たとえば市民プール。
ハルヒが冗談で買い与えた、大胆なセパレートの水着。
それを律儀に着てきたこいつの、白く細い身体を目にしたときからか?
たとえば夏祭り。
浴衣に揃え、決して長くない髪を器用に編み込んできた。
そのいつもとは違う髪型と、綿菓子を食べる幼い仕草に当てられたのだろうか?
たとえばセミ取り。
暑さにバテて木陰に座り込んだ俺の横に、黙って腰を下ろしてきた。
麦わら帽子の下、何を見ているのか知りたくて視線の先を追ったこともあった。
たとえば図書館。
宿題の資料を探しに行くのに、こいつを誘った。
冷房の効く静かな館内で、ふと隣に誰もいないような錯覚を覚えた。
振り向くと、切り取られたような空間で、黙々と文字を追う瞳。
ページを繰る手がぴたりと止まり、こちらを見て呟いた。
「……なに?」
たとえばいつもの喫茶店。
ハルヒがこれからの予定を話しているときに、ふと視線を向ける。
黙って紅茶を飲む姿を見て、不思議と心が安らいだ。
たとえば何でも無い日の夕方。
ヒグラシの声が響く中、自転車を押しながら二人で道を歩いた。
突然降り出した夕立に、慌てて近くの庇に逃げ込んだ。
黙って服に付いた雫を払う姿。湿った髪の毛が頬に張り付いた横顔。
何万とも分からない雨滴が、アスファルトにぶつかり音を立てる。
すぐに晴れた空は橙色に染まっていて、再びヒグラシの声が聞こえてきた。
たとえば別の何でもない夕方。
違和感に捕らわれて相談した俺に、お前は答えを返してくれた。
一万五千四百九十六回目の二週間。
笑うしかない、あまりに馬鹿げた繰り返し。
六百年分のリセットと、独りでその時間を蓄積し続けた小さな身体。
「役割だから」と答えたお前の顔に寂しさを見たのは、俺の都合の良い勘違いだろうか?
どれもが日常の中に埋没する小さな日常でしかなかった。
けど、どれもが分岐点で、どれが抜けてもここに辿り着きはしなかっただろう。
一万五千四百九十六回目に起きた偶然の重なり。
次に重なるには──、はたして幾度の繰り返しが必要だろうか。
『 長門有希の妄言 』
Outlier / Aug. Liar
頭がおかしくなりそうだった。魅せられたように、ただその細い身体を貪った。
驚くほど細い手足にクラクラした。驚くほど滑らかで白い肌にクラクラした。
なだらかな起伏は、驚くほどに柔らかい。触ればどこまでも沈んでいきそうだった。
ガラスよりも透き通った黒い瞳は、こんな時にもかかわらず冷静だった。
喘ぎ声一つあげない、身動き一つしない、ただ黙々と俺を受け入れている。
──その人形のような姿に、ゾクリと背徳的な快感を感じた。
「……っ、…………っ、長門……、」
下半身の一部だけの接触が、全身に信じられないほどの快感を伝えてくる。
脳みそまでもがドロドロと溶けてしまいそうだった。
その快楽をさらに得ようと、獣のように腰を振り続けている。
──その一方で、頭の片隅に妙に冷静な俺がいた。
そのもう一人の俺は、罪悪感で押し潰される寸前だった。
長門を犯している俺がいる。
そのことに罪悪感を感じながら、快感に抗えないでいる。
……違う。
そうやって冷徹な振りをして、ただ逃げているだけだ。
「…………き、……っ────……有希、っ!」
吸い込まれそうなほど黒い瞳が、冷静に俺を観察している。
その瞳の奥は、あまりに深く広大で、望遠鏡で覗いた夜空とオーバーラップした。
「、有希、……有希っ、……────有希っっ!!」
──── そして俺は、長門有希の中に果てた。
……
…………
……意識がぼんやりとしている。
暗闇の中で、チカチカと白く輝く星が渦を巻いている。
立ち眩みのような虚脱感と、墜落中のような浮遊感があった。
まず、煩いほどの呼吸音の出所が自分の口だということに気付いた。
そうなると、この煩いエイトビートは俺の鼓動だろう。
そこまで認識して、ようやく俺が半裸の長門に覆い被さっているという現状に気付いた。
今すぐに退いて、謝らなければいけない。そう思う。
しかし身体は意に反して──あるいは正直なのだろうか、俺は長門の身体を抱き締めていた。
どうせもう二度と触れないのだ、半ば自棄気味に細い身体を抱き締めた。
「……長門、スマン」
「いい」
レイプという最も非道な行いをしておきながら、俺の口から出た謝罪はそれだけだった。
それでも長門は許してくれる。
というより、もともと気にしてないのだろう。
白状しよう。
行為に及ぶに際して、長門ならば許してくれるという無意識の醜い打算があったはずだ。
長門の家に来たのは、宿題を手伝って欲しいという名目だった。
実際、すぐ横のテーブルの上には何とか終えることができた宿題が乗っている。
そのままお礼を言って帰るべきだった。
なのに俺は欲望に負けて──長門を押し倒して──そして────、
「気にしないでいい」
すぐ耳元から長門の声が聞こえる。
不思議だ。なぜ被害者である長門が、加害者である俺を慰めているのだろう。
俺はまだ長門を抱き締めたままだ。
触れた部分を通して、長門の体温が伝わってくる。
冷たい印象を持っていたが、予想していたよりも、ずっと暖かい。
いつまでも手放したくない。
しかし、またも身体は意に反して、ゆっくりと腕を解く。
長門から離れると、ぽっかりと何かが抜け落ちたような錯覚を覚えた。
身体を起こして、床に直接座り込んだ。
長門も身体を起こすと、俺の前に座り込んだ。
はだけたままのブラウスを直そうともせず、無表情に俺を見つめてくる。
その様子に、いつもと違うところはほとんど無い。
ただ一点だけの違い。いつものように正座ではなく、脚を崩して座っている。
陰になって見えないが、あの脚の間に、俺は身勝手な欲望を吐き出した。
「気にしないでいい」
俺の視線に気付いたのか、長門は先程と同じ言葉を繰り返した。
「夏休み中に、あなたがわたしと性交に及ぶ確率は十のマイナス五乗オーダー」
……そんなことまで確率的に出せるとは、まったく敵わない。
長門は一度そこで言葉を切った。
わずか数秒だが、沈黙が部屋を支配した。
一瞬だけ、長門の瞳が揺らいだ気がした。
それはまるで、これから言うことを躊躇っているようだった。
その真偽を確かめる間もなく、長門が再び口を開いた。
「だから一万五千四百九十六回のループにおいて、今回のシークエンスも、異常ではない」
ぐっと胸が締め付けられた気がした。
目の前が暗くなる。どんな非難の言葉よりも重く、俺の上にのし掛かる。
今回の出来事は、一万五千四百九十六回目に起きた、単なる偶然の重なりに過ぎない。
長門にとって、特別と呼べることではない。
俺はどんな顔をしていただろう。きっと世の中で最も醜い笑顔だっただろう。
目の前に鏡があったら、すぐさま叩き割ったに違いない。
そしてそれすらも、長門にとっては、どうでもいいことなのだろう。
「でも、ひとつだけ分からないことがある」
初めて長門の表情に変化が現れた。
それは普段から長門を見ていなければ分からないほどの小さな変化だ。
「性交の最中、あなたはわたしを長門ではなく有希と呼んだ。なぜ?」
──答えに詰まった。
長門が分からないことだから、どんな難問かと身構えていたのに肩透かしだった。
しかし、改めて問われると、どう答えて良いか分からない。
答が無いわけじゃない。
ただ、どう伝えて良いか分からない。
うまく言語化できず、どうしても情報伝達に齟齬が生じる気がする。
そこまで考えて、デジャビュを感じた。
何てことはない、すぐにそのオリジナルを思い出した。
まだ長門が眼鏡を掛けていた頃、栞に書かれた呼び出しで、初めてこの部屋に来た時のこと。
『うまく言語化できない。情報の伝達に齟齬が発生するかもしれない。でも、聞いて』
俺のどこにこんな記憶力があったのかと思うほどに、鮮明にセリフが再生された。
続けて、様々な映像が溢れ出した。
初めての出会いから、つい先程の過ちまで、長門有希に関わるあらゆる出来事。
その一つ一つのフェーズで、俺の中に何かが降り積もっていったのだろう。
どれもが日常の中に埋没する小さな日常でしかなかった。
けど、どれもが分岐点で、どれが抜けてもここに辿り着きはしなかっただろう。
長門有希に出会ってから今までに起きた、奇蹟のような偶然の重なり。
無性に嬉しくなって、思わず笑ってしまった。
仕方ないだろう。
すべてを解き明かしてしまう、魔法の言葉に気付いてしまったんだから。
俺は長門に告げた。
それは長門が困るであろう、論理破綻したファジーな回答。
────お前が好きだからという、身勝手で偽りの無い、想いの告白。
「…………そう」
予想していたが、長門の返答はあっさりしたものだった。
仕方がない。
長門は気にしなくていいと言ったが、俺は長門を犯したのだ。
そんなレイプ魔に、誰かに告白する──誰かに恋をする権利なんて無いだろう。
さすがにこれには長門も呆れたかもしれない。
しかし、続く長門の言葉は、予想しないものだった。
「……もう一度、呼んで欲しい」
思わず聞き返してしまった。
長門は何も言わない。黙って俺を見つめてくる。
無言のプレッシャーに押され……改めて、愛おしい二文字を口にした。
拷問に等しい恥ずかしさだった。
次の瞬間、俺の唇に、柔らかい何かが触れていた。
すぐゼロ距離の位置に長門の顔がある。
いつも変わることのない黒い瞳は、今は閉じられていて見ることが出来ない。
俺も目を閉じた。
レイプまでしておきながら、これが長門との初めてのキスだった。
──ゆっくりと唇が離れる。
氷柱のような長門の瞳から一筋だけ、雪解け水が伝い流れていた。
「……あなたに抱かれたとき、嬉しかった」
それは初めて長門の口から聞いた、長門自身の感情だった。
────そして初めて見る長門の笑顔は、哀しいほどに澄んでいた。
「わたしも、あなたのことが────、」
「キョンくん、あっさだよー! ……きゃふ!!」
ぼふん、と朝っぱらから元気に布団にダイブする妹。
嫌な予感がして寝返りを打ったすぐ横に、妹の身体が墜落した。
あぶない間一髪。避けなければ今頃俺はプランチャーの餌食だ。
「もー、キョンくん、避けないでよー」
身体を起こした妹が、ふくれっ面をする。
まったく、ラジオ体操なんぞに行っているせいで、朝からテンションが高くて困る。
おちおち感傷にも浸れないじゃないか。
…………おい待て、何で朝から感傷になど浸らなくちゃいけないんだ?
「どうしたのキョンくん、変な顔ー」
不思議そうに覗き込んでくる妹の顔に、一瞬、他の誰かの顔が重なった。
それが誰だか分からないまま、勝手に口が動いた。
「雪? キョンくん、今は八月だよ?」
……いや、それぐらい分かってる。あまり兄を侮るんじゃない。憐れむ目で見るな。
「おかーさーん。キョンくんがー夏休みボケしてるよー」
一階に下りていく妹の声を聴きながら、布団から起きあがった。
そのまま窓に向かい、外の様子を見る。
北半球中緯度に位置する弓状列島は、眩しいほどに夏真っ盛りである。
こんな時間からセミがじーわじーわと喧しく、太陽も核融合に余念がない。
今日も暑くなりそうだ……いや、既にもう暑い。
こんなことじゃ、雪なんて仮に降ったとしても、すぐに溶けて消えてしまうだろう。
まるで一夜の夢のように……
「──真夏の夜の夢か? ガラじゃないだろ」
思わず口に出してしまい苦笑した。
気持ちを切り替えるためカレンダーに目を移すと、夏休みもあと二週間である。
終盤戦か。どうせあいつのせいで無駄に密度の濃いことになるんだろうな。
その内、呼び出しの電話が掛かってくるだろう。
それまでは高校生らしく、寝っ転がってダラダラと大して興味のないテレビでも見るとしよう。
ハルヒによる馬鹿げたループに付き合わされていたと知るのは、それから数日後のことである。
幸い一万五千四百九十八回目にして、ようやく無事に循環の輪から抜け出すことに成功した。
予想通り無駄に激しく、密度の濃い二週間だった。
……まあ、それなりに楽しんだがな。
それまでの一万五千四百九十七回の二週間の記憶はすべてリセットされている。
機会があるなら、その時々の俺に訊いてみたいと思う。
お前の過ごした二週間はどうだったかと。
──── そう思った瞬間、なぜだか胸の片隅が、チクリと痛んだ。
その痛みも、残り雪のように、すぐに溶けて消え去った。