コンピ研部室を乗っ取り、夏休みの間に行った工事でつなげて、小型のヤクザの事務所くらいに広くなったSOS団部室で、長門有希と俺は、SOS団活動方針秘密会議を開いていた。  
俺はいつもの団長席で、パソコンに向かいながら、深海にひっそりと住む、静かなチョウチンアンコウのごとく、黙々と本を読んでいる長門に声をかける。  
「なあ、長門、ハルヒがまたこの八月を繰り返しちまうってことはないか?」  
「ない」  
お気に入りの、ふかふかの椅子に深く腰掛けた長門有希は、読んでいる本から目を上げずに即答した。今日読んでいるのは、ハインラインのSF小説のようだ。有名な、猫の登場するやつである。  
「現在、涼宮ハルヒの精神状態は、非常に安定している……あとは、私たちが適切なイベントを用意すればよいだけ」  
そうだな。そう願いたいもんだ。  
俺は、再びパソコンとの不毛な睨めっこに戻った。早いところ、この『SOS団夏休み特別行事予定表』を仕上げてしまいたい。  
予定表のトップにあるのは、もちろん明日の市民プールだ。  
長門が、パラとページをめくった。  
……おそらく、そのとき既に、長門は二週間後について静かに考えていた、と今にして思う。  
 
………………  
 
市民プール、夏祭り、虫取りとアルバイト、天体観測、バッティングセンター、花火大会、肝試しなどなど。夏野菜のサラダのように、盛りだくさんのSOS団の行事が、その後二週間に渡って、滞りなく行われた。  
特筆すべきことはないな。  
最終日には、俺の家で皆でわいわいと宿題を終わらせ、ハルヒも十二分にこの夏を満喫したようだった。  
俺は、やれやれとベッドにもぐりこみ、次の瞬間には既に眠りの国に落下していた。  
こうして、SOS団の夏は終わった。  
長門のメッセージのように簡潔に、繰り返しもなく。  
だから、ここからは、後日談になるのだろう。  
 
 
 
やけに騒がしい蝉の声で、俺は眠りの世界から連れ戻された。  
やれやれ、九月に入って、少しは奴らも大人しくなるだろうと思っていたのにな。蝉取りでキャッチ・アンド・リリースしたのが間違いだったのかも知れない。  
世界の終わりに向かってわめきたてる蝉の鳴き声を聞きながら、俺はゆっくりと目を擦る。今日は、どうやら妹の目覚ましダイブはないみたいだ。ああ、今日から新学期か……。  
そのときになって、ようやく、俺の寝ぼけた脳みそは、自分を取り巻く異常に気が付いた。  
ここは俺の部屋じゃない。  
光が朝の光じゃない。  
俺が寝ているのがベッドじゃない。  
……そして、俺は一人で寝ていない。  
「……んん」  
横で寝ている少女が、身じろぎして寝返りをうつ。かかっていた薄い布団がずれて、その小ぶりな胸が露になった。  
まじまじとそのピンクの突起物――じゃなくて、そいつの安らかな寝顔を眺めて、俺はやがて、地面を突き抜けてブラジルまで届きそうなほど、深く深く溜息を吐き出した。  
OK――、落ち着こう、素数を数えろよ。  
――と、俺の携帯の着信音が、突然マンションの一室に鳴り響いた。  
俺は慌てて電話をとる。電話をかけてきたのは……やっぱり涼宮ハルヒだ。  
『今日、あんたヒマでしょ』  
おいおい、いつかどこかで聞いたぜ、このセリフ。  
『二時ジャストに駅前に全員集合だから。ちゃんと来なさいよ。……そうそう、持参物があったわ』  
ハルヒはマシンガンのような早口で、俺に持ってくるべきものを告げた。  
『それとあんたは自転車で来ること。それから充分なお金ね。おーばー♪』  
切れた。  
「……でんわ?」  
長門有希が、裸のまま、目を擦りながらゆっくりと起き上がった。  
 
 
『ループ・タイム番外編――エンドレス・エイト――』  
 
 
「遅いわよ、キョン、有希!」  
頭に、黄色いリボンつきのカチューシャをつけたハルヒが、満面の笑みを浮かべて、俺と長門に指を突きつけた。手にはビニールバッグをブンブンと振り回している。  
「やあ、お久しぶりです。長門さんとご一緒に、どこかへ旅行でも行かれていたのですか?」  
古泉一樹は、歯ブラシのCMに登場するような、真っ白い歯を見せて、実に爽やかに微笑んだ。その横には、手にバスケットを提げた朝比奈さんが、ニコニコと笑っている。  
ちょうど、一年前、終わらない八月に見た光景そのままだ……ただ一人を除いて。  
長門有希は、俺の自転車の荷台から、トンと降りると、すこし恥ずかしそうに、俺の腕に自分の腕を巻きつけた。  
「それじゃあ、全員そろったから出発!そうそう、自転車で行くわよ。みくるちゃん、古泉くんに乗せてもらいなさい。有希はキョンのに乗って」  
おい、ハルヒ、お前はどうするんだ?まさか、三人乗りとか……恐怖と苦痛の思い出がよみがえる。  
「あたしはタクシー拾っていくわよ。だから、キョン、お金頂戴」  
ハルヒはまったく悪びれることもなく手を出した。だったら団員みんなで乗って割り勘しろよ。そっちの方が安上がりだろ。  
「んー、そうねえ……じゃ、古泉くん、みくるちゃん、タクシー乗りましょ」  
「では、僕の知り合いに、たまたまタクシーの運転手が居ますので、そちらを……」  
古泉が携帯を取り出してタクシーを呼ぶ。そんなたまたま知り合いにタクシーの運転手がいたところで、勝手に呼びつけられるのか大いに疑問だ。まあ、おそらく、新川さんあたりが運転手だろうな。  
「待てよハルヒ、俺と長門はどうなるんだ?」  
あら、なに言ってるのかしらこのマヌケ、といった顔で、ハルヒはこっちを見た。  
「バカねえ、あたしだって、青春の一コマを邪魔するほど野暮じゃないわよ。有希、たっぷり甘えてきなさいねー」  
ハルヒは、まるで内気な妹を可愛がるように、俺の腕に抱きついている長門の頭を、目を細めてなでなでする。  
「ふぁ、タクシーきましたぁ……あ、新川さん」  
「お久しぶりでございます、涼宮さま、朝比奈さま」  
予想通り、新川さんが運転するタクシーが、ハルヒと古泉と朝比奈さんを連れ去り、俺と長門だけが呆然と後に残された。  
はあ、何がどうなっているんだか……。  
「……行くか?長門」  
コク、と長門は頷いて、また荷台に横座りになる。俺がペダルを踏み込むと、慌ててぎゅっと腰に手をまわし、背中におでこを乗せた。  
やれやれ、心躍るシチュエーションではあるのだけど。  
 
 
長門が世界改変したんだろうな、たぶん。  
俺はまた深い溜息を吐き出した。そう考えると、いろいろなことの辻褄があう。  
たとえば、ポニーテールじゃなく、黄色いカチューシャをつけたハルヒ。この世界で、長門有希が俺の恋人だとしたら、ポニーテールのハルヒ……つまり、俺の恋人としてのハルヒは邪魔だろう、やっぱり。  
ちょうど、いつかの世界改変で、ハルヒと古泉を別の学校に飛ばしてしまったように。  
長門有希の望む世界、か。  
俺はぼんやりと考える。  
宇宙人でも、ヒューマノイド型インターフェイスでもなく、普通の人間……少しだけ無口で内気な、文学少女の長門有希。  
俺の恋人で、自転車の二人乗りをすると、そっと背中に頭をつける長門。  
確かに、長門有希は幸せそうだったさ……だが……。  
 
長門、本当にこの世界が望みなのか?いままで居た世界の全てを捨てて、この世界にずっと居たいと思っているのか?  
 
「どうしました?なにかお悩みのようですが……」  
俺が顔を上げると、目の前には、古泉のいつもどおりのにやけた面があった。  
「……ああ、悩ましいよ」  
お前の所属している「機関」の連中は、どうしてああもネジが一本飛んでる変人ばかりなんだ?  
俺は、50メートルプールをあごでしゃくる。  
きわどい競泳水着で腰をくねらせ、気持ち悪いぐらいに筋肉質な新川さんがジャリを掻き分けつつ、バタフライで泳いでいた。  
……新川さん、お仕事はいいんですか?  
ざぱりとプールサイドに上がって、爽やかにゴーグルを外した新川さんに、俺は尋ねる。  
「タクシーの運転手とは世を忍ぶ仮の姿……本当は無職でございます」  
やれやれ。  
 
………………  
 
プールから帰ると、例によってファミレスでハルヒの夏休み計画表を見せられ、古泉が盆踊りの会場を探しておくと宣言した。やれやれ、一年前とまったく同じ流れだ。  
……ここまで同じだと、なんだか、長門の世界改変じゃなくて、ハルヒがループを創っちまったように思えてくるな。  
「じゃ、みんな、また明日ね。キョン、ちゃんと有希を送って行きなさいよ!!」  
涼宮ハルヒはそういいのこすと、ひらひら手を振って駆け出した。古泉と朝比奈さんも、俺と長門に手を振って帰っていく。  
後には、俺と長門と新川さんが残された。  
「……人の一生は、実に儚いものです」  
新川さん、その人生訓話は今度聞きますから、とりあえず帰ってください。  
なんとも寂しそうに新川さんが自前のタクシーで去り、ようやく俺と長門は二人になった。  
「帰るか?」  
長門有希が、江戸時代のからくり人形のように、コックリと頷いた。  
 
………………  
 
「ときどき、差し入れをしてくれて、一緒にご飯を食べた……それぐらい」  
朝倉涼子について何か知っていることはないか、と尋ねると、そう長門は答えた。さほど親しいって感じでもなさそうだ。  
さっきあったことは、とても長門には言えないな。  
俺のスペックの低い脳内に、さきほど聞いた朝倉涼子の声がエコーのように響く。  
 
『残念だけど、あなたを殺すわけにはいかないの』  
 
やれやれ……俺の本能的な危機回避能力は、退化の過程の中で、とっくに壊滅しているみたいだ。今にして思えば、少しぐらい勘が働いてもよさそうなもんだった。  
俺は軽く溜息をつく。  
こちらは、長門有希のマンションの一室である。エプロン姿の長門は、戦後の炊き出しのごとく大量に米を炊いて、ただ今、カレー作りの真っ最中だ。  
ちなみに、家に、夕食を食べてくるとの旨を伝える電話をしたところ、二週間は、長門の部屋に泊まることになっているはずだと、マジな声で母親に言われた。  
あんた、高校生の息子が、女の子の部屋に、二週間も泊まりこんで気にならんのか!?  
『キョンくーん、有希ちゃんと、まだけっこんしないのー?』  
妹の、五歳児のごとく無邪気な質問である。ああ、俺と長門の関係が、家族にはどう認知されているのか、おおよそ分かったよ。  
 
『長門さんは、あなた宛にメッセージを残したわ……本に挟まっているはずだから、探してみたら?』  
 
「長門……本、見せてもらってもいいか?」  
「いい」  
俺は、長く厳しい冬を待つ、まめなリスのごとく、長門が家に溜め込んである大量の本を、片っ端からめくっていった。  
ちなみに、この世界の長門の部屋には、ちゃんとしっかりした本棚がある。文芸部室で見た本が、長門らしくきれいに整頓されて収まっていた。  
やがて、一冊のSFの文庫本――ああ、これ、ハインラインの『夏への扉』か――の中ほどに、探していたものが見つかった。  
長門有希特有の、きっちりとした楷書体の字が書かれた、一枚の紙。俺がそれを見ようとしたとき――  
「ごはん」  
エプロンをつけた長門が、キッチンから顔を出した。俺は慌てて、ポケットに紙をしまう。  
あっちの世界の長門有希からのメッセージは、飯の後でゆっくり読むことにしよう。  
 
………………  
 
すこし、回想シーン。  
 
長門をマンションに送り届け、マンションの部屋で、長門が入れてくれた熱いお茶を、一服する。  
「……夕食の準備」  
長門がキッチンに向かう。その背中に、俺はちょっと家に電話してくるといって、長門の家から出た。  
もちろんただの口実だ。当然のことだが、家への電話ぐらい、別に長門の部屋でもできる。  
俺は、まっすぐ、そいつの家に向かった。同じマンションの、505号室。  
皆で市民プールに行ったときから、ずっと思っていた。  
――やっぱり、こいつがいないSOS団は、本物のSOS団に思えないんだ、俺には。  
長門は、確かにこいつをSOS団から消した。だが、この世界から完全に抹消してしまうとは、俺には絶対に思えない。  
だから……ここにいるはずだ。単なる、俺のクラスメイトとして。  
俺は、505号室のインターホンをぐっと押しこんだ。  
……今にして思えば、地雷原にはだしで突っ込むぐらいに軽率だった。  
「………」  
ガチャ……一瞬の間の後、ドアが開く。  
やれやれ、居たか。  
「あら、キョンくん。こんばんは」  
朝倉涼子がドアから笑顔を覗かせている。  
「わざわざ来てくれたの?……ありがと、キョンくん」  
朝倉は、にっこりと微笑む……ひょっとして、こいつは記憶を改竄されていないのか?  
「実は、お前にちょっと聞きたいことがあって――」  
「うん、それ、無理」  
―――!!  
いつか聞いたことがあるセリフに、一気に血の気が引いた。違う、やばい。こいつは、俺と一緒にこの夏を過ごした朝倉涼子じゃない。  
「あら、バレたかな?じゃあ、死んで」  
瞬間、朝倉が右手に隠し持ったサバイバル・ナイフが、一閃、俺に突き出された。  
 
………………  
 
「冗談よ」  
トン、俺の前にお茶を出しながら、朝倉は言った。まったくつまらないし笑えないぞ、正直言って。  
「残念だけど、あなたを殺すわけにはいかないの……私には、最優先コードで、あなたの生命活動の維持が命令されているから」  
朝倉はお茶をすすりながら、どこかの殺人狂の奇術師のように、器用に片手でくるくるとナイフを回した。  
「やっぱり、お前は統合思念体の作ったインターフェイスなのか?……というか、その自覚があるのか?」  
「もちろん」  
朝倉は、カタンと湯のみを置く。  
「いつか言ったでしょ。私は長門さんのバックアップだって。長門さんが何らかの機能停止をしたとき、必ず緊急プログラムとして私が再構築されるの。覚えてるでしょ?長門さんが前に世界改変した時のこと」  
忘れるかよ。脳に刻まれたというより、実際に体に、ぐりぐりとナイフで刻まれた記憶である。  
「で、今回は、長門さんが、あなたを助けるように、予め私に命令を下したの。前回の改変で、緊急プログラムの存在に気が付いたのね、きっと。まあ、優先順位から言えば、涼宮さんの観察が上だけど」  
なるほど……やれやれ。  
「それで、今回の騒ぎは、一体なんなんだ?記憶を維持しているお前なら分かっているはずだろ、教えてくれ」  
「うん、それ、無理」  
しゅっと朝倉が手首を返すと、ナイフがいつのまにか二本になった。左手に持ち変えるときにそれは三本に分裂し、朝倉は、涼やかな顔で、ナイフで、ポンポンと危険きわまりないジャグリングを始める。  
「それも命令で規制されているわ。個別のインターフェイスは同期しないから、そもそも長門さんの考えの全部が分かるわけでもないしね」  
長門、一体、俺に何を隠しているんだ……?また分からないことが増えちまった。  
「ねえ、キョンくん」  
ぱし、ぱし、ぱし、と落ちてくるナイフを受け止めた朝倉が、俺の顔を覗きこんだ。  
「あたしのこと、怖くないの?」  
「怖い」  
0.5秒で俺は即答した。サバイバル・ナイフを持ってるんだ、怖いに決まってんだろ、ファイナル・アンサー。  
「そうじゃなくて。今、あなたは、私もSOS団のメンバーにしているでしょ?なんでそんなことができるのかな?自分の命を狙った相手じゃない」  
「……さあな。有機生命体は、けっこう意味不明な行動ができるんだよ」  
朝倉涼子は、ふと、やけに真剣な表情になって、興味ある研究対象を見つけた科学者のように、まじまじと俺を見つめる。やがて、ふうと息を吐いた。  
「前に、有機生命体の、死の概念がよく分からないって言ったよね?」  
ああ。そういえば、いつかそんなこと言ってたな。  
「最近、なんとなく分かるの」  
「………」  
「あたしの中にメモリがあるのよ……あたしが、キョンくんや涼宮さんたちと一緒に、不思議なことを探したり、野球大会に出たり、孤島に合宿に行ったりね。そんなメモリと、認識にバイアスをかけるエラーが、一緒になってるの」  
記憶と感情……と、一般的な有機生命体なら呼ぶだろうな。  
「それが全部、消滅しちゃうこと……それが有機生命体にとっての、死なんじゃないかしら?そんな風に思うのよ……ときどき恐怖さえ感じたわ。お笑いぐさだけど」  
朝倉涼子はすっと立ち上がった。  
「そうそう、最後に……長門さんからのメッセージがあるわ。彼女の部屋にある本の一冊に挟まっているから、頑張って探してね」  
「……分かった」  
「長門さんに優しくしてあげて。彼女、そのためにこの世界にきたんでしょう?」  
ああ……たぶんな。  
俺はお茶の礼を言って、朝倉涼子の家を出た。  
ドアから出るとき、唐突に朝倉が、俺の腕をぐっと掴んだ。そのまま俺を引き寄せ、軽くキスをする。  
「……なんのつもりだ?」  
「有機生命体の、恋の概念が、まだよく分からないの……SOS団にいる私は、あなたに恋していたはずなんだけど」  
やっぱり今の私には分からないな、と言って、朝倉涼子はドアを閉めた。  
 
……回想終わり。  
 
……………  
 
長門特製のカレー(といっても、もちろんレトルトだが)を腹いっぱい食べ、長門が食器を洗っている間に、俺はあっちの世界の長門有希が送ってきたメッセージを取り出して読んだ。  
 
――どういうことだ……?  
 
きっちりとした長門の楷書体の文章。俺に安心しろと繰り返す内容。だが……  
さっきからいやないやな予感が、頭の中を時速120キロで掠めているのが、どうしても止まらない。  
エプロンをつけて、食器を洗っている長門有希の背中を眺める。心なしか、いつもより、その後姿は小さく見えた。  
 
『 何も心配しないで欲しい。あなたに危害はないから。あなたに全てを説明できないことを謝りたい。  
  今回は、緊急脱出プログラムは存在しない。でも、あなたは元の世界に戻ることができる。平気。  
できれば――そこにいる私に、やさしくしてあげて。その私は、何も知らないから。  
二週間で全て終わる                          長門有希     』  
 
食器を洗い終わった長門有希が、頬を染めながら、うつむきがちに、俺と一緒に風呂に入りたいと言った。なんだか、呆然としたまま、俺は頷く。  
長門は、恥ずかしそうに服を脱いだ。ごしごしと俺の背中を流すと、これまた恥ずかしそうに俺に体を洗わせて、一緒に、二人だと体が密着してしまう、やや窮屈な風呂につかった。  
 
『二週間で全て終わる』  
 
長門のメッセージの最後には、簡潔に、ただその一言だけが書かれていた。  
長門――何が終わるんだ?  
なぜ、自分の記憶を消した?  
長門、頼むから教えてほしい。何がお前に起きた?何がお前に起きようとしている?  
……統合思念体は、あと二週間で、お前を処分しようとしているのか?  
 
………………  
 
「……んっ……んっ……ああっ……」  
俺の上に跨った長門有希は、今にも泣き出しそうな、切ない喘ぎ声を上げた。細くて雪のように白い華奢な体が、布団に横たわった俺の上で、激しく腰を動かす。  
長門が達する瞬間、俺は長門の体を強く強く抱きしめていた。長門が、体を激しく震わせ、ひときわ大きく喘いだ。  
「……んああああっ!」  
長門は、ビクビクと、俺の腕の中で、快感に悶えている。  
やがて、俺が抱きしめているうちに、長門はすうすうと寝息を立てて、寝てしまった。そっと体を離し、裸の長門に布団をかける。  
ゴムを棄て、ぼんやりとした頭でシャワーを浴びる。もともと空っぽの頭の中が、さらに空っぽになってしまったみたいで、上手くものが考えられなかった。  
ふと、部屋にあるドアの、どれか一つが、夏に通じてると信じて、『夏への扉』を捜し求める猫のことが頭に浮かんだ。  
長門……お前は夏への扉を見つけ……俺を一緒に連れてきたのか?  
 
 
 
翌朝、完全に睡眠不足の俺をハンマーの一撃のように叩き起こしたのは、例によってハルヒからの呼び出しの電話だった。皆で浴衣を買いに行くと言う。  
ああ、そういえば、一年前も、浴衣を買いに行った。そして、夏祭りでは縁日を巡ったはずだ。  
低血圧なのか、寝ぼけ眼の長門を起こし、急いで服を着せ、また駅まで二人乗りの自転車で向かう。  
『長門さんに優しくしてあげて』  
……言われるまでもないさ、朝倉。  
決して認めたくはないが、もしかしたら、この二週間が長門有希と過ごす最期になるのかもしれないんだ。  
『彼女……そのためにこの世界に来たんでしょう?』  
そうだ、おそらく……俺とこうして過ごすために。  
ちょん、ちょんと、長門が俺の服を引っ張った。  
「……へんじゃ、ない?」  
幾何学模様の浴衣姿に着替えた長門有希は、頬を少し染めて俺をじっと見上げていた。  
「……よく似合ってるよ」  
「こーら、このアホキョン!有希にちゃんと可愛いって言ってやりなさい!!」  
パカーンとハルヒに頭を叩かれ、ようやく、俺はその言葉をごにょごにょと呟いた。もちろん、俺だって初めから可愛いと思っていたさ……ただ……ええい、ちょっと照れたんだよ、悪いか。  
クス、と長門有希が微笑む。  
 
………………  
 
盆踊りの会場では縁日がセットになっていて、俺は長門有希と腕を組んで縁日を回ることになった。  
「長門、なにか食べたいか?」  
「……わたあめ」  
よしよし。俺が綿アメを買って、長門有希に差し出すと、長門は、割り箸を手で受け取らずに、そのままそっと綿アメに口をつけた。  
「いやあ、甘いですねえ、実に……いえ、綿アメが、ですよ」  
古泉、あとでお前のケツにロケット花火をさしてやるよ。泣いて喜べ。  
ハルヒや朝比奈さんにも、目いっぱいからかわれ、ひやかされながら、俺は、長門有希が食べ終わるまで、じっと綿アメを持っていた。  
「……つぎは……りんごあめ」  
やれやれ。  
「ふふーん、ホント、甘いわねぇ、あら、りんごあめが、よ」  
「ふえ、甘いですぅ……、あっ、いえ、その、りんごあめのことです」  
「いやいや、実に甘いですねえ、ええ……おやおや、もちろん、りんごあめのことですよ?」  
お前ら……覚えてろよ。  
「つぎは、みずあめ……」  
「………」  
 
………………  
 
夜……ハルヒの「せっかくだから」の一言に、俺たちは、自宅で爆弾を作る危ない中学生のように、安物の花火を大量に買いこんだ。  
ハルヒが俺に向けてロケット花火を打ちまくり、逃げ惑う俺。あぶねーよ。あ、古泉の尻に刺さった。実にいい気味だ、ざまあみろ。  
一方、朝比奈さんと長門は、線香花火を楽しんでいる。目を丸くする朝比奈さんと、じっと火花を見つめる長門有希。  
線香花火が、はじめは威勢良くパチパチと火花を放ち、やがて、小さなオレンジの玉になって、ジジジ……と微かに震え、やがて、ポトリと地面におちる。  
「……落ちちゃった……」  
どこか、さびしげな、諦めたような口調で、ポソッと呟く長門に、なんだか、俺は腹の底の方が、すうっと冷たくなったような気がした。  
長門の姿が、まるで線香花火のように、儚いものに見えたから。  
『……人の一生は、夢のように儚いものです』  
……まさか、な。頭をぶんぶんと振って、新川さんの人生訓話を打ち払う。  
夏祭りの夜は、そうしてゆっくりと更けていった。  
 
 
 
……とまあ、だいたいがこんな調子で、夏休み最後の二週間は、あっという間に過ぎていった。  
虫取りでは、怖くて蝉が触れずに、長門は半べそをかいていたし、長門の住んでいるマンションの屋上で行った天体観測では、疲れていたのか、すぐに寝息を立てていた。  
アルバイトでは、なぜかバニーガールの衣装で客引き、ハルヒの一存で、バイト代は長門のウサギさん衣装に化けちまった。真っ白な有希ウサギが、絶対的に可愛いからすべて許そう。  
昼間はSOS団の活動で長門有希と一緒だった。  
夜には長門と一緒に飯を食べた。ただし、途中から基本的に料理担当は俺に代わったがな。カレーだけ食っていると、肌がミカンみたいに黄色くなりそうだ。  
夜は二人で抱き合って眠る。そんな繰り返しがずっと続いていた。  
……だが、こんな日々がいつまでも続くはずがない。  
終わりは、刻一刻と迫っていた。  
 
 
 
八月三十一日。  
全国の小中学生が宿題に追われる夏休み最後の一日だ。ちなみに、昨晩、肝試しを終えたハルヒが、「明日は予備日ね」と宣言していたので、SOS団の活動はない。宿題なんてものをする気もさらさらない。  
ひょっとしたら、俺と、「この世界の長門有希」の過ごす、最後の一日になるかもしれないからな。  
「長門」  
俺は、あいかわらず裸で寝ていた長門に声をかける。  
「……天気もいいし、どこか出かけないか?どこがいい?どこに行きたい?」  
長門は、マージャンの勝負どころで何を切るか悩むように、しばらく、切ったら血が出そうなほど真剣に考え込んでいたが、やがて、きっぱりと言った。  
「図書館」  
……そう言うと思ってたよ、実のところ。  
 
………………  
 
長門と自転車で二人乗りしながら、市立図書館に向かう。  
「長門……お前に言っておきたいことがあるんだ」  
「なに?」  
「この二週間、お前と一緒に居られて楽しかった。本当に楽しかったんだ……きっと、絶対に忘れることができない夏になると思う……長門、お前のことが――」  
ガタッ  
「おっと」  
ちょっとした道路の段差で、自転車がガタンと揺れた。長門は、慌ててぎゅっと俺の体に回した腕に力を込める。  
「…………」  
なんだか、タイミングを外しちまって、言いにくくなったな。貝のように黙り込む俺に、後ろから抱きついている長門有希が、そっと呟いた。  
「あなたが……だいすき」  
やれやれ、ひよっている間に、先に言われちまった。  
「……着いたよ」  
俺は自転車を止めた。  
 
………………  
 
ソファーに座って、長門のメッセージが入っていた、ハインラインの小説を読む俺。さすがにちょっと時代がかっていてアナクロだが……嫌いじゃないな、こういう話も。  
長門有希は、俺の隣で、そっと俺の肩に頭を乗せて、これまた古いSFを読んでいる。金色の目で、色の浅黒い火星人の出てくるお話。もっとも、それを読んでいる宇宙人の肌は、雪のように真っ白だが。  
「今読んでいるのは、どんな話なんだ?」  
「火星に一人取り残された男が……死んだ妻と子供たちにそっくりの自動人形を作る話……」  
「…………」  
長門が、真剣な表情で読んでいるその話の最後は、果たしてハッピーエンドなのだろうか?  
それとも……。  
そんなことを考えているうちに、ふと頭に浮かんできた  
火星に、たったひとりだけ、ぽつんと残された、長門有希の寂しそうな姿。  
どこにもつながっていない電話を取り上げて、誰も出るはずがないと分かっていながら、ダイヤルをゆっくりと回す長門。  
ひとりで、暖炉の前に置いた椅子に腰掛けて、なんどもなんども読んだ本を、また読み返しながら、決して聞こえるはずのないノックの音に、じっと耳を澄ます。  
こつん、と音がして、あわててドアを開けると、風に飛ばされた小石がひとつ、ドアを叩いた音だった……。  
長門は、それでも、しばらくの間あたりを丹念に見回し、居るはずのない来訪者を探す。お茶の用意さえできている。あとは、客が来るだけなのに。  
やがて、長門有希は諦める。そっと静かにドアを閉め、また集中できない読書に戻るだろう。今度は、ぴったりとドアに鍵をかけて……。  
やめろ。  
そんなのは寂しすぎる。  
俺はゆっくりと頭を振って、想像を打ち消した。  
……だが、北高に入学して、俺たちに出会うまでは、きっと長門はそんな生活をしていたんだろう。  
たった一人で、静かに本を読みながら。  
 
………………  
 
「帰ろうか」  
「うん」  
自転車を漕ぎ出すと、空は見事な夕焼けだった。雲が夕日に照らし出されて、燃えるように真っ赤に染まっている。  
「……きれい」  
俺も息をのんだ。こんなに見事な夕焼けを見たのは、一体いつ以来だろう?  
長門のマンションに向かう間に、それは赤紫を経て、だんだん濃紺に近づいていく。そして、雲の隙間に、最初の星の光が瞬く。  
この夏の、最後の日の光だった。ゆっくりとそれは建物の群れに遮られ、やがて、ふっと消えた。  
 
………………  
 
久々に、長門にお願いして、特性のカレーを振舞ってもらった。腕まくりして作った、長門有希渾身の――レトルトカレーである、もちろん。  
当然茹でるだけのレトルトであるため、長門の気合は、カレーにではなく、空中で三回転半して、キャベツの千切りとご飯の圧倒的な量となって着地した。十点満点、二人で食えるかよ、この量。  
ふと、あることを思いついた。思い付きを長門に話すと、長門もコックリと頷いて賛同してくれた。  
「もしもし……ああ、もう、夕飯食ったか?……よかったら、長門の作ったカレー食べないか?……あと、ナイフは持ってくんな」  
『もう。持っていかないわよ、そんなの!』  
十分後、にこにこと笑う朝倉涼子が現れた。手に持っているのは、大型のサバイバルナイフ……ではない。よかった。  
「食後にたべようと思って……夏だもの、ね」  
実に見事な、大玉のスイカだ。  
三人の夕食……考えて見れば、変なメンバーだ。宇宙人が二人と、地球人がひとり……暗殺者とそのターゲットとターゲットの命を守った少女が、仲良くテーブルを囲んでカレーを食べている。  
だが、こんな非日常的な日常こそ、俺が求めたものじゃないか?……かつて、長門有希の作ったあの世界で、Enterキーを押し込んだ時に。  
だから、自信を持っていえるのさ……本当に、本当に楽しい夕食だった。  
 
 
 
夕食が済んでスイカを食べると、朝倉涼子は帰っていった。  
玄関先まで送った俺に、朝倉涼子は、それまでの笑顔から、ふと真顔になる。  
「今日の終わりに、何が起こるか分からないけど……ちゃんと、最後まで、長門さんの側にいてあげてね」  
分かってるさ。  
「じゃあね、キョンくん……また会えるといいわね」  
ああ、さよなら、朝倉涼子。  
 
…………………  
 
一緒に風呂を浴びた俺と長門は、ぼんやりと二人で麦茶を飲んでいたが、やがて、長門が、顔を赤くして、立ち上がった。  
「……いこ」  
ああ。俺は、長門の頭をクシャクシャと撫でる。長門有希はくすぐったそうに俯いている。  
「よっと」  
軽い長門を、お姫様だっこで抱えあげた。  
「……な、なに……?」  
とっさのことに、長門はわたわたと慌てていたが、やがて、俺の首に手をまわすと、恥ずかしそうにキスをした。  
 
…………………  
 
布団の中では、普段の控えめさと代わって、長門有希は非常に積極的だった。  
服を脱いで、俺の上に跨ると、艶かしく腰をくねらせ始める。白い胸板に膨らむ二つの控えめな胸が、それでも生き物のように揺れ動いた。  
「……ふっ……はっ……あ……」  
長門はしだいに汗を浮かべ、ぎゅっと俺の胸に自分の胸を合わせた。薄い胸を俺に押し付けながら、俺の唇を求め、その間中、腰を動かすスピードを少し上げる。  
「ちゅっ……ちゅく……んふ……」  
ぷは、と唇を離し、泣き出しそうなほどに潤んだ瞳で、長門有希はじっと俺を見つめた。  
「……いまだけ、キョン、と呼んでもいい?」  
ああ。好きなように呼んでくれ、長門。  
「……私のことは、有希、と呼んで欲しい……」  
「有希。俺のことは、お前の好きな呼び方で呼べばいいさ」  
長門は、クリスマスプレゼントを貰った子供のように、嬉しそうにニッコリと笑うと、コクリと頷いた。  
さらに、くねらせる長門の腰の動きが速くなり、比重の重い液体が、ゆっくりと俺の下半身に溜まっていくような感覚がしてくる。  
「キョン……あなたのが、深く……深く私の中に入っている……とても……」  
大丈夫か……痛くないか、有希?  
「……平気……とても……幸せ」  
俺の腰に溜まっていく液体は、次第に溢れ、こぼれそうになってくる。どうも、そろそろガマンがきかなくなりそうだな。発射の感覚が、引き伸ばされた向こうに待っている。  
「そろそろ……いきそうだ」  
「……いい……きて……あくっ……あううっ……あはあっ!……」  
「有希、大好きだ……」  
「うん……私も……あん、ああ、ああっ……!!」  
長門がもらす切ない声に、俺の我慢の堤防は完全に決壊した。  
「あんっ!……んああああああっ!!」  
長門がひときわ大きな声で、泣き出すような喘ぎ声を漏らし、同時に頂点に達した俺は、長門の中に自分を解き放った。ビクビクと長門の腰が震え、きつく俺の息子を締め上げる。  
「……はぁ……はぁ……」  
ポト、と俺の胸に倒れこんだ長門有希は、本当に嬉しそうな……満足した表情を浮かべて、俺にやさしく微笑んだ。  
「……あなたのことが……だいすき――」  
 
 
――その瞬間だった。  
「……長門?」  
突然、長門は、まるで、パチンとスイッチを切られた、電気仕掛けの人形のように、そのまま動かなくなった。  
「おい、長門……」  
まさか、まさか、まさか……。  
「おい、嘘だろ、長門、長門!!」  
汗が吹き出る。俺はガクガクと長門を揺さぶった。だが、長門は、突然に魂の消えてしまった人形のように、身じろぎ一つしなかった。  
「長門!!!」  
俺の携帯電話が鳴る。一体誰からだ――?  
『朝倉涼子』の表示が目に飛び込む。  
「おい、朝倉、長門が動かなくなって――助けてくれ!!頼む!!」  
『……うん、それ、無理。私の情報連結が解除され始めたわ……聞こえにくい?手がなくなるから、机に携帯を置いて話しているの』  
……情報連結の解除……朝倉が?……嘘だろ?  
『このまま消えちゃうとしたら、すこし怖いな……また復元されると思うんだけど、ちょっと自信ないの。けっこう独断専行しちゃったからなあ。  
もし、長門さんが起きたら、カレー、ありがとうって伝えてね……なんとなく、最期にキョンくんの声が聞きたくなったから』  
「おい、待てよ、朝倉!!」  
『そのまま喋ってて……口が消えても、耳は残ってると思うから……ねえ、これが死なの?』  
朝倉の疑問に答えられない。  
「いいか、絶対お前は消させたりしない。ハルヒをたきつけてでも何でも、統合思念体を脅してでも、お前は死なせないから――」  
『ありがとう……そうだ。ねえ、キョンくん、私、恋って何か分かった気が――』  
朝倉の言葉は、そこでぷっつりと途切れた。  
「朝倉!!おい、聞こえるか、朝倉っ!!」  
それっきり、携帯電話からは、何も聞こえてこない。俺は片手に死んだ携帯をもち、片手に動かない長門を抱えていた。  
 
 
 
長門有希は動かない。  
 
 
 
……どれだけ経っただろう?ずいぶん時間が経ったように思ったが、あるいは、たいした時間じゃなかったかもしれない。  
ガラ、と後ろで、ふすまが開く音がした。あんなところにふすまがあったか?  
「心配しなくていい。現在、凍結した記憶の解凍プログラムを実行しているだけ。じき、目覚める」  
……一体、何がどうなっている?  
俺の後ろに立っているのは、紛れもなく、長門有希だった。セーラー服を着て、俺を見下ろしている。  
長門は……世界改変をして、自分を二人創ったのか?  
「違う」  
じっと立ったまま、長門有希は答える。  
「そこにいる私は、そもそも世界改変をしていない」  
 
…………………  
 
セーラー服姿の長門有希の説明に、俺は唖然とした。なんだ、そりゃあ。  
「なんで、長門はそんなめんどくさいことをした?」  
「あなたの恋人として、この夏を過ごしたかった……と推測される。同期は行っていないが、間違いなく、そう」  
なぜ、そう思う?  
セーラー服を着た長門有希は、なんだかひどく無機質に感じる、無表情な目で、俺の目を見つめた。  
「私が、今そう感じているから」  
……そうか。俺は、くしゃっと長門有希のくせっけを撫でた。長門はくすぐったそうに目を閉じる。  
プールに一滴だけインクをたらしたように、淡い、感情のような何かが、長門の顔にさっと広がり、消えた。  
「未来でまた会おうな……すこし待たせるかも知れないけれど」  
「いい。時間は問題ではない……そろそろ完了する」  
布団に寝ている、裸の長門が、ゆっくりと目を開く。  
俺は、長門の顔を覗きこんだ。  
長門有希はわずかに微笑んで、俺を見た。ああ、二週間ぶりに会う長門だ……間違いない。  
「帰るか」  
「……うん」  
長門有希は、こっくりと頷いた。  
 
………………  
 
簡単に言えば、俺と長門は二人で時間遡行した、ということになる。それも、ハルヒがループを起こした、一年前の八月に。  
『ここは、3124回目のシークエンス』  
もちろん、その時間平面には、その時間の俺と長門がいる。この時間の長門は二週間待機、俺はその隣で、冷凍マグロのごとく、時間凍結されていたってわけだ。  
情報操作されて、あることさえ気がつかなかった、開かずの部屋の中に寝ていた、ピクリとも動かない自分の姿を見たときは、ぞっとしたよ、まったく。  
『なんだってそんなややこしいことを……』  
俺はセーラー服の長門有希に聞いた。  
『世界改変は、未来に非常に大きな影響を及ぼす。彼女は、それを回避しようとした』  
それはなんとなくだが分かる気がする。前に長門が世界改変したとき、俺と朝比奈さん(大)がしゃかりきになって働く羽目になった。  
『この二週間の間ならば、なにが起ころうとも、必ず、涼宮ハルヒの能力によってリセットされる。未来に影響はない。  
彼女は、あなたと時間遡行し、周囲の人間の記憶に情報操作を行ったのち、自らも擬似記憶を作成、自分の本来の記憶は二週間の期限を設定して凍結した――』  
ややこしすぎるぞ。  
『あなたの、元の時間平面には、ちゃんと消えずに朝倉涼子も居る。安心して』  
……よかった。なによりだ……。  
 
 
 
元の時間平面に戻ってきた俺と長門は、長門のマンションを出て、俺の家に向かって歩いていた。九月一日には、俺は自分のベッドで目覚めるはずだからな。  
長門有希は、送っていくと言い張り、二人で、しんと静まり返った街をゆっくりと歩く。  
「いくつか、聞いていいか?」  
「……なに?」  
街灯に照らされた長門の白い横顔が、こっちを向く。  
「なんで、自分の記憶を消して、偽の記憶を入れるとか、手間のかかることをした?お前、それに合わせて、SOS団メンバーの記憶もいじっただろ」  
さも当然のことのように、俺と長門は恋人になっていたからな。その上、長門は宇宙人でなく、普通の人間だった。  
「一つは――私が、この私のままでは、あなたは恋人の振りをしてくれなかったと思うから。でも、あなたの記憶だけは、改変したくなかった」  
もう一つは?  
「宇宙人ではなく、普通の人間として、あなたと恋がしてみたかった――ただ、それだけ」  
「…………」  
俺は長門のくせっ毛を、くしゃくしゃと撫でた。  
やれやれ、言いたいことは、なかなか言いたいときに出てこないものだな、まったくもっていまいましい。  
「……それで、楽しかったか?」  
「……うん」  
長門有希は、顔を赤くして頷いた。  
「二週間、ずっとあなたと一緒だった。あなたと一緒にご飯を食べた。あなたと沢山肌を触れ合わせた。沢山あなたの声を聞いた。沢山あなたとキスをした。沢山あなたとSEXした」  
まあ、確かに。だが、それをそのまんま言うのは勘弁してくれ、こっちも赤面する。  
「とても――素敵な、体験だった」  
そう言って微笑んでいた長門は、ふと、心配そうな顔になって俺の顔を覗き込む。  
「あなたは……怒っていない?急に、過去に連れて行かれて……」  
「……いいや」  
まあ、ちょっとはびっくりしたさ。いきなり何が起きたやら分からなかったからな。だが――  
「俺も楽しかった。もう一度行きたいぐらいだ……ありがとな、長門」  
長門は、照れたように、俺の腕をぎゅっと掴んで、立ち止まった。  
「目を、閉じて……」  
俺は、少し戸惑いながらも、長門に言われた通りに目を閉じた。つまりまあ、キス――をされると思ったのさ。  
 
はっきり言おう、一生の不覚だった。  
 
なんだかいやな感覚が、すうっと体を通り抜ける。吐き気がこみ上げるこの感覚は……おいおい、時間酔い?  
まさか、まさか、まさか……。  
目を開けると、ああ、昼間だ。長門のマンションの天井が見える。俺は布団に寝ていた。  
「……ん……」  
隣で寝返りをうつ、裸の長門有希。  
ちくしょう、長門め、また過去につれてきやがった。  
がら、とふすまを開けて、セーラー服の長門有希が入ってきた。  
「……これは、3125回目のシークエンス。彼女が再び記憶を取り戻すのは、今から二週間後……頑張って」  
それだけ淡々と言うと、長門は無慈悲にもパタンとふすまの向こうに消えた。  
「おい、たのむ、長門、待ってくれ――」  
と俺が叫ぶのも空しく、けたたましく俺の携帯が鳴りはじめる。  
『今日、あんたヒマでしょ』  
俺に構わず、早口で喋りまくるハルヒ。俺はなんとか途中でハルヒの早口を遮って、もうひとり追加で、市民プールに連れて行く、とハルヒに言った。  
『え、でも、カナダに引越ししたんでしょ?』  
夏休みの旅行かなんかで、二週間ばかし、こっちに戻っているんだ。そういうことにしておいてくれ。  
電話を切る。  
……俺は溜息をついた。  
やれやれ、まだまだ俺の夏休みは続きそうだ。長門有希と一緒の、長い長い休暇――。  
終わらない八月――エンドレス・エイトが。  
……ちなみに、その後、何回、俺が長門によってこの八月に連れてこられたかは、ご想像にお任せする。  
さて、朝倉涼子に電話するか。二時に、プールの道具をもって駅前に集合だ、と。まさかとは思うが、ナイフは持ってこないようにと、一応、釘を刺しておこう。  
 
 
 
やがて、長門有希が、布団から裸の体をゆっくりと起こして、ごしごしと目をこする。  
 
「……でんわ?」  
 
 
 
おしまい  
 

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