…。
…信じられない。
お前が…まさか…?
「そうですよ。このために僕はSOS団にいたんですから」
朝比奈さんと長門が消えてしまった。
古泉一樹の手引きによって。
…冗談だろ?
だがこいつは今まで数えるほどしか見せなかった真剣な眼差しをしている。
「約束しただろ。俺の窮地を一度救うってお前は言ったはずだ」
「前提が違ったらどうです?僕がスパイであったなら、そんなものを守る義務はないんですよ」
古泉はくっくっと笑う。今までずっと騙してたのか…!?
「騙してたですって?任務に忠実に行動していたまでですよ。この日の為にね」
俺と古泉は視線を外さず睨み合っている。
なぜこうなったのか…。
フラッシュバックのように記憶が蘇る。
春休みだった。
SOS団はここしばらく活動をしていない。
それはハルヒが終業式にやったパーティーと、
その後制服のまま行った市内探索に満足しているからであり、
このままいけば平穏無事に新学期がやって来る。
…はずだった。
ある夜、一本の電話から事件は始まる。
携帯には長門有希と表示があり、ためらいなく俺は電話に出る。
「朝比奈みくるが誘拐された」
これが第一声だった…。
ちょっと待て。
言っていい冗談と悪い冗談があるぜ。
この前の幽霊騒動での禁則事項のくだりはなかなか傑作だったが、これは不謹慎だ。
「冗談ではない。現在ある場所に閉じ込められている」
電話越しの空気はたわいない世間話をするムードではない。
「分かった。まずお前のマンションに行く。話はそれからだ」
過去最短記録で長門のマンションまで着いた。
もう四月間際とはいえ、夜はまだ寒い。
だが事態はそんなことを気にしている余裕を与えてくれない。
長門はマンションの下で待っていた。
場所を移すのももどかしく、俺は即座に質問を開始する。
「どうやって誘拐を知ったんだ?」
「電話があった。二十三分前」
「相手は誰だ?」
「わからない。しかし我々に敵対する勢力のいずれかによるものと思われる」
「古泉には連絡したか?」
と言うのと同時。
黒塗りタクシーが後ろに止まり、古泉が現れた。
「朝比奈さんが誘拐されたと長門さんに聞きました」
いつもの微笑はなく、強張った不慣れな表情をしていた。
長門は淡々と言葉を続ける。
「相手は要求をしてきた。わたしたち三人だけで朝比奈みくるを迎えに来いと」
「時間はいつだ?」
「可能な限り早く。さもなくば彼女の安全は保証しない。そこで電話は切れた」
またなのか。またあいつらか?一度失敗したくせに懲りないやつらだ。
俺は腹が立ってきた。こんどこそぶん殴ってやる。
「こういう時こそ冷静になるべきです」
古泉は俺を諭すように言った。んなことは分かってる。
「…どうしますか?すぐに向かうのならば車を出しますが」
いや。待て。まだ疑問がある。
「長門、朝比奈さんは電話に出たか?」
「出ていない」
「家にいるってことはないのか?寝ているとかさ」
「わからない」
「まず朝比奈さんの家へ行ってみることが先決ですね」
「そのようだな」
即座に俺たちは車に乗り込んだ。
…結論から言えばいなかった。
まず電気が消えていて、鍵がかかっていた。
俺は一年も経って初めて朝比奈さんの家に来たが、感慨に浸る余裕などない。
なぜなら長門が鍵を開けても中には誰もいなかったからだ。
あのカマドウマ事件を思い出す。
今回は異空間に閉じ込められているわけではないようだが…。
「どうしますか。機関の者を僕たちの周囲に護衛としてつけることは可能ですが」
「そうだな…。長門はどう思う?」
「感付かれた場合、朝比奈みくるの危険度は増加する。三人で行った方がいい」
どちらにしろ随分危険に思える。相手がどんな手を使ってくるか分からない。
「地球人レベルの攻撃はわたし一人で全て防げる。大丈夫」
ここは車の中。夜の高速を快速で走る。
ドライバーは新川さんではなかった。古泉に訊くと、
「今日は別の用事があるんですよ。
機関の人員は、一人が複数の任務を抱えているケースが普通です。
僕についても『神人』退治要員とSOS団副団長という二つの役職がありますからね」
如才ないいつものスマイルに戻っていたが、俺にはそんな余裕がない。
ひたすら朝比奈さんが心配だった。
今回は誘拐された状況がわからない。相手もはっきりしない。
少しでも手を出したら許さないぜ。ハルヒを焚きつけてでも懲らしめてやるからな。
「落ち着いてください。気持ちは分かりますが」
お前は前回も冷静だったな。
「あれでも焦っていましたよ。もちろん今回も。
ですが取るべき行動を誤るようなことがあってはなりません。
今は朝比奈さんを安全に救助することが最優先です」
長門は窓の外に視線を向けていた。何を考えているんだろう。
車は料金所を下りる。いつぞや古泉と神人見物に行った場所よりもう少し遠い。
たどり着いたのは巨大な地下駐車場だった。いかにもなセレクトだな…。
車は二度ほど右折して停車。
遥か遠くに向き合う形で停車しているのは、同じような黒塗りの車。
俺たち三人は下車する。車内で打ち合わせた通りに。
向こうの車からは男が一人出てきた。朝比奈さんの姿は見えない。
俺たちは並んで歩き、男から十分に距離を取って立ち止まる。ここからなら会話は届くだろう。
「朝比奈さんはどこだ」
自分でも驚くほどのシリアスな声だった。
「車内だ。眠っている」
音域で言えばバス。細身の割にやたら渋い声だ。年は四十代、五十代…。
これまでに見たことがない顔だ。
「どこの連中の仲間だ?宇宙人か、未来人か、どこかの機関か?」
男は何も言わずに俺たちを睥睨した。侮蔑するような眼差し。
それを見ているだけで腹が立ってくるような。また身体が火照るのを感じる。
「約束どおり、僕たち三人だけです。朝比奈さんを返してください」
古泉が言った。合流した時と同じ、笑みを拭い去った顔。
男はしばらく黙っていたが、やがてこう言った。
「条件を提示する。君たちのうち一人が残り、あとの二人は車まで戻れ。
残るのは誰でもいい。その上で人質を解放する」
胡散臭い。
まだ朝比奈さんの無事を確認できていないし、
そんな条件をやすやすと飲んで無事でいられるとは思えない。
そもそもこの男の目的は何だ?
「わたしが残る」
長門がこちらを見ずに、はっきりとそう言った。
「それが一番安全」
「だが長門…朝比奈さんが無事かまだ分からないんだぞ」
「彼女は車内にいる。反応も正常。眠らされているだけ」
そうなのか。…本当に平気なのか?
「信じて」
俺は古泉の方を向いた。アイコンタクトをしつつ古泉は頷きを返す。
俺と古泉は車までゆっくりと戻った。
ここからでは男の声は聴こえない。
長門が歩き出す。男の前まで。
何か会話したらしい。一回、二回長門が頷いたように見える。
長門はそのまま車まで歩いていき、後部座席のドアを開ける。
その直後―。
男が長門の方を振り向き、数瞬の後。
長門が忽然と消えた。
何かに隠れたとか、徐々に色あせたとか、そういうことではない。
まさにその場から一瞬にして消えた。
―直後に俺は古泉に肩を抑えられていた。
「慌てては相手の思う壺です」
無意識で俺は駆け出そうとしていた。喉の奥が熱い。
「僕も行きます。今があの約束を果たす時かもしれません」
俺たちは急いで男のところへ戻る。
男は喜色を隠しもせずにこちらを眺めていた。
「ふっふっふっはっはっはっはっはっは!
これで目的は達成だ!ご苦労だったな小僧!!」
RPGのボスキャラのようなセリフを言ってもちっとも浮かない状況だった。
「これで邪魔者はもう現れない」
これが狙いか…?どうやって長門を消した?
「お前もご苦労だったな。長かっただろう…古泉」
何だ?
咄嗟に状況がわからない。どういう意味だ?
「ふふ、そうですね。実に長かったですよ。…全てはこの日の為でした」
古泉が笑っている。
俺は驚愕と同時に頭が白んでくる。
おかしいだろ。
笑えるって意味でじゃなく、異常って意味でだ。
笑う状況じゃないはずだ、長門が消えたんだぞ。
「長門と朝比奈さんはどこだ」
「二人一緒に消してやった。元の場所へな」
「これで平和になったというものです」
「古泉、あとの始末はお前の仕事だ。しっかりやれ」
そう言うなり男は車に乗り込んですぐさま立ち去ろうとする。
「待て!」
「待つのはあなたですよ」
手首をつかまれた。思いのほか強い力で。
「古泉、てめぇ…敵だったのか」
「敵、ですか?それはまたいかようにでも取れる言葉ですね。
僕はあなたを敵だとは思っていません。
何せあなたは一般人ですからね。
思いのほか知りすぎてしまったことを除けば…ですが」
「減らず口がきけなくなる前に説明しろ。お前はスパイだったのか?」
古泉は笑っている。
悪乗りをしだした時の表情をずっと延長させたような、悪意すら感じる笑み。
「そうですよ、このために僕はSOS団にいたんですから」
ここで現在に記憶が追いつく。
任務だと?この一年すべてがか?
「えぇ。大変でしたよ。何から何まで。
宇宙人と未来人の両者を出し抜かなければなりませんからね」
一体何をしたんだ。
「両者がこの時代に干渉できないようにしたんですよ。
朝比奈みくるは未来に返しました。
成長した彼女であれ、今から前後数年にはもう来ることができないはずです。
既定事項の言葉だけで未来を確定されるのは…看過できない問題ですからね」
…許せん。拳が震えてきた。
「長門有希も同様です。思念体のTFEIはもういないはずですよ。
彼女の勢力は変化を望んでいましたし、いつ何をするか分かりませんから」
「どうやって二人を消したんだ」
「敵対勢力、とあなたは言いましたか。
そんなに単純な構図ではないのですよ。
この一年、我々は交渉チャンネルを探りつつ、準備を進めてきました。
そして別口の未来人や他の広域宇宙体による端末と接触を図ったんです」
前回の誘拐未遂グループの顔が脳裏をよぎる。
「違いますよ。彼らとはまた別です。
彼らは我々にとっては好戦的すぎますからね。
…まぁともかく、新たな未来人と宇宙人と手を組んだんですよ」
「ハルヒの力は弱まっていたんだろう。
ならこんな強攻策を取る必要はないんじゃないのか」
「だからこその安全策ですよ。
あなたに分かってもらえるとは思っていませんから、事前に説明もしませんでした。
阻止するでしょうからね、あなたは」
かつてないほど俺は怒っていたが、同時に途方もなく動揺していた。
古泉。お前は今SOS団が一番大切とか言ってなかったか。
俺とハルヒだけじゃなく、全員の間に信頼関係ができているとか言ってなかったか。
…あれも全部嘘なのか?
大した演技力だな。学園祭のヘタな演技も演技なのか。
「その通りですよ。あの日。
閉鎖空間からあなたと涼宮さんが帰ってきてから。
我々は今まで以上に深刻に事態を受け止めました。
不確定要素があまりに多かったのはその後起きた出来事の多さからもお分かりでしょう?
結果的に涼宮さんの退屈しのぎにはなりました。
ですが、そのどこで彼女に真実が知れても不思議はありませんでした。
僕が特に危惧したのは映画撮影と雪山ですね。
あの時は本当に肝を冷やしましたよ。
未来人や宇宙人が近くにいると、そういうことが起こりやすくなるんです」
超能力者は許されるのかよ。
「僕たちは状況を限定された能力者ですから。
あの一件を除いて、涼宮さんが閉鎖空間に来たことはありませんしね」
ハルヒが長門と朝比奈さんの消失を知ったら、それこそまた世界を作り変えるんじゃないのか。
「かまいませんよ。
その時現れるのは長門さんであって長門さんでない、
朝比奈さんであって朝比奈さんでない人物でしょうから」
意味が分からない。
「つまり一般人の長門有希と朝比奈みくるが現れるというわけです。
涼宮さんは表面的に我々を一般人として認識していますからね。
彼女が二人の帰還を望めば、見たまま普通人として二人はSOS団に復帰するでしょう」
お前はそれでいいのか。
「貴重な体験をしている、といつか僕は言いましたね。
ですがこんなのは命がいくつあっても足りませんよ。僕が仕組む舞台だけで騒動は十分です」
しばしの沈黙。俺は言葉が見つからなかった…。
「殴るなら好きなだけどうぞ。それで気が済むのなら。
お望みなら僕はSOS団を退いて、また転校しますよ。
それで世界の平穏が保たれるのなら、安いものです」
「古泉…」
「何でしょう?」
「お前本当にそれで満足なのか?」
「えぇ、今ほど幸福な瞬間もありませんね。僕はこの能力をずっと恐れていました。
なにせいつ来るか分かりませんからね。
特に初めのころはトラウマものですよ。今でも夢に見ます」
「お前は思わなかったか?」
「何をですか?」
「平凡すぎる日常がつまらないとか、ちょっとは変なことが起こってほしいとか」
「思いませんね。思ったとしても、もう十分ですよ。
超常現象が普通になってしまったら、もうそれは超常でもなんでもありません。」
「たまにはそういうのがあったほうが面白いだろ」
「あなたもおかしなことを言いますね。
これで終わったんですよ?もっと喜んだらどうですか」
「お前の本心が分からなくなった。
いや、もともと分かってなかったのか…」
「僕はいつだって正気ですよ。
今だって笑いが止まりませんから…ふふふ」
「何がおかしいんだ。おかしいのはお前の頭だろ」
「ふふふふふ、あっはっは、もう駄目です」
こいつの笑いの質が変化した。どうしたのだろう。
「僕の負けです。あぁ、もう少しなんですけどね…惜しいなぁ」
「何のことだ?」
「出てきていいですよ、長門さん、朝比奈さん」
二人が古泉の後ろに停車している車の陰から出てきた。
俺、絶句。
「ごめんなさい、キョンくん!」
朝比奈さんが1000回近く頭を下げている気がする。
「絶対にしないだろうと思われるようなことをしてみた、ということですね」
古泉が助手席から笑いかける。気持ち悪いくらい柔和な笑みだ。
「賭けをしていたんですよ。僕があなたを騙し通せるかどうか。
長門さんと朝比奈さんは僕が途中で折れるほうに賭けましてね。
見事に負けてしまいました。本当にゲームに弱いのはどうしようもありません」
壮大な芝居。建前は来年のハルヒ映画続編に向けた演技力の強化。
…って、朝比奈さんは何も演技してねぇじゃねぇか!
「どうしても誘拐される役が必要だったんですよ。
リアリティーを考えると朝比奈さんが適任なんです」
長門が消えたのは…
「自分で空間転移を行った」
宇宙的パワーは封印の方向でまとまったんじゃなかったのか。
「…おもしろいから」
本日数度目の驚愕。
長門が面白いと思うものが本以外にあったなんてのを初めて明言されたぜ。
「愉快な夜でしたね。最近涼宮さんが些細なことで満足してしまうので、
僕達の方が少しばかり退屈だったんですよ。
涼宮さんにあまり娯楽を提供しすぎるのもどうかと思いますし、
今回は少し趣向を変えてやってみました」
あの声の渋い男が特殊メイクした新川さん、車の運転手はなんと男装した森さんだった。
やれやれ。やれやれ。
二回言ってもまだ足りないくらいだ。
避難訓練にリアリティがありすぎると、逆に本番で気が抜けちまうぜ。
第一俺はいつお前の暇つぶし相手になったんだ?
「おや、いつも部室でゲームしていたのは…暇だったからではないのですか?」
二の句が次げねぇ。
「今回のは反則だ。メインの騒動を題材にするなよ。
それに…あんまり巧妙だといつか見抜けなくなる」
「いや、あなたの本音がいくつか聞けて、大満足ですよ」
これは何かで仕返ししてやる余地ありだな。この野郎。
「おこった?」
長門が訊いてくる。確かに途中は本気で腹を立てたさ。
だが今となっては…安堵している。
あんなのが現実になれば俺は自分の足で立っていられなくなるだろう。
森さんの運転する車は俺たちの街へ夜の闇を駆ける。
古泉の芝居での台詞にひとつでも真実があったのか考えつつ、
エイプリルフールにだけは絶対騙されまいと決意を固くする俺であった。
(おわり)