「時が始まったのは、何時なんだろうな」
誓って言おう、何気ない一言だったんだと。別に答えを期待してたわけではなかったんだと。
ただ、何となく、朝比奈さんとの三年寝太郎経験を思い出した俺は、ふと、時間を止めたり、
その時間を再開したりすることって不可能じゃないんだよな、そう思っただけなんだ。
ならば、そもそもこの世界で時間が流れ始めたのは何時なんだろう、なんて、そんなことを
考えたとしても、それは、それほど不自然なことじゃないはずだ。
俺だって、たまには哲学じみたことを考えたり呟いたりするのさ。
まあ、多少文学的電波的な一言であったことは認めよう。
ただ、そんなことを言ってしまったのは、今、この部屋に、俺と長門しかいないと言う事実も、
影響していたに違いない。時が何時始まったかなんてことは、長門なら知っているかも
しれないが、それを説明したところで俺が理解できないだろうってことは、俺だけじゃなく、
長門も知っているはずだ。
だから、俺の妙に感傷的かもしれないその一言は、そのまま黙殺されて終わるはずだった。
「それは、愛から始まった」
長門が静かに発した一言。それは、俺の一言への答えだったのだが、その言葉は、
液体窒素の如く俺の脳内に染み渡り、俺の思考と行動を凍結させるに十分なものだった。
言葉の意味を理解した次の瞬間、俺のシナプスは、盛大に、そして、連鎖的に発火した。
まさに爆発的と形容できる速さで。
愛だって? どういうことだ? 何を言っているんだ? 時間が愛から始まっただって?
意味が解らん。というか、あの長門がそんな詩的なことを言うとは、とても信じられん。
いや、長門が意味もなく妙なフレーズを発するはずがない。何かと掛けているのか?
愛、それは愛、きっと愛、たぶん愛。それは愛の集中化。違う、あらゆる意味で違う。
しかし、愛から始まる時間というのはどういうことなんだろう。いや、考えるまでもない。
愛から生まれる時間、それはアレだ、アレしかない。なんてこった。
長門、それは高校生にあるまじき行為なのではないか? 一体、どんな表情でその時間を
過ごしているんだ? それにどんな格好でその時間を……、はっ、まさか、
制服か? 制服なのか?
いつもの制服姿、かつ、無表情。リボンを解き、短いスカートを軽くたくし上げつつ、
野郎の太腿に乗る長門。それはあれですか、対面座位ってヤツですかっ!?
『愛の時間を開始する』
いかんいかん! 却下だ却下。有機生命体の中でも誕生十八年未満の人間に対しては、
全宇宙的に、そんな行為禁止令が施行されているのだぞっ!
特に着衣での対面座位は重罪だ。違反者は閉鎖空間追放の刑に間違いないっ。
ちなみに、正常位も後背位も騎乗位その他も重罪だからなっ。
あ、いや、まて。あの長門だぞ。長門がそんな行為に突入できる相手なんて、この世界に
存在するだろうか。それに考えても見ろ、長門に男の影を感じたことがあるか?
いや、ない。それに長門の部屋にも男の気配はまったくなかったじゃないか。
男の気配どころか生活感もあまりないしな。
そうだよな。いくらなんでもあの長門が、制服姿のまま、足首にパンツを引っ掛けた状態で
野郎の腰の上に乗るなんてな。甘い吐息を吐きながら身体を揺らし、はだけたブラウスから覗く、
ずれ上がったブラジャーの下の小さな突起を突き出しながら、
『やさしく舐めて』
なんて言うわけがないだろうがっ。断じて、ないっ。
はは、そうさ、考えすぎにも程があるってもんだぜ。鼻血が出そうになったじゃないか。
だとしたら、他にどう解釈できる?
そうだな、その人に出会ってからわたしの時間が始まった、とかはどうだ?
ちょっとまて。そうだとすると、一体誰に時間を開始されたんだ? 男じゃないとすると女か?
どうやって開始されたんだ? どこを巻き巻きされたというのだ?
あれか、身体の中心にある鍵穴にブルブル震える太い鍵を差し込んで、こうぐるぐると……。
『ふーん、有希。あんたもしかして初めて? じゃ、教えてあげるわ』
『そんな太いのを……』
『そうよ、このウネウネ動く鍵を有希の鍵穴に差し込むのよ』
『あ……っ、回転が……』
い、いかんいかんいかん、いかんぞ、長門! 挿入禁止! 百合禁止!
いやいや、落ち着け。長門は、まだ何も言っていない。
ただ、時間が愛から始まった、としか言ってないだろうが。
でも、なら何だ? 愛が時間を開始したなんて、そうそう言えることじゃないのは確かだろ?
それはやっぱり、長門が誰かとの愛に目覚めたってことじゃないのか?
そして、インタフェイスとは違う、長門と言う固体の時間が始まったのだと。
くそっ、そうとしか考えられないじゃないか。
そして今はプラトニックだとしても、何れ、二人は目眩く愛の時間へ突入するに違いない。
だー、相手は誰なんだ、そんなことが許されると思っているのか? 羨ましいじゃないか。
誰か俺のネジも巻いてくれ。ただし、ハルヒ以外の線で頼む。もちろん古泉は埒外だ。
いやいやいや、落ち着け、落ち着くんだ。考えてもみろ、長門はインタフェイスとは言え、
自我を確立しているんだ。そうだ、長門は、しっかりとした自意識を持っているじゃないか。
他者と交わり、自我に目覚めた存在は、やがて自分と他者を結ぶ絆としての愛を実感するもの
なんじゃないのか? だとすれば、何を驚くことがある。
長門が愛を知っても何の不思議もない。そうだろ?
それは喜ぶべきことなはずだ。俺は、長門が人間に近付くことを望んでいたのだからな。
その相手が俺じゃないとしても、それは何となく残念なことのような気もするが、
でも、重要なのは俺の気持ちじゃない。長門の気持ちなんだ。そうだ、愛こそすべてだ。
ジョン・レノンもそう言ってたじゃないか、はっはっは。
よし、オールOK、オーラルOK、大丈夫、俺は冷静だ。
ここは一つ落ち着いて、鏡面のような心でもって長門の話を聞こうではないか。
気が付くと、長門が何か不自然なものでも見るような、何処となく揺れているような視線を
俺に向けていた。何か妙なことを口走ってしまったのだろうか、そう思い、何かを弁解したい
衝動に駆られたが、それは後回しだ。今は長門の話を聞かなければならない。
一つ咳払いをして、俺は、出来るだけ平静を装いつつ、ともすれば裏返りそうになる声を抑え、
「長門。時間が愛から始まったとは一体どういうことだ?」
我ながら情けなくも、低く擦れてしまった声で訊いた。
長門、俺は、お前を応援しているぞ。自我に目覚めたのであれば、愛を知るのは必然だ。
そうさ、何も恥ずかしがることじゃないんだ。存分に愛を語ってくれ。覚悟は出来ている。
でも、高校生は節度ある交際が望ましいんだ、お前は知らないかもしれないがな。
だから、お前の話が終わったら、それを忠告させて貰おう。
ちなみに、俺自身がむちゃくちゃ動揺して平静を保てていない気もするが、それは気のせいだ。
少なくとも、おまえの時間を開始したのが古泉でもない限り、きっと平静を保てるさ。
それは、もし相手が古泉だったりしたら平静を保てないっていうことだがな。さあ、来い!
「この宇宙は、いわゆるビッグバンと呼ばれている現象により始まった」
はい?
「それより前、宇宙はただの一点に集中していた」
あの、愛は?
「その状態では、時間は虚数だったと推測される」
えーと、長門さん?
「虚数時間が支配する一点から、この宇宙が生まれ、時の流れは実数時間へと転換した。
それが、今の時の流れの始まり。今の時の流れはiから始まった」
そう言うと、長門は、宇宙背景輻射を感じさせるような視線で俺を一瞥し、静かに読書に
戻っていった。愛の話は終わったらしい。意味が解らん。
虚脱感の中で、先程までの俺の動揺と妄想、そして覚悟は一体何だったのだろう、と
呆然としていると、長門の呟くような声が聞こえた。
「でも、あなたの推測も、そう間違っているわけではない」
き、聞こえてたのかっ!?