだよ。
「……ち、ちちち、ちがいます。……そんなことありましぇん!」
朝比奈さん、そんなふうに断言されると、俺もちょっと悲しい気分になりますよ…。
しかし、肯定されたとしても、それはそれでもっとまずいことになっただろうがね。
「そう? キョンの様子も変だったから、どっちかが告白でもしたのかな? なんて思ったから」
…方向は違っているが、告白という線は間違っていない。
やはりハルヒの勘は侮れないぜ。
あれだ。あの女は野生の動物のような独特の嗅覚でも備えているんだ。そしていずれ、大地震の兆候を
嗅ぎ当てて知らせてくれるかも知れないな。
「みくるちゃん。あなたが、もしキョンなんかがいいなんて言ったら、大阪港に沈めなきゃいけないく
らいに必死で止めていたとところよ。キョンなんか相手にしていてもいいことなんかないからね」
めちゃくちゃ言うな!余計なお世話だ。
しかしながら、ハルヒはさっきと打って変わって、ためらいながら、さらに朝比奈さんへの話を続けた。
「でも……そうね、もしあなたが本当にキョンのことが好きだっていうんなら…協力…しなくもないわよ」
「………」
……聞いちゃいけなかったな。どういうつもりでハルヒがこんなことを言ったのかわからないが…。
一度、ここを離れるか。
「…フッ」
「うぉわっ!!」
誰かが耳に息を吹きかけやがった。誰だ!?
「なに?そこに誰かいるの?」
いかん、ハルヒに気づかれたか?
やむをえん、ここは今来たように振る舞おう。
「や、やぁ!ハルヒ、もう来てたのか」
しまった。声が裏返っちまった。あからさまに怪しいな、俺は。
しかしハルヒは、そんな些末なことには気にならない様子で、
「キョンに、有希と古泉君じゃない。一緒に来てたの?」
え?長門に古泉だと?
後ろを振り返ると確かに2人はいた。
ということは、さっき俺の耳に息を吹きかけたのは古泉……だよな?
位置的に、長門が俺のすぐ後ろにいたような気がするが……。
まあ、いい。後で古泉の奴をぶん殴ってやろう。それで万事解決だ。
長門であろうはずがない。よな?
俺たちがぞろぞろと部室に入ってくると、おもむろにハルヒは大量破壊兵器でも飛び出しかねない
ような、危険きわまりないその口を開いた。
「と、ところでキョン。あんた、さっきの会話聞いてなかったでしょうね?」
ハルヒの顔は、夕陽の照り返しのせいか、やけに赤く染まっていた。
いや、知らないな。何か聞かれちゃまずいことでも話してたのか?
「そんなことあるわけないでしょ!聞いてないんならいいの。別に!」
ハルヒは俺を見ずに、本棚の方向を見据えながらそう言った。
そして俺はハルヒから視線を移動させて、朝比奈さんに向けてみると、彼女は小柄な体をちょこまか
と動かしながら、3人分のお茶の用意をしてくれている。
そんな朝比奈さんがどんな心境であろうとも、彼女の着こなすメイド服が様になっていて、それが彼
女の苦悩の表情を幾分かでも覆い隠している。
だが、先ほどの会話の余韻が彼女の行動に微妙な影響を与えているのか、動きがぎこちない。
「キョンくん、お茶です」
ありがとうございます朝比奈さん。と、軽くこうべを垂れてお礼の言葉を述べる。
それを見て、朝比奈さんは微笑みかけてくれたが、あわててぎこちなく少し硬めの笑みをつくりだし
俺に向けた。そしてそのままの複雑な微笑みを浮かべたまま長門が座っている席に向かった。
その後俺と古泉は、思案に明け暮れながら気持ちがまったく入らない将棋の対戦を行っていた。
そして時折、古泉や朝比奈さんのほうを0.5秒間ほど見やった。
当然ながら、対戦はおろそかになっている。歩が水平移動するなど、駒の動きがてんででたらめだ。
ついには、指揮官先頭よろしく単身で俺の王が古泉の陣地に乗り込み、やつの玉に向かって王手をか
けるという、類い希なる珍事を繰り広げていた。しかも俺が勝つというおまけ付きだ。
しかしながら、俺たちの妙な振る舞いには目もくれず、ハルヒはシャシャーペンを耳に挟んだまま黙
考している。そして朝比奈さんもまた、俯いたまま黙りこくっている。
つまりは、長門を除く皆がおかしかったが、誰もそれを口にしないし気づきもしないという、一種異
様な状況が部屋の中に充ち満ちていた。
だが、そんな時だった、ハルヒが突如団長専用机の上に立ち上がり、その勢いで俺にスカートの中に
あったライトブルーのなにかを見せるという無料サービスを行いつつ、
「みんな、今度の土曜日は臨時の市内探索をするわよ!」
と、いつもの調子で一方的に宣告した。
もちろん俺たちSOS団員に拒否権はない。決定されればそれに従うしか選択肢はないのだ。
そこには、『逃げる』も『攻撃する』も『呪文を使う』もなかった。
──俺たちはこうしてハルヒに翻弄され、貴重な休日を献上する1年を歩んできたんだからな。今更
だろうぜ。
有無を言わせぬその主張を発表し終えると、ハルヒは話が終わったとばかりに部室を飛び出していった。
解散の合図だ。
他の女性陣2人も帰り支度を終え、部室を出て行った。
さてと…
俺は古泉に目配せをしてやった。奴もわかってますよ、といった風に窓際に立ちながら話を始めた。
「今日はあまり時間もありませんので手短に…」
わかっているさ。すでに朝比奈さん(大)にはだいたいの事情を聞いている。それほど情報が必要な
わけじゃないさ。
「そうですか。僕もあなたに全てを伝えるのはためらわれるところでしたので、好都合です。では
一言だけ言わせてもらいます」
と、もったいぶりやがる。
「あなたが、アダルトバージョンの朝比奈さんから伝えられた情報とはおそらく符合しないかと思い
ますが、今は僕の得た情報の詳細は言わないでおきましょう」
なぜだ?と言う俺の問いかけを無視するように続けた。
「あなたは本当に幸せな方ですよ。僕はあなたに羨望を抱かざるを得ません。今、多少の問題を抱え
ていますが、あなたなら早晩解決出来るでしょう」
と言うと、俺に質問をする暇も与えずきびすを返すと、スウッと消え去るかのように出て行った。
後に残されたのは、呆気にとられて間抜け面をしたままの俺1人だけだった……。
しかし……古泉は気でも違ったか?俺は朝比奈さんの情報を要求したというのに、奴は俺が幸せだと
かわけのわからんことをぬかしやがった。いったい、それと朝比奈さんとどういった関係があるんだ…?
それとも古泉の奴め、ハルヒの悪影響で頭のネジが2,3本ほど外れてしまったんじゃないか?
あれだ、朱に交われば赤くなるというやつだ。ハルヒが発する強力電波によって、古泉の考え方がずい
ぶん拗くれてしまったんだろう。
そう決めつけはしたものの、その日は俺はハテナマークを4、5本頭上に浮かばせながら帰途についた。
日は飛んで土曜日。つまりハルヒによって設定された、SOS団恒例の突発的市内探索イベントの当日だ。
さすがに最近は寒さを感じることがなくなりつつあるようで、穏やかな日差しが俺の気持ちの良い目
覚めを誘う。
そのせいか、俺は懸案事項を抱えているにもかかわらず、ゆったりとした朝を迎えていた。
目が覚めると同時に妹が部屋に闖入した。
「キョンくーん、朝だよー!なんだ、もう起きてたの?」
おもしろくなさそうに、ほおをオキナワキノボリトカゲのようにふくらませる妹。もうすぐ6年生になる
というには幼すぎるが、愛らしい表情であることは兄の俺が保証しよう。
お前の兄は日々進歩しているんだ。お前も俺の妹なら俺をみならって、もう少し大人の態度とれるように
なるんだな。
朝の行事を済ませると玄関を出て、連日の酷使によりガタがきだした愛用のママチャリを準備する。
そしてチャリンコを飛ばすこと十数分、集合場所である北口駅前の公園にたどり着いた。
そこには、珍しくもハルヒがまだ到着していなかった。
これは天変地異の前触れか?
すると、タッチの差でハルヒがやって来た。一番最後に来たというにもかかわらず、まるで焦った様
子はない。さすがにこいつは大物だ。
「ハルヒ、最下位になったからにはお前がお茶代出すんだろうな」
と俺が言うと、憮然とした顔で
「あんた男でしょ、女の子のあたしに出させるつもり?」
こんな時だけ女の子ぶりやがって。それにお前が出したとしても、俺には心の痛みはかけらもありはし
ないんだよ。
「なんですって、キョン。あんた、団長のあたしに出させようって言うの?」
いや、それがお前の決めたルールだったんじゃないのか?
などと、俺たちが茶店代をめぐっての醜い言い争いを繰り広げていると、それを見かねた朝比奈さんが
「あ、あのぅ、よかったらあたしが出しますけど」
などと、おずおずと言い出した。
「ほら、キョン。みくるちゃんにあんなことを言わせるなんて、あんたそれでも良いの? みくるちゃん
に出させる気?」
お前が出してくれれば、そもそも問題にならないんだが……。
「……わかったよ。俺が出すよ」
なんでこうなるんだ?などと釈然としないながらも、不承不承、俺のおごりとすることに決定された。
──気を取り直して、くじ引きだ。
俺はハルヒに聞こえないように、長門に囁いた。
「長門、俺と朝比奈さんをペアにしてくれないか?」
もちろん、最後の説得を為すためだ。
「……わかった」
しかしながら、結果は俺と朝比奈さんそして長門の3人に、ハルヒと古泉のペアだった。
そして2人との別れ際、古泉がそっと俺の耳に囁いた。
「どうもこの組み合わせは、涼宮さんが望んだもののようですよ」
どうりで長門の力が及ばなかったはずだ。だが、長門が加わることに何か意味があるのか?
「さて、どうでしょう。朝比奈さんをあなたとペアにさせたいと考えたものの、2人きりは嫌、という
乙女心のなせる技ではないでしょうかね?」
……なんのことだかね。
最後にハルヒは朗らかな笑顔で言った。
「市内探索だっていったけど、今日はそれほど気にしなくていいわ」
いつもたいして気にしてないけどな。
しかし、ハルヒにしては珍しいことを言ったもんだ。
それでもこの貴重な時間は、朝比奈さんの説得にありがたく使わせてもらおう。
さて、探索の時間になったが、じっくりと話の出来る場所と言えばあそこ……か。
というわけで、俺たちは川沿いの公園に向かった。
そう、俺が朝比奈さんから未来人の告白を受けた場所であり、思い出したくもない記憶ながら、文化祭
自主制作映画のロケ地としても使われた場所だ。
ただし、そこは歩いて行くには遠すぎるため、電車を使って北口駅から1駅西へと移動した。
その日の公園は、うららかな日差しに恵まれていた。
しかしもちろん、春の気配は催しているものの、今は桜が咲くことはない。つぼみはようやくふくらみ
始めたところであり、花が咲き誇るのはしばらく先だ。
そう、ハルヒの力さえなければ今の状態が自然なのだ。
しばらく散歩かねて歩いた後、2人はベンチに座り、俺は飲み物のリクエストをとった。
「キョンくんごめんね。じゃあ、紅茶をお願いします」
長門は何がいい?
「……プリンシェイク」
なかなか通なチョイスだ。
だが、手近な自販機では長門のリクエスト品が見あたらないため、わざわざ5分以上歩いてコンビニまで
出向く羽目になった。
「お待たせしました。朝比奈さん」
俺が時間をかけて買いに行ったため朝比奈さんは恐縮し、礼を言いながら紅茶の入ったアルミ缶を受け
取った。
「……ありがとう」
珍しく長門が礼を言って受け取るやいなや、常人には不可視なほどの猛烈なスピードで缶を振り始めた。
長門は秒間数百回と思えるほどの振動を加えている。
おいおい……それじゃあプリンがただの汁になっちまうぞ。
「……いい。わたしはこれが好き」
そ、そうか。別に他人の好みにとやかく言うつもりはないが……。
各自思い思いに飲み物でのどを潤すと、気分が落ち着いてきた。
俺は頃合いを見て朝比奈さんに話しかけた。
「朝比奈さん、あなたが未来に帰る理由はあるルートから聞きました。どこからかは言えませんが……。
今ならまだ間に合います。もう一度、考え直すというわけにはいきませんか?」
すると、朝比奈さんは何故か顔を真っ赤にして、
「えぇ!? キョンくん、理由を知っているんですか?」
なんだ、この反応は? 微妙にリアクションがおかしいな。
「……ええ。ですから、今日はあなたを説得するための良い機会だと思っていました」
しかし、朝比奈さんは顔を赤らめたまま、素早く数回かぶりを振る。
「でも、あたしはこれ以上この時代にいたら変になっちゃいそうだし、それに…涼宮さんのこともあ
るし…」
ハルヒが何か関係あるんですか?
「だって、あなたが涼宮さんのパートナーであることは、涼宮さんにとっても未来の安定にとっても絶対に
必要な条件なの」
何か、話がかみ合っていないような気がする。朝比奈さん(大)の話と食い違っていないか?
だが、今は逡巡している場合じゃない。この千載一遇の機会を逃してしまっては、俺たちは朝比奈さんを
手放さざるを得なくなってしまう。
俺は普段より35%増しの真剣な顔を彼女に向ける。
「俺がパートナーだとかは置いておいて、ハルヒも含めて俺たちは、あなたを必要としているんです。もち
ろん、俺にとってもあなたは大切な存在です。それにあなたはハルヒに悪影響を与えると思っているかも知
れませんが、あなたが帰ってしまうことの方がはるかに影響を与えます。下手をすればまたハルヒが閉鎖空
間を生み出しかねません。──ですから、もう一度ここにとどまって、俺たちと一緒にSOS団の活動をしま
せんか?」
朝比奈さんは、胸の内にいろいろな考えを巡らせながら琥珀色の潤んだ瞳を俺に向けている。
「キョンくん──あたしのことそんなに……でも……」
彼女の反応が少し大げさに見え、違和感を感じる。だが、まだ考えをつきかねているようだ。そうはいって
も俺の恥ずかしいセリフはもう出尽くしたぞ。これ以上何を言ったらいいんだ?
すると、それまで沈黙を保っていた長門が突如口を開いた。
「……あなたたち未来人が未来から見た過去は、必ずしもあなたの未来へと続く過去だとは限らない」
ん? どういう意味だ、長門。
「長門さん……それって、あたしたち未来人が行ってきたことが間違いだったと言うことですか?」
「全てがそうだとは言い切れない。だが、あなたたちが過去を操作することで無数の分岐が増えていくこと
にもなる。それに、あなたの知っている過去が変わっていたとしても、その事実が未来につながり、それが
未来の状況自体を変えてしまうとは限らない」
最初はまるで意味がわからなかったが、長門の言葉は、俺が未来と過去の関わりについて抱いていた疑
問に対して、いくらか氷解してくれるものだった。
そう、かつて朝比奈さん(大)が俺に言った『過去に来てみたら、わたしたちの知っている歴史と微妙にずれ
ていたら……』これを聞いた時点で疑問を持つべきだったんだ。
彼女のいる未来が、変化したとする過去とつながっているのならば、変化してしまった事実こそが真実となる
未来へと変化しなくてはならないはずだ。だが、彼女は歴史のズレを認識していた。
つまり、その変化した過去によって、未来までもが変化したわけではないということだ。
これで腑に落ちたぜ。
だが、長門の話が今の朝比奈さんとどういう関係があるんだ?
話の続きを期待した俺と朝比奈さんだったが、長門はもとの無口な宇宙人としての面に戻り、朝比奈さんを
見据えて最後にポツリと言った。
「……後はあなたが考えること」
自分の役目は終わったとばかりに、小さなその口を耐火金庫のように固く閉ざしてしまった。
「そう…ね、もしこの時代であたしがキョンくんと……ても…未来とは……なのかも」
朝比奈さんはブツブツと聞き取れない独り言を言っている。
これで朝比奈さんを説得できたかは自信がないが、ともかく集合場所へ戻ろう。
再び結集したSOS団のメンツは、駅前のファーストフードの店で昼食をとることになった。
飯の途中、ハルヒが差し出したくじ引き用のマッチ棒によって、新たな組み合わせが決定された。
それを見て、ハルヒはおもしろくなさそうな顔をしている。俺もその結果を見てがっかりするしかなかった。
そう、午後の探索は残念ながら古泉とペアになってしまったのだ。まったく、3時間にも渡って奴の蕩蕩た
る演説を聞く俺の身にもなってみろってんだ。
そして探索終了の時間を迎え、再び集合したとき、げんなりしている俺とは対照的に、朝比奈さんはずいぶ
んと涼やかな表情をしていた。何か吹っ切れたような気配があった。どうやら、最悪の結末は迎えずに済み
そうだ。
「これにて解散!」
ハルヒの解散命令によって、皆がそれぞれの居場所へと散っていった。
朝比奈さんは俺に、もう心配いりませんというようなウインクをして、手を振りながら帰途についた。
だが、俺はしばらく公園で突っ立って、気だるいような余韻を感じていた。
次第に気持ちが落ち着き、そろそろ帰ろうかと体を反転させると、長門が俺のすぐそばに立っていた。
「うおっ!」
驚く俺。長門はまだ帰っていなかったのか。
「長門、俺に話でもあるのか?」
コクッと、0.3ミリほどの首肯。
「……朝比奈みくるは未来への帰還を撤回した」
そうか、お前が説得してくれたのか、ありがとよ。
「ちがう、彼女に思いとどまらせたのはあなた。わたしは少し敵に塩を送る真似をしただけ」
なんだ、その言い回しは……。朝比奈さんはお前にとって敵なのか?
「それは言葉の綾。わたしは、朝比奈みくるを未来人としては敵視していない。それに涼宮ハルヒへの
悪影響を避けるためには、彼女にはここにとどまってもらう方がむしろ得策だと判断した」
最初は、朝比奈さんがいなくなってもかまわないようなことを言っていたお前が、考えを変えるとはな。
まあいい。どちらにしろ、長門の協力で朝比奈さんは未来への帰還を思い止まったんだ。
「長門、お礼に今度なにか飯でもおごってやるよ。なにがいい?」
長門は0.05秒ほど沈思黙考し、
「カレー」
と、一言述べた。
お前は戦隊もののヒーローか、と心の中でつっこみを入れながら
「わかったよ」
と了承した。
だが別れ際、長門は最後に気になる一言を放った。
「あなたはやっぱり鈍感。朝比奈みくるの未来への帰還に関する本当の理由に気づいていない」
本当の理由? 朝比奈さん(大)の情報との齟齬があったことには気づいたが、それはいったい何だ?
「……教えない」
と、フードをかぶるとさっさと駅に向かった。
俺は納得のいかない心持ちで日曜を過ごし、そして翌週の月曜日になり、ついで放課後を迎えた。
俺がSOS団の部室に立ち入ると、俺を見た朝比奈さんが俺の胸に飛びこんできた。
一瞬何が起こったのか理解できず、目を白黒させて混乱している俺に対して、朝比奈さんはさらに体を
押しつけてくる。
「あ、朝比奈さん。そんなに押しつけられると、俺のいろいろな部分が困っているんですが……。それに
古泉や長門がこっちを見ていますよ」
しかし、朝比奈さんはそんなことはお構いなしに、俺にふくよかな部分を押しつけたままだ。
「キョンくん。あたし、あの後ずっと考えていたの。あなたや長門さんに言われたことで、あたしの中で
わだかまっていたことが消えていった気がするわ。あたしが、こんなことをして、たとえ涼宮さんからあ
なたを奪い取っても、未来には影響ないんですものね。これからは遠慮せずにキョンくんにアタックする
ことに決めたの」
……な、なんだってー!? ひょっとして朝比奈さんが未来に帰ると言っていた原因は俺、なのか?
俺はこの時に至ってようやく理解した。長門や古泉の発言にも合点がいく。
長門が言った『あなたはやっぱり鈍感』のフレーズが脳内でリフレインする。
そんな時、部室のドアが乱暴に開け放たれ、騒動の種がやって来た。
「おっくれてごっめー……あ、あんたたち、なにしてんの!?」
……俺は生き延びることが出来るか?それは難問だ。
だが、朝比奈さんはハルヒの咆吼にもまるで怯えることなく、逆に言い返した。
「涼宮さん。あたしがキョンくんとこうしていることに何か問題でもあるんですか?」
朝比奈さんの思わぬ切り返しに二の句が継げないハルヒ。言葉を探しているようだが、朝比奈さんは
追い打ちをかけるように攻撃を続ける。
「涼宮さん、あたしが本気なら協力してくれるって言ってくれたじゃないですか。だから、あたしは
あなたにライバル宣言をしちゃいます」
「み、みくるちゃん。なにも今そんなことをいわなくったって。それに、ライバル宣言ってなによ!
あ、あたしは別に、キョンのことなんか……」
朝比奈さん、何か性格まで変わっていませんか?しかも、ハルヒをやりこめるなんて初めて見たぜ。
「涼宮さんがキョンくんのこと何とも思っていないんなら、あたしがこうしちゃいます」
と、朝比奈さんは俺の腕をとり、自分の腕を絡めてくる。
怒りで我を忘れそうになっているハルヒは、ワナワナと体を震えさせている。
部室の空気がピリピリと痛い。この場からすぐに遁走したい気分だが、朝比奈さんに腕をとられて
いるため動けない。
他の2人を見ると、古泉はあくまでも傍観者としての態度で、興味深そうにこの修羅場──なのか?
──をみつめている。
長門はというと、爪をかみながら『失敗した』とつぶやいている。
ある意味ハルヒより怖い。
果たして、一時間後に俺は存在しているのだろうか?
ここからは後日談だ。
あれ以来朝比奈さん(大)からのコンタクトはない。ただしある日の下校時、下駄箱に一通の手紙
が入っていた。
そこには『ありがとう。そして嘘をついちゃってごめんなさい』という文章がしたためられていた。
今頃、朝比奈さん(大)はどうなっているのか?それとも長門の言うようにつながりはないのか。
それはわからなかった。
次に、古泉によると、ハルヒは閉鎖空間を生み出してはいないらしい。
「涼宮さんは、朝比奈さんとのあなたへの恋のさや当てによって、適度に退屈と憂鬱を解消して
いますから」
なんでも、そういうことだそうだ。
『あー、あー、聞こえないー』と、耳をふさいでいたい気分だ。
そして、今日も今日とてハルヒと朝比奈さんは、俺に手作り弁当を手渡すなどして、互いに張り
合っている。
騒動はこれで解決した、のか?
終わり