慌ただしかった一年間も、過ぎてしまえば喉元何とやら。  
正確には、まだ年度を二ヶ月ほど残した二月の初旬の放課後のことである。  
 
「十二月十八日未明は二種類存在したんですよ」  
最近解説キャラとなりつつある古泉による、世界改変事件のイラスト付き解説は、  
「お待たせ!」  
どかん、とドアを蹴り飛ばす勢いで登場したハルヒにより終わりを迎え、  
「節分よ、節分」  
という怪鳥の一声の下、豆まき大会と相成った。  
 
「そおれっ! 福はー、うちーっ!」  
ハルヒによる、ベトナム空爆、あるいはツングースカ大爆発の再現が行われ、  
「え、ええと、ふ、福はーうちー。福はーうちー」  
朝比奈さんによる、しし座流星群、あるいは被災地への炊き出しの再現が行われ、  
「…………」  
長門による、ミレー『種まく人』、あるいはジャン・ジオノ『木を植えた男』の再現が行われた。  
俺と古泉に与えられた役割は補給部隊だ。  
今の時代、男が銃後となるのは適所適材なのかもしれない。  
 
ちなみに、なぜ掛け声が「福は内」だけ(無言の長門を除く)かと言うと  
「鬼を外に追いやろうなんて絶対不許可よ」  
という『泣いた赤鬼』ファンの団長様の厳命によるものだ。  
SOS団は人以外の人にも広く門戸を開放しているという。  
 
さて、ハルヒの言う『人以外の人』には、はたしてこいつも入っているのだろうか。  
 
「……なに?」  
俺の視線に気が付いたのか、豆をまく手を休め長門が訊いてきた。  
「いや、何でもない」  
長門は俺の回答に対する不満を示すように少しだけ顔を傾けると、豆まきを再開した。  
 
以前に比べ、長門は感情を表に出すようになったと思う。  
出会った頃のこいつは、インターフェイスと呼ぶのが相応しい無機質なものだった。  
それが今では、こうやってすっかり俺たちの中に溶け込んでいる。  
まるで、どこぞの赤鬼の様じゃないか。  
 
そこまで考え、ふと思った。  
長門が赤鬼だとして、…………青鬼はどこにいる?  
 
……もっとも実質はどうあれ、長門の姿は鬼って感じじゃないがな。  
首を軽く左右に振って馬鹿な考えを頭から振り落としたのだが、  
「どうしたのキョン、脱水機みたいな動きして?」  
その行動を、よりにもよってハルヒに見咎められた。  
下手にはぐらかすと、妙に勘の良いこいつのことだ、しつこく食い下がるだろう。  
 
「いや、大したことじゃない。ちょっと鬼ってどんなものかについて考えてた」  
「ふうん。……で、キョンは鬼って言うと、どんなのを思い浮かべるの?」  
 
そうだな、やはり真っ先に思い浮かべるビジュアルは、桃太郎などに出てくるアレだ。  
丑寅にあやかった二本の角にトラ柄パンツ、金棒抱えたモジャモジャ頭。  
あるいは羅生門の鬼や、酒呑童子、安達ヶ原の鬼婆……牛頭馬頭なんてのもいたな。  
「鬼教官や、鬼嫁なんてことも言うわね」  
ついでに鬼団長も付け加えといてくれ……とは言わない。  
こいつは鬼の目にすらある涙を持ってない、まさに血も涙もない暴君だからな。  
 
……ふむ、鬼の目にも、鬼の居ぬ間に、鬼の首を、鬼が出るか、鬼も十八……  
こうして並べてみると、昔の日本人にとって、鬼は身近な物だったのかもしれない。  
それが現代じゃ、お伽噺かマンガの世界にしか居場所がない絶滅危惧種だ。  
 
「なに言ってるの、とびっきり性質が悪いのが跋扈してるじゃない」  
なんだそりゃ? 毎朝、お前の家の鏡の中に現れるんじゃないだろうな。  
「……キョン、後で死刑だから、遺書を書いておきなさい」  
しまった、不覚っ! これが鬼の霍乱というやつか!  
「あんたのどこが鬼だって言うのよ。……って、話が逸れたわね」  
ん、ああ。それで何なんだ、その現代に生き残ってる鬼ってのは?  
「何って、分からない?」  
ハルヒは底冷えのする笑顔を浮かべると、じっくりと焦らしてから言った。  
 
「…………『殺人鬼』、とびっきりの鬼じゃない」  
 
ずきり、と脇腹が痛んだ。  
真っ先に浮かんだ映像は物々しいナイフだった。夕焼けの教室、あるいは明け方の校庭。  
もう半年以上前になる春の出来事。そして光る結晶となって消えたあいつ。  
まだ記憶に新しい年末年始。あり得ない過去と、あり得ない再会。  
そして、脇腹をナイフで突かれ、血だまりに沈んだ俺自身の姿。笑顔のままのあいつ。  
 
「朝倉? 何でそこであいつの名前が出るのよ」  
思わず呟いてしまった名前は、しっかりと捕捉されてしまった。  
慌てて取り繕うが、ハルヒの視線が痛い。  
 
「もしかしてキョン……」  
「な、何だよ」  
いつになく真剣な表情のハルヒ。まさか、何かに勘付いたんじゃないだろうな?  
 
「あんた朝倉に告白して、……フラレたとか?」  
……どっと力が抜けた。  
 
 
                『 朝倉涼子の記憶 』  
 
 
 
幸いアホみたいな誤解はすぐに解け、豆も少なくなったので部室に戻ることになった。  
次いで恵方を向いて五人の男女が黙って太巻きを食べるというシュールな儀式。  
外人に説明を求められたら、何と答えればよいのだろうか。  
残った豆も、朝比奈さんの入れてくれたお茶と共に平らげた。  
もうこれ以上は胃が受け付けないというところで、ようやく本日の活動はお開き。やれやれ。  
 
「どうしたのキョン?」  
昇降口で、取り出した外履きを再び下駄箱の中に仕舞った。  
「教室に忘れ物した。先に帰ってくれ」  
「マヌケね。言われなくても帰るわよ」  
 
ハルヒたちの背中を少しだけ見送って、教室へと向かった。  
この時期、すでに日は暮れていて外は真っ暗だ。  
夜の校舎は不気味だと言うが、いい加減この程度では動じない耐性が付いている。  
だから今、背中がピリピリと緊張しているのは別の理由だ。  
手の平に握りしめたノートの切れ端は、汗で文字が滲んでいるかもしれない。  
構いやしない。どうせ文面はしっかりと覚えている。  
人間はショッキングな体験ほど忘れられないというが、本当のことだったようだ。  
 
下駄箱に入っていたそれは、女子高生らしき丸みを帯びた文字で書かれている。  
文面も筆跡も、まるで機械がコピーしたように、いつかとまったく同じ物だった。  
 
『放課後誰もいなくなったら、一年五組の教室に来て』  
 
「わたしには有機生命体の行動原理がよく理解できないけど──」  
教室で待っていたのは予想通りの人物で、  
「あなたたちは、死ぬのがいやなんじゃないの?」  
そんな物騒なことを訊いてきた。答えるまでもない。死にたいわけあるか。  
「そう。じゃあ、あなたに足りないのは危機意識? それとも学習能力?」  
けっこうな言われ方だが、返す言葉もない。  
 
「何でお前がここにいるんだ。朝倉涼子」  
精一杯の虚勢を張って、身体だけはいつでも逃げられるように準備をして訊いた。  
とは言え当然、こいつにはすべて見透かされているのだろう。  
全部分かってますというような笑顔がその証拠だ。  
 
「今日の午後、涼宮ハルヒが朝倉涼子のことを思い出した──」  
まるで出来の悪い生徒に対する教師のような口調で語り出す。  
「その際のごく小規模な情報爆発を利用して、情報の再結合を行ったのがわたし」  
やはりハルヒか。  
大穴で情報なんたらの仕業かとも思ったが、それにしてはタイミングが良すぎるからな。  
 
「でも、涼宮ハルヒはわたしに会いたいとまでは思わなかったの。だから不安定」  
胸元に手を当て、じっと考えるような素振りをする。  
「今はむりやり結合を繋ぎ止めているけど、自然崩壊するのも時間の問題ね」  
意外なセリフだった。  
それって、お前がまた光る砂粒みたいになって消えるってことか?  
 
朝倉は笑ったまま頷く。そこに悲壮感など一欠片も見出せない。  
「残された時間は、そうね……計算が不十分で概算だけど、五分くらいかしら」  
……そして俺ごときの相手は五分もあればお釣りがくるってわけか。  
「勘違いしないで。あなたに危害は加えるつもりはないわ」  
それに、今のわたしは形を保つだけで精一杯で、そんな力は無い。  
信じていいのかどうかは分からないが、朝倉はそう付け加えた。  
 
「だから後ろのあなたも、そんな怖い顔をしないで」  
驚いて振り向くと、いつの間に来たのか、長門が朝倉を睨み付けるように立っていた。  
朝倉から視線を外さぬまま、俺に話し掛けてくる。  
「不用心。何で呼び出しに応じたの?」  
何でって、そりゃ……何でだ?  
確かに呼び出しなんて無視すればよかったんだが。  
 
長門は器用に瞳だけで呆れたことを表現すると、朝倉に詰問をした。  
「朝倉涼子の存在を感知した。だからここに来た。あなたの目的は何?」  
淡々と、しかし逃げることを許さない強い口調だった。  
だと言うのに、朝倉も笑顔を崩さない。  
 
「あなたがそんな顔をするようになるなんて驚きね。原因は何かしら?」  
そう言って、俺を見て楽しそうに笑う。  
長門の表情が一層険しくなった気がした。それを見て朝倉はまた楽しそうに笑う。  
「以前のあなたなら、有無を言わさずわたしを消したと思うけど、しないの?」  
「目的は何?」  
朝倉の軽口を遮るように、長門が質問を繰り返す。  
 
「目的ね。強いて言えば、ちょっとおしゃべりがしたかっただけ。女子高生だもの」  
冗談交じりで明らかにからかっている口調なのに、不思議と嫌な感じはしない。  
思えば、そういうやつだった。  
人目を引く容姿だったが、それ以上に話術や雰囲気が周りを惹き付ける。  
皆から好かれ、出しゃばるわけではないが自然と周りに人が集まるタイプだった。  
感情が豊かで、同じ存在でありながら、長門とはある意味で正反対の性格だ。  
 
「それは違うわ」  
朝倉が否定する。  
「長門さんは様々な感情を持っている。それはあなたが一番良く知ってるでしょう?」  
長門の眉が、ほんのわずか上がった。それはどういった感情の表れだろうか。  
 
「感情が無いのはわたしの方」  
またもや冗談を言う。これだけ笑うやつのどこに感情が無いというのか。  
朝倉は首を左右に振る。  
「コミュニケーション手段としての表情なんて、感情とは関係なく作れるわ」  
ほら、これが嬉しいとき、そしてこれが哀しいとき。  
そう言って、表情をすらすらと変える。  
傍から見ていると、まるでパントマイムのように滑稽だった。  
だから逆に、朝倉の言うことが冗談でも何でもないということが理解できた。  
 
「どれだけ計算しても、わたしには有機生命体の感情というのが理解できなかった」  
そう言って、わずかに眉を下げて寂しそうな顔をする。  
あんなことを聞いたばかりのせいだろうか、その表情もどこか作り物めいて見えた。  
 
「でもね、わたしにもようやく分かった感情があるの」  
胸の前で手を合わせ、再び笑顔に戻った。  
 
「その感情を理解させてくれたのは、あなた」  
そう言って笑う視線の先には、無表情で立つ長門の姿があった。  
ぴくり、と長門の右の眉が一ミリだけ上がる。  
その様子を見て朝倉の笑顔がより嬉しそうなものになる。  
そして気のせいだろうか、笑顔の裏に隠れて、少しだけ憂いを帯びた気がした。  
 
 
「長門さん……わたしね、あなたが『羨ましい』」  
 
 
長門の目が二割り増しに大きくなった。  
驚きか。長門がこれほど感情を露わに表現したのは初めてのことかもしれない。  
俺にとっては、それこそが驚きだった。  
 
「何が羨ましいのかは訊かないでね。わたしにも分からないから」  
くすくすと、からかうように笑う。  
「あなたのことを考えると、内部情報にエラーが飛び交うの。連結を繋ぎ止めるのが大変」  
大事な物を抱き締めるように、両手で胸の真ん中を押さえ付ける。  
 
「あなたの中にもコレがあるのね。ううん、わたしよりずっとずっとたくさん持ってるんでしょ?」  
長門に笑顔を向ける。  
そこに嫉妬の様な負の感情はまったく見られない。  
あるのは純粋な、憧れにも似た想い。  
そして自分自身の中にある大切な物が、心から愛おしいという満ち足りた想い。  
 
「ねぇ長門さん。感情って、こんな素敵なものだったのね」  
胸に当てた指の先、そして足下から、キラキラと乱反射する結晶へと溶け始めた。  
砂粒は更に細かい粒子となって、朝倉の周りで渦を巻いて広がっていく。  
朝倉がこうなるのを見るのはこれが三度目だ。  
しかし、何故だかこれが初めての別れのような気がして──、  
 
「こんな素敵なものをたくさん持っているだなんて、ほんと、あなたたちが羨ましいわ」  
 
思わず、待て、と呼び止めてしまった。  
砂になって還ってしまう朝倉を、繋ぎ止めたいと思った。  
 
朝倉は一瞬きょとんとした顔をすると、首を傾け、とびっきりの笑顔で言った。  
 
「うん、それ無理」  
 
それが最期の言葉。  
ぱっと弾けるように、半分ほど残した朝倉の身体が光の粒子となって飛び散った。  
伸ばした右手の先には、もう何も無い。  
 
一人で昇降口を出た。  
長門は事後処理をすると言って教室に残った。  
もしかしたら、それは口実で、本当は一人になりたかったのかもしれない。  
そんなことを思ってしまった。  
ガラにもなく、少しだけセンチになっているようだ。  
とまあ、アンニュい気持ちになっていると、  
 
「こらキョン! 遅いじゃないの!」  
ばこん、と何者かによって、後頭部を強打された。  
その一撃でセンチは第二宇宙速度を突破し、遙か宇宙空間まで飛んでいった。  
この通り魔的犯行の犯人が誰かは言うまでもないだろうが、告発のため言う。  
振り向いた先には寒さで鼻を少し赤くしたハルヒがいた。おそらく凶器はカバンか。  
 
「〜〜〜〜っ、痛ってぇな! 何しやがるんだ!」  
と言うか、なんでまだお前はここにいる。  
「うるさいわね、どうでもいいでしょ。それより待たせた罰で、今度何か奢りなさいよね」  
どういう理屈だ。横暴にも程があるぞ。  
「団長を寒い中で待たせたんだから、死刑じゃないだけでも、ありがたく思いなさい」  
近いうちに朝比奈さんたちと組んで、無血開城か名誉革命を起こす必要がありそうだ。  
 
そして何故か、おてんば姫とその従者よろしく、帰り道を共にすることになった。  
 
「そう言えば豆まきのとき、朝倉の名前が出たけど、」  
びくっ、と背筋が硬直する。  
まさかこいつ、教室まで来たんじゃないだろうな。あり得なくはない。  
「何してるのかしらね、あいつ。手紙のひとつくらい送ってくれたっていいのに」  
ほっと胸を撫で下ろす。  
いや、それは無理だろう。  
「なんでそんなことが言えるのよ、キョン。あんた……まさか何か知ってるの?」  
ぐいっとネクタイを引っ張られる。  
落ち着けハルヒ! 締まってる! 死ぬ、死ぬ!  
「団長に隠し事をしたら死刑に決まってるでしょ!」  
 
ようやく離してもらい、小学校の教室で飼っていた金魚のように酸素を求めた。  
そうやって時間を稼いで、どうにか上手い言い訳を考える。  
 
「手紙を寄越せって、朝倉がお前に送るわけがあるか」  
「だから何でよ」  
「何でってお前、どこの世界に嫌われている相手に手紙を送るやつがいるんだよ」  
不幸の手紙や詐欺の類は例外として、手紙というのは親しいやつに送るものだ。  
 
言い訳にしては、我ながら真っ当な意見を言ったと思う。  
ところが、  
 
「はぁ? 誰が誰を嫌ってるって言うのよ」  
 
……おいハルヒ。それはどういう冗談だ?  
「冗談? それはあんたでしょ。わたしは朝倉のこと嫌ってなんか無いわよ」  
待て待て。  
俺の記憶が正しければ、お前は朝倉が話し掛けても、いつも無視していたよな。  
「そうね、別に話す必要性は感じなかったから」  
それを嫌ってると言うんじゃないのか?  
「何でそう繋がるのよ。別に嫌ってたわけじゃないわ。それに彼女には興味もあったし」  
……まあ、突然の転校だもんな。  
お前が興味を持つのも分からないでもない。  
 
「そうじゃないわよ。あんた気が付かなかった? 朝倉の表情に」  
…………いや、何がだ?  
 
「朝倉って、いつも笑ってるくせに、いつも、つまらなさそうだったのよね」  
 
……驚いた。  
こいつは俺よりもずっと朝倉のことを見ていたんだな。  
 
「ねえキョン、朝倉の引っ越し先ってカナダだったわよね」  
どこか沈んだ表情から一転して、どこぞの不思議の世界の猫のような貌になる。  
つまり、何かろくでもないことを考えついた表情だ。  
 
「SOS団の春合宿は海外遠征にしましょう。朝倉に会いに行くのよ!」  
右手を掲げて宣言をしやがった。こりゃ本気で行きかねん。  
必死に思いとどまるように説得するが、ハルヒの態度は頑なだ。  
「なによキョン、朝倉に会いたくないの?」  
 
……やれやれ。こりゃ案外、朝倉との再会もそう遠くないかもしれない。  
大仰に上を見上げると、冬の寒空に、砂粒のような星がキラキラと輝いていた。  
 

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