俺は困っている。この状況をどうやって克服すればいいのかと。
しかし、なぜこうなったのか、まったくもって理解できなかった。何を言っているの
か、わからないだろうが、俺自身も何を言っているのかよくわからないくらいだから、
安心していい。つまり、それだけ混乱しているということなのだ。
今の俺の置かれた状況は、世の男なら、100人中95人は羨むことだろうが、俺には恐れ
多くも、何かをした覚えはないし、そんな雰囲気でもなかったはずだ。
なぜ俺が煩悶し続けているかというと、俺の右隣にハルヒが寝ていて、左隣には長門と、
朝比奈さんが寝ている。その上、俺たち4人は同じ布団にいるのだ。
凍える土の下でしばしの眠りについていた、あらゆる生き物の目覚めを誘うような春
の陽気が、俺たち北高生の心を優しく溶かしていた。そんな平日の午後、SOS団のメンバ
ーは、春休み前の短縮授業を終えて、SOS団アジトであるところの、文芸部部室でくつろ
いでいた。
俺たちは、ハルヒの命令を忠実に守り通して今日もメイド服姿の朝比奈さんから、お茶
の給仕を有り難くも受けていた。
俺と古泉は花札で対戦していた。長門はというと、一度聞いただけではにわかに理解
できないような、難解なタイトルが刻まれているハードカバーの本と対峙している。朝日
奈さんは、俺と古泉の対戦を見守りながら、かわいらしくお茶をすすっていた。
ハルヒが部室に姿を見せないときには、いつもはこのように、のんびりまったりとした
時間が流れているのだ。
だが、こういった至福のひとときを俺たちが過ごしていると、必ず邪魔をする人間がい
るのだ。迷惑も顧みずに…。
「ねえ、みんな聞いて!ビッグニュースよ!」
地下の工事現場でも容易に聞こえるような大音声を伴い、ハルヒはドアを蹴破りかね
ない勢いで飛び込んできた。
ずかずかと大股で歩いて、団長の席までたどり着き、あぐらをかいて座ると、朝日奈
さんが持ってきたお茶をものの5秒で飲み干した。
「我がSOS団はこの春休みに、恒例の合宿を行うことが決定したわ」
またか…。
俺たちは、夏、冬と限りなくあり得ない体験をしてきた。まあ、夏は古泉の仕込みだっ
たが、冬は本当に異空間に閉じこめられた。かろうじて脱出できたが、それは奇跡とい
ってよい出来事だった。
それをまた繰り返すつもりか。こいつは…。
「おい、ハルヒ。また古泉の仕込みで、探偵ごっこをやろうってのか?」
「いいえ。今回は合宿と言っても、ほとんどただの温泉旅行みたいなものよ。古泉君に
は頼んでないから、たぶん何も起こらないわ」
ハルヒはただの温泉旅行だというが、これまで俺たちが合宿らしいことをやったこ
とがあったか?
夏冬に実施した、探偵ごっこが合宿の趣旨にあってるんだとしたら、ここはいつから
探偵クラブになったんだ?教えてほしいもんだ。『犯人はヤス』とでもいえばいいのか?
「出発は春休みの初日だから、もうすぐよ。ちゃんと準備しときなさいよ」
たかが1泊旅行に、1週間前から準備するやつがいるものか。
春は雨の日が多いというが、合宿当日の天候はハルヒの性格のように、雲一つない
快晴であった。ひょっとして旅行の日に雨でも降らせれば、ハルヒにその存在を消され
かねないことを恐れた太陽の方が、遠慮したのかもしれない。
芸もなく、恒例のように一番最後に待ち合わせ場所に到着したと思ったのだが、ニヤ
ケ面をした古泉は、まだ着いていないようだった。
俺は、遠足当日の小学生のような満点の笑顔を見せるハルヒに、
「おいハルヒ。古泉のやつはどうしたんだ?」
「古泉君?昨日連絡があって、急用で今日行けないだって」
「でも当日に予約をキャンセルしたら、違約金をとられるんじゃないのか?」
「そうね、じゃあキョン。あんた一番最後だったから、あんたが払っといて」
ご無体なことをおっしゃる団長だ。貧乏学生にそんな金があるものか。
「そんな金があるわけないだろ?もし払わなきゃならなくなっても、みんなで
出し合って、後で古泉に請求すればいいじゃないか」
「わかったわ。じゃあ何とか交渉して、払わないでも済むようにしましょう」
最初からそうしてくれ。
温泉地に向かう特急列車の出発時刻が昼過ぎだったため、俺たちは、車内で朝日奈さん
とハルヒが持ってきた手作り弁当に舌鼓を打っていた。2人が持ってきた弁当は極上の味
で、素直にほめたくないが、ハルヒの弁当も文句なしに旨い。もし料亭の仕出し弁当と、
2人の弁当のどちらかを選ぶとすれば、俺は迷わず後者を選ぶね。
長門は、その体に似合わない健啖家ぶりを発揮し、後には空の弁当箱が残っているだ
けだった。
俺たちは、食後の腹ごなしとして、トランプや花札などをして楽しく過ごした。
こういう時のハルヒは、実に輝かしい笑顔を見せる。いや、別に見とれていたわけじゃ
ないぞ。本当に。
駅に着くと、送迎用ののワンボックスカーを、宿が用意して駅のロータリーで待って
いてくれた。
今日泊まる旅館は、日本有数の砂浜を有する温泉地に建っていた。ハルヒがどうい
うルートで探し出したのかはわからないが、なかなか風情のある日本建築の建物だ。
ただ俺は、ハルヒがもっと派手派手しいホテルをチョイスするかと思っていただけに、
意外な気持ちだった。
10分ほどのドライブの後、旅館に到着し、靴を下駄箱に入れると、俺たちは備え付けの
スリッパに履き替えて、フロントの前まで進んだ。
ハルヒはチェックインを行い、キャンセルが一人出たことを伝えると、すぐに交渉を
開始した。
相手もなかなか交渉上手で、結局、俺と古泉のために用意していた部屋を空けて、俺が
女性陣の部屋で泊まるという条件で、キャンセル料をチャラにしてもらった。
だが、俺にとっては一石二鳥だ。ハルヒはともかくとして、朝比奈さんと同じ部屋に泊まれ
るとは、身に余る光栄だ。こんな幸福をもたらしてくれた古泉に、俺は初めて感謝したい
気持ちになった。帰ったら、コーヒーの一杯ぐらいおごってやろう。
しかし、俺は顔に出していたつもりはなかったのだが、心を読まれたのか、ハルヒに
何考えてんの?という目つきで睨まれた。
部屋に着くと荷を解き、あらためて部屋の様子を確認してみた。部屋は10畳からなる純和室で、
掃除は隅々まで行き届いており、調度品も高級というわけではないが、品がよく典雅な風合いだ。
半畳ほどの床の間には山水画の掛け軸が掛けてあり、花も上品に花瓶に生けられていた。窓から
の眺望はすばらしく、砂浜と、海、そして水平線が見渡せる。俺は本当にここが気に入っていた。
「ねえ、キョン!掛け軸の裏の壁にお札が貼ってあったわ!ここって何か出るのかしら?」
ハルヒという女は、風流を解す素養に欠けているのだと、このとき改めて思わざるを得なかった。
まったく、いい雰囲気をぶちこわしにするやつである。お札ぐらいで、カブトムシを見つけた子
供のように、そんなにうれしそうな目を俺に向けるな。
「キョン君、ここって本当にいいところですねぇ。こういう建物が、伝統的なこの国の文化なんで
すかぁ。わたし、感動しましたぁ」
見ろ、ハルヒ。未来人の朝日奈さんのほうが、お前よりよほど風流を解していらっしゃるぞ。ただ、
なんだか初めて日本に来た、外国人観光客のようなことをいってはいるが・・・。それでも爪の先ほど
でいいから、ちょっとは朝日奈さんを見習え。
長門はというと、微動だにせず部屋の窓から景色を眺めていた。こいつもこういったすばらしい
景色には感動するものなのか…。それとも太陽光線を浴びて、光合成か太陽光発電をしているんじゃ
ないだろうな。などと、失礼極まりない俺の考えを見透かすかのように、こちらを一瞥した。
「長門、お前でもこの景色をきれいだと思うか?」
「現在の景観から得られる視覚情報は、私の処理能力を安定させる効果がある」
「つまりきれいだということだな?」
おそらく俺にしかわからないと自惚れられる、3ミリほどの首肯をした
「そうか、俺もお前と一緒にこの景色が見られてうれしいよ」
「…………」
何を言っているんだ?俺は…。これでは、まるで長門を口説いているみたいじゃないか。
「す、すまん。これは言葉の綾ってやつだ。だから気にしないでくれ」
「…………そう」
「こらぁ、キョン。あんた、なに有希に寄り添ってるの?団員を口説くなんて、公序良俗に反す
るんだからね!有希、みくるちゃんと一緒にお風呂へ行くわよ」
と、俺の横にいた長門をかっさらっていった。
「キョン、あんたは部屋で留守番よ。間違っても露天風呂を覗こうだなんて思わないことね」
するか、そんなこと。俺は盛りのついた中坊じゃないからな。
ふん、どうだかと、捨て台詞を吐き、3人は連れだって風呂場に向かった。
女性陣が風呂に入っている間、俺は何もすることがないので、テレビをつけて、自分たちの
地元ではやっていない、ロボット物アニメの再放送を見ていた。
そういや去年のコンピ研との対戦で、俺は思わずこの敵役の台詞を口走っちまったっけ。
30分でアニメが終わり、夕方のニュース番組が始まって20分ほどが過ぎ、やっと3人が
帰ってきた。
3人とも上気したような顔つきで、浴衣姿に薄桃色に染まったうなじで、ほどよい色気を
3者3用に醸し出していた。特に朝日奈さんは、抱えて持ち去りたいほどに蠱惑的なお姿だ。
女性陣の帰還と入れ替わりに、俺は1人で風呂に向かった。
いい湯だった。旅に疲れた体を芯から温めてくれる、いい温泉だ。
温泉での合宿などとは、ハルヒの提案にしては上々だ。及第点を出してやってもいい。
それにしても、こんな湯につかっていれば、ハルヒと出会ってから蓄積された、1年分の疲れ
がわずかでも癒されるというものだ。いや、1年を振り返るまでもなく、ほんの3ヶ月ほどを思い
起こしてみても、あいつは常に前に出て俺たちを疲労困憊にさせ、そして精神に傷を負わせる
ことを座右の銘にしているんじゃないかと思えるほどだ…。
長風呂で火照った体と顔を、外の冷気で冷まして部屋に帰ると、すでに夕食の準備が整えられ
ていた。
近海の珍味で彩られた、豪華な夕食を終えて、俺たちはテレビを見たり、ゲームをしたり、
はたまた、皆が持ち寄ったお菓子を食べたりと、満ち足りた時間を過ごしていた。ハルヒが
願わなければ、今回はやっかいなことは起きないだろうという安心感もあって、そんな気持
ちを後押ししていた。
旅の疲れに乗じてやってきた、強力な睡魔に襲われ、長門以外の全員が、うつらうつらとし、
もはや瞼というのシャッターは、もはや閉店間際に追い込まれていた。そこで、今回の旅行は
1泊しかしないため、翌日の時間を有効的に使おうと、少し早いが床にはいることを提案し、
即了承された。
「キョン!いーい?あたしたちになにかしたら、許さないわよ。それから、あたしたちが寝た
あとで、エッチなビデオなんか見てちゃだめよ!」
そんなことするか。俺だってもう寝たいんだ。早く寝させろ。
うん…?寝ぼけながら手を横にやると、何か柔らかい感触があった。なんだ、これは?弾力
があって……。徐々に頭がハッキリしてきた。
横を見て俺は絶句した・・・・・・!!!
右隣には俺に密着するようにしてハルヒが寝ており、俺の右腕は、浴衣の隙間から入り込み、
彼女の胸に触れていた!!
俺はあわてて手を引っ込め、辺りを見回してみると、なんと、左隣に長門、そのさらに隣に
朝日奈さんと、俺の布団に4人が入っていた!
しばらく気が動転し、何も考えることができなかったが、我に返り、こっそり抜け出そうと
した。すると両隣の女ども──長門よ、おまえもか──が、しがみつくような格好になっていて、
身動きがとれない。──恥じらいもなくそんなにくっつくな。俺だって健全な男なんだ。
ふとハルヒを見ると、まだぐっすりと眠っている。だが、浴衣をはだけさせ、胸の谷間が確認
できてしまい、あどけない寝顔を見るにつけ、俺は妙な気分になってしまった。俺の心臓はバク
バクと悲鳴を上げている。
俺が取り返しのつかないことをしてしまいそうな気分になっていたとき、後ろ、つまり右隣から、
強い視線が突き刺さってきた。俺は油の切れたドアのように、ギギギと頭をそちらの方へ向ける。
すると、長門が目を覚まして俺の目をジッと見据えていた。
ひょっとして見てたのか?
「・・・・・・」
コクッ
血の気が引いた。
いや、これはだなと、弁解しようとしていると、その騒動にハルヒが目を覚ましてしまった。
「うあ?」
わげのわからない声をあげた後、ハルヒは、自分の置かれている状況に気づいてパニックになった。
「な、何でこんなことになってるの?こら、変態キョン。あんたあたしに何をしたの?しかも
なんで、あんたの布団にいるの?あたしを引っ張り込んだのね?この・・・、変態!痴漢!不埒者!
変質者!根性なし!」
ハルヒは、ありとあらゆる罵詈雑言を俺に浴びせていた。最後のはちょっと違うんじゃないか?
「何かしたんだったら、それなりの責任はとってもらうわよ」
わけのわからんことを言うな。それに、俺がお前に何かするわけないだろ?──胸を触ったけど──
いいからお前はちょっと落ち着け。
俺の手に負えなくなり、長門に助けを求めようとすると、彼女は窓際でいすに腰掛けていた。
なんてすばやいんだ、この宇宙人は。
俺とハルヒは、朝っぱらから、他人に見られれば痴話げんかにしか見えないような言い争いを
続けていた。
すると、一番最後まで寝ていた朝日奈さんも、さすがにこの騒ぎに目を覚まして俺の布団にいる
ことに気づくと、
「ここどこですか、なんであたしキョン君の布団にいるんですか?あたしに何かしたんですか?」
知りたいのは俺のほうです。もう勘弁してください。
長門が俺の無実を証言してくれたため、ようやくハルヒは矛を収めた。朝日奈さんは未だにハテ
ナマークを3つくらいつけたような顔になっていたが、落ち着いてはいるようだった。
騒動の火は、くすぶり続けていたが、俺たちは観光施設を行脚して、旅行最後の1日を楽しんだ。
帰りの特急列車の中、向かいにいるハルヒと朝日奈さんは、顔を寄せ合って、すやすやと寝ていた。
2人が聞いていないうちにと、俺は隣にいる長門に独り言をいうように尋ねてみた。
「なあ長門、結局何であんなことになったんだろうな?」
「午前3時5分、朝日奈みくるがトイレから帰ったとき、覚醒率30%だった」
ひょっとして、寝ぼけていて、俺の布団に入ってしまったというのか?
コクッ
マジか?
朝日奈さん、あまりにもお約束すぎますよ。今どき漫画だってそんなことしやしません。
俺は、あなたが大人の朝日奈さんと同一人物だとは、とても信じられませんよ。
「涼宮ハルヒは、朝目覚めるまで、覚醒率は0%。ただし、1時間に10pあなたに向かって
移動していた」
寝相が悪かったと言うことか?
「違う。涼宮ハルヒは、無意識に、あなたに近づきたいという願望がそうさせた」
一瞬フリーズしたが、
「冗談はよしてくれ。俺はあんな人間魚雷みたいな女に近づかれても困るだけだぜ」
と心にもないことを言った。いや、ないのかあるのかわからんが、考えるのはよそう。
ん?最初に俺の布団に入ってきたのが朝比奈さんだと?なら、何故俺の左隣に長門が
いたんだ?
一瞬、朝日奈さんを横に転がして、俺の隣に割り込む長門の姿を想像してしまったが、
即座にそれを打ち消した。
なあ長門。なんで2人が俺の布団に入ってきたかの理由はわかった。
…では、おまえはどうしてだ?
その時、俺は歴史の証人になった。
なんと長門は、おもむろに自分の人差し指を己の口元に添えて、
「…・・・・・・禁則事項」
と言った。
もちろん無表情だが、いたずらっぽく──俺にはそう見えた──そして…、
おい長門。お前、ちょっと照れてるんじゃないか?
「……少し」
終わり