俺はいったい何をしていたんだろう。気がついてみると、俺は勾配のある歩道の真ん中
に突っ立っていた。
今の自分の姿を見下ろしてみると、制服姿だ。それならば、学校に行く途中なのか、学
校帰りだろう。日の傾き具合から勘案するに、夕方だということはわかる。ということ
は下校途中だろう。
そうであっても、自分の手を見てみるに、俺はカバンの一つさえ携えちゃいない。どこ
かに置き忘れでもしたんだろうか?
だが、そんなことよりも、今は一番思い出さなきゃならないことがある。
それは…。
俺はいったい誰だ?
今の俺は、自分が誰だかわからず、自宅の場所ははおろか、家族すら憶えていなかった。
これは俗にいう『記憶喪失』じゃないかと、冷静にも、自分の今おかれている状況を推
定してみたのだが…、どうしたものだろうな?
とりあえず自分の名前だけでもと、ブレザーの内ポケットを探ってみたのだが、生徒手
帳がない。それならば、財布には何か、自分を証明するものが入っているんじゃないか
と今度はスラックスのポケットをまさぐってみた。結果は、自転車の鍵と、財布に夏目
漱石が3枚入ってるだけだった。自転車が見つかれば、名前ぐらいは書いているかもし
れないが、その場所がわからない。
もちろん携帯電話なんかは持っていなかった。本当に今どきの高校生か?俺は…。
などと過去の自分を嘲るという、非常に空しい行為で時間を費やすだけだった。
これは打つ手なしか…。
俺は途方に暮れていた。──せめて、この制服を着た人間が、通りかかればいいのだが…。
結局無駄に動き回ることの愚かさを悟り、俺はしばらく石垣を背にして、人間観察のま
ねごとを試してみることにした。目的はいうまでもなくこの歩道を通る高校生だ。
もちろん、ここが登下校に使われている道路だという保証はない。なにせ未だ1人も見
かけけてないのだから…。だが、どうせ手がかりはないんだ。待ってみるさ。
しかし、すでに30分が空しく流れてゆき、記憶を思い出せないことも手伝って、気分
が底なしに落ち込んでいた。そんな時、偶然にも1人の女子生徒が通りかかった。直感
的に、その女子生徒が身につけている制服が俺と同じ高校のものだと感じた。どうやら
脳みそのどこかからか、ほんの少しの記憶のかけらがこぼれ落ちたたようだ。
その女子生徒は俺を認めると、俺に向かって足早に近づいてきた。俺を知っているんだ
ろうか?ならば好都合だ。知り合いでなければ、どのように聞けばいいのか困ったとこ
ろだ。まさか初対面の人間に、『俺は誰ですか』なんて聞いてしまった日には、変質者
扱いされかねない。
その女子生徒は、俺が後ろの石垣にもたれるようにして立っている前で足を止めると、
「キョン君。今帰りだったのかい?めがっさ疲れたような顔してるね。どうしたにょろ?」
なんだこの奇妙なしゃべり方をする女生徒は?俺の知り合いらしいが…。それとキョン
というのは俺のことか?
「ぶしつけで済みませんが、俺はキョンというんですか?」
「何言ってんだい?どこから見たって正真正銘のキョン君じゃないか」
おかしそうにケタケタ笑う人だが、悪い人ではなさそうだ。
「実はですね、ぶっちゃけていいますと、俺どうも記憶喪失みたいで、家族はおろか、
自宅の場所も、自分の名前さえわからないんです」
俺の目の色から真実の主張を悟ったのか、
「おいおい本当かい?それじゃ、めがっさ大変なことじゃないかい」
こうして、一風変わったしゃべりかたながらカラリと明るいその女子生徒──鶴屋さんの
手配で、俺は病院に向かった。さらに、彼女は俺の家族への連絡も済ませてくれていた。
手際がよく、ただものではない人だという印象を持ったが、そんな彼女の厚情には深く
感謝していた。
そう、検査と診察の結果だが、やはり記憶喪失らしい。正確に言うと、医学の世界では
記憶障害というらしいが…。
ただ、俺の体のどこにも外傷がなく、脳も無傷だったため、医者は何か心理的なものだ
ろうと診断した。幸い、別に入院する必要はなかったので、家族と一緒に自宅へ帰れる
ことになった。
俺の家族に連絡してくれた後、鶴屋さんは俺の友人へも連絡するつもりであったらし
いが、傷があったわけではないので、明日直接話した方がいいだろうということになった。
理由を聞くと、明日学校に行けばわかるっさと、珍妙な言葉と笑いでごまかされた。
そのあと今日の身に余る厚意に関して、感謝の意を伝えると、うれしそうな表情をして
髪を指で後ろに流す動作をしながら、
「いいっていいって、気にしないでもいいっさ!それより早く記憶を戻してみんなを
安心させるにょろよ」
こんな時間まで俺に付き添ってくれるとは、とてもいい人ではあった。
俺は家族とともに、父親が運転する車で自宅に帰った。時刻はすでに8時を過ぎている。
自宅周辺は街灯や近所の家の明かりはあるものの、山を見上げると、夜の漆黒の闇が不
気味なほどに際だっていた。
帰宅すると、すぐに俺は居間で両親から現在の状況を尋ねられ、あらためて記憶がな
いことを再認識させられた。その後、俺の置かれている状況の説明を受け、今度は俺の
部屋で妹から俺の仲間たちに関する説明を受けた。
妹の説明によると、俺はなかなか風変わりな連中と毎日楽しく過ごしていたらしい。
それともう一つ、俺にはつきあっている彼女がいて、その名前は『涼宮ハルヒ』という
ことも聞かされた。やけに妹の笑顔が、いたずらっぽくなったように感じたが…。
それも明日になればわかるだろうと、俺は学校への登校路の地図を、ためつすがめつし
つつ頭にたたき込んだ。
翌日俺は、学校への歩みをおっかなびっくりといった感じて進めていた。だが、体が道
を憶えていたらしく、考えていたほどには迷うことがなかった。
僥倖にも、俺は遅刻することもなく、学校にたどり着いた。到着するとすぐに、職員室
に向かった。というのは、俺が記憶を失ったということは、すでにおふくろが学校への
連絡を済ませていたが、多少の事情を説明するため、職員室の扉をたたかねばならなか
ったのだ。
職員室の場所は、こぼれ落ちた記憶のかけらが案内してくれるらしく、案内表示を見る
までもなかった。
俺は状況説明を強いられることから解放されると、多少の疲労を感じつつ教室に向かった。
教室に着くと、担任から聞いておいた我が愛しの机を確認すると、そこに座った。
カバンはというと、机の上に置いてあった。置いて帰ってしまたのだろうか?
怪訝そうにカバンを見つめていると、後ろに座っていた女生徒がこっちを睨み付け、
「キョン。あんた、昨日買い出しに行ったきり戻ってこなかったでしょ。なんで、帰っ
ちゃったのよ?脱走兵は軍法会議で死刑よ」
この一見かわいくて、スタイルがよく、胸もちょうどいい大きさの少女は、俺に対し機
関銃のような勢いで、わめき立てていた。
彼女は俺の呆然とした表情をみて、少し落ち着いたらしく、怒りを収めた。
「キョン、ねえ、なんでだまってんの?何か言うことあるでしょ?」
妹から得た予備知識によると、この少女が俺がつきあっているという涼宮ハルヒか…。
ここで、昨日鶴屋さんが言った理由を理解した。こんな勢いで病院に乗り込まれたら、
永久に出入り禁止になっていたところだ。
それにしても記憶を失う前の俺はなかなか酔狂な男だったのだな。ルックスとスタイル
についてはセンスがいいと、俺をほめてやってもいいが、性格はかなり奇矯で、どうつ
きあっていたのかと、疑問が浮かび上がるだけだった。
俺がまったく無反応で、考え込む素振りをしていたため、彼女はいぶかしげに訊いてきた。
「キョン、あんたどうしたの?ひょっとして頭でも打ったの?」
「そうかもしれない…。──ところで、君が涼宮さんなのか?」
「はぁ?あたしにきまってるでしょ。あんたホントにどうしちゃったの?」
重ねて尋ねる彼女に理由を話しておいた
「もうすぐ、担任からも説明があると思うけど…、実は俺、昨日までの記憶がないんだ。
気がついたら歩道の真ん中に突っ立っていた。たまたま通りがかった鶴屋さんのおかげ
で病院にいったんだけど、医者には記憶喪失だって診断されたんだ」
「じゃ、じゃああたしたちのことも全然憶えてないの?みくるちゃんも、有希も古泉君
のことも?」
ああ、と軽く首を縦に振った。
「そんなこと許さないわ。SOS団の団長であるあたしのことまで忘れるなんて!キョン、
今すぐ思い出しなさい。あたしたちの栄光の歴史を!」
無茶なことをいう女だ。だが、俺とつきあっている彼女だというのならなら、混乱するの
も無理はないか。そう思うと、俺はむしろ涼宮さんのことが愛らしくなっていた。
「すまん、今はどうしても思い出せない。だが、絶対思い出すから、待っていてくれ。
自分のためにも、君のためにも…」
そう述べると、
「ふ、ふん、あたりまえよ。でも、もし思い出せなかったら、罰ゲームだから覚悟して
おきなさいよね」
憎まれ口をたたきながらも、耳まで赤くする彼女の姿に、俺はほほえみを浮かべた。
そして、記憶を失う前の俺に、よくやったといってやりたかった。
朝の授業の前に、担任が俺の記憶喪失について話したときは、皆一様に驚いていた。
休み時間になると、俺の友達だという谷口と国木田が、見舞いとからかいがてら席までやっ
てきた。なかなか気持ちのいい連中で、俺は記憶がないことすら忘れて、彼らと談笑にふ
けった。
放課後になると、待ってましたとばかりに、涼宮さんが俺の手をつかんで引っ張って行く。
「どこに行くんだ?」
「SOS団の部室よ。まだ思い出せないみたいだけど、みんなに会えば、少しは思い出す
かもね」
「なあ、涼宮さん」
「なによ」
「俺、記憶なくす前は君のこと、名前で呼んでいたんじゃないか?」
「そうよ。なに、少しは思い出した?」
「いや、君のことを名字で呼んでいると、なんだかむず痒くてな。だから名前で呼んで
いたんじゃないかと思ったんだ。…だったらこれからは『ハルヒ』って呼んでもいいかな?」
彼女は、ほほをほんのり赤く染めると、
「好きにしなさい。あたしはどっちでもかまわないわ」
俺は、すでに彼女の素直じゃない言動にも慣れ、かえって好ましく思うようになっていた。
ハルヒに旧校舎まで連れられて、文芸部部室の前で立ち止まると、ここがSOS団という、
救難信号のような名前をした組織の部室だという。文芸部は乗っ取られでもしたのか?
部室に案内されると、中には3人の男女が、少し心配そうな顔で、俺の顔を見ていた。
1人目は朝日奈みくるさんだ。上級生でありながら幼くかわいらしい表情を見せ、それ
とは反比例するような、すばらしく大きな胸。彼女には外聞もなくみとれてしまった。
ところで、メイド服を着ているのには何か理由があるのだろうか?まあ、そんなことは
どうでもいい。俺はこのたおやかな花を愛でるためにこの部室を訪れたのだ。と、彼女
は俺をそんな気持ちにさせてくれた。
だが、俺の目があまりにも長い時間、朝日奈さんに向いていたことが気にくわないのか、
ハルヒはアヒルのように口をとがらせ、すねているようだ。
俺には彼女のそんな態度もかわいく思えた。
もう1人の女子生徒は、顔を上げず、淡々と分厚い本を読み耽っていた。彼女は顔の表
情も、口数も、そして体の起伏さえも極端にすくなかった。
だが、俺はこの女子生徒──長門さんに、悪い感情はまったく抱かなかった。彼女は
それが自然なのだと…俺の脳みそが、そう教えてくれた。
残る1人の男子生徒は古泉君だ。にこやかなハンサム顔。以上だ。なぜかこの男はこ
んな扱いでいいような気がしていた。
当然ながら今日一日で記憶が戻ることもなく、結局俺がしたことといえば、前に座って
いる古泉君とオセロをすることで時間を費やしただけだった。
下校時間が過ぎ、ハルヒの解散命令の下、俺たちは下校することになった。他の3人が
帰った後、ハルヒは俺を心配して、一緒に帰ることになった。
「キョン、あんたまだ正常じゃないんだから、一緒に帰ってあげるわ。感謝しなさい。
病院に寄るのならそこにもつきあうから。ほら、急ぐわよ」
などと、目をそらせながら、こんな素直じゃないことを言ったので、俺は不意に、彼女
を後ろから抱きしめたくなってしまう感情を抑えるのに苦労した。
こんな日を何日か繰り返し、今日は何日目かの放課後になった。
相変わらず俺の記憶が戻る気配はなかったが、それさえも気にならないほど、今の生活
を楽しんでいた。さらには俺のハルヒに対する思いも、日に日に高まっていた。彼女の
行動や、照れ隠しにしか見えないその言動を聞くにつけ、増幅された。
SOS団の部室に行く時間だが、今日はハルヒが掃除当番のため、俺が先に部室に到着した。
部室の中には古泉君が1人で座っていた。
「まだ他のみんなは来ていないのかい?」
「ええ、僕だけのようです。ですが、この機会を待っていました。あなたには少しだけ
お訊きしたいことがありましてね」
「ああ、いいけどなに?」
「ではズバリ訊きます。あなたは涼宮さんのことをどう思っていますか」
本当にズバリだ。しかし、こんなことを訊くとは古泉君もハルヒのことが好きなのか?
「いえいえ、そうじゃありません。純粋にあなたたちに興味がありましてね。あなたは
未だ記憶が戻らないわけですが、そんな今の状況で、彼女のことをどうお思いかと考え
てしまいましてね」
少し考えて、出てきた言葉を吐き出す。
「そうだね、ハルヒのことは好ましく思っているよ。いや、はっきり言ってこれは好き
だということかもしれない」
「本当ですか?それはそれは…、あなたからそんな言葉が聞けるとは、思ってもいません
でした。まさか記憶をなくしただけであなたがこんなに素直になるとは…、正直、驚嘆
の声をあげざるを得ません。この言葉を、記憶がなくなる前のあなたに教えたい気分です」
時折笑い声を漏らしながら、彼はそういった。どう考えても、この男はほめているよう
には思えなかった。というか、記憶を失う前の俺はいったいどれだけ捻くれていたんだ?
「それで、その気持ちをあなたは涼宮さんに伝えるつもりですか?」
少し逡巡した。思考がすぐにはまとまらない。
「どうだろう。この数日間の記憶や感情は、以前の記憶が戻れば消えてなくなるかもし
れないだろう?今の俺は、いわばかりそめの存在だ。そんな俺が、この気持ちを伝えて
いいものだろうか?」
「僕はこう思いますね。あなたは確かにおっしゃるように、かりそめの存在かもしれない。
ですが、残念ながら記憶が戻らないこともあり得るわけです。いえ、たとえ戻ったとし
ても、今のあなたがもつその思いは本物です。ならば、それを涼宮さんにぶつけること
は、決して記憶を失う前のあなたへの裏切りにはなりません」
古泉君はこんなに熱い男だったのか。だが、彼の助言によって俺はその気になった。
次の日の放課後、俺はハルヒを大きな木の下に呼び出した。
ハルヒは、怪訝そうな顔で、待っていた。
「よう、来てくれたか」
「なによ、言いたいことがあるんなら、部室で言えばいいじゃない」
今日はあそこで話すわけにはいかない内容だからな
「ふうん、なにかあたしに文句でもあんの?」
いや、その逆だ。
「へ?」
「ハルヒ。俺はお前のことが好きだ。おまえはどうなんだ?」
俺たちがつきあっている、つきあってないに関係なく、俺はハルヒから答えがほしかった。
「なっ、何言ってんの?あんた本気なの?」
「ああ、本気だ。答えをくれないか?」
ハルヒは、とまどいながらも覚悟を決めたようで、
「あ、あたしは、あんたのこと……」
と言いかけた瞬間、
ズガンッ
何かが落ちてきたような気がした。
俺の目の前は真っ暗になった。
「キョン!ちょっと、キョン起きなさいよ!」
誰かに怒鳴られ、揺さぶられて目が覚めた。
あれ、俺は…、そうだ俺だ。すべての記憶が戻り、把握した。
「ハルヒ、なにしてんだ?」
泣きそうになっているハルヒに、俺は気軽に声を掛けた。
「キョン、あんた大丈夫なの?」
「大丈夫?なにがだ?」
「どこかから、こんな本が飛んできて、あんたの頭に当たったじゃない!」
「さて、憶えていないな。ところでハルヒ、俺たちはいったい何をしていたんだ?」
「はぁ?あんたがあたしに…って、憶えてないの?」
「なんのことだ?俺は、お前に命令されて、買い出しに行ってからのことが思い出せ
ないんだ」
「ひょっとして、キョン。記憶が戻ったの?」
「戻ったも何も、俺は記憶をなくしていたのか?」
その後は少しパニックだった。
うれしそうなハルヒや朝日奈さん。長門はいつものように無表情だが、少し柔らかい感じ
がする。
古泉はどうでもいい。
その日はハルヒに病院に連れて行かれ、異常がないことを確認してやっと解放された。
その日の夜、俺は自室のベッドで考えていた。結局記憶喪失になった原因はわからなかった。
いや、一つの推論はあるが、それ以上考えるつもりはない。もうそれは済んだことだ。
ところで、記憶が戻った今の俺には、ハルヒに告白したという記憶は残っていないと、
彼女はそう考えているはずだ
だが、そうではない。俺の脳裏には、ハルヒへの想いが沸騰したあの感覚や、彼女に告白し、
彼女もまた、俺に何かを言おうとしたことも鮮やかに映し出されている。
つまり、記憶を失っていた期間に得た記憶や経験は消えなかったのだ。
だが、俺はそのことを誰かに言うつもりは金輪際ないだろう。
今もハルヒに対する感覚が残っているかは、ノーコメントにさせてもらうが、あの感覚も記
憶も忘れないだろう。
SOS団の連中との関係が、今後どのようになろうとも。
だが、妹にハルヒとつきあっていると言われて、そのまま信じ込んでしまったことは、身
もだえするほどの恥辱を感じた。いずれ、妹をとっちめてやろう。
翌日、俺はSOSの部室で、俺の頭に落ちてきた本を書棚にしまっていた。
記憶をなくしていた俺がハルヒに告白したのは、この部室から見下ろせる木の下だった。
つまりここから何者かが本を落としたと考えるのが妥当だ。
そして、その本には見覚えがあった。
さて、誰だと思う?
終わり