誰かが「寒い」と言い始めた頃。  
 私は、自分の挙動が制御できなくなってきた事に気付き始めていた。  
   
 
 私と彼の二人しかいない部室には、静かな雨の音で満たされている。この部屋で起こる事象としては、非常に珍しいケースだ。  
 落ち着いた雨音の波形は、一定感覚で混じる彼の寝息に揺らされていたが、私にとってそれは不快ではなかった。  
 手に取った本から視覚を通して情報を取得する際に僅かなノイズが発生しているのも、不快ではない。  
 そして、それを疑問に思う事も、私はとっくに放棄してしまっていた。  
 読んでいた本を閉じて、少しだけ目を瞑ってみる。  
 雨の音は優しい、と誰かが書いた。私が優しいという感情を正しく理解しているのかどうかは未だ不確定だったが、彼の声と近似値を持つ波形を見つけた私は、たしかに優しいのかもしれない、と思った。  
 
 
 彼らと同じものになりたい、と最初に思ったのは、果たしていつのことだっただろう。  
 こうしてログを探れば確実に存在している記録に思いを馳せるのも、彼らの真似事だ。  
 時として、彼らが自覚的に自らの記憶や感情を操作するのを、私はよく知っていた。  
 しかし、何故彼らと同じものになりたいのか、という疑問の答えだけは、記録を探る必要も無いぐらい、常に私の中にあった。  
 私の知っている事を何も知らないにも関わらず、私の知らない全てを知っている彼らに、私は憧れている。  
 胸に溜まるエラーと、思考を揺らすノイズの正体を、彼らならきっと知っているから。  
 
 
 最近頻繁に思考域をよぎる考えに自らの不安定さを再確認した私は、すぐに目を開き、現在も睡眠状態にある彼の方に目を向けた。  
 顔の筋肉が緩まり、身体も弛緩状態にある彼の様子を見るのは、視覚情報としても少しだけ新鮮で、私の思考を安定させた。  
 しかし私は、いつの間にか立ち上がり、彼の椅子に歩み寄っていた。小さな足音が雨音を乱す。  
 ……まただ。  
 論理的思考の隙を縫うように、身体を勝手に動かそうとする意識もまた、最近頻繁に発生していた。このままでは、私が世界改変を起こす事象は不可避なものとなるだろう。  
 しかし、  
 ――それでも、いい。  
 そんな事を思考してしまうのは、果たしてエラーのせいなのか、それとも私自身の意思であるのか、もう解らなくなっていた。  
 
 
 私が横で観察していると、彼は落ち着かなさそうに身体を揺すり始めた。  
 彼に咎められた様な気がして窓際に戻ろうとした私は、再び落ち着き始めた息遣いを捉え、ゆっくりと振り返る。   
 どうやら腕が痺れただけのようで、彼は少しだけ顔の角度を変え、満足そうな顔をして眠り込んでいた。  
 私は息を潜めて彼の横に戻り、その顔を再び見つめる。  
 いつもどこか気だるそうにしている瞳は閉じられ、薄い唇が少しずつ形を変えながら、緩やかな呼吸を続けていた。  
 胸の中に、処理不能のタスクが増えていく。彼の吐息が、私の作り物の心を揺らしているようだった。  
 彼とは違う形の心を。  
 不意に、身体から意識がゆっくりと引き剥がされるような錯覚を覚えた。  
 雨の音は、遥か遠く。二人しかいない部室には、もう何の音もしない。  
 自分の指が彼の髪の毛に触れるのを、どこか他人を見るような目で、私は見ている。  
 もう片方の指は、そっと彼の唇を撫でていた。  
 私は、何をしようというのだろうか。疑問は思考に上る前に、意識の底に潜んだ何者かに飲まれて消えた。  
 視界に強烈なノイズが走る。私は思わず目を閉じた。  
 
   
 彼が鼻を啜る音で、私は目を開けた。雨音が戻ってくる。  
 そしてようやく、自分が床に置かれたストーブを遮っている事に気付いた。  
 ソックスはすっかり熱くなってしまっており、皮膚にも僅かながら痛みを感じる。火傷による損傷だ。  
 私は足の構成情報を修正した後、彼の方に近づかせすぎない程度に、ストーブを移動させた。  
 窓の外は、うっすらとした暗がりに飲まれようとしている。そろそろ3人が帰ってくる時間だ。  
 私は彼から離れて、少し湿った自分の鞄を掴み上げる。何故か今日に限って、三人を待とうとは思わなかった。  
 そのまま扉を開けようとした私は、最後に彼の方に目を向けた。  
 雨が跳ねる音と、少しだけ暖まった空気に満たされている私達の部室に、眠っている彼がたった一人。  
 私は鞄を下ろして彼の方に近づくと、自分のカーディガンを彼の背中にそっと乗せた。  
 そして、彼が気を使うといけないと思い、好ましい形の耳元で、私はそっと囁いた。  
「私は、寒くないから」  
 だからどうか、あなたが風邪を引きませんように。  
   
 
 いつもより薄着のままで辿る帰り道は、少しだけ寒かったが、決して冷たくはなかった。  
 十二月が、近づいている。  
 
 
 

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