『涼宮ハルヒの日常』  
 
「――だよー!」  
なんなんだよ。誰か知らんが大声を出すな。もう少しで朝比奈さんが来るんだよ。  
「んもう、キョンくん、あっさ朝あさ、朝だよーっ!」  
ええい、うるさい。俺と朝比奈さんの逢瀬の邪魔をするな。  
「おーきーろー」  
ぐあっ、実力行使に出てきやがった。なんだこの妹にストンピングを食らったような痛みは。  
ま、それも全て朝比奈さんが来るまでの我慢だ。きっとキスで俺を癒してくれるだろう。  
「キスってちゅうのことー?」  
そうだよ、唇と唇を合わせることだよ。目も覚めるような甘くとろけるベーゼだろうよ、朝比奈さんのは。  
「ちゅうで目が覚めるの?」  
当たり前だろ。俺も経験あるし、白雪姫や眠れる森の美女を知らんのか、お前は。  
「じゃあする。んーっ」  
ちゅっ。  
 
ん?  
 
駅前の光景がぶれて、次にまばたきをしたら、視界がぼやけていた。何かが接近しているらしい。  
鼻腔をくすぐる甘い匂いと、唇に覆いかぶさっているほのかな潤みから、これは朝比奈さんだと見当をつける。  
朝比奈さん、来たなら来たと言って下さってもいいじゃないですか。いきなりキスだなんて、らしくないですよ。  
俺は緊張のためか固まっていた腕を引き抜くと、朝比奈さんの背中に回して、力強く抱きしめた。  
「んはっ、キョンくん、いきなりな――」  
次いでお返しとばかりに、情熱的なキスを朝比奈さんにする。朝比奈さんの可愛らしく慎ましいサイズの唇に  
俺の唇が覆いかぶさる。こういうときは目を閉じるのが作法なのは言うまでもない。  
朝比奈さんが小鳥のように俺の腕の中から羽ばたき去ろうと、切なげに身をよじらせる。  
そんなに恥ずかしがらなくても誰も見てやしませんし、たとえ見ていたとしても俺たちは永遠です。  
自分でもよく分からんセリフを心の中でつぶやきながら、俺は舌をそっと差し伸べた。  
「んぅ!?」  
ぴくん、と身体を跳ねさせる朝比奈さん。歯を合わせていらっしゃったため、周辺を優しくねぶる。  
「ふあ……」  
しばらくして開いた隙間に舌を潜り込ませ、お隠れ遊ばせていらした朝比奈さんの舌を探し当てる。  
舌と舌とを絡み合わせると、ぴちゃぴちゃと濡れる音がして俺の官能をいたく刺激した。  
朝比奈さんの唾液を舐め取ると、昔懐かしい、子供用ハミガキ粉のイチゴ味のような味がする。  
その甘い香りはなんとなく朝比奈さんらしくて、微笑ましく思えた。  
 
最初は身を固くしていた朝比奈さんの力は徐々に抜けて、俺に身を任せるようにくたっとなられた。  
嬉しいのだが、正面から抱きしめている割に、何かこう、弾力に欠けるような気がするのはなぜだろう。  
いつもならもっとこう、柔らかい物体が俺の胸部に押し付けられるのだが……気のせいか。  
 
俺はすっかり従順になった朝比奈さんとの口づけを十分に愉しみ、顔を離した。  
「朝比奈さん、今日もおきれいです……ね……?」  
「……もうらめ」  
俺の目の前にいたのは目をとろんとさせた朝比奈さん、ではなく、よりにもよって妹だった。  
こてん、とベッドの上で横になった普段着姿の妹は、夢うつつの表情で、ぼんやり中空に視線を這わせていた。  
 
って、何してんだ俺!  
 
 
「なんでも買ってやるから親には言うなよ!」  
「えー」  
洗面所で二人揃って歯磨きをしながら、俺は妹に謝りつつ怒鳴りつつ買収を試みつつなだめすかしていた。  
朝比奈さんに夢の中で恥ずかしい真似をしていたって事実を妹に知られただけでも切腹モノだというのに  
あまつさえ寝ぼけて妹を朝比奈さんと間違えて、ディープキスを敢行してしまった俺である。  
この事実はなんとしてでも隠蔽しなければならん。  
「がらがらがらっ、ぺっ」  
イチゴ味のハミガキ粉で歯を磨き、口をゆすいだ妹は、頬を膨らませて俺を見上げてきた。  
「キョンくん、わたしのふぁーすときすを台無しにしたんだよ!」  
ファーストキスならとっくにお前が一歳ぐらいのときに当時幼稚園児だった俺がごほごほ。  
ま、こんなのは通常カウントされないか。妹に物心がつく前の話だしな。  
「だから悪かったって言ってるだろ。なんでも買ってやるから。お前が欲しがってたぬいぐるみでもいいぞ」  
買収するのが経験則上、一番確実だったので、甘いエサをちらつかせる。  
果たして妹は、チョコレートパフェを目の前にした子供のように目を輝かせた。いけるか?  
かと思いきや、首をブンブン振って、  
「キョンくんには、んーと、せいい? そうそう、誠意がたりなーい!」  
どっかのドラマで覚えたような単語とともに、歯ブラシを俺に突きつけてきた。  
「ちゃんと責任を取ってくれなきゃダメなの!」  
「責任と言ってもだな、お前は俺に何をさせたいんだ」  
全く、子供は子供らしくぬいぐるみで我慢しておけばいいものを。  
少しは賢しくなった妹がとんでもないことを言いだすんじゃないかと待ち構えていると  
妹は空いた手を口元で丸めて、耳元でひそひそ話をするような姿勢を取った。面倒くさいな。  
「ほれ、なんだ。言ってみろ」  
妹に合わせて中腰になってやる。妹が顔を寄せてきた。  
「あのね……」  
ちゅっ。  
「なっ――」  
続きを待っていた俺の頬に、妹が不意打ちでキスをかましてきやがった。何がどうなってこうなる?  
「えへっ」  
呆然と佇む俺に、ちろりと舌をのぞかせると、妹は歯ブラシを置いて洗面所を出て行った。  
 
 
「いってきまーす」  
つまさきをトントン鳴らしながら、ランドセルを背負った妹が振り返って家の中に向かって声を張り上げた。  
俺もかばんを提げて、先に外へ出る。チャリを持ってこないとな。  
朝飯の間、妹はにこにこしているだけで、キスのことなどおくびにも出さなかった。  
そのまま古泉の笑みのように、あってもなくてもどうでもいいものとして風化してくれないものかね。  
とりあえず妹のほうから話題にしてくるまで関知しないことにした俺は、チャリのカゴにかばんを押し込んだ。  
俺の日常の仕切り直しだ。  
 
「それでね、ミヨちゃんがね」  
チャリを手押しする俺の横で、妹がたわいもない話を続けている。  
途中まで妹を送ってやるのが、俺の日課だった。通学路も途中までいっしょだから、不都合があるわけでもない。  
それに送ってやると言っても、  
「あ、ミヨちゃん」  
もののニ、三分だ。妹は毎日、友達と待ち合わせをして通学しているらしい。  
見れば、ランドセルを背負った女の子が二人いた。家に何度も遊びに来ている二人だから、俺も顔見知りである。  
妹は俺を見上げると、下手くそなウィンクをしてきた。どんな意味合いがあるのかはさっぱり分からん。  
「キョンくん、いってきまーす」  
元気よく声を出す妹に、俺はうなずいてやった。そのまま妹は振り向くことなく、駆けていく。  
朝からよくあんなテンションを維持できるもんだ。俺も小学生の頃は、あんなんだったっけ?  
首を傾げつつ、俺はサドルを跨いだ。ま、いいや。今の俺は高校生だ。  
高校生は高校生らしく、だらだら登校することにしよう。  
 
のんびりチャリを走らせ、ほどなくして俺は自転車置き場に到着する。  
さて、こっから北高までは徒歩だ。くそ長い坂を上る日課をこなさねばならない。  
途中で谷口にでも会わねえかな。黙々と坂を上るよりは、だべりながらのほうが気がまぎれる。  
そんなことを考えながら、自転車置き場から出た途端、  
「あっ!」  
横手から声が上がったかと思うと、衝撃が走った。誰かがぶつかってきやがったせいだと認識したのは  
あまりの勢いにたまらずたたらを踏んで、尻餅をついたあとだった。どさっという音がふたつする。  
ひとつは俺のかばんの音だろう。もうひとつは、たぶん相手さんが立てた音だろうな。  
ったく、今日はなんつう日なんだ。災難もいいところだぜ。  
 
「いててて……」  
頭を手で押さえて被害者であることをアピールしつつ、俺はぶつかってきた相手がいる方向に目をやった。  
そこには俺と同じように尻餅をつき、肘を突いて身を起こしつつある高校生がいた。  
なぜ高校生だと分かったのかと言うと、制服を着ているからだ。北高女子の制服だな。  
ところで、その制服に少しばかり問題が生じていた。具体的に言うと、スカートがめくれ上がっていて  
健康的なふとももや、その奥にある飾り気のない淡い薄緑色の物体がばっちりとお見えになっていたのである。  
膝を立てた姿勢でいるため、俺にアップでむしろ見せ付けるような格好だ。  
健康的な男子高校生には、はっきりいって目の毒でしかない。  
 
「いたた……ごめんよう、キョンくん」  
ようやく身を起こしになったその女子は、  
「鶴屋さん?」  
長い髪の持ち主である、二年の鶴屋さんだった。  
鶴屋さんは、長い髪についたほこりを払いつつ、俺に片手を立てて詫びを入れてきた。  
「もうちっとあたしが注意してりゃ良かったんだけどさっ、日直であっぷあっぷだったんだよね。ごめんっ!」  
どこまでも明るく振舞っているが、声色は心底すまなそうだ。  
「怪我してないかい? 物が壊れたりとかはっ?」  
「それは大丈夫だと思いますが……」  
目のやりどころに困りつつ、俺は鶴屋さんに返事した。かばんの中に容易に壊れるものを入れた覚えはない。  
それよりスカートをなんとかしてほしいと思い、ちらちらと目線でそれとなく鶴屋さんに伝えてみた。  
口に出して言うのは、なんとなく気恥ずかしかったのでね。  
聡い鶴屋さんは、すぐに察知してくれたらしい。  
「あっ……あ、あははっ」  
ごまかし笑いを上げて、すっと立ち上がった。俺に手を差し伸べてくれる。  
「つまらないものを見せちゃって、重ね重ねごめんよっ。あとでハルにゃんのでも見て癒しておくれっ」  
別につまらなくありませんでしたし、ハルヒがなぜ出てくるのかも分かりません。  
鶴屋さんの手を借りて立ち上がった俺の肩を鶴屋さんはポンと叩いて、快活な笑みをくださった。  
「元気みたいだしよかったよかった。そいじゃあたしは日直! じゃねーっ」  
かばんを拾い上げ、最後に言葉を俺に送ると、一目散に駆けていった。妹より元気なお人だ。  
あの速度のまま坂を上って大丈夫なのか多少の不安を抱きつつ、俺は自分のかばんを拾った。  
……今の出来事は、得したかな、たぶん。  
 
 
坂は長かった。しかしどの北高生も歩む道だ。  
九割以上の北高生が、一度は坂に文句をつけたのではないかと思う。  
なぜこんな場所に公立高があるのか。せめて坂下の女子高と替わってくれないだろうか、ってな。  
 
谷口の影も形もないことを肴にしつつ、坂を上っていると、  
「キョンくーん!」  
背後から決して忘れることのない、至上の声が届いた。もちろん、振り返らないわけがない。  
なぜならそのお声は、朝比奈さんのだからな。  
振り返った俺の視界に、坂を頼りない歩調で坂を上がってくる朝比奈さんの姿が入った。  
朝比奈さんは俺に追いつこうとしてか、ちょこまかと足を動かしておられる。  
あまり上下に激しく動くと、たゆんたゆんしますよ。どの部分がかは明言を避けますが。  
その微笑ましい行動に妹を重ねてしまい、慌てて振り払う。妹と朝比奈さんは関係ない。断じて関係ないぞ。  
 
俺が変なことを想起してしまったのかいけなかったのか、  
「わひゃあっ!」  
俺のそばまで来ていた朝比奈さんが、派手に転んだ。ファスナーが開いていたのかかばんの中身がばら撒かれる。  
「ふえぇ」  
涙目になって、教科書やら小さいポシェットやら拾い出す朝比奈さん。何をやっているんだか、と思いつつ、  
「手伝います」  
かばんを地面に置いて、膝をつく。丸っこい字で学科名と名前の書いてあるノートを拾って、手渡した。  
受け取った朝比奈さんは、目尻に涙を浮かべた極上の笑みを俺にくださった。手伝った甲斐があるというものだ。  
もっとも、最初に出会ったときは、もう少し二年生らしい、大人びた人だったような記憶もあるのだが。  
ハルヒに洗脳されて、ドジッ娘になりつつあるのであれば、由々しき事態である。対策を練る必要があるな。  
 
朝比奈さんより俺が洗脳されているんじゃないかと思わしき飛躍をしつつ、次の落とし物に手を伸ばすと  
太陽がキラリと反射して、何かが俺の目に映った。白い色だった。  
せっせと手を動かしている朝比奈さんの目を盗んで、太陽光を反射した地点に目をやる。  
そこに落ちていたのは、開いてあるコンパクトだった。身だしなみに気を使う女子生徒なら持っていて当然だ。  
そしてこれが本題なのであるが、鏡に映っていたのは、朝比奈さんのスカートの中身だった。  
坂の上からの視線が上手い具合に反射しているらしい。白かった。あと肉感がすごい。  
さっきの鶴屋さんはほっそりとしたふとももだったが、朝比奈さんのはショーツと股の付け根との境界線が  
はちきれそうだ。お尻を浮かせた姿勢だからかもしれない。  
条件反射的につばを飲み込む。この上なくエロい光景だった。  
 
扇情的な光景に目を奪われていると、  
「きゃあああ!」  
急に鏡から白い物体が消え、別の物体が映った。制服の一部分だ。  
俺が顔を上げると、真っ赤な顔で地面にへたり込んで手でスカートを抑えている朝比奈さんがいた。  
やばっ。バレたのか? というより、バレたんだよな、絶対。  
俺の脳裏に朝比奈さんがとった行動の一部始終が浮かぶ。  
手を止めて一点を凝視している俺を、疑問に思う朝比奈さん。  
俺の視線を追うと鏡に到達する。そこから反射角を割り出して、線対称を描き出す。  
最終的に線が到達した部分が、自分のスカートの中身だと判明。悲鳴を上げるに及ぶ。こうだ。  
 
「キョンくん……」  
朝比奈さんが俺の名前を呼んだ。震える声でだ。図らずもミラーマンと化した俺はどうすればいい?  
「な、なんでしょう?」  
とりあえずとぼけてみた。土下座するのがもっともなんだが、少しばかり衆目が多すぎる。  
荷物を拾っている最中にも、十人じゃきかない数の生徒が通り過ぎていた。  
「……見たでしょ?」  
朝比奈さんにしては低い声で、俺をすくい上げるように言葉をぶつけてきた。  
どれだけ低く見積もっても怒っていることは明らかだった。どうする、俺? いっそ謝るか?  
しかし、謝ってこの場を乗り切ったとしても、事実が広まった瞬間、終わりそうだ。やはりごまかすしかない。  
俺はコンパクトを拾って証拠隠滅すると、残りの荷物も手早く拾った。  
「朝比奈さん、みんなが見てますよ」  
「え?」  
俺の言葉に、朝比奈さんは左右を見渡した。集団ができるほどではないものの、  
通りすがりの生徒がちらちらと視線を送っていた。谷口がいたら手伝いを申し込んでいたに違いない。  
通学路で座り込んでいる自分の恥ずかしさに気がついたのか、朝比奈さんはうまくごまかされてくれた。  
「わ、わわっ」  
慌てて立ち上がった朝比奈さんは、俺が差し出した荷物をかばんに入れると、ファスナーを締める。  
さりげなく誘導する俺に沿って、坂を上り始めたのだった。  
 
周囲に溶け込んでから、俺は心の中で喝采を上げた。成功だ。うやむやにできた。  
と、思っていたのであるが、朝比奈さんはそこまでドジッ娘ではなかった。  
「キョンくん」  
朝比奈さんがにっこり笑って、耳打ちしてきた。  
「あとでたっぷり聞かせてもらいますから」  
笑い顔が怖いなんてまさかハルヒ以外で思うことになろうとはね。  
 
 
冷や汗をかいたものの、俺は朝比奈さんと並んで登校する僥倖に恵まれていた。  
朝比奈さんは先ほどのことは一旦、胸にしまったらしく、普通の話題を振ってくる。  
「いつもは鶴屋さんとなんですけど、今日は日直で先に行っちゃってて」  
「ああ、鶴屋さんならさっき会いましたよ。だいぶ急いでいるようでした」  
大層な物も見せていただきましたし。  
普段はしがらみや立場のせいもあってか、ろくに高校生らしい会話などできないのであるが  
今日は話が弾んだ。俺が夢にまで見た、朝比奈さんとふたりっきりの登校でもあるしな。  
……まさか、これが夢の続きなんてことはないよな?  
「どうしたんですか、キョンくん。ほっぺたつねったりして」  
「なんでもないです。少しむず痒かったもので」  
痛かった。どうやら現実のようだった。もっともそれで安心できるとは限らないのがこの世界なのだが。  
 
朝比奈さんとの会話に花を咲かせている間に、あっさり校門にたどり着いてしまった。  
このときばかりは、坂がもっと長くても構わないと思ってしまった俺の気持ちも汲んでもらえると思う。  
 
校門に吸い込まれていく生徒が大半の中、脇に立って周囲を見渡している女子がいた。  
どうやら人を待っているようだ。かばんを大事そうに両手で抱えている。  
その女子の顔が俺に向いたとき、その女子が顔見知りであることが判明した。思わず声を上げる。  
「阪中?」  
俺の声に重ねるように、クラスメイトの阪中がほっと溜息をついた。  
そのまま俺に駆け寄ってくる。探し人は俺だったのか?  
 
「おはよ」  
阪中がほんわかした笑みとともに挨拶をしてきた。  
「ああ、おはよう」  
俺は訝しい表情をしているに違いない。場所が教室なら日常茶飯事だが、校門の前で待たれてまで  
挨拶をされるような間柄ではないはずだ。  
「何か用事があるのか?」  
「えっと、あのね」  
俺の問いかけに阪中は何かを言いかけ、横できょとんとしていた朝比奈さんに気付いたらしく口をつぐんだ。  
朝比奈さんがいるとできない話なのだろうか。  
「あ、わたし鶴屋さんに聞かなきゃいけないことがあるんでした」  
察しがいいのかなんなのか、急に朝比奈さんが声を上げる。  
下手なウィンクとともに、俺の肩に手を乗せてきた。  
「キョンくん、また放課後部室で」  
「ええ、またあとで――いててっ」  
手拍子で返事をしかけた俺の頬を、いきなり朝比奈さんがつねってきた。かなり力が入っている。  
「何するんですか!」  
頬をさすりながら憮然とする俺に、朝比奈さんは口元が笑ってない笑みをくださった。  
「だってキョンくん、痒かったんでしょう?」  
そう言うと、朝比奈さんは阪中に会釈をしてから校門をくぐっていった。正直に言おう、怖かった。  
 
 
「……あー、で、なんなんだ? 阪中」  
朝比奈さんの姿が見えなくなってから、気を取り直して阪中に声をかけた。  
「ここじゃなんだから」  
と、阪中は周囲の目を意識した感じで、俺の服の袖を引っ張る。  
その仕草はなんだか初々しくてよかった。  
 
阪中が俺を連れてきたのは、校舎の横、この時間帯は人気の少ない場所だった。  
「少し待ってて」  
そう言うと阪中は後ろを向いて大事に抱えていたかばんに視線を落とした。何かを取り出すつもりらしい。  
阪中を待つ間、俺はグラウンドに目をやった。朝練を終えて切り上げる陸上部の姿が見える。  
俺もSOS団に入ってなかったら、どっかの運動部にでも入っていたのだろうか。案外、帰宅部かもな。  
中学の部活だって――  
「おまたせ」  
俺が回想に入っているうちに、阪中の準備が整ったようだ。  
見ると、かばんを地面に置いて、後ろ手に何かを隠し持っている。  
「あのね、これを受け取ってほしいの」  
はにかみつつ、阪中が差し出したそれは、  
「弁当?」  
布に覆われている直方体の物体だった。俺が弁当と思ったのも当然だろう。  
阪中がこくりとうなずき返す。俺の推測は正しかったようだ。とりあえず受け取った。それにしてもだな、  
「俺に?」  
俺の驚きもこれまた妥当だ。ルソーの件まで阪中は悪いがただのクラスメイトだった。それ以後も  
そんなに親交が深まったわけでもない。むしろ俺は、古泉のほうに興味があるんじゃないかと思っていた。  
顔を真っ赤にした阪中はうつむいて、  
「ち、違うのね。それは、えっと、あのね」  
しどろもどろになりつつ、言葉をつないだ。  
「涼宮さんが、わたしに代わりに渡してって言ったのね」  
「ハルヒが?」  
なんでまた。  
「うん、涼宮さんなのね。そのお弁当は涼宮さんが作ったの。でも恥ずかしいからって」  
阪中は足元にあったかばんを拾い上げて、  
「涼宮さんには内緒にしてね。わたしが言ったってことがバレたら、涼宮さんに怒られちゃう」  
口早に言った。声がやや上ずっている。  
「それじゃ、たしかに渡したのね。食べ終わったら、わたしの靴箱にでも入れておいて」  
それだけを言うと、阪中は俺の横をすり抜けて、靴箱のある方向に去っていった。  
残ったのは、片手にかばん、もう片方に阪中曰くハルヒお手製の弁当を提げた俺だった。  
 
 
首を傾げつつ、俺はかばんの中に弁当をしまい込んで、靴箱に向かう。  
もっと喜ぶべきなのかもしれないが、阪中の言葉をそのまま額面通り受け取る気はなかった。  
ハルヒがいきなり弁当なんか作ってくるわけないだろ。もしあったら、そこは別世界だ。  
しかしそう言うものの、弁当はしっかり俺のかばんの中に存在するわけであり、とすると  
やっぱりここは別世界なのかもな。  
 
達観しつつあった俺でも、俺の靴箱を勝手に開けている人物を目にしたときは、名前が口から転び出た。  
「長門?」  
そう、なぜか長門が俺の靴箱を開いて、中に手を入れていたのだ。  
長門は俺の存在をみとめると、自然な動作で手を引き抜いて靴箱を閉じ、俺に背を向けて去ろうとした。  
「長門!」  
もう一度名前を呼ぶと、長門は足を止めて、振り返ってきた。  
軽く首を振ったその動作は、挨拶のつもりなのだろうか。  
それより俺は、謎の行動について理由を聞かせてもらいたいのだが。  
 
歩み寄った俺は、靴箱にちらっと視線を送って、  
「何かしたのか?」  
「なにも」  
ぽつりとつぶやき返す長門。いや、人の靴箱に手を突っ込んでおいて、何もしてないわけないだろ。  
長門を問い詰める前に、俺は靴箱を開けてみた。  
中に入っていたのは、俺の上履きと、ついさっき類似したものを手渡された記憶のある物体だった。  
手を伸ばして、つまみ出す。長門のことだから装丁本の可能性も考えたが、やっぱりこれは、  
「弁当……だよな」  
「そう」  
長門が首肯した。やっぱり何かしたんじゃないか。  
「食べて」  
俺をじっと見つめながら、無表情で声を発してきた。  
食べるのには吝かではないが、朝比奈ミクルの冒険はもう撮影終了して上映も終了したはずだぞ。  
「一体、なんの風の吹きまわしだ?」  
問う俺に、  
「うまく言語化出来ない。情報の伝達に齟齬が発生するかもしれない」  
どこか懐かしみを感じさせる言い回しをした長門は、  
「だから聞かないで」  
そう言って、俺に背を向け校舎の中にあっという間に消えていった。  
 
長門を見送る形になった俺は、手に新しい弁当を提げつつ、独白を吐いた。  
「とりあえず、だ」  
今日の体育は、いつも以上に体を動かす必要があることだけは、間違いなかった。  
 
 
都合三つの弁当をかばんの中に抱える身となった俺は、教室の戸をくぐっていた。  
と言っても、別に何かあったわけでもない。一年五組は、通常通り営業中だ。  
谷口と国木田がだべり、ハルヒは肘を突いて窓の外を眺めている。  
教室を見渡すと、阪中はクラスメイトとおしゃべりをしていて、意図してかせずか  
俺が教室に入ったことには気付いていないようだった。  
 
「おっす」  
「おはよ」  
適当に挨拶する俺に、適当な返事をハルヒはしてきた。  
どこまでも自然な応答だ。このハルヒが弁当を作ってきたなんて考え辛いな。  
まじまじと見つめていたせいか、ハルヒは俺に向き直ってきた。  
「なに? 言いたいことがあるならはっきり言いなさい!」  
「もうちょっと女教師が生徒に向かって優しく諭すような口調で言ってくれ」  
投げやりに言った俺に、ハルヒは呆れた様子で、言葉をぶつけてきた。  
「このバカキョン」  
 
なんとなく安心した俺は、教科書や筆記用具をかばんから机に移す作業を開始した。  
何も入っているはずはないのだが、つい空っぽの机の中に手を探りいれる。  
と、手が何かが入っていることを伝えてきた。この感触は、紙切れか。  
配布されたプリントを入れたままにしてたっけかな。記憶にはないんだが、記憶にないからあるんだろう。  
タマゴが先かニワトリが先かのような問答をしつつ、紙切れをつかんで、引っ張り出す。  
机の上に出たそれは、ルーズリーフだった。丁寧に折りたたまれてある。  
俺の使っている種類じゃないな。さて、中になんと書いてあるのやら。  
「『今日のお昼休みに屋上前の踊り場に来てください。ご飯を食べてからでいいです』って書いてあるわね」  
広げた俺が中身を読み出す前に、肩口から顔をのぞかせたハルヒが読み上げやがった。  
「……盗み見は、あまり趣味がよくないと思うんだけどな」  
不平をこぼす俺に、ハルヒは、  
「誰かしら? もしかしたらあたしのSOS団に対する宣戦布告かもしれないわね」  
全然聞いちゃいねえ。大体、宣戦布告なら、お前の机に放り込んであるはずだろ。  
「甘いわね、キョン。将を射んと欲すればまず馬を射よってことわざ知らないの?」  
「誰が馬だ」  
「うーん、万が一のことを考えて、古泉くんにも伝えておいたほうがいいかしら」  
正当なツッコミも無視して、ハルヒはあれこれ考え出した。  
ほっとこう。それより、文面が大事である。ハルヒは宣戦布告などと言ったが、ある意味そうかもな。  
実際、のこのこと放課後の教室に出向いて殺されそうになった経験があるだけに、慎重に考える必要があった。  
どうしたものか。とりあえずハルヒには来ないよう、言いきかせておくか。  
万が一、告白だったりした場合、ハルヒが居合わせると気まずいのは間違いないからな。  
 
 
体育で普段より張り切ったせいで谷口に変な目で見られはしたが、朝の一連の出来事と比べると  
そんなことは些末なことでしかなく、つつがなく過ぎたと言っても過言ではない。  
この平穏が嵐の前の静けさなのか、それとも単なる日常なのかは、俺には分からないが。  
 
「あれ、キョン。今日はお弁当箱二つあるの?」  
「ああ。親が張り切ったらしい」  
心の中でおふくろに謝罪しつつ、俺は阪中から手渡された弁当箱と、長門が靴箱に置いた弁当箱を取り出した。  
おふくろが作ってくれた弁当は、あとでどっかで食っちまおう。残したままだと怒られそうだ。  
「女子の誰かが作ってくれた弁当じゃねえだろうな、キョン」  
谷口が中々鋭いことを言ってきた。つうか、ただの僻みか。  
「俺が弁当を作ってもらえるような人間だと思うか?」  
我ながら物悲しくなるようなことを言ってしまったが、谷口はそれで黙った。  
国木田が「そりゃそうだよね」と、自分の包みを開き出したのには、少し腹が立ったが。  
ああ、ちなみにハルヒは食堂へ特攻していった。昼休みが終わるまで戻ってこないのが慣例だ。  
 
さて、どっちの包みを先に開くべきか。別にあとに回したからといって失礼になるとは思わないにせよ  
俺の腹は有限である。量によっては、食べきれない可能性もなくはない。同時に開いて食うわけにもいかん。  
……先にくれたほうを食べるか。俺はファンシーな布のほうを手に取った。  
犬の柄がプリントされた布を取ると、これまた犬の絵が描かれてある弁当箱が出てきた。  
これって、ハルヒが作った弁当なんだよ、な?  
思わず教室の別の場所で机を付き合わせて食事を取っている女子グループに目をやる。  
そこには、もっぱら聞き手に回っている阪中がいた。俺の視線には気付いていないらしい。  
「どうしたの、キョン」  
「いや……」  
目ざとい国木田に生返事をしつつ、視線を弁当箱に戻した。食っちまおう。箱を開いた。  
「う」  
そしてうめき声を漏らした。これは、どうなんだ。  
固まる俺に谷口が弁当の中身をのぞいてきた。感想を述べてくれる。  
「お前の親御さん、なんかいいことあったのか?」  
谷口がそう思うのも無理はなく、ぱっと見でも豪勢な弁当だということが分かった。  
卵焼き、唐揚げ、タコさんウィンナー、ハート型のかまぼこ、きんぴらごぼうに煮豆。ここまではいい。  
だが、弁当箱を縦断しているエビフライ、剥いてあるカニの脚、イクラに鯛、ウニにマグロとなれば話は別だ。  
海鮮丼とは、中々豪快な弁当だった。炊き込みご飯までしてある。  
弁当にしては、ちょっと手を掛けすぎなんじゃないのか、これって。  
 
躊躇しつつ、食べないわけにはいかないので、箸を卵焼きに伸ばした。  
卵焼きの出来にこだわるおふくろを持ったせいで、俺自身も多少は卵焼きにうるさくなっていた。  
なんでも卵焼きがきちんと作れる人は、基本ができているらしい。おふくろの言葉だ。  
 
箸でつまんだ卵焼きは、焼き加減、重ね具合ともに文句なしだった。  
あとは味だ。ひょいと口に放り込む。  
『すご。うま。おいしい。お店開けるわよ、この味』  
なぜかハルヒのセリフが頭に浮かんだ。そしてそれで説明は十分だった。  
煮豆に、きんぴらごぼうに、次々と箸を伸ばして口に運ぶ。うまい、うまいぞこれは。  
あまりに俺の食いっぷりがよかったせいだろうか、谷口がいちゃもんをつけてきた。  
「おい、キョン。俺にもちょっと分けろよ」  
「やらん」  
弁当箱を持ってかき込みながら、俺は谷口ににべもなく告げた。  
悪いが谷口にくれてやるわけにはいかない。パンでも食ってろ。  
 
「ふう」  
一仕事終えたような心持ちで、俺は空になった弁当箱を見つめていた。  
充実感にあふれている。今なら空ぐらいなら飛べるかもしれない。  
「ん?」  
誰かの視線を感じて顔を向けると、阪中がいた。  
俺が視線を向けると慌ててそらして、同席している女子のほうを向いたようにも見えたが、はて。  
「もうひとつのほうも楽しみだね」  
国木田の言葉に、注意が机の上に戻った。そうだ、もうひとつ弁当があったんだ。  
すまん長門、忘れてた。腹のほうは八分目ぐらいだから、なんとか入りそうかな。  
「きついなら、俺が食べてやってもいいぜ」  
谷口の世迷言は無視して、長門の弁当を手元に寄せる。  
幾何学的なデザインの布の中身は、シンプルなアルミ色の弁当箱とスプーンだった。スプーン?  
何か場違いな物を見た気がした俺は、弁当箱のふたに手を掛けて開け放つ。  
「う」  
またうめいてしまった。しかしさっきとはニュアンスが違うぞ。  
弁当箱の中になみなみと敷き詰められていたのは、  
「カレー、だね……」  
国木田が俺の感情を汲み取ってくれた。谷口もやや引き気味だ。  
カレーとライスと千切りキャベツ。中に入っていたのは、それだけだったのである。  
よくルーが漏れ出さなかったもんだ。そんな感想を抱きつつ、俺はスプーンを手に取った。  
それにしても長門よ。作るなら作るでもう少し考えて作ってくれてもいいじゃないか、なあ?  
 

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