家に帰って妹相手に遊んでやりながら夕食を待っていると、充電していた携帯電話から着信音が流れ出した。
「あー、電話〜。いったいだれから〜?」
足元に転がるシャミセンを妹に渡して携帯電話をとる。
ディスプレイに表示された発信元を見て驚き、わたしは慌てて通話ボタンをオンにした。
「どうしました、朝比奈さん。なにかまた困ったことが起こりましたか」
朝比奈さんから電話がかかってくるなんて、本当に珍しい事だ。
そしてその珍しい電話がかかってきた場合、朝比奈さんが何らかのトラブルに巻き込まれたという内容が殆どである。
……もしかして、わたし朝比奈さんに愛されてない?
そんな泣きたくなるような結論を大気圏外まで放り出し、わたしは朝比奈さんの話を聞くことにした。が、
『…………喫茶店に、来てくださぃ……』
朝比奈さんに一番似合わないと思われる沈痛な声色を伴い一言だけ告げられ、すぐに電話が切られてしまう。
世界遺産の一大事を感じ取ったわたしは、いったい何の電話だったのかと付きまとう妹をシャミセンごと部屋から放り出し、
慌てて支度を整えるとツール・ド・フランスで入賞は狙える速度で自転車を走らせ、SOS団御用達の喫茶店へと向かった。
喫茶店に入り団員が好んで座るボックス席を見ると、わたしにとって見間違うはずの無い我が心の桃源郷がうつむきながら、
まるで核戦争後の世紀末で、これからの未来に絶望を抱いて生活する市民のような表情を浮かべていた。
もちろん朝比奈さんである。エンドレスの時のように取るものを取って出てきたような格好だ。
入口のベルに反応したのか、ゆっくりと顔をあげてこちらを見る。
わたしが手を振り挨拶しようとした途端、朝比奈さんは勢いよく立ち上がり、座席に足を激しくぶつけた為に机上のティーカップを舞踏させ、
しかしその全てを完全に無視してこちらへ駆け寄ってくる。
そして迷子になった子供がようやく両親に出会えたかの如く、わたしの胸へと一直線に飛び込んできて力いっぱい抱きついてきた。
あまりのイベントに店内中の視線がわたしたちに集まる。そろそろ喫茶店のブラックリストにわたしたちの名前が記されていてもおかしくない。
「な、ちょ、朝比奈さん? どうし……」
そこまで言いかけ、わたしは口を閉ざした。どうしたもこうしたも無い、わたしには思いっきり心当たりが一つある。
それを証明するかのように、朝比奈さんが押し付けていた顔をわたしに向けて急上昇させると
「酷いですよぅっ!! 何で……何でわたしにも教えてくれなかったんですかぁっ!」
朝比奈さんと知り合ってから今までで、おそらく自分のした行為に一番後悔したであろうこの台詞を聞きながら、
わたしは何も言えずその場に立ち尽くすだけだった。
- * -
わんわんと泣いている朝比奈さんをどうにか席まで連れて行き、周りと店員に一応頭を下げて、ついでに注文を伝える。
その間、ボックス席に並んで座った朝比奈さんはずっとわたしにしがみ付いたままだ。
とりあえず朝比奈さんが落ち着くまでわたしは何も語らずに、ただじっと朝比奈さんの行動を受け入れていた。
しかしこの雰囲気は何だか別れ話を持ちかけているカップルの様な状態だな。
……まぁ、実際その例えは間違ってないんだが。
ひとしきり泣き終え、ようやくコミュニケーションが取れる程度には落ち着いてきたのか、朝比奈さんは涙混じりの声で、それでも一つ一つ語ってくれた。
「ひくっ、長門さんが……教えて、くれたんです。古泉くんと、えぐっ、話し合って決めた、とかで。
口止めされてて、でも、あなたは仲間だから、って……わたし、初めて言われ……」
なるほど、駅での目配せはこの事か。
実のところ、長門と古泉の二人が再改変を阻止するため、本物のキョンに対して戦いでも始めやしないかと危惧していた。
でもあの二人はそんな些細な事じゃなく、もっと重要な事を話し合っていたのだった。
「キョンさんの気持ちは……えぐっ、わかりますぅ。わたしだって、いつかはいなくなる……。
帰らなくちゃ、いけないから……別れるのはつらいから……ふえうっ……。
でも……でもっ! 何で、何でわたしだけ、教えてくれなかったんですかぁっ!
長門さんや古泉くんにはちゃんと教えてるのに……何でわたしだけのけ者にするんですかあっ!」
朝比奈さんはわたしが一生見たくなかった、真珠より尊い悲しみの水滴をぼろぼろと落としながら訴えてくる。
湧き上がってくる感情にまかせてか、朝比奈さんは今の思いを、今までの想いをただ純粋にわたしへとぶつけてきた。
「キョンさんにとってっ、わたしはその程度の存在だったんですかあっ!
わたしだけがっ! キョンさんと友達なんだって、思い込んでいただけなんですかあっ!
……そんなのって、ないです……えぐっ……イヤです……凄く、悲しいですよぅ……イヤだよぅ…」
わたしの胸元を、その小さく色白い両手が真っ赤になるぐらい強く握り締めてくる。
その両手に頭をぶつけ、わたしにその顔を見せないようにうつむくと、朝比奈さんは再び嗚咽しだした。
朝比奈さんの独白を聞き、その熱い思いを突きつけられ、わたしは黙っていた事が間違っていたと思い知った。
朝比奈さん(大)に秘密にして欲しいと言われたからもあった。だが、それ以上にわたしは自分の考えを
朝比奈さんに対して勝手に押し付けてしまっていた。
そりゃ朝比奈さんでなくても怒る。水臭いとかそんな可愛い話じゃない。愛されてないのも当然だ。
わたしだったら蹴りの一つも飛ばして怒号している事だろう。
わたしの事をバカにするな、と。
「朝比奈さん、すいませんでした」
わたしはしがみ付いて泣く朝比奈さんの肩を抱き、小さく、でも精一杯の心を込めて謝罪した。
「……実は困ったことが起こりました。いえ、今現在起こっている真っ最中なんです。
それは朝比奈さんにとって、ただ悲しい事実がわかるだけかもしれません。
それでも……わたしと一緒に、困ってくださいますか?」
胸元を掴んだまま朝比奈さんはじっとしている。小さな嗚咽も続いている。
やがてゆっくりと、だがしっかりした頷きを見せて、わたしに対する意思を見せてきてくれた。
「もちろんです、キョンさん」
- * -
真っ赤になった瞳に真剣の色を終始浮かべ、朝比奈さんはわたしの話を最後までじっと聞いていた。
朝比奈さんが長門たちから聞いていた事実はわたしについてだけのようで、それがどうしてわかったかとかは知らないようだった。
なので未来からの連絡で改変が行われた事がわかったことと、そして十時間後に行われる再改変の事を、わたしは全て朝比奈さんに伝えた。
唯一伏せたのは、その情報を持ってきたのが朝比奈さん自身だという事だけだ。
「そんな、未来からだなんて……わたしそんな話全く聞いてません! 何かの間違いじゃないんですかっ!?」
そうだったら嬉しいんですが、事実です。
わたしの知る限り朝比奈さんと同じぐらい信頼できる人からの情報ですので。
「でも、でも…っ! わ、わたし聞いてみますっ! ちょっと待っててくださいっ!」
いてもたってもいられなくなり、朝比奈さんはそう言うとレストルームへと走っていってしまった。
「……ばらしちゃいましたけど、これで良かったんですか?」
ボックスに残されたわたしは誰にとも無く呟いた。が、その呟きに対し
「ええ。ここでわたしがあなたと未来から事実を知る事が、わたしにとっての規定事項ですから」
とわたしの後ろの席から背中合わせに返してくる女性の声があった。
朝比奈さんを伴って席に着こうとした時に、一瞬だけ眼を合わせてきたその人。朝比奈さん(大)である。
「あなたが来たって事は、わたしに何か用件があるんですよね」
「はい。これをあなたに渡す為に、もう一度戻ってきました」
そういって朝比奈さんは立ち上がると、わたしの手に何かを渡してきた。
小さなカプセル剤に見えますが、いったいこれは何なのでしょうか。
「それは睡眠薬です。抗体の無いこの時代の人なら飲ませれば即効果が現われるはずです」
睡眠薬と聞くと犯罪っぽい感じがするのは偏見だろうか。
あと十時間以内にこんなのを使う状況がわたしに訪れると言うんですか。
「はい。詳しくは言えませんが、どこでこれを使うべきか、その時になったらわかります。それと一応」
わたしが何を見ているのか気づいたのか、朝比奈さんは少しだけ大人の微笑みを浮かべて続けてきた。
「それ、わたしには効きませんよ」
ほんの少しだけ残念な素振りをみせ、わたしは朝比奈さんのグラスから視線を外した。
朝比奈さん(大)がレストルームに視線を送る。
「じゃあ、本当にこれで。……あの無力なわたしを、どうかよろしくお願いします」
そして自分の唇に指を添えると、その指でいつくしむ様にそっとわたしの唇を指でなぞってきた。
何が起こったのかわからず、わたしが目を丸くしていると
「間接で、簡単ですけど。これがわたしの答えです」
朝比奈さん(小)と同じような珠玉の涙を流しながら、それでも朝比奈さんは至上の微笑を浮かべて、わたしに優しく伝えてきた。
- * -
「……わたしって、本当に役立たずですね」
朝比奈さん(大)が店を後にしてから少し後。
長い間レストルームへ行っていた朝比奈さんは、席に戻ってくるなり小さく自虐的な事を呟いた。
「何の力も権限もなくって、ただここにいるだけしか、わたしにはできない」
どうやら朝比奈さんは未来との通信で確認を取るだけでなく、何とかして改変を止められないか申請してくれたらしい。
だがその必死の申請は受け入れられなかった。
朝比奈さんにはつらい事実だがそれも当然の話だろう。
もし未来にとってその願いが受理される事項なら、そもそもこんな騒動自体起こっていないはずだ。
「長門さんの様な能力や、古泉くんの様な知恵もない。肩書きだけでなぁんにもできない、ダメな未来人です。
いっつもキョンさんたちに頼ってばっかり。
この前も、キョンさんや古泉くんの組織さんたちに助けられちゃいましたよね。
キョンさんが大変なこんな時にこそ、わたしは役に立ちたいのに……。
最近特に思うんです……わたしは何でこの時代にいるんだろう。何でわたしなんかがSOS団にいるんだろう、って……」
言葉がどんどん小さくなる。言葉だけでない、その愛くるしい姿も今は悲しいぐらい小さく見える。
わたしは一度氷水で喉を潤すと、
「朝比奈さんにだって、力はあります」
俯いて閉じこもりかけた朝比奈さんに、できる限りの想いを込めて声をかけた。
- * -
「少なくとも、わたしは朝比奈さんが心を込めて淹れてくれていたお茶に毎日癒されてました。
わたしは毎回、ちゃんと欠かさずに朝比奈さんへお礼を言っていたつもりです。
ハルヒだって何だかんだでありがと、とか美味しいわね、とかよく言うじゃないですか。
古泉はいつも型どおりの挨拶で、長門は口にすら出しません。
でもおもむろに自分で淹れたり、差し出されたお茶を残したりしたヤツはいなかったでしょう?
何だかんだで、みんな朝比奈さんがくれる平和な一時を期待してるんですよ」
「それと朝比奈さんは一つだけ大きな勘違いをしてます。
SOS団は別に、ハルヒの起こすランチキ騒動や宇宙人のトンデモバトルや超能力者の組織対立を解決する平和団体じゃありません。
忘れちゃったんですか? 最初にハルヒが言ったじゃないですか。
SOS団は、宇宙人や未来人や超能力者と『一緒に遊ぶ』のが目的だって。
だから難しい事を考えないで、素直に遊んでていいんです。
みんなが退屈で憂鬱な気分にならないように、それこそがハルヒの望みなんですから。
わたしに言わせれば、朝比奈さんこそがハルヒのSOS団への想いに一番応えてると思いましたよ」
「それに何より、朝比奈さんはわたしたちの大切な仲間です。
だからこそ、朝比奈さんは長門と古泉から、今回のわたしの事を教えてもらえたはずです。
正直言ってわたしがびっくりしましたよ。いつの間に三人がそこまで親しくなったのかって。
古泉も長門も、朝比奈さんの属する未来の事はともかく、朝比奈さん自身の事は認めています。
朝比奈さんもじゃないですか? 思念体や組織はともかく、あの二人は信じていいと思ってませんか?
だったらどんどん頼っちゃっていいんです。
これだけは断言します。どんなに面白設定があったって、人の信頼を迷惑だと思うヤツなんて、ハルヒは絶対に団員に選びませんよ」
「それと、えっとあれだ。役立たずというならわたしこそ……」
とにかくこういう時は一気に告げてしまうべきだ。そう考え更に言葉を続けようとした時。
朝比奈さんはわたしの言葉を、その可愛らしい人差し指わたしの口に当てる事で止めてきた。
嬉しさを幾分混ぜ合わせた、ほんのりと照れた表情で、朝比奈さんはわたしが痺れるぐらい優しい声を、たった一言だけ紡ぎだした。
「……ありがとう、キョンさん」
それで充分だった。
- * -
それから二時間ほど朝比奈さんと喋りまくった。
SOS団の活動から始まって、映画のあたりまで古泉と牽制しあっていた事、二度の合宿や夏休みの事。
鶴屋さんと出会った事、クリパとバレンタインとみちるになった事、色々着替えた事などなど。
喫茶店を出ると、寒い中にも春を感じる心地よい風が吹いていた。
朝比奈さんを駅前まで送ろうと、店脇に止めてた自転車を取りに行く。
「お待たせし──」
自転車を押して戻ると、朝比奈さんはネオンサインを途切れさせるビルの影をバックに、ハンカチで瞳をぬぐっていた。
こちらに気づくと慌ててハンカチをしまい、暗がりで気づきにくいが赤く腫らした頬で微笑んでくる。
「……強い風で、目にゴミがはいって……でも、もう大丈夫です」
そんなちょっとだけ虚勢を張る朝比奈さんを見ていたら、思わず口に出してしまっていた。
「本当に大丈夫ですか? ……ちょっと、目を見せてください」
「え」
自転車を置き片手で軽く抱き寄せ、もう片方の手を頬に添える。親指を動かして下まぶたを軽く引っ張り、
涙のせいで光が乱反射する、充血に染まったブラウンの瞳をじっと見つめた。
「ぇ……ぁ……ふぁ……キョ、キョン、さん……」
「……動かないで、朝比奈さん。そのまま少しの間、眼を閉じてください」
「え、あ…………はぃ」
そう言って律儀に瞳を閉じたところで、わたしは朝比奈さんとの距離をゼロまで近づけた。
人生二度目、そして二人目の唇が感触を、文字通り触れて感じ取る。
ただ触れるだけの、長く思えたその行為は、どちらからとも無く顔を離す事で終わらせた。
わたしに残された時間と場の雰囲気が後押ししたとはいえ、いくらなんでもいきなりだったとわたしも思う。
「不意打ちなんてずるいです……初めてだったんですよ、わたし」
朝比奈さんは怒っていた。但しわたしの感じる限り、表面的に。
えっと、ごめんなさい。わたしとじゃ、イヤでしたでしょうか。
それでもおそるおそる尋ねると、朝比奈さんは唇を押さえてうつむき、
「……えっと…………その答え、今は保留でいいですか? 全部含めて保留って事で」
どこかで聞いたような答えを返してきた。
なるほど、保留ですか。
あまりな懐かしい返し方に、わたしと朝比奈さんはどちらからとも無く笑い出した。
そのまま駅まで朝比奈さんを見送る。朝比奈さんはぺこりとお辞儀をすると、いつもの天使の様な微笑を振りまき告げてきた。
「それではキョンさん、また明日」
ええ。また、明日。
古泉、長門の時と同じく、わたしは朝比奈さんにもそう告げて別れた。
- * -
夕飯ぶっちぎりで家に帰り、親に注意され食卓につく。
何故かメインディッシュのハンバーグが何者かによって半分食われてた事に関しては、妹が入浴している風呂場に裸で突撃し、
シャンプーハットを装備した頭を洗ってやりながらじっくりと詰問する事にした。
「だって、今日のハンバーグおいしかったんだもん」
舌を可愛く出しながらウインク姿を見せ、妹はあっさりと白状する。
わたしは罰として、五十数えきるまで湯船の中から出る事を禁じてやった。
窓を少し開けて風を部屋に通す。
こんな時に眠っていられるはずも無く、部屋でラジオを聞き流しながら、わたしは朝比奈さん(大)から受け取ったモノを見つめていた。
即効性睡眠薬──いったいこんな物、何に使うんだろうか?
ベッドで横たわりながら考える。妹の部屋から抜け出てきたのか、シャミセンはわたしの傍らで眠っていた。
ラジオから十二時を告げるCMが流れ出す。
「あと五時間か……」
そう考えても実感が湧くはずも無く、わたしは明日が今日に変わる瞬間をぼうっとした脳で聞いていた。
ピッ、ピッ、ピッ、ポーン。
そのポーンと同時に枕元に置いていた携帯が鳴りだした。
「な、何だ!?」
何事かと驚き、次に再改変について長門あたりからの電話かもと考えた。
だが充電器から携帯電話を外し、ディスプレイに表示される発信者の名前を見て、わたしは再び驚いた。
こんな時間にどういう事だ? 何故コイツから?
そんな風に思いながら電話を取ると、電話の相手は相変わらず主語を抜いて話をしてきた。
『玄関を開けて』
何だ? 玄関だと? それってどこのだ?
…………まさか。
わたしは部屋をそっと出て、家族を起こさないよう静かに階段を降りて玄関を開ける。
するとそこにはスポーツバッグを片手に持ち、両腕を胸元で組んで、不敵と素敵を器用に混ぜた笑みを浮かべつつ──、
「さ、明日になったわ。アンタの悩みを聞かせてもらうわよ」
そう宣言する、涼宮ハルヒの姿があった。