『初恋はじめました』
『放課後誰も居なくなったら、 一年五組の教室に来て』
俺の下駄箱に入っていた、この悪戯とも告白ともつかないノートの切れ端に誘われて、放課後の教室の
前までやってきた。西向きの窓から差し込む夕陽で、扉の磨りガラスがオレンジ色に染まっていたのが印
象的だ。
特に感慨もなく扉を開けたが、そこに居た人物を見て俺はかなり意表をつかれた。
「朝倉か……」
「そ、意外でしょ」
学年トップクラスの美少女委員長、朝倉涼子。
「入ったら?」
くつくつと笑いながら教室の中をゆっくり歩き出す朝倉の顔は、その半身が夕陽に照らされて、いつも以
上に魅力的に見える。
「一体何の用だ?」
俺は扉を閉めて教室の中に入ると、いたってぶっきらぼうを装って尋ねた。朝倉は窓際に立ち、振り返っ
て一拍おくと、思い切ったように言葉を切り出す。
「用があるのは確かなんだけどね。……涼宮さんのこと、どう思ってる?」
なんだ? 一体何が言いたい?
「別にどう……って、台風みたいなヤツだ。引っ掻き回されて俺はそこそこ迷惑してるさ」
素直なところ、今の俺にはこれが実感だ。まあ、好きとも嫌いとも言えるほどの状況でもないしな。
「そう、……ちょっと安心したかな」
朝倉は雛鳥の羽ばたきほどの溜息をつくと、俺にとって全く想定外なことを言い出した。
「じゃあ長門さんは? ……どう思う?」
「……長門だと?」
何故こいつが長門のことを知っている? いや同じ学年だし、こいつの性格的にみてもそこそこ顔が広
そうだから、知っていても不思議じゃないのかもしれないが、そもそも何でここで長門の名前を出してくる
のかが理解できない。
二の句が継げないでいる俺を見て、朝倉は何とも言えないような微妙な笑みを浮かべ、
「実はね、長門さんとあたし、同じマンションに住んでるんだ。あたしも時々彼女の部屋にお邪魔すること
もあるのよ。それでね、偶然あなたが彼女と一緒に部屋に入っていくところを見ちゃったの」
そこまで言うと、急にジトッとした目付きに変わり、
「彼女、一人暮らしだし……ね」
何だその目は? 何で俺はやましい気分になってるんだ? 実際俺にはやましいところは何もないはず
だぞ。
「別に何もないさ。ただあいつの……何というかSF的な話に付き合ったって言うか……、それに俺は二、三
十分くらいで帰ったしな」
妙に言い訳がましいことを口走っているような気もするが、これも事実だ。仕方がない。
そこまで聞くと朝倉はスカートの裾を摘んでモジモジとしながら、言いにくそうに切り出してきた。
「じゃあ……さ、あたしのことは……どう思う?」
熱い視線にドキッとした。思わず朝倉の顔を凝視した。夕陽が眩しい。逆光になってよく見えない。
俺の勘違いでなければ、「あたしのこと好き?」と訊かれているようなニュアンスだ。
まさか朝倉が?
俺に?
いや、待て待て。これは何かの間違いだ。あの成績優秀で性格も良くて、俺も認める谷口的ランキングAA
プラスの優等生。その朝倉が俺なんかに告白するわけがない。まさかドッキリか?
「なあ朝倉、おまえ何が言いたい?」
俺はそう言って、とにかく落ち着いて状況を把握しようとするので精一杯だ。
朝倉は少し俯いて上目遣いに俺を見上げると、
「女の子がこうして告白してるのに、そんな変な顔しないでよ」
告白だと? やっぱり告白か。ホントに告白なのか?
「すまん。いや、しかし、どうして俺なんだ?」
「……ダメ?」
俺の慌てぶりをからかうように訊いてくる。
「……いや、ダメとかそういうのじゃなくてだな──」
言いかけたとき、朝倉の頭は既に俺の胸に埋められていた。
シャンプーのような香りが俺の鼻を擽る。
「お、おい朝倉! 何をしてる? 冗談はやめろって」
「お願い、もうあまり時間がないの」
俺の胸元でくぐもった声がそう言ったかと思うと、朝倉は顔を上げ、そっと目を閉じた。
正直言って俺はかなりビビッてる。こんなイイ女から突然告白され、しかも今のこの状況は間違いなく
キスしても良いと思われる状況だ。その前にだ、俺はこいつのことが好きなのか? いや決して恋愛感情
的なものは芽生えてない。しかし俺も一介の高校生男子だ。こんな状況を無碍に手放すのも勿体ないと
思うだろ?フツー。
心臓の鼓動がやたらと耳に付く。これは俺の鼓音かなのか?
顔に貼り付いていた朝倉の長い髪がサラリと落ちて、桜色の唇が艶めかしく俺の視界にクローズアップ
される。
そんな最中でも何故か心の片隅で、この状態を誰かに見られやしないかとビクビクしている俺が情けない。
ガラガラッ──
教室の扉が勢い良く開かれる音がした。
俺は飛び上がるほど驚いた。
朝倉はといえば、さして驚いた様子も見せず、待っていたとでも言いたげな表情で侵入者の方を冷静に
見やっている。俺は慌てて朝倉から身体を離し、その視線を追うように扉の方をへ振り返った。
小柄な身体に中途半端なボブ、眼鏡をかけた無表情な文学少女がそこに立ち尽くしていた。
「長門!?」
何故か俺はかなり焦った。血の気がひいたような感じさえした。浮気の現場に乗り込まれたらきっとこん
な気分になるんじゃないだろうか? いや待て、俺は別に浮気をしていたわけじゃない。まだ朝倉とは何も
していないし、そもそも長門とそういう関係になったつもりもない。
じゃあ俺は一体何でこんなに慌てているのだろう。
朝倉はといえば、いたって冷静な様子だ。まるでゲームをする相手でも待っていたかのように長門に向
かって微笑みながら、
「来ると思ったわ」
何のことだ? この展開を予測していたってことか? 全くさっきからワケの解らないことだらけだ。
長門は相変わらず無表情のままで近寄ってくる。俺たち二人の間に三歩の距離を残し、たっぷり十秒間
の沈黙の後、視線を朝倉に向けて、
「……とういうこと」
眼鏡に阻まれてハッキリとは見えないが、それでも無表情なその視線は明らかに怒りの意思表示をして
いるように感じる。
「どう、って、わたしは彼のことが好きだから告白したまでよ。もしかしてあなた……、邪魔する気?」
「違う」
「じゃあ、どういうつもりなのかしら?」
「我々の観察対象は主に涼宮ハルヒ。それに、あなたが彼への好意を持っているとは言い難い。したがっ
て彼に好意を告げる行動は無意味」
「無意味じゃないわ」
「無意味」
いつもの長門より幾分口調が強い。
「何故そんなことが言えるのかしら? もしかしたらこれによって新たな情報フレアを観測できるかもしれ
ないじゃない。それに、」
朝倉が両手を後ろに繋いで長門の顔を悪戯っぽく覗き込む。
「わたしが彼のことを好きだっていうのも、あながち嘘じゃないかもしれないわよ」
その言葉に反応したのか、長門の前髪がピクリと揺れた。
どうも朝倉は長門をからかっているようにも見える。もしかして俺は何かの出汁に使われたのか?
「それにね、何も行動しようとしないあなたに、わたしはもうイライラしちゃってるんだ。だからわたしが彼
を誘って、あなたの出方を見たかったのよね」
「理解できない行動」
「そうかしらぁ?」
「……何が言いたいの」
「そうねぇ……」
長門の鼻先から顔を離して人差し指を自分の唇に当て、少し考えるような素振りをしたかと思ったら、
「必要もないのにこんなのしてるから素直になれないのよ!」
朝倉は長門の眼鏡をヒョイと取りあげた。
取り返そうとする長門の手は空を切る。
「返して」
クスクスと笑いながら、長門の手の届かない高さに掲げて弄んでる。
「だーめ。背の高さでは私には勝てないわ」
朝倉は一体何をしたいんだ? なぜ長門をいじめて遊んでる?
「おい朝倉! なにをす、」
「あなたは黙っててね」
まるで幼稚園児に諭すような口調で俺の言葉を遮り、取りあげた眼鏡を後ろに隠すようにしながら長門
に向き直った。
「ほんとに強情なんだから。もう、いいかげん素直になったら?」
「何のこと?」
「あくまであなたがしらを切るって言うんだったら、ほんとに彼のこと奪っちゃおうかしら」
ふふふ、と屈託のない笑顔でじゃれるように俺の腕に抱きついてくる。おい、ふざけるなよ朝倉。
「長門さん、あなたはそれでいいのかしら?」
「…………」
「黙ってちゃわからないじゃない。それじゃ何のためにわざわざここに来たのかしら?」
「…………」
「じゃ、彼はわたしのもの」
「あなたは彼に対してそのような──」
「それなら長門さん、あなたはどうなのかしら?」
「…………」
よく解らんが、さっきから押し問答だ。
眼鏡の奥の無表情な瞳がやけに揺れてる。
朝倉は長門の両肩に手をかけて、一際大きな声で
「ハッキリ言っちゃいなさいよ。ほんとはキョン君のこと好きなんでしょ? わかってるくせに」
「…………す、……き」
長門の短い髪が大きく揺れた。はずみで言ってしまったようにも聞こえたが、その後下を向いたまま次の
言葉は出てこなかった。
まさか長門の口からこんな言葉を聞かされるとは夢にも思わなかった。
俺の方はどうだ? はた迷惑に引っ掻き回すハルヒは問題外としてもだ、部室のエンジェル朝比奈さん
は確かにむちゃくちゃ可愛らしいが、いざ自分の本心を振り返ってみると、実のところ一番気にかけている
のは長門のことかもしれん。
しかし、だからといって今すぐ長門の気持ちを受け止めてやれるかといえば、自信が無いのも確かだ。
それでも俺はこの文学少女の告白を受け止めたい気持ちで一杯だった。別に朝倉の「断ったら殺すわよ」
みたいな脅しめいた目付きにビビッたからと言うわけではない。
こんな状況下で少しばかりパニックに陥ってる俺を、朝倉が一転した笑顔でなだめるように、
「さっきも言ったけど、あたしにはもう時間が無いの。あなた達に会えるのも今日が最後なんだ」
「なんだって……、どういうことだ?」
何とか落ち着きを取り戻す努力をしながら答えた。
「明日にはカナダへ引っ越さなきゃならないの」
「そんな、随分急な話だな。他のみんなは知ってるのか?」
「ううん」
朝倉は首を横に振り、少し俯くと、
「別れが辛くなるから誰にも告げずに行きたかったんだけどね、長門さんがいつまでもグズグズしてるの
をどうしても見ていられなかったんだ。こういうことになると彼女、からっきし駄目だからさ。それで……、
せめてあたしが居る間にこの状況を打開してあげたかったの」
初めて会った頃から笑顔を絶やすことの無かった朝倉が、この時ばかりは気のせいか少しだけ涙ぐんで
きてるようにも見えた。
「あなたもあなたよ。女の子が一人暮らしの家に招いて、一世一代の告白をしたってのに、気付いてあげ
ないんだもん。それで彼女、一旦諦めかけてたのよ」
あの電波話が告白だったっていうのか。それに気付と言われても難しいものがあるぞ。
「まあ、長門さんの言い方が解りにくいっていうのが一番の原因なんだけどね。……でも、そのうちあなた
にも解るようになるわ」
長門は未だに立ち尽くして俯いたまま身動き一つしていなかった。完全停止状態だ。
「じゃあ、そろそろあたし行かなくちゃ。後は二人でごゆっくり」
そう言って朝倉は意味深なウィンクを一つ投げかけると、教室から立ち去った。最後に
「長門さんを大事にしてあげてね。じゃないと殺すから」
と残して。
朝倉が去った途端、長門は極度の緊張状態から解放された為か、持病の貧血でよろき、すかさず俺は
長門と床との衝突を阻止するために抱きかかえた。
虚ろな目で天井を見ながら長門は
「あ」
僅かに唇を開く。
「眼鏡……返してもらうのを忘れた」
今、俺の腕の中に、こんなに間近に長門の顔がある。初めて見る眼鏡をかけていない顔。遮る物の無い
その、見る者全てを飲み込んでしまうような漆黒の瞳に、正直俺は完全に心を奪われていた。
「……し、してない方が可愛いと思うぞ。俺には眼鏡属性無いし」
「眼鏡属性って何?」
「何でもない。それより──」
思わず妄言を吐いてしまった気恥ずかしさも含めて慌てて話題変える。
「いいヤツじゃないか朝倉って。おまえのこと本気で心配してくれてたんだな」
「強引、……お節介」
「朝倉のこと、怒ってるか?」
「…………」
長門は黙ったまま首を横に振った。
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あれから半年あまりが過ぎたある日、一足早いクリスマス・カードがカナダから届いた。差出人は朝倉だ。
カードを捲ると、そこには『MerryXmas』の他に一言だけ、こう添えてあった。
『愛つづいてますか』
──と。
おまえには感謝してるぜ。でもすまん朝倉。はっきり言って長門とは未だに微妙な関係のままだ。
ただこれだけは言っておく。あの頃よりも俺は数段、長門のことを解ってやれるようになったのは確かさ。
終わり。 <22-104>