『涼宮ハルヒのパン工房』  
 
 
 
 拝啓、みなさま、お元気ですか?  
 
 おれならヘンタイです。ちがう、元気です。落ち着けおれ。  
 おれのことなら、今おれはSOS団の仲間といっしょに、パンを作っています。  
 なんでパン? 知らん、わからん。そんなことはそこのヘンタイに聞いてくれ。  
 そう、ここにヘンタイがいますよと、おれはそう宣言したかったんだ。声を大にして。  
 
「小麦………白いよう、……こな……粉が白いよう………」  
 
 な? 小麦粉を見つめて、さっきからずっとこんな調子なんだ。  
 ハルヒ、あんまり小麦粉をつつくな。ちゃんと手を洗ってあるのか。  
 状況を打開すべくいつものニヤケ面に目配せしてみる。  
 こういうことは長門よりも古泉に聞いたほうが良いだろう。  
 こいつはいったい小麦粉のナニに反応してこうなってるんだ?  
「ハルヒのやつ、まさか危ない薬に手を出したんじゃないだろうな」  
「それはありません。ここ数百時間、涼宮さんの観察保護は完璧に機能していました」  
 同じ観察にしても長門は「観察」の一言で放置しかねん。薬であろうと害のない範囲であれば。  
「じゃあハルヒはどうしたんだ。ナチュラルに気がふれたのか?」  
「いえ、恐らくは正常でしょう。ただ涼宮さんの趣味趣向は突拍子もないところがありますので」  
 たしかにハルヒの突拍子無さは今に始まったことじゃない。  
 それにしてもこれは異常事態だろう。まさか予測の範囲内だとでも言うつもりか?  
「ええ、まあ……涼宮さんにもプライベートがありますので、詳しくは言えませんが。彼女なりの  
正常の範囲内でしょう」  
 ハルヒのプライベート? どういうことだ? くそっ古泉め。ニヤニヤしていやがる。  
 聞く相手を間違えたか。こいつこそ変な薬を使っていそうだ。こいつもヘンタイだ。  
 
「みなさぁん、材料の準備ができましたよぉ」  
 ハルヒの不気味な呟きだけが響く、山中のふるいけの如く静まり返った部室内に  
 朝比奈さんのお声が水音も高らかに降臨召しあそばされた。  
 しかし自分でパン作りを宣言しておいてハルヒは反応しないんだな。やはり興味は小麦粉なのか。  
「お水と卵と、んしょっと。キョンくぅん、いっしょにこねこねしましょうかぁ」  
 それはわたくしの喜びですマドモアゼル。あわよくばパン生地の中で手をお握りいたしましょう。  
 
「ねこ………ねるっ!?」  
 なんだいきなり。ハルヒが反応した。ねこねる?  
「みっみずっ!?」  
 ハルヒが反応している。  
「たたまごっ!!」  
 うまく喋れてない。  
「!?!?」  
 ハルヒがぶっ倒れた。なんで!?  
 
 派手に倒れ込んだが、長門が、おそらく長門の仕業だ。ハルヒは床スレスレで空中静止した。  
「おい、だいじょうぶか」  
 ゆすって起こす。すぐ目を覚ました。  
「だいじょうぶ………平気よ、ありがとう………」  
 上目使いのハルヒ。本来ならここで、こいつかわいいうわおれ不覚、などとなるんだろうが。  
 ならなかった。ハルヒの目がヤバイ。明らかにおかしい。はっきり言って怖い。  
「ねえキョン……差し水して……おねがい」  
 待て待て、おまえ生地をこねたいのか? ならまず手を洗え。  
 のぼせたのか? 顔もいっしょに洗ってこい。  
 
 
「さあっ、やるわよキョンッ!」  
 切り換えの早いやつだ。まあいいけど。  
「みずっ、あっ、すごい……べと……べと……」  
 よくなかった。本当に切り換えの早いやつだ。またブツブツ言い出した。頭が痛くなりそうだ。  
 古泉の視線を感じる。無視したいがハルヒを見ていてもきっと頭痛を起こす。  
 しょうがない見てやろう。なんだ? ああ、料理本か。  
 なになに、次は卵か。ヘンタイのくせに建設的なことを意見するとは生意気だ。  
 卵をかき混ぜて、まぜて………ハルヒがこっちを見ているな。何か言っている。  
 脊髄で遮断していた聴覚情報を脳まで伝達する。すごいなおれ、まるで長門みたいだ。  
「ぐちょ、ぐちょ、たまごがぐちょぐ───シャットアウト  
 再度遮断。おれが獲得したこの機能について、今度長門に報告してみよう。  
 長門なら誉めてくれるかもしれない。いいこいいこしてくれるかもだ。ありがとう長門。  
「いいこいいこ」  
 長門、今なんて言った。しまった、モノローグが口から漏れていたらしい。  
 朝比奈さんが気の毒そうな顔でこっちを見ている。  
 古泉は確認するまでもない。ん? 朝比奈さんの視線が動いた。  
 あ、古泉がちょっと寂しそう。すまん古泉、悪かった。悲しそうにするな。  
 おまえはいつもヘンタイ的に笑っていろ。おい、ヘンタイ呼ばわりされて嬉しそうな顔をするな。  
「………「ありがとう長門」  
 気勢を先してみた。どうだ長門、正解だろ?………なんで不満そうなんだ。  
 分かった、おれが悪かった。たしかに今のはなおざりだった。すまん。  
 
 古泉と長門を構っている間に撹拌が終了していた。次はイースト酵母の投入か。  
 発酵作用で生地をふくらませるやつだ。生地にそのイーストを練り込んでいく。  
 ハルヒが肩で息をしてる。何にせよ物事に一生懸命打ち込むのはいいことだ。  
「ハァッ、ハァッ、ハァッ」  
 力強いぞハルヒ。  
「どうしよう。ふくらんじゃう。すごい。ふくらむのすごい。ふくらんじゃったらどうし───遮断  
 怖いぞハルヒ。  
 
 
「涼宮さぁん、なにかお手伝いすることはありますかぁ?」  
 
 なんですと朝比奈さん? 朝比奈さん? それは勇気ですか?  
 それとも正気ですか? 今のハルヒに話しかけるなんて、それはすごいことなんですよ?  
「なーに? みくるちゃん? ふくらませるお手伝いをしたいわけ?」  
 朝比奈さん、でも、勇気と無謀は違うものなんです。さあ、空気を読みましょう。  
 手遅れでしょうけど。  
「いいわ。いっしょにやりましょう。さあっ! はじめるのよっ!」  
「こうですかあ?」  
「もっとよ! もっとよ! みくるちゃん! ぜんっぜんっ足りないわ!」  
「ひいーえーえー」  
「そんなんであたしが満足するわけっ! ないでしょうっ!」  
「ふえーん」  
「練り込むの! 発酵させるの! ふくらませるのよ! はらませるの!」  
「さあっ! ワンモアプッリズ! はらませるっ!」  
「ふええっ、はっ、はらっ?」  
「もういいっ! みくるちゃんっ! 抜きなさいっ! 間違えた脱ぎなさいっ!」  
「そうすればきっと生地が喜んでかなり余計にふくらむわっ!」  
 
 む? ハルヒの動きが止まったな。  
 生地にまみれた手で朝比奈さんに襲い掛かろうと、多分メイド服を脱がそうとしたんだな。  
 そのハルヒの手が───ゆっくりと、ハルヒの制服の内側に。  
「すごい、べとべとする………うーん」  
 何をやってるんだこいつは。この真性のアホは。ここは部室だぞ。みんなが見てるんだぞ。  
「あっ! キョンっ!」  
 おれか? どした? いきなり顔を上げるな。びっくりする。  
   
「ぶふーっ!!」  
 
 ハルヒが鼻血を吹き出し倒れた。  
 目眩がする。おれも倒れそうだ。朝比奈さんは既に失神している。  
 古泉は真顔でフリーズ。気持ち悪いな。長門も一点凝視で停止中。  
 ちなみに長門のヘルプは少し遅れてハルヒはちょっとだけ床にぶつかった。  
 しかし悪夢のような光景だ。宇宙的変態スペックを誇るSOS団がたったの一撃でこのざまだ。  
 朝比奈さんが倒れ長門は動作をミスって古泉が真顔で固まっていやがる。やはり気持ち悪いな。  
 どういうことなんだ。  
 あっ、くそっ。ハルヒが自力で目を覚ましやがった。もっと倒れてろ。  
「疲れたわ。発酵には時間がかかるから、今日はもう解散にしましょう。パンを焼こうにも、きっと  
もう家庭科室は閉まってるわ」  
 ハルヒの口から疲れたなんて言葉が出るとは驚きだ。  
 たしかにこいつはそれだけのことをやったが。  
 それにしてもシラっとした口調だな。何事もなかったかのように……怪しい。  
「しっかし熱いわね、この部屋。みんな、先に帰ってて」  
 いや、熱いも何も倒れた朝比奈さん以外、全員が凍りついていたところだ。  
 だが解放の申し出は歓迎だ。そうさせてもらおう。そうだ、ハルヒ、おまえはどうするんだ?  
「ちょっと休憩してくわ。生地の様子を見てたいし。家に持って帰るかも。いいから行って」  
 様子を見るってなんだ。心配だ。ほんとに心配だ。  
 シラを切っているハルヒが怪しすぎる。何か企んでいるのか。家に持って帰るだと?  
 世界規模でヘンタイ的なことが起きたりしないだろうな。  
 まあ、ワザワザさっきの痴態を蒸し返すこともないんだが。本人だって話を流そうとしている。  
 もし今のこの流れに逆らったら、おそらく閉鎖空間の、それもドデカイやつの発生だ。  
 それでは誰も幸せにならない。特におれが。きっとおれが。  
 
 
 そういった訳で、いつものようにおれらしさを如何なく発揮させたおれは今校門前だ。  
 さっき朝比奈さんをタクシーに乗せた。機関の車だから大丈夫だろう。  
 古泉が、まだぎこちないが、ニヤケ面を回復させ始めた。長門の目にも生気が戻ってきた。  
「ハルヒのやつを部室に残していって大丈夫だったか?」  
「……観察中」  
「わかりません。何かあったらまた明日報告します」  
 まだ回復していなかったか。二人ともあまり喋りたくないらしい。長門ならいつもか。  
 しかし古泉にいたってはまた明日ときたもんだ。  
「これは失礼しました。でも、あなたも他人事ではありませんよ?」  
 どういうことだ?  
「パンが妊娠する、というのは非常に危険な着想です。かつての映画制作のことを思い出します」  
 たしかにそれはまずいな。この場合は酵母が、その、子種か?  
「わかりません。パン生地の擬人化ですが男女どちらとも採れるような発言をされていましたから」  
 パンの妊娠は局地的なものか? それとも世界一斉にか、おそろしいな。  
「どちらにしても、そうなった場合は、あなたに子種を供出していただきます」  
 なんですって?  
「涼宮さんに納得してもらうんです。あなたの子種でパンは妊娠しません。それは涼宮さんにも分か  
ります。そしてあなたの子種をパン生地に練り込む行為で、きっと涼宮さんは満足されるでしょう」  
 なにを言っている?  
「涼宮さんが納得して満足する、最も合理的な解決策です。それにはあなたの体液が必要です」  
 体液って言うな。だいたい、それでどうやってハルヒにおれのものだと分からせるんだ。  
「それはあなたがパン生地に、涼宮さんの目の前で───ボカッ  
 ひどすぎるっ! セクハラだ! 古泉のうんこたれっ! うわーんっ  
 おれは泣きながら家まで走って帰った。疲れてたしな。  
 まあそうなったらそうするだけのことだ。え? するのか?  
 思考停止。風呂に入って寝る。明日なんかこなければいいのに。  
 
 
 で、翌日だ。昼休みにハルヒから小じんまりとしたロールパンを渡された。家で焼いてきたのか?  
 かわいいハンカチに包んである。でもなぜかハルヒは、叱られた子犬のようにしおしおだ。  
「ごめんね、キョン。うまくできなかったの。一個しかできなかったけど。でも、食べて」  
 古泉から特に報告はないな。長門からもだ。何も起こらなかったのかな?  
 変な臭いはしない。見た目もごくまともだ。これはひょっとして、普通のパンか?  
「ねえ、おいしい?」  
 ハルヒの上目使い。こちらも昨日のようなおかしなところはない。  
 古泉め。不安に割いたおれの心のキャパシティを返せ。  
「もぐもぐ、ありがとう。うまい」  
「ねえ、またパン作りしてもいい?」  
 おまえは長門か。そんな目でおれに許可を求めるな。  
 しかしこいつ、健気にパンを焼いてきたんだよな。いっぱい失敗したんだろうな。  
 だめだ、いかん。不覚だ。ハルヒがカワイイ。  
「大人しくやるんならな。もう暴れるなよ」  
「次はもっとがんばるからっ!」  
 つい今大人しくしろと言ったところだぞ。でもまあいいか。パンもうまい。  
 それにだ、昨日みたいなのはごめんだが、その、一生懸命なハルヒってのは。その、なんだ。  
 
 ハルヒ、がんばれ  
 
 
 
 <エピローグ>  
 
 頭も一緒になでたかった。いいこいいこ。  
 でもそれは次の機会。待つ。  
   
 対象は自宅居室内。観察開始。  
 対象がパン生地に接触。対象の発声を確認。  
「やらしい、やらしいわ。はしたないっ。ふくらんでる」  
 ………  
 セイフティモードに移行。  
 エラーコードの蓄積が懸念される。リアルタイムでの観察は、危険。  
 これから述べるログは、セイフティモードから復帰した私が対象の観察ログを参照したもの。  
 
「たっべるんるん たべるんるんるん」  
 たべる? 加熱前の生地は消化に悪い。おなかを壊す。  
「キョンキョンキョン」  
 彼は自宅のはず。同時刻の位置を確認。彼は自宅だ。  
 ───エラーコード発生  
 今のは余計な動作。検索の必要はなかった。分かっていた。  
 本当は映像データだけで十分に状況を理解できていた。  
 何のためにセイフティモードへ移行していたのか。観察ログを有りのままに受け入れよう。  
 
 
 対象は両上腿を使い、生地を股間部に固定。  
「キョンーンンンーンン………」  
 その状態で床を転がりだした。  
 対象は対象の日課であるところの一人運動を開始している。  
 ………………  
 …………  
 終了した。  
 
 
 情報を総括する。  
 対象は、一人運動に使用した生地、対象の老廃物を練り込んだ生地でパンを焼き、  
 翌日にはそれを彼に摂食させるつもりらしい。  
 対象はおそらく、部室内で生地を構成中も、この想定──彼に摂食させる──  
 これに基づいた未来状況を予測、演算し続けていた。  
 結果、脳内に化学物質が氾濫。度々その制御に失敗していたようだ。  
 
 ………………  
 …………  
 不衛生。理解できない。衛生上の問題を確認。彼も私の保全対象。ダメ。  
 
 観察ログの参照を終了。観察ログを統合思念体へと送信。送信完了と共にマスターログを破棄。  
 私は私本来のメモリ領域に涼宮ハルヒの行動ログを保持していたくない。  
 マスターログのバックアップは、雑然とした有機体記憶媒体、脳に委ねる。  
 統合思念体から返信、観察ログに付随する参照ログの要求。送信───完了。  
 送信した参照ログには大量のエラーコードが含まれている。  
 今行ったばかりの、ログ廃棄の行為も、含まれている。  
 
 対象の入浴を確認。  
「キョンめ、明日を待ってなさい。ふふっふ。あっ、また興奮しち────  
 対象居室内へ移動。パン生地の情報連結を解除、再構築。  
 床と涼宮ハルヒの股間部、両方に接触していない部分だけを残す。  
 連結解除した質量相当分を別容器内に再構成。付着する不純物を活性化。活動作用を進行させる。  
 状況クリア。これで問題ない。すぐに臭いだす。  
 …………いっそ全て腐敗させてみようか?  
 ………ダメ。それは"いいこ"のすることではない。僅かでも食用に耐える部分は残っていた。  
 そして、私は観察者。  
 
 でもせめて、私のこの保全行動を、私は彼に伝えてみたい。  
 でも、私は観察者。それは、エラーアクション。  
 エラーが、蓄積されていく。  
 
 次の機会を───手遅れになる、その前に  
 
 
 
 
 <おしまい>  

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