思えばあの時からおかしかった。
数学の授業直前、俺は半分眠った脳を起動させながら鞄の中から教科書とノートを取り出そうと
したのだが、どこをまさぐっても出て来ない。最後にはひっくり返したがそれでも出て来ない。
宇宙人や未来人の陰謀……なわけがなく、単に俺が忘れただけだ。
「やれやれ」
俺が溜息をついたのは、教師にどやされる事だけが原因じゃない。後ろの席に座ってる奴が、鬼
の大将首でも取ったような態度で突っ込んで来るのが明白だったからだ。
「何よ、キョン。あんた教科書忘れたわけ?どっじねーっ、いつも授業中にぼやーっとしてるから
体が勉強拒否するようになっちゃったんじゃないの?」
言うまでもないが、こう言ったのはSOS団団長にして神様もどき、時間断層とやらの原因になり
宇宙人の観測対象になってる女、涼宮ハルヒだ。
「全くあんたって男は、妙に目端が利くかと思えば基本的なとこが抜けてるんだから。それもこれ
もSOS団の一員としての自覚が足りないからよ。まあ、どうしてもと言うんなら私の教科書見せて
あげないでも……」
俺がSOS団と教科書と何の関係があるんだと突っ込もうとした時に、ハルヒの言葉が止まった。
振り返るとまるでダチョウが空飛んだのを目撃したように、ポカンとした表情を作っている。
「……あたしも忘れたみたい」
これだけなら単なるお笑い種で終わる。だが、そうじゃなかった。
とにかくこの日のハルヒは、歩いていても何の障害物もないところでコケ、授業で当てられると
普段では考えられないような凡ミスをし、あげくの果てに体育のバレーボールでは相手のスパイク
が顔面を直撃して鼻血を出した。
「あーっ、もーっ、いらつくわねっ」
イライラしながら席につき、弁当箱を取り出すハルヒ。何だかんだ言いつつもう昼休みだ。
「なんか今日は変なのよね。あたしはこんなドジ担当キャラじゃないってのに」
確かにそうだ。俺も弁当箱をつつきながら、一人納得する。
「あーあ、って、あれ……?」
何だ、今度はどんなドジ踏んだんだよ?
「あたしがいつもドジ踏んでるような言い方はやめなさい!……箸がないのよ」
妙にひきつったような顔で答えるハルヒ。こんな風に不注意を重ねる経験がないのだろう。何とも
微妙な表情だ。
「やれやれ。なら、俺の箸使うか?」
「え!?」
弁当を食べ終わった俺が何気なくそう言うと、ハルヒは大きく目をかっ開いた。何だ、その怪獣
でも出現したようなリアクションは?
「って、あ、あんたの箸使うの?べ、別にいいけど、さ。それって……」
熱でもあるのか?
「うるさいわよ、バカ!あんたの使った箸だから、雑菌とかついてないか心配で、その……」
そういやそうか。無神経だったな。
「じゃあ、もう仕舞っておくか」
「あ」
何だよ、その目の前で百万円が消えたような顔は。
「うるさい、バカ!バカキョン!」
ハルヒは憤然と席を立ち……そしてコケた。
「なるほど。そんな事があったのですか」
いつものようにうさんくさいスマイルを浮かべて、俺の話に相槌を打つのは副団長古泉だ。椅子
に座って何やら小難しそうな、っていうか実際小難しい本を読んでるのは長門。
我が心のオアシス朝比奈さんと暴君ハルヒがいない事を除けば、いつも通りの文芸部部室。また
の名をSOS団アジトだ。
「ああ、あいつらしくないなとは思ってるんだが」
「しかし、涼宮さんにも好不調の波というのは存在すると思うのですけどね。閉鎖空間ともめっきり
ご無沙汰ですし、少なくとも僕の感知しうるところでは何の異常も起きていませんよ」
オセロを打ちながら言う古泉。相変わらず弱い。すでに殆ど黒で埋まってるぞ。
と、その時パタンという音と共に長門が本を閉じた。俺と古泉の視線がそちらに向く。こいつが
読んでる途中で本を閉じるというのは、この部活らしきものが終わる時以外滅多にない。
「……涼宮ハルヒは現在自分の能力を無意識に自分自身に作用させている」
「何だって?」
そりゃあいつが現実というのを変容させる珍妙な力を持ってるのは知ってるが、自分をドジっ子
にして何の意味があるんだ?しかもあんなドジっ子、少しも可愛くないぞ。
「原因はあなた」
「俺!?」
「ははぁ、なるほど」
うさんくささ二割増しの笑顔を見せる古泉。それはそれとして次の一手でお前の負けだ。
「昨日あなたはこの部室で何をしてましたか?」
何って特別に変わった事はしてないし、起きてない。ハルヒはネットサーフィンしてたし、長門は
本を読んでたし、俺は古泉相手にポーカーしてた。メイド姿の朝比奈さんはお茶を入れてた。
そういえば俺にお茶を運ぶ途中ですっ転んだ朝比奈さんが、お茶を自分で浴びてしまい、ブラが
メイド服から透けて見えたという嬉しい……否、けしからんハプニングがあったっけ。
「随分お茶をかぶった朝比奈さんを心配していたように見えましたが」
そりゃそうだろう。男と分類される奴で朝比奈さんの危難を見過ごせる奴などいるものか。
「それが原因」
長門はそう言うと読書に戻った。相変わらず無表情だが心なしか不機嫌になったような気がする。
「つまり涼宮さんは朝比奈さんに憧れたんですよ、ある意味で」
「何だそりゃ?」
ライオンがカモシカに憧れるというぐらいありえない。そりゃ朝比奈さんは可愛いし巨乳。少々
頼りなげなところもまたたまらない。だが、ハルヒはそういうものとは百八十度異なる性格だし、
その事を少しも後悔などしてないだろう。まさかあいつがドジしてあうあう言って、男共からの
熱い視線を浴びたいとでも思ってるってのか?
「そうじゃありませんよ。涼宮さんは朝比奈さんのようになりたいと思ってるわけじゃなく、その
境遇に少々羨望しているんです」
「同じ事だろ?」
「違いますよ。涼宮さんは男性諸氏に保護されたいと思っているわけではありません。本人に訊いて
も認めないでしょうし、意識すらしてないでしょうが、朝比奈さんのように常に『誰か』に気にかけ
護られるという境遇に憧れてるんですよ」
思わずひっぱたきたくなるようなにやにや笑いを浮かべる古泉。何だ、その顔は。
「……で、どうすりゃ元に戻るんだ?」
古泉から身を遠ざけた俺の問いに、本に目を落としたまま長門が答える。
「簡単。あなたが普段朝比奈みくるにしているように、彼女の不注意から生じたミスを大袈裟に気に
かけ、甘やかせばそれで解決」
言葉が心なしか尖ってて痛いのは、気のせいですか、長門さん?
「遅くなってすいませ〜ん」
心をとろかすような声と共に入って来たのは、勿論我が天使朝比奈さんだ。俺達の様子を見て
何か感じるところでもあったのか可愛く小首を傾げる。
「何かお話してたんですか?」
「いえいえ、特に何も」
本来なら朝比奈さんにも話しておくべきかもしれないが、ハルヒの奴があなたに憧れて馬鹿な
真似してるんですよ、とはどうも言いづらい。
「あーっ、全くどうなってんのよ」
と、朝比奈さんに続いてハルヒの奴が入って来た。言わなくて良かったぜ、会話の端でも覗かせ
ようもんなら鯛を見つけた野良猫みたいに飛びついて来ただろうしな。
「来る途中で一緒になったんですけど、涼宮さん、今日は大変だったみたいですよ?」
朝比奈さんをそう言って、心配そうな顔を作った。
「何か体でも悪いんでしょうか、涼宮さん」
「大丈夫よ、みくるちゃん!大袈裟に言うような事じゃないって」
ハルヒは相変わらず不機嫌そうだ。原因不明の乱調でケチのつきっぱなしなのだから無理もない。
けど、その大元はお前なんだぜ?とにかく次にこいつが何かしでかしたら即フォローしてやらなけれ
ばならないらしい、俺が。背後から長門と古泉の視線の無言の圧力を感じる。
「でもでも、涼宮さんがそんなに失敗するなんておかしいです。まるで私みたいです」
朝比奈さん、何もそんなに自虐的にならなくてもいいじゃないですか。太陽が存在するだけでいい
ように貴方もこの部室にいるだけで、俺はいつまでも拝みますよ、いや、ホントに。
「心配ないって。じゃ、みくるちゃん、早く着替えてね」
「はーい」
という事は俺と古泉は自動的に出て行かなければならないわけだ。席を立って、俺と古泉が外に
出て行こうとしたその時だった。
「わっ!」
「きゃあっ!」
二人がコケた。全く同時に。びたんと強く顔を打つハルヒ&朝比奈さん。鼻の頭が赤くなってる。
「大丈夫ですか、朝比奈さん!?」
俺は朝比奈さんに駆け寄り手を差し出した。朝比奈さんは涙目になりながら手に掴まって立ちあがる。
「ふええ〜っ、すいません、キョンくん」
いえいえ、それほどの事は何も。と、極上スマイルを浮かべた瞬間、何やら部室の空気がおかしい
事に気づく。古泉はいつもの笑みが強張ってるし、長門は長門で無表情ながらロープもつけずに
バンジーした奴を見るような目で俺を見てる。
俺はその空気の発生源に遅ればせながら気づき、恐る恐る目を向ける。
「ハ、ハルヒ、大丈夫……か?」
「……ええ、そうね。気遣ってくれてありがとう、みくるちゃんのついでに」
長門ばりの無表情でそう言うハルヒ。やべっ、すげー怖いよ!
「……今日はもう帰る。後は適当にやって」
そう言うとハルヒは立ち上がって埃を払い、さっさと出て行った。朝比奈さんはひたすらおろおろ
してる。
「ど、どうしましょう、私、また……」
「原因は彼」
俺かよ!?って、その通りか。どうするどうする。
「追って」
再び長門。そうするべきなのだろうか、やはり。
「早く」
電気ショックでも浴びたような勢いで、俺は部室を飛び出した。ハルヒの事もそうだが、長門の
目も耐え難かったからだ。
どこか悲しそうで。
「おい、待てよ、ハルヒ!」
「何よ」
廊下で追いつくとハルヒは振り向きもせずに答えた。勢いで追って来たが、下手な言い方をすれば
ハルヒがさらにへそを曲げそうだ。
「早くみくるちゃんのところに戻れば?心配なんでしょ。いっつもそうだもの」
「いや、そりゃそうだが」
俺は意を決して言葉を続けた。
「お前の事だって心配だぞ」
「次に何をしでかすかで?」
こいつ今日はとことんひねてやがるな。いや、実を言うとそれも当たってるんだが。
「別にいいのよ。あたしだってそのぐらいわかってるもの。キョンはいつもみくるちゃんの味方
だしね。映画の時だって……まあ、あれはあたしも悪かったかもしれないけど」
驚いた。こいつが自分の非を認めるとは。まあ、あの時はかなり頭に来たのは確かだが、もう
過ぎた事じゃないか。本気で朝比奈さんの事をただのおもちゃだなんて思ってないのはわかってる。
「だから同じ事しても、みくるちゃんなら心配であたしは後回しなのよね。あたしはあんたにいつも
迷惑かけてるから自業自得とか思ってさ」
「被害妄想入ってるぞ」
「さっきそうしたじゃない!」
ハルヒは振り向いて怒鳴った。一瞬泣いてるのかと思ったがそうじゃない。への字口になってる。
「ハルヒ」
俺は腹を据えてハルヒに話しかけた。
「俺が朝比奈さんとお前を秤にかけてるなんて思ってるなら大間違いだぞ。そりゃさっきは咄嗟
だったが、お前だけをわざと助けなかったとでもいうのか」
「違うわよ!そんな風になんて思ってない。でも……みくるちゃんを……みくるちゃんだけ……
みくるちゃんじゃなくて……」
自分でも何が言いたいのか解らなくなって来たのか、ハルヒの舌は混乱しだした。自分に気合
でも入れるかのように一歩踏み出す。
「とにかくあたしはっ」
またコケた。見事に。あまりの早さに俺も手を出す暇がない。
「おい、ハルヒ、大丈夫か!」
「うるさいっ……あたた」
憎まれ口を叩くも足首を押さえて蹲ったままだ。顔をしかめて目の端には涙。どうやら捻った
らしい。
「やれやれ」
俺は溜息をついてハルヒの前に腰を落とし、背を向けた。
「え?」
「乗れよ。保健室まで運んでやるから」
「い、いいわよ、別に……」
さっきまでの勢いはどうしたのか妙にしおらしい。俺が二度、三度と促すとようやくしぶしぶと
背に体を預けた。
「よっと」
「重いなんて言ったら死刑だからね」
「言わねーよ」
谷口あたりに途中で会ったら厄介かもしれないとちらりと思ったが、幸いそんな事もなく廊下で
は誰ともすれ違わなかった。
「ねえ、キョン」
ハルヒがぽつりと口を開いた。
「あたしさ、みくるちゃんは可愛いと思うけど、あんな風になりたいとは思わないの。だってさ、
なんか疲れそうだし」
意外な感想だ。羨ましいじゃないのか。
「始終あっちこっちから気を使われるのよ?あんたみたいな男の視線浴びながらさ」
「悪かったな。人を変質者みたいに言うなよ」
「あたしは今のあたし、それなりに気に入ってるしね。でもね……もし、もし、あたしがみくる
ちゃんみたいだったら……どう思う?」
「気持ち悪い」
「何ですって!?」
首を絞めるな、首をっ!
「げほげほっ……もうお前の事知っちまってるしな。朝比奈さんみたいなお前なんて想像つかないし、
何よりそれはお前じゃないだろう。別人だ」
本当にそう思う。傍若無人ではた迷惑なこいつが朝比奈さんみたいな性格だったらどんなに楽か
解らないが、それは涼宮ハルヒじゃない。何より……。
「お前が朝比奈さんみたいだったら、SOS団は出来てないし、多分今こうなってない」
「……そうよね」
それからハルヒは保健室につくまで何も言わなかった。校医に軽いテーピングをしてもらうと、
先程の言葉はどこへやら部室へUターン。そして、いつも通りのハルヒに戻った。
そしていつもの部活もどきが終わり、ハルヒは「キョン、あたし、まだ足が痛いの。下っ端と
して団長を途中まで護衛しなさい!」などと言って先に出て行った。やれやれ充分元気そうに見え
るけどな。俺は出て行く前に長門にさっきの礼を言う事にした。
「長門、さっきはありがとうな」
「そう。……一つ言わせて」
「何だよ?」
「あなたは鈍感」
その言葉は少し拗ねてるように俺には聞こえた。