例えば、ひとりで留守番しているときだ。  
一人きりの家で、ふと、何かの気配を感じて、不安になることってないか?  
誰もいるはずもないのに、鏡を覗いていると、鏡の端を何かが横切ったような気がしたり、風呂に入っているときに、部屋で「ガタン」と音がして、「誰?」と間抜けな声を出してしまったり。  
大抵の場合は、まず間違いなく気のせいで終わる。まあ、よくある事ってやつだ。  
だが、SOS団の部室に、たまたま一人でいたとき、部屋のどこかから「ガタッ」と音がしたら、人はどうするだろう?  
俺の場合は非常に簡単だ。  
俺は読みかけの本を机に置き、そのままつかつかと部屋の隅にある掃除用具入れに近づき、バタンと扉を開けた。  
「…………」  
掃除用具入れの中には、制服を着たヒューマノイド・インターフェイスが、時期外れの贈り物のように、箒の間にちんまりと立っていた。  
「…………」  
俺と長門は三点リーダを共同作業で生み出しながら、完全に無言のまま向合う。  
「…………何をやってるんだ、長門?」  
俺の問いかけに、無言のままで掃除用具入れから出てきた長門有希は、裾のほこりをパタパタとはたいた。  
「……時間のループによって、朝比奈みくるが時間遡行することはできない」  
「それは知っている。何をやってるんだ、長門?」  
「……だが、彼女がいる未来が実現するためには、いくつかのポイントでしなくてはならないことがある。例えば、空き缶の設置。亀の投下」  
「それも知っている。何をやってるんだ、長門?」  
「……そこで、朝比奈みくるのかわりに、私とあなたで行う」  
「それは分かった。ところで、何をやってるんだ、長門?」  
 
 
『ループ・タイム――涼宮ハルヒの陰謀――』  
 
 
SOS団きっての読書愛好家であり、宇宙人の作ったインターフェイスであり、競馬をこよなく愛する馬主であり、ゲーム会社の学生社長でもある、長門有希の珍妙な行動に、最近さらに磨きがかかってきたようにも思える、二月のはじめ。  
ハルヒがそのトンでもパワーをフルスロットルで全開にして、なぜだか分からんが起こしたSOS団の時間ループも、そろそろ一年になろうとしている。  
このループの原因は何か?  
ハルヒはまたループを起こすのか?  
ループが解消されたとき、どうなるのか?  
「分からないか、長門?」  
「分からない」  
今日、いきなり掃除用具入れから登場してくれた長門有希は、すでにいつものように、未来を見通す巫女さんスタイルに戻っている。  
ちなみに、今日は長門以外にも、ハルヒ、朝比奈さん、朝倉の巫女さん姿が拝める予定だ。というのも、今日は節分で、豆まきのイベントを、SOS団の女子団員は、巫女さん衣装で行うからだ。  
これを機会に、たっぷりと拝ませてもらおう。朝比奈さんや朝倉の巫女姿なら、ご利益は十分に期待できる。  
まあ、ハルヒは古泉説なら神様なので、ご利益どころではないし、長門の場合は、出てくるのはご利益じゃなくて競馬の配当金だ。  
などとくだらないことを考えていると、しばらく沈黙していた長門有希が言葉をついだ。  
「涼宮ハルヒがループを行った意図は不明。涼宮ハルヒが時空改変を行ったと見られる時間には、私は図書館に居た」  
たしか、春休みには入っていたはずだ。そこまでは、俺にも記憶があるからな。だが――  
「なぜか、最後のところの記憶が曖昧なんだよな……ハルヒの声を聞いた気もするし……」  
「古泉一樹と、朝比奈みくるについては、記憶が消去されているので、確認のとりようがない。どちらかが涼宮ハルヒと行動を共にしていた可能性は否定できない」  
確かにな。  
「だが……私は一つの仮説を持っている。一年間、構築と検討を繰り返してきた結果、その仮説にたどり着いた」  
仮説?  
「その仮説が正しければ、このループは終わる。未来に接続がなされ、時間遡行が可能になるはず。ループが終わるため、私たちも二年生になる。おそらくは、このメンバーのままで」  
「どんな仮説なんだ?教えてくれ、長門」  
長門有希は、一瞬迷ったように言葉を切り、少し目を伏せた。  
「……あくまでも仮説に過ぎない。だが、言語化するとあなたの精神に負荷をかけるかもしれない……でも、聞いて」  
俺は頷いた。  
 
 
「なんか、呆然とした顔じゃない。キョン、どっか体調でも悪いの?」  
あ、いや、気にしないでくれ、ハルヒ。  
すっかり巫女さんの衣装に着替えたハルヒが、心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。  
ハルヒは時間のループについてなにも知らない。こいつには、長門の仮説がショックだったとは言っても仕方がないことだろう。  
「ほら、枡。みんなお待ちかねだぜ」  
「うん!いくわよっ、みくるちゃん、有希、涼子!!それー!!福はーうちっ、福はーうちっ!」  
核爆発のごとく眩しい光を放ちながら、満面の笑顔で豆をばら撒くハルヒ。うむ、ポニーテールに巫女さんコスチュームも非常に似合っているな。箒を持たせてみたい。  
ただいま、恒例の豆まきの真っ最中である。朝比奈さん、朝倉涼子、ハルヒの三人も巫女さんになって、SOS団みんなで、渡り廊下に豆まきをしに進軍した。  
「ええい、それー、福はうちですぅ」  
朝比奈さんも実に楽しそうに豆をまき、下に溢れかえる男子どもは、必死で朝比奈さんの御手が放った豆をつかもうと、不毛な争いを繰り広げている。  
「福はうちー、福はうちー、キョンくん……次の枡くれる?」  
「ほれ、朝倉」  
神々しいまでの巫女さん姿の朝倉涼子の投げる豆は、女子たちのターゲットになっているらしく、女子たちはキャーキャーいいながら朝倉の豆を受け取ろうとする。相変わらず、女子に大人気だ。  
 
ビシッ ビシッ  
 
「痛っ、痛えーっ!なんなんだ、さっきからよっ」  
谷口はさっきから、そのデコが射撃のターゲットにされているようだ。いうまでもないが、こんなピンポイント射撃ができるのは――  
「ターゲット・ロックオン……発射。……標的谷口の額に命中を確認。次弾装填……」  
長門有希は、手のひらにのせた豆を、デコピンのように中指で弾いて、すさまじい速さで撃ち出している。  
「長門、谷口になんか恨みでもあるのか?」  
長門は、ぴた、と手を止める。  
「私のことを押し倒そうとした――」  
な、なにいっ、ゆるさん、ゆるさんぞ谷口!!  
「――私のことを押し倒そうとしたあなたに、私が口付けをしようとして、二人の関係が決定的になろうとした瞬間に、忘れ物を取りに教室のドアを開けて、人の恋路の邪魔をした」  
バシュッと、空気を切り裂く音。長門が、また豆を発射した。  
おい、長門、それは逆恨みってやつじゃないのか。  
「うわああああんっ!」  
谷口が泣きながら逃げ出した。なんて哀れなやつだ……心から同情するよ。  
「ホーミング・モード……追撃せよ」  
やれやれ。  
 
 
「はい、なんとか頑張って作ってきたけど……味はどうかな」  
朝倉涼子渾身の作である恵方巻を、六人それぞれが手にもって、いっせいに同じ方角を向いて食べる。思えば、奇妙な行事だ。  
地球の文化に詳しくない宇宙人が、ふらりと日本に立ち寄って、いきなりこの光景を見たら、一体なんだと思うんだろう?今度長門にでも聞いてみるか。  
もぐもぐ。うん、うまい。実にうまい。さすがに朝倉は料理が上手だ。  
ふと、俺は手を止めて、古泉を見た。  
「……古泉、なにやってんだ?」  
古泉一樹は、いつものニヤケた面ではなく、かつてないほどの真剣な表情で恵方巻を見つめていたが、おもむろに、手で、ぐい、と恵方巻をくの字に曲げた。  
「マッガーレ」  
くだらないことやってないで食べろよ、もう。  
む、ハルヒ、まじまじと太巻を見つめて、どうしたんだ?  
「キョンのより大きい……」  
こんのアホッ、なにと比べてるんだ!!朝比奈さんと朝倉が真っ赤になってうつむいているぞっ!  
「ふえ、だめです……こんなの恥ずかしいです……」  
「うん……これ無理……恥ずかしいよ……」  
赤くなって顔を背けては、ちらりと太巻きを見て、また赤くなって顔を伏せる、という一連の動作を繰り返す朝倉涼子と朝比奈さん。  
ハルヒの言葉で何を意識したのか知りませんが、それは恵方巻ですよ。ただの恵方巻です。断じてただの恵方巻です。なにを恥ずかしがっているんです?  
「カプ」  
ほら、長門を見ろ、一口でぱっくりと――  
「チュプ、ジュル……ジュプ……」  
口があんぐりあくのが分かる。長門、お前……  
「練習」  
やれやれ。  
みんなアホばかりだ。  
 
 
翌日。  
俺は長門と一緒に、一年前、朝比奈さんと一緒に、空き缶のいたずらを仕掛けた場所に行った。  
缶も釘も金槌も、長門がきちんと用意してくれた上に、仕掛ける場所も、寸分違わず、きっちりと長門が指定した。うーむ、楽だ。  
「しかし、これを蹴って怪我する人が、可哀想だな、つくづく」  
長門は、コクリと頷く。  
まあ、自分たちがやっておいて、可哀想もないもんだが。俺は腕時計の時間を見た。  
「そろそろか」  
六時十四分。  
ロングコートにショルダーバッグ。元気をなくした男性がとぼとぼと歩いてくる。間違いないな。  
「はぁ……」  
ため息、空き缶を見る、そして振り上げたトーキック。一年前と同じだ――  
 
パパパパパパパパパパンッ!!  
 
いきなり破裂音が響いた。  
「うおあっ!?ぐ、ぐあああああっ!!」  
男性が驚いて尻餅をつく。苦痛に顔を歪めて足を押さえているところを見ると、しっかりと捻挫をしたようだが……  
俺はゆっくりと後ろを振りかえると、皮一枚下で、必死に笑いを堪えているような、無表情の宇宙人を睨む。  
「長門……何をしたんだ……」  
「空き缶に爆竹を仕掛けておいた……こういうことは、楽しまなくては、損」  
損とか得とかねーだろ!!なにやってんだ!  
「……あなたは、私の仮説を聞いて以来、落ち込んでいる」  
……そんなことはないさ。  
「SOS団のメンバーは、みな心配している。……私も」  
ありがとうよ、長門。その気持ちは嬉しいさ。だが――  
「あなたを笑わせてあげたかった……それだけ、ごめんなさい……」  
そういって長門はまつげを伏せる。悲しそうな表情でうつむく長門有希。  
ええい、こんな顔をした長門に、文句が言える人間が存在するか?いるなら手をあげろ。俺に代わって長門に説教の一つでもしてやってくれ。  
俺は、溜息を一つつくと、長門の手を引いて暗がりから出た。そのまま、苦しそうに呻いている男性に声をかける。  
「だいじょうぶですか?……手を貸しますよ」  
「え、ああ、ありがとう……くそ、誰がこんないたずらを……」  
「手がこんでますね……さ、肩につかまってください」  
俺の肩を借りて、哀れな男性はケンケンしながら歩く。  
「仕事が行き詰っていて……」  
すたすたと後からついてくる長門。  
「クサクサした気分を晴らそうと、缶を蹴ったのが悪かった――」  
「……自業自得」  
長門がボソッと呟く。  
「…………」  
俺と男性は、なんとも言えない表情で長門を見つめ、二人で同時にため息をついて、顔を見合わせた。  
「……あの娘、キミの彼女か?」  
「ええ、まあ」  
嘘だけど。  
「そうか……大変だな」  
大変です、実際。これは嘘じゃない。  
男性は痛みを堪える顔に戻り、俺は心の痛みを堪える顔に戻った。  
 
 
空き缶の悪戯を仕掛けた翌日には、みんなで「鶴屋山」に宝探しに出かけた。  
かなり急な坂を、ハイテンションになったハルヒは、野うさぎが飛び出したら轢き殺されるんじゃないか、と思わせるような猛スピードで駆け上がっていく。  
一方、俺と古泉は登るだけで息も絶え絶え、HPは限界寸前だ。  
「ひえっ」とか、「ひゃうっ」とか声をあげて、さっきからつるつると滑る朝比奈さんを、朝倉涼子が後ろから支えてやり、長門有希はマイペースにうろうろと歩く。  
というのも、長門は、手にした装置で宝を探している、という設定だからだ。  
「ふえ、これで宝物の場所が分かるんですか……?」  
朝比奈さんが疑問に思うのも頷けるほど、長門が用意したダウジングの道具は、安っぽく、かつインチキくさい。  
なんたって、二本の針金をLの字に曲げて、ボールペンの軸にさしただけの代物だからな。製作者が俺であることは秘密だ。昨日の晩にこっそり家で作った。  
長門は気にせず、ひょうたん石のある開けたところに出ると、とことこと辺りをうろついて宝物を探すふりをして、ひょうたんの形をした石のところで、つい、と針金をハの字に開いて見せた。  
「うわあ、そこに宝物があるんですかぁ?」  
朝比奈さんが目をまん丸にする。  
「よしっ、古泉くん、堀りなさいっ」  
アドレナリンが過剰に供給されているのか、闘牛のごとく興奮したハルヒの命令の下、古泉はシャベルを振るって穴を掘る。  
「あなたは手伝ってくれないんですか?」  
「掘るのはお前の得意技だろうが……それとも掘られるほうか?」  
まあ、掘るほうですが……と古泉はまた穴掘りに戻る。  
古泉がえっちらおっちら掘って、ようやく出てきた奇妙なオーパーツに、俺と長門を除くSOS団メンバーは、仰天して目を丸くしていた。  
考えてみれば、SOS団を結成して以来、団として経験した、初めての不思議現象に近いからな。  
だが、結局それは、下山したのち鶴屋さんに献上した。それが一番いいさ。もともと鶴屋さんのご先祖が埋めたものだしな。ハルヒも、掘り出すので満足したらしく、案外素直に頷いた。  
穴掘りで完全にHPを使い果たし、息絶えた古泉がピクニックシートに倒れこむのを、心配そうに横目で眺めながら、朝倉涼子が手製のお弁当を広げる。  
朝比奈さんが自慢のお茶をポットに詰めてきており、昼食と相成った。  
「うまいっ、めちゃくちゃうまいわっ、涼子!こんどお料理教えて欲しいぐらいよ!!」  
「そ、そお?ありがと。……おいしい?キョンくん」  
ああ、うまいよ。全身の細胞がその身を震わせ、美味いと絶叫しているのが分かる。  
途端にハルヒが、ぷっとふくれっつらになる。  
「こら、キョン!あたしがお弁当作ってきたときは、そんなに褒めてくれなかったじゃない!!」  
「お前のはなあ、なんか、こう、力の抜きどころがないんだよ。全部がメインディッシュのフレンチみたいなもんだ……」  
「ハンバーグと、から揚げと、とんかつだったら、もちろんとんかつがメインよ!当然だわっ!!」  
やれやれ、昼飯でそれを全部食わされる俺の気持ちにもなれ。おかげで午後の授業は胃がもたれて仕方なかった。  
胃もたれなどとは永久に無縁であろうハルヒと長門が、見る見るうちに弁当を平らげ、一同、お茶。  
鶴屋山のピクニックは、こんな感じだった。また天気がいいときに行きたい。  
 
 
土曜日。  
SOS団の不思議探索を招集し、いつものように長門の呪文で、組み分けの爪楊枝を、俺と長門になるように操作した。俺と長門は、パンジーの花壇に向かう。  
落ちている記憶媒体を、花壇から拾い上げ、一年前に朝比奈さん(大)の指定した住所に送る。  
いや、ほんとにそれだけだ。それでおしまい。  
というのも、あの未来人の野郎――便宜的に、パンジーさんと呼ぶことにしよう――が現れて、先に記憶媒体を拾ってひらひら見せびらかしたり、朝比奈さんと俺に向かって、「あんた」呼ばわりする、なんてことがなかったからな。  
くそ、あの野郎の顔を思い出したら、なんだかむかむかしてきた。非常に腹立たしい。  
だが、パンジーは、結局最後まで現れなかった。  
「ループした時間は、未来との通路を遮断されている。去年の八月に経験した通り。だから、朝比奈みくるの時間同位体が現れることもない。別の未来人についても同様」  
やれやれ、朝比奈さんも可哀想に。未来との通路を遮断されたってことは、まるで乗っていた船が難破し、無人島にたった一人で流れ着いたような気分だろうな。  
長門は続ける。  
「だが、今回のループが、既に未来に開いている可能性はある」  
じゃあ、なぜ、朝比奈さん(大)やパンジー野郎は現れない?  
「おそらく、まだ未来が不安定。特に、時間遡行に技術の確立は、明日の仕事に負うところが大きいと思われる」  
それが、亀を川に投げることってんだからなぁ……。未来って意外と安っぽくできてる。  
やれやれ。  
 
 
日曜日、今日の仕事は、亀を川に投げ込んで、眼鏡くんに渡すこと。  
まあ、これも特筆すべきことはほとんどないと言っていいな。  
ちょうど、一年前に、俺と朝比奈さんと眼鏡くんでした会話をちょうどそのまま、俺と長門と眼鏡くんで行う。一度亀を川で水泳させてから、ざぶざぶ取りにいって眼鏡くんに渡すのも同じだ。  
亀は長門が用意してきた。小さくて可愛い亀だ。  
すべてが終わって、亀を大事そうに持ち帰る少年、見送る俺と長門。  
「……彼は、ちゃんと育てると思う?」  
ああ、間違いないさ。  
「責任感が強そうだし、しっかりしているじゃないか。大丈夫だよ」  
長門は、ゆっくりと頷いた。  
「……そう。なら、いい」  
二人でぶらぶらと帰る。と、いつかのペットショップに行き当たった。  
「そうだ、長門、どの種類の亀をあげたんだ?」  
長門は、数種類の亀のケースの前をうろうろしていたが、やがて一つのケースの前に立ち止まると、中の亀を指差した。  
「これ」  
俺の体が小刻みに震えだした。もしや長門、わざとやっているんじゃないだろうな……。  
店員が、ベンガルトラをペットにしたいと娘に言われた父親のような表情で、困ったように言う。  
「お嬢ちゃん、これは、ちょっと飼うのは……手にあまると思うね。大きくなると大変だから……」  
水槽の前にはられた紙に、学名が書いてある。  
Chelydra serpentina――カミツキガメである。  
 
 
二月十四日、バレンタイン・デー。  
それは、もてない男子が、自分の遺伝子を呪い、果ては両親までも呪わんとする日であり、また、妙にそわそわと机の中をかき回したり、空っぽの下駄箱を開け閉めしてみたり、物欲しそうにクラスの女子を見詰める日である。  
以上の観察サンプルは全て谷口だがな。  
「……キョン、お前はいいぜ。朝比奈さんに長門有希、涼宮に朝倉涼子のチョコをもらえることが確定しているんだからな……くそっ、四つのチョコ、しかも、そのすべてが限りなく本命チョコかよ!」  
まあ、妹とミヨキチに貰う分は、勘定に入れまい。それと――  
おそらくは、もう一つあてがあるのだが……まあ、これは谷口に言っても仕方ないことだ。  
「SOS団でチョコ配布のイベントをやる。よかったら来てくれ」  
そう言って、男泣きに涙に暮れる谷口を、そっと慰めた。こう見えても、心のなかでは、結構やましさを感じているんだ。  
節分の時は、散々長門に狙撃されていたからな。額にでっかく貼っていた絆創膏が、とれてよかった。  
 
 
屋上に続く階段には、ごたごたと美術部あたりのガラクタが置いてある。それをよけながら、俺は屋上に続くドアの前に立つ。  
屋上に出るドアには、いつもしっかりと鍵がかかっていて、普段、生徒は出ることが出来ないのだが、俺はなんなくドアを開けた。  
この繰り返す一年間の最初の頃、長門に合鍵を作ってもらっていたからな。  
今頃、SOS団主催で、バレンタインチョコの福引が校庭で行われているはずだ。俺はこっそりと会場を抜け出て、こうして屋上に出てきた。  
少しだけ、一人になりたかったのさ。  
ごろりとコンクリートの地面に寝転がる。いい天気だ。澄み切った青空に、雲の流れが速い。  
別に、SOS団のメンバーに不満があったりするわけじゃない。本当に、心の底から、最高の連中だと思っているし、毎日が楽しい。  
だが。  
最近――長門が、無理に明るく振舞ってくれているのがよく分かる。あいつらしくない、どうにも下らないイタズラを仕掛けては、ふと俺の表情を、確かめるように見る。  
そんなに、俺は落ち込んだ顔をしていたのだろうか?  
ひょっとしたらそうかも知れない。原因はなんだろう――などと考えるまでもない。  
長門の仮説を聞いたからだ。  
そして、その仮説が正しければ、きっと、あの世界で、ハルヒは――  
俺は、ループが起きる前のハルヒの姿を思い出す。  
天上天下唯我独尊で、滅茶苦茶な暴走を繰り返し、SOS団を引っ張っていったハルヒ。  
喧嘩した後に、ポニーテールにしかけた髪を、俺が入っていくと慌てて解いたハルヒ。  
気丈で、傍若無人、横暴で、いつも周りに迷惑ばっかりかける。  
だが――  
今の俺の頭に浮かぶのは、お前の泣いている顔なんだよ。  
黄色いカチューシャをつけた短い髪を揺らして、その意外に小さい肩を震わせて、その大きな目を真っ赤にして、子供のように泣きじゃくる姿。  
一度も見たことがないはずの光景だが、妙にくっきりと頭に浮かぶ。  
もし、俺が。  
最期の最期で。  
お前をそんなふうに泣かしてしまったのだとしたら――  
 
バーン、と音がして、ドアが吹き飛ぶように開く。  
「見つけたっ!!」  
突然、ハルヒが現れた。  
「キョン!!探したわよ!いきなり姿を消すんだから、もう、油断もすきもあったもんじゃないわっ!!」  
俺はムクリと起き上がった。ポニーテールを揺らすハルヒを見る。  
「なんでここにいるって分かった?」  
「部室も行ってみたわ。そこにもいなくて、あんたが行きそうなところはどこだろうって考えたの。すぐにピンときたわ。覚えてる?ここ――」  
ああ。俺が長門に電話してたら、いきなりお前が現れた。「とりゃー!」とか掛け声をかけて、俺に足払いを喰らわせた。  
「もう一年近いのか……早いね」  
ふとハルヒは微笑むと、俺の横に腰を下ろした。  
「ね、キョン、チョコレート、持ってきたから。涼子も有希もみくるちゃんも、みんな作ってきてるよ……ほんとは、みんなで渡すはずだったけど、ふふ、抜け駆け!」  
ハルヒは、巨大なハート型のチョコレートを取り出した。包みを開けると、これまた白いチョコで、文字が書いてある。  
『キョン愛してる 私と結婚しな』  
よくまあ、チョコレートで愛とか結婚とか器用に書いたもんだ。それに、この脅すような命令文はなんだ?  
「『しないと死刑だから』って書こうと思ったんだけど、スペースが足りなくなったのよ」  
いや、どっちにしろ脅迫だな。やれやれ。  
「……ハルヒ、一緒に食べようか。今、ここで」  
「え、う、うん。……でも、その前に、感謝の言葉とか――あと、返事を聞かせて欲しいな、キョン」  
ハルヒが、日本刀のように切れ味鋭い真剣な表情で俺を見つめてくる。  
……まいったね。  
まあいいや。返事なんて決まってるだろ?  
俺はハルヒを抱き寄せると、そっとキスした。  
ハルヒは、ほんやりと赤い顔になっていたが、やがて、その顔が、まぶしく輝く100万ワットの笑顔に変わった。  
なあ、ハルヒ。  
俺が、一年前、お前を泣かしてしまったとしたら――  
こっちの世界のハルヒを、思いっきり笑顔にさせてやることが、俺のやるべきことだと思わないか?  
 
 
 
部室に戻って、朝比奈さん、長門、朝倉の作ったチョコを受け取り、古泉のチョコを丁重に断り、その日のSOS団の活動はお開きになった。  
ちなみに、朝比奈さんのチョコには、一言、『脇役』と、どうどうたる楷書体で書かれていた。  
「うう、長門さんがぁ……こう書けって……ぐすっ」  
泣かないでください、朝比奈さん。長門はああ見えて、執念深いほうなんですよ。  
帰り道、そっと古泉に話しかける。  
「今夜、長門のアパートに来て欲しい……ハルヒと朝倉、朝比奈さんには内緒でな」  
古泉は、ゆっくりと長門の方をみて、長門がこっくりと頷くのを見ると、真剣な表情になって聞いた。  
「……決着、ですか?」  
そうだ。  
『すべてが終わったとき、あの公園で』  
これで、すべてが終わるはずだ。  
 
俺と長門、古泉は、いつかの公園で、やってくるべき人物を待っていた。  
「僕はお会いするのは、初めてになりますね……はて、どんな方なのか……」  
「たぶん、それが最初で最後になるぜ」  
長門の立てた仮説が正しければ。  
「来た……銃を持っている」  
長門がすっと身構える。  
片手に銃を携えて、暗闇の中から、そいつはゆっくりと現れた。  
 
「やっぱりお前か……待っていたよ」  
片手に銃を構えた未来人は、不愉快そうに鼻を鳴らした。一年前、俺と朝比奈さんが、パンジーの花壇から記憶媒体を見つけようとしたときに会った野郎だ。  
未来人は、じっと銃から目を離さない長門を見て、吐き棄てるように言う。  
「その宇宙人も一緒か……ふん、気に入らないな。待っていたのは、あんたじゃなくて僕の方だ。どうせ、あんたは意味も分からずに未来に踊らされているだけだろう」  
いーや、違うね。  
「俺のほうでも、ようやく全部がつながったところだ……。俺の貧弱な脳ではさっぱりだったが。一年間、長門が仮説を作っては壊しを繰り返してきたのさ」  
一瞬、はっと驚いた表情になった未来人の顔が、苦痛に歪む。  
「くそ……あんた……分かっているのか?あんたは核ミサイルの発射スイッチを握っているようなもんだ。あんたの指の動き一つで、ものすごい数の人間に影響がでるんだ」  
そのとおりだ。  
「だが、誰一人死なないさ。そうだろ」  
未来人は、俺をじっと睨んでそのまま貝のように黙り込む。  
「それに引き換え、お前がやったことはなんだ?……殺人だよ」  
被害者が言うんだから間違いない。  
「ひとつだけ答えろ……あっちのハルヒは泣いていただろ?」  
「ふん……そうだ、わんわん泣き喚いたあげくの時空改変だったよ」  
ハルヒの泣き顔が頭に浮かんだ。ざわざわと腹の中が煮えくり返る。目の前の未来人を思いっきりぶん殴ってやりたい衝動を、俺は必死に堪えた。  
「……もういい。お前の面を見ているのはたくさんだ。もといた時代に帰れよ」  
未来人は、奇妙なものを見るように、じっと俺を見つめた。そして、ちらりと長門に視線を向け、諦めたように、手にした銃を、投げやりにポイと投げ出す。  
「もうあんたに会うこともないだろう。向こうに戻った僕に時間遡行の手段は残されていないからな……ふん、さよならだ」  
未来人の姿は、ふっとかき消すように消滅した。  
「……現在時空から消滅した」  
長門が呟いた。  
 
 
「説明していただきたいですね……どういうことだったんです?」  
解説はお前の役目だろう古泉。俺はごめんだ。まあ、どうしてもってなら……  
この人に聞くのが一番いいだろう。  
「出てきてください、朝比奈さん」  
はい、と答えて、ゆっくりと現れたのは、もちろん、朝比奈さん(大)だ。  
朝比奈さん(大)は、静かに俺の方を見る。  
「どこから……話しますか?」  
もちろん決まっている。  
「一年前、俺が、殺されたところからお願いします」  
朝比奈さん(大)は、緊張した面持ちで、コクンと頷いた。  
「最初に、言っておかなければならないことがあるの……」  
朝比奈さん(大)は、軽く目を伏せた。  
「未来は、確定していません。複数の未来が存在していて、それぞれの未来が、過去に干渉することで、自分の未来を守るために争っているの。  
……既定事項とは、ある未来に進むために必要な、そう、チェックポイントのようなものなんです。  
しかし、その争いにも決着がつきました。時間遡行の技術を、私たちの勢力が完全に独占したんです……。  
さっき、ここにいた未来人は、私たちの時代で地下活動を行っていた勢力の派遣したエージェントです。  
過去に干渉することで勢力を伸ばそうとする、彼らの試みは失敗しました……あなたのおかげで。  
もう、この時代に干渉することはないでしょう。そして、彼らがこの時代に干渉しない以上、私たちの任務もほぼ終わりです」  
細かい時空の揺らぎが残るから、過去の私には、まだここで頑張ってもらうけど、と朝比奈さん(大)は付け加える。  
古泉が朝比奈さん(大)に問いかけた。  
「彼が殺された、とは一体どういうことですか?」  
「彼ら未来人の、最後の賭けでした……この時間平面での工作で、私たちに常に遅れをとっていた彼らは、最後の手段として未来からの干渉を断ち切ることを決断したんです。  
涼宮さんの能力を利用することで、です」  
そう。  
「古泉、お前の記憶にはないだろうが、一年前の夏に、ハルヒが時間のループを作っちまったことがあった。そのとき、未来からの干渉は完全に不可能になっていたんだ」  
古泉が、納得したように言った。  
「なるほど……涼宮さんがループを起こせば、朝比奈みくるはこの時空で孤立し、未来からの指示を受け取れなくなる……。  
そのため、あなたのいる未来につながるための、既定事項を実行できなくなる、というわけですか」  
古泉の言葉に、朝比奈さん(大)は頷く。  
「彼らの誤算は、キョンくんが記憶をそのまま維持してしまったことです。ちょうど、殺されたときの記憶はあいまいだったみたいだけど……。  
キョンくんが、一年前と同じ行動をとろうと努めてくれたことで、全ての既定事項が満たされました。空き缶も、亀もそうです。  
結果として、時間のループ状態から、未来への接続が行われたために、私も、あの未来人も、この時空に来ることが出来たんです」  
古泉は、大きな溜息を一つつくと、やれやれといったようすで肩をすくめる。  
「まるまる一年間のタイム・ループですか……さすが涼宮さんですね。あなたが記憶を維持したのも、涼宮さんの意思だったのでしょう。……それとも、愛の力でしょうか?」  
さあな。  
「私は、これでお別れです。もう、この時間平面にくることはないでしょう……。これからも、過去の私をよろしくね。……さよなら、長門さん。さよなら、古泉くん。」  
朝比奈さんは、ゆっくりと俺の方を向き、すっと手を俺の肩に置くと、軽く俺の頬に口付けした。  
そして、チョコレートの入った包みを取り出す。  
「ハッピー・バレンタイン。さようなら、キョンくん。……ほんとうにありがとう」  
俺は朝比奈さん(大)の差し出したチョコを受け取った。  
「……さよなら、朝比奈さん」  
朝比奈さん(大)は、すっと涙を拭くと、にっこりと笑って――  
次の瞬間、消えた。  
「現在時空からの、消滅を確認、だな……」  
長門がコックリと頷く。  
終わった。  
ああ、ホントに終わったんだな。これで――全部が。  
そう、奇妙な繰り返しの一年間。  
ループ・タイムが。  
 
 
「やれやれ」  
 
 
 
 
………………  
 
胸が焼けるように熱い。  
いてぇ、マジで痛い。撃たれるのって、こんなに痛いのか。  
朝倉涼子にナイフをぶっ刺されたときみたいだ。  
口の中がヌルヌルする。気持ち悪い。これなんだろ、あったかいけど。  
あれ?俺の血か?  
「キョン……どうしたの……?」  
ハルヒだ。なんつーか、タイミングが悪いな。  
俺が撃たれたところにばったり入ってくるなんてな。  
こんなところ見せたくなかった。  
自分が死ぬところなんて。  
「キョンッ!!こ、これ血なのっ!?あ、あんた、どうしたのよっ!!」  
やべ、目が霞んできた。  
ハルヒ、泣くなよ。  
だからタイミング悪いって言ったんだ。笑顔をつくる余裕がねえんだよ。  
ああ、でも。  
最期に――お前の顔を見れたのは、タイミングが良かったのかな?  
「キョン、キョン、ダメ……死んじゃダメぇっ!!いや、いやよっ!!」  
泣くなよ、ハルヒ、お前は笑顔が似合うんだからよ。  
いつもみたいな、すっげえいい笑顔を見せてくれよ。  
意識が飛びそうだ。やべえな。これまでか。  
「……キョン……キョン……お願い……死なないで……」  
なに言ってんだよ、死ぬわけないだろ。  
SOS団もやっと二年目じゃねえか。  
一緒に部室にいこうぜ。  
朝比奈さんのおいしいお茶を飲みたい。よわっちい古泉とゲームしたい。長門が静かに本を読んでいる姿を眺めていたい。  
それに――  
ハルヒ、お前のむちゃな命令が聞きたいよ。  
いまなら何でも言うことを聞いてやるよ。  
どんな無茶でも。  
お前のことが好きだから。  
ああ、俺はハルヒのことが好きなんだ。  
ハルヒが呼んでいる、ハルヒの声がする。  
わかってるよ、今行くさ。  
今行くから。  
 
………………  
 
 
 
さて、ここからは、また後日談となる。後日談もこれで最後だ。  
新学期がはじまり、二年生になって、俺たちは新しいクラスになった。  
古泉は相変わらずの九組だ。ま、これは変わりようがないな。  
「やれやれ、僕だけ仲間はずれですか?」  
そうだ――と言いたいところだが、もちろんそんなことはないさ。お前は、SOS団に必要不可欠なホモ・エスパーだからな。  
「光栄です。では、また部室で」  
エスパーは爽やかな笑顔を浮かべ、おどけて肩をすくめてみせた。  
「ふえ、羨ましいです……あたしは、あと一年しかないから……」  
おもいっきりその一年を楽しみましょう、朝比奈さん。  
朝比奈さんは、にっこりと微笑む。  
「はぁい」  
……それにしても、クラス替えだってのに、知ってる面子ばかりだな。  
谷口、国木田のコンビとも、相変わらず同じクラスだ。  
朝倉涼子が、こっちを向いて微笑んでいる。俺の視線に気がつくと、ちょっと顔を赤くして、小さく手を振った。  
長門、新学期の初日から分厚い本に没頭しているな。クラスメイトの自己紹介ぐらい聞いてやれ。  
そして――  
「ちょっと、ちょっと、キョン、あんたの番よ!ボーっとしてるんじゃないわよ、まったく」  
やれやれ、ハルヒ、シャーペンで突っつくなよ。分かってるさ。  
ゆっくりと俺は立ち上がった。  
もう俺たちは二年生で、ほとんど互いに顔見知りなんだ。自己紹介なんていまさらだ。  
だが、まあ。  
自己紹介といったら、このセリフしかないだろ?  
「俺のことは、キョンとでも呼んでくれ。……さて、俺はただの人間には興味がない」  
俺は教室を見渡した。  
谷口と国木田があきれた顔でこっちを見ている。  
朝倉涼子は、可笑しそうにくすくすと笑っている。  
長門有希も、ゆっくりと本から目を上げた。いつもの無表情に、少しだけ笑顔が混じっているように見える……気のせいか?  
「この中に、宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら……今すぐ俺のところに来い。そしたら――」  
俺は、ゆっくりと後ろを振り返る。  
満足そうに腕組みをした涼宮ハルヒの、100万ワットの笑顔。すごい、いい顔だ、可愛い。頭の後ろで、ポニーテールが気持ちよく揺れる。  
後で――たぶん、ホームルームが終わったら、ハルヒの手を強引に引っ張って、いつかの屋上に続く階段に行こう。  
長門の作ってくれた合鍵で屋上に出て、そこでハルヒに言おう。ハルヒのことを強く強く抱きしめながら。  
ハルヒ、俺はお前のことが大好きだ、と。  
本当に本当に、世界で一番好きだ。  
お前に出会えてよかった。  
これからも、ずっとずっとお前と一緒にいたい。  
そう、言おう。  
 
さて――  
 
俺は、すう、と息を吸い込んだ。  
 
 
「SOS団に歓迎する!!以上」  
 
 
 
おしまい  
 

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