その日、僕は図書館にいた。
先週、綺麗な女性の方にいただいたペットの飼育法を調べるために。
それにあの時の波紋が妙に胸に引っかかったから。
ただの直感だけれども、こういうものには必ず何かがある。
自分を信じて、実行すること。
それが涼宮お姉さんの教え。
でも具体的にどのような参考書を捜せば良いのか全く見当がつかなかったから、
とりあえず難しそうなことな名前の分類がしてあるコーナーを巡っていた。
そんなとき、僕はまたあの男の人を見かけたのだ。
あのときのウサギのお姉さんとは、別の女性と一緒のところを。
タイトルコール 『 キョンと眼鏡くん 』
◆ キョンとハルヒ
ハルヒの仕掛けたイベントに心底ビックリさせられたバレンタインデー。
どうやら俺と古泉の反応にすっかり満足したらしいハルヒの様子を見る限りでは、
少なくとも一ヶ月ぐらいはアイツが余計なハプニングを連れて来ることはないだろうと安心していた。
そう、確かにハルヒは俺を疲れさせるような事態を起こすことはなかったのだが、
不覚なことに、面倒ごとを持ち込んだのは他でもない俺自身だったのだ。
で、その事件との始まりは元々俺個人の問題であってハルヒとは全く無縁のものだったのだが、
そんな意見があの団長さまに通るはずなど絶対に無く。
「キョン、何よこの成績っ!こんなんでこの世を渡っていけると思ってんの!?」
…そういうことなのである。
「おいハルヒ。出来たぞ」
「ん、どれどれ?
…まあまあね。何だ、やれば出来るじゃないの」
まあな。
「やっぱりあたしの教え方が上手いおかげよね。感謝しなさいっ、キョンッ!」
…全くその通りで。
以前、ハルヒが臨時の家庭教師をしているという話は聞いたことがあったので、
こいつに教えてもらえるというのは案外ラッキーかもしれないなあんて考えていたのだが
今回に限ってハルヒは俺の予想を真正面ど真ん中、それも限界ギリギリまで貫いて的中させてくれた。
まさか2学期の中間と期末を合わせても良い勝負になるくらいまで成長するとは思わなかった、俺。
正に涼宮大黒天様、ハルヒ様々である。そして俺の秘めていた真の学力にも大いに万歳しようじゃないか。
「何言ってんの、バカキョン。
普段あたしが教えてあげてる子の方がよっぽどマシよ」
…少しぐらい自分を信じなおしてみたっていいじゃないか、ハルヒ先生よ。
にしてもあの眼鏡くん、やっぱりそんなに賢いのか。
あの整った面や言葉遣いは確かに博識そうなオーラを発揮させていたが。
まあ、朝比奈さん曰く未来的技術の発明者らしいからな。当然といえば当然なのかもしれん。
「あ、そうだっ!」
「何だ。小テストならもう勘弁しろよ。さすがに5回連続は疲れたぜ」
「違うわよ、今日は眼鏡くん家に行って、テストの結果を聞きに行かなきゃいけなかったのよ」
あの子の学力成績か。到底期待を裏切るような結果になるとは思えないのだが。
ていうかお前の呼び方も眼鏡くんなのかよ。俺はともかくお前がそれって短絡的すぎないか?
「だってピッタリなんだもん、ってそんなこと言ってる場合じゃなくって!
キョン、すぐに支度しなさい。すぐに出かけなくちゃいけないんだからね!」
「俺も行くのか!?」
「当たり前じゃないの!さあ。さっさと準備しなさい!」
こうして俺は眼鏡くんに三度、出会う運命になってしまった。
…偶然、なんだよな?
◇ 眼鏡くんと長門
その男の人と出会うのは今回で三度目。
もっとも、当の本人は眠りこけているのだけれど。
気になったのは隣の女性だった。
何度か見かけたことがあったから。
いつも黙々と読書をしている、少し不思議な人。
でも今日は眠っている彼に寄り添い、静かに読書を続けている。
傍から見るとまるで寝ている子供の傍に座るお母さんみたいな。
女の人は中学生か高校生くらいだろうから、そんな表現は失礼なのだけれど。
男の人をとても慈しむような、大事に想っている感じがする。
恋人同士、なのかな。
それなら前の時に一緒にいたあのお姉さんとはどういう関係なんだろう?
ここに来た本来の目的などすっかり忘れて、僕はじっと二人を観察していた。
やがて男の人は起き上がり、女の人に何事か話しかけたあと、
二人で連れ添うように図書館をあとにした。
僕はその後ろ姿が見えなくなるまであの男の人を眺め続けた。
このことを涼宮さんに伝えるべきなのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えながら。
あの男の人とはまた出会うことになるのだろう。
何の根拠も無しにそんな確信を抱いていたのだけれど、
まさか次の週になってまた出会うことになるとは思いもしなかった。
しかも、また別の女性を隣に並べて。
四回目は、涼宮お姉さんと一緒だった。
◆ キョンと眼鏡くん
ハルヒは居間で親御さんと対談中だ。
あながち「今から大学へ進学します」と言われても嘘と言い切れないぐらい
見るからに賢いですオーラを纏ったその少年は、今俺の目の前に居る。
かといって俺が代わりに勉強を教えている状況なわけでもない。
ハルヒ大先生閣下は俺の教師的な能力など微塵の期待も抱いていないようだ。
その評価は過不足なく的中しているのがまた悲しい。
そんなわけでただ今眼鏡くんの部屋で俺と眼鏡くんの二人っきりなのだが、
なんでしょう、この妙な沈黙は?
とりあえずなにか話題を探してみることにする。
「あ、なあ。あれから亀の調子はどうだ?」
「元気です」
「体はどうだ?あれから、変なことに巻き込まれたりしてないか?」
「大丈夫です」
こいつ、朝比奈さんと話してたときはお堅いながらもハキハキと喋っていたのに
今は妙につっけんどんに返してきやがる。そんなに俺が嫌いか。
上辺くらいは取り繕っておかないと、世の中生きていけないぞ。
表面だけやたらヘラヘラさせやがるのはもっと駄目だが。
「余計なお世話です」
にべもなし、か。そうだ。あのことについて聞いてみよう。
ただのお茶濁し程度の感覚だったのだが。
「なあ、あの亀やったときのこと、ハルヒには言ってないんだよな?
俺と…その、もうひとりのウサギのお姉さんのこと」
「言ってません」
文面は今までと大差なかったのだが、その語尾には強い力が込められている。
「何故、あなたが女性の方と会っていたのを涼宮お姉さんに伝えてはいけないのですか?」
「い…いや、それはだな」
思わず怯む俺。情けねえ。相手は小学生だぞ。
必死に言い訳じみた説明を始めようとしていたのだが。
「先週も別の女性の方と一緒にいらっしゃるを図書館で見かけました。
それも涼宮お姉さんには隠し通す気なのですか?」
げぇっ!!
しまった。思わず素っ頓狂な声を出してしまった。居間にまで聞こえなかっただろうか。
ごほん、と咳をひとつ立てて気持ちを落ち着かせる。
「お前、見てたのか…。いや、あれはだな。
ハルヒの提案している不思議探索パトロールの途中でな」
「実に気持ちよさそうに眠っておられましたが」
ぐ…返す言葉もない。しかし、あれをハルヒに知られるわけにはいかない。
何故こんなに彼が怒ってるのかはわからないが、何とか説得しなければ。
バレたら俺がどんな目にあうか…。考えるだけ嫌だったからな。
◇ 眼鏡くんとハルヒ
彼が必死に言い訳をしている。
涼宮お姉さんは彼に対して滅茶苦茶な扱いであり、以前に彼とウサギのお姉さんが
二人で会っていたのがバレたとき凄く酷い目にあった、だからアレの二の舞は二度と御免なんだ、と。
確かに涼宮お姉さんにうっかり喋ってしまったあの時は、少し同情もした。
でも、今日はそんな気がまったくしない。むしろ、2回目の分も含めて全てバラしてしまいたい気分だ。
だって、涼宮お姉さんが彼をどれだけ思っているのかを知っていたから。
「あなた、物語に一人はいそうなガリ勉タイプね。気に入ったわ」
最初は不機嫌そうな顔。僕に興味を抱いてくれたみたいだった。でも、不満だらけの顔。
「北高に入っちゃ駄目よ。つまらない連中ばっかりだったから」
全ての望みを絶たれた人が漏らすような、深い溜息をついていた一ヶ月。
「高校にキョンって、変なあだ名の奴がいてね」
まるで潰した苦虫の感覚を思い出すようにその名をつぶやいていたお姉さんの髪は、短くなっていた。
「眼鏡くんっ!あたし、高校で団を作ったの!そっちが忙しくなるからしばらく会えないかも。ごめんねっ!」
初めて見る笑顔。そういえばこのあだ名も、あの日につけられたんだっけ。
「野球大会か…面白そうねっ!!」
久しぶりにあったお姉さんは、何の変哲もないビラを凄い楽しそうに眺めていた。
「違ぁう!!キョン、あんた何撮ってるの!?みくるちゃんも、もっと堂々としなさいっ!」
商店街で見かけたバニーガールと戯れるお姉さん。その隣にいる、カメラで顔の見えない男の人。
「大切な人が…倒れちゃったの。しばらく傍にいてあげたいから、ごめんね」
電話越しに懺悔するようにつぶやいたその声は、聞いたことがないくらい、か弱い音。
「ごめんねっ、しばらく勉強見てあげられなくて。今日から年末まで、みっちり教えてあげるから!」
次に聞こえたのは飛び上がるくらいに晴れ晴れとした声。飛びっきりの笑顔。
「ねえ博士くん?そのウサギのお姉さんの隣にいた人、思い出せる…?」
地鳴りのするような静かな怒りを感じて、僕はそのキョンって人に同情した。
いや、今思えば嫉妬していたのかもしれない。
「どうしようかな…普通に渡すだけじゃ…キョンはどう思うかな…」
2月のメインイベントを前にして、僕そっちのけで思案に暮れるお姉さん。
14日にもらったチョコレートは嬉しかったけど、少し寂しくもあった。
間違いない。僕はキョン、というあだ名の人に嫉妬していた。
涼宮お姉さんにあれだけの思いを注がれている、この男に。
だが、この人は涼宮お姉さんに隠し事をしようとしている。別の女の人とのことを。
腹が立った。ぶちまけてやらなければ気がすまなかった。
そのときだった。
◆ 男と少年
「何してんの?アンタ」
唐突にドアを開けたハルヒは、部屋の不穏な空気を速やかに察知した。
「い、いや、なんでもないぞ」
慌てて取り繕う俺をじとっとした目で見つめていたが、しばらくて視線を俺から外し、
「まあ、いいや。…ちょっとこっちで話があるわ。来て」
博士くんに向ける。厳しい、けれど慈愛に満ちた目。
「…はい」
素直に従う眼鏡くん。理由がわかっているようで、でも目を合わせられないようだ。
「アンタはここにいて」
一人眼鏡くんの部屋に取り残される。…何しに来たんだろう、俺?
時間だけが経ってゆく。限りない沈黙に包まれた眼鏡くんの部屋。
感じるのは扉ごしに伝わってくる緊張した空気。
・・・俺、どうしたらいいんだろう。
他にすることもないのでドアに顔を寄せて会話を盗み聞きしようとしている俺を誰が責められよう?
「…だから、何でもありません。少し調子が悪かっただけです」
「…わかっています。今度は頑張ります」
「…隠し事なんか…」
どうやら、博士くんの成績は予想よりも悪かったようだ。
その理由に何か隠している言があると感じたハルヒは、親御さんとともに直接彼に尋ねることにしたのだろう。
ハルヒの直感は鋭いのだから、隠し事をしていたのはまず間違いない。
俺と朝比奈さんや長門と会ったことかと一瞬浮かんだが、そういうのとは微妙に違うことだと思う。
だが、あの眼鏡くんが果たしてそう簡単に秘密を漏らすとはあまり思えないのだが。
かなり他人事な考え方で相変わらず道徳的にも犯罪的な行為をしていた俺だったが、
次のハルヒの一言によって、それは中止せざるをえなかった。
「…お姉さんにはっ、わかるもんか!!」
ガタッ、という大きな音とハルヒの制止する声を放ったらかしにして
眼鏡くんのドスドスと廊下を歩く足音が、げっ、こっち来る!!
一人で自分の部屋に閉じこもろうとしたのだろう。
だが、ドアを開けた先には既に両手を挙げて硬直する俺という先客がいる。
「…」
一瞥の視線を俺に送ったあと眼鏡くんはとって返し、
ハルヒや親御さんの声も無視してそのまま玄関先へ駆けていってしまった。
彼の眼は、憤怒と悲しみに満ちていて、俺はそれにひどい既視感を感じた。
「んもう、何で止めないのよこのバカァっ!!」
硬直したままの俺に物凄い罵声が浴びせかけられるのは、それから五分後のことだ。
◇ ハルヒと古泉くん
…ん?閉鎖空間ですか。
これは懐かしい。っと、感慨にふけっているわけにもいきません。
「申し訳ありません、急用が入りまして。今日はこれで。明後日までにマスターしておいてくださいね」
「ああ、わかってるよ。…まったく、柄じゃねえぜ」
ケッ、と吐き捨てる彼に軽く頭を下げ、私は生徒会室をあとにしました。
彼には早く涼宮さんの前に出しても恥ずかしくない理想的な悪役になってもらいたいものです。
そうすれば、このような閉鎖空間が生まれる機会も…?
…これは、今までの閉鎖空間とはやや異質なものですね。
いや、涼宮さんの心の揺らぎ方が、といった方が正しいでしょう。
ともかく閉鎖空間は一旦、同士たちに任せましょう。彼と接触しなければ。
どうせ今回も彼が関与していて、彼にしか解決しようのない問題なのでしょうから。
…おっ、来ましたね。諜報員の報告どおりです。
「おや、奇遇ですね」
ぜいぜいと息を吐きながら、私を親の仇敵のように睨む彼。
そんな顔しないでくださいよ。走り回るあなたを捉えるのに、どれほど苦労したか。
「何の用だ、古泉」
「ただの散歩…ということにしておきましょうか。
それより、あなたこそどうしたのですか?そんなに息を切らして」
「お前には関係ない」
そんな筈はありませんよ。仕方がない、さっさと本題に入りましょう。
「大有りですよ。また、涼宮さん絡みでしょう?」
「…出てるのか、あれ」
「ええ、散歩は嘘です」
やれやれ、と彼はいつもの溜息をつき、私に事情を語り始めました。
「…なるほど。そういうことでしたか」
「ああ。そういうこった。
古泉、お前の『機関』の力で居場所をどうにか調べられないのか?」
出来なくもないですが、ここはまず否定しておくべきでしょう。
『機関』の秘密のためにも、彼のためにも。彼女のためにも。
「…難しいでしょう。涼宮さんの周囲の人物の位置の把握は出来る限りしておりますが、
なにぶん、諜報員の人数にも限界がありまして。彼のマークはしていなかったのですよ」
こんな嘘でどうでしょうか。
…ああ、バレてますね。これは。
まあ、未来の技術進歩に大きく関与している人物ですからね。
居場所の把握ぐらい造作もないことです。本当ならね。
しかし、笑顔を返しておけばどれだけ怪しくても証拠は見つからないものです。
友人として非常に心苦しいですが、お許しを。
「それよりも涼宮さんのことなのですが、
彼女が閉鎖空間を発生させたのは随分と久しぶりのことです」
「ああ、らしいな」
「ですが、さらに今回は閉鎖空間を発生させた理由が少々異なりまして」
「…どういうことだ?」
「以前の涼宮さんが閉鎖空間を発生させていたのは、
主に自分自身の気持ちの問題による感情の高ぶりが原因でした。
不思議を見つけられない。勝負事に負けそうになる。夢見が悪い。あなたが振り向いてくれない…などによってね」
最後の一言はやはり無視ですか。まあいいでしょう。
「しかし、今回は違います。
涼宮さんは自分の教える生徒を心配し、最終的に理解してあげられなかったという
激しい後悔の念によって閉鎖空間を発生させたのです。これは非常に大きな違いです。
自分が傷ついたためじゃなく、他人が傷ついたために、彼女はここまでの感情を示したのです。
これは一年間あなたと行動を共にしたことによる大きな成長の証、なのかもしれませんね」
「…」
「まあ、恐らくその生徒さんの悩んでいることが涼宮さん自身、
大いに関係しているのでしょうし彼女からの説得は逆効果だったのかもしれませんが」
「…そうなのかもな」
おや、あなたにも察するものがありましたか。
それほどまでに純粋で、残酷なものだったのでしょう。さて、あなたはどう行動するのか。
「古泉、本当にお前はアイツの場所を知らないんだな?」
…ええ、知りません。
「わかった。それじゃあな」
そういうと、彼は再び走り出して行きました。
きっと、私以上に頼れる人物のもとに向かって行ったのでしょう。
その方が私にとってもあなたにとっても、そして彼女にとっても一番なのですから。
さて、私も神人狩りに参加しなければ。今日は徹夜ですね。ハハハ。
…私も早くこの仮面を脱ぎ去ってしまいたいのですが。
やれやれ、です。
◆ キョンと長門
最初は長門を頼る気はなかった。
それは卑怯な気がしたし、長門に悪いと思ったからだ。
だが、古泉と話をした後、俺の足はなぜかここに向かっていた。
一刻も早く眼鏡くんを見つけないといけない気がしたからな。
そんな気がしたのだから仕方がない。悪いな、長門。
だから、
いつものマンション前の公園で佇む長門を見つけたときはかなり安心したんだ。
全ての事情を察したうえで、俺を待っていてくれた気がしたからさ。
「わかってる」
本当に有り難い。今度お礼に何か奢るぜ。
「いい」
遠慮なんかしなくていいぞ。
「そうじゃない。悪いのはわたし」
…なんだって?長門は悪くないだろ。
今回の事件はおおよそハルヒと眼鏡くんと俺の問題だ。長門が気にする理由なんてねえよ。
「ある。わたしと彼は図書館で会ったことがある」
へ?あ、ああ。そういえば眼鏡くんも言ってたな。
先週俺と長門を見かけたって。俺は寝ててまったく気付かなかったのだが。
「あの時、わたしは彼の視線を感知した」
長門は次の言葉を、少し躊躇するような間を空けて言った。
「あなたと、わたしを見つめる眼差しを」
俺と、長門?
えーと、あの時の状況を俺はよく覚えていないのだが、
確か俺は図書館に着いたあとすぐ寝ちまったんだよな?
「そう」
で、それから駅前集合の30分前まで俺はずっと寝てたんだよな。
「そう」
起きたとき長門が傍に居て、二人で一緒に図書館を出た…であってるか?
「…あってる」
長門の視線が少し下に俯き、ポツリと同意の言葉を発した。
「でも、それが眼鏡くんと何の関係があるんだ?俺自身はたいした事してないんだが」
「確かにそう。わたしとあなたが直接接触するような行動を起こしたわけではない。
だが、彼はわたしとあなたの存在を感知し、不快に思った。それが、今回の彼の暴走のトリガーとなった。
彼の図書館での記憶を改竄することもできたが、わたしは…しなかった」
「…だから、自分が悪いと思ってんのか?」
長門はほんの少しだけ、首を下へ傾けた。
それはまるで俺に謝罪のお辞儀をしているようで、
俺はそんな長門の悲しい行為をもうこれ以上見たくないと思ったんだ。
その身に宿した大きな力を微塵も感じさせない
長戸の小さな頭に優しく手を置いて、俺は妹をあやすときのように言葉を繋いだ。
「関係ねえよ。お前が俺と一緒に図書館に居たぐらいで悪いことなんか起きなやしないさ。
むしろ長門が居ればその場にいる全員の安全が保障されるんだから、感謝されるべきなんだぜ。
大体、こういう騒ぎっていうのは、遅かれ早かれいつか起きるもんなんだ。
それは俺が保障する。だからお前は何も悪くないんだ。そんな顔すんな」
しばらくの沈黙。
やがて、長門はさっきと同じようにほんの数ミリだけ、黙って首を下へ傾けた。
俺はその行為が見れたことを、とても嬉しく思ってたんだ。
長門が記憶の改竄を願わなかった理由をわざわざ聞き出そうなんて気にならないくらい、な。
おっと、感傷にひたるわけにもいかんだろう。残念だが。
早く博士くんを見つけてやらないとな。アイツのためにも。
「長門、それで博士くんの居場所はわかるか?」
「大丈夫」
即答。ちくしょう、頼もしいぜ。長門。
「今は朝比奈みくるが隣にいる」
…ハイ?
◇ 眼鏡くんと朝比奈さん
見覚えの無い空き地のグラウンド。
その隅っこで、僕は体育座りをしながらただじっと空を見上げていた。
どれくらいの時間が経ったのだろう。真っ暗な星空。
僕くらいの小学生の足じゃそんなに遠くへは行けないのはわかっているけど、
少しくらは涼宮お姉さんから離れられただろうか。
『…お姉さんにはっ、わかるもんか!!』
あんなことを言ってしまった。
『どうしてそんなにひとりで悩んでるの?力になってあげたいのよ』
あんなに優しい言葉をかけてくれたのに。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
そんなときだった。
「あなたは…っ!」
「……ウサギのお姉さん?」
「ど、どうしたの?こんなところで…ひえっ!足、どうしたの!?ケガしちゃったのっ?」
「え…?」
言われてみて初めて気が付いた。
左足に履いていた筈の靴はいつの間にか無くなっていて、
素足は泥だらけになっていた。
「大丈夫?痛くない?ふわぁっ、どうしよ、あっ、救急車呼ばくちゃっ!ええと、110番…」
「だ、大丈夫です。泥で汚れただけですから」
慌ててお姉さんを制止する。
お姉さんの気持ちは嬉しかったけど、警察なんか呼ばれたらこの状況を何といえばいいのか。
「ほら、このとおりです。ご心配おかけて申し訳ありませんでした」
すくっと立ち上がり、元気なことを一生懸命アピールする。
本当はちょっと、痛い。
「だ、駄目よ。ほら、ここちょっと切れてるじゃない。
少し安静にしてなきゃ。…ね?」
…ここまで言われてしまうと、何も言えなくなってしまう。
大人しくその場に座る。
お家に電話しないの?と聞かれたけれど、僕はそればかりは頑なに断った。
こんな顔して、会える筈がない。涼宮お姉さんに。
「お父さんとお母さん、心配してますよ?」
そうなのだろうか。
両親は一方的に成績の話ばかりしてくる。
あのときだって僕の悩みを聞こうとしてくれたのは涼宮お姉さんだけだった。
「きっと、クラスメイトの子たちにも電話して、皆で必死に捜し回ってくれてますよ?」
そうなのだろうか。
クラスメイトは僕をずっと避けている。
僕を避けないでいてくれたのは涼宮お姉さんだけだった。
「涼宮さんだって、きっと捜してくれてますよ?」
…そうなのだろうか。
ひょっとしたら、愛想をつかされたかもしれない。
嫌われたのかもしれない。涼宮お姉さんに。皆に。
もう、
「そんなことないですっ!!」
ビックリした。
ウサギのお姉さんが、潤んだ瞳でじっと僕を見つめている。
「あなたは、あなたを大切に思う人は、たくさんいます!
あなたのお父さんも、お母さんも、お友達も、世界中の人々があなたを誇りに思っています!
だから、そんなこと言わないでください…お願い……」
そこまで喋ったあと、ウサギのお姉さんは僕の手を強く握り締めて、顔を震わせていた。
お姉さんは過剰なまでに僕を心配してくれた。
以前に出会ったときも、凄い僕の身を案じてくれた。
あのときの約束は、今でも忘れていないつもりだった。なのに。
「ごめんなさい」
口に出さずにはいられなかった。
「ごめんなさい」
お姉さんが静かに僕をぎゅっと抱きしめてくれる。
あんなに心を塞いでいたモヤモヤな気持ちが、晴れていくような気がした。
「ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい…」
僕は謝り続けていた。
お姉さんの胸のなかで。
ずっと、ずっと。
お父さんに届くように。お母さんに届くように。
クラスメイトに届くように。
涼宮お姉さんに届くように。
後でもう一度、何度でも謝ります。
でも、今のこの気持ちも、どうか届いてくれますように。
◆ キョンと眼鏡くんと、ハルヒ
朝比奈さんと合流した俺は親御さんに一報を送ったあと、
静かに寝息を立てる眼鏡くんをかついでのんびりと帰路についていた。
朝比奈さんは一緒についてきたがっていたが、彼女もなんだか気疲れしていたようだったし、
俺の今までの頑張りが全くの無意味になるくらいに眼鏡くんを励ましてくれていただけで
十分に有り難かったので、丁重にお断りした次第なのである。
眼鏡くんが最終的に歩き着いた場所は、
俺の足で歩いても一時間かけなければ家には辿り着かない距離だった。
やっぱり強がらず親御さんの車をお借りすればよかったなあとも思うのだが、
こうやって誰かを担いで歩くのも随分と久しぶりだったし、
こいつが目を覚ましたときに二人きりでしたい話もあるしな。と、この状況を楽しんでもいたりもしたのだ。
だが漢の会話を嗜む機会などは一切なかった。よっぽど泣き疲れてたんだな。
途中で眼鏡くんの家では待ちきれなかったハルヒと合流し、現在に至る。
ここまで二人とも何の会話も無かったのだが、
ハルヒはポツリとつぶやいた。
「あたし、教師失格だなあ。この子のこと、何にもわかってなかった
この子の成績どんどん悪くさせちゃうし、その理由を全然気付いてあげられなかった。
あげくの果てに無理矢理心を暴こうとしちゃって、こんなことになっちゃうんだもん」
「あたし、こんなに人の気持ちをわかってあげられない奴だったんだなあ」
「…そんなことねえよ」
お前はものすごい教え方上手だし、人の心に敏感だ。敏感すぎるぐらいな。
人の心にズカズカ入り込んでいくのは確かにお前の短所だが、
少なくとも俺とコイツはそれを嫌だなんて思っちゃいない。そうだろ?眼鏡くん。
ハルヒは関係ない。結局は俺とコイツの二人の問題だったんだ。
なんでそんなことがわかるのかって?
決まってるだろ。俺もかつては初恋の親戚の姉ちゃんをいけ好けねえ男に取られたやつの一人なんだぜ?
今は俺がいけ好かねえ男、ってとこなんだろうがな。
こんな俺の一人語りなんてハルヒには聞かせられるわけがなく、
結局のところハルヒにかけた励ましは冒頭の一言だけだったのだが、
「…うん。ありがと」
ハルヒにはそれで十分なようだった。
親御さんが待つ家に着く直前、眼鏡くんは目を覚ました。
慌てて俺の肩から下りた眼鏡くんは、年齢不相応なお礼の言葉を並べ、俺と視線を交わした。
その後、ハルヒに大きな声で謝ると、二人で手を繋いで暖かい家族の待つ玄関へ歩いていった。
俺は背中に残る感触をゆっくり振り払いながら、
語るまでもないいくつものことを思い返しながら歩いていた。
俺がハルヒの殊勝な台詞にまったく驚かなかったことや
親御さんとハルヒが俺が一報を入れるまでどうしていたのかだとか
その後ハルヒが家庭教師の仕事をどうしたのかだとか
俺が誰のためにここまで駈けずりまわっちまっていたんだろうとか
眼鏡くんがどんな漢の視線を俺に浴びせたのかなんていうのは…これは一応、語っとこうか。
『あなたにお姉さんは渡しませんよ』
…しっかし、相手は将来超有望の天才少年だからなあ。
俺が子供だった頃と同じ結果になるとは限らない。
子供相手にビビリすぎ?それだけ必死ってことなんだ。笑いたきゃ笑え。
練習だ。ちょっとぐらい、ちょとぐらい大きな声で叫んでみてもいいだろう?
俺にはこれでしか勝ちようがないんだからさ。
負けねえぞ、眼鏡くん。
すぅーっ
「お姉さん、どうしたの?」
「ふふ…なぁんでも」
おわり