それは、十二月も暮れの放課後、いつものように、谷口と国木田の二人を相手に帰り道どこに寄ろうかと顔を突き合わせていた時だった。
「ねえ、これ読んで欲しいの」
そう言って淡いブルーの封筒を、俺に渡してきたのは朝倉涼子だった。
どういうことだ?渡した本人はやたらと楽しそうである。
「朝倉!思い直せ。人生はまだ終わっちゃいないぞ」
非常に失礼なことを口走る谷口を無視して、朝倉に問いかける。
「わたしじゃないわよ。」
そりゃ良かった。どういうわけか、こいつのことが苦手な俺は失礼ながら、本気で安心した。じゃあ、誰で、なんだ?
「私の友達。あなたに渡して欲しいって」
ええと、つまり、なんだ?
「だから、あなた宛のラブレターよ」
…………!
谷口がなにか喚いているが、そんなことより目の前のそれである。淡いブルーの封筒を星型のシールでとめてある。表にも裏にも何も書かれていない。そうか、本物のラブレターというものは、ピンクでもハートでもないのか、ひとつ学習した。
「ちょっと、こんなところで開けるの?」
朝倉の非難する声は聞こえない。封筒が破れないように慎重に開封する。白にブルーのラインの便箋が几帳面に折りたたまれていた。それをゆっくりと開く。
…………?
「どうしたの?」
俺が狐につままれたような顔をしているのを見て、朝倉が後ろから覗き込んだ。
『放課後、文芸部室にて』
ただ、これだけが、きれいな楷書体で書かれていた。あんまりにもシンプルすぎやしませんか?
騙されたのではないかと、朝倉を睨むが、当の本人は頭を抱えていた。
「なんで、手紙でも口下手なのよ」
おーい、朝倉さん?
「まあ、書いて渡そうとしただけでも良しとしましょう。というわけだから、行ってくれる?」
なにが、というわけか良くわからないが別にかまわないぞ。どうせ、こいつらとゲームセンターに寄るくらいしか用事はないからな。
文芸部室に向かいながら、改めて件の手紙を読み返す。
朝倉は、これがラブレターであると言った。
しかし、あまりにもシンプルすぎるのではないだろうか?普通、ラブレターと言ったら、『あなたのことが、以前から、中略、もしよろしければ放課後以下略』、というものではないだろうか?
そう、きっと、これは文芸部員、(仮にAとする)が俺に用事があって書いた手紙に違いない。その娘には他意は無かったのに、朝倉が勝手に盛り上がっていただけに違いない。
しかし、何かの用事の呼び出しにしては丁寧過ぎないだろうか。
何か用事があるなら直接俺に言えばいいはずだし、それが無理なら、朝倉に言伝を頼めばいいだろう。それなのに、このような手紙を用意したということは、重要な用件ではないだろうか?
そう、例えば告白とか…。
疑問符や、逆説の接続詞を多用しすぎて、文章にしたら読みにくいことこの上ないだろう、混乱した思考のまま、文芸部室の扉を叩いた。
人の気配はするが返事は無い。六回目のノックの後、扉を開いた。
そこには、彼女がいた。
伏せていた顔を上げ、視線が俺と交わった。
それまでの思考のすべてが白紙に戻り、意識が宇宙の彼方まで飛んでいく。
思わず口から彼女の名前がこぼれた。
「長門有希」
「え?」
彼女の瞳に疑問が浮かぶ。
そりゃそうだ。クラスも違って、面識もほとんど無い男子に、いきなり名前を呼ばれたら面食らうに違いない。まるでストーカーだ。
慌てた俺は、さらに、ストーカー確定なセリフを口走った。
「いや、五月に図書館でカード作っただろ?そのときに……!」
アホ、アホ、俺のアホ。住所から何まで書いているのを、横から覗いていましたと告白してどうする。
しかし、彼女は予想外の反応を示した。
「覚えていてくれた」
そう言って彼女は微笑んだ。
そう、この笑顔だ。俺は、彼女の月夜に咲く花みたいな笑顔にやられたんだ。
その日、俺には悩み事があった。といっても、たいしたことじゃない。
数日前、部屋を片付けていたら、中学のときに、図書館で借りていた本を見つけたのである。確か、冬休みの課題図書だったと思う。よくもまあ、これまで延滞の連絡が来なかったものである。
で、週末になって、返しに行く時間ができたのだが、面倒くさくなってきたのだ。なんで、この休みに図書館なんぞに行かねばならないのか。今まで、催促されなかったのだから、その連絡が来るまでほうっておいてもいいじゃないか。
だが、善良な小市民である俺は、さまざまな葛藤と戦った末、面倒な用事に対する一般的な結論を出した。
ギリギリまで粘って、家を出たのである。
着いた頃には、四時を回り、午後五時という税金泥棒と思わず叫びたくなる閉館時間まで、残り一時間を切っていた。
着いた早々に用事を済ませ、せっかくなので、ブラブラと本棚の間を歩いて回った。普段来ないということで、物珍しさもあったものの、すぐに飽きて帰ることにした。
俺が彼女を見つけたのは、そのときである。
カウンターのあるスペースの片隅に、彼女はひとり、ぽつんと立ち尽くしていた。
まあ、下心が無かったといえばウソになる。これが、きっかけで何かが始まるんじゃないかって、身勝手な予感もあった。
だけど、ほうっておけなかったのだ。まるで生まれた途端に、雨の降る道端に捨てられた子猫みたいに途方にくれていた彼女のことを。
「どうしたんだ?」
そう、声をかけると、彼女はゆるゆると顔を上げた。まるで、生まれて始めて声をかけられたかのような彼女は遠目で見たよりも、ずっと幼く見えた。
彼女は抱きしめていた分厚いハードカバーを、俺に見せた。
「借りたいのか?だったら、そこのカウンターで………って、借り方が分からないのか?」
彼女はかすかに肯く。
「この用紙にだな、必要事項を書き込んで…。学生証は持っているよな?」
彼女が書き込んでいる横で、立ち去ってもいいのに、なぜか残っていた俺は手持ち無沙汰で、彼女の用紙を横目で覗き見る。長門有希ね。
しかし、その判断は正しかった。控えめなのか、口下手なのか、長門有希はなかなか声を職員にかけられない。全部の手続きを、俺がすることになった。
なぜか、並んで図書館を出る。
長門有希は身を縮こませて、俯いている。声に出さなくたって、何を考えているか分かる。
『ごめんなさい』
そういう顔をさせるために、俺はこうしたんじゃないんだ。
「ああ、もう、なんだ」
俺は髪をガシガシとかき混ぜる。
突然の行動に、長門有希の体がびくりと跳ねた。
「驚かせて悪いな、でも、そんな顔しないでくれよ。俺が悪いみたいじゃないか」
ますます、恐縮した長門有希は初めて声を出した。
「ごめんなさい」
かすかな声。
そんなか弱さが、俺にどう作用したのか分からないが、自分でも驚くような行動に出た。
よく妹にそうするように、長門有希の頭に手を置いて、くしゃくしゃと髪をかき乱した。
「なあ、人に何かしてもらったときには、なんて言うんだ?ごめんなさいじゃないだろ?」
あまり手入れされてない猫っ毛が、手のひらに心地よい。
伏せていた視線があがり、俺の目を見て長門有希はこう言った。
「ありがとう」
そして微笑む。
その表情は、あまりにも無垢で、子供の見せるような純粋でむき出しな好意や謝意といった善意の表れで、その表情を俺と同じ年の女の子がしてるわけで、そして、それは俺に向けられているわけで。
結論―――俺は恋に落ちた。
それから今日までの話をしよう。
当日の、土曜日と、日曜日を悶々と過ごした俺は月曜日の学校で、さっそく長門有希の教室に向かおうとした。
その途中、俺は我に返った。ちょっと待て。何をするつもりだ、俺よ?
「長門有希さん、一昨日、図書館であったね。覚えてるかい?僕は君に恋してしまったみたいなんだ。僕と付き合ってくれないかい?」
とでも言うのか…。正気か?
そもそも、土曜日、俺は彼女に何をした?
図書カードを作った。(プラス1ポイント)、えらそうに説教した(マイナス1ポイント)、初対面の女の子の髪を触った(マイナス方面にプライスレス)。
…………やっていることは、完璧に痴漢じゃないか。つい、妹や、その友達たちにやってるようにしてしまったが、俺と同じ年なんだぞ。
母親にでも、図書館で痴漢に会ったぐらい言っているかもしれん。
脳内でこめかみに、穴を開けるための小型火器を探している、俺を現実に返らせたのはかすかな驚きの声だった。
「あ」
長門有希だ。そういえば、俺は長門有希が北高の生徒だと知っていたが、彼女は知らないのだと、今更ながら、彼女の驚いた顔を見て気がついた。
長門有希は何か言いたげに口を動かしていたが、ついに言葉が出てくることは無かった。それから視線を伏せ、足早に来た道を戻っていった。
「あははは……は」
長門有希の性格からすると、俺の社会的地位は守られそうだが、彼女の中での俺の地位は、黒光りする不完全変態の昆虫並みに低くなっていそうだ。
せめて謝るだけでも。
謝罪のチャンスは何度もあった。
今まで意識していなかったのだが、俺と長門有希の校内における行動範囲と、行動時間は、かなり重なっているようなのだ。食堂で、教室移動の途中に、何度も俺たちは出会った。
その度に長門有希は視線を伏せて、足早に、俺の横を通り過ぎ、俺は声をかけようか、かけまいかと悩んだ末に挙動不審で終わる。
本当にストーカーみたいだから、食堂に行く時間などをずらしたりしてみたものの、彼女も同じことをしているのか、また、同じ時間の食堂で飯を食っていると言う事態になるのである。
それが今日まで続くのだ。
そうか、やっと腑に落ちた。
この手紙は呼び出し状なのだ。
半年間もあとを付け回すストーカー野朗(不本意だが、客観的に見れば言い訳はできない)と決着をつけ様としたのだ。
その勇気は買うがね、少しうかつじゃないかい?幸いにも俺は本物ではないが、本物のストーカーだったら何をするか分からないぞ。
友達の一人や二人、一緒にいてもらうべきじゃないか?個人的には朝倉なんかがお勧めだぞ。俺ぐらいなら、笑いながら、簡単に刺し殺しそうなイメージがある。
でも、これはいいチャンスだ。
半年間伝えられなかったことを伝えよう。
「すまんっ」
「え……?」
力いっぱい頭を下げる。
「図書館ではすまなかった。えらそうなことを言った挙句、勝手に髪を触ったりして。デリカシーが無かった。すまん」
「ちょっと…」
それに、あとをつけたみたいなことをして、悪かった。気味の悪い思いをしたんじゃないか?信じてもらえないだろうがあれは偶然なんだ。」
言い訳ってものは、言えば言うほど真実から遠ざかると言う意味がよく分かる。
恐る恐る顔を上げてみると、すごい勢いで首を振っている長門有希がいた。
すごい勢いといっても、普段の飛行船のようなゆるゆるとした動きの彼女と比べての話である。
「いやじゃなかった」
「えっ?」
「いやじゃなかった」
「なにが?」
かなり間抜けな質問をしている気がする。
「あなたに触られたこと」
顔を真っ赤にして俯く。
「あとをつけていたのはわたし」
どういうことだ?
「あなたに伝えたいことがあった」
ますます、顔を赤くする。
俺がつばを飲み込む音が大きく響いた。
これは期待してもよろしいのでしょうか。
「ありがとう」
………………。
「あなたに、きちんとお礼を言いたかったけど、あなたはすぐに行ってしまった」
…………。
「だから、改めてお礼」
……。
ああ、なんだ、この娘にとってはあの図書館での出来事は、とても大きなことで、その気持ちを伝えるということは、半年もかかるぐらい大変なことなんだ。
だったら、俺が言う言葉は決まってる。
「ありがとう」
「え?」
長い間、俺に礼を言うために頑張ってくれたんだろう。だったら、ありがとうでいいじゃないか。
短いのか、長いのか分からない時間の沈黙を経て、長門有希は立ち上がった。
「もうひとつ、あなたに伝えたいことがある」
立ち上がっても、まだ低い位置にある瞳が真っ直ぐに、俺を見つめる。
「ずっと待っていた。長い間、ずっと」
「でも、待っているだけじゃだめだった。待っているだけじゃこぼれていくものもある」
「だから、わたしは待っているだけじゃない」
長門有希は、そこでひとつ息を継いだ。
「あなたが好き」
昔の人は言霊と言って、言葉には不思議な力があると信じていたそうである。
それは本当のことだ。
今の俺なら証明できる。
長門有希の言葉は、たった六文字で、俺の精神を、ここではないどこかに吹き飛ばした。
「有希っ!!!キョンっての捕まえた!?」
忘我の境地にあった、俺を現世に戻したのは非常にはた迷惑な怒鳴り声だった。
なんだ?俺はもう少しこの幸福感に浸っていたかったんだが。
その怒鳴り声の主は驚くほどポニーテールの似合う女子だった。
続いて、ニヤケ面のハンサム、小柄な女子(驚くほど胸がでかい)が入ってくる。
ポニーテールは、クリスマスの朝、予想通りのプレゼントがあった子供の笑顔で、ニヤケ面は、殺して埋めたはずの恋敵がピンピンしているのを見たかのような顔で、小柄な女子(驚くほど以下略)は芸能人に二日続けてであったかのような顔で、
「おおっ!!」
「ほう」
「ふえっ!」
三者三様の声を上げた。
ポニーテールは、づかづかと近づいてくると、上から下まで人のことを、じっくりとながめる。
「うん!」
どうやら俺はポニーテールのお気に召したようである。
「あんたがキョンね!!!あたしは、涼宮ハルヒ。SOS団へようこそっ!!!!」
……?
誰かもう少しわかりやすく説明してくれないか。
「SOS団の活動内容、それは、宇宙人、未来人、超能力者を探し出して一緒に遊ぶことよ!」
台風みたいな連中だった。
涼宮ハルヒは、「SOS団には実績があるのよ。なんてったって異世界人に会ったことがあるんですもの」
と、電波なことを叫ぶわ、ニヤケ面こと古泉一樹は、「涼宮ハルヒ、彼女は男のことを財布代わりにしか考えていません。そんな彼女の近くにいると不幸になります」と囁いてくる、お前はどうなんだと聞きたい。
驚くほど以下略な朝比奈みくるさんに至っては、「ここってなんなんでしょうかあ?」と言う始末である。
俺が聞きたいぐらいです。
「しかし、いいのか?」
再び二人きりになった文芸部室である。
「いい。彼女たちは大事だから」
「そうか」
「そう」
しかし本当にすごい連中だった。
直前までの甘い空気が……?!
あまりの衝撃で忘れていたが、告白されてまだ返事をしてなかった。
「長門、さっきの話なんだが」
なにげに、初めて名前を呼んだ気がするな。
「俺も、長門にずっと言いたかったことがあるんだ」
今日は、本当にいろいろなことがあったな。
長門の告白。
涼宮ハルヒ。
古泉一樹。
朝比奈みくる。
SOS団。
半年もの間、同じ場所から進むことができなかった俺たちだけど、長門有希は最初の一歩を踏み出したんだ。
次は、俺の番だ。
「俺は長門のことが――――――
終