今日も地球は凍えそうに寒い。 
アリのように勤勉なシベリア寒気団によって、日本列島は寒さに震えていた、というのが言いすぎだとしても、俺が寒さに震えていたのは間違いようもなく事実だ。 
「……寒いね。キョン、手、つないでもいい?」 
ああ。俺はハルヒの冷たい手をとると、自分の手と一緒に、コートのポケットの中に突っ込んだ。 
「ふふ、キョンのポケットの中、あったかいっ」 
ハルヒは、にっこりと笑うと、ポニーテールを揺らして、俺に体をぴったりとつけた。反対の手には大荷物を抱えているが、ハルヒは嬉しそうにそれをブンブン振り回している。 
俺は、その上にセリフが書き込めそうなほど、真っ白な息を空中に吐き出した。 
「いっやあ、いつ見ても、おあついなぁ、お二人さんよぉ!」 
後ろからアホの声がすると思ったら谷口だ。ハルヒは、停止を示す信号のようにパッと顔を赤くすると、谷口に噛み付く。 
「馬っ鹿じゃないのっ!寒いからこうしてキョンで暖まってんじゃないのっ!!そんなんだから、あんた、いっつもテストが赤点ギリギリの低空飛行なのよ。あんた、ちょっとはキョンを見習ったらっ!?」 
「くうっ……キョン、なんでお前はそんなに勉強ができるんだ……頼む、俺にも秘訣を教えてくれ」 
テストの話題が出た瞬間、谷口はシュンと空気を抜いた気球のようにしぼんでしまった。恨めしそうに俺の方を見る。 
「……特にないな、スマン」 
まさか、ハルヒの起こした時間のループのせいで、学校の科目はどれもこれも既に習っているから、とは言えまい。 
クリスマスまで、一週間を切った12月18日―― 
いつもと変わらないような朝。 
それは、すでに、密かに始まっていたというべきなんだろうか? 
 
 
『ループ・タイム――涼宮ハルヒの消失――』 
 
 
このループする一年間、俺と長門は、SOS団のさまざまなイベントを、懸命に蜜を集める働き蜂のようにこなしてきた。 
SOS団が二年目に入ろうとしたとき、なぜか突然時空改変を起こしたハルヒが、「やり残したこと」のためにもう一度ループさせてしまうことがないようにだ。 
その結果、朝倉涼子がSOS団に加入したり、ハルヒに代わって長門が文化祭の映画の監督をやったりと、さまざまな部分で変更点が生まれてしまった。 
だが、まあ、これまではなんとかSOS団としての活動をこなして、ハルヒを満足させてこれたかな、と思っている。  
 
 
だが、一つ。 
俺としては決して繰り返したくないことがある。 
もちろん、長門の世界改変だ。 
世界改変後の世界で出会った、眼鏡をかけた、内気な文芸部員の長門。 
その長門に向かって銃を構えた時の、長門の怯えた表情。 
今でも、その小さな姿がくっきりと記憶の底に焼きついて残っている。 
まあ、ついでに言えば、情報統合思念体の急進派が派遣した朝倉涼子に、腹をぐりぐりとぶっ刺されたことも、強く記憶に残っているが。 
こっちの記憶のほうは、長門によって無害に再構成された、今の朝倉を見ていると、どんどん薄れてきているのが幸いだな。 
「どうしたの、キョンくん、ボーッとして……?」 
文化祭で作ったウエイトレス衣装で、胸の前にお盆を抱えた朝倉涼子が、俺の顔を覗き込んでいた。 
おっと、いかん、SOS団の会議をはじめなくちゃな。 
「えーと、今年もSOS団恒例の、クリスマス鍋パーティーを行う」 
ニヤニヤ笑うハンサムエスパーは、ちょっと肩をすくめた。 
「まだ、結成してから一年経たないのに、恒例の……ですか。なるほど」 
うるさい、クリスマスといえば、部室で鍋パーティーだ。これは一年前からの既定事項なんだよ。 
それに、長門の改造によって、部室にはほぼ完璧なキッチンが設置されている。これで料理をしないのはいかにももったいないじゃないか。 
ちなみに、女子用の更衣室も小さいながらある。まさに至れり尽くせりのSOS団である。 
「鍋ぇ!?クリスマスなのに?まあいいけど。あ、あたし、蟹は嫌だからね。あれ、身をほじくるのが面倒くさいったらありゃしないんだからっ!いっそのこと――」 
「……甲羅まで食べられる蟹は存在しない」 
はい、長門、その通り。先手を取られて、ハルヒは、うっと言葉を詰まらせる。 
「有希……。まだ、何も言ってないじゃない」 
「だが存在しない」 
「むー……」 
ハルヒが例のアヒル口になった。SOS団の部室は暖房設備が行き届いているとはいえ、さすがにこの季節だバニーガールの衣装では寒すぎる。ハルヒは北高の制服姿だ。 
「ハルヒ、それより、持ってきたものがあるだろ」 
俺の言葉に、ハルヒはスイッチを切り替えたようにパッと顔を輝かせると、朝の大荷物をごそごそとかき回した。 
「うんっ!クリスマスグッズ揃えてきたわっ!!クラッカー、ローソク、ミニツリー、雪だるま人形、モール……あ、あったあった!みくるちゃんっ、これっ!じゃじゃーんっ」 
ハルヒが得意満面で取り出したのは、もちろん、サンタクロースのコスチュームである。 
こちらは季節と関係なくメイド姿の朝比奈さんが、ビクリと体を震わせる。 
「ふえぇ、ここここれ、下のズボンはないんですかぁ?み、短いかと……」 
「当然っ!!さ、着替えてきなさいっ」 
サンタ服を押し付け、朝比奈さんを更衣室に放り込んだ後、ハルヒはごそごそと、とんがり帽子を取り出し、ふかふかの椅子に深く腰を沈めて本を読んでいる長門の頭にポンと乗っけた。 
やれやれ。と、俺は溜息混じりに苦笑した。こんなところまで一年前と同じだな。 
パラ、と長門がページをめくる。巫女さんの衣装に、いつもの無表情。 
……だが、心の中では、何を考えているんだろう?  
 
 
 
『……改変の恐れはない』 
そうか……すまん、なんだかんだ言って、気になってな。 
『万が一、私が改変を行ったとしても、あなたは、一年前と同じように行動すれば良いだけ。問題ない』 
……お前が、緊急脱出プログラムを組まない可能性は? 
『大規模な時空改変が起きたとき、涼宮ハルヒたちSOS団員が部室に集合することで、緊急脱出プログラムを起動させるよう、既にパソコンにプログラムしてある。 
その場合、時空改変の起こる一時間前の私の部屋に、あなたを転送するようセットした』 
まるでシステムの復元だな。 
『そう』 
やれやれ。そこまで長門が用意していてくれたら、心配することはなさそうだな。 
『もし、改変が起きたら、文芸部の私に、やさしくして欲しい』 
もちろんだ。怖がらせるような真似はしない。あと、改変防止のプログラムは、出来たら銃の形はやめてくれ。あっちの世界の長門が怖がっていた。 
『考えておく。……あと』 
なんだ? 
『ゴムを付けてくれれば、改変を行った私との結合を許可する。やさしくしてあげて』 
俺が反論の言葉を考える前に、長門は電話を切った。 
ゴムの用意か……はっ、いかん、いかん!あっちの世界の長門を襲うなんてことができるかっ! 
 
 
さて、翌日。 
朝出会った谷口は、しっかりと白いマスクをしていた。いつもは陽気な谷口が、流行の重い風邪でどんよりと苦しんでいるようすは、見ているこっちも辛いものがある。 
やれやれ。 
俺は日本海溝のように深い深い溜息をつく。 
昨晩の長門の言葉に反して、しっかりと改変は行われたようだ。 
まあ、俺があたふたと騒いでも仕方がない。周りの人間に、痛い痛い電波を受信しているやつだと思われるのがオチだ。一年前の経験が、そう教えてくれる。 
今回は、長門がきっちり緊急脱出プログラムを組んでくれていることだし、その発動条件も分かっている。 
ハルヒ、朝比奈さん、古泉、長門、俺、朝倉、六人のSOS団メンバーを文芸部室に連れて行けばいい。 
まあ、焦ることはないさ。フライパンに乗っけられたアヒルみたいにうろたえるのはごめんだ。 
クラスで風邪が流行っていてどうのという谷口の話にも、俺は適当にあわせて相槌を打つ。 
教室に入ったら後ろの席にはハルヒが居ないんだろうな。おそらく、古泉と一緒に別の学校に飛ばされたはずだ。 
……そうだ。丁度いい、確認しておくか。 
「谷口、涼宮ハルヒって知ってるか?」 
「知ってるもなにも、ゴホ……東中出身であいつのことを忘れてるやつがいたら、まず間違いなく若年性のアルツハイマーだな。断言してもいい。 
面のほうは、すっげえ美人なんだが、とにかく頭の中が年中あったかくて……」 
「いや、涼宮の武勇伝はいい」 
俺は谷口を遮る。 
「今、そいつはどこの高校に行ってるんだ?」 
「光陽明学院だよ……。駅前の進学校だ。ゲホ、あいつ、頭はおかしいのに成績はよかったからなぁ……」 
やれやれ、間違いなさそうだ。 
「なんだぁ、キョン、どっかで涼宮に一目ぼれでもしたかぁ?忠告するぜ、やめとけ」 
谷口、ニヤニヤしてるのが、マスク越しにもわかるぞ、気持ち悪いからやめろ。 
「お前の女房が悲しむじゃねえか、だろ?」 
女房? 
なぜかエプロンをつけた長門の姿が頭に浮かんできて、あわてて頭を振って打ち消した。  
 
 
教室に入ると、ハルヒが座っているべき俺の後ろの席には、ポニーテール姿の美人委員長、朝倉涼子が座っていた。 
……まあ、想定の範囲内だな。 
俺が入っていくと、朝倉は飛びっきりの笑顔で出迎えてくれた。一年前とはえらい違いだ。 
まあ、当たり前といえば当たり前か。いまの朝倉は、長門が無害化して再構成した、普通の高校生だからな。 
「おはよ、キョンくん!」 
「ああ、おはよう。朝倉、風邪は大丈夫か?」 
朝倉はちょっと顔を赤らめて、にっこりと微笑んだ。ポニーテールがふわふわ揺れる。うーん、やっぱり朝倉にはポニーが似合う。 
「うん、ようやく治ったみたい……心配してくれてたの?」 
嬉しいな、と小さく呟くと、朝倉は、頬を染めながら、俺の耳に口を寄せた。 
「……ね、今日、一緒に帰らない?おでん作ったから、晩御飯、食べさせてあげる」 
おでん、おでんか……ああ、よだれが出そうだ。一年前、朝倉が作ってくれたおでんは、死ぬほど旨かった。そして、実際そのあと死にかけた。 
「ちょっと、放課後、用事があってな。そのあと、お前の家に行ってもいいか?」 
「ううん、じゃあ、この教室で待ってる。キョンくん、用事って?」 
「文芸部に仮入部」 
朝倉涼子はまじまじと俺を見つめて、亀が甲羅を脱いで走り出したかのを目撃してしまったように、実に意外だという表情をした。 
やれやれ、そんなに俺は本を読んでいるイメージがないのかね? 
 
 
放課後、部室棟に向かう途中、朝比奈さんと鶴屋さんが仲良く向こうから歩いてきたのに行き当たった。 
こんにちは、朝比奈さん…… 
「……?えっと、どなたでしたっけ……」 
しまったっ!朝比奈さんは俺のことを知らないんだったっ。 
鶴屋さんが、まじまじと俺の顔を見つめて、何かを悟ったかのように、ポンと手を打ち合わせた。 
「ははあ、少年っ!さてはみくるファンクラブの会員だねっ!?うん、一年生かなっ?」 
鶴屋さん、相変わらずのハイ・テンションだ。だが、ナイスフォローです。 
「……ま、そんなとこです。キョンとでも呼んでください」 
とたんに、朝比奈さんは顔を赤らめる。恥ずかしがってプルプルと首を振る仕草が可愛らしい。 
「ふえ、そそそんな、ファンクラブだなんて……その、あ、ありがとうございます……えっと、キョンくん……?」 
一年前、朝比奈さんが心底怯えて、俺のことを拒絶する目で見ていたことを考えれば上出来だ。俺は笑顔をつくって頷いた。 
「おやおや、みくるっ!赤くなっちゃって、可愛いなっ!!あはは、キョンくん、うちの娘をよろしく頼むさっ!」 
「つつつ鶴屋さんっ!もうっ」 
朝比奈さんが顔を真っ赤にして、プッと頬っぺたを膨らます。 
「また、そのうちお会いするかもしれません。そのときは宜しく」 
「あ、はぁい。さよなら、キョンくん」 
「じゃあねっ、少年、大志を抱きなっ!!」  
 
 
文芸部のドアの前で、俺は一つ大きく深呼吸をした。 
久しぶりの、こちらの世界の長門有希との再会だ。頭に、眼鏡をかけた内気な文学少女の姿が浮かんでくる。 
俺はドアに手をかけ、思い切ってドアを開けた。するとそこに―― 
いた。 
長門有希。 
座っていた粗末なパイプ椅子から立ち上がって、じっと俺を見つめる、驚いたような表情。 
その端正な顔には、眼鏡が―― 
あれ? 
眼鏡が――ないぞ。 
ど、どういうことだ?俺はまじまじと長門を見つめ、一年前との違いにようやく気が付いた。 
手に持っているのは分厚い本じゃなく、薄っぺらな新聞。そして傍らに置いたラジオ。イヤホンが片耳に伸びている。 
そして、眼鏡のつるがかかっているべき耳には―― 
赤鉛筆だ。 
俺は絶望的な気持ちで溜息をついた。 
競馬狂、長門有希がそこにいた。 
 
俺がいきなり入ってきたので、一瞬立ち上がった長門は、すぐまた椅子に戻り、視線を競馬新聞に落とした。まるでスプーンを曲げようと試みる5歳児のように真剣な目つきだ。 
「あのー、長門、さん?」 
長門は、ちら、とこちらに、草むらに隠れた路傍の石でも見るような視線を送った。 
「なに」 
それっきり、また競馬新聞に没頭する。 
「ちょっと、その……話があって……」 
「あと」 
戦場で聞かされたら、相手の戦意を完全に断ち切るような即答だ。 
「レースが始まるから」 
長門は、イヤホンに片手を当て、ラジオから流れる実況に耳を澄ましているようだ。 
やれやれ……。 
俺はひょいと、長門の手元にある競馬新聞を覗き込んだ。びっしりと赤鉛筆で、予想やデータが書き込まれている。相変わらずのきれいな楷書体だ。 
と、そこで昨日の記憶がフラッシュ・バックする。 
たしか、昨日、SOS団の巫女さん長門も競馬新聞をチェックしていた。何でも、今世紀四番目の大穴がでるから、資金をまわすとか……。 
あいつの場合は、実際に結果を知っているのだから、予想ではなくただのインチキなのだが。 
はて、そのとき、長門が赤丸で囲んだ馬は……たしか……。 
「……長門さん、この、アサクラアサシンって馬が一着になると思うぞ」 
長門有希は、幸運を呼び込む壺を売りにきたセールスマンを見るように、胡散臭そうに俺をみて、ばっさりと袈裟切りで切り捨てるように断定的に言う。 
「ない」 
「いや、でも……」 
長門はやれやれといった表情になる。古泉だったら肩の一つもすくめるところだ。 
「不可能。無理。素人考え。……火傷をする前に馬はやめたほうがよい」 
このやろう……いいだろう。未来を知っている人間の強さを見せてやるよ。 
 
「…………………」 
レースが終わり、長門有希は三点リーダを大量生産しながら、俺の顔を穴が開くほど見つめている。 
その視線は、先ほどまでの、石ころに向けるような無感動なものから、うって変わって、驚嘆と尊敬に満ち溢れてきらきらと輝いている。 
「……師匠」 
こら、誰が師匠だ。  
 
 
調子を狂わせられっぱなしの俺は、ようやく本題を切り出した。……とはいえ、この分じゃ期待はできないがな。 
「あー、長門、お前、俺と会ったことがあるか?」 
「ない、師匠」 
そうか……やはりな。こちらの世界の長門有希が、読書狂じゃなくて、競馬狂になっているんだから、図書館で俺に出会った記憶がないってことは、まあ、不自然じゃない。 
「……でも、師匠のことは知っている」 
ああ、まあ同じ学校なんだから、見たことぐらいはあるだろう―― 
「師匠は、私と同じマンションに住む、朝倉涼子の婚約者」 
 
「あ、いたいた」 
そのとき、当の朝倉涼子が、ドアを開けて文芸部室に入ってきた。 
い、今、長門はなんと言った?婚約、俺と朝倉涼子が? 
谷口の言葉が頭を掠める。女房。あれは、朝倉のことだったのか。 
朝倉はにこやかに、黙り込んでしまった俺を長門に紹介する。 
「長門さん、こちら、キョンくん。知ってるよね、あたしと同じクラスの……。彼、文芸部に入りたいんだって」 
その一言で、長門は、納得したようにこっくり頷いて、パタパタと棚に歩いていくと、入部届けの用紙を持ってきて、俺にさしだした。 
「今、部員は一人」 
長門は、ちょっと頬を赤らめた。そして、微かにだが、笑ったように見えた。 
なんだか、あれほど見たいと思っていた長門の笑顔さえ、異質なものに思えてしまう。 
変だぜ、この世界。競馬狂? 
「師匠で、二人目」 
 
 
俺と朝倉と長門は、三人で朝倉の家まで帰った。 
うーむ、思考が上手く働いてくれない。あと、長門、頼むから師匠って呼び方はやめて欲しい。 
朝倉が俺の腕に、ごく当たり前のことのように自分の腕を絡めてきたのも、俺の思考を停止させるのに一役買ったと思われる。 
これじゃまるで恋人同士じゃねーか――と、突っ込んでみても、事実、この世界ではそうなのだから仕方がない。恋人どころか、既に婚約しているのだ。 
SOS団にいるときのような、少し翳のある笑顔ではなく、心の底から喜んでいるようないい笑顔をつくる朝倉涼子の顔を見ていると、なんだか、俺のほうまで変な気持ちになってくる。 
まるで、ずっと前から朝倉が恋人だったような―― 
やめろ、俺。元の世界にかえれば、俺にはハルヒがいるだろうが。 
しかし…… 
俺はちらりと横を見る。 
長門は、すっかり尊敬のまなざしで、俺のことをその黒曜石のような瞳でじっと見つめている。 
そう見るなよ、俺には予想師の才能なんてまるでないんだから……。 
「師匠、聞いて欲しい」 
なんだ、長門? 
「この長門有希には夢がある――いつか、馬主になりたい。自分の馬で、レースを勝ち抜いてみたい」 
……その馬につける名前も、もう決まっているんだろ? 
長門はコックリと頷く。 
俺と長門は同時に言った。 
『サイレントユキ』 
やれやれ。  
 
 
長門の大食漢ぶりは相変わらずで、すっかり腹の減っていた俺も、朝倉の作ったおでんを貪り食う。うむ、うまい、やはり絶品だ。 
あっという間に夕食を平らげると、長門有希は、つと立ち上がった。 
「長門さん、帰るの?」 
長門は無言で頷く。そして、俺の方を見て言った。 
「師匠、また明日、部室で」 
そう言い終ると、長門はするりと玄関から出て行った。 
「ふふ、意外だな、キョンくんが、長門さんと仲良くなるなんて」 
長門を見送った俺に、朝倉が嬉しそうに言った。 
まいったね。 
いずれにせよ、明日、ハルヒと古泉、朝比奈さん、朝倉を連れて、文芸部室に行けば片がつくことだが。 
元の世界に戻ったときに、長門にじっくり話を聞いてみたい。何考えてんだ? 
「じゃあ、俺もこれで――」 
と腰を上げてかけると、朝倉は助けた亀に殴られた浦島のように、びっくりして目を丸くした。 
「ど、どうしたの、キョンくん。なにか特別な用事でもあるの?」 
い、いや、そんなものは別にないが。 
「じゃあ、いつもみたいに泊まっていくんでしょ?一緒に、お風呂はいろうよ」 
お風呂?いつもみたいに?お風呂?一緒に? 
急に、朝倉はクリスマスプレゼントが貰えなかった子供のように、悲しそうな目になる。 
「……あたしのことが嫌いになったの?だから帰るって――」 
「ち、違うっ、違う違う!そ、そうか、そうだな、風呂に入らせてもらおうか」 
慌てて力いっぱい否定してしまった。 
朝倉は顔を赤くして、下を向きながら言った。 
「じゃあ……お風呂場行こう、ね?」 
 
俺が戸惑っている間に、朝倉はするすると自分の服を脱いだ。それがさも当然であるかのように、俺の前に豊かな白い裸体をあらわにする。 
「キョンくん、脱がないの?」 
「あ、いや、その緊張して……」 
実際は膨張だがな。主にトランクスの中が。 
「ふふ、変なの、婚約者なのに、いまさら緊張なんて……しかたないな、脱がしてあげる」 
「い、いや、大丈夫だっ、自分で脱ぐからっ」 
朝倉が屈み込んで俺のズボンのチャックを下げようとしたのを止めて、俺はあわてて、朝倉を風呂場に押し込んだ。 
腰にタオルを巻いても、息子の頑張りは隠しようもない。諦めて、タオルは手にもったまま風呂場に入った。 
「背中流してあげる」 
朝倉は、俺を座らせて、背中に石鹸を塗りたくる。スポンジの感触が背中を這い回り……ってあれ、なんか違うものの感触だ……これは…… 
「あ、朝倉、その、胸があたってる」 
「そう、こっちが元気になっちゃうかな?」 
朝倉は、いたずらっぽく笑うと、俺の股間に手を伸ばした。 
うっ、おいよせ朝倉っ、息子をなでなでするな! 
「後でたっぷり頑張ってもらうんだもの……ねぎらわなきゃ、ね」 
ねぎらう必要なんてない。十分に元気いっぱいだ。こいつは今100パーセント中の100パーセントになっているところだぞ。 
朝倉がシャワーで泡を洗い流し、俺が逃げるように湯船につかると、朝倉が後から湯船にはいってきた。 
広めの湯船とはいえ、二人で入れば当然ながら、俺と朝倉の体は、ちょうど抱きかかえるように密着した。 
「キョンくん……その……硬いの、あたってる……」 
朝倉が赤い顔をして呟く。すまん、だがどうしようもない。 
「ね、手をまわして……抱きしめて……」 
言われたとおりにした。朝倉の体はひどく柔らかい。 
朝倉の肩から漂う、石鹸の匂いに、脳みそが融けそうだ……。  
 
 
朝倉が髪を乾かしている間、朝倉に言われたように、朝倉の部屋で、ベッドに腰掛けて待つ。 
さすがに、自分のパジャマが用意されているのを知ったときには愕然としたね。どんだけ入り浸ってるんだ、俺は。 
ふとベッドの枕元の方を見ると、そこに―― 
あった。 
シンプルな写真立て。そして、あの写真が。 
夏合宿の時に撮った、SOS団の集合写真。困惑したような、朝倉の微笑。 
写真を見つめるうちに、融けきった脳みそが、ようやく少し動き出す。 
だが、また疑問が増えちまった。 
なぜ、この写真は改変を免れた?なぜ、長門は図書館に行った記憶を持っていない? 
今度の改変は、一年前のときとどこか違っている。そのことは分かる。 
では、どこが違うのか? 
そこで俺の思考はフリーズする。 
やれやれ。 
長門有希、一人きりのがらんとしたマンションで、今、何を考えているんだ? 
浮かんできた映像は、大量のデータと睨めっこしながら、予想師としての腕を磨く長門の姿だった。 
ううむ、緊張感がない……。 
 
パジャマ姿で朝倉涼子が部屋に入ってきた。 
「朝倉、この写真、いつ、どこで撮ったか覚えているか」 
「え、写真?」 
朝倉は、写真立てを取り上げると、しげしげと覗き込んだ。 
「変だな……この写真、撮った覚えがないわ……あなたと長門さんと……後は知らない人たちね」 
おかしいなあ、と朝倉は首をひねった。 
「キョンくん、この人たち知ってる?」 
ああ、知ってるさ。明日、お前にも会わせてやるよ。 
「ふぅん……ずいぶん仲が良さそうね……」 
俺の腕を取ったハルヒの笑顔をまじまじと見つめながら、朝倉がぼそりと呟く。 
ひょっとして、やきもちか、朝倉? 
「……ばか」 
朝倉はプッと頬っぺたを膨らませた。ドスンと俺の横に腰を下ろし、俺の肩に頭をもたれさせる。 
俺の心臓はバクバクと鼓動を速めている。 
……さて、どうする? 
どうしようもない。流れに従うこと以外に、俺になにが出来るだろう? 
俺は朝倉の肩に、震える手をまわして、朝倉涼子を抱き寄せた。 
「キス、して」 
朝倉が目をつぶった。 
 
パジャマを脱がせ、シンプルな白い下着をとると、朝倉が一糸まとわぬ姿が現れた。ふくよかで柔らかそうな体、大きな胸。相変わらず、プロポーションは抜群だ。 
「やだ、そんなにまじまじ見つめないで……」 
慌てて朝倉が胸を隠そうとするが、腕に圧迫された乳が横からこぼれて、余計に興奮させる。 
朝倉も、恥じらいのためだろうか、ミルクのように白く艶やかな肌の胸元を、ほのかに赤く染めていた。 
俺は、さらに速く、バクバクと心臓を鼓動させながら、手を伸ばして朝倉の胸に触れてみた。吸い込まれるように柔らかい。 
「んっ……」 
朝倉がピクンと体を震わせる。さらにピンク色の乳首を触っていると、次第にその突起は硬くなってきた。 
「んん……もお……」 
朝倉が俺に抱きついてくる。貪るように、朝倉は俺の口を吸った。 
「んくっ……ちゅる……ぷはっ……ねえ、キョンくん……」 
ん、どうした? 
朝倉が赤い顔で、わずかに瞳を潤ませている。 
「……今日も、あれ言わなくちゃ駄目?」 
あれってなんだ――と言いかけたが、ここは無言で頷いておこう。きっと好きだとか愛してるだとかなんとか、そんなセリフだろ、おそらく。 
朝倉は、恥ずかしそうにコックリ頷くと、俺から体を離し、ごろんとベッドに寝転がり、柔らかな太腿の奥にある、自分の茂みの下を広げてみせた。 
「キョンくん、お願いします……涼子のおま×こ、な、舐めてください……」 
えええええ!? 
懸命にそのセリフを言い終わった朝倉を、俺は呆然とした顔で見つめていた。 
俺は朝倉に、こんなことを言わせていたという設定になっていたのか……。 
朝倉にこんなことを言わせている自分をぶん殴ってやりたい。 
いや、そのように世界改変をしたのは、そもそも長門だから…… 
「も、もう一回?お願いします……涼子のおま×こを――」 
「い、いや、いいんだ、スマン、朝倉!」 
慌てて遮ると、俺は朝倉の腿の間に顔を埋めた。 
「あんっ……くうっ……キョンくん、いいよお……くぅん」 
長門、長門、そっちの世界に戻ったら、じっくり話を聞かせてもらうからな!!  
 
 
俺は、朝倉の大事な部分に、身を硬くした自分の息子をあてがい、一気に腰を沈めた。 
「あはぁっ……うう、キョンくんのが、入ってる……あんっ……」 
そのまま、ゆっくりと腰を動かす。 
「あんっ……んんっ……気持ちいいよ……キョンくん……」 
うう、腰の動きが自然と速くなる。朝倉は嬉しそうな声を漏らした。 
「あんっ……あはあっ……いいよぉ、キョンくんっ、あん、あん、あん、ああんっ、気持ちいいっ!!」 
下半身に比重の重い液体がたまっていくような感覚。それがゆっくりとせり上がってきて、あふれ出ようとする。 
「ああん、ああんっ!!あん、あん、ああん、あはあっ……いっ、いい、いきそお、キョンくんっ」 
朝倉が腰をくねらせ、ビクンと体を震わせた。 
「あうっ、あはああああああああっ!!!……あふっ……あはっ……ふうっ……」 
俺は、達してビクビクと体を震わせている朝倉に口付けをした。 
「……大好き」 
俺もだ……決して嘘じゃない。 
だが……。 
俺の居場所はここではないんだ。 
 
 
「朝倉、ちょっと用事があって、午後の授業はサボるから、放課後、文芸部で待っていてくれないか?」 
翌日の昼休み、俺と向かい合ってお弁当を食べていた朝倉涼子は、ご飯を運ぶ箸を止めた。 
「うん、いいけど……それって、写真の人たちのこと?」 
「そう」 
俺はブレザーのポケットから写真を取り出す。今朝、朝倉に言って借りたものだ。 
これが切り札の一つになる。そんな気がしたからな。 
「キョンくん、成績いいから大丈夫だと思うけど、あんまりサボっちゃだめよ」 
朝倉はウインナーを箸でつまむと、にっこりと微笑んで、俺の方に差し出す。 
く、口をあけろというのか……クラス中が微笑ましい光景でも見ているように、俺とお前の昼食風景を眺めているんだぞ。 
「……食べたくない?」 
朝倉が悲しそうに瞳を潤ませる。クラス中から放たれる、突き刺すような鋭い視線が痛い。 
俺は観念して、口を開けた。 
朝倉が嬉しそうににっこりと微笑む。 
「はい、キョンくん。あーん」 
うう、俺はなにをやっているんだ……長門、俺に何をさせたいんだ……お前は。  
 
 
光陽明学園の前で待つこと、二時間近く。 
もう少し遅く出てもよかった気もするが、一年前とのズレは看過できないレベルだ。なんかの拍子で、ハルヒと古泉に出会えなかったら痛い。 
男子は詰襟、女子はブレザー。共学になった私立学園の、制服姿の高校生たちが次々と下校してくる。 
さて、古泉とハルヒが出てきたら、なんと言って話しかけるか? 
俺が苦心して適切なセリフをひねり出そうとしているとき―― 
 
出てきた。 
涼宮ハルヒと、古泉一樹。 
 
ハルヒの髪が長い。腰まで届くロングヘアだ。そして、入学当初のような、つまらない日常に苛立つ不機嫌な表情。 
一年前と変わっていない。金魚の糞のように古泉がくっついているが、さて、こっちの古泉は、ハルヒのことが好きだとかぬかすかね? 
 
「古泉一樹と、涼宮ハルヒだな?」 
古泉とハルヒは、キャッチセールスでも見るように、胡散臭そうに立ち止まった。 
「ええ、そうですが……はて、あなたはどなたでしょう?」 
ハルヒも絶対零度のように冷たい視線を俺に向ける。 
「なんであたしの名前を知ってんの?あんた、ストーカー?北高の制服ね……なんの用?ナンパならお断りだから」 
視線で殺そうとでもいうのか、ギロリと俺を睨みつけるハルヒ。やれやれ、まあいい。どうせ、言うべきことは決まっているんだ。 
「三年前の七夕、お前は学校の校庭に白線でメッセージを書いた」 
む、とハルヒが眉をしかめる。 
「……それがなんだってのよ、ふん、誰だって知ってるわ、そんなこと」 
「聞け。そのメッセージは、織姫と彦星に宛てられたもので、内容は『私はここにいる』だった……」 
さっとハルヒの顔色が変わる。猛牛のごとく俺のネクタイを引っつかもうとするハルヒを、俺はひらりとかわす。 
「な、なんで読めるのよ……あたしが考えた宇宙語を……確かにそう書いたけど……」 
なんで知ってるか、教えてやるよ。だってな…… 
「ほっとんど俺が書いたじゃねえか、あれは!」 
よし、言ってやったぜ。ハルヒが瀕死の金魚のように口をパクパクとさせた。 
「あ、あんた……じゃあ……」 
そう。その通り。 
「俺がジョン・スミスだ……まあ、キョンってあだ名のほうが慣れてはいるが」 
さて、話を聞いてもらおうか。 
ハルヒは、呆然とした顔で、コックリと頷いた。 
 
「SOS団か……楽しそうね」 
はあ、と涼宮ハルヒは溜息をついた。一方、古泉の方は、相変わらず半信半疑の表情だ。というか、完全に信じてないだろうな、この表情じゃ。 
「信じられないか?」 
俺は古泉に聞いてみる。古泉は肩をすくめた。 
「あなたがジョン・スミスさんである、という確証もありませんしね。北高には、三年前に本物のジョン・スミスさんがいて、あなたは単にその話を聞いたのかもしれません。 
その場合、タイム・トラベルを持ち出さなくとも説明がつきます」 
「なるほど。ちなみに、俺のいた世界では、お前はガチでホモだったぜ」 
「こちらでもそうですよ」 
古泉はさらりと流す。 
爽やかだがぞっとする。実にぞっとする。 
俺はポケットから、かねてからの写真を取り出した。 
「じゃあ、これはどう思う?単なる合成に見えるか?」 
俺たちSOS団が写っている、この世界では唯一の写真。 
古泉は、まじまじと写真を覗き込み、写真をひっくり返し、またまじまじと眺め、やがて溜息をついた。 
「お手上げです。まるで本物ですね……この写真の季節は夏ですか?」 
「SOS団の夏合宿だ。孤島に遊びに行ったんだよ。俺が平行世界からやってきたことの、唯一の証拠になっちまったが……」 
ハルヒも目を丸くして、自分の写った写真を眺めている。 
「これが……SOS団の団員たち?」 
その通りだ。宇宙人、未来人、超能力者。あと、俺と朝倉が普通人だ。 
さて。 
「北高にくれば、そいつらに会わせてやれる。どうだ、来るか?」 
ハルヒは、全力でブンブンと音がしそうなほどに首を縦に振り、古泉もしぶしぶといった様子で頷いた。  
 
 
ハルヒと古泉を、朝倉と長門が待つ文芸部に押し込み、「師匠……」「キョンくん……」という声を振り切って俺は書道部に向かう。 
ちょっとお話が……というと、朝比奈さんは案外素直に頷いてついて来てくれた。昨日挨拶しておいたことが功を奏したようだ。 
俺がドアを開けて、一同、訳がわからない、といった顔をしている文芸部室に朝比奈さんを連れて入ると―― 
パソコンの電源が入った。 
俺はまっすぐパソコンの前に座る。やれやれ、これで任務完了だ。 
 
YUKI.N> これは緊急脱出プログラムである。起動させる場合はエンターキーを、そうでない場合はそれ以外のキーを選択せよ。起動させた場合、あなたは時空改変の機会を得る。 
 
カーソルが言葉を紡ぐ。 
 
YUKI.N> このプログラムが起動するのは一度きりである。実行ののち、消去される。非実行が選択された場合は起動されずに消去される。Ready? 
 
「なんなのこれ?どういうこと?ちょっと、ジョン、説明しなさいっ」 
ハルヒがわめく。 
「自分の世界に帰るんだよ……」 
俺は、長門の顔を見る。困惑した表情。 
そして―― 
朝倉、涼子。 
「キョンくん……どういうこと……ど、どこに行くの……」 
怯えた声を出す。泣き出しそうな顔だ。 
Enterキーにかけた手が震える。俺だって、この世界が嫌いじゃないさ。 
だがな、朝倉。 
俺がお前に――本当のお前に会うためには、俺は、ここにいるわけにはいかないんだ。 
「キョンくん、待って――」 
朝倉の声が聞こえたが、俺は、ぐっと目をつぶって、Enterキーを押し込んだ。 
 
 
次の瞬間には、俺は長門のマンションにいた。 
「あなたを待っていた」 
おう、二日ぶりだな長門。といっても、お前は今日俺に会ったばかりか。 
目の前の長門有希は、すっと立ち上がった 
「時間が惜しい。今すぐ出かける。説明は途中で」 
「お、おい、どうしたんだ?」 
「道々話す」 
俺は長門にものすごい力で引っ張られて、走るように長門のマンションを飛び出た。 
「ど、どこ行くんだ?」 
長門はワイヤーロックがかかったスクーターに近づくと、高速呪文を唱えてロックを外した。同時に、キーもなしにエンジンがかかる。 
「あなたの家。……乗って」 
おいまてそれは窃盗だ――という俺の抗議もむなしく、俺が後ろに乗った瞬間、長門は全速力でスクーターを発進させ、俺は後ろに吹っ飛びそうになった。 
「スピルバーグの映画では、宇宙人との二人乗りはもっと優雅だったぞ!」 
俺は長門の腰にしがみつきながら叫ぶ。 
「しっかりつかまって……ブースターモードで加速」 
長門がさらに高速呪文を唱え、さらにスクーターは急加速した。  
 
 
「時空改変を行うのは、朝倉涼子」 
俺の家に向かう途中、そう長門が言ったとき、俺は長門の腰にしがみつきながら叫んだ。 
「まて、そんなはずはない……だって、今の朝倉にはそんな力はないはずだ!お前が、無害に構成した普通の女子高生のはずだろ!!」 
「そう」 
長門が呟くように言う。 
「だが、情報統合思念体の急進派が、朝倉涼子に干渉した。朝倉の情報操作能力を復元し、その任務を進めようと独断専行……」 
朝倉の任務? 
「あなたを殺して、涼宮ハルヒの情報爆発を誘発すること」 
一年前の、薄く笑ってナイフを構えた朝倉の姿が頭に浮かぶ。 
「じゃ、じゃあ、朝倉は、俺を殺すために、俺の家に向かっているってのか!?」 
「そう。だが、朝倉涼子は、あなたを殺さなかった。そのかわりに……」 
ようやく、俺の頭の中で、すべてのことがつながった。 
 
 
俺の家の前について、俺と長門はバイクを乗り捨てた。誰だか知らないが、持ち主、スマン。 
「間に合った」 
朝倉涼子は、まだ来ていないようだ。 
長門は、ふと目を伏せる。 
「……本来、安全を考えれば、あなたを連れてくるべきではなかった。だが――」 
俺にも長門の言いたいことは分かった。 
そう、俺が見届けなくてはならないんだ―― 
この事件の、決着を。 
俺は長門に向かって頷いた。 
そのときだった。 
 
暗闇の中から、ゆっくりと人影が出てきた。 
長い髪、制服のスカートの下に伸びる足、白いハイソックス。そして、凍りついたような薄い笑み。 
右手に持った、大型のごついナイフが、電燈に照らし出されて冷たい光を放つ。 
情報統合思念体の急進派が、俺を殺すために作成したヒューマノイド・インターフェイス。 
朝倉、涼子。  
 
 
「あら、長門さんじゃない……こんな時間に何をしているの?」 
朝倉が長門に問いかける。にこやかな笑顔。だが―― 
その表情は、薄っぺらの作り物だ。 
長門によって再構成された、SOS団団員の朝倉涼子の表情が、俺の頭をよぎる。 
 
困ったように微笑む顔。喜びにあふれた表情。うつむいて涙をこらえる顔。 
 
どれもこれも、作り物の表情じゃなかった。本物の感情が表れた顔だ。 
今、目の前にいる、朝倉涼子の、笑顔とは違う。どれだけそれが、笑っているように見えたとしても、こいつの表情は作り物だ。 
「あなたの目的は分かっている……彼を殺させるわけにはいかない」 
「彼?」 
そういった瞬間に、朝倉がピクリと体を震わせた。 
「それが私の任務だもの……そうしなくてはならないの。それとも、邪魔する気?」 
朝倉の動きがおかしい。 
体を小刻みに震わせ、動きがぎこちない。言葉も、微かにどもるような口調になっている。 
長門が言う。 
「あなたは、蓄積したエラーデータによって正常稼動することが出来ない。……私には勝てない」 
「……やってみなくちゃ分からないわよ……殺さなくちゃいけななないいいののの……彼を……キキキキョンくんんんをを」 
朝倉の言葉は、異常動作をしたCDのように、奇妙な繰り返しをする。 
ぶるぶると朝倉の体が震えだし、朝倉の顔に張り付いた冷たい笑顔が、はっきり分かるぐらいに歪んだ。 
朝倉涼子の表情が変わる。 
その顔が――いまにも泣き出しそうな顔になった。 
はっと俺は息をのんだ。 
――朝倉だ、SOS団団員の。間違いない! 
「朝倉っ!!」 
朝倉は、涙をぽろぽろこぼしながら、ぎこちなく俺の方に顔を向ける。 
「かかか体が、勝手にににっ……あああたしは、キョンくんんんのことを殺したたくなんかないのににに……」 
がくがくと震えて、朝倉は体をよじりながら、地面にひざをついた。 
長門の方にやっとのことで顔を向けた朝倉は、苦しそうに涙をぼろぼろと零した。 
「なな長門さん……たたたたたすすけて……こんなのこんなのののいいいややああああああ!!」 
それっきり沈黙すると、一回大きく、ビクン、と体を震わせ、やがて朝倉涼子は体を起こした。 
朝倉の体の震えは止まっている。 
俺の方を見た、朝倉涼子の冷たい目。その顔には、凍りついたような笑みが浮かんでいる。 
「さよなら、死んで!!」 
一閃、ナイフと腰だめにして、朝倉涼子は、俺に向かって飛び掛ってきた。 
 
ズンッ 
 
白刃が、柔らかい肉体を突き通す音。 
だが―― 
俺が刺されたわけじゃない。朝倉のナイフは、俺から50センチほどのところで止まっていた。 
「キョン……くん……」 
長門の腕が輝く刃に変わって、朝倉の胸を突き通していた。 
長門はひどく苦しそうな表情を浮かべている。涙が一筋、長門の頬をつたった。 
ズブ、と長門は朝倉の体から白刃を引き抜く。胸から血を噴出させながら、朝倉涼子は地面に崩れ落ちた。 
「朝倉ああっ!!」 
俺は朝倉に駆け寄った。 
朝倉涼子は、体をビクビクと痙攣させながら、微かに呟いた。 
「かか改変ん……しししなくちゃ……今度こそそそそ……ふつうののの……おお女の子で……キョンくんと……一緒……に……」 
長門が、朝倉の前に屈み込んで、朝倉の耳に囁く。 
「……その必要はない」 
長門を見つめる、朝倉の虚ろな目。 
「あなたを情報統合思念体から再切断する……目覚めたとき、あなたは元の、普通の高校生に戻っている……」 
朝倉が、かすかに微笑む。 
「安心して」 
そういった長門の目からは、涙が流れていた。 
「あ……り……が……と……」 
俺は、ようやく朝倉を抱きおこす。 
朝倉涼子は、既に意識を失っていた。  
 
 
 
さて、後日談。 
朝倉は眠ったまま病院に運ばれた。そのまま三日間、眠り続けている。 
もちろん、肉体的に傷がどうこうってわけじゃない。長門が、情報統合思念体からの干渉を防止する防壁プログラムを、じっくりと時間をかけて構築するために、構築のあいだ朝倉には眠ってもらっていた。 
そして、今日の朝、長門が電話で、プログラムの構築が終わったと連絡してきた。情報統合思念体の干渉は、今後、まず起きないだろうと長門は言う。 
そう信じたい。 
椅子に腰掛けた俺は、病院のベッドで眠り続ける朝倉涼子の美しい顔を見た。 
……朝倉は、俺を殺すように、情報統合思念体の急進派によって、プログラムの干渉を受けた。 
自分の意志に反して、俺を殺すために、俺の家に向かっているとき、朝倉はどんな気持ちだったのだろう。 
そして、そのぎりぎりの瞬間、朝倉はハルヒの能力を利用して世界改変をした。 
後のことは、俺が体験した通りだ。 
朝倉が改変した世界では、朝倉涼子は俺の婚約者になっていた。 
俺の弁当を作り、一緒にそれを食べ、ポニーテールを揺らして、幸福そうに笑っていた。 
あのとき、Enterキーを押さなければ―― 
果たして朝倉は幸せになれたのだろうか? 
俺は首を振った。 
断言する。 
答えは――NOだ。 
なぜって? 
俺は立ち上がって、朝倉の眠るベッドの枕元に置かれた写真立てを取り上げた。俺のポケットに入ったままだった写真。 
長門がもってきた写真立てに入れて、朝倉の枕元においてある。 
SOS団の集合写真だ。ハルヒ、長門、古泉、朝比奈さん、妹に抱きつかれた俺、そして―― 
困惑したように、微笑する朝倉。 
朝倉が、改変をした世界で、唯一そのままにしたもの。 
これが、お前の答えだと受け取っていいんだよな? 
SOS団のみんなと一緒に、この世界に留まることが。 
俺は、朝倉の顔を覗きこんだ。――そろそろだろうと思う。そんな予感がする。 
朝倉涼子が、目を覚ます。 
やがて、ゆっくりと開いていくまぶた。その瞳が―― 
俺を見る。 
泣くんじゃないぜ、俺。ここは笑うべきところだ。朝倉にお前の笑顔を見せてやれよ。ほら、笑え。 
俺は、こぼれてきた涙をぬぐうと、無理やりに笑顔を作った。 
 
「おかえり、朝倉」 
「……うん」 
 
朝倉涼子が、微笑んだ。 
 
 
 
おしまい  
 

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