「なあ、長門。火星人っているのか?」
とある日の昼休み、部室で弁当を食べながら、俺は珍しく薄い文庫のSFを読んでいる長門に聞いてみた。
長門はページを繰る手を、ふと止めた。
「いる。」
なんとまあ…。
「やっぱりタコみたいな形をしてるのか?」
「していない。外見的特長は、むしろ人間に近い。ただし身長はやや低い。肌は浅黒く目は金色。音楽的な声を持っている。」
「おい、火星探査船も行っているんだぜ。いくらなんでも、そんな火星人がいたら気が付くんじゃないか?」
長門は黒い瞳をこっちに向ける。
「地球人は永久に気付かないと推測される。それが火星に住む有機生命体の力。そもそも、火星にその有機生命体が発生したのはごく最近のこと。」
おい、長門……ひょっとしてそれもハルヒのせいか?
「火星人はおそらく三年前に生まれた。…………聞きたい?」
「ああ。」
聞かせてもらいたいね。
『長門の火星年代記 200X年8月』
情報統合思念体は、地球以外に有機的知性体の存在を確認していなかった。3年前の情報爆発以来、私は涼宮ハルヒの観察任務についてきた。
火星は観察の対象ではなく、そのまま時が過ぎれば、私が火星人と接触をすることもなかっただろう。
「しかし、200X年の8月、情報統合思念体は火星から知的生命体から発せられると思われる情報を察知した。」
8月。終わらない夏休み。そういえば、あのときSOS団は天体観測をやった。そのとき、ハルヒが言ってたことが俺の頭をよぎる。
『いないのかしら…火星人。』
「あの言葉がトリガーとなった。おそらく三年前の情報爆発の時点で火星人を形成できるだけの存在情報は火星上にあった。それらは涼宮ハルヒのあの言葉を契機に、自己を火星人として形成した。
それは、次第に成長し、情報統合思念体が感知できるまでに発達した文明社会を作った。」
「文明の進化がそんなに急速に進むのか?」
思わず俺は長門に聞いた。
「確かに速度は異常に速かったが、あの二週間では実際には500年ほどが経過している。
火星人の伝達情報も情報統合思念体と同様、時空に干渉されない形式で伝達され蓄積される。
だから2週間でリセットされる時間でも、進化を遂げることができた。」
時空に干渉されない形式って何だ?
「存在情報。宇宙自体を記述する方程式。無限の容量を持っているうえに、物理的存在には干渉されない。それが物理的法則を形成するものそのものだから。
情報統合思念体は関心を示した。火星人とその進化の可能性に。」
私は火星に観察に赴くことになった。勿論、涼宮ハルヒの観察が最優先事項であり、その任務は私が行わなくてはならない。私は自分の構成情報の一部で簡易インターフェイスを形成した。いわば私の分身。
簡易インターフェイスを火星に派遣し、その知覚情報を送らせる。
存在情報は時空に干渉されない。一瞬の後に、私は火星に居た。
「私はそのとき当惑した。」
長門でも驚くようなことがあったのか。そっちのほうが俺には驚きだが…。
私がいたのはこの学校の芝生だった。緑の芝生の上に私は降り立った。あたりを見回し、視覚情報を得る。
やはり、視覚情報は学校と一致した。
私はやや混乱した。本体である私が行けば、感覚情報に頼ることなく情報を得ることが出来るだろう。
しかし、涼宮ハルヒの観察が最優先される。そのため、代理インターフェイスに多くの構成情報をつぎ込むことはできなかった。
私は感覚情報のみの採取を続行することにした。校舎の中を歩き回る。観察を続けるほどに、そこは地球にある、この学校そのものという確信は強まるばかりだった。
だが、代理インターフェイスの座標情報は、間違いなく火星を示している。
ここは火星なのだ。それは疑いようがない。
私は部室へと向かっていった。一人の生徒ともすれ違わないのは、夏休みだからだろうか。
部室のドアを開ける。
そこには、一人の男子生徒が座って本を読んでいた。こちらに背を向けていて、顔は見えない。
「だが、私にはそれが誰なのか分かっていた。」
「誰だったんだ?」
長門は少し口をつぐんで俺を見ていた。
「あなた。」
あなたがそこにいた。
あなたは私に気付くと、よお、と挨拶をした。私は注意深く観察し、主に視覚情報からあなたを同定しようとした。99.8パーセントの適合率。あなたと同一人物だった。
少なくとも、感覚情報としては。しかし、それがあなたではないことも私は分かっていた。
なぜなら、あなたは地球で私と一緒に花火を見ていたから。
火星にいるあなたは、文庫本を閉じて立ち上がった。その本には見た記憶がある。古いSF小説。ひどく情緒的で、私にはよく理解できなかった…。
『どうしたんだ、長門?』
なぜ、あなたがここにいるのだろう。ここは火星なのに。
私はあなたにそう聞いてみた。
『さあな。』
あなたは、古泉樹がやるように肩をすくめた。
『俺にわかっているのは、自分がここにいるってことだけさ。火星だろうと地球だろうと知ったことじゃないね。ほら、』
あなたは、私に向かって手を差し出した。
『触ってみろよ。』
私はおずおずと手を出す。確かに温かい、あなたの感覚情報がある。
『温かいだろ。』
私はかすかに頷く。だったら、とあなたは続けた。勝ち誇るように。
『何が問題だっていうんだ?』
蝉の鳴き声が聞こえてくる部室で、私とあなたは二人で読書していた。気温は夏らしく35度に近いだろう。私は汗をかかないが、あなたも不快そうには見えない。
静かに読書を進める。
私はこの時間が不快ではなかった。だから、観察をやめてそこに留まっていた。
あなたのそばに。
だが。
私は思考を開始した。
間違いなく、ここは火星であり、私は火星人を観察するためにここに派遣された。
情報統合思念体は、自身と同質の力が火星に発生したことを確認している。
火星、火星人、情報操作能力、学校、部室、あなた。
火星人は私を観察したいと考えるだろう。私は何もせず、ここに座っている。ここで観察もせず、探索もせずに。
私は今、観察されているのか?
情報操作。存在情報。
おそらく、彼らは、私の代理インターフェイスの存在情報から、私の記憶情報を探し当てたのだ。
そして、構成する。学校を、部室を。
あなたを。
私の体温が一度低下した。落下の感覚。
私は騙されている。ここを出なくては。このインターフェイスの存在情報は限られている。情報戦では敵わないだろう。私は椅子から立ち上がった。
『どこへ行く?』
冷ややかな声。あなたの声。だが、あなたの声ではない。
不快感。動作不良。これを恐怖と呼ぶのだろうか?
「喉が…渇いた。お茶を淹れる。」
『でも、渇いてないだろう』
「渇いている。」
あなたが立ち上がる気配。
『いいや、渇いてないさ。』
とっさに私はドアに向かって駆け出した。後ろを振り向き、小さく悲鳴を漏らした。
あなたは、溶けて、あなたでないものになり、何か別のものになって―
浅黒い肌、金色の目。
その瞬間、私は代理インターフェイスの全構成情報の連結を解除し、地球にいる私に転送した。
「私は得た情報を統合思念体に送った。統合思念体は、自分と同種の思念体が火星に育ったことを確認するために、別のインターフェイスを火星に派遣した。
しかし、それ以上のことは私には分からない。私は、火星人について、情報統合思念体から送られてくる情報を意図的にブロックしているから。」
俺は言葉が継げなかった。あの夏、長門がそんな恐ろしい体験をしていたなんて…。
「そいつらは、地球に来るのか。」
「現在の彼らの情報技術水準があれからどれだけ進歩しているか分からない。だが、それは十分に有り得る事態。」
でも、と長門は続ける。
「構成情報を完全に持っている私であれば、大概の情報操作は破ることが可能。あなたは心配しなくて良い。……私が守る。」
そうか、と呟いたところでチャイムが鳴った。授業だ。
そうだ、最後に一つだけ教えてくれ。火星人は、いったい何の本を読んでたんだ?
長門は、読んでいたSFの文庫本を差し出した。―――レイ・ブラッドベリ。
なるほどな。やれやれ。
終