『 長門有希と夕立 』
長門と一緒に図書館から出ると、まだ五時を回ったばかりだというのに薄暗かった。
疑問は轟いた雷により、すぐに氷解した。どうやら一雨来るようだ。
ピカッ、と一際明るい稲光が閃き、数秒のタイムラグをもって地鳴りのような轟きがする。
それが合図だったかのように、バラバラと視界が霞むほどの強雨が降り出した。
アスファルトは墨汁を溢したように黒く染まり、跳ね返る雨滴で白く覆われる。
ダダダダ、と機関銃の掃射のような音は、もはや雨音というレベルを超えちゃいないか?
とてもじゃないが傘なしで平気な様子じゃない。いや、傘があったところで、ずぶ濡れだろう。
「こりゃ、雨宿りしていくしかないな」
「…………」
長門は視線を遠くに向けたままで返事をしない。
まあ、別に期待はしていなかったが、やはり寂しいものは寂しい。
いったん館内のロビーに戻ろうと踵を返したが、すぐに立ち止まった。
てっきり俺に付いてくると思った長門が、そのまま立ち呆けていたからだ。
声を掛けようとして躊躇った。
振り返った先には、まるで彫像のように雨を見る長門の姿があった。
まるで落ちてくる雨滴のすべてを見逃すまいとするような鋭さで。
まるで雨粒など無く、あるのは降雨という現象だけだというような茫洋さで。
雨の音は心を騒めかせ、同時に心を落ち着かせる。
そんな演繹と帰納が同居した曖昧で鋭敏な世界に長門は融け込んでいた。
……そう言えば妹が今よりも幼かった頃に、似たようなことをしていたっけな。
居間の窓から飽きもせずに、ずっと外を見ているもんだから、おかしくなったのかと心配した。
今よりも少しは妹のことを大事に思っていた当時の俺は、母親に相談しに行った。
すると母親の答えは、俺も昔、同じようなことをしていたという笑えないジョークだった。
別にだからどうしたというわけじゃないが、そんなことを思い出したってだけだ。
ふっと我に返った。
ザーッ、という暗幕のような音に包まれていたせいか思考がトリップしていたようだ。
隣を見ると、長門は相変わらず飽きもせずに、降り続ける雨を眺めている。
さて、この沈黙は不快というわけじゃないが手持ち無沙汰だ。
悪いとは思いつつも話し相手は他におらず、隣に立つ長門に声を掛けてみた。
「雨が好きなのか?」
「……割と」
俺も割と驚いた。長門が好き嫌いを示すなんてレアも良いところだ。
おそらく、この「割と」は一般人における大好きに匹敵する力があると言えよう。
「──ゆき」
馬鹿な考えをしていたせいか、続く長門の言葉を聞き逃しそうになった。
そんな俺が落ち着くのを待つように一拍の間をおいてから、
「雪が好き」
今度の驚きは、割となんて生やさしいモノじゃない。驚愕と言っても良い。
まさか長門が積極的に好意を示す対象が存在するだなんて、想像も出来ないだろ?
どう返して良いか分からず固まってしまい、ようやく発したのは、
「…………そうか」
そんなセンスの欠片もない返答だった。
さすがの長門も呆れたのだろう、しばらく俺のことを見つめると、
「………………」
無言で、何故か少しだけ首を傾げた。
それがどういう意図なのか読み取ることは、俺には無理だった。
空を見上げると、積乱雲の底が広範囲を覆っている。
しかし残念ながら降ってくるのは雨ばかりで、白い結晶は見えない。
「……さすがにこの時期に雪は無理そうだな」
「そう」
その時の長門の顔が何だか残念そうに思えたのは、俺の気のせいだろうか。
そうこうしている内に雲間が広がり、ポツポツと小降りになった夕立は、やがて晴れ上がった。
積乱雲の残滓が夕日を受け、赤々と染まっていたのが印象に残っている。
さて、これは八月末の、とある夕方の出来事。
後になって、それが一万回以上繰り返した二週間の一部であることを知る。
知ったところで、それが八月末の、とある夕方の出来事であることに変わりはない。
別に面白いオチもなければ、心に染み入るエピローグもない。
ただ、そんなことがあったというだけのこと。
そして、やがて来る終点に呑み込まれて、すべて忘れてしまうのだろう。
『 長門有希と夕立 』
長門と一緒に図書館から出ると、まだ五時を回ったばかりだというのに薄暗かった。
疑問は轟いた雷により、すぐに氷解した。どうやら一雨来るようだ。
ピカッ、と一際明るい稲光が閃き、数秒のタイムラグをもって地鳴りのような轟きがする。
それが合図だったかのように、バラバラと視界が霞むほどの強雨が降り出した。
アスファルトは墨汁を溢したように黒く染まり、跳ね返る雨滴で白く覆われる。
ダダダダ、と機関銃の掃射のような音は、もはや雨音というレベルを超えちゃいないか?
とてもじゃないが傘なしで平気な様子じゃない。いや、傘があったところで、ずぶ濡れだろう。
「こりゃ、雨宿りしていくしかないな」
「…………」
長門は俺をしばらく無言で見つめると、カバンの中を探り出した。
いや、探るという表現は不適切か。探すまでも無かっただろう。
ちらりと見えたカバンの中にあったのは、太い棒状の物ただ一つだった。
長門は取り出した棒から金属の柄を引き延ばすと、手元のボタンを押した。
ボッ、と濁った破裂音を立て、ビニール製の逆パラボラが展開する。
灰色の円盤の直径は一メートルもないだろうが、人ひとり覆うには十分だろう。
とまあ、こんな回りくどい描写をせずとも、一言で言ってしまえばいい。
長門は折りたたみ傘を差し出してきた。
さて、ここで一応、注釈をしておこう。俺は傘を持ってきていない。
よってここにあるのは傘が一つ、そして人間が二人である。
もう少し言うのならば、傘が一つに華奢な女性が一人、そして凡庸な男が一人だ。
長門の意図として導き出される推測は、相合い傘というやつだ。
無論、俺も男である以上、そのシチュエーションに心がドキマギしないわけじゃない。
だが今は、そんな甘酸っぱい心配よりも、もう少し現実的で暴力的な問題がある。
「……長門、もしやと思うが、この雨の中を帰るつもりか?」
振り向いて視覚情報に頼らずとも、聴覚情報だけで十分に分かる。
この大雨、折りたたみ傘程度でどうこうなるレベルじゃない。
別に急ぎの用もない。どうせ夕立だ。ここは雨宿りをして待つのが得策だろう。
……とは言え、
「………………」
傘を差しだしたまま、無言でじっと見つめてくる長門にそう伝えるのは何故か憚られた。
まあ、たまにはこんなことがあっても良いかもしれない。
この陽気なら、濡れても風邪をひくこともないだろう。
服もどうせ安物だし、財布と携帯にだけ気を付ければ問題ない。
何より、せっかくの長門の好意だ。無碍にするわけにはいかないだろう。
お礼を言い、傘を受け取る。
なるべく長門から離れないようにして、空襲の最中へと足を踏み出した。
──速攻で後悔した。
たちまち服に水が染み込みだした。特に足下などひどい。
雨の強さは予想以上で、傘なんて髪の毛を守るぐらいの役割しか果たしていない。
「………………、」
長門が何かを言った。
しかし頭上で響くドラムロールのせいで聞き取りづらい。
なんだって?
そう返した俺の言葉も、はたして長門に届いただろうか。
長門は言葉で伝えるのを諦めたのか、傘に手を伸ばしてきた。
くいっ、と大きく長門側に傾いた柄を垂直に立てようとする。
ぐいっ、と押し戻した。
くいっ、くいっ、と柄に添えられた小さな手が動く。
ぐいっ、と押し戻す。
くいっ、くいっ、くいっ、としつこく手が動く。
埒があかないので、ぐいっ、と
「…………、」
傘を持つ手を肩に回し、長門を胸元に引き寄せた。
身体が密着し、お互い少しだけ雨に濡れる範囲が減った。
多少、歩きづらくはなったが仕方がないだろう。
……大丈夫だ。
長門は間違っても間違いを起こすやつじゃないし、俺の間違いも止めてくれる。
そうだろ? 信じてるぞ、長門。
ちなみに俺は既にレッドゾーンいっぱいだ!
すぐ胸元で、長門が俺を見上げている。
俺の混乱を知ってか知らずか興味がないだけか、長門は落ち着いたもんだった。
その顔を見ていると、不思議と今の状況が、ごく当たり前のことに思えてきた。
だから俺は落ち着きを取り戻し、雨が止むまで、この状況をごく当然のこととして過ごした。
思い出して赤面して悶えたのは、家に帰りシャワーを浴び、布団に潜ってからのことだった。
さて、これは八月末の、とある夕方の出来事。
後になって、それが一万回以上繰り返した二週間の一部であることを知る。
知ったところで、それが八月末の、とある夕方の出来事であることに変わりはない。
別に面白いオチもなければ、心に染み入るエピローグもない。
ただ、そんなことがあったというだけのこと。
そして、やがて来る終点に呑み込まれて、すべてを忘れてしまうのだろう──
『 長門有希と夕立 』
「こりゃ、雨宿りしていくしか……おい、長門!」
「…………」
指針発表は中断を余儀なくされた。
何を考えてるのか、スタスタと大雨を気にせずに脚を進める長門の姿があった。
慌てて追いかけて、袖を掴んで図書館の入り口まで引き摺り戻す。
たった数秒にも関わらず、長門の短い髪はぺったりと頬やおでこに貼り付いて水を滴らしている。
それにブラウスも濡れて…………っっ!!
「なに?」
何じゃない。これを着ろ!
「なぜ?」
なぜじゃない。いいから着ろ!
羽織っていたシャツを大急ぎで脱ぎ、長門に押し付ける。
紳士ぶったつもりではない、まだ死にたくないだけだ。
下着の透けた長門の姿など、軽く致死量を超えている。
空港や地下鉄に連れて行ったりしたら、テロ行為として捕まっても文句は言えないだろう。
不思議そうな顔をした長門だが、素直に渡したシャツを羽織った。
ダボダボのシャツも充分に犯罪的だったが仕方がない。緊急避難の適応範囲だ。
長門、そこまで帰り急ぐ理由は何だ。またハルヒか?
再び雨の中の強行軍を試みようとする長門を引き留め訊ねる。
「急いでない」
……? じゃあ何でこんな雨の中を歩こうだなんてするんだ。
「ただの興味」
……時間が止まった。
まさか長門からそんな言葉が出るなど、驚き以外の何物でもない。
これを聞いたら、古泉だって例のにやにや顔を崩すはずだ。ハルヒだって硬直するだろう。
そして驚いたのは、言った本人ですら例外ではなかったらしい。
長門は自分の発言が信じられないというように、目を見開いている。
もちろん、その変化はノギスで確認しなければ分からないほどの僅かなものだ。
だが、確実に長門の中ではエラーウィンドウが飛び交っているのだろう。
溜め息を一つ。
こういうときは、お互い頭を冷やすに限る。
何より、普段は黙々と後方支援に徹する長門のたっての意志だ。
叶えないわけにはいかないだろう。
長門の腕を引き、雨の中に飛び出した。
雨は見た目以上に激しかったが、包み込むような暖かさがあった。
目も開けられないような瀑布のせいで、残念ながら長門の表情は見えなかった。
そのまま長門の手を引いて道を歩いた。
パンツまでびっしょりだったが、一度濡れてしまえばこんなものプールと変わらない。
もちろん、傍から見たら通報されてもおかしくないほど奇妙な二人組だっただろう。
おまけにその時の俺ときたら、テンションが妙な位置に入っていて終始笑い通しだった。
さて、これは八月末の、とある夕方の出来事。
後になって、それが一万回以上繰り返した二週間の一部であることを知る。
知ったところで、それが八月末の、とある夕方の出来事であることに変わりはない。
別に面白いオチもなければ、心に染み入るエピローグもない。
ただ、そんなことがあったというだけのこと。
そして、やがて来る終点に呑み込まれて、すべてを忘れてしまうのだろうか……
『 長門有希と夕立 』
長門と一緒に図書館から出ると、まだ五時を回ったばかりだというのに薄暗かった。
疑問は轟いた雷により、すぐに氷解した。どうやら一雨来るようだ。
ピカッ、と一際明るい稲光が閃き、数秒のタイムラグをもって地鳴りのような轟きがする。
それが合図だったかのように、バラバラと視界が霞むほどの────、
「………………」
思わず言葉を失ってしまった。これはどういう冗談だ。
ガチンバチンと、アスファルトの上で硬質的な音が跳ね回る。
慌てて屋根に逃げ込む人の姿があちこちに見られた。
そりゃそうだ。ごく一部の特殊な方々を除き、誰だって痛いのは嫌だろう。
跳ね回るそれらの一つが、足下まで滑り転がってきた。
ピンポン球サイズのそれは、俺の靴先にぶつかって止まった。
呆然としたまま、俺はそれの名前を呟いた。
「……雹、」
まるで同音のネコ科の肉食獣の様な暴れっぷりだった。
空からバラバラと豆まきのように、白い氷の塊が降ってきている。
かき氷会社の大規模キャンペーンでも無ければ、冬に時間跳躍したわけでもない。
夏とはいえ遙か上空は寒いのだと言うことを、落下する氷塊が如実に物語っている。
おそらくハルヒの仕業でも何でもない、単なる自然現象だ。
しかし、これほどの大きさのやつを見るのは初めてだ。
成分は同じでも、雪とは大違いである。
世の中には、もっと大きいのも降ると聞くが、このサイズでも十分驚異的だろう。
だが、この驚きなど次に襲い来る衝撃に比べれば前座仕事にもならない。
何度も読み返した本格推理小説に、突然SFアクションのページが現れたらどうだろう?
密室トリックがテレポーテーションで解決。謎の凶器はテレキネシスによる心臓破壊。
アリバイトリックは時間移動、逃走場所も別の時代。そして犯人は正体不明の宇宙人。
──長門は、まるでそんな本に出会ったような顔をしていた。
驚き、戸惑い、そしてほんの僅かな喜悦。
それらを一滴ずつスポイトでプールに垂らし、十分な純水で希釈する。
ほとんど純水と言って構わない、そんなppb単位の濃度だが確実に存在した。
そんな普段の長門にあるまじき感情。
白状すれば、不思議な表情で佇むその姿に、俺は見惚れていた。
長門は空を見上げ、地面を跳ね回る雹を眺め、そして俺を見つめてきた。
そこには先程よりもはっきりとした、ppmの喜悦が浮かんでいた。
何がそこまで長門の感情を揺さぶったのかは分からない。
温室に放置したプリンのように蕩けきった脳みそでは、思考もままならない。
ふと偏頭痛のようなデジャビュに襲われた。
以前もどこかで、こんな質問をしたような気がした。
「……長門って確か、雪が好きだったよな?」
はたして、そんなことをどこで聞いたかは覚えていないが、どうでもいいだろう。
少なくとも間違えではなかったらしく、長門は首を縦に傾けた。
「じゃあ、雹はどう思う?」
長門は本当に機嫌が良いのだろう。
世の中には俗に天変地異の前触れというものがある。
今回の雹という天変地異は、逆にこのことの前触れだったのだろうか。
、 、
長門は、ほんの微か──錯覚だと言い切ってしまってもいいレベルで笑うと、
「ユニーク」
、 、
そんな冗談を口にした。
さて、これは八月末の、とある夕方の出来事。
後になって、それが一万回以上繰り返した二週間の一部であることを知る。
知ったところで、それが八月末の、とある夕方の出来事であることに変わりはない。
別に面白いオチもなければ、心に染み入るエピローグもない。
ただ、そんなことがあったというだけのこと。
これらも、やがて来る終点に呑み込まれて、すべてを忘れてしまうのだろうが……、
────おいハルヒ、この記憶だけは残しておいてくれないか。