長門のカレーは昨日より確実にうまかった。ああ、うまかったとも。
ルーをブレンドして程よい辛さと甘さを演出し、容器に配慮したのか小さめに切ってあった
具も中まで柔らかく、それでいて形は崩れていない。千切りキャベツも口直しにはよかった。
まるで俺の嗜好に合わせたような出来栄えのカレーだった。それが弁当であるという事実を除けば。
そしてその事実が問題なのであった。カレーは弁当の具材としてあまりよろしくない。冷たいしな。
次に弁当箱を長門に返すとき、言っておこう。これだけうまいものを作れるのにもったいなさすぎる。
こうして三つの弁当を完食した俺だったが、腹もきついが時間もきつかった。
だいぶ待っているんじゃないか、喜緑さん。待たせていると思うと申し訳なかったのだが
おふくろのは除くとしても、三人の弁当は全部食べ切らないと不公平というものだろう。
何よりハルヒが見ている前でそんな暴挙に及んだら、俺の人生が終わってしまいそうだった。
「歩いてくる」
弁当箱をしまい込み、昨日と同じく断って俺は立ち上がった。昨日と違うのはハルヒがいるぐらいだ。
一足先に食べ終わり机に肘を突いていたそのハルヒは、俺に合わせて席を立ってきた。
「あたしも付き合ってあげるわ」
冗談じゃない、と思ったが上手く断る方法が思いつかない。どんな言い訳をしても怪しまれそうだ。
昨日の今日でどうしようもない。ハルヒを連れ立って屋上に行くわけにもいかない。
仕方ない。
「勝手にしろ」
諦めた俺はぶっきらぼうに言い捨てて、背を向けた。
すみません、喜緑さん。
吹っ切った以上、腹具合を整えるために歩くことにした。校舎の中をうろついてもつまらんから
中庭に出る。時間を余した生徒が据え付けのテーブルに座って談笑する、ごく普通の光景がそこにはあった。
三年が卒業していなくなったからか、中庭は割合閑散としていた。差し込む日光が心地いい。
もうすぐ春か。
ハルヒは不気味なほど大人しく、黙って俺のあとをついてきた。昨日の放課後のように率先して
ぐいぐい引っ張るぐらいがいつものハルヒであるはずで、沈黙を守るこのハルヒは、どこか変だった。
あまり変な行動を取らないでくれよ。世界がおかしくなったんじゃないかと心配するのは俺なんだからさ。
そんなことを思いながら歩を進め角を曲がると、樹が見えた。いつかの文化祭のあとにハルヒが木陰で
寝転がっていた樹だ。歩いてばかりでもなんだから、休憩とシャレ込むか。丁度誰も座っていない。
俺は歩み寄って、腰掛けた。樹にもたれかかって、背伸びをする。
「座らないのか?」
そばで突っ立っていたハルヒに声をかける。するとハルヒは無言で俺の隣に腰掛けた。
かすかに春の匂いがする風が舞い、芝生を撫でた。
手を頭の後ろで組んで樹にもたれていると、満腹感と陽気のせいか眠たくなってきた。
気力を使いすぎたかもしれん。ただひたすら眠い。
「ねえ」
あくびを噛み殺す俺の横で、腰掛けてからもずっと黙りこくっていたハルヒが、唐突に口を開いてきた。
「……なんだ?」
青空を見上げながらぼんやりした頭で返事をする。
「阪中のお弁当、おいしかった?」
頭が冴えた。何を言い出すんだコイツは。
もたれるのを止めて顔を向けると、ハルヒは足を伸ばしてさっきまでの俺と同じく空を見ていた。
発言の趣旨がいまひとつ理解できなかった俺は、多少呆れつつも、
「おいしかったも何も、お前だって食っただろ。それでわからないのか?」
「あたしはあんたの感想をきいてんの」
聞いてどうしたいのかわからん。俺が味覚異常だとでも思っているのか。
「うまかったに決まってるだろ」
「ふうん」
わざわざ質問してきた割に気のない声を出したハルヒは、芝生をむしって初めてこちらを向いた。
仏頂面を浮かべているな、と思い言葉を足そうと口を開いた瞬間、ハルヒはむしった芝を投げつけてきた。
風が吹く。だが、今回の風は味方になってくれるどころか、ハルヒに力を貸しやがった。
「何すんだよ!」
ぺっぺっと口の中に飛び込んできた芝を飛ばし声を荒げる俺を無視して、すっくとハルヒは立ち上がった。
スカートを払ってほこりを落とし、つま先でトントンと音を立てる。手を組んで大きく上に突き出した。
「んー、よしっ!」
大きな背伸びをしてから景気付けにか、元気な声を発した。勢いをつけてくるっと振り返ってくる。
普段通りの、前に前に進んでいくハルヒの自信に満ちた表情がそこにはあった。
「なに馬鹿面してんのよ、キョン。ほら、もう時間よ」
そう言って、手を差し伸べてきた。ハルヒの急変に戸惑いつつ、差し伸べられた手を取って腰を浮かす。
と、その手がぱっと離された。当然の結果として尻もちをつく。どしんと。
「ばーか」
「……ガキかお前は」
ぼやきながら身を起こす。しかし一方でそんなに悪い気はしなかったね。
なんにせよ、ハルヒが元に戻ってくれたのなら、それに越したことはないからな。
「早く早く! 時間は待ってくれないわよ!」
元気すぎるのも、それはそれでまた困りモノ、か。
ハルヒと連れ立って教室の戸をくぐった瞬間、教室内が静まり返り俺に好奇の視線が集中した。
大方、昼食時の騒動がクラスメイト全員に知れ渡ったからだと思うが、わかっていても居心地が悪い。
ハルヒはハルヒでクラスの雰囲気など気にするそぶりもなく、すたすたと自分の席につきやがったしよ。
残りの関係者は阪中だが、阪中は無関心を装っているのか、振り返らずに教卓を見ているようだった。
もっともクラスメイトのほぼ全員が俺を見ている中で、ぽつんと前を向いているのは逆に怪しいのだが
阪中は気付いていないのだろうか。ハルヒに思いっきり見られているぞ、阪中。
気まずい思いをしていると、谷口と国木田が寄ってきた。それに合わせてか、三々五々に
視線が逸れ、喧騒が教室に戻る。ったく生きた心地がしなかったぜ。
「涼宮にちゃんと謝ったか?」
にやにやしながら俺の肩を叩く谷口に、
「キョンが謝る必要なんてないよ。付き合ってもいないんだしさ」
国木田がおっとりと合いの手を入れた。よくわかっているじゃないか、国木田。
国木田はフォローを入れてから、ほがらかな笑みを向けてきた。
「それで、本命は誰なの? 朝比奈さん? 長門さん? やっぱり涼宮さん?」
少しでも感心した俺がバカだった。
二人をあしらい着席しても、場は俺の話で持ちきりだった。否応なしに声が飛び込んでくる。
「あの……君が三股だなんて」
「人は見かけによらないってホントなんだ」
「そういえば俺、昨日キョンが九組の野郎と仲睦まじげにしてたのを見たぜ」
「ああ、古泉だろ? 俺は前からずっと怪しいと思ってたんだ」
「古泉君って涼宮さんが作った同好会にいるんでしょ?」
「むしろみんな涼宮の同好会のメンバーだな」
「と、いうことは……」
「実は全員了承済で……」
「部室の中では……」
「……交パーティ?」
勘弁してくれよ。妄想たくましいにも程がある。
どんな鬼畜人間なんだ、俺はよ。
狸寝入りを決め込んだ俺に対する容赦ない言葉は、教師が入ってくるまで続けられた。
ま、悪意を持ってはいないのが救いか。クラスメイトもその辺は承知の上だった。
「先に行ってて。あたしは阪中にちょっと用事があるから」
「阪中に?」
放課後になり、さて部室に引きこもるかとかばんを提げた俺に、ハルヒが宣告してきた。
それはまさに一方的な宣告で、唐突な物言いにオウム返ししかできなかった俺を放置しハルヒは
阪中の席に特攻しやがった。遅れて言葉が脳に染み渡る。ハルヒが? 阪中に?
とても教室を出る気になれず様子を窺っていると、座っていた阪中は見ていて可哀想になるぐらい
ビクつき、おそるおそるハルヒを見上げて愛想笑いをしていた。後ろめたさ全開だ。
そんな阪中に、こっちからは背になっていて見えないハルヒが何やら言ったのか、阪中はちらりと俺を見た。
そして決心するようにうなずくとかばんを手に席を立ち、そのままハルヒと一緒に教室を出て行こうとする。
ってどう考えても弁当の件だろ。阪中を一人にして大丈夫なのか?
心配になった俺は尾行してやろうかとさえ思ったが、機先を制するように阪中が振り返った。
その顔は、少し心細そうではあったが、微笑んでいた。
「キョンくん、どうぞ」
「ありがとうございます」
朝比奈さんが淹れてくれた湯気立つお茶をいただく。温かくてほっと和む。涙腺が緩みそうだった。
朝比奈さんがいることからもわかるように、俺が現在いる場所は部室である。
ハルヒと阪中が何を話しているのか気が気でなかったのは確かだったが、阪中にあんな顔をされては
追いかけるわけにもいかず、すごすごと部室に退散していたわけだ。
お茶を飲み干した俺は、優しい気持ちで満たされた。
「おいしかったです、朝比奈さん」
「お粗末さまでした」
朝比奈さんが笑顔を浮かべる。かなり上機嫌なようである。
朝比奈さんが上機嫌なのは、俺が弁当を残さずに食べたこと及びその感想に起因すると思われる。
しきりに感想をせがむ朝比奈さんに、古泉でも言わないような美辞麗句を並べ立ててしまったからな。
明日もはりきって作ってくれるそうで、俺はいよいよおふくろに弁当を作らなくてもいい旨を
伝えなければならないようだった。阪中……はともかく、長門も作るのを明言してあったから最低二つだ。
その長門は、斜向かいで読書をしていた。朝比奈さんが弁当を作ってきたことを知っても
長門は顔を上げず本に視線を落としていたが、俺が安っぽい感想を告げている間、いつまでたっても
ページがめくるそぶりを見せなかったのは、ちょっとしたホラーだったぜ。
朝比奈さんのあとに長門にも弁当箱を返したんだが、視線で射抜かれるかと思ったしな。
気圧されつつも、言わねばならんとカレーの具材としての不適切さについて懇々と俺は諭していた。
腕前を褒めると表情を幾分和らげ、明日こそはカレーライス以外を作ることを確約してくれた。
明日が楽しみだ。もちろん、今日これから起こることを現実逃避して言っているのであるが。
ハルヒは中々部室に来なかった。来ないほうが今日の俺にとってはいい気もするが
来てくれないといつまでたっても俺の処罰が判明せず現実逃避が解消されないので、それはそれで困る。
困りごとと言えば、現在の状況もそうなのだが。
「朝比奈さん?」
「なんですか?」
微笑みをたたえたメイド姿の天使が顔を向けてきた。意を決する。
「あの、椅子近すぎませんか?」
「え? いつもこれくらいじゃないですかぁ」
まるで俺の言った内容が何かのジョークだと確信しているような朝比奈さんだった。
俺の記憶が正しければ、いつもはパイプ椅子同士くっついていたりしないはずであって
こんなに空間が余っていると、長机の意味がないように思えるんですが。
「キョンくん、わたしが隣にいるのは嫌?」
目を潤ませた朝比奈さんが、上目遣いでおっしゃる。その俺の制服の袖をつまむ仕草は
なんの意図が含まれているんでしょうか。胸を強調するように寄せないでください。
「もちろんそんなわけないじゃないですか、はは」
「よかった。わたしどうしようかと思いました」
あっさり折れる俺。そんな俺の腕を朝比奈さんが抱えてきた。反則だ。実に反則だ。
本気を出した朝比奈さんの実力を垣間見た気でいると、細かい振動音が鳴った。
「失礼」
古泉がブレザーのポケットから携帯を取り出しながら席を立った。そういえばいたっけ、お前。
「あなたも失礼な方ですね」
首を振って古泉は部室から出て行った。あの様子だと、閉鎖空間が発生したわけではなさそうだ。
しかし俺の見込みは甘く、閉鎖空間はすでに発生していたのだ。灰色じゃなくピンク色の閉鎖空間が。
「ね、キョンくん。今度わたしの家に来ません?」
その閉鎖空間の発生源は朝比奈さんだった。古泉がいなくなって、邪魔者は消えたと思ったらしい。
長門もいるのだが、朝比奈さんの眼中には入っていないようである。
「お弁当じゃない手料理も食べさせてあげたいですし、もっとキョンくんと仲良くなりたいです」
「……そんなことしてハルヒにバレたらまた同じ穴の二の舞なのでは?」
腕を抱えながらの「仲良くなりたい」は、やけに生々しい印象を与えてきた。
男としてたまらない申し出だったが、おいそれと了承するわけにもいかん。
「キョンくん意味わかんないです、それ」
朝比奈さんは、俺の引用を笑ってかわすと、
「涼宮さんなら心配ありません。わたしがキョンくんと仲良くしていても、以前のような事態にはなりません」
きっぱりと言い切った。一点の曇りもない強い口調だった。
朝比奈さんがどうしてそこまで断言できるのか、俺にはよくわからなかった。
ただ、朝比奈さんの言葉に妙な引っ掛かりを覚えた。覚えたのはよかったのだが、
「だから涼宮さんに気兼ねせずわたしの家に来て、ね?」
そんな俺の思考は朝比奈さんの甘い囁きで瞬時に霧散してしまった。胸が当たってますって。
身体を密着させてきた朝比奈さんは、シャンプーの匂いに混じってほんのり汗の香りがして
朝は耐え切ることができた俺の理性を、彼方へ葬り去ろうとしていた。
その威力は、一時撤退のちにパワーアップは確かに王道かもしれんと俺に思い直させるほどだった。
「キョンくんが望むなら、衣装を持って帰ってコスプレパーティでもいいです」
つうか長門、助けてくれ。鶴屋さんがいない以上、頼れるのはお前しかいない。
閉鎖空間の外で読書をしている長門に、救難信号を出す。
顔さえ上げてくれなかった。
戦況は絶望的だった。諦観の思いが強まる。
もういいか。朝比奈さんが来てほしいと言っているのに、なぜ我慢せにゃならんのだ。
夢にまで見た朝比奈さんのお誘いだ。俺に拒む理由がどこにあるってんだ、なあ?
すがりつく朝比奈さんを見る。懇願を受け入れようと、息を吸った。そのとき、
「おや、お邪魔でしたか」
超能力者が扉を開けて閉鎖空間に介入してきた。ピンク色の空間が破れる。
古泉は携帯を手の内で遊ばせながら、自分の席に座った。携帯を置いて手を広げてくる。
「どうぞお続けください。僕は気にしませんので」
そう古泉は言ったが、朝比奈さんのムードは崩れ去ってしまったらしい。
不満を隠そうともせずに溜息をつくと、俺に絡めていた腕を解いて椅子にきちんと腰掛けた。
「あと少しだったのに……」
呪詛でも唱えるように朝比奈さんがぼそっとつぶやいたのは、聞こえなかったことにしておこう。
助かったぜ古泉。さすが超能力者。昨日から借りを作ってばかりだが、ツケておいてくれ。
「そちらのお話が済んだようですので、僕のほうの話をしてもよろしいでしょうか」
むくれた朝比奈さんが押し黙ったのを見計らって、安っぽい笑顔を浮かべた古泉が口を開いた。
「何かあったのか?」
「ええ、少し困ったことになったようです」
困ったのならそれ相応の顔をしろ。ちっとも困っているようには見えんぞ。
「それはそうでしょう。困るのは僕ではなくあなたですからね」
「何があったのかさっさと言え」
思わず立ち上がる。そのまま手を伸ばして、古泉を締め上げたいぐらいだった。
古泉は落ち着き払った態度で机の上に置いた携帯を一瞥し、
「先程の電話の相手が生徒会長氏だったのですが――」
バタンっ!
古泉が話し出した矢先に、扉が勢いよく開け放たれた。
「やっほー!」
扉を開けたのはハルヒだった。それはいい。だがハルヒの左手が誰かの腕をつかんでいるのは看過できん。
誰だ? 阪中か? ってまさか。古泉が出した名前から最悪の想像をして、すぐに想像が現実となった。
わずかに乱れて儚げに揺れる髪。伏せた目元。申し訳なさそうに立っている彼女を、古泉が締めくくった。
「というわけです」
ハルヒが連れてきたのは、喜緑さんだった。
「古泉くん、何か話してたの?」
喜緑さんをつかんだまま、ハルヒは大股歩きで部室に入ってきた。
「いえ、ただの世間話です」
「そうだったの」
扉を閉め、後ろ手に鍵を掛けるハルヒ。古泉の言葉ならあっさり納得するんだな。
「キョン、お客さんが来たんだからどきなさい、今すぐ」
「客? 強制連行の間違いじゃないのか?」
丁度立った姿勢だった俺は、席を譲りながらも、ハルヒの言葉尻を捉えて咎める。
古泉に入った電話は十中八九、ハルヒが生徒会室に乱入して喜緑さんを連れて行ったという内容だろう。
おそらく作業中だった喜緑さんをおそらく無理矢理連れて来て、客はない。
だがハルヒは、予備のパイプ椅子に手を掛けた俺を一蹴した。
「任意同行よ。アンタ物覚え悪いんじゃないの?」
「どっちにせよ客とは言わん」
それに俺はちゃんと朝比奈さんの誤用を覚えていたぞ。朝比奈さんにはウケなかったが。
その朝比奈さんは、椅子を長机の端にまで移動させていた。そんなに喜緑さんの横が嫌なんですか。
見ると、先程までの不機嫌さに加えて、憎しみのオーラを背負っているように思えた。
容易に殺意へと変わりそうな雰囲気である。お茶を出そうとする様子もない。なぜに?
「キョンくん、どうかしましたか?」
俺の視線に気付いた朝比奈さんが一転、北高の天使の名に恥じない微笑みをくれた。
ただ、目が笑ってなかった。
再び冷凍茶の洗礼を受けたくなかったので、朝比奈さんはそっとしておくことに決めた。
おずおずと椅子に座ってうつむく喜緑さん。我関せずと読書を続ける長門。空気な古泉。
この場に俺と喜緑さんしかいないのであれば、昼休みにすっぽかした件を謝りたいのだが、無理か。
「さて、喜緑さん」
団長席に陣取ったハルヒが、場を強引にまとめあげてきた。やっと名前を覚えたらしい。
「今日あなたをここに招待した理由は、そこのキョンに関連することなのよ」
正面にいた俺を指差すハルヒ。人を指差すなと教わらなかったのか、お前は。
顔を上げる喜緑さんに、ハルヒが続ける。
「その前に言っておくけど、昨日昼休みにあなたがキョンと屋上で会ってたのは、みんな知ってるわ」
「えっ……」
出し抜けに言われて、喜緑さんが絶句した。構わずハルヒは、
「生徒会とはこないだ揉めたばかりだったから、昨日の部室でキョンをみんなで締め上げてね」
槍玉に挙げられたのは、生徒会とほとんど関係のない箇所ばかりだったような気もするが
ボロボロにされたのは事実か。なんだか今日もロクな目に遭いそうにないな。
「会長の企みを事前に教えてくれた件に関しては、SOS団団長として感謝するわ。ありがと」
「は、い、いえ……」
珍しく礼を言ったハルヒに、曖昧な返事を喜緑さんはした。喜緑さんが当惑しているのがわかる。
当然だ。喜緑さんはまだ何も言ってない。古泉のでっちあげを俺がハルヒに伝えただけなんだからな。
その辺の背後関係をさっぱり知らないハルヒは、はしゃいでいた。得意気に腕組みをしてうなずく。
「みんなにも見せてあげればよかったわね。情報漏洩されたと知ったときの会長の情けない姿を」
コイツは喜緑さんを連れてくるだけでは飽き足らず、そんなことまでしてきたのか。
すでに古泉の根回しが済んでいたから何も問題が起きなかったのだと思うが、会長氏も芝居を
演じさせられて不憫だとしか言いようがない。今頃、紫煙でもくゆらせながら愚痴ってそうだ。
時間外報酬でもやっておいてくれ、古泉。俺も今度すれちがったら目礼をしておくからさ。
「ま、生徒会のことはこれで置いとくとして、次が本題よ、喜緑さん」
自分が発端であるのは棚に上げ、会長氏に同情の念を寄せていると、ハルヒが席を立った。
喜緑さんに歩み寄って肩に手を置く。身を震わせて振り返り、ハルヒを見上げた喜緑さんに、
「昨日の昼休み、キョンになんの話をしようとしてたの?」
筋の通っていない言葉を投げかけた。どこが本題なんだ?
俺の位置からは後頭部しか見えない喜緑さんも、同じ思いを抱いたようで、
「……ですから、会長の件について……」
先程ハルヒ自身が述べた内容をかいつまんで復唱した。実に意味のない問答だ。
ハルヒも物覚えが悪いんじゃないか? 疑った俺だったが、逆を突かれた。
「それだけ?」
読書中の長門が顔を上げたのが、視界の隅に入る。長門の興味を引いたらしい。
俺はと言うと、何やら不吉な思いが悪寒となって背筋を伝っていたのであるが。
「ほかにあるんじゃないかしら」
と言って、ハルヒが顔を喜緑さんに近づけて覗き込んだ。近い。こちらからだと
額と額がくっついているようにも見える。自白エネルギー注入でもしているのかもしれん。
「それは、その……」
果たして効果はあったのか、喜緑さんは盛大に落ち着きをなくし、ハルヒとのにらめっこを避けて
机の木目に視線を落とした。ちらちらとすがるように俺を見てくる。横顔が赤い。その仕草に
庇護欲を猛烈にくすぐられたが、何をどう言えば喜緑さんを助けられるのか、皆目見当がつかない。
それに下手を打てば、喜緑さんを救えないばかりか俺の首も飛んでしまいそうに思えてならなかった。
かくして膠着状態に陥り、時計だけが生真面目にも秒針を刻み続けていた。
ハルヒはハルヒなりに辛抱強く傍らに佇み喜緑さんの返事を待っていたものの、結局ハルヒだった。
秒針が一周した辺りで、くるっと後ろを向く。すぐ目の前に置いてあったヤカンを掴んだ。
軽く振ってチャポチャポ音を鳴らせると、提げたヤカンをそのまま俺に突き出す。言葉を添えてきた。
「水汲んできなさい」
「は?」
意味不明だ。理不尽な命令にも程がある。水入ってるだろ、それ。
「いいから。古泉くんも付き合ってあげて」
「わかりました」
ハルヒに逆らうはずもない古泉が、笑顔同様軽く請け負う。
これはひょっとしなくても、体よく俺を追い出そうとしているのか?
「行きましょう」
受け取ろうとしない俺の代わりにヤカンを提げて、古泉が促してきた。応えず、喜緑さんを見る。
喜緑さんは戸惑いながらも、心細さを表に出していた。ダメだ、放っておけん。
「どうやら涼宮さんは女性陣だけで話をしたいようです」
古泉の耳打ちなんか知ったこっちゃない。喜緑さんが安全だという確信でもあんのか。
「ああ、もう! みくるちゃん、有希!」
従わない俺に業を煮やしたか、ハルヒが二人の名前を呼んで、自らの制服に手を掛けた。
「脱ぎなさい!」
「なっ――」
最終奥義を発動されて固まる俺の眼前で、朝比奈さんが迷いなくするりと白い肩とブラひもを露出させた。
机の上に長門のリボンがはらりと落ちる。豪快に脱いでブラジャー姿になったハルヒが叫んだ。
「着替えるから男は出てけ!」
圧倒された俺は考えるより先に体が動き、古泉が開けてあった扉から廊下に転がり出る。
気付いたときには既に遅し。部室の扉は古泉の手によって、閉ざされていた。
「なんなんだよ、一体」
放り出された以上、ちょっとやそっとの時間で入れてくれるとは思わなかったため
古泉を伴って外の水飲み場まで出向き、面白くもない水汲みをしていた。
「いいではありませんか」
蛇口をひねる俺に、古泉が横から口を挟んだ。
「僕たちだって、女性がいては話しづらいこともあるでしょう?」
「お前とそんな話をした覚えは一度もない」
せいぜい『機関』に関する話だけであって、それは性別など関係ない。
「仕方ありません。身近な女性は、語るには総じて魅力的すぎますし、何より」
古泉は肩をすくめて、
「話をすればするほど、世の中の理不尽さを嘆くことになりそうですから」
「……そうか」
古泉の言葉には妙に実感がこもっていて、俺は平凡な受け答えしかできなかった。
水がヤカンの中に注ぎ込まれる音だけが、場を占めていた。
お互いだんまりを続けていたが、水の音が消えると途端に沈黙が苦痛になった。
ヤカンのフタを閉じたところで間が持たなくなり、
「……喜緑さん、大丈夫だといいんだが」
俺はつなぎに走った。喜緑さんが心配だったのも、事実ではあったが。
「大丈夫でしょう」
古泉の返答はあまりにもあっさりしていた。心配しているのに安請け合いされて面白いはずがない。
「どんな根拠でそう易々と言えるんだ。喜緑さんは普通の女子なんだぞ」
俺が口答えしたのも当然だ。しかし雰囲気もあっさり元に戻った古泉は、なぜか面白そうに、
「根拠ですか? それは昨日あなたに申し上げたと思うんですが」
「昨日?」
「ええ、涼宮さんを信じてあげてください、と僕は言いましたよね」
水飲み場の縁に手を置いて、古泉が蛇口をひねる。
「そして、もちろん僕は涼宮さんを信じているわけです」
と言って、髪を手で押さえつつ蛇口に顔を寄せ、流れる水を口に含んだ。
耳を見せ付けるように露出させても、俺は気持ち悪いとしか思わないからやめろ。
「――ぷはっ。それで、あなたはまだ喜緑さんがひどい目に遭っているとお思いですか?」
「……いや」
古泉にどこかはぐらかされた気もしたが、同調せざるを得なかった。少し神経質になり過ぎていたか。
ハルヒも敵対関係にある生徒会の書記だからといって、まさか手荒な真似はすまい。
渋々認めた俺に、古泉はハンカチで口元を拭って、
「それにしても、喜緑さんを普通の女子とは」
妙なことを言い出した。
「違うとでも言いたいのか?」
「いいえ、別に」
消費税分ぐらいは上乗せされた笑顔を古泉は浮かべ、しれっとつぶやいた。
「なかなか喜緑さんも役者です」
あまり古泉の言葉を真に受け過ぎても、馬鹿を見るだけかもしれないな。
重くなったヤカンをぶら提げ、肩を並べて部室に戻りながら思ったのは、そんなことだった。
コイツはどうでもいい内容でも、さも意味深に朗々と語る性癖の持ち主だ。
虚言とは言わんが、煙に巻くぐらいはしてくる。立場上、やむを得ないのだろうが。
だから喜緑さんに関する古泉の評価は、とりあえず胸の中にしまっておいた。
『どうぞ』
古泉が部室の扉をノックすると、くぐもったハルヒの声が返ってきた。
俺の指示を仰ぐかのように顔を向けた古泉を、あごで促す。さっさと開けろ。
苦笑と共に古泉がノブを回した。
「遅かったじゃない。どこまで行ってたの?」
有言実行したのか、バニー姿になったハルヒが仁王立ちで出迎えてくれた。
「すぐそこの水飲み場に決まってるだろ」
適当にあしらいつつ中に入ると、ハルヒの後方に向かい合ってウェイトレスと巫女が座っていた。
ただウェイトレスはそっぽを向き、巫女は読書をしていたため、向かい合っていたのは椅子だけだ。
ウェイトレスの朝比奈さんの向こう、団長席の近くには、喜緑さんが制服姿で慎ましく着席していた。
顔をほころばせ、口元に柔らかな微笑みをたたえる喜緑さんを見て、安心する。
どうやらこの件に関しては、古泉の言い分が通っていたようだ。
「で、話は終わったのか?」
「終わらないわよ。でも、今日のところはこれ以上話すことないの」
見事なプロポーションを誇示するようにハルヒは胸を張り、
「キョン、喜緑さんを生徒会室まで送ってきてくれる?」
「ああ」
ハルヒにしては気が利くな。謎かけ紛いの返答は置いとくとして、だ。
ヤカンを所定の位置に戻し、喜緑さんに声をかける。
「喜緑さん、送ります」
「はい」
しずしずと席を立って、寄り添ってきた。制服の裾が触れ合うギリギリの距離だ。
これはマズいんじゃないかと思ったが、バニーは割と平然としていた。巫女は顔を上げもしない。
朝比奈さんだけは、ビームを即座に発射してもおかしくないぐらいの雰囲気だったけどな。
その威圧感に急き立てられ、滞在時間二分ほどで再び外に出ようとしたとき、
「そう言えば……」
喜緑さんがつぶやいて、足を止めた。俺も右足だけ廊下に出たところで止まって、振り向く。
「どうかしましたか?」
問いに、喜緑さんはちらっと後方を気にする素振りを見せてから、笑顔ではっきりと述べた。
「なぜ今日のお昼休み、屋上に来てくださらなかったんですか?」
なぜこのタイミングでそんな問題発言するんですか?
振り向いていた俺は見えてしまった。喜緑さんの後ろでゆらりと朝比奈さんが立ち上がるのを。
ハルヒも笑みを固め、口の端を吊り上げていた。ぱたんっ、と本を閉じる音が一際大きく鳴り響く。
喜緑さんは後ろで何が起きているのか知ってか知らずか、俺の返事を待つことなく
そっと俺を廊下へ促すと、後ろ手で部室の扉をお閉めになった。救われた。
「って全然救われてねえよ。喜緑さん、早く行きましょう!」
「えっ――」
扉など開けようと思えばすぐ開けられる。俺は喜緑さんの手を取って階段目掛けて走りだした。
後ろは振り返らない。使い所によっては実に効果的かつ陳腐な決めゼリフではあるが、この場合
単に振り返る勇気がなかっただけだ。古泉、なんとかなだめてくれ。頼む。
「っはぁ、はぁ」
渡り廊下を全力ダッシュし、本棟に入ったところで緊張の糸が解けた。
大した距離ではなかったにもかかわらず息が切れているのは、息継ぎをろくにしてなかったせいだろう。
運動不足ではない、と思う。
「あの……」
控え目な声に顔をやると、前かがみになった喜緑さんが片手で胸元を押さえていた。
遠慮がちな瞳が、何かを示唆するように揺れる。喜緑さんの視線の先を見た。柔らかい。
「す、すみません」
慌てて握っていた手を離す。どさくさに紛れて何やってんだ俺。
しかし、ということはだ、喜緑さんは引っ張られたまま階段を駆け足で下りてきたのか。
怪我をしなくてよかった。見た目以上に運動神経のいいお方なのかもしれない。
その喜緑さんは、握られていた手をしげしげと眺めてから、くすっ、と小さく笑った。
「少しすっきりしました」
何がすっきりしたのやらいまいちわからない俺を見て、
「涼宮さんたちへの仕返しです」
「部屋から出るときのアレですか?」
首を縦に振る喜緑さん。
「俺はすっきりどころじゃないんですが」
喜緑さんを送ったあとのことを考えると、頭が痛い。
生徒会長の企みは昨日、喜緑さんの口から聞いたとハルヒに言ってしまってある。
それが今日も喜緑さんと合う算段を立てていたとなると、これは言い訳のしようがない。
「わたし、待ってたんですよ。来てくださらなかったあなたにも責任はあると思うんです」
「うっ……」
返す言葉がない。ハルヒがくっつき虫よろしく引っ付いて来たといちいち説明するのもなんだ。
押し黙る俺に、喜緑さんは軽く舌を出した。
「言ってみれば、あなたへも意趣返しをしたんです」
「でもびっくりしました。涼宮さんが突然生徒会室に入ってきて、会長と言い争って」
生徒会室へ歩きながら、喜緑さんが楽しげに声を出す。
特に怒ったりはしていないようである。
「言い負かしたかと思うと、わたしを引っ張って行ったんです」
横に並んで歩くと、ふわふわした髪から朝比奈さんとはまた違う、いい香りが漂ってくる。
それは病みつきになりそうな、どこか記憶の隅に残る匂いだった。
「ハルヒたちと部室で何を話したんですか?」
軽い気持ちで訊ねてみる。なんとなく答えてくれないような気がしていたものの、
「……内緒にしなさいとも言われませんでしたし」
喜緑さんは少しだけ悩む素振りを見せてから、俺に顔を戻した。
「でも、その前に確認してもよろしいでしょうか」
「なんでしょう?」
「涼宮さんに会長の計画をお話ししたのは、あなたですか?」
「……ええ」
うなずきはしたが、内心マズいなと感じていた。
情報源など詳細を質問されると、答えようがない。古泉のことを話すわけにもいかないしな。
しかし喜緑さんは、
「そうですか……」
とだけつぶやいて、言葉を反芻するように顔をうつむけた。
「あの、ごめんなさい」
しばらく黙々と歩き、角を曲がる。顔を上げた喜緑さんは、前触れなく謝ってきた。
「わたし、本当は会長の計画なんて何も知らなかったんです」
足が止まる。何も知らなかった?
「あなたに会うための口実だったのに、本当になって……ごめんなさい」
頭を下げる喜緑さんを前に、立ちすくむ。だが不思議と怒りは湧いてこなかった。
ハルヒに中途半端な嘘をついたのは俺だ。嘘を古泉の力で本当にしてしまったから、ややこしくなったんだ。
ちゃんと告白してくれただけでも、ありがたいとすべきだった。
「いいんですよ。喜緑さんの話がきっかけで、会長の企みが明るみになったのは事実なんですから」
会長、重ね重ねすまん。完全に悪役扱いだ。
「だからそう、何度も謝らないでください」
「すみま……あっ」
俺の言葉にまた謝りかけた喜緑さんは、口を両手で押さえた。
その仕草がなんだかおかしくて、笑ってしまった。顔を赤くする喜緑さんは、可愛かった。
「涼宮さんたちとお話ししたことは色々あるんですけれど」
生徒会室の扉の前で、喜緑さんが話し出した。
「大まかに言うと、一つだけです。涼宮さんはこう質問してきたんです」
コンコン。
『……少し待ちたまえ』
言いながら喜緑さんが扉を叩くと、少し遅れて会長の声がした。慣れ切った様子で喜緑さんが振り向く。
「こういうときの会長の『少し待ちたまえ』は、けっこう長いんです」
浮かべた微妙な表情から察するに、喜緑さんも薄々気付いているらしい。やれやれと思っていると、
「喜緑さん、あなたキョンのこと好きなの?」
驚かされた。ハルヒの声色そっくりだった。
「似ていましたか?」
「え、ええ、ハルヒかと思いまし……え?」
喜緑さんに返事しかけて、口が開いたまま止まる。発言内容が脳に遅れて届いたからだ。
『入りたまえ』
呆然としていると、会長の声が響いた。合わせて喜緑さんが近寄り、口を開く。
「そしてわたしの涼宮さんへの返事は……」
俺の肩に手を置いて、つま先立ちになってきた。耳打ちかと思い、顔を寄せる。
ちゅっ。
頬に何かの感触が残った。さっと喜緑さんが離れる。
「また明日お会いしましょう」
恥じらいつつも喜緑さんはほんのり微笑んで、生徒会室の中へ入っていった。
ガチャっ。
「キョン! さっきの喜緑さんの言葉はどういう意味か説明しなさ……キョン?」
相変わらずバニーなハルヒがわめき立てている横を通り過ぎ、自分の席に座る。
「キョンくん、お茶をどうぞ」
「ども」
ウェイトレスな朝比奈さんがお出ししてくれたお茶をいただく。うん、うまい。
「おいしいです」
湯飲みを置いて言う俺に、朝比奈さんが訝しげな表情をする。
「それ、中身凍ってません?」
「ああ、凍ってますね」
確かに凍っていた。どうやら作り置きしていたらしい。朝比奈さんもマメな人だ。
「キョンくん?」
ますます朝比奈さんが変な顔をする。せっかくの可愛らしい顔がもったいない。
朝比奈さんの顔をぼんやり眺めていると、
「……煩悩退散」
いきなり冷たいものが頭の上から浴びせかけられた。冷てえ。
「いきなり何だよ!」
勢いよく席を立って抗議したところで、我に返った。
ヤカンを抱えた巫女が、冷たい目で俺を見つめていた。と思うと、後頭部に軽い物体が当たる。
雑巾を投げつけたハルヒが、こちらも冷たく命じた。
「床を拭きなさい」
要するに、浮かれて自失していたわけか。喜緑さんにキスされて。
そこまで耐性のない人間だったかな、俺。いや、キスされる経験が豊富なわけでもないが。
床の始末をつけタオルで顔を拭いて座り直すと、古泉が苦笑していた。やや呆れているようだった。
「……ま、いいわ。喜緑さんもけっこうしたたかってことよね」
ハルヒが勝手に納得して、俺を一瞥してきた。キスされたなんて言ってないぞ。
「それよりキョン、喜びなさい。アンタの処罰が決まったわよ」
「処罰?」
「ええ、まさか忘れたわけじゃないでしょうね? 昨日のアレよ」
ああ、そんなこともあったな。さっきまでは筆頭懸念事項だったが、色々ありすぎて忘れていた。
「古泉くんにはさっき説明したんだけど、今度の週末にパーティするから。ここで」
「パーティだと?」
「そ、パーティ。もうすぐ一年終わりでしょ? だったらするしかないわ」
どういう論理なのかいまいちわからんが、いいんじゃないか。
「だが、それと俺の処罰となんの関係が」
と言ったところで、昨年のクリスマスパーティを思い出した。具体的にはトナカイ芸だが。
「まさか、俺にまた芸をやれと言うんじゃないだろうな」
「やりたいの? ならやりなさい。誰も止めないから」
「やりたくねえよ」
あんな思いはもうこりごりだ。とすると、別件か。
「キョンには準備とか色々雑用を人一倍やってもらうわ。それが処罰。わかった?」
ハルヒにしてはけっこうな温情措置だな。もちろん、俺に異存などない。お安い御用だ。
俺の安堵を見て取ったか、ハルヒが目を細めて意地の悪い不吉な笑みを漏らした。
「甘いわね、キョン。今、楽勝だと思ったでしょ」
人差し指を左右に振ってくる。何が言いたい。
「冬より参加者が増えるから、それだけ大変になるわよ。覚悟しときなさい」
うさ耳を揺らして、ハルヒが不敵に宣告した。
団員五人に鶴屋さん、喜緑さん、阪中、あと妹も声をかけて都合が合えば参加だとさ。
ハルヒの想定している参加者は、合計九人にもなるようだった。
鶴屋さん、喜緑さん、阪中にはすでに了承を取り付けてあるというから驚きだ。
「書記の喜緑さんがいれば、多少の無理は利くわね。軽いドリンクも持ち込みましょ」
都合のいいときだけ生徒会を利用するのもどうかと思うが、どうなんだろうな。
メンバーの選定基準もあいまいで、谷口や国木田は誘わないのか、と言ったら、
「十一人もこの部屋に入らないわ。悪いけど、その二人はパス」
あっさり却下された。ま、仕方ないか。
さっきの俺の行動に毒気を抜かれたのか、朝比奈さんは普通のお茶を出してくれた。
喜緑さんのときに離れていたパイプ椅子がまた接近している辺り、機嫌もいいらしい。
にこやかな顔の下で何を考えているのかは、わからない。ここ最近の朝比奈さんはわからん。
まだ不可解さがマシだと思えるのは、長門か。巫女姿で淡々と読書を続けている。
古泉もそうだが、感情の針が逸脱しない相手ってのは、けっこう大事なのかもな。
団長席でマウスをカチカチ言わせているバニーを見ていれば、嫌でもそんな気になるさ。
「今日は終わり! キョン、明日からこき使うからしっかり休んでおきなさいよ」
嬉しくもなんともないことを、ハルヒは実に嬉しそうに言ってきた。
「あ、キョンくん、湯飲みの片付けお願いできますか?」
朝比奈さんがおっしゃっる。明日どころか今日からこき使われるらしい。しばらくパシリですか。
「それでは、僕はこれで」
朝比奈さんの頼みを受け入れる俺をよそに、古泉がかばんを手にそそくさと退室しようとする。
「おい古泉、まだ片付けが終わってないぞ」
俺が連勝中だったオセロ盤の周りにマグネットが散乱している。
「たまにはいいではないですか。貸しもあることですし」
貸しって、生徒会の件か。いや他にもあったか? まさかこんな早くにツケを払うことになるとは。
古泉は、押し黙った俺に嫌味のない笑みをくれて、部室から出て行った。
「さて、着替えましょ」
扉の閉まる音と共に、パソコンの電源を切ったハルヒがうさ耳を外した。
カチューシャを取る朝比奈さんの向かいで、本を閉じた長門が席を立つ。
「着替えるなら俺がいなくなってから着替えろよ!」
いきなり何すんだ。マグネットを集めていた俺は思わず叫んだ。
「みくるちゃん、何か聞こえた? 今」
背中から腰を露出させたハルヒが、顔だけ振り向いた。
「いいえ、気のせいじゃありません?」
俺のすぐ横で、肩を剥き出しにした朝比奈さんが答える。
罠だ。なんか知らんがとにかく罠だ。早く出ないととんでもないことになってしまう。
即座に決心した俺は、マグネットを放置して逃走を試みた。が、
「片付けが先」
袴を脱いで上だけになった長門が、行く手を塞いでいた。素足が寒そうだった。
「わっ、みくるちゃん、また胸大きくなった?」
黄色のブラジャーを胸にあてがったハルヒが、朝比奈さんの豊満な部分に視線を送る。
朝比奈さんは白いブラに包まれたそれを両手で持ち上げながら、
「あ、気付いちゃいました? 最近ブラがきつくなって」
「むう、なかなかやるじゃない……って有希、なんでそんなエロい下着つけてんのよ」
「女の嗜み」
黒の透けて見えそうな上下をつけた長門が、黒いニーソックスを手にしつつ答えた。
俺は黙々と片付けをしているのだが、雑音につられてついつい目をやってしまう。
男って悲しい生き物だな。
「何をどうやったらそんなに大きくなるのかしら。みくるちゃん、コツでもあるの?」
ハルヒがおそらく軽い気持ちで発言したのを受けて朝比奈さんが、
「うふ。好きな人のことを考えながら手でこことかここをこうやって」
「ぶっ」
吹いた。朝比奈さんの片手が胸の形を歪めたかと思うと、もう片方の手はショーツに伸ばしたのだ。
「……過激ね、みくるちゃん」
さすがにハルヒも顔を引き攣らせる。いないことになっている俺を気にしてか、ちらちら見てきた。
あまり見んな。今の朝比奈さんの行動でゲージがかなり上がった。
「涼宮さんもしてるんじゃないですか?」
朝比奈さんの疑問に、スカートを手にしたハルヒが顔を引き攣らせたまま口元を曲げる。
「そんなことするわけないじゃないの」
「本当ですかぁ?」
朝比奈さんが下から覗き込み、疑い深い目をハルヒに向ける。長門も手を止めた。
つられて俺もハルヒを見る。ただでさえ引き攣っていたハルヒの顔が歪んだかと思うと、
「キョン、出なさい!」
怒鳴り出した。まことに勝手な命令だ。しかし俺も特に抗う気はなかった。ゲージがどんどん上昇して
ある部分が危険信号を発していたからな。渡りに船とばかりに、湯飲みを置いて扉へ足を進め、
「片付けが」
「ゆーきー」
瞬時に回りこんできたやけに表面積が少ない黒一色の長門に、ハルヒが恨めしい声を出す。
それで長門は止まった。う、至近距離で見ると、本当に透けて見えやがる。なんてもん着てんだ。
いよいよ危なくなった俺は、ご丁寧にも鍵が掛けてあった扉と格闘し、廊下に滑り出た。
扉を閉めたところで、息をつく。助かった。危険信号の発信元を見る。しっかり反応していた。
「男って、ホント悲しい生き物だよな……」
しばらく騒がしかった部室内が静まり返ったころには、俺も鎮まっていた。
赤っ恥を晒さずに済みほっとしていると、扉が開いて着替えたハルヒが出てきた。
「片付けちゃんとしてから帰りなさいよ」
それだけを言って、階段の下へ消えていく。仕掛けた爆弾で自爆したあとのような後姿だった。
にしても、どうも信じられないな。あのハルヒが好きとかどうとか言ったなんてさ。
開けっ放しになっていた扉から中へ戻ると、入れ替わりに長門とすれ違う。すれ違いざまに、
「気をつけて」
長門がぽつりとつぶやいた。また閉鎖空間の中に閉じ込められたりするのだろうか。
もっとヒントが欲しかったが、解答は三秒後ぐらいにあっさり判明してしまった。
「キョンくん、一緒にお片付けしましょう」
制服はお召しになられていたものの、朝比奈さんが佇んでいたのである。
咄嗟に廊下に頭を出して長門の姿を探す。だが、すでに消失していた。
わかっているのなら、片付けが済むまで部室に残るとかしてくれよ。今日の長門は反抗期なのか?
階段の方向に恨み言を連ねていると、
「どこを見てるんですか? 見るならわたしを見てください」
襟首をつかまれて、部室の中へ引きずり込まれた。
「キョンくんは机の上のものを片付けてください」
ピンク色の閉鎖空間が発生するのかと身構えてしまった俺だったが、朝比奈さんは
俺に背を向けててきぱきと作業を始めた。手慣れたものらしく、みるみる片付いていく。
さすがメイドだ。肩透かし気味だった俺も、負けじと言われた通りオセロ盤に取り掛かる。
この様子なら、二、三分で終わりそうだった。
「ふう」
実際すぐに終わった。帰ろう。
「朝比奈さん、お疲れさまです。それじゃ、また明日」
結局杞憂だったかと思いながら、かばんを提げる。挨拶をした俺に、
「まだ帰っちゃダメです」
朝比奈さんが制止の声をかけてきた。
「お片付けが残っているのに、帰らないで」
「どこに残ってるんですか? これと言って見当たりませんが」
見渡す限り、整理整頓されてある。部屋を一巡して朝比奈さんに顔を戻す。
「お片付けが必要なのは――」
「わっ」
ぱふっ、と朝比奈さんが俺に抱きついてきた。
「わたしの火照ったこの身体です」
「あ、朝比奈さん?」
あまりの大胆なアプローチに、名前を呼ぶ声もどもる。
「部屋はきれいになりましたし、邪魔する人もいません。わたし、もう我慢できないんです」
朝比奈さんは、本気のようだった。ただあたふたとする俺。
そんな俺をもどかしげにぎゅっと抱きしめ、朝比奈さんが俺の胸に顔をうずめた。
「……喜緑さんにはしたのに、わたしにはできないんですか?」
「喜緑さん?」
なぜその名前が唐突に出てくるんですか。
「とぼけないでください。喜緑さんと昨日あんないやらしいことをしておいて」
昨日? 介抱か? それにしては、既成事実があったかのような言い方だ。
「今日もするつもりだったんでしょう? わたしはこんなに想っているのに……」
何か盛大に勘違いをしておられる気がして止まない。誤解を解こうと口を開き、
「うっ」
口を突いて出たのは、うめき声だった。下半身が撫でさすられたのだ。
「気持ちいいですか? わたしあまり知らないですけど、キョンくんのためならなんでもします」
俺を見上げる朝比奈さんには色気が漂っていた。マズい。どこまでも行ってしまいそうだ。
……いや、別に構わないじゃないか、朝比奈さんと結ばれたって。弱気が再び首をもたげた。
家に帰ってから何かする用事があるわけでもない。このまま居残って朝比奈さんと過ごすのもいい。
「わたしの想い、感じてください」
朝比奈さんが俺の手を持ち上げ、自分の胸にあてがった。制服越しでも朝比奈さんの鼓動が
柔らかい感触と共に、手に伝わってくる気がする。力が抜けるのを感じた。
ドサっ。
反対の手に提げていたかばんが床に落ちる音が耳を打つ。ん、かばん?
「わたしの心臓の音、聞こえますか? キョンくん」
朝比奈さんの声が耳に入るが、俺の頭の中は別の思考が回転していた。
かばんの中には、阪中の弁当箱が入っている。靴箱で今も待っているかもしれない。
「きゃっ!」
思い当たると同時に俺は朝比奈さんを軽く押して、身を離していた。かばんを引っ掴む。
「す、すみません朝比奈さん。俺、用事を思い出しました。帰ります!」
勢いに任せ、半ば逃げるように俺は部室から飛び出した。
朝比奈さんには悪いことをしてしまった。嫌われたかもな。
もう少しやんわり断ればよかった、としきりに後悔しながら角を曲がり、
「ハルヒ?」
見知った後姿を靴箱で見つけた。俺の声が聞こえたのか振り向いたハルヒは、特に感想もないらしく
あっさり背を向ける。誰かの肩をぽんと叩いて、そのまま校舎から外へ出て行った。
入れ違いに、ハルヒに隠れていた人物の顔が見えた。そこに立っていたのは、阪中だった。
「ハルヒと何か話してたのか?」
去っていくハルヒの姿を目で追ってから、阪中に戻す。
「うん」
うなずいた阪中だったが、どこか浮かない顔をしていた。
何を話していたか気になったものの、まずは弁当箱だと思い、かばんを漁る。
しかし弁当箱を手にしたところで、疑問が湧いた。なんと言って返せばいいのだろう。
ハルヒと昼を共にしたことで、阪中は俺が真実を知ったと薄々気付いているに違いない。
それともハルヒがざっくばらんに阪中に言ったのか? すでにバレていると。
知らないフリを通すか気付いたセンで行くかで判断を迷っていると、
「……やっぱりわかっちゃってたのね。そのお弁当を作ったのはわたしだって」
阪中が沈んだ声を出した。アホか、俺は。またやっちまった。
弁当箱を出す際に一日に二回も失敗する人間は、俺ぐらいなものだろう。
「……ああ」
すまん、とでも言おうとしたが、それは別の意味を含みそうだったのでやめ、弁当箱を出す。
「いつ?」
差し出された弁当箱を受け取った阪中は、目線を少しずらして質問してきた。
「昨日、弁当箱を返すときかな」
嘘をついても仕方ないので、正直に答える。
「そっか」
つぶやき、手の中にある弁当箱に阪中は視線を落とした。
「……迷惑だった?」
口を開いた阪中は消え入りそうに細い声を出した。慌てて否定する。
「まさか。あんなうまい弁当を食わせてもらって、迷惑も何も」
「本当?」
「ああ、マジだ。ただ、ハルヒには謝っておくべきだと思うが」
嘘偽りない気持ちは伝わったらしい。阪中がようやく顔を上げた。
「涼宮さんには、放課後二人でお話ししたときにもう謝ったのね」
ハルヒは俺が知っていたことについては阪中に言ってなかったのか。なんの気の回しだ?
「それで、もしよかったら、またお弁当作ってきたいんだけど……」
おずおずと申し出る阪中を断る理由など俺にはない。
「こちらこそ頼む。阪中の弁当がなかったら、口が寂しいぜ」
俺の返事に、
「うん」
にっこり阪中が笑ってくれた。
ちと言いすぎかな、とも思ったが、阪中の笑顔を見れたのでよしとしよう。
「阪中、ハルヒに連れてかれたあと、どんな話をしてたんだ?」
弁当箱を返しただけで別れるのも味気ないと思い、気になっていた件を思い切って質問してみた。
「お弁当のことと、今度の週末にパーティするから来ない?って」
阪中はすぐに答えてくれたが、あらかじめ答えを用意していたような返答の早さだった。
「何か別のこと言われなかったか?」
と返すと、ぱっ、と朱色が阪中の顔に散った。真っ赤になった阪中は、手をもじもじとすり合わせる。
わかりやすい反応に、逆に戸惑っていると、阪中が小さい声でこっそりと言った。
「ないしょ」