「まいったわね……全然前が見えないわ」  
ハルヒが本心を吐露するように呟く。確かに、眼前は完全に真っ白い雪しか見えない、いわゆるホワイトアウトの状況だ。  
「おかしいですね……距離感から言って、とっくに麓についているはずですが」  
最後尾から聞こえる、いつになく真剣な古泉の声。そう、その通り、着いているはずなんだよ、本来なら。  
だが、着かないのはなぜか?  
……俺がそう望んでいるからだ。  
「うう、冷たい……」  
後ろで、スキーウェアに身を包んだ朝倉涼子が、寒さに身をすくめている。なんだか、自分のことを言われたような気がして、俺はギクリとする。もちろん、気温のことを言っているんだろうが――  
……俺の身勝手な都合で、団員たちを遭難に巻き込んでいる俺は、SOS団の団長として、ドーピングを行った陸上選手のように、完全に失格だろうな。  
それも、分かってやっているんだから、無意識にトラブルを引き寄せたハルヒとは違う。  
やれやれ。  
自分で自分に呆れてみても、なんの解決の足しにはならないのは分かっているけれども、俺は溜息をついた。  
いまさらだが、どうしてこうなったのか……。  
回想してみると、こんな具合になる。  
 
 
『ループ・タイム番外編――雪山症候群――』  
 
 
時を遡ること、クリスマス・イブ。  
朝倉涼子の退院祝いも兼ねた、クリスマス鍋パーティーが、SOS団の部室にて盛大に行われた。  
朝倉が起きた時には、病室でワンワン泣いていたハルヒも、すっかり立ち直って元気を取り戻し、朝倉にトナカイのコスプレなんかをさせて喜んでいる。  
短い角つきのカチューシャに、もこもこしているが、妙に露出度の高い着ぐるみ。赤い首輪と、朝倉慮湖が身を捩るたびに、チリチリと音をたてて鳴るベル……ハルヒの命令で、サンタ衣装の朝比奈さんに馬乗りにされ、朝倉涼子は顔を真っ赤にしている。  
「ハルヒ、サンタが乗っているのはトナカイじゃなくて、ソリなんだが」  
「いいのよ、細かいことはっ!!ほら、みくるちゃんっ!もっと涼子の体に絡んで!うん、いい写真が撮れそうだわっ!」  
「やめてー!涼宮さん。ちょ、ちょっと、それ無理!恥ずかしいよ……やっ、胸なんか揉んじゃ駄目よ朝比奈さん!」  
トナカイ朝倉は、顔をゆでた蟹のように真っ赤にしている。既にアルコールが入っていて、こちらもまた顔が赤い朝比奈さんが、とろーんとした目つきで、積極的に朝倉の体をまさぐっているためだ。  
「朝倉さぁん……ここですかぁ?……ふみぃ……うふふ、柔らかいですぅ」  
セクハラ親父か。  
やれやれ。早く食べないと鍋の中身がなくなるぜ。さっきから長門がすごい勢いでブラックホールに直結させた胃袋へと詰め込んでいるからな。  
「いやー、すごい食欲さっ!有希にゃん、きっとおっぱいもおっきくなるよっ!運がよければっ!!そうだ、実は提案があるにょろ!!古泉くんっ、ちょろーんと説明してくれるかいっ」  
鍋をつついていたSOS団顧問、鶴屋さんが、おっぱいの一言で、ピタリと箸を止めた長門を、絶対零度の空気に突き落としつつ、晴れ晴れと言った。古泉がにこやかに説明を始める。  
長門が、硬直して箸を止めたまま、俺を見つめた。  
――どうする?  
強い光をたたえた長門の視線が、そう言っていた。  
……お前の言いたいことは分かるぜ、長門、だが――。  
「ありがとうございます、鶴屋さん。SOS団みんなと、ひょっとしたら俺の妹も連れて、お世話になりますよ」  
俺は無理やり笑顔を作った。  
 
 
家の行事に参加しなくてはならない鶴屋さんが先に帰ったが、SOS団のパーティーはまだまだ続く。  
長門自慢の、「サイレンス」社製のゲーム大会が行われ、長門が遺憾なくその実力を発揮して圧勝する。……製作者に勝てるかよ。  
そして、妙にハルヒが体を擦り付けてきたエロエロツイスターゲーム。バニーガールは少し酔っていらっしゃるようで、俺の首筋に息を吹きかけてきたり、俺の体と触れ合う位置に足を伸ばしたりと、エンジン全開だ。はっきり言って、非常に色っぽい。  
やがて夜も更け、古泉に寝袋を押し付けて更衣室に突っ込み、俺とハルヒがコンピ研の部屋、朝倉と長門と朝比奈さんが文芸部室で、それぞれ寝る。ハルヒもさすがに疲れたようで、ベッドに入ると、すぐに寝てくれた。  
……よかった、ここで始めたら、音が周りに筒抜けだからな。何の音かはあえて言うまい。  
横では、ハルヒがスースーと寝息をたてている。  
俺は眠らずに、天井をじっと見つめていた。  
……これで正しかったのだろうか?  
もともと、俺の考える通りになるとは限らないし、そもそも、考えどおりになったとして、俺に何ができる?  
意味もなく、団員たちに迷惑をかけることにならないか?  
そんなことを考えていると、なんだか、無性に喉が渇いた。  
俺はむっくりと起き上がって、横のハルヒを起こさないように、そっと部屋を出た。夏の工事の結果、文芸部室にはキッチンが取り付けられている。  
ソファーベッドで眠る朝倉涼子。朝比奈さんは、寝袋に入れられて、床に転がされていた。  
俺は、冷蔵庫から氷を取り出し、コップにぶちこむ。ミネラルウォーターを注いでいると、お気に入りの椅子に深々と腰掛けていた長門有希が、小さな声で呟いた。  
「……眠れない?」  
ああ。  
「少し、喉が渇いた……長門も、水欲しいか?」  
長門は、コク、と頷いた。  
俺は自分と同じのを作って、長門に差し出す。  
「夢に、見るみたい……」  
長門?  
「世界改変についての、朝倉涼子の記憶は、完全に消去した……だが、消去しきれないノイズが残る……」  
そうか……。  
「…………」  
長門は、コクリと水を飲んだ。じっと、俺の目をその黒曜石のような瞳で見つめる。  
「……本当に、行く?」  
ああ、と俺は頷いた。  
「同じ場所に行けば、おそらく高確率で同じ現象が起きる。だが、行き先の変更や、合宿そのものの中止によって、回避できる確率は高い――でも、あなたの目的は、あの状況そのものの再現……違う?」  
違わないさ、その通りだ、長門。  
「ただ、お前の体のことが心配だから……嫌なら言ってくれ。すぐに中止する」  
「……事前に相応の準備をすれば、問題はないと思われる。平気」  
悪い、俺のわがままだってことは分かっている。だが一度だけでいい。これが最後のチャンスになる、そう思うんだ。  
「いい――あなたのそういう頑固さは、嫌いではないから」  
微かに頬を赤く染めて、長門は口を噤んだ。  
「……ありがとな、長門」  
「そう」  
そう言いながら立ち上がると、長門有希は、すうすうと寝息をたてる朝倉涼子に、そっと布団をかけ直した。  
……なんだか、長門が母親みたいだ。ひょっとしたら、朝倉に対しては、そんな気持ちなのかもしれない。  
「おやすみ、長門」  
じっと朝倉に目を注ぐ長門有希は、黙って首だけコクンと動かした。  
俺はコンピ研部室に戻り、ハルヒの隣に潜り込む。  
「……んー、だめ……キョン……そんなの入らないよ……すごい……」  
やれやれ、ハルヒ、ニヤニヤしながら寝言を言うなよ。  
更衣室で寝袋に包まった古泉の寝言も、小さく聞こえてくる。  
「すごいですよ……期待以上の大きさです……どうですか?僕のは……」  
あいつは永眠させたほうがいいんじゃないかね?  
 
 
さて、妹つきで鶴屋さんの別荘に向かい、例のごとく、年齢不詳のメイド森さんと、執事オブ執事、新川さんの出迎えを受けた。どうもよろしく頼みます。  
「いい感じの建物ねっ!そら、妹ちゃん、おねえちゃんと探検よ!」  
「はるにゃん、待ってー!」  
行きの間中、妹に、「おねえちゃん」と呼ばせようと苦心していたハルヒと、その涙ぐましい努力にまったく気が付かないで「はるにゃん」と呼び続ける妹が、別荘に向かって吹っ飛んでいった。  
残された俺と古泉がえっちらおっちらと荷物を運ぶ。  
そこで、ふと気がついた。  
「古泉、今回の推理ショーでは、雄の三毛ネコとかは必要ないのか?」  
古泉は首を傾げる。  
「はて、ネコですか……?いえ、ちゃんとこちらでトリックは用意してありますが、ネコは必要ありませんね……。それも、一年前の冬合宿での出来事ですか?」  
そうだ。  
ああ、シャミセン。お前はどこにいるのか?あの渋い声が、もう一度ぐらい聞きたかったな。  
「そう言って貰えるとは、非常に光栄だ……ネコ冥利に尽きるといったところか」  
シャミセン!?お、お前どこから喋っている?どこにいるんだ!?  
と、車の後ろから、長門有希が現れた。  
「……今のは、腹話術」  
長門、紛らわしいことするな!  
 
 
「みくるちゃんのとこがいい」  
――と、「妹ちゃん、将来のおねえちゃんと一緒に寝たくない?」と申し出たハルヒを、すっかり落ち込ませて、妹は朝比奈さんに抱きついて、その豊かな胸に顔を埋めた。  
「じゃあ、長門と朝倉が一緒でいいか?朝比奈さん、妹をお願いします」  
「はぁい」  
朝比奈さんは、その、地上に舞い降りた天使のような笑顔で、にこやかに頷く。  
「はて、僕は一人ですが……」  
そうだな、新川さんにでも、いろいろ人生についての大切なことを教えてもらえ。ダンボールに隠れての偵察任務のこなし方とか、格闘術とか。  
「うう……グスン……」  
泣くなよ、ハルヒ。俺はハルヒの、ポニーテールの頭を撫でる。お前は俺が相手してやるさ。  
「ありがと、キョン……今夜は、いっぱいいっぱいしようね……」  
いや、そういう意味では……って、顔が赤いぞ。何を期待してる!?  
 
 
妹のための、ハルヒによるスキー講習が始まった。  
「足を揃えて思いっきりストックをガーンてやるとビューンて行くから、そのままドワーって気合で行って、止まる時も気合で止まるの、オリャーっ。これで何とかなるわ」  
なるわけねーだろ!  
いろいろと説明してはいるが、一言に要約すれば「気合で滑る」という言葉に尽きる、大日本帝国陸軍的突撃型ハルヒ理論によって、妹はスキーの腕前が急激に上達――する筈もなく、練習しても相変わらずこけてばっかりだ。  
「これじゃ、上級コースは無理ねえ」  
ハルヒが溜息をつく。  
「そいじゃ、妹ちゃんはあたしと一緒にゆきだるまくんでもつくるっさ!!」  
スキーウェアに身を包んだ鶴屋さんが、実に明るくさばさばと宣言した。「ゆきだるまくんっ!つくるー!!」と、うってかわって妹がはしゃぐ。  
「ゆきだるまですかぁ……あたしもできればそっちのほうがいいなぁ……」  
鶴屋さんの天才的な指導のおかげで、スキーが上達してとても楽しそうに滑っていたものの、少し疲れたのか、朝比奈さんもおずおずと手を上げた。  
「こらこら、みくるちゃんっ――」  
狼のようにハルヒが朝比奈さんを捕まえようとして手を伸ばしたが、その手を長門が止めた。  
「む、どうしたの、有希?」  
長門は軽く首を振る。  
「……せっかくの休暇。楽しみ方は人それぞれ」  
……なんか、どこかで聞いたセリフだな。長門が俺にチラリと視線を送る。  
分かってる、ありがとな長門。  
「じゃあ、朝比奈さん、鶴屋さん、妹をお願いしてもいいですか?」  
「はい、キョンくん」  
ハルヒの手から逃れて、ほっとしたような表情で、朝比奈さんがにこにこと頷く。  
「めがっさ任せるにょろ!!キョンくんたちは、たっぷり滑ってくるっさ!!」  
ええ、鶴屋さん、たっぷりと遭難してきますよ。  
「そうだ、有希、さっきから背負っている荷物、なに?」  
長門のチョコンと背負っているリュックサックに、ハルヒが不思議そうな目を向ける。  
「……飲み物」  
その通り、これが長門の考えた「事前の準備」ってやつだ。  
 
 
さて、何回目のスキー大回転競争をやっていたときだろうか。  
先頭の長門が、唐突に、ふと立ち止まり、それにつられてハルヒも止まった。遅れて滑っていた俺と朝倉、古泉も追いつく。そのとき――  
俺の予測どおり、なんの予兆もなく、はたまた警告もなく。  
既にそこには吹雪があった。  
 
…………………  
 
……という訳で、俺たちは、ただいま絶賛遭難中というわけだ。  
「いくらなんでもおかしいわ……もうとっくに麓についてもいい頃よ」  
カマクラ作ってビバークする?とハルヒがこっちに顔を向ける。俺がうんと言ったら、今にも鎌倉幕府だって作り上げそうな勢いだ。  
「ハルヒ、ちょっと待て……長門」  
俺は雪を掻き分けて長門のとなりに並んだ。俺の方を見た長門は、コクンと頷く。  
「……そろそろ」  
そう、長門が言い終わるか、言い終わらないかのうちに――  
「あっ!キョン、あれ見て!!」  
ハルヒが指差す先に、微かに窓から漏れる光のようなものが見えた。  
「きっと建物だわ!あそこで休ましてもらいましょ!」  
ハルヒが人間除雪車となって、雪を掻き分け突進していく。一同、それに従った。その先には――  
見るも巨大な洋館が、雪の向こうにそびえ立っていた。  
 
 
ガスガスと扉を叩いて、中の人を呼ぼうとするハルヒを止め、さっさと俺は扉を開けた。見るからに怪しい洋館が、俺たちを招き入れるようにぽっかりと口を開く。  
「いいの?キョンくん、勝手に入って……」  
その美貌を、わずかに曇らせた朝倉涼子が、心配そうに聞く。  
大丈夫だ。緊急事態なんだから、この館の持ち主も大目に見てくれる。  
「いいか、これから館をうろついて、使えるもんは何でも使わせてもらおう。緊急事態だ、仕方ないさ。何がでるかわからんから、なるべくみんな一緒に行動しよう」  
俺の言葉に、一同が頷く。だが、不安な表情を見せているのは、朝倉とハルヒだけ。古泉は、既にこれが一年前にも起きたことだと了解したようだ。長門は、ごくごくとマムシドリンクを飲んでいる。  
もう一度言おう。  
長門は、ごくごくとマムシドリンクを飲んでいる。  
……長門のリュックに大量に入っているそれを、行きの電車で見せられたときには、さすがに俺も、何か見てはいけないものを見てしまったようで、唖然とした。  
「構成情報をドリンク剤の形式でストック。情報統合思念体と通信が切断されても、定期的にこれを補給すれば、動作不良におちいることはない」  
なんとまあ……形式がマムシドリンクなのは、なにか意味があるのか?  
「……精力がつく」  
いや、でも――はっ、まさか!  
俺が何かに気が付いたのを見て、長門有希はすっかり顔が赤くなった。  
「一年前は、動作不良による発熱で、行為まで至らなかった……今度は、堪能したい」  
堪能て、お前。  
「これ以上言わせないで……えっち」  
……とまあ、以上のような、興奮気味の長門との会話があったわけで、現に今、長門は精力全開となって、目をぎらぎらと輝かせている。  
やれやれ、今回は、体調不良の心配はなさそうだな。これで一つ、不安材料がなくなった。  
 
 
一階と二階の探検の結果、通信設備も、人の姿も、影も形も見当たらないことを確認した。まあ、分かっていたことだがな。  
最初は、不安そうな表情を見せていたハルヒも、次第に状況を楽しみだしたようだ。いろいろとうろついたあげく、皆で食堂に落ち着き、ハルヒが紅茶をすすりながら、楽しげに言う。  
「ねえ、まるでマリー・セレスト号みたいよね」  
「そうだな」  
冷蔵庫には、一冬ここで暮らせそうなぐらい――は大げさだが、食材がふんだんにある。ちょっとばかし俺たちが拝借しても、正体不明の館の持ち主は、さほど怒らないだろうさ。  
……というか、俺たちのために用意されたものだしな。  
「お腹すいたわ、なんか作ってくるわね……涼子、行きましょ!」  
ハルヒは笑顔で立ち上がると、朝倉の手をとった。  
「いいのかな……」  
心配そうな瞳を、朝倉涼子が俺に向ける。俺はインチキ臭さ100パーセントの作り笑顔を向け、朝倉を安心させるように頷いた。  
結果としては、余計に困惑した顔をされただけだったが。  
ハルヒと朝倉が厨房に消えると、古泉が早速といった様子で切り出してきた。  
「……この空間は、長門さんとあなたが相談して用意されたものでしょうか?あなた方の落ち着いた態度といい、妙に館に詳しい様子といい、そのように考えると、非常に納得できるのですが……」  
俺は紅茶を啜った。  
「違う。基本的には俺も長門もノー・タッチだ。一年前と同じ状況だから落ち着いていられるのさ。脱出の方法も、長門が用意してくれるしな」  
長門が、またマムシドリンクを飲みながら頷く。  
「任せて」  
ふむ、と頷いた古泉は、芝居がかった仕草で、指を一本立てた。  
「では、もう一つ質問です……いくら脱出の方法が分かっているとしても、あなたの性格を考えれば、わざわざ吹雪の中を通ってまで、この館に来るようなことはしないはずです。誰よりも、SOS団員たちのことを気遣っているあなたのことですから……。  
この館にやってきた目的はなんですか?」  
古泉は俺をじっと見つめた。いつもと違って真剣な顔になっている。  
やれやれ。  
俺は溜息をついた。  
「……いつかは言わなきゃならんだろうしな。ただ、ここで聞いたことは、秘密にしてくれるか?」  
古泉がきっぱりと頷くのを確認して、俺は事情を話し始めた……。  
 
 
「……というわけだ。すまん、俺の我がままにつき合わせちまった、ってことになるな」  
古泉は、ふう、と息をついた。  
「なるほど……分かりました」  
そう言うと、古泉はニコリと笑った。  
「そういうことなら、文句は言えませんね……あなたのそういう真摯な姿勢には、心底賞賛をおくりますよ」  
心にもないことを言わないでいい。駄目な団長だってことは自覚しているつもりだよ。  
「あなたの、たった一度の我がままですよ……誰だって許してくれます。そうそう……せいぜい、僕も楽しませてもらいますね。長門さん、それ、僕にも一本下さいますか?」  
まてまて……それはまずいぞ、変なことを考えるんじゃない、古泉!長門も、マムシドリンクをそいつに渡すな!!  
「お待たせー!!」  
ちょうどその時、ハルヒと朝倉が、サンドイッチを山積みした大皿を抱えて入ってきた。  
 
ハルヒと朝倉の特製であり、相変わらず極上の美味さのサンドイッチを頬張る。うん、美味い。すごい美味い。実に美味い。  
長門有希は、一年前の小食が嘘だったかのように、がつがつと料理を平らげている。マムシドリンクの飲みすぎで、目がぎらぎらしていて、正直、怖い。  
「長門さん、大丈夫かしら……なんか、目つきが怖い。それに、なんであんなにたくさんマムシドリンクを飲んでるの?」  
朝倉涼子が、俺にこそこそと囁いた。  
「安心しろ……ちょっとばかし、期待するところがあるんだろう。ひょっとしたら、今夜、お前の部屋に長門が忍び込むかも知れない」  
「え、ええ?ちょ、ちょっと、キョンくん!あ、あたしは……」  
朝倉がゆでたタコよりも真っ赤になって、長門の方を、ちらりと見る。  
ちょうど、長門は、もう一本、マムシドリンクを一気飲みしているところだった。  
 
 
「じゃ、キョン、入りましょ!」  
……ハルヒの一喝で、風呂の順番は、一番手古泉、二番に長門と朝倉、三番目に俺とハルヒが入ることに相成った。  
さぞかし朝倉は怯えていたのだろう。長門がマムシドリンクを飲み干すたびに、ビクッと震えて、顔を赤くしていた。何事もなく風呂から上がってきたときには、実にほっとした表情を見せていたな。  
横では、ハルヒが鼻歌交じりに服を脱いでいる。ああ、それ、文化祭でやった曲だな。  
「そ、あの兄弟、喧嘩ばっかで解散しないかしら?」  
ハルヒはするすると服を脱いで、素っ裸になった。そのまま、俺のズボンに手を伸ばす。自分で脱ぐって。  
「ほらほら、ちゃっちゃと脱ぐ脱ぐ!先に入っちゃうわよ?」  
やれやれ。分かった分かった。  
 
 
たっぷりと泡立てた石鹸を塗りたくり、ハルヒの白い背中を流していると、ハルヒが訊いてきた。  
「キョン、涼子となんかあったの?」  
「……どうして、そう思う?」  
特に意識したわけではないが、朝倉が退院してから、俺はさほど朝倉涼子と話をしているとも思えんのだが。  
俺が訊き返すと、ハルヒは、少しまじめな声になった。  
「涼子ね……あの娘、いつもあんたのことを見てるの。でも、なんだか、キョンの向こうに居るもう一人のキョンを見てるように見えるときがあるのよ」  
微妙に違うな。朝倉が見ているのは、きっと俺の向こうにいる、もう一人の自分で、今、ハルヒがいる位置にいる朝倉の姿だ――とは、ハルヒには言わなかった。  
ざっとお湯をかけてハルヒの背中の泡を流し、黙ってハルヒの言葉を聞く。  
「でね、最近――涼子が入院してから、キョンが涼子を見るとき、そんな目をしているときがあるの。なんだか、死んだ恋人の、双子の妹を見ているみたいな……」  
攻守交替、ハルヒが俺の背中に石鹸をつける。こら、ハルヒ、胸でやるなよ。乳首があたっているぞ。  
「なによ、これ、好きでしょ?」  
まあ、確かに気持ちいい。  
「……朝倉とは、何もないさ」  
少なくとも、この世界の朝倉涼子とは。  
と、ハルヒが手と胸の動きを止めた。  
「あのね……キョン」  
なんだ、ハルヒ?  
「ホントは、キョンのそういう視線、あたしにだけ向けていると思っていたんだ……あたしだけが特別なんだって、そう思ってた……」  
俺が、ハルヒをそんな目で見ていた?  
……そうかも知れない。  
ポニーテールのこいつの向こうには、いつだってカチューシャをつけたハルヒがいたかもしれない。  
だけど――  
俺は、俯いたハルヒの方に向き直った。  
「ハルヒ、お前、もっとわがままを言っていいんだぜ?お前のわがままだったら、どんなことだって、全部、俺は付き合うから」  
……お前は、俺にとって特別だからな。どっちの世界のハルヒだろうとそれは変わらない。  
そう言うと、クス、とハルヒは笑った。  
「キョン、ありがと。そうね……いまここで、ぎゅって抱きしめて、たっぷりキスして」  
俺は裸のままで、しっかりとハルヒを抱きしめた。ハルヒの大きな胸が、俺の胸板に押し付けられる。  
ハルヒが俺の唇を吸った。  
「……ちゅぷ……んく……ちゅる……はぁ……」  
「おい、ハルヒ、こんだけでいいのか?お前のわがままって……」  
「何いってんの、キョン」  
ハルヒが、真性のアホを見つけたような、心底呆れたような笑顔になる。  
「大好きな人と抱き合ってキスできるんだもの……これ以上わがまま言ったら罰が当たるわよ?」  
ハルヒ……なんというか……お前のことが大好きだ、ほんとに。  
「さ、続きやりましょ。たっぷりと可愛がってあげるから!」  
ハルヒが、背伸びした俺の息子に、でこピンをかました。俺は思わず、そこを押さえてうずくまる。  
結局、続きはやるのか。  
 
 
「おやおや、ずいぶん早かったですね……まだ十分も経っていませんよ」  
そうか?俺とハルヒとしては、たっぷりと楽しんで、のぼせる寸前だったが。やはり時間の流れがおかしいな。  
「そうですか、僕はてっきりあなたが早いのかと……いえ、風呂に入るスピードが、ですよ」  
いいから一回殴らせろ。  
「……やれやれ、俺は寝るぞ。皆、おやすみな」  
俺は自分の部屋のドアを閉めた。  
 
 
それぞれが決めていた部屋に引っ込んでから、俺はしばらくウトウトしていたのだろうか。  
ハルヒの夢を見た。  
黄色いリボンつきのカチューシャをしているところを見ると、こいつは一年前のハルヒだな。  
そのハルヒが、まるで子供のように泣きじゃくっていた。  
ハルヒがこんな風に泣いているところなんか、ほとんど見たことがない。  
俺は、ハルヒの頭を撫でてやろうとして、手を伸ばした。  
あれ?  
体が動かない。  
いつの間にか、立ってハルヒを見下ろしていたはずの俺が、横たわってハルヒを見上げていた。ハルヒは、俺のそばに座りこんで泣いている。  
「……まだ、好きって言えてなかったのに……なんでこんな……」  
涙を流し続けるハルヒが、しゃっくりあげながら呟く。  
ハルヒ?  
ハルヒ、ひょっとして俺は――  
 
 
そこで、目が覚めた。  
薄っすらと頬に水が流れた跡がついている。俺は寝ながら泣いてたのだろうか?  
「……嫌な夢でも見たの?」  
「――ああ」  
ベッドの横に、朝倉涼子が腰掛けていた。  
 
 
「私がニセモノだってことは分かっているんでしょ?キョンくんがここに来たのは、二回目だもの」  
「分かっているさ……それでも、お前にもう一度だけ会いたかった。そのせいで、俺の我がままに皆をつき合わせた」  
朝倉は、いつかのパジャマ姿だった。そういえば、俺のパジャマまで用意されていたっけ。  
朝倉涼子が、ポニーテールを揺らして、首を傾げる。  
「あなたは、こちらの世界を選んだはずでしょ?」  
そうだ。  
「……それとも、後悔しているの?」  
違う。結果があらかじめ分かっていたとしても、俺はやはりEnterキーを押しただろう。後悔しているから苦しいんじゃない。  
「ひとつ、訊いていいか?」  
「なに?」  
朝倉涼子の、冷たいガラスのように透き通った目を、俺はじっと見つめた。朝倉は、陰のない伸びやかな表情をして、微かに笑っている。  
「なぜ、俺の記憶を残した?」  
「…………」  
「夏合宿の時に撮った写真もそうだ。あのときのお前なら、簡単に作り変えることができたはずだ。なぜだ?そして……そのことを、後悔したりはしていないのか?」  
にっこりと、朝倉涼子は笑った。陰のない、それでいて悲しさを湛えたような、美しい微笑み。  
「後悔なんてしてないわ、自分が選んだことだもの。そして――」  
朝倉は、ふと言葉を切って、何かを探すようにじっと俺を見つめた。  
「キョンくんが選んだことだもの。キョンくんのお嫁さんになれないのは――少し残念だけど、ね」  
朝倉は、子供のように無邪気に、いたずらっぽくクスクスと笑う。  
「ね、よく考えたら、出会って一年経ってないのに、婚約ってやりすぎよね?」  
確かにな。俺も思わずふきだした。  
「……お弁当、美味しかった?」  
ああ、すげえ美味かった。正直、毎日食べたいと思ったぐらいだ。  
「あら、毎日作っていたわよ?」  
あ、そうなのか。  
「そうだ、初めてのデート、覚えてる?一緒に遊園地にいって、キョンくんの妹さんもついて来て……写真を撮って貰ったんだけれど、それ、軽くピンボケしててね」  
でも、その写真、本当に大切にしてるよ、と朝倉は笑いながら付け加える。  
――そんな風に、しばらく俺と朝倉は、俺の記憶にない一年間について話し込んだ。  
少しでも、記憶を分かち合えるように。  
消えてしまった思い出を、少しでも取り戻そうとするように。  
消えてしまう思い出を、少しでも留めようとするように。  
 
 
「さてと――」  
やがて、朝倉涼子は立ち上がった。  
「行くのか?」  
うん、と朝倉は頷く。頭の動きに合わせて、ポニーテールが揺れた。  
「お別れだね……多分、もう会えないけど、キョンくんのこと、大好きだよ……これまでも、これからも、ずっと」  
「俺も……お前のことを――」  
俺は、一つ息を吸い込んだ。  
「――とても大切に思っている」  
「うん……それで、十分。ありがとう、キョンくん」  
朝倉が微笑んだ。  
ぽた、と滴がベッドに落ちる。  
「うっ……」  
次から次へと、とめどなく涙が零れてきた。絶対に泣かないと決めていたのに。  
朝倉涼子には笑顔をみせると決めていたのに。  
泣きじゃくる俺を、少し困ったように見ていた朝倉涼子は、すっと俺の肩に手をやると、頬を流れる涙を、そっと唇で受け止めた。  
しばらくして、朝倉が唇をはなしてからも、俺の頬には、しびれるようなキスの感触が残る。  
「ありがとう、会いに来てくれて」  
朝倉涼子は、ドアを開けた。ポニーテールが、するりとドアから出て行く。  
俺はごしごしと涙を拭った。  
……さよなら、朝倉涼子。  
俺は、ゆっくりと立ち上がると、ドアを開けた。  
バン、と一斉に五つのドアが開く音。  
きょとんとしたSOS団のメンバーたちが、そこにいた。  
 
 
この後の事は、詳しく説明するまでもないな。  
俺は、玄関にいく途中、ふと思いついて厨房に行き、冷蔵庫に自分が、「あるもの」を入れていたと、強く念じてみた。  
冷蔵庫のドアを開け、予想通りに、そこにあったものをポケットにねじ込む。やれやれ、よく冷えてる。  
そして、さっさとドアのところに行き、例の長門が作ってくれた脱出路――へんてこな方程式に、ブロックをはめ込んだ。X=5、Y=5、Z=……なんだっけ、ああ、1だ。  
カチリ、と鍵が外れる音がする。  
息を詰めて、ノブを握った。力を入れる。  
緩やかに扉が動き出した。  
 
………………  
 
結局、俺たちがスキー板を担いで歩いてくる一部始終を見ていた、鶴屋さんの発言が決め手となり、古泉が力説したように、吹雪も洋館もすべて、集団催眠だったということに落ちついて、ハルヒもどうにかこうにか納得した。  
「キョンくーん、写真撮るー!!」  
妹がカメラを片手に飛び出してきた。やめとけ、どうせピンボケにするんだから。森さんに頼みなさい。  
妹がふくれっ面をする。  
「しないもん!あたし、練習して上手くなったもん!!」  
そうか?悪い、じゃあ、これは上達する前だったか。  
俺は、ポケットにある写真の感触を確かめる。後で、一人の時にじっくりと見ることにしよう。  
俺と、あっちの世界の朝倉涼子を写した、唯一の写真だ。  
――と、長門が、おもむろに背負っていたリュックの口を開けて、さかさまにした。  
中身がドサドサと雪の上に落ちてくる。中から出てきたのは、栄養ドリンクの空瓶――ではなかった。  
「ゆ、有希、これ、宝石!?うわっ、すっごい量!!あの館から持ってきたの!?あれ、でも、あれは夢のはずじゃ……」  
唖然とする。……なるほど、俺が写真を手に入れたのと同じ方法か。  
「長門……それって窃盗じゃないのか」  
「違う」  
長門は、ゆっくりと首を振った。  
「これは、ただのお年玉……山分けを希望する」  
思わずふきだした。山分けって、どっかの海賊か、お前は。  
「分かった」  
SOS団団長であるこの俺は、すっかり呆気にとられている団員たちにはっきりと宣言した。  
「少し早いが、お年玉だ!皆、好きなのを頂くとしようか!!」  
 
 
おしまい  
 
 

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