「ふう」
腹をさすりつつ、俺は空になった弁当箱のふたを閉じていた。
カレーだったからなんとか入った。味については、長門には悪いがレトルトだな、としか思わなかったな。
長門が愛情を込めて弁当を作っている姿は想像できないから、愛情というスパイスの線もなしだ。
こういうのは、顔と顔を付き合わせて食いたいぜ。長門の家で食ったカレーは、悪くなかった。
「腹ごなしに歩いてくる」
弁当箱をしまい込み、二人に告げて席を立つ。もちろん口実だが、実際少し歩きたくもあった。
向かう先は、紙に書かれてあった場所だ。
待ち合わせ場所に向かう階段を上るにつれ、腹具合も落ち着いてきた。
あとは何事もなければ気分のいい昼休みだった、で終われるのだが、さてどうだろう。
ところで俺は何も無策で向かおうとしているわけではなかった。
念のため、長門には休み時間中に手紙を見せ、知らせておいたのである。
教室で読書をしていた長門は、差し出した手紙を読んでうなずきを返してくれていた。
何か伝えたいことがあったのか普段より長く俺を見つめていたが、ともかくこれで大丈夫なはずだ。
階段を折り返し、最後の十数段に足がかかる。
まだ相手は見えない。奥まったところに立っているか、誰もいないか。後者ならそれでもかまわん。
ハルヒがいたらお笑いだが、俺はその可能性はないと思っていた。いや、信じていた。
ハルヒにだって分別ぐらいはある。あとで俺から詳細を聞こうとするぐらいならするかもしれんが
この場に現れることはないさ。だから俺は考えた末、あえてハルヒには特に何も言わなかった。
果たして、階段を上りきった俺の視界にハルヒはいなかった。しかし一人の女子生徒が立っていた。
屋上へ出る扉の前に立って俺に微笑みを送っていたその女子生徒は、
「こんにちは」
生徒会書記、二年の喜緑江美里さんだった。
そんな肩書きより、長門と同種の存在である喜緑さんと思っておいたほうがいいかもしれない。
どこまでも物腰柔らかなお人であるが、長門とは別の派閥である可能性が高いことから本心は知れない。
「俺に何か用ですか?」
多少の警戒心を含んだ声で問いかけつつ、俺は少し間をとって立った。
長門に話しておいてよかったぜ。ったく、朝倉といい、意表を突くのが好きなのか?
対する喜緑さんは、穏やかな雰囲気を崩さずに、
「ほんの少し」
と言って、半身をずらした。そこには、当然ながら屋上へ出る扉がある。普段は立入禁止の場所だ。
「できれば、誰も来ない屋上でお話したいのですけれど」
相手が見た目そのままであるなら、誘いに乗ってしまいそうな魅惑的な申し出だった。
ただ中は異空間、なんて可能性も有り得るだけに、乗るわけにはいかない。
「ここで話してもらえませんか?」
俺の返事に、喜緑さんは困ったように顔を伏せる。
「……わかりました」
喜緑さんがそう言った瞬間、視界が歪んだ。
歪みはすぐに正常化した。それはいいとして、なんで俺はいきなり屋上にいるんだ?
「できれば、手荒な真似はしたくなかったんですけれど」
振り返ると、後ろ手に扉を閉める仕草をしている喜緑さんがいた。
なるほど。拒否権はないということか。自然と喜緑さんに向ける視線がきつくなる。
喜緑さんは、やんわりと微笑み返すことで応えてきた。
「心配しないでください。あなたに危害を加える気はありません」
「この状況で信用できると思いますか?」
「そう言われましても」
軽くいなされた。どうもやりにくい。
しかし俺にできることと言えば、素直に従いつつ長門の到来を待つぐらいだ。
周囲を見渡す。柵のない屋上に、青空。耳は階下の喧騒や雑音を捉えていた。異空間化してはいないようだ。
それだけを確認した俺は、喜緑さんに向き直った。
「……それで、話ってなんですか?」
「なんだと思います?」
焦らすように言ってきた。思い当たるフシはひとつしかないが、とぼけてみるか。
「愛の告白か、生徒会からの連絡事項、かな……」
「正解です」
「え?」
あっさり言われ、唖然とする。瓢箪から駒か?
喜緑さんはゆっくりと俺に近づきつつ、
「以前、わたしがなぜ部長さんの彼女という立場を取っていたかわかりますか?」
わかるわけがない。設定上、そうしたほうが色々と都合がよかったからだとしか思わないな。
「涼宮さんの反応を試してみたかったからです。恋愛に関する反応を」
「恋愛ですか」
ハルヒには縁のなさそうな言葉だ。もちろん俺にも。そしてやはりハルヒの件だったか。
「わたしは、自律進化への糸口は恋愛にあると思っています」
ウェーブのかかった髪を風が揺らす。
「特に恋愛が成就するまでの過程にです。涼宮さんを観測していた結論です」
少し距離を置いて足を止めた喜緑さんは、おかしそうに口元に手を当て、
「だから、涼宮さん以外の皆さんに少し素直になってもらいました」
「皆さん?」
聞き返す俺の目を、喜緑さんが覗き込む。
「ええ、あなたは今日の皆さんをどう思いました?」
「どうって……」
鶴屋さんに朝比奈さん、阪中に長門。妹もか。多少なりとも言動や行動が変だったのは。
逆に谷口、国木田あたりは、いつもと変わらなかった。
「わたしがしたのは、皆さんの涼宮さんに対するある種の遠慮を取り払うことです」
喜緑さんの声は楽しそうだった。
「あなたと涼宮さんが結ばれてしまうのは避けられません。ですが、現状では物足りないのです」
「勝手に俺とハルヒをくっつけないでください」
俺の抗議を、喜緑さんは笑顔で受け流した。
「以前の涼宮さんなら閉鎖空間に閉じこもる可能性もありましたけれど、最早それもないでしょう」
裏表を感じられない、真っ白な笑みだった。
「あなたは様々な人から想われているようですし、涼宮さんを刺激する材料となっていただきます」
古泉め。何が『喜緑さんは攻撃的ではないことが解っている』だ。
たしかに攻撃的じゃないさ。だが、搦め手を使ってくる喜緑さんは、朝倉とは別の意味で厄介だ。
それに古泉の話が本当なら、朝倉とは違って喜緑さんは――
「長門さんなら来ません」
「くっ」
しれっと告げた喜緑さんの言葉に、俺は想像が正しいことを知った。
古泉は喜緑さんの役割をなんと言っていた? 『長門のお目付役』だ。
それはつまり、喜緑さんは長門に対して抑止力があるということに他ならない。
朝の靴箱や教室で手紙を読み終わったあとの長門の妙な態度が浮かぶ。口封じされていたのか。
「誤解されるといけないので申し上げておきますけれど」
ふわりと髪をなびかせた喜緑さんは、
「わたしに長門さんを強制的に従わせる権限はありません。傍流の派閥ですので」
長門は主流派だったな。朝倉が急進派。喜緑さんはまた別か。
「あくまで長門さんに提案し、条件付きで承諾、同調してもらったのです」
どうだか、怪しいもんだ。このお方の提案は、断れる類の物ではなさそうだしな。
さっき強制的に移動させられたことは記憶に新しい。
喜緑さんは俺の視線を平然と受け止め、
「その条件とは、一部始終をわたしがあなたにお話しすることです」
言い切ったあと、喜緑さんはやや物憂げに軽く吐息をついた。
「わたしには長門さんがなぜこのような条件を付けたのかわかりません」
知らせずに観測していたほうがいいのに、とでも言いたげな喜緑さんだった。
だが喜緑さんはわからないと言ったが、俺には長門の意図が理解できた。パソコンのエンターキーだ。
長門は俺に選択権を委ねたんだ。変化を甘受するか、それとも元に戻りたいのか。
きっと長門は、俺が戻りたいと言ったら、戻してくれるのだろう。
それがたとえ、喜緑さんの思惑に反することであってもな。
そうとなれば話は早い。俺がすべきことは、この話を切り上げて長門の元に向かうことだ。
朝比奈さんとの登校や阪中が手渡してくれた弁当は惜しかったが、俺は俺の日常を楽しみたい。
「話はそれで全部ですか?」
さりげなく言った俺の言葉に、喜緑さんはうなずいた。
「ええ、長門さんとの約束通り一部始終をお話ししました」
「元に戻してもらうわけには、いかないんですよね?」
「残念ながら」
よし、諦めてこのまま帰っても自然な流れになったな。
「……わかりました。それじゃ、俺はそろそろ教室に戻らないといけないので、帰ります」
古泉のように肩を落としてでもみせようかと思ったが、どうせ大根なのでやめておいた。
昼休みも残りわずかだ。屋上に連れ込まれてからずっと棒立ちだった脚を動かし、出口を目指す。
頭を軽く下げ、喜緑さんの横を通過し――
「あ」
不意に喜緑さんが声を上げた。
「ごめんなさい、生徒会からの連絡事項を忘れていました」
通り過ぎつつあった俺は、顔だけ横に向けて喜緑さんを見た。
連絡事項? 本当にあったのか、そんなの。
喜緑さんは、こないだ機関誌を作っている最中の俺たちに資料を届けてくれたときのような
暖かみのある微笑みを浮かべていた。すっかり生徒会書記という立場に戻ってしまったらしい。
ふわりといい匂いが鼻腔をくすぐる。思わずくらっときそうなヤツだ。
「あのですね」
喜緑さんが顔を心持ち近づけて、唇を動かした。
「わたし、ずるいんです」
「は?」
耳を疑った瞬間、まぶたが急激に重みを増した。
膝から力が抜け、立っていられなくなる。頭も重い。意識が混濁する。くそっ……。
「お話ししたあとに情報操作してはいけないとは言われませんでしたので」
崩れ落ち、意識が暗転する前に最後に見えたのは、喜緑さんの微笑みをたたえた口元だった。
はだけた制服から白いブラジャーがのぞく。どうやら着やせするタイプらしい、ってどこ見てんだ、俺は。
胸元に目を奪われそうになった俺は、慌てて目をそらした。が、そらした先も白かった。
着乱れたスカートの隙間から、触れたら吸い付きそうな太腿が見えていたのである。
重量感のあるそれは、思わず手を伸ばして撫で回したい欲求に俺を駆らせる。
なんでこの人はこんなにエロいんだ。人は見かけによらないって本当なんだな。
清楚な印象とは裏腹にどこまでも官能的な肢体をお持ちのお人に、目のやり場に困っていると、
「すみません……」
か細い声が俺の耳に届いた。顔を向けると、ゆるゆると目を開いてこちらに潤んだ視線を送っていた。
うっすらと額ににじむ汗を見て、心配になる。
「大丈夫ですか? 喜緑さん」
俺の呼びかけに、喜緑さんは弱々しい微笑みを浮かべた。
「ええ、なんとか……貧血で少し立ちくらみを起こしたみたいです」
抱きかかえる俺の両腕に、喜緑さんの体温が伝わってくる。
「……大事なお話しの途中でしたのに、申し訳ありません」
「それよりも自分の身体のことを今は考えてください」
自分の体調より気にしているような言い方に、つい口を挟んでしまった。
会長の企みなんか古泉が関与しているに決まってるんですから、気にしなくていいんですよ、とでも
言ってしまおうかと思ったが、どうも喜緑さんは会長の正体を知らないようだから言わずにおいた。
カマドウマの件で部長氏が喜緑さんなんて彼女は最初からいないと発言したことや、生徒会書記という絶好の
役職に就いていたことなどから、俺はてっきり長門関係のお人かと思っていたのであるが、この分だと
そうでもなさそうだ。長門が貧血で倒れるわけないしな。
「……ひとつ、お願いできますか?」
俺を呼び出し、会長がSOS団に対して次の計画を練っていることを話し、内容に移りかけた途端倒れられ
今は俺が抱きかかえる格好になっている喜緑さんは、俺とその背後にある青空の両方を見るような
どこか焦点の合っていないぼんやりした視線とともに、俺に話しかけてきた。
「ええ」
言葉を返して、うなずく。俺の返事に喜緑さんはほっと息をつき、次いで頬を赤く染められた。
「不躾なお願いだとはわかっているのですけれど……」
言葉にどこか熱がこもっているような感じがした。
「わたしを強く抱いてもらえませんか?」
「え?」
意味を把握しかねた俺は間抜けた声を上げてしまった。そんな俺に喜緑さんは、
「貧血には適度の刺激がいいんです。脳に血が巡りますから」
少々早口で医学的なことを言ってきた。いやしかし、でもですね。
俺が逡巡していると、喜緑さんは頬をますます赤くして、気恥ずかしいのか目を伏せた。
「ごめんなさい。無理ですよね、好きでもない女の人を抱きしめるなんて」
「あ、いや、別にそういうわけでは」
口ごもってしまう。好きとか嫌いとかじゃなく、喜緑さんのような可愛いお人を
いくら頼まれたからと言って抱きしめでもしたら、俺の理性が危なくなりそうだ。
俺の躊躇いをどう捉えたのか、喜緑さんは手を差し伸べ、俺の首に腕を回す。
そのまま、身を起こして抱きついてきた。
「き、喜緑さん?」
「しばらくこのままで……」
体を俺に預けた喜緑さんが耳元に囁いてきた。頬と頬が触れ合い、ぬくもりが伝わってくる。
俺の視界に広がったふわふわした髪から、懐かしい匂いが漂ってきた。くらりときそうな匂いだ。
俺も自然と腕を喜緑さんの腰に回し、抱き返す。喜緑さんがかすかに吐息を漏らした。
密着した喜緑さんの身体はほんのりと汗ばんでいて、ふくらみの感触が俺をたまらなくさせる。
早鐘のように鳴る喜緑さんの鼓動の音が、服越しにでも感じられた。
時間の感覚を忘れていると、
「……ごめんなさい」
喜緑さんがそっと告げた。
「謝らなくてもいいんですよ。貧血ですし、仕方ありません」
「いいえ、そうじゃないんです。わたし、ずるいんです」
わずかに語気を強めて俺の言葉を否定すると、喜緑さんは顔を離して俺の目を見つめてきた。
瞳が揺れているような錯覚を受ける。喜緑さんの目には、涙が浮かんでいた。
「生徒会書記としての立場は建前で、あなたを今日ここに呼んだ理由は、本当は……」
残りの言葉を余韻に残して口を閉ざし、喜緑さんはまぶたを伏せ顔を上向けた。涙が頬を伝って流れる。
俺は喜緑さんのつややかな唇に目が釘付けになっていた。それしか見えなかった。
魔法にかかったかごとく抱く力を強めると、俺は顔を少し傾け、目を閉じて、顔を寄せ――
バタンっ!
「こらぁっ!」
扉が開く音が先か、張り上げた声が先か。
「キョン! アンタのことだからどうせ上手くやり込められてるんじゃないかと思って
団長自ら直々に一人で来てあげたわよ! 感謝しなさ……い……」
俺が振り向くと、扉を押しのけた姿勢のまま、こっちを見て固まっているハルヒがいた。
誰も何も発しえず、動けないでいる中、扉だけが自分の役目を果たすために行動を起こし始める。
ゆっくりと扉が閉まり、ハルヒの固まった笑い顔が徐々に扉の向こうに消えていき、そして完全に閉じた。
扉の閉まった音で、俺は事態を認識した。
ハルヒが見たのはなんだ? 俺と喜緑さんが今にもキスを交わそうとしていた場面だ。
「ごっ……ごめんなさい!」
喜緑さんが俺の首に回していた腕を解き、胸元を手で押さえながら謝ってきた。
何を謝っているのか、まだ少し空回りしている俺の頭ではわからない。
とにかく慰めて落ち着かせる必要はあるとの結論を出し、背中に回していた手を肩に置いた。
「落ち着いてください、喜緑さん」
優しく諭す。諭している俺も、背中に冷や汗がじわじわとにじんでくるのを感じていたのであるが
それはこの際置いておこう。今は喜緑さんが先決だ。
取り乱していた喜緑さんだが、俺の慰めもあってか、落ち着きを取り戻した。
「すみません、まさか涼宮さんに見られるなんて」
ハンカチで目尻を拭って、喜緑さんが俺に再び謝る。
謝っている内容は毎回違うのだと思うが、それにしてもよく謝るお人だ。
それにハルヒに見られたから謝る、という思考もよくわからない。
変な顔をしていたのか、喜緑さんが問いかけてきた。
「涼宮さんとお付き合いしているのではないのですか?」
「断じて違います」
この『ハルヒと俺が付き合っている』というのは、北高の常識なのか?
ま、そりゃSOS団で散々振り回されているし、不本意ながらなんらかの行為はあの空間でしてしまったが
だからって付き合っているわけじゃないぞ。ハルヒも心外だと思うに違いない。
「そうなんですか……」
喜緑さんは何やら思うところがあるのか、含みを持たせてつぶやいた。
その雰囲気に急に間が気になった俺は、どうでもいい話を蒸し返した。
「えっと、ところで、生徒会長の計画はなんだったんですか?」
「それは――」
言いかけた喜緑さんだったが、休み時間の終了を告げる鐘が鳴り響いた。やばい、もうそんな時間か?
慌てて立ち上がる俺に喜緑さんも立ち上がろうとするが、ふらつく。手を貸すと、すんなりと立ちあがった。
「保健室に行かなくても大丈夫ですか?」
「ええ、走ることはしばらく無理ですけれど、歩くのは問題ありません」
制服のほこりを払いながら、喜緑さんは俺に答えた。顔色もいいし、大丈夫そうだな。
では失礼して、と遅刻しないよう足早に去ろうとした俺の背中に、
「あの、わたし明日もここで待ってますから」
声が届いた。振り向いた俺に喜緑さんが言葉を継ぐ。
「会長の件をまだお話ししていませんし、それに……」
残りの言葉は表情と仕草で示してくれた。
誘い込まれるような微笑みと、唇に当てた人差し指とで。
屋上の扉を開けたとき、もしかしたらハルヒがいるのではないと思っていたが、そんなことはなかった。
運良く廊下を走るところを教師にとがめられずに済み、なんとか教師が来る前に席に着くことに成功する。
少し息を切らした俺は、息を整えつつ、教科書を取り出そうとかばんに手をかけ、
「ねえ」
背中に届いた言葉に、手を止めた。やけに刺々しい、と言うより、痛い。
喜緑さんの言葉は羽毛が当たるようだったのに、今のは石を投げつけられたような感じだ。
自分を叱咤して、俺は振り向いた。
「な、なんだ?」
振り向いた先には、当然のことながらハルヒがいた。団長閣下はご機嫌斜めであらせられるようである、と
誤魔化したいほどに、ハルヒは不機嫌オーラを背負い込んでいた。いつ以来だ。
「さっきのって、コンピ研部長の元カノで生徒会のあの人よね?」
「ああ、書記の喜緑さんだ」
嘘をついたら即死刑にされそうだったため、素直に答える。ハルヒが知らないわけもない。
にしても、やけに突っかかる言い方だな。
「ふうん、で、どんな用事だったわけ?」
「それは……」
と言いかけて、はたと止まる。会長の計画の件を言えば、内容がなんだったか聞いてくるだろう。
しかし俺はそれがなんなのかまだ喜緑さんから聞いていない。でっち上げたと思われそうだ。
どう話したものか、と間を空けた俺をどう解釈したのか、
「話したくないなら、今は無理に話さなくてもいいわよ」
ハルヒはやけに物分りのいいことを言ってきた。不機嫌さはそのままだが。ん? 今は?
俺の疑問を、ハルヒは見事に霧散してくれた。
「今日のSOS団で議題として挙げるから、言い訳でも考えておきなさい」
なんだそれは。もしかして、俺を生徒会に与する裏切り者だとでも思ってるんじゃないだろうな。
さっき屋上に現れたこともそうだ。俺はお前を信頼していたのになぜ来たんだよ。
ったく、あまり幻滅させてくれるなよ、ハルヒ。
俺の呆れと少々の疑念を含んだ視線を受けたハルヒは、ぷいっと顔を窓の外に向けた。
空を見ながら、
「いいわね!」
必要以上の大声を出して、話を打ち切った。その声の大きさに俺はわだかまりを覚えた。
ハルヒの声は、複雑な感情がないまぜになったまま、やり切れない思いを声にぶつけたような、
そんな声に思えて仕方がなかったのだ。
「古泉、お前にお客さんだぞ」
次の休み時間、俺は一年九組の教室を訪れていた。
理由は簡単だ。古泉に会長とつるんで何をしでかそうとしているのか問いただすためだ。
喜緑さんともう一度会うのは、口裏を合わせているように思われそうだったため、やめておいた。
そこまではハルヒも考えないとは思うが、俺がなんとなく気にする。喜緑さんとまた会うのもなんだしな。
それに二年の教室まで往復するには、休み時間は少々短すぎる。
それなら手っ取り早く、張本人に聞いたほうがあらゆる意味で楽だ。
俺が古泉に用事があることを戸の近くに立っていた男子に伝えると、その男子は教室の中を向いて一言
声をかけた。教室の中を見る気もなしに見てみると、古泉は別の男子たちと談笑をしていたらしい。
名指しに振り向き、俺の顔を見つけると、断りを入れてからいつもの如才ない笑みを浮かべてやってきた。
「ありがとうございます」
古泉は俺の言葉を伝えてくれた男子に礼を述べ、廊下に出てきた。
なるべく人気のない場所で話をしたかったため、それとなく促す。古泉も察知してくれたか、歩き出した。
「古泉、お前クラスメイトにも敬語なのか?」
無言で歩くのもなんなので、どうでもいい話を振る。
「涼宮さんやあなたにだけ敬語を話すわけにもいかないでしょう」
そりゃそうだ。でも友達を作りにくそうだな、敬語だと。
谷口とは最初からタメ口だった。他のクラスメイトにも敬語なんざ使わん。敬う相手じゃない。
「仕方ありません、これが涼宮さんの望む僕の役どころなのですから」
どこか諦観の念を込めた古泉は俺に微笑みかけ、
「それに親友ならいますからね。それほど寂しいわけでもありません」
「いるのか、なら大丈夫だな」
軽く言った俺に、なぜか拍子抜けたように古泉はつんのめる。ニ、三歩たたらを踏んでから
体勢を立て直した古泉は、肩を大げさにすくめた。なんだよ、言いたいことがあるなら言え。
「いいえ、特に何も。それよりあなたの話をお伺いしたいです」
古泉が足を止めたのは、教育指導室という名目上の空き教室の前だった。ここならいいか。
「古泉、生徒会長と次に企んでいる内容を教えろ」
「はて」
ストレートに言った俺に、古泉が心当たりがないかのように、首をひねった。
「とぼけても無駄だ。それにこれはハルヒとも関係があるんだからな」
「とぼけているわけではありません。今のところ、彼に協力してもらう予定はなかったはずです」
首をひねる番が俺に回ってきた。どういうことだ?
「失礼ですが、なぜ生徒会のことを? それと涼宮さんに関係があるとは?」
仕方ない、洗いざらい話すか。俺は机の中に手紙が入っていたことから話し出した。
「なるほど」
一部始終を話し終えた俺に、古泉はしきりにうなずいていた。
「喜緑さんが確かにそう言ったんですね?」
「ああ」
喜緑さんと抱きしめあったことは言ってないぞ。ただ貧血で倒れたから介抱した、と言っただけだ。
「ふむ……」
古泉は口元に手を当てて、考え込む仕草を取った。古泉だからこそサマになる仕草だ。
ややあって、結論に達したのか、古泉はぽんと手を打った。
「わかりました」
「何がわかったんだ?」
「大して気に留める必要はないということです。本気なら僕を含め、もっと徹底的に操作するでしょうし」
なんのことやら。さっぱりわからん。
「今は下手に気を回すのはやめておきましょう。それにどちらかと言えば利害一致しているようにも……」
気を回しているのはお前だ。俺は当面の問題としてハルヒにどう言い訳するかを考えてほしいのだが。
理解不可能なことを述べ立てていた古泉は、髪をさらりとかきあげると、
「その件に関しては、口裏を合わせましょう。計画倒れなりなんなり、いかようにもできますので」
やれやれ。相手は違うにせよ、結局口裏を合わせることになるのか。
「そうですね、こんな感じでどうでしょうか」
古泉が耳元へ顔を寄せてくる。近いぞ。それに人目が皆無なわけでもない。
変な噂でも立ったらどうするんだ。
「僕は別にそれでもかまいませんが」
本気なのか冗談なのか全然判断のつかない笑みを浮かべて、古泉は計画を告げ始めた。
「ま、無難だな」
話を聞いた俺の感想だ。いかにもありそうな計画だった。
「無難が一番なんですよ。なにせ、生徒会は典型的な悪役ですからね」
いつものことだが、古泉はステレオタイプが好きなのかね。杓子定規に当てはめたい主義と言うべきか。
「枠にとらわれない、非常識な事象は涼宮さんと僕自身が持つ能力の件だけで手に余っています」
溜息でもつくんじゃないかと思うほどしみじみと言った古泉は、
「生徒会長の彼には伝えておきます。それでは、もうすぐ授業が始まりそうなので、これで」
会釈をすると、背を向けた。俺も帰らねば。
教室に戻るべく、古泉とは逆の方向へ歩きかけた俺に、
「ああ、そうそう」
古泉が言葉を投げかけてきた。
「今回の件、涼宮さんを信じてあげてください」
気味の悪いウィンクとともにそう言うと、古泉は片手を上げ、今度こそ振り返らなかった。
「……言われなくてもわかっているさ」
そうは言ったものの、教室に戻ってきた俺を不審者でも見るようにジロジロと見てくるハルヒにはまいった。
「言いたいことがあるなら言え」
「べっつに」
カチンときた俺がぶっきらぼうに言うと、ハルヒは顔を背けた。
放課後までこの調子かよ。先が思いやられるぜ。
席に着いて教科書を広げる俺が溜息をついたのは、やむをえないことだと思うね。
背中に痛い視線を浴びながら、どうにかこうにか放課後である。
部室に行くのは既定事項として、その前に俺は用事があった。
弁当箱を阪中の靴箱に置いてこないとな。俺としては洗って返してもかまわないのだが
相手の意向を曲げてまでする気はない。そういや長門のはどうやって返せばいいんだろう。あとで聞くか。
かばんを提げて靴箱へ向かおうかと立ち上がった俺の目的は、果たされなかった。
「部室に行くわよ」
ハルヒがいきなり俺の腕をホールドしたかと思うと、ぐいぐいと引っ張ってきやがったからだ。
「俺は部室に行く前に用事があるんだよ!」
「SOS団より優先させることがあるって言うの? ないわよね」
俺の抗議は切って捨てられた。どうやら反論の余地はないようだ。
すまん、阪中。靴箱に行くのはSOS団終了後になりそうだ。
引っ張られながら阪中の席のあたりに顔を向けると、立ち上がった姿勢の阪中もこっちを見ていた。
なぜかうらやましそうな顔をしていた阪中は、俺の視線に気付くと、半笑いで手を小さく振った。
意図が通じたかどうかはわからないが、意思疎通はできたようである。
っておい、谷口、国木田。なんだよその「やれやれまたか」とでも言いたそうな表情は。
俺は何も好き好んでこんなハルヒの横暴に晒されて続けているわけじゃないんだぞ。
文句を発しようかと思った俺だったが、ハルヒの力は思いのほか強く、教室から引きずり出された。
そのまま犯罪者を連行するように、俺の腕をがっちりと抑えて、歩き出す。
百歩譲れば公園などで見かける「男の腕にしがみついて歩く女」という体勢なのだが
廊下ですれ違う誰も、そんな考えには至らないようである。
むしろ「おもちゃ売り場に親を連れて行こうと腕を引っ張っている子供」とでも形容すべきか。
微妙に避けられていたり、生温い同情の視線が寄せられている気がしてやまないからな。
一年経ってもこんな感じなのか。二年になってもこんな感じなんじゃないだろうなあ。
嘆く俺をよそに、渡り廊下を渡って部室棟へと入り、階段を上るとSOS団の部室はすぐだ。
「おはようっ!」
ハルヒはノックもせずに、いきなり扉を開けた。朝比奈さんに配慮しようとは思わんのか、お前は。
「みんな揃ってるわね」
ずかずかと部屋の中へ入っていく。もちろん、未だに引きずられている俺も同時にだ。
ハルヒが言ったように、メイド姿の朝比奈さんを始め、長門に古泉と、団員全員が椅子に腰掛けていた。
だが、俺の目はもう一人、パイプ椅子に座っている人物を捉えていた。
「やっほーっ」
快活な挨拶をして手を振るその人物は、鶴屋さんだった。なぜ鶴屋さんがここに?
朝の件などおくびにも出さない鶴屋さんは、
「ハルにゃんにお呼ばれされたっさ。内容は知らないけどっ」
そうですか。ま、鶴屋さんはSOS団の名誉顧問であらせられるから、いても不思議ではないのだが
鶴屋さんの前で生徒会の話はしにくいな。いつハルヒと結託して突撃するかわかったもんじゃない。
古泉に視線を送ると、予想外だったらしく苦笑の色がかすかに混じった笑みを返してきた。なるようになるか。
ようやく俺を解放したハルヒは、団長席へ歩いていった。朝比奈さんがお茶の用意をするため立ち上がる。
いつも俺が座っている席には鶴屋さんが座っておられたので、予備のパイプ椅子を広げて座った。
団長席から真正面に位置することになった俺は、かばんを置いて適当に部屋を眺める。
と、俺に意味深な視線を送ってきている人物がいることに気付いた。長門だ。
長門の視線は、何かを催促しているように思えた。なんだ? 弁当の感想か、それとも弁当箱か?
しかしこの場で弁当の感想を述べたり、まして弁当箱を渡すわけにもいくまい。
昼休みに長門に頼みに行った件なら、特に何も起こらなかったから報告しなくてもいいはずだ。
長門に戸惑いを含んだ視線を返すと、無表情な長門の顔に変化が生じたように感じた。
非難、怒り、困惑、安堵、失望感……か? 長門の瞳と微細な表情から読み取れた感情は、それだけあった。
本当かどうかはわからん。こんなに複雑な感情を表にする長門に遭遇したことはないからな。
「キョンくん、どうぞ」
長門の表情を解析していた俺の前に、湯のみが置かれた。
「ありがとうございます、朝比奈さん」
笑顔でお茶を淹れてくれた朝比奈さんに応える。朝比奈さんも笑顔を返してくれた。
少々喉に渇きを覚えていた俺は、早速湯のみを手にとって口元に運び、傾ける。
が、俺の喉の渇きが潤されることはなかった。
「あれ、どうかしました? キョンくん」
朝比奈さんが可愛らしく首を傾げて、甘い声で聞いてきた。
「いえ……」
俺はそう答えるのが精一杯だった。
湯のみの中には、凍ったお茶が入っていたのだ。どうりで湯のみが冷たいわけだ。
朝比奈さんはしっかり朝の件を根に持っているようだった。俺の朝比奈さんはどこへ行ってしまったんだ?
俺のとは対照的に熱そうなお茶を一気飲みしたハルヒは、小気味いい音を立てて湯のみを置いた。
「始めるわよ!」
仁王立ちしたその腕には『裁判長』という腕章がつけられていた。
やっぱりやるのか。
「何すんのっ?」
鶴屋さんの問いかけにハルヒは俺を指差し、
「下座に座っているそこの団員その1が行ったSOS団に対する背信行為について裁判をします」
みんなの視線が俺に集まる。なんだその言い方は。
あまりの言い草に、俺は椅子から立ち上がって抗議した。
「俺はそんなことしちゃいない!」
「無実なら、この場で潔白をアピールすればいいでしょ」
意に介さずハルヒは流し、説明を始めた。
「裁判と言っても、検察とか弁護士とかそんなややこしいのはいません――」
それからしばらくハルヒは裁判の概要を説明した。
ハルヒの説明を要約すると、要するに俺が自分で自分を弁護して、裁判員が最後に決を取り
その票によって有罪か無罪か判断するそうだ。ハルヒにしては民主的なやり方だな。
これで鶴屋さんを連れてきた理由も解った。裁判員を奇数にしたかったんだろう。
かくしてたぶんハルヒだけがそう思っている、厳粛なる裁判が始まった。
「まず、団員その1の罪状を述べます」
ハルヒは「生徒会役員との癒着、及びSOS団の重要な情報漏洩」と言いやがった。
濡れ衣もいいところだ。大体、SOS団に関する重要な情報なんて、あったか?
色々あるか。しかしそれは全てハルヒは知らないはずだ。
「次に、状況説明を行います」
と言ったハルヒは、経緯を語り始めた。
「えーと、そうね。最初は団員その1の机の中に、手紙が入っていたの。これがその手紙」
かばんから一枚のルーズリーフを取り出して、朝比奈さんに手渡した。いつの間に掠め取ってたんだ。
「あたしはSOS団に対する挑戦状かと思ったんだけど、とりあえず団員その1に任せることにしたのよね。
それであたしは学食に行ったんだけど、帰ってきたら、まだ団員その1が戻ってないって言うじゃない。
だから何かあったのかと思って、屋上前の踊り場に向かったわけよ。そうしたら誰もいなくて、でも
屋上が怪しいと思ったから、思い切って開けたの。そしてあたしは何を見たと思う? みくるちゃん」
「ふえっ? あ、あの、ごめんなさい、わからないです」
ルーズリーフを読み終え鶴屋さんに渡していた朝比奈さんがびくっと体を震わせる。いきなり名指しするなよ。
「鶴屋さん、わかる?」
次いでハルヒは鶴屋さんに回答権を渡した。ルーズリーフにさっと目を走らせた鶴屋さんは、
「んー、キョンくんが女の子に告白されてたとかっ?」
「惜しいけど違うわね。有希?」
「……」
無言で首を傾げる長門。最後にハルヒは、古泉を見た。
古泉は待ってましたとばかりに、
「生徒会役員、それも女性の方と密談を交わしていたのではないでしょうか」
「80点。さすがは古泉くんね」
よかったな古泉、ハルヒから賛辞を送られてさ。
「そう、あたしが見たのは、団員その1が生徒会役員と密談をしている光景だったのです」
拳を固めて実に偉そうに力説したハルヒは、
「ええと、名前はなんだったかしら。団員その1、答えなさい」
都合のいいときだけ俺に振るなよ。というか、覚えろ。
「書記の喜緑さんだ」
「えっ?」
しぶしぶ俺が答えると、朝比奈さんが驚きの声を上げた。
朝比奈さんが驚くのも無理はない。カマドウマのときに紹介した人だもんな。
なんとなく長門を見ると、全く興味を覚えていないようだった。
「へー、江美里んだったのかっ」
「鶴屋さん、面識あるの?」
「隣のクラスの人だよっ。合同授業で一緒になるくらいで、あまり話をしたことはないなあ」
「ふうん、そうだったの」
鶴屋さんと会話を交わしたハルヒは、白状を迫るように俺をじっと見つめると、顔をそらした。
「残念ながら、あたしは団員その1と喜緑さんが何を話していたかは聞けませんでした」
人差し指をくるくる頭上で回す。その指を、いきなり俺に突きつけてきた。
「しかし密談をしているという、状況証拠はつかんでいたのです! 団員その1」
「あだ名でいいからいい加減、まともな呼び方をしろ」
「うるさい。状況を再現するから協力しなさい」
協力? 状況を再現? おいおい、まさか、喜緑さんにしたことをしろと言うんじゃないだろうな。
「言うのよ。あたしが喜緑さんの役になってあげるわ。感謝なさい」
「断る」
「協力しないと裁判長権限で即有罪にするわよ」
なんだよそれは。ひどい裁判長がいたもんだ。公正のカケラもない。
本物の裁判であったら即解任されるようなことをのたまったハルヒは、俺に近寄ると強引に立ち上がらせた。
どこからこの力は湧いてくるんだ? いつもながら、不思議に思えてしょうがない。
「さ、膝を着きなさい。あたしはちゃんと覚えてるんだからね」
本気でやれと言うのか。くそっ、どうなっても知らんぞ。
俺はパイプ椅子をどけて空間を確保すると、膝を着いて両腕を前に差し出した。
そこに仰向けにハルヒが寝そべる。かと思うと、手を伸ばして、俺の首に腕を回してきた。
回した腕に力を込め、身を起こしたハルヒの腰に俺も腕を回し、抱きしめる。
こんなことを考えるのは不謹慎かもしれないが、ハルヒのふくらみは喜緑さんよりボリュームがあった。
ハルヒは顔を心持ち上向け、目を閉じてきた。まだやらないといけないのか?
仕方なく、ゆっくりと顔を近づける。まだか。さらに近づける。まだなのか、くっついちまうぞ。
朝比奈さんの息を飲む音が聞こえ、ハルヒの呼吸が俺の顔に届くぐらいの距離になったそのとき、
「ぐあっ!」
目を開いたハルヒが、いきなり頭突きを食らわしてきやがった。たまらず顔を離す。
「とまあ、こんな感じだったのです。あ、最後の頭突きはないわよ」
腕を解き立ち上がったハルヒが解説を入れた。この石頭め。
額を押さえつつ、立ち上がった俺を真っ先に迎えたのは、
「あっはっは! キョンくん、そんなことしてたのっ? あはははっ」
けらけら笑う鶴屋さんだった。古泉は苦笑を隠さず、両手を上向け、肩をすくめる。
そこまでは割と普通の反応だと言えた。つまりそうじゃない人もいたということだ。
「キョンくん、それホントなんですか……」
ゆらり、という表現が似合いそうな雰囲気を背負っていたのは、朝比奈さんだった。
握った手がぶるぶる震えている。うつむいた顔がどんな表情をしているのかは、俺にはわからなかった。
ただ、やりどころのない焦燥感を覚えたのは確かだ。放っておくと、とんでもないことになりそうな。
そしてもう一人。
「……」
長門が無言で俺を責め立てていた。明らかに不機嫌だ。ハルヒの視線は痛かったが、長門のは鋭い。
視線に質量があったらとっくに俺の身体は両断されているに違いない。
相手が喜緑さんというのが、長門の不機嫌を助長しているのか? わからない。
俺は瀬戸際に立たされているように思えて仕方なかった。誰でもいい、俺を助けてくれ。
助けかどうかはわからないが、次に移ってくれたのはハルヒだった。
「以上で状況説明を終わります。次は被告に自己弁護をしてもらいます」
ようやく順番が回ってきたか。俺の濡れ衣を晴らさないとな。
咳払いをひとつして、深呼吸をする。喉を潤したかったが、湯のみの中はまだ凍っていた。
仕方がないため、話し始めることにする。息を吸い込み、正面を向き――
「ちょっと待ってください!」
横槍が入った。声を出したのは、
「わたしもキョンくんに問いただしたいことがあります」
朝比奈さんだった。いつになく真剣な表情だ。
「みくるちゃん、どうぞ」
ハルヒが勢いに押されてか、あっさりオーケーを出す。
「今朝、わたしが登校中のことです」
それだけで俺は朝比奈さんが何を言いたいのかわかってしまった。
と同時に、やばいと思った。火に油を注ぐだけだ。
「朝比奈さん、その件については――」
「黙りなさい」
口を挟もうとした俺の言論を、ハルヒが封殺した。
そして朝比奈さんは、一部始終をお話しになられた。
「みくるもパンツ見られちゃったの? あっはは」
鶴屋さんはおなかを押さえて笑いが止まらない様子だ。俺は泣きたいぐらいだが。
「『も』ってことは、鶴屋さんも見られたわけ?」
「あたしの場合は、ははっ、こっちが悪いんだけどねっ」
笑いすぎて涙が出てきたらしく目尻を拭いながら鶴屋さんがハルヒに答えた。
「それでキョンくん、阪中さんと何をしてたんですか?」
興奮冷めやらない様子の朝比奈さんは、さらに爆弾を投下してくださった。
「阪中さん?」
キョトンとハルヒが声を返す。俺は内心ずたぼろになりつつ、
「阪中は、たまたま俺に用事があっただけで」
苦し紛れの返事をした。当然のように疑惑の目を向ける朝比奈さん。
「ふうん、たまたま用事があっただけで校門の前で待ち合わせをするんですか」
「それは俺に渡すものがあったからですって」
「興味深いわね。あたしにも聞かせてちょうだい」
なぜかハルヒが口を挟んできた。ちょっと待て、お前の弁当を阪中が届けてくれたんじゃないのか?
「なんであたしがアンタにお弁当なんか作らないといけないのよ」
口を尖らせるハルヒ。ますます混乱する。じゃあ、誰があの豪華な弁当を作ったんだ?
俺の疑問に、ハルヒや朝比奈さんはおろか、鶴屋さんまで呆れた視線を送ってきた。
視線の矢面に立たされ、どうしていいかわからなくなった俺に、上向けた手が差し伸べられた。
「お弁当」
ぽつりとそう言って、あとはひたすら無言の圧力を加えてきたのは、長門だった。
精神的に参っていた俺は、言われるがままにかばんから弁当箱を出し、長門に渡す。
弁当の中身が空になっていることを確認してから、長門は自分のかばんの中にしまった。
「有希、あなたもお弁当作ってきたの?」
ハルヒの質問にこくっ、と首を上下させて、俺をじっと見つめてくる。
幾分和らいではいたが、別の理由により怒っているように思えた。
「キョン」
ハルヒが久々に俺をあだ名で呼んだ。ハルヒを見ると、曇りない笑顔を浮かべていた。
「キョンくん」
朝比奈さんもにっこりと、慈愛と呼んでもいいぐらいの笑みを俺にくれた。
「……」
長門は無言だが、他の二人と感情を共有しているように感じられた。
視界の隅で、古泉が「ご愁傷様です」とばかりに手をひらひらさせていた。鶴屋さんは笑うばかりだ。
そして三人は、示し合わせたように声を揃えて俺に宣告した。
『有罪』
古泉との打ち合わせは全く意味がなかった。弁解する余地すらなかった。
日頃の行いは、やはりどこかで回ってくるものらしい。そうとしか思えない。
もっとも、なんだかんだで生徒会のことがうやむやになった気がするのは収穫か。
多数決によりめでたく有罪判決が下ったわけだが、肝心の処罰はと言うと
考えていなかったらしく、「明日までに考えておくから」とハルヒは言った。
もしかしたら、有罪になるとは思ってなかったのかもしれないな。
俺だってびっくりだ。まさか朝比奈さんがあんなに積極的になるなんて。
裁判が終わると、鶴屋さんは用事があることを告げ、帰っていった。
帰り際に俺の肩を叩いて「にくいね、色男っ!」と言ってくださったが慰めにもなんにもなっていない。
どの辺が色男なのか、こっちが知りたいぐらいだ。
「――ところでみくるちゃん?」
「はい?」
裁判終了後、朝比奈さんがついでくれたお茶を飲み干したハルヒが、朝比奈さんに声をかけた。
俺は普段より若干隅にパイプ椅子を寄せて、古泉と将棋を指していた。湯のみのお茶はようやく溶け出した。
俺の陣形は穴熊だ。鉄壁の守りとよく言われるが、この場合単に閉じこもりたいだけである。
「さっきの話からすると、キョンとみくるちゃんは並んで登校したの?」
「ええ、そうですけど」
なんでそんな質問をしているのかわからない、といった風に朝比奈さんが答える。
「あたしに断りもなく?」
「なぜ涼宮さんに断らないといけないんですか?」
朝比奈さんが席を立つ音がする。あえて盤面に集中している体を装っていた俺に足音が近づく。
「わたしはキョンくんと一緒にいたかったから、そうしただけです」
「うわっ」
後ろから朝比奈さんの腕が回されたかと思うと、後頭部に柔らかい感触が当たった。
朝比奈さんが背後から抱きついてきたからだとはわかったが、なんでまたいきなり。
「こんなこともしちゃいます」
と言って体をずらし、俺の耳に息を吹きかけてきた。くすぐったいやら心地いいやら。
「うらやましいですか? 涼宮さん」
朝比奈さんの声とともに、本の閉まる乾いた音が響いた。
見ると、長門が本を閉じて、こちらを凝視していた。視線が合うと、長門は口を開いた。
「明日もお弁当を作る。だから食べて」
「あ、ああ」
でもできたらレトルトカレー以外にしてほしいな。
「善処する」
「そう、有希もなの……」
ハルヒが低い声でつぶやく。俺にハルヒの表情を窺う勇気などありはしない。
さっき口を揃えて俺に宣告したのが嘘だったかのようだった。古泉が肩をすくめるのも何度目だ。
その場にいるだけで神経が磨り減っていく時間は過ぎ、下校となった。
ようやく一人になれた俺は、力なく廊下を歩いていた。
何がどう間違ってこうなってしまったんだ。俺の日常はどこへ?
靴箱に着いたところで、弁当箱のことを思い出した。
もう阪中は帰っているとは思うが、弁当箱を靴箱に入れなくては。
俺は女子の靴箱へ先に向かうことにして、立ち並ぶ靴箱のひとつを目指し、角を曲がり――
「あ……」
曲がった先に、一人の女子が立っていた。俺を見て安堵の息を漏らす。
「阪中?」
まさかいるとは思わなかった。阪中も部活はしていたと思うが、SOS団の終了時間は遅い。
阪中は朝と同じように、かばんを前に抱えたまま俺に寄ってきた。
「だいぶ待ったんじゃないのか? 阪中」
「ううん、さっき部活が終わったとこ」
俺を気遣ってかどうかはわからない。とりあえず弁当箱を返すことにしてかばんを開ける。
弁当箱を手渡すと、阪中は大事なものを扱うかのように、しっかりと自分のかばんの中に収めた。
そのまま顔をうつむいてもじもじとしていたが、
「あのね」
意を決したように顔を上げる。どこか心細さを感じているようにも思えた。
「お弁当どうだった? 口に合ってたらいいんだけど」
俺が答える前に、阪中は早口で弁解しだした。
「これはね、あのね、わたし涼宮さんにお弁当の感想を聞くように言われてたのを忘れちゃってて」
朝と同じく、声が上ずっている。ようやくどういうことか、俺にもわかった。なんて鈍感なんだ。
「だから待ってたのね。わたしってほんとおっちょこちょいなんだから」
自分の頭をぽかりと叩いた阪中の表情は、今にも泣き出しそうに見えた。
俺はなんだか今日一日の気疲れが、少し癒された気がした。
と同時に、この微妙な関係を無粋な詮索で崩したくない思いにも駆られる。
だから俺は、阪中の嘘を知りながらも、それに沿うことにしたのさ。
「ちょっと豪華過ぎたが、めちゃうまかった。ぜひまた食いたい、もう少し質素なのを」
これは阪中に伝えているつもりで言う。十分に間をおいてから続きを言った。
「と、ハルヒに伝えてくれ」
阪中は最初驚いていたが、続く言葉に少し肩を落とし、慌てて取り繕う。バレバレだったが。
喜色満面とまではいかないにせよ、笑顔を見せた阪中は、大きくうなずいた。
「うん、伝えるのね」