「あ、おかえりー」  
帰宅し部屋に入ると、妹がベッドに寝そべってシャミセンとじゃれ合っていた。  
シャミセンが嫌がってないところを見ると、まだ始めたばかりか。そのうちシャミセンが  
逃げ出すだろうな、と思いつつ、かばんを机の上に置いて中から弁当箱を取り出す。  
昨日は寝てしまって不覚を取ったが、今なら小腹もすいているし、晩飯まで余裕ができる。  
さっさと食っちまおう。  
 
「キョンくん、お弁当食べてなかったの?」  
弁当に箸をつけた俺のそばに、妹が寄ってきた。何か変わったことがあると、すぐこれだ。  
卵焼きを頬張りながらうなずく俺に、  
「なんでー?」  
妹はさらに質問をぶつけてきた。卵焼きを胃に収める。  
「別になんでだっていいだろ」  
いちいち説明するのも面倒臭い。  
ぶっきらぼうに返事した俺は、妹の機嫌が斜めになる前に話題転換した。  
「ああ、それより今度の土曜……いや日曜か? とにかく週末になんか用事あるか?」  
「んーん」  
頬を膨らませかけたまま、左右に首を妹が振る。  
「そうか。なんでもハルヒがパーティを高校の部室でするから、暇ならお前も来ても――」  
「行く!」  
効果覿面。妹は目を急に輝かせて、機嫌を直した。そのまま踊りだしそうな雰囲気である。  
踊りだすのは構わんが、シャミセンを振り回すのはやめておけよ。  
 
「シュークリームのお姉ちゃん?」  
せがまれ、パーティ参加者の名前を弁当を食べながら挙げていると、妹が阪中のところで  
口を挟んだ。あのシュークリームを焼き上げたのは阪中母なんだが、よく覚えていたな。  
「だってあのシュークリームおいしかったんだもん」  
言外にまた食べたいオーラをにじませる妹を見て、阪中に頼んでみようかと思った。  
俺も食いたいし、パーティにはもってこいだろう。  
「で、あと一人は喜緑さんって名前の二年生の人だ」  
最後に喜緑さんの名前を出して締める。生徒会書記だのなんだのは妹に関係ないから除外だ。  
これで弁当に集中できると思ったら、妹が俺の顔をじーっと見ていた。なんだよ。  
「キョンくんなんだかうれしそう」  
ぽつりとつぶやく妹。  
「どこが?」  
心当たりは当然あったが、顔にあっさり出す人間じゃないぞ、俺は。  
声を返した俺に、妹は返事をせずふくれっ面で不機嫌を表明していた。忙しい奴だな。  
無言になった妹は放っておいて、俺は箸を動かした。夕立ちはすぐに収まる。  
それぐらい、生まれたときから見てればわかるさ。  
 
 
実際、妹は夕飯時には不機嫌などどこ吹く風で、ハンバーグを頬張っていた。  
おふくろに明日の弁当はいらないと告げたときだけ、ナイフを持つ手を止めた気もしたが。  
風呂にも布団にも乱入してくることなく、少々拍子抜けたものの、拍子抜けなどと思った時点で  
何か越えてはいけない一線に半歩踏み入れている気がして、俺は布団を頭までかぶった。  
 
 
寝入ってからどれくらい時間が経ったのだろうか。  
「……ん……う」  
体を揺すられている感覚がして、俺は不承不承、意識を半覚醒させた。  
「揺らすなよ……なんだ? 一緒に寝るのか?」  
相手が妹だと算段をつけ、寝ぼけた頭で寝言をほざく。  
しかし相手は、なおも無言で俺を揺すり続けていた。うざい。  
「……いい加減にしろよ。俺の睡眠を邪魔するな」  
手で払って、布団を手繰り寄せようとして、  
「……?」  
布団がないことに気がついた。それどころか、背中に当たる感触が妙に固い。  
まるで、いつぞやかのように、地面にでも寝ているような感触だな……地面?  
目が覚めた。跳ね起きた。横にハルヒでもいるのではないかと思っていたが、  
「お目覚めですか?」  
膝を着いて微笑んでいたのは、髪をなびかせた喜緑さんだった。  
 
辺りを見回すと、空が灰色になっているわけでもなく、巨人が闊歩しているわけでもない。  
校舎の屋上に、俺は寝転がっていたようだ。ご丁寧にも制服まで着ている。夢だな、こりゃ。  
夢の中で眠気を追い出す離れ業をやってのけた俺は、同じく制服姿で傍らに佇む喜緑さんに向き直った。  
「どうも」  
間の抜けた返事だったかもしれない。喜緑さんの首を傾げる動作でそう思った。  
首を傾げたまま喜緑さんは、  
「一緒に寝るなら寝るでいいんですけれど」  
「え? あ、いや、それはただの勘違いで、喜緑さんとは思わなくてですね」  
夢の中で寝言の弁解をする俺は、なんなんだろう。  
「誰を想定して、一緒に寝ようなんて言ったんですか?」  
喜緑さんも夢の中にしては、やけに切り込んでくる。近づいた髪から、いつものいい香りがした。  
妹と答えてもあらぬ誤解を受けそうで、なんとなく黙った俺に、  
「今度言うときは、わたしを想定しながら言ってくださいね」  
喜緑さんがウィンクをくれた。割と茶目っ気のあるお人だ。  
それにしても、やけにリアルな夢だ。色彩や香りまでついた夢なんてついぞ記憶にない。  
もっとも記憶に残ってないだけで、夢とはそういうものなのかもしれないのだがな。  
眼前の喜緑さんを見るともなしに夢の認識を改めていると、喜緑さんの口が笑みをかたどった。  
「それでは、本題に入りましょう」  
 
喜緑さんの言葉と共に、風景が黒一色になった。  
だが鼻をつままれてもわからない暗さ、という表現は当てはまらないな。  
俺は自分の姿が見えるし、喜緑さんの姿もこの目で確認できた。どうやって見えているのかは謎だ。  
風景が消えた理由もよくわからんが、夢の中の出来事だから、こういうこともあるのだろう。  
 
「しばらくお待ちください。ただいま連結作業中です」  
漆黒に姿を浮かばせて、喜緑さんが事務的な口調で告げた。と、その口が高速で動き、つぶやきだす。  
つぶやいている内容は聞き取れないまでも、俺は喜緑さんの口の動きに心当たりがあった。ありすぎた。  
こんな動きができるのは、  
「長門……?」  
夕暮れ、朝倉涼子、バット、カマドウマ、アメフト。  
光景がフラッシュバックされる。朝比奈さんが呪文と呼んでいたヤツだ。  
それをなぜ喜緑さんが? 喜緑さんにそんな願望を持ち合わせていたのか、俺は。  
無表情な喜緑さんもいいな、などとアホな考えを抱いていた俺を遮断したのは、  
「解除します」  
詠唱中の喜緑さんが俺を一瞥してから漏らした一言だった。  
 
「お目覚めですか?」  
高速詠唱を続けながら、喜緑さんが先程と同じ言葉を繰り返す。  
「ああ」  
しかし意味合いが異なっているのは、俺にはよく理解できた。  
きっと、今の俺は苦々しい表情を取っているに違いない。取りたくもなるさ。  
できれば掴みかかりたいぐらいだが、やったところで無駄だというのは、すでに学習済みだった。  
だから情報操作が解除された俺は、喜緑さんを睨みつけるに留める。その喜緑さんは涼しい顔で、  
「何を怒ってらっしゃるんですか? 昨日、今日といい思いをされたと思うのですけれど」  
受け流してきた。俺の中で勝手に、喜緑さんとヤッた記憶がリピートされる。  
すまん、あれは確かに気持ちよかった。だがそれで懐柔される程、俺は腑抜けじゃないぜ。  
「いくらいい思いをしたとしても、いいように扱われて怒らない人間がどこにいるんだよ」  
「あら、器量の狭いことを言うんですね。涼宮さんに選ばれたのですから、懐の深さを見せてくれないと」  
古泉のような理屈を並べて、はぐらかしてきた。俺に何を期待しているんだか。  
やけに人間味溢れた物言いに肩すかしを食らった気分でいると、高速詠唱が止まった。  
 
「涼宮さん、少しお変わりになられたようですね」  
飾り気のない笑顔の裏に、ほくそ笑んでいるさまが見て取れた気がした。  
長門は身動きが取れず、古泉は静観。朝比奈さんもどこかおかしい。俺の焦りがそう思わせたのか。  
実際、どうしようもなかった。悲しそうな長門に、俺は答えてやれなかった。俺こそ真性のアホだ。  
急に理不尽な後悔が押し寄せた俺は、苛立ちを隠せず、喜緑さん、いや、喜緑江美里にぶつけた。  
「なぜ俺の情報操作を解除したんだ?」  
「相手がわたしではないからです」  
返事ともつかない返事だった。間を置かず情報連結開始、と声を発せられ――  
視界が、白で染まった。  
 
 
漆黒が振り払われ、白い空間が色付く。と、そこには、  
「朝比奈さん?」  
制服姿の朝比奈さんが、呆然と立ちすくんでいた。遅れて場所が目に入る。部室だ。  
喜緑江美里の姿は、影も形も残っていなかった。俺と朝比奈さんだけだった。  
 
朝比奈さんは、本棚の前にいる俺の姿が視界に入っていない上に、声も聞こえていないらしい。  
胸元まで持ち上がっていた手が、ゆっくりと下ろされる。視線は固定されたままだ。  
俺は朝比奈さんの表情が気になって、視線を追う。開けっ放しの扉と奥に窓、廊下が見えた。  
何もない。誰もいない。朝比奈さんは、何を見ているんだ?  
疑問が解消されないまま、顔を戻した俺の眼前に、  
「朝比奈さん!」  
ぽろぽろと涙をこぼす朝比奈さんの姿があった。頬を伝う涙に合わせて、唇が動く。  
しかし、俺の耳に声は届かない。ただ唇を動かしているだけなのかは、この際どうでもよかった。  
朝比奈さんが泣いているという事実で、すでに俺の感情メーターは振り切れていたからな。  
泣かせた奴が目の前にいたらぶん殴る勢いで足を踏み出し、手を差し伸べようとして、  
「ちっ」  
透明な壁に弾き返された。ハルヒと閉鎖空間に閉じ込められたときの感触が去来する。  
別の箇所を触っても、同様に壁があった。朝比奈さんと俺とを隔てる壁だ。  
だが、こちらは誰の仕業かすぐ理解できた。  
「出てこいよ、いるんだろ?」  
「あら、不可視遮音フィールドをご存知でしたか」  
想像通り、雲隠れしていた喜緑江美里が姿を現し、傍らに音も立てず上履きが並ぶ。  
以前、改変後の世界を修正しに過去に赴いた際、長門が張っていたフィールドを俺は覚えていた。  
 
「なんなんだよ、これは」  
泣き暮れる朝比奈さんから目を離さず、荒げた声で怒りを示す。返事は落ち着いた声で、  
「朝比奈みくるが見ている夢、いえ、現実の続きです」  
「……昨日、俺が夢だと知らされたあれか?」  
「はい」  
とことん悪趣味な宇宙人だ。プライバシーという単語ぐらい覚えておけ。って待てよ。  
「現実の続き? これが?」  
「そうです。まだ何もしていないので、現実そのままです」  
喜緑江美里は答え、  
「フィールドの遮音を一方通行にしてさし上げます」  
乞われもせずに、手を前方にかざす。  
すると、朝比奈さんのしゃくりあげる音が耳に入った。当然、朝比奈さんの声で。  
とはいえ、泣き声を聞いても現実に起こった出来事だとにわかには信じられん。  
これも手の込んだブラフなのではないかと思った俺に、朝比奈さんの声が飛び込んできた。  
「キョンくん、どうして……」  
 
「好きなのに……好きなのに。キョンくんが、好きなのに!」  
かぶりを振って、朝比奈さんが悲痛な声を上げる。  
「わたしじゃ、ダメなの……?」  
伏せられた顔から、涙が雫になってこぼれ落ちた。  
なんてこった、原因は俺か。公開スパーじゃ手ぬるいな。サンドバッグになってハルヒに殴ってもらうか。  
もちろん、本物であれば、の話なのだが。  
 
「嘘だとお思いになるのは構いませんけれど」  
喜緑江美里がその俺の考えを見透かすように、うそぶく。  
「紛れもなく、これはあなたが昨日部室を去ったあとの朝比奈みくるの行動です」  
「理由が欲しいな。言うだけならいくらでもできる」  
指で目尻を拭う朝比奈さんから目を外して問いかける俺に、  
「今、情報操作は現存する情報の消去、編集しかできません。新規作成すると長門さんに気取られます」  
けれんみを感じさせない口調で、喜緑江美里は淡々と唇を動かした。正面を向いたまま、  
「ですから、現実の続きである必要があるんです。あなたの夢の中での出来事のように」  
「……」  
説得されたわけじゃない。むしろ自分の認識の浅さに呆れ返っていた。  
とどのつまり、どう説明されようと俺は喜緑江美里を信じられないってことだ。気付けよ、俺。  
不可視の壁に頭突きでもしたくなったが、控え目な音がそれを押し止めた。  
その音は、扉が閉まる音であって、音の発生主は、  
「ぐすっ、キョンくん……」  
朝比奈さんだった。  
 
扉を閉めた朝比奈さんは、頼りない足取りで再び長机に戻っていく。  
片付けは終わっているはずだが、朝比奈さんは何をするのだろうか。  
かばんでも取り忘れたのかと思っていると、朝比奈さんはパイプ椅子を引いて腰掛けた。  
あの朝比奈さん、そこ俺の席なんですが。  
「キョンくんのぬくもり……」  
溜息をついてごそごそと身じろぎをするのが見える。  
パイプ椅子に体温が残っているわけもなく、朝比奈さんがそう感じているだけに違いない。  
理解してはいるものの、むず痒い気持ちが沸き起こってしまうのは止められなかった。  
「ん」  
俺にはお構いなしに、朝比奈さんは鼻から抜ける声を出したかと思うと、  
「キョンくん……」  
右手を胸に押し付け、荒々しく手を動かした。別人格でも宿っているかのように  
乱雑に力が加わり、ふくらみがたわむ様が着衣の上からでもはっきりとわかった。  
「ああっ、キョンくんもっと、優しくして」  
「って何やってるんですか朝比奈さん!」  
遅ればせながら叫ぶ。朝比奈さんの中にいる俺は、随分と衝動的な人間らしい。  
それはどうでもいいとして、朝比奈さんの痴態を高みから見物する気など、俺には毛頭ない。  
慌てて耳を塞ぎ背を向けようとして、  
「現実逃避は感心しません」  
喜緑江美里が動きを封じてきた。指先ひとつ動かない。俺にとっては現実じゃねえよ。  
彫像と化した俺に背後から手を回して、肩口に頭を乗せた喜緑江美里は、耳元に囁きかけた。  
「あなたもなされたのでしょう? 朝比奈みくるがしたからって、なんの不思議もありません」  
 
「うん……そう、優しく……んっ」  
朝比奈さんが架空の俺に対して甘くおねだりをしている。  
陶酔した表情は、俺が今まで見てきた朝比奈さんより数倍色気があった。  
架空の俺は、大胆にも制服の下に手を潜り込ませて、直に堪能し始めていた。  
 
その一方で、本物の俺は、  
「……」  
喜緑江美里の言葉に身も心も硬直していた。朝比奈さん(妄想)の存在をなぜ知っているんだ?  
「……まさか、四六時中監視されているのか?」  
やっとのことで、喉の奥から声を絞り出す。つうか、口は動くのか。  
「まさか。単に確定事項を述べただけです。見たわけではありません」  
俺の肩にもたれかかったまま、喜緑江美里が答える。  
「監視する能力はもちろん兼ね備えていますけれど、原則としてみだりに使用できませんから」  
でなければ、とうの昔に長門が俺に対する情報操作を看過しているはずなんだそうだ。  
長門は薄々、いやそれ以上に気付いてそうだがな。すまん長門、またお前任せだ。  
ともかく、この件に関しては信じておこう。そのほうが、心が安らぐ。  
 
朝比奈さんで妄想するのが確定事項だと言われてしまったが、  
「はふっ、気持ちいいです……もっと真ん中を上下にさすって……」  
実際の朝比奈さんは妄想の比じゃない。もっとエロかった。  
俺の位置から見えるのは上半身と足元だけだったものの、足元に落ちたスカートや、  
「あっ、くぅん、キョンくんの指が、入って」  
朝比奈さんの声で、透過して見えるんじゃないかと思うぐらい、アリアリと想像がつく。  
くちゅくちゅと鳴る粘質な音が、俺を刺激し、  
「うっ」  
「身体は正直なんですね」  
喜緑江美里の這わせた手が、股間に触れる。そこは勃起していた。  
 
「あなたにとっては、ただの妄想相手の一人かもしれませんが」  
ズボンの上を妖艶な手つきでさすりつつ、喜緑江美里が俺の首筋に息を吹きかけた。  
体の大部分は動かないのに、感覚ははっきりと伝達される。  
「朝比奈みくるにとっては、唯一無二の人なんです。この意味はおわかりでしょうか」  
「朝比奈さんは……この時代の人と付き合うわけにはいかないと……言っていたはずだ」  
それに、ただの妄想相手の一人とはいくらなんでも朝比奈さんに失礼だ。憧れの人が近い。  
「建前はそうでしょう。けれど、それは本当に朝比奈みくるの本心でしょうか」  
「キョンくん、あたしもう、来ちゃいそう、ですっ!」  
朝比奈さんのトーンが急上昇していく。湿った音の間隔も狭まり、  
「あっあっ、キョンくん、キョンくんっ!!」  
一際大きく俺の名を呼んで、目をギュっと閉じた。  
 
「――っ、はあ、ふぅ」  
息をついた朝比奈さんは、しばらく胸を上下させていたが、  
「ううっ、うえっ、キョンくん……」  
再び涙を流し始めた。その姿は見るからに痛ましかった。  
 
 
ひとしきり泣いた朝比奈さんは、のろのろと立ち上がり、  
「拭かなきゃ……」  
机の上に置いてあったかばんを漁りだした。薄い茂みや割れ目が見えてしまう。  
ウェットティッシュを取り出し、太腿から股間をなぞったあと、後ろを向いて  
ティッシュボックスに手を伸ばした。大きなお尻が左右に揺れる。  
「あっ」  
手にしたティッシュで椅子を拭いた朝比奈さんが、下を向いた。  
「替え持ってきてなかった……風邪引いちゃうかも……」  
膝まで下げていた白いショーツを引き上げ、穿き直す。大きなシミが中心にあった。  
「冷た」  
事後処理は、あまり見たくない部類の光景だと思った。  
男は虚脱感があるから余計に空しいのだが、朝比奈さんもかなりの哀愁を背負っていた。  
その原因は俺にあるらしいので、なんとなく気まずい。  
気まずくても、体が動かないからどうしようもな……あれ、動くぞ?  
急に解放された俺は、カチリという音を捉えて顔を向ける。  
閉じられていたはずの扉が、半開きになっていた。なぜに? ホワーイ?  
疑問符を並べた俺に畳み掛けるように、  
「キョンくん!」  
朝比奈さんの声がした。扉から朝比奈さんに、対象を移す。  
視線が、合った。  
 
「えっ、あっ、朝比奈さ、え?」  
「キョンくん……もう戻って、こないのかと」  
足首まで戻していたスカートを躊躇いもなく床に脱ぎ捨て、朝比奈さんが抱きついてきた。  
困惑した俺は、すぐあることに気付く。いねえ。喜緑江美里が完全無欠に消え失せていた。  
後ろを向いても、本棚しかない。やられた。  
「キョンくん、どうかしたんですか?」  
朝比奈さんが放すまいと全力でホールドしつつ、頭を傾ける。  
可愛らしい所作を行いつつ、後ろ足で扉を閉めるのは、はしたないと思うのですが。  
「あ、わたしがどうしてスカートを脱いでいたのか、って思ってるんでしょう?」  
あちこちに目を置いていた俺を、目の遣りどころに困っていると解釈したようだ。  
「えへへ、ひとりエッチしてましたぁ」  
明るく朝比奈さんはおっしゃられたが、目尻からひとしずくの涙が流れたのを俺は見過ごせなかった。  
近くで見れば、朝比奈さんの頬には、涙が作った跡がくっきりと浮かんでいた。その跡を新しい涙がなぞる。  
朝比奈さんの流した涙を思い、その涙が誰に向けられているかを思う。俺か。俺だ。  
「朝比奈さん……」  
抱き返したくなった。事実、俺の手は朝比奈さんの背中に回されんとしていたからな。  
しかし喜緑江美里がどこかで見ているに違いない。相手の思う壺は、シャクに障る。  
反抗心が寸前で思いとどまらせ、両手は朝比奈さんの肩に置かれることになった。  
「俺の話を聞いてください」  
 
 
「そんなことが……」  
喜緑江美里に情報操作を受けてから今までを俺は話した。妄想やノゾキ、エロ関連は端折ったが。  
最初はぽかん、としていた朝比奈さんも、聞き終えて驚きの表情を浮かべる。  
目が覚めたように素直に驚きを発する朝比奈さんは、俺の知る朝比奈さんだった。  
「ですから、その、俺を好いてくれるのは嬉しいんですが」  
「キョンくん」  
安心した俺が続けようとしたところを、朝比奈さんが抑揚のない声で遮った。  
「キョンくんは、あたしの気持ちも偽りである、と言いたいんですか?」  
真剣な眼差しをしていた。怒っているようにさえ見えた。  
 
「確かにわたしの立場からすると、涼宮さんをないがしろにしたり挑発したり、まして  
キョンくんにアプローチをかけるなんて、してはいけないことです。禁則事項に近いです」  
まくしたてた朝比奈さんは、かぶりを振って、  
「ううん、客観的に理解しただけで、今も心の中ではしてはいけないなんて思ってません」  
情報操作、か。喜緑江美里はハルヒに対する一種の遠慮を取り除いたと言っていた。  
俺を肯定するように、朝比奈さんは寂しげに微笑んだ。  
「それにもしかしたら、このわたしはわたしじゃない可能性も……でも」  
「うわっ」  
肩に置いていた手がすり抜け、空気を掴む。朝比奈さんが飛び込んできた。  
顔を俺の胸元に押し付けながら、  
「以前、バレンタインのときあたし言ったでしょう? 誰かを好きになっても、未来に  
帰らなければならないから。お別れしなきゃいけないから。あたしはお客さんだって」  
「……ええ」  
さっき喜緑江美里に言ったばかりだった。  
「いくらそう思っていても、誰を好きになるかなんて、理性で割り切れるものじゃありません。  
だから、赴く際に精神制御を受けるんです。好きになっても、それを当人の前で出せないように」  
『わたしとはあまり仲良くしないで』  
朝比奈さん(大)の言葉が浮かんだ。あのときの朝比奈さんは、もどかしい表情を作っていた。  
「想いが決して伝わらない相手を想って、自分で自分を慰めて……」  
『チュウくらいならしちゃっていいよ。ただし寝てる間にしてね』  
これも再三聞かされた言葉だ。冗談のような言い方だったが、何を思っていたのだろう。  
その経緯を知らない俺の朝比奈さんは、緊張した面持ちで俺を見上げていた。喉が鳴ったのは  
俺か朝比奈さんか。見つめ返すと、朝比奈さんは深呼吸を一つして、音を紡いだ。  
「あたしは、キョンくんが、好きです。愛しています」  
 
「言えた……やっぱり、解除されてたんだわ」  
感慨深くつぶやくと、張り詰めていた糸が切れたのか腰が砕けかけた。慌てて受け止める。  
どう声をかければいいかわからないから、無言で。  
「あは、足に来ちゃいました。ごめんね、キョンくん。大丈夫です」  
俺の腕を支えにして朝比奈さんは立ち上がる。そのまま、潤んだ瞳で俺を見つめてきた。  
「キョンくん、あたしの夢を叶えさせて……」  
 
俺の背中に回していた手を、朝比奈さんはゆっくり解いた。  
まだ判断力が戻りきってない俺に向かって、  
「涼宮さん、ごめんなさい」  
心を伴わない口だけの謝罪を朝比奈さんは発した。ようやく俺も追いつく。  
「何をハルヒに謝って――」  
俺の言葉は、しかし柔らかいものによって封じられた。  
朝比奈さんの顔越しに『パーティ決行!』と書かれてあるホワイトボードが目に映る。  
つま先立ちした朝比奈さんにキスされたと認識したのは、文字を読み終えたときだった。  
いつの間にか肩に添えていた手を俺の首にかけ、手前に引き寄せながら濃厚なキスを  
続ける朝比奈さんを、俺は為されるがままに受け入れていた。つうか固まっていた。  
 
「ぷはっ」  
顔を離した朝比奈さんは、息を止めていたのか、胸を押さえてせわしなく呼吸を繰り返す。  
固まったままの俺に気付いたのは、息が整ってからだった。  
「キョンくん、もしかして嫌でした……?」  
おずおずと申し出る朝比奈さんに、犯罪者にでもなったような気分に襲われる。  
「とんでもない」  
即座に復帰かつ否定する。朝比奈さんとキスできて嫌だなんて言う男は、100人中5人しか  
いないはずであって、俺は断じてその5人の中に含まれる性癖の持ち主ではない。  
「ただ、ちょっと驚いただけで」  
唇に感触がまだ残っている。素の朝比奈さんに告白された上でのキスだ。驚きもするさ。  
昨日から絡んでくる朝比奈さんのテンションのままだったら、ここまで動揺しなかった。  
愛しています、なんて言葉を高校生の身で受けるとは、これこそ驚天動地ってヤツじゃないか。  
「よかったぁ」  
俺の返事を聞いて、朝比奈さんは顔をほころばせた。かと思うと頬を赤く染めて、  
「あのう、できればキョンくんにリードしてもらいたいんですけど……ダメでしょうか?」  
「リード? まさか、アレのリードじゃないでしょうね、はは」  
乾いた笑いを上げて冗談扱いした俺に、未だに下はショーツと靴下だけの朝比奈さんが口を尖らせた。  
「なぜ笑うんですか。キスするだけが夢だなんて、あたしそんなお子様じゃありません」  
朝比奈さんがお子様じゃないのはその立派な胸を見ればわかりますし、さっきだって、  
「さっき?」  
抜かった。問い返す朝比奈さんに、そらっとぼける。  
「いや、朝比奈さん自分で言ったじゃないですか。ひとりエッチしたって」  
「キョンくん、まさか見てたんじゃ……」  
俺の演技力のなさは折り紙付きだったようだ。  
「見たんですね? 見たでしょ? あたしのするところ、見ましたね?」  
「あー、ええとその……はい」  
実際には見させられたのだが、見たことには変わりない。追及に観念してうなずく。  
朝比奈さんの顔色が一気に失せた。そのまま倒れてもおかしくないぐらいの蒼白さだ。  
オナニーしたと言うだけならジョークで済むが、見られていたと知ったらな。妹に見られた俺並に悲惨だ。  
どう声をかけ慰めるべきか悩んでいると、  
「あ……あは、あはは、うふふふふ」  
俺とは方向性の違う乾いた笑いが上がった。壊れた。ひたすら怖い。  
「もうあたしに恥じるものなどありませんっ!」  
ヤケクソ気味に、朝比奈さんが言ってのけた。  
 
「ムードとかリードとかもうどうでもいいですっ」  
そう言って朝比奈さんはショーツに手を伸ばすと、ばっさり脱ぎ捨てた。  
見事な脱ぎっぷりだった。距離が近いから、ほとんど見えないが。それはそうとして、  
「朝比奈さん、自暴自棄はやめたほうが」  
「自暴自棄なんかしてません! あたしは最初からキョンくんとひとつになりたいだけです!」  
上も脱ぎながら、朝比奈さんは俺を睨み付けてきた。明らかに責めている視線だ。  
「キョンくんもキョンくんです。あたしのひとりエッチを見たのなら、いきなり襲い掛かってくる  
ぐらいの甲斐性があってもいいじゃないですか。そんなにあたしに魅力がありませんか。そんなに  
涼宮さんがいいんですか。あたしは喜緑さん未満ですか。どうなんですか!?」  
朝比奈さんってこんなに迫力があったのか。及び腰になるぞ、これは。  
「き、喜緑江美里がどこで見てるかわからないのに、できるわけないじゃないですか」  
「あたしは全然構いません。むしろ燃えます」  
制服を机に置きブラジャー姿になった朝比奈さんは、  
「あたしの精神制御を解いてくれた上に、こんな舞台を用意してもらって感謝すべきなんでしょうけど」  
喜緑江美里の姿を探すように部屋を見渡した。出てくるかと思ったが、なんの変化もない。  
顔を俺に戻し、握りこぶしをわなわなと震わせて叫んだ。  
「キョンくんとエッチしたのは絶対許せません!」  
俺はエッチしたなんて言ってない。なのに朝比奈さんが確信を持っているということは、情報操作か?  
情報を有効活用するとか言ってたな、喜緑江美里は。朝比奈さんに情報を刷り込み、対抗意識を出して  
積極的に行動させるのが活用先か。で、それもこれもすべてはハルヒを焚き付けるためだと言う。  
事実ならずいぶんと回りくどいやり方だ。長門にバレないためか、単に、  
「喜緑さんにできて、あたしにできないなんて言いませんよね?」  
「え? あ、いや……う」  
沈黙を是と受け取られてしまった。事実そうなのだが弁明を入れねばなるまい、俺の意志ではないと。  
焦点を朝比奈さんに合わせかけ、桃色の突起を目にして慌てて逸らす。  
朝比奈さんはいつの間にかブラジャーも取って、裸身を晒していた。  
 
「キョンくんの恥ずかしい姿、見せて」  
あさってを向く俺のふところに朝比奈さんが擦り寄ってきた。制服が引っ張られる感触がする。  
首から下を見ないようにチラ見すると、ほんのり赤く染めた顔で制服を脱がさんとする朝比奈さんがいた。  
「や、やめ」  
「うふ。お姉さんに任せてくれればいいんですよぅ」  
「思い出したようにお姉さんぶらないでください!」  
成長したほうを重ねてしまいそうになる。  
「だーめ。あたしは上級生でキョンくんは下級生。最初からこうすればよかったんです」  
楽しがっているな、絶対。お茶を淹れるときでもこんなうきうきした声は出さない。  
ああ、俺の朝比奈さんはエンジェルでも未来人でも憧れの人でもなく、ただの人だったのか。  
妄想が現実、と言っても擬似現実ぐらいだが、になるとある種の空疎感を得るらしい。  
朝比奈さんのたおやかな御手によって身ぐるみをはがされながら、俺は世の儚さを嘆いていた。  
 
嘆いていても俺は修験僧ではないわけであり、  
「わっ……」  
視覚を遮断できたとしても嗅覚や触覚を防ぐことは不可能だった。  
一日の運動量が蓄積され、そこはかとなく香ってくる裸の朝比奈さんに密着されていると  
朝比奈さんが驚くぐらいにしかるべき部位がしかるべき反応を見せても不思議じゃないのである。  
さっき喜緑江美里に刺激されていたことも遠因だろう。  
「キョンくんすごい」  
何がすごいのか別に教えてくれなくてもいいです。  
いっそのこと全力で逃げ出そうとも思ったが、ま、無理だろうな。  
割り切って愉しむか、あくまで抵抗しつつやられるか、このまま朝比奈さんにお任せするか。  
俺はどうしたらいいんだ。むしろ俺はどうしたいんだ。  
 
「キョンくんのイクところ、一度見てみたいです」  
開き直るには経験値が足りず、わざと抵抗して朝比奈さんを悲しませたくもない。  
流れのままお任せすることにしたが、朝比奈さんの第一声で考えを改めたくなった。  
膝を立てて何をするのかと思ったら、  
「わっ、びくって跳ねました、いま」  
恐る恐る手を伸ばし、触って大げさに驚きになられたのだ。  
小慣れた朝比奈さんなど妄想だけで十分だったから、そこまでは微笑ましいぐらいだったが、  
「熱い……ええと、こう?」  
「いっ」  
「ふえ、ち、違いました?」  
「……思い切り搾るだけじゃ、たぶん出ないと思います」  
男の生理についてあまりご存知でないらしい。雑巾絞りじゃあるまいし。  
「あの、教えましょうか?」  
我ながら間抜けな問いと思わなくはないものの、投げかけてみた。  
「お姉さんは教えられたりしません」  
お姉さんを貫き通すのか、意固地になったぶっきらぼうな返事だった。  
色々無理しているな、と思ったが口には出さない。あわよくば、このまま終了に持ち込めないか。  
朝比奈さんの出方を窺っていると、ぶつぶつ記憶を掘り起こす作業をしているようだった。  
「……喜緑さんのとき、キョンくんは……」  
参考資料は俺ですか。どれくらい鮮明にコピーされたのか気になるな。  
第三者的な視点か、喜緑江美里の主観的な感覚か。後者はあまり想像したくな――  
「う」  
「こすれるのが気持ちいいんでしょう?」  
唐突に朝比奈さんが手をあてがって上下に擦り始めた。痛いぐらいに力を込めて。  
朝比奈さんの体温が伝わってくる。見てないが、きっとじっと見つめているに違いない。  
考えまいとしていたが、朝比奈さんに今、手コキしてもらってるんだよな、俺。  
ほかの人にしてもらうのって、こんなに気持ちよかったのか。病み付きになりそうだ。  
 
しばらく無言でこしこし擦る朝比奈さんと顔を背けて耐える俺という構図が続き、  
「あ、先のほうから何か出てきました」  
言わなくてもいいのに、朝比奈さんがいちいち告げてくる。  
「これって、感じてる証拠ですよね? あたしも出ますし」  
悔しいが、気持ちいいのは事実だった。液の名称は俺と朝比奈さんでは違うにせよ。  
「キョンくん、もうすぐ出そうですか?」  
「まだです」  
嘘でも一度は意地を通すところだよな。実際、耐えられないほどでもない。  
それに、我慢していればしているだけ気持ちいい経験が続くに違いない。  
ああそうさ、俺だってエロは嫌いじゃないんだ。ただ状況が状況なだけであって。  
「でも、エッチな液が出てるのに……あ」  
先端が撫でられる感触がした。指ですくったらしい。  
「ぬるぬるにしたほうが、滑りやすくて気持ちいいですよね、キョンくん」  
片手で擦りつつ、ぺたぺたと塗りたくっていく。そんなに出ているのか。  
なんだかんだ言いつつ、俺も相当毒されているようだ。  
 
「キョンくんの、ものすごくエッチな感じになってます……」  
塗り終わり、声をうわずらせて朝比奈さんが言う。どんな感じなんだろうか。  
気になりはしたが、朝比奈さんが再び両手で擦りだすと、余裕も無くなった。  
「わ……なんだかまた大きくなったような……」  
朝比奈さんの吐息が当たっている気がして止まない。どれだけ顔を近づけているんだ。  
その図を想像すると、必要以上のエロさを感じて、ますます追い込まれていく。  
だがこの状態で出してしまったら、朝比奈さんの顔にかかってしまうんじゃないか。  
顔にかけるのは事故の妹だけで十分だ。俺にそんな趣味はない。  
「朝比奈さん、あまり顔を近づけないでください」  
「ふぁ、は、ごめんなさ」  
「うっ」  
条件反射でびくっと体を震わせたのか、ぎゅっと力一杯、握り締めてきた。  
その刺激も辛かった上に、すぐさま擦る作業を続けたのも効いた。  
「や、やば」  
「え、あ、キョンくんイキます?」  
嬉しそうに言って、さらに一生懸命擦りになられる。ダメだ。もう保たない。  
なりふり構っていられないので下を向くと、この後に及んで朝比奈さんはまだ直線上におられた。  
そこじゃどう考えても直撃コースだ。  
「朝比奈さ、よこ、横に動いて!」  
「横?」  
俺の危急を示す叫びにきょとんと俺の顔を見上げる朝比奈さん。擦る手は止めない。  
視線の合った朝比奈さんは、紅潮させた顔に色気を漂わせていて、たまらなかった。  
「っ!」  
「ひゃっ」  
臨界点を突破し快楽が迸る。見上げる朝比奈さんの顔に、俺は思いっきり出してしまっていた。  
 
二度、三度と精液が朝比奈さんを汚す。またやっちまったよ、俺は。  
射精後の気だるさも後押しして、奈落の底まで落ち込んでいきたくなった。  
「あは、こんなに飛ぶなんて知りませんでした」  
対照的に朝比奈さんは、気に留めていないのか、にこにこ笑顔を浮かべていた。  
「キョンくんたくさん出ましたね。これでおあいこです、ふふ」  
顔を白く染めて笑う朝比奈さんを見て、お姉さんだな、となぜか思った。  
 
「それじゃキョンくん、しましょう」  
ウェットティッシュで顔の精液を拭き取って、朝比奈さんが振り向き、  
「あれ……あれ?」  
一点を見つめて、不思議そうな声をお出しになった。  
「なんでキョンくん、小さくなっちゃったんですか?」  
「なんでも何も――」  
朝比奈さんの無知もここまで達していたかと思いつつ、返答しかけ、即座に考え直した。  
「朝比奈さん、知らなかったんですか? 男は一回出したらその日は終わりなんですよ」  
「ええっ!?」  
派手に驚きになる。騙されやすいお人だ。もちろん嘘である。  
「そんな、なんで教えてくれなかったんです?」  
「知ってるとばかり」  
とぼける。朝比奈さんを直視しないように視界から外して。  
このまま終われば、朝比奈さんに多少の不満は残るにせよ、納得するしかないだろう。  
朝比奈さんとセックスしたい欲求がないではなかったが、まだ抵抗心が勝っていた。  
「うう、知りませんでしたぁ」  
真に受けてがっかりする朝比奈さん。頭を垂れている姿が想像つく。  
「あたしは準備万端なのに、夢が叶わないなんて……」  
申し訳ありません、朝比奈さん。別の機会にしてください。そのときは、  
「キョンくん、こうなったらあたしにもしてください」  
「え」  
「キョンくんのエッチなところを見てたら、あたし我慢できなくなったんですよぅ」  
朝比奈さんがその肢体を俺に擦り付けてきた。豊満な胸がたわみ、圧迫感を伝える。  
下半身は開いて俺の太腿に当ててきた。ぬるっとした感触がする。こんなのひとたまりもないぞ。  
「や、ちょっとま」  
「ね、キョンくん、はふっ、あたしも気持ちよくさせてくださぁい」  
落ち着かせようとしたが、息遣いも荒く高ぶった興奮をぶつけられてはどうしようもない。  
俺はあっさり陥落し、股を俺に押し付けていた朝比奈さんにそれを気付かれないわけもなかった。  
「……? あのう、キョンくんの、また大きくなってますけど」  
手を伸ばして、大きくなった部分をにぎにぎしてきた。硬質化している。ああ。  
「キョンくん、もしかして騙しました?」  
朝比奈さんのコワい笑顔を前に、俺は答える術を持たなかった。  
 
朝比奈さんの不興を買った俺は、長机の上に仰向けに寝かされ、まな板の上の鯉と化していた。  
まるでどこぞの団長のように仁王立ちした朝比奈さんが、俺を見下ろしている。  
できるだけ見ずにいた股間が惜しげもなく晒され、茂みや開き気味の割れ目が目に飛び込む。  
脳髄が焼き切れそうな光景だ。すでに十分に勃起していたが、さらに充血してしまう。  
 
「いれます」  
やや緊張した面持ちで、朝比奈さんが腰を沈めていく。ここまで来たら、俺も抵抗しない。  
いや、抵抗と言ったら朝比奈さんに失礼か。心の大半は行為を望む俺がいた。  
手が添えられ照準が合わされ、先端が朝比奈さんの中に呑み込まれていき、  
「――っくう」  
朝比奈さんの軽いうめき声と共に、全てが埋没した。熱に包まれ、朝比奈さんの体重が俺にかかる。  
「……はぁ……ふぅ」  
「あ、朝比奈さん、大丈夫ですか?」  
「ん……はい。これでひとつになれたんですね……」  
目をつむって余韻に浸る朝比奈さんは、身体だけでなく心で確認しているようだった。  
嬉しさがにじみ出ているように思えて、俺にも伝播する。  
「キョンくん、今だけは、あたしのキョンくんでいてください」  
「……わかりました」  
わだかまりを捨て去る。捨て去った、と思い込んだ。  
朝比奈さんに負担をかけないよう、腰を固定しつつ後ろ手に身を起こす。  
眼前に朝比奈さんのふくよかな乳房があった。もちろん、星型のホクロもある。  
と、朝比奈さんも軽く体を前に倒してきた。魅惑的な笑みを浮かべて、瞳を閉じる。  
ちゅっ。  
「んぅ……ちゅ、んんっ、んむ……」  
先程のキスよりもっと濃密な、情愛を交歓するキスだった。  
朝比奈さんの腰が軽く揺れ、刺激してくる。本能のままに動いている様子だ。  
俺も積極的に朝比奈さんの唇を奪い、舌を絡める。濡れる音がしばらく続き、  
「――はあっ、キョンくん……」  
目をとろんとさせて朝比奈さんが顔を離した。半開きになった口の端から唾液が流れる。  
俺は支えにしていた手を離し、そのまま朝比奈さんの乳房へ伸ばした。下から持ち上げる。  
「あふ」  
重量感もだが零れ落ちていきそうな柔らかさに驚いた。朝比奈さんが身をよじる。  
快感を抑え切れないのか、腰の動きも大胆になっていった。一度出してなかったらやばかったな。  
「おっぱい、おっぱい吸ってくださぁい」  
俺もそうしたいと思っていたところです。朝比奈さんの腰に手を回して、顔を寄せた。  
硬くなった乳首を口に含み、舌で転がす。堪能してから、思うがままに吸い付いた。  
「あっ、ああっ、いいです、キョンくんもっと、してっ」  
朝比奈さんはあえぎ声を出して俺の頭を掻き抱いたかと思うと、胸を押し付けてきた。  
貪欲に朝比奈さんを味わう俺は、次第に妙な心地よさに占められていった。  
 
「――かはっ、っ、はあっ」  
「ご、ごめんなさい……あまりに気持ちよくて」  
「はあっ、いえ……」  
心地よさの正体が酸欠だったとは。危ういところで助かった。  
朝比奈さんのおっぱいにのめり込むと、危険だ。ひとつ学んだ。再び実践する機会があるか疑問だが。  
背を机につけ息を整え、申し訳なさそうにしている朝比奈さんを眺める。でもおっぱいは偉大だな。  
特に深い思い入れのない俺でも、そう思った。と同時に、軽い悪戯心が湧いて出る。  
「ひゃっ」  
腰を突き上げると、結合したままだった朝比奈さんが艶っぽい声をお出しになった。  
「も、もうキョンく、んっ、やめてっ」  
俺の動きに腰をもぞもぞ動かしながら言っても、説得力ないです。  
そして俺の行動がまた火をつけてしまったらしい。徐々に腰を浮かしては、沈め始めた。  
「キョンくん、これっ、はぁっ、こすれて気持ちいいですぅ」  
乳房が揺れて視覚的に俺を楽しませる。朝比奈さんが沈むのに合わせて、俺も突く。  
結合部が打ち合わさり、音が立つ。腰を痛めそうなものだが、不思議と長机は衝撃を吸収してくれた。  
 
「はふぅ、おっぱいも、あそこも、あは」  
乳房を自分でこねくり回し、惚けた顔で身体を踊らせる。  
朝比奈さんの口から漏れ出る声は、だんだんと短く断続的になっていった。  
それに伴って、腰を振る動きも早まる。限界が近いのかもしれない。  
俺も二度目の射精が込み上げていた。朝比奈さんの中は、気持ちよすぎる。  
「朝比奈さん、俺またそろそろ……」  
少々情けないが自己申告した。どいてもらわないと、中出ししちまうからな。  
「っ、キョンくん、イっちゃうん、ですかぁ? あたしも、もうすぐ、だからっ」  
しかし何を思ったか、朝比奈さんは逆に俺の腰に手を置いてがっちりと拘束してきた。  
「キョンくんを、はぁっ、あたしに、くださいっ!」  
「いや……」  
それはいくらなんでもマズいのではないかと思ったが、ここが現実とは違う空間であることを思い出す。  
朝比奈さんの望み通りにしてあげるべきかどうか。さすがに俺も躊躇せざるを得なかった。  
だが、どう考えたところで、朝比奈さんに離れる気がないなら、結果は同じか。同じだな。  
「キョンく、あっ、あん、んぅっ、あっ、ああっ、はぁ、はっ、はぁん」  
腹を括り、俺も朝比奈さんの腰を抱え、互いの絶頂に向けて全力で突く。  
跨る朝比奈さんの膝が俺の腰をぎゅうっと挟み締め付けたが、痛みは感じなかった。  
神経の全てが一点に集中して、頭の中はもう出すことしか考えていない。  
がむしゃらに体を動かし、欲望が膨れ上がり――  
「朝比奈さ、う、くっ!」  
一気に弾け飛んだ。一番深く突き入れた瞬間だった。朝比奈さんの熱と熱が交じり合う。  
「あっああっ!」  
息を呑み、身体を震わせて、朝比奈さんも絶頂に達した。  
 
硬直し、動きを止めた朝比奈さんだったが、つながっている部分だけは  
精液を搾り取らんと小刻みに収縮を繰り返し、ドクっドクっと吐き出すのを受け入れていた。  
二度目だというのに大量の精液を出した俺を、適度な疲労感が襲う。  
と、朝比奈さんが体をゆらりとさせ、俺に倒れ込んできた。手で支え、軟着陸させる。  
「ぅん……キョンくん……?」  
「……なんですか、朝比奈さん?」  
胸に顔をつけた朝比奈さんが、顔をつけたまま囁いてきた。  
若干こそばゆかったが、応対した俺に、  
「ありがとう……」  
顔をゆるゆると上げて、ほんのりと微笑みをくれた。  
俺は言葉の代わりに優しく抱き締め、朝比奈さんは再び顔をうずめた。  
 
少なくとも朝比奈さんの中に入っていたものが力を失うだけの時間が経ったところで、  
「キョンくん……?」  
朝比奈さんがまた俺の名を呼んだ。  
「なんですか?」  
「あたし、すごく、すっごく気持ちよかったです。好きなキョンくんとひとつになれて」  
「俺もです、朝比奈さん」  
俺の返事に、朝比奈さんが身を起こす。何かを期待する表情に変わっていた。  
「だから……ね、もっとしましょう?」  
「え?」  
「一回きりだなんて、もったいないです」  
「そう言われましても」  
立て続けに二回も出したんだ。三度目まで少々の充電が必要だろう、たぶん。  
その旨を説明したが、  
「もう騙されません」  
朝比奈さんにあっさりかわされてしまった。  
「こうすれば、またおっきくなるんじゃないですか?」  
身を起こし後しざると、俺の両足を挟むようにあひる座りをして、ぺたんと膝にお尻をつけた。  
どろっと精液が垂れるのもおかまいなしに、手を俺の股間に伸ばして、こしこしし出す。  
まだ過敏で痛いぐらいだったが、俺の意志とは関係なしに次第に力を取り戻し、勃起しやがった。  
「うふ、ほら、大きくなりましたぁ」  
うきうきした声の朝比奈さんは、いそいそ準備を始めた。  
ええい、こうなったら、やれるだけやってやる。俺は自分の若さをぶつけることに決めた。  
 
「キョンくん、思いっきり突いてあたしをめちゃくちゃに、してっ」  
「ぅんっ、恥ずかしいけど、気持ちよくて、あふっ、あそこがいいのぉ」  
「ひゃあっ、そ、そんなとこきたな、あんっ、でも感じちゃうぅ」   
「えへへ、キョンくん、あたしのおっぱい気持ちいいですかぁ?」  
「じゅる、ちゅぷ、ちゅぱっ、ひょんひゅんの、おいひいですぅ」  
 
「朝比奈さん……もう無理……」  
何度射精したかわからない。知る限りの行為や体位もした。俺は、へろへろになっていた。  
「まだですっ! だってまだ大きくなるじゃないですか!」  
そう、何度出しても、なぜか勃起し、射精してしまうのだ。そして朝比奈さんの性欲は底なしときた。  
誰でもいい。つうか喜緑江美里でいいから、助けてくれ。死ぬ。  
身体のあちこちに精液を付着させ、次は俺が教えてしまったフェラに決めたらしい朝比奈さんを  
俺はぼんやりと眺めていた。やがて射精欲が込み上げ、相当な量の精液が朝比奈さんの口の中に――  
 
 
だるい。  
目を覚まして最初に思ったことは、それだった。  
昨日の疲れが残っていたのか、とまず思ったが、そこまで疲れる作業をした覚えもない。  
パシリぐらいでいちいち疲れていたら、SOS団の団員はやっていけないからな。  
となると、変な夢でも見たか。内容は覚えてないが、そうとしか思えん。  
身を起こしながら頭を振る。にしても、下半身が妙にすーすーする。なんでだ?  
「うえ、おいしくないしなんかひっつくー」  
不思議に思う俺の耳に、妹の声が飛び込んできた。  
昨日は一緒に寝てないから、大方俺を起こしにでもきたのか。もう怒ってないみたいだな。  
シャミセンのエサをつまみ食いでもしたのかと思いつつ顔を向け、俺は固まった。  
「あ、おはよー」  
パジャマ姿の妹がのんきに挨拶してくる。日頃であれば、普通の出来事だ。  
問題は、俺のジャージどころかトランクスも下ろされていて、妹が下手人であるらしいことと、  
「おい、それなんだ?」  
「え? これ?」  
俺が指差したのは、妹の口の端に付いた白い粘着質の物体だった。見覚えのある物体だ。  
妹は指でそれを拭って、ぱくっと咥えた。むぐむぐ言わせてから、  
「んーと、キョンくんのせーえき?」  
「……」  
あ、夢か。  
 
「あのね」  
夢なら寝れば覚めると横になった俺を床に引きずり落として、妹がつたない説明を始めた。  
「キョンくんを起こそうと部屋に入ったら、キョンくん寝てたの」  
寝ているから起こす必要があるんじゃないか。何が言いたいのかわからないぞ。  
「違うのー。キョンくんね、寝ながらおちんちん大きくなってたの」  
「……それが?」  
生理現象じゃないのか。  
「だって、小さくしなきゃって思ったんだもん」  
「あのな、放っておいても勝手に小さくなるんだよ」  
じゃないと、授業中にいきなり勃起したときに、困るだろうが。  
「そうなのー?」  
「ああ」  
認めたくないが、一応これで経緯はわかった。その上で理解できないのは、  
「で、なんでその、飲もうと思ったんだ?」  
「それはね、ミヨちゃ……なんでもない」  
言い掛けて慌てて口を塞いだようだが、妹とだんまりが無縁なのは、周知のところだ。  
俺は妹の足を引っ掴んで手繰り寄せると、脇の下に手を滑らせた。  
「言え」  
「ひゃうっ、キョンく、くすぐった、きゃははは、言う、言うからっ」  
弱点を責められた妹は、十秒ぐらいでギブアップした。  
 
「ミヨちゃんに言っちゃった」  
怒らないでね、と前置きして、あぐらをかいた俺に乗っかる妹は平然と言い放った。  
何を言ったのか瞬時に悟った俺は、見上げる妹に冷たい視線を返す。  
「だ、だって、ミヨちゃんの秘密をキョンくんに教えたのに、ふこーへーでしょ?」  
冷たい視線を返す。  
「だ、だいじょうぶ! お風呂場じゃなくて、わたしがハサミを借りにキョンくんのお部屋を  
ノックなしで開けたら、キョンくんのおちんちんが大きくなってて、ってことにしたの。  
もうすぐ六年生なのに、キョンくんとお風呂入ったなんて知られたら、恥ずかしくて死んじゃう」  
「……つまりお前は、自分から勝手に暴露したミヨキチの秘密に良心の呵責を覚えて、俺が絶対  
言うなと念押ししたことをあっさり反古にしたばかりか、内容も自分の都合で改変して伝えたわけか」  
わざと小難しく言ってみた。わからないなりに俺の雰囲気を汲み取って妹が謝れば許すつもりだったが、  
「てへっ」  
妹は伝家の宝刀、可愛くごまかすを使ってきた。この状況下で効くはずがない。  
「有罪」  
俺はセリフの横流しをすると、再び妹を抱え込んだ。三分はくすぐってやる。  
 
息も絶え絶えになった妹は、昨日ミヨキチの家に遊びに行ったときに言ったと白状した。  
「キョンくんのせーえき見たって言ったら、ミヨちゃん顔真っ赤にしてね」  
なんでも、顔を真っ赤に染めつつも、どこからか漫画本を持ってきたんだそうな。  
その内容というのが、  
「おちんちんをぺろぺろして、せーえきをごっくんする漫画だったの」  
ミヨキチはおませさんだなあ、はは。  
それはともかく、ミヨキチのように性的なものの分別がついていればいいが、どっかの妹みたいに  
真に受けてそのまま試す馬鹿な小学生もいるんだから、気をつけてほしいぜ。  
「で、だ。ミヨキチに精液飲んだ感想とか絶対言うなよ」  
言葉だけではわかってくれないようなので、脇をつかみながら脅した。  
敏感になっている妹は、ビクっと震えて、こくこく首を縦に振った。  
「ミヨちゃんの秘密もう教えてないし、言わないー」  
もうってことは、まだあるのか。  
「あるよー。例えば、ミヨちゃんがキョンくんをもごむぐ」  
危なかった。軽率だった。聞いてしまえば、また妹の口は軽くなっていたに違いない。  
ミヨキチが俺をなんなのか、気にならないではなかったが、聞かなかったことにする。  
妹のこの口の軽さも、いつか矯正しておかないといけないな。今は時間がないが。  
「歯、磨きに行くぞ」  
「はーい」  
手を上げて元気よく返事する妹に気をよくした俺は、気合をつけて立ち上がった。  
さ、今日も学校だ。  
 
 
例によって妹とは途中で別れ、チャリを走らせ、今は坂を上っていた。  
今日の俺は、昨日の俺よりは心が軽かった。主な懸念事項は、朝比奈さんの誘いを雑に断ってしまった  
ことぐらいであり、昨日の今頃、ハルヒの処罰に一喜一憂していたことに比べれば、謝れば済む話だ。  
朝比奈さんなら、無茶は要求してこないだろう、たぶん。  
 
色々考えながら歩いていると、俺の横を見覚えのありすぎる女子が早歩きで通過した。  
「おい」  
クラスメートでもある女子に制止の声を掛ける。足を止め、振り向いたそいつ、ハルヒは、  
「なによ」  
「挨拶ぐらいしろ」  
「……おはよ」  
投げやりに挨拶をよこしてきた。ま、いいだろう。  
ハルヒが足を止めて挨拶をする間に、俺は横まで移動していた。  
ハルヒも再び早歩きをする気はないらしく、歩調を合わせて歩き出す。ああ、聞いておくことがあった。  
「なあ、パーティって土曜日曜どっちだ?」  
「日曜」  
端的な返事だな。今日は金曜。明後日か。  
「土曜でいいかしらって最初思ってたけど、せっかくだしキョンをこき使って豪華にしないとね」  
「そんな理由なのか」  
「悪い? 明日はあたしも現場監督役で来てあげるから、感謝なさい」  
感謝したくねえよ。ふう、今日はセーブして過ごすか。  
 
省エネの第一歩として、俺は口をつぐんだ。別にこれ以上話すこともない。  
ハルヒもどうやら会話を楽しみたいわけではないようである。そもそもそんなハルヒは最初からいないが。  
黙々と足だけが進み、  
「おっはよーんっ!」  
唐突にエコーがかって聞こえる声がしたかと思うと、右肩を激しくもっていかれた。またですか。  
「おや、お邪魔だったかなっ?」  
さて、そのにまにま笑いにはどんな意味があるんでしょうか、鶴屋さん。  
「ちわっす」  
「おっはよ、鶴屋さん」  
ごく普通に返事する俺とハルヒに、  
「キミたちぃ、もっとらしい反応をしてもいいんじゃないかい?」  
鶴屋さんは大仰に手を額に当てて首を振った。俺はともかく、ハルヒに期待するのは間違っています。  
しかし、これくらいで諦めないのが鶴屋さんなんだろう。茶目っ気たっぷりに継ぎ足してきた。  
「それとも、もうお互いわかりきってることだから、いちいち反応しないとかっ?」  
「なわけないじゃないですか」  
「ふーん、へーえ、ほーお」  
思わずツッコミを入れると、したり顔に変わった。余計なこと言っちまったか?  
横目でハルヒの様子を窺うと、そもそもやりとりを聞いてなかったような、素の表情だった。  
鶴屋さんも、ハルヒの反応を目ざとく確認していたらしい。俺と見比べつつ、冗談めかす。  
「ハルにゃん、うかうかしてっと足元すくわれるよ?」  
ハルヒがぴくっと眉を上げて俺が質問の意味を推し量ろうとしたとき、誰かが俺の左肩を叩いた。  
 
誰かが叩いた、と言ったが、俺には誰が肩を叩いたのか知っていた。朝比奈さんだ。  
困った。ハルヒもいやがるし、どう対応すりゃいいんだ。朝比奈さんは朝比奈さんで  
怒っている可能性が高い。うーむ。とりあえずストレートに謝る路線で行くか。  
「朝比奈さん? 昨日はすみま――」  
振り向きつつ述べ立て始めた謝罪だったが、ぶつ切りにされた。潤ったものを押し付けられて。  
一瞬、何が起こったのかわからなかったが、すぐに離れた人物の顔に焦点が合わさって、理解した。  
「おはようございます、キョンくん」  
朝比奈さんが、かばんを手にはにかんでいたのだ。  
 
「わお」  
鶴屋さんにとっても、今の行為は意外だったらしい。素直に驚いておられた。  
俺は呆然を通り越して停止だ。昨日の今日で朝比奈さんから出会い頭のキスは、ないだろ。  
「キョンくん?」  
再生ボタンを押したのは、停止させた当事者の朝比奈さんだった。  
「……朝比奈さん、怒ってないんですか?」  
「ちょっぴり。でも昨日いい夢を見ましたし、今ので帳消しです」  
なんだか肌が妙につやつやしている朝比奈さんはそう答えると、  
「あ、涼宮さん、いたんですか? おはようございます」  
ハルヒに初めて気付いたように言葉を連ねた。棒読みで。  
何か怖いものを感じ取った俺は、おそるおそる振り返り、  
「みくるちゃん、おはよっ!」  
満面の笑顔を見せたハルヒに遭遇した。口元が変に引き攣っていたりもしない。  
ただしハルヒは笑っていても、その意味するところは笑いから怒りまで豊富である。  
今回のコイツは……なんだろうな。判定不可だ。長門ならどんな無表情でも大体わかるんだが。  
そして朝比奈さんが俺よりハルヒ鑑定能力があるとは思えず、御多分に洩れなかった。  
「あれ……?」  
笑顔を真に受けて拍子抜けしたようだ。何を期待していたんですか、朝比奈さん。  
 
場の空気が停滞したのを見かねたのか、  
「ほらほら、ぼけっとしてると遅刻するよっ!」  
鶴屋さんが後押ししてくれた。ありがたい。俺も率先して鶴屋さんに同調する。  
ハルヒもさっさと、鶴屋さんの横に並びかけていた。相変わらず足も行動も速い。  
もしかしたら、朝比奈さんが昨日のように腕を組んでくれるかもしれなかったが、ハルヒがいる目の前での  
腕組みは、俺が遠慮したかった。なので、ハルヒと鶴屋さんの間に割り込む。  
「もうっ、キョンくん!」  
出遅れた朝比奈さんが後ろから文句を言うのが聞こえる。  
「ややっ、あたしと腕組みでもするかい?」  
「遠慮しておきます」  
それはそれで願ってもない申し出ですが。  
「ふう、鶴屋さん、場所代わってー」  
「代わってもどうせキョンくん逃げるだけだから、あきらめるっさ」  
「そんなぁ」  
追いついた朝比奈さんが渋々、鶴屋さんを挟んで俺と反対側を歩き始める。  
鶴屋さんと朝比奈さんの掛け合いを楽しみつつも、隣を歩くハルヒが俺は気になっていた。  
 
 
やがて母校が視界に入り、ほどなくして校門に辿り着く。  
阪中の姿をそれとなく探したが、今日はいなかった。朝練かもしれん。  
 
「キョンくん、じゃねーっ」  
校門を過ぎたところで、上級生のお二方がごく自然に手を振ってきた。  
どこからどう見ても別れの合図であり、事実、足早に去っていった。  
あまりにも自然な動作だったので、反応が遅れる。  
「キョン、何してんの?」  
ハルヒが俺の手を見ていた。目を下ろすと、俺の手は上向いて、何かを催促しているような仕草だった。  
「いや、何も……」  
勝手に出た手を引っ込める。おかしいな、朝比奈さんが忘れるはずがないんだが。  
まさか、な。  
 
「……ない」  
そのまさかが起こってしまった。靴箱の中には、俺の上履きしかなかったのだ。  
長門が約束を守らないなんて、想像できるか? できないよな。  
やたら時間の掛かる料理でも作っているんじゃないだろうな。そうとしか思えん。  
とりあえず教室だ、教室に行くぞ。  
 
教室に入ると、一足先に教室入りしていたハルヒが肘を突いて窓から外を見ていた。  
かばんを机の上に置いて、お目当ての人物の姿を探す。いた。  
阪中は、佐伯、成崎、大野木といった、よく見かけるメンバーと談笑していた。  
阪中がいることで、俺はほっとする。教室内で声を掛けるわけにはいかないにせよ、少なくとも  
食いっぱぐれることはなさそうだ。昨日弁当いらないっておふくろに言っちまってたからな。  
安心した俺は、谷口や国木田とだべる日常的行為をすることにした。やれやれ。  
 
そして俺が思った通り、HRが終わってすぐ、阪中はかばんから何かを取り出し席を立った。  
演技も一日でだいぶ向上したらしく、挙動不審になることなく、教室を出て行く。  
閑散とした場所で渡してくれるんだろう。俺もすっと席を立ち、教室を出た。  
阪中は後方を確認せずに、あまり使われない階段のほうへ向かう。  
俺から声を掛けるのかと解釈した俺は、頃合いを見計らって、阪中の肩をぽんと叩いた。  
「よっ、阪中」  
「ひっ!?」  
飛び上がらんばかりの勢いで、阪中が驚きの声を発した。俺だと気付くと、胸をなでおろす。  
「なんだ……驚いた」  
それっきりで、もじもじと落ち着きない態度で俺の顔を窺う。俺から言うのか?  
「こんなこと言うのもなんだが、弁当は?」  
「えっと、その、今日は……」  
歯切れの悪い返事を聞いて、俺は目の前が暗くなりかけた。おいおい、嘘だろ?  
「手に持ってるのが、弁当じゃないのか?」  
「えっ、こっ、これ?」  
阪中が持っていたのは、小さなポシェットだった。弁当が入っているにしては、厚みが足りない。  
「これは、あの……」  
みるみる顔を赤くさせて言葉に窮する阪中を見て、俺は死にたくなった。  
「すまん、説明しなくていい。本当に悪かった」  
「ううん、いいのね。わたしも……ううん。それじゃ」  
謝る俺に、阪中は口を濁すと、赤い顔のまま角を曲がっていった。行き先は、トイレだよな。  
ああ、何やってるんだよ俺。今のは最悪最低だ。穴があったら入りたい。  
 
結局、長門も朝比奈さんも音沙汰なしのまま、昼休みを迎えてしまった。  
阪中は珍しく学食なのか教室にはいない。何か事情があって作れなかったのか。  
そんなこんなで、俺の手元にある弁当の数は、ゼロである。  
「よお、キョン。今日も豪華な昼飯か?」  
谷口に悪気はないのだろうが、今の俺には嫌味にしか聞こえん。  
財布を持ってきてないから、学食にも行けない。だが、この場にもいたくない。  
弁当がないと知ったら、谷口の奴、鬼の首を取ったようになるに決まっている。  
さらに国木田が三股がバレたからだとかなんとか、嫌味なく言うだろう。嫌なコンボだ。  
「キョン、ちょっと顔貸しなさい」  
外に出ようと決心した俺に、ハルヒが力添えしてくれた。  
制服を引きずりながら外へ連れ去ることを、力添えと言うのであれば、だが。  
 
「なんだよ一体」  
結果として外には出たが、ハルヒは何をしようってんだ。  
「いいから黙ってついてきなさい」  
やっぱりと言うか、俺に抗弁は許されていないらしい。いつもながら、勝手な奴だ。  
ハルヒは片手で俺を掴み、もう片方の手にかばんを提げ、ずんずんと上を目指した。  
やがて、見覚えのある場所に着く。最初に来たときは、カツアゲかと思った場所だ。  
「あんた今日お弁当ひとつももらってないでしょ」  
突然、ハルヒはそのものずばりを言い当ててきた。俺は誰にも言ってないぞ。  
「なんで知ってるんだ?」  
「そりゃ知ってるわよ、だってあたしが言ったんだもん」  
屋上へつながる扉のノブに手を掛け、ハルヒが意地の悪い笑みを見せた。  
「今日のお昼休みは、みんなで食べましょう、ってね」  
ノブをひねって扉を開けると、見覚えのある面々が俺を迎えてくれた。  
 
「や、遅かったね、キョンくんっ」  
敷き物の上から、鶴屋さんが手を振っているのがまず目に入った。微笑む喜緑さんもいる。  
やたらと広い敷き物に座っておのおの荷物を広げていた。ハルヒがみんなと表現したのも当然だろう。  
妹こそいなかったが、その場には、残りのパーティ参加予定者が全員揃っていた。もちろん長門や古泉も。  
「ごめんなさい、涼宮さんに言われてたのね」  
申し訳なさそうに謝る阪中に、手振りで気にすんなと伝える。  
「好きなとこ座んなさい。なんなら真ん中でもいいわよ」  
その間にそそくさと阪中と鶴屋さんの間を陣取ったハルヒが、かばんを開けながら言ってきた。  
もちろん俺は自分から見世物になるような愚挙は犯さない。さて、どこに座るか。  
ハルヒからだと、鶴屋さん、朝比奈さん、喜緑さん、古泉、長門、阪中の順に小さな円を作っている。  
朝比奈さんが熱心にラブコールを送ってくれていたが、隣に座るのは躊躇われるな。よし、  
「邪魔するぞ」  
どこが一番落ち着くか考えた結果、俺は古泉と長門の間に座ることにした。  
「僕は選ばれて光栄と思うべきなのでしょうか」  
古泉がふざけたことを抜かしてきやがった。即座に否定する。  
「思わんでいい」  
 
 
これだけ人数が集まると、並ぶ弁当の数々はそれだけで賑やかさを演出してくれる。  
もっとも、中には妙な物体も混在していたのだが。  
 
「長門、それなんだ?」  
隣に座る長門が持ち込んだ物体を指差す。正体は知っていたが、この場にあっていいものじゃない。  
「自動炊飯器」  
しゃもじを手にしつつ、長門が答えた。そりゃそうなんだけどな。阪中も驚いているぞ。  
俺の視線をどう認識したのか、  
「大丈夫。できたて」  
ぱかっと炊飯器のフタを開けた。湯気が沸き立つ。中身は白米だ。八合ぐらいある。  
そして長門はその白米をしゃもじで平皿によそって、俺に差し出してきた。スプーンと共に。  
米が嫌いなわけではないが、米だけを食うってのは、ある種拷問なんじゃないか。  
ああ、もしかすると、白米に見えるだけで味付けされているのかもしれない。  
「待って。まだ」  
そうであることを願いスプーンを突き入れかけた俺を、長門が呼び止める。  
魔法瓶をいつの間にか長門は持っていた。皿の上で、逆さ向ける。何かが米を覆っていった。  
「どうぞ」  
「って長門、これカレーライスだろ?」  
温かくてうまそうだが、カレーライス以外を作ると約束してあったのは、どうなったんだ。  
しかし、長門は俺のツッコミに首をかすかに振った。瞳を合わせ、ぽつりと答える。  
「ライスカレー」  
「そうか」  
その手があったか。なんて思うわけないだろ。  
 
長門に真意を確認しようとしたが、  
「キョンくん、あたしのも食べてほしいんですけど」  
「わたしも朝は渡せなかったけど、作ってきたから」  
朝比奈さんと阪中が、両脇からそれぞれ弁当箱を手渡ししてくれた。ありがたく受け取る。  
長門と話すのは、後回しにしておくか。先に料理をいただこう。  
「よろしければこれも」  
喜緑さんも用意してあったようだ。目の前に皿一枚と弁当箱みっつになった。  
俺だけこんなに恵まれていていいのか。もう一人の男子生徒の様子を窺う。  
「古泉……」  
思わず声が漏れ出た。古泉はコンビニで買ったと思われるパンを取り出したのだ。  
俺の視線に気付いたのか、古泉は笑顔をこちらに向け、  
「お気になさら――」  
「いけないなあっ、古泉くん! ささ、あたしのお弁当をお食べっ」  
立ち上がった鶴屋さんに引っ張られ、無理矢理鶴屋さんの隣に座らされた。  
鶴屋さんのは五重塔も比にならないぐらいの重箱だった。おそらく今日の為に用意したんだろう。  
箸を握らされた古泉は、少し当惑しているようだったが、鶴屋さんが見守る中、だし巻きを口に入れた。  
「これはおいしい」  
「あははっ、まだまだあるからたんとおあがりっ」  
鶴屋さんの快活な笑い声が、抜けるような青空に響き渡った。  
 
「食べて」  
長門も古泉にカレーライス、もといライスカレーを振舞った。  
阪中や喜緑さんは恐縮していたが、長門や鶴屋さんみたいに大量に持ってくるほうが特別なのだ。  
俺もおふくろの弁当を持っていたら率先して分けたのだが、持ってなかった。  
「有希、あたしにもカレーよろしく!」  
鶴屋さんの重箱をつつきながら言うハルヒは、何を考えているのやら。  
 
「やっとお隣さんになれましたぁ」  
考えが食べる順番に及んだとき、古泉が座っていたスペースに朝比奈さんが割り込んできた。  
距離が近い。朝のキスをどうしても思い出してしまう。しかし朝比奈さんは平然としていた。  
「キョンくん、お茶をどうぞ」  
「……ありがとうございます」  
朝比奈さんの度胸には圧倒されるばかりだが、お茶に異存はない。いつ飲んでもうまいな。  
あっという間に全員にお茶を配る朝比奈さんは、場数を踏んでいるだけはあった。  
お茶を飲んで一息、落ち着いた。よし決めた。カレーから食べていくか、と皿に手を伸ばす。  
その俺の眼前に、卵焼きをつまんだ箸が差し出された。  
「お口開けてください」  
「……いや、それはちょっと」  
朝比奈さんは、周囲の目を気にしないのだろうか。俺は気にする。  
「ほら、みんないることですし……」  
ぐるっと見回して、朝比奈さんに思いとどまらせようとした。が、周囲の反応も期待とは違った。  
なぜかうらやましがっていたり、感心していたり、  
「おおっ」  
驚く鶴屋さんがいたりしたのだ。あまつさえ、朝比奈さんに倣うのも出てきた。  
「食べて」  
長門だ。両脇から箸とスプーンを出されてどうしろと。恨むぞ、ハルヒ。  
「阪中さん、これもらうわよ!」  
 
再三の申し出を丁重に断り、俺は自由を取り戻した。  
流されると、阪中や喜緑さんも参戦してきそうな雰囲気だったからな。  
そして会話を楽しみながらゆっくり弁当をひとつずついただいたが、どれもこれもうまかった。  
特に初めて食べた喜緑さんの料理は、完璧だった。こんな表現が料理に対して許されるのか  
どうかわからないが、隙がなかった。俺は朝比奈さん寄りの、甘みが強めで可愛らしい味かと  
思っていたからなおのこと驚き、そのことを率直に伝えると、喜緑さんは微笑んでぺこりと頭を下げた。  
こちらこそ、いくら頭を下げても足りないぐらいです。  
 
「そうだ阪中」  
ハルヒと味の批評をしていた阪中が顔を向けて首を傾げる。  
「妹がさ、こないだもらったシュークリームをまた食べたそうにしてたから、作ってきてくれないかな」  
「うん、いいよ。お母さんに頼んでみる」  
「キョンにしてはナイスアイディアね。あたしも食べたいわ」  
快諾する阪中にハルヒも声を揃えた。よし、楽しみがひとつ増えた。  
話はこれで終わりだったので、気になっていた鶴屋さんの重箱から煮豆でももらおうかとしたとき、  
「ハルにゃん、食べっぱなしっ?」  
その鶴屋さんが、ハルヒに疑問を投げかけた。  
 
「鶴屋さん、なあに?」  
ぽかんと鶴屋さんを見てから、ハルヒが笑って返す。  
「言いだしっぺのハルにゃんは、キョンくんにお弁当作ってこなかったのっ?」  
鶴屋さんは笑いに取り合わず、口調や表情こそ普段通りだったものの、目がマジだった。  
確かに、ハルヒは自分の弁当だけ持ち込んで、あとは食べまくっていただけだが。  
「なんであたしがキョンなんかにお弁当作らないといけないのよ」  
ハルヒがアヒル口を作る。至極真っ当な意見である。逆に作られても困る。  
「ほへえ」  
抜けた声を出して、鶴屋さんがハルヒを見る。見つめる。見据える。凝視する。  
その眼力の強さに、あのハルヒがたじたじとなって視線を逸らした。  
「一体なんなの? 鶴屋さん」  
「んー、いや、なんでもないっさ、ごめんよう」  
けろりと今までのやり取りを忘れたように鶴屋さんは謝ったが、  
「ちょいとキョンくん、耳を貸しておくれっ」  
手で俺を招く。なんでしょうか。  
鶴屋さんは立ち上がる気はないらしく、従って俺が寄っていく。  
古泉が空けてくれた場所に滑り込むと、鶴屋さんが手で輪っかを作って俺の耳に当ててきた。  
 
「あのさ、前にあたし言ったっしょ。みくるにおいたはダメにょろ、するならハルにゃんにってさっ」  
声を出してもしかたないので、うなずく。インパクトのあるセリフだったからよく覚えている。  
ところで周囲が耳をそばだてているように思えるのは、気のせいなのだろうか。  
「あれね、あたしの勘違いだったみたいっさ。ハルにゃんあまり気がないね。残念っ」  
元がよく通る声のため、かなり大きく聞こえる。残念と言われても、反応に困ります。  
困惑が顔に出ていたのか、鶴屋さんが軽く笑う。そして声をさらに潜めた。  
「で、最近みくるがおいたしてもらいたそうなんだよねっ。なんの心境の変化か知んないけど」  
朝比奈さんは露骨に俺と鶴屋さんの会話を聞き取ろうとしていた。聞こえてほしくないな。  
鶴屋さん、してもらいたそうどころか、逆においたしてきそうな雰囲気でしたよ。  
「あたしはみくるを応援するよっ。キョンくん、みくるにおいたしてやってちょんっ」  
それだけ言って、鶴屋さんは離れた。ウィンクひとつくれて。  
俺は何も言い返せない。空気をほぐしてくれたのは、  
「キョンくん、まだいけるなら、このサヤエンドウがオススメっ。食べないと大損だっ」  
カラっとした笑顔の鶴屋さんだった。言われるがまま、食べる。うん、うまい。  
「みんなも遠慮せずにどしどし食べるっさ。全部おいしいと思うよっ」  
わかり切っていたことだが、改めて思う。鶴屋さんには敵わないな、と。  
 
鶴屋さんの重箱は、すぐに空になった。一番食ったのは、長門だ。ハルヒも食うことは食っていた。  
で、重箱が空になったことによって、本日の昼食会はお開きである。腹は一杯、気も一杯一杯だ。  
それでも飲み食いするだけだった俺は、食後の運動も兼ねて、片付けを精力的にこなす。  
弁当箱を返す際に、阪中が、  
「あ、今日の放課後会う口実がなくなっちゃった」  
と少し寂しそうに笑ったのには、男心をくすぐられるものがあった。  
 
「長門、俺が洗ってくる」  
折り重なった平皿を手に取る。紙やプラスチックじゃなく、ちゃんとした重みのある皿だ。  
長門は、わずかに首を上下させたが、直後に視線が別を向く。そして戻った。  
「同行する」  
拒絶する必然性もなかったから承諾したが、俺は先程の長門の視線を追う。  
そこには、片付けをしている喜緑さんがいた。  
 
皿は部室にあったものを持ってきたらしく、水飲み場経由で部室を目指すことにした。  
屋上には戻らない。二度手間は御免だからな。そういうわけで、俺は炊飯器なども抱えている。  
水飲み場まで距離がある。ここで長門に質問しない手はないぜ。  
「なあ、あのライスカレー云々はなんだったんだ?」  
水を向けると、数本の魔法瓶をまとめて持つ長門がこちらを向いた。  
「わたしはカレーライスしか作れない」  
「……そうなのか」  
「そう」  
なら、最初にそう言ってくれりゃよかったのによ。  
非難の色合いを含めてしまったかもしれない。長門が無表情のまま、言葉を足してきた。  
「正確には、カレーライス以外の料理を作ろうとしても、できあがるのはカレー」  
んなベタな。そして意外すぎる。  
俺は思わず長門の顔をジロジロ見てしまい、瞳が悲しみの色を帯びるに至って慌てて外す。  
「わたしも普通の料理を作ってみたい」  
その言葉を聞いて、俺は目を見張った。  
長門が願望を自分から吐露するなんて、記憶を遡っても一件ぐらいしか思い浮かばない。  
この貴重な願望を、どうしても叶えてやりたい。俺はそう思った。  
「誰かに手伝ってもらったらどうだ? ハルヒとか、朝比奈さんとか」  
事情を話せば、やってくれると思うぞ。ハルヒは特にな。  
だが、俺の提案に長門は首を振った。  
「あなたに手伝ってもらうのが最適だと思われる」  
「俺?」  
自慢じゃないが、俺はあまり料理できん。  
「わたしが料理を作るのは、あなたのため」  
「しかしだな」  
「手伝ってほしい」  
「でも」  
「手伝って」  
「……わかった」  
やけに押しの強い長門に、押し切られてしまった。  
しかも今日の活動終了後、長門の家で早速することになった。用事もないしいいんだけどな。  
秘密にしておいてほしいと言う長門を見て、俺はこいつにも恥ずかしいと思うことがあるのかと二度驚いた。  
 
 
「ほらキョン、きりきり働きなさーい!」  
覚悟していたことではあるが、ハルヒは俺を徹底的に使ってきた。  
放課後、部室に入った俺にハルヒは箒と雑巾を投げつけ、  
「まずは掃除ね」  
と部屋全体の掃除を命じたのだ。もちろん働くのは俺だけではないのだが  
罰として人一倍働くことになっているため、ハルヒを始め、みんな遠慮がない。  
「キョンくん、床掃除が終わったら次は窓拭きお願いします」  
「本棚にはたきを」  
「飾りつけもよろしく。もちろんわかってるわよね」  
「これもお願いしてよろしいでしょうか」  
「古泉、お前の分はお前がやれ」  
 
そうして体を動かしまくっていると、  
「みくるちゃん、有希、料理どうするか決めたいからちょっと来て」  
ハルヒが朝比奈さんと長門に招集をかけ、長机に陣取った。監視下からようやく解放か。  
「古泉くんは、キョンがサボらないか見張っててちょうだい」  
「わかりました」  
ちっ。ま、ハルヒよりはるかにマシだ。  
窓拭きを黙々と続けていると、見張り役の古泉が何を思ったか雑巾を手に俺の横に立った。  
「なんだ、手伝ってくれるのか?」  
なら、感謝してやらんこともない。  
「あなたに倒れられても困りますから」  
こんな雑用で倒れるわけがない。とすると、  
「何か話があるなら、聞いてやってもいいぞ」  
「おや、お見通しですか」  
古泉はハルヒたちが机の上に注目していることを確認してから、  
「実は昼過ぎに、小規模ではありますが閉鎖空間が発生しました」  
懐かしい単語だ。ハルヒの機嫌が悪くなると出てくる灰色空間か。  
「ひずみ程度ですし、予期されていたことでもあるので、ものの数分で片付いたようです」  
窓に息を吹きかけ、きゅきゅっと音を立てて古泉が窓を拭く。窓に話しかけるように、  
「おそらく原因は鶴屋さんでしょう。今の涼宮さんに影響力があるのはあなたとあの方ぐらいです」  
「待った。俺は以前、鶴屋さんから俺たちには深く関わらないって直に聞いたぞ」  
俺のツッコミを古泉はさらりとかわした。  
「女子高生にとって、恋のさやあては日常茶飯事みたいなものだと思いますよ」  
恋のさやあてかよ。  
「冗談です。鶴屋さんは逸脱しない範囲で憂慮しておられるのでしょう。今の状況をね」  
窓の外を見ながら、古泉は結論付けた。  
「つまり、鶴屋さんから見てもわかるぐらい、今の我々はどこか変なわけです」  
 
「ま、そりゃそうだろうな」  
主に朝比奈さんの態度を思い浮かべつつ、答えた。  
古泉は苦笑すると、珍しく口の端を少し歪ませる。  
「僕も最初は利害一致だと思っていて、実際そうなりつつあるのですが、率直に言って  
あまり楽しくありませんね。心の奥底がささくれ立つ思いです。苦痛ですよ、これは」  
「なんの話になったんだ?」  
「失礼、私情でした。本筋に戻りますと、と言っても話すことはそれほど多くないんですが  
あなたは僕が涼宮さんに関して申し上げたことをまだ覚えてらっしゃるでしょうか」  
古泉がハルヒについて言ったことと言ったら、あれしかないな。  
「あれだろ、ハルヒを信じろとかなんとか」  
「ええ、そうです。くれぐれもどうか忘れないでください」  
強制的にトンカチで殴られでもしない限り、忘れやしねえよ。  
俺の比喩が面白かったのか、古泉は幾分、表情を緩めた。  
「その方面の心配はもうないと思いますけどね。事態はすでに涼宮さんの手に移っていて  
我々ができるのは、精々これくらいなので……おっと」  
「こらぁ! 古泉くんも一緒にサボっちゃダメじゃないの!」  
「すみません」  
つい会話に熱中していて、手を動かすのを忘れていた。俺は慣れっこだが古泉がハルヒに  
怒鳴られるなんて、よっぽどのことだ。倒れそうなのはお前なんじゃないのか、古泉。  
 
「みんな今日はお疲れさま」  
空が夕焼け色を映している。部室は俺の働きもあって、パーティ色に染まっていた。  
「明日は買い出しだけだから、任意参加にするわ。キョンは荷物持ちよ」  
「ああ」  
俺に拒否権などない。そもそも疲れていて相手もしたくない。  
と、朝比奈さんが挙手した。名残惜しそうに俺を見てから、  
「あたし明日は鶴屋さんとお買い物があるので、お休みします」  
「申し訳ありません。僕も明日は用事があるんですよ」  
古泉もか。二人とも休むなんて珍しい。ま、週末だからそういうこともあるか。  
古泉は確実に例の組織絡みだと思うがな。  
「有希は?」  
長門は何も反応しなかった。参加するって意味だろう。  
「じゃ、解散!」  
かばんを引っ掴んで、突風のようにハルヒは去っていった。直後に朝比奈さんが駆け寄る。  
「キョンくん、日曜まで会えないんですね……寂しいです」  
それは事実ですが、何も目を潤ませる必要はないと思います、朝比奈さん。  
「今夜あたしの家に泊まってくれたら寂しさも紛れるんですけど……」  
上目遣いでおっしゃられても、内容が色々過程を飛ばしすぎです。  
「すみません、今日は寄るところがあるので」  
やり取りをじっと見つめている長門を意識しつつ答えた。  
 
 
長門と二人っきりで坂を下っていると、冬の出来事を思い出す。  
あの長門とこの長門は、別人なんだが、言葉数が少ないのは、同じか。  
 
マンションに行く前に、材料を買わなければいけないらしく、スーパーに寄った。  
「何を作るつもりなんだ?」  
入り口で買い物カゴを取って、傍らの長門に指示を仰ぐ。  
「お弁当」  
それは総称であって、俺は具体的な料理名を質問したわけなのだが。  
「何が食べたい?」  
俺がか。質問されるとは思わなかった。  
「そうだな……」  
 
ひとつ挙げると、また問われる。ひねり出すと、さらに問われる。その繰り返しだった。  
遠慮しようとしても、料理の練習を名目に長門はいつになく強気の姿勢を見せる。  
結果、俺の両手からスーパーのレジ袋が複数垂れ下がっていた。冷蔵庫に全部入るのか、これ。  
レジで五桁の数字が表示されたときは、どうしようかと思ったしな。  
 
「袋は流しの上に」  
と言い残し、長門は自室に入っていった。靴を脱いで上がる。  
何度目だったかな、長門の家にお邪魔させてもらうのは。  
レジ袋をキッチンに置いて、とりあえずリビングに移る。かばんを置き、背筋を伸ばしたところで、  
「着けて」  
制服の上から幾何学模様のエプロンをつけた長門が、手にした布きれを俺に差し出してきた。  
受け取り、広げる。エプロンだな、こりゃ。  
「これも」  
三角巾もか。家庭科があるから持っていても不思議ではないが、新鮮ではある。  
エプロンに三角巾を着けた長門からは、妙に生活臭を感じた。  
防寒のため、ファッションのため、マナーのためと色々衣服を着る理由はあるが  
エプロンに三角巾は、実用性よりコスプレにシフトしつつある衣装なのかもしれない。  
長門にそんな感想を覚えながら、俺も料理スタイルに身を包む。よし、準備ができたぞ。  
「どう?」  
着け終えた俺に、長門が疑問形で投げかけてきた。なんのことだかわからん。  
「何が?」  
「わたしの格好」  
「は?」  
耳を疑った。俺の長門辞書には永遠に含まれないであろう言葉だったからだ。  
格好に無頓着以前の長門の発言とは思えない。俺の知らない間に時空改変でもあったのか。  
無意識のうちに、穴の開くほど俺は長門を見ていた。いや、意識してからも見ていた。  
「……」  
ふい、と長門が背を向けてキッチンに消える。なんだったんだ?  
 
手伝いに来て手伝わないわけにはいかん。  
幸いなのかどうか、キッチンに入った俺は、黙々と料理道具を揃える長門を見止めた。  
俺が入ったときに長門が持っていたのがまな板でよかったぜ。包丁なら別の感想だったかもしれん。  
 
「さ、何から作るんだ?」  
さっきの出来事はなかったことにして、腕まくりなどしてみる。  
長門はかばんから昼に活躍した炊飯器を取り出した。飯炊きが最初か。つうかそれ入ってたのか。  
「ああ、米をとぐのは俺がやるよ」  
力仕事で済みそうなものは、率先してやるべきだろう。  
炊飯器を受け取り、蛇口をひねる。タワシで擦りきれいにし、長門が持ってきた米袋の口を開けた。  
「何合だ?」  
「八合」  
「……誰か食べに来るのか?」  
返事は首の左右運動だった。  
 
しゃりしゃりと音を立てて米をとぐ。たまには、家事も悪くはない。  
横にいる長門を見ると、料理道具は出したものの、材料に手をつけていない。  
と、視線が衝突した。  
「何が食べたい?」  
長門が作りたいのを作ればいいと思うんだけどな。ま、基本料理と言えば、これかな。  
「卵焼き」  
「わたしは食べたくない?」  
「ん? 長門が食べたくないなら、別の料理にするか」  
「違う」  
米をとぐ手を止めた。長門にしては声に強さを感じた。  
「わたしはあなたにわたしと性的交渉を結ぶ意志があるかどうか確認している」  
「せ……すまん、なんだって?」  
聞き間違いだと判断し聞き返した俺の腰に、長門が抱きついてきた。  
俺の顔を見上げた長門は、あくまでも無感動だった。  
「わたしを食べたくない?」  
 
抱きつく長門は、映画のワンシーンのようだった。相手が古泉から俺になっている点を除いて。  
そして俺はまさに映画的だと思っていた。長門の瞳になんの揺れもない。  
それに長門にしては、行動も言動もおかしいだろ。  
「誰の差し金だ」  
軽く長門を押し返しつつ、詰問する。長門の返事は、ワンテンポ遅れた。  
「……あなたも知っているはず。喜緑江美里」  
「喜緑さん? お前と喜緑さんになんの関係があるんだ?」  
真顔で聞き返した俺を、長門は探るように覗き込み、  
「まあ、残念」  
別方向からいきなり声が届いた。  
 
「うまく行くと思ったんですけれど」  
声の出所を探ると、喜緑さんがキッチンの出口に立って微笑んでおられた。  
なぜ喜緑さんがこんな場所に?  
「この人に施した情報操作の解除を求める」  
長門が淡々と声を出す。その声の意味を確かめようとして、俺は空気の変化に驚いた。  
冗談じゃなく空気が冷たい。痛い。長門が怒っている。尋常もなく。  
「長門さん、もう少し男性の方を魅了する演技力を身につけるべきでは」  
俺なら到底耐え切れないような長門の視線を、喜緑さんは平気で受け止めていた。  
「解除を求める」  
無視して繰り返す長門に、喜緑さんは軽く息を吐いた。  
「どうぞ」  
 
「こんばんは」  
「何がこんばんはだ」  
いかん。つい乱暴な口の利き方をしてしまった。して当然だとしても、相手の外見が外見だからな。  
「あんなに情熱的な昼休みを過ごした相手に向かってひどい……」  
喜緑江美里はいかにも白々しく手で顔を覆って、泣くフリをした。ダメだ。俺じゃ勝てない。長門なら。  
ああ、そうだった。俺は、下手に相手をするよりも真っ先に頼まなければならないことを思い出す。  
ちょうど頼む人物は真横にいる。俺は叫んだ。  
「長門! 喜緑さんが全員にかけた情報操作をなんとかしてくれ!」  
「了解した」  
ようやく待ち望んでいた言葉を得たように、長門は一時の間も置かず返事した。  
未だに口を突いて出る呼称が喜緑さんなのは、慣れの問題か。  
「どう、なんとかなさるおつもりなんですか?」  
喜緑江美里が手を下にずらして、俺たち二人に上目遣いを送ってきた。無論涙なんか流れていない。  
「強制手段」  
長門が端的に答えた。普段の長門の短い言葉は、俺にとって理解しがたいときが多々あるのだが  
今回はよくわかった。つまり長門は、喜緑江美里をシメてやると言いたいわけだ。  
「いいんですか?」  
今度は俺だけを見て、問いかけてきた。  
余裕っぷりが気になる。ま、喜緑江美里なら演技でもなんでもこなしそうだが、念のためだ。  
「何がだ」  
「わたしは朝倉さんとは違って、情報統合思念体の総意を得て行動しているんです」  
足を遊ばせ、指を交差させ、流し目を作って喜緑江美里は言った。  
「この場合、わたしに危害を加え妨害すると、処罰されるのは長門さんだと思うのですけれど」  
「……長門、そうなのか?」  
「そう」  
あっさりと長門は首を縦に動かし、認めた。  
「最初から承知している。あなたが同意しないならわたしがすべきことはひとつ」  
 
「長門さん、献身的なんですね」  
喜緑江美里が長門に向けた微笑みは、慈愛としか表現できなかった。  
「でも、もう遅いのはあなたもおわかりでしょう。きっと彼の同意を理由として統合思念体に  
働きかけるおつもりだったんでしょうけれど、わたしが計画を始めてすぐの頃であればともかく  
既にある程度成果を得られた現時点では、到底受け入れられるとは思いません」  
「……」  
長門が感情を表に出すタイプだったら、下唇でも噛んでいそうな雰囲気だ。  
喜緑江美里の言い分に理があるってことなのか?  
「長門さんは、情報結合を解除されてもよろしいのですか?」  
「情報結合の解除って確か……」  
どっかで聞いたフレーズだった。記憶の糸を手繰り寄せようとしたが、  
「人間に当てはめると、死刑です」  
その前に喜緑江美里が丁寧にも教えてくれた。  
「……」  
思考の淵に佇む長門を見て、俺は長門に何を強要しようとしたのか、事の重大さを知った。  
「長門、ダメだ。お前がいなくなったら意味がない」  
悔しいが、さっきと逆を言わざるを得ない。長門がいなくなるなんて、考えられん。  
 
「……大丈夫。心配しなくても、わたしは自身の情報連結解除を選択しない」  
だいぶ間を空けて、長門は俺に答えた。  
「長門有希という個体が有する関係性を放棄した場合に与える影響のほうが甚大」  
当たり前だ。長門がいなくなったら、みんな悲しむ。ハルヒが何をしでかすかわからん。  
「それがわかっていて、なぜ先程は彼の言い分を受け入れたんですか?」  
「怒りに正常な思考判断能力を奪われていた。今は冷静」  
およそ長門らしくない言葉だ。喜緑江美里も目を瞬かせて、軽い驚きを表わす。  
「怒りだなんて、長門さん、可愛い」  
俺の目には長門が再び怒ったように見えた。怖いからやめてくれ。  
 
「それでは、申し訳ありませんがあなた以外の方の情報操作は解除いたしません」  
やたらと低姿勢で喜緑江美里が結論を告げる。  
「なぜ俺だけ解除したんだ?」  
「だって長門さんが怒って怖いんですもの」  
からかい半分だと言わんばかりに、喜緑江美里がくすくす笑う。と思うと、真顔になり、  
「半分冗談です。時間稼ぎは終わりましたので、あなたを操作する必要がないんです」  
俺との会話は終わりとばかりに、喜緑江美里は長門に顔を向けた。  
「……どうせなら、ごまかして最後まですればよかったのに」  
「余計なお世話」  
長門が撥ね付ける。  
「もったいない。こんなに気持ちいい経験を逃すなんて……」  
語尾を聞き取れない言葉で濁して、喜緑江美里の姿が掻き消えた。  
「ではまた」  
ドアの閉まる音が、小さく鳴った。  
 
 
残されたのは、エプロンに三角巾姿の俺と長門だけだった。  
「長門、すまん」  
俺は、俺をずっと待っていた長門に、まず謝った。  
不可抗力だったとはいえ、長門を悲しませたのは事実だったからだ。  
「いい」  
長門の返事は短い。だがそこに万感の思いが込められているように思えた。  
思えたのだが、それでは俺の気が済まない。  
「何か俺にできることはないか?」  
いつも迷惑をかけてばっかりだ。埋め合わせをしたい。  
気持ちが伝わったのか、長門は少し逡巡をした上で俺に答えてくれた。  
「もう少しいてほしい」  
お安い御用だ。  
 
「にしても、どうすりゃいいんだろうな」  
道化の象徴に見えて仕方がないエプロンを外しながら、考えが言葉に出た。  
やっと自分を取り戻したと思ったら手遅れだっただなんて、笑うしかないぜ。  
「喜緑江美里は危害を加えたりはしない。通常通り行動することが最善の策」  
長門が言うのならそうなんだろうが、  
「精神的にかなりキツイのはなんとかならないのか」  
去り際のやり取りが思い出される。喜緑江美里が言っていたのは、アレだろ。  
さらには朝比奈さんともあれやこれや、辛くもあったがとても言えないようなすごい経験を、  
「よだれ」  
「う……」  
冷淡に指摘した長門の声が、俺の動きを凍らせた。  
鋭角化した長門の視線が刺さる。思い出した例が悪すぎた。  
 
しばらく無言の応酬があった末、俺と長門はコタツテーブルに向かい合って座っていた。  
テーブルの上には、長門の淹れてくれたお茶がある。  
「喜緑さんってのは、どういう人なんだ?」  
人という言葉は誤用かもしれないが、かと言ってインターフェースとも言い辛い。  
長門の前では特にな。  
「有能、世話好き、でも意地悪」  
「……まあ、わからんでもないが」  
「先程もあなたとの性交場面を添付してきた」  
俺にどう反応しろと言うのだ。目の前に置いてあるお茶を飲んで濁す。  
「朝比奈みくるのも」  
「ぶっ」  
むせた。何しやがるんだ、一体。  
「気をつけてと言ったはず」  
「ち、違う。長門、俺の話を聞いてくれ」  
とんだ置き土産だ。誤解を解くべく、俺は情報操作されてからの一部始終を長門に話すことになった。  
 
 
「そう」  
俺が話し終えると、長門は湯飲みのお茶を少し口に含んだ。  
「喜緑江美里があなたの夢に介入していたのは察知できなかった」  
喜緑江美里も慎重に慎重を重ねていたらしいぞ。  
しかし長門が誤認したってことは、喜緑江美里め、朝比奈さんに説明した部分を端折りやがったな。  
都合のいいように編集しやがって。  
 
むかっ腹ばかり立ててばかりでは長門も楽しくないと思い、何くれと話を振ってみた。  
相変わらず言葉は少ないながらも、長門が落ち着いている様子が窺える。  
そんな長門を見て、俺も久しぶりにゆっくりとした時間を過ごす実感が湧いた。  
疲れっぱなしだったんだよな。肉体的にも精神的にも。  
 
そんなこんなでいつの間にか結構な時間になっていた。  
「どうせだから、御馳走になろうかな」  
このまま去るのが惜しかった俺は、長門との買い物を思い浮かべつつ言う。  
湯飲みを傾けていた長門は、ことりと音を立てて湯飲みを置くと、立ち上がった。  
「用意する。待ってて」  
「ああ、電話借りてもいいか?」  
「どうぞ」  
言い残し長門はキッチンに入っていった。  
 
『はい、もしもしキョンくんのおうちです』  
「お前はどんな応対してるんだよ」  
受話器を取った妹にとりあえずツッコむ。  
『あ、キョンくん? どうしたのー?』  
「今晩は友達の家で食べていくから、おふくろに晩飯いらないって言っといてくれ」  
『誰のおうちー?』  
「長門」  
『有希?』  
「そうだよ。じゃあな。ああ、パーティは日曜な」  
『キョンくんま――』  
妹が何か言い掛けたが、言うだけ言って受話器を置いた俺の耳には全部入らなかった。さて、  
「何が出てくるか楽しみだ」  
長門のことだから、味わったこともないぐらいうまい料理を作ってくれるに違いない。  
 
座して待つ俺の元に、長門が深皿を手にやってきたのは、しばらく経ってからだった。  
「お待たせ」  
皿がテーブルに置かれる。お、これはうまそうなカレーだな、って、  
「カレー?」  
「カレーライスは時間を置くとおいしくなる」  
いや、それは俺もおぼろげながらに知っている情報なのだが、  
「帰り際に買い物した材料は使わないのか?」  
「これが一番おいしい」  
コップに水を注ぎながら、長門は答えた。  
一番おいしくても、こう度々だと食傷気味なんて言葉もあるように、どうしても飽きが来る。  
作ってもらっている立場で言うのは、心苦しいものを覚えるが、長門のために言っておこう。  
「俺は長門の別の料理も食べ……いや、カレーもいいな、うん」  
長門を見て気が変わった。スプーンを手に取る。なぜ気が変わったかは、言わなくてもわかるだろ。  
どこまでかはわからないが、あれも演技のうちだと思ってたんだけどな……。  
 

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