/檻  
 
 冬が終わり、暗い時間が短くなる頃。  
 心が踊るような出来事なんて殆ど無かった私の高校生活も、もうすぐ終わろうとしていた。  
 思い出す事すら不毛で耐え難い三年間。ため息をついていた記憶だけが心にこびりついている。  
 さらに言えば、他人よりも大分早く推薦で進学先を決めていた私にとって、ここ一月の授業はあらゆる意味で時間の無駄だった。  
 途中でそこら中の窓を叩き割ってやろうかと思ったほどだ。代わりに自分のシャーペン三本で我慢したのだが。  
 かと言って、そんな風だった高校生活が終わるに伴う開放感があるのかと言えば、そんな事は全く無い。  
 私はもういい加減気付いていたのだ。  
 これからの人生も、今までと同じように平凡で退屈で耐え難い時間が続いていく事に。  
 誰かが数億回通った道を、私も同じように辿るのだ。  
 窓に映る私の顔は、少しだけ大人になり過ぎてしまったように見えた。  
 
 
 環/  
 
 
「聞きなさいキョン! 今日の放課後は何と……」  
「新春朝比奈さんファッションショーだろ?」  
 登校してきたばかりの俺に機先を制されたハルヒは、口を半開きのままで固まっている。  
 このアホっぽい表情を見るのもこれで八回目だと思うと、色々と感慨深いものがあるな。  
「……あんたって、エスパーだったっけ?」  
「違う。ついでに言うとフォークも曲げられないからな。トランプの絵柄も当てられんし、腹をノコギリで切られたら腸が出てくるに決ま  
ってんだろ」  
 ハルヒは何故かマニュアルに無い対応をされたファミレス店員のような表情をしたあと、そのまま黙って座り込んだ。  
 その仕草が何となく引っかかったが、些細な事を気にしていてはやってられない状況なので、俺も黙って自分の席に腰を下ろす。  
 鞄から見慣れた教科書を取り出し、教師に当てられる設問に丸暗記した答えを書き込んでいく。  
 ちなみに一時限目は数学だ。昨日もその前も一限目は数学だった。しかも全部同じ内容だ。指導要網作った奴、表に出ろ。  
 
 その後、昨日と同じおかずの弁当を食べ、一昨日と同じような会話を交わしながら、一昨昨日と同じような六限目が終了した。  
 平たく言うと全部同じだ。ついでに言うとカレンダーの日付も毎日同じだった。  
 日直の名誉のために言うが、めくる奴がサボっているわけでは決して無いぞ。  
 俺が同じ毎日を勝手に八回も繰り返しているだけなんだからな。  
 
 今を遡る事、俺の体内時計でおよそ六日前の事だ。  
 自分が体育の集団行動よろしく今日という一日の上でその場足踏みを繰り返している事に気付いた俺が真っ先にした行動と言えば、  
「長門!」  
 勿論何でも知ってるアンドロイドに尋ねる事だった。もはや癖みたいなもんだ。  
「……おそらく、涼宮ハルヒの能力が発現している」  
 長門は本から目も上げずに、俺にそう告げた。何となく冷たくないか?  
「私の観測時間は正常であることから、あなただけが何らかの特殊な力場に捉われている可能性が高い」  
「俺だけ? 夏休みの時とは違うのか?」  
「違う。あなたの意識だけが観測不能の特殊な時間軸に存在しており、今日の終わりと始まりが重なっていると推測される」  
 じゃあ何か、俺一人だけが同じ一日をハムスターよろしくぐるぐる回ってるってのか。  
「どうして俺が?」  
「わからない」  
 そっけなく言う長門は、やはり顔を上げない。何となく不自然な気もしていたが、この時は現状の把握で精一杯でそれどころではなかった。  
 俺は何とか状況を自分の中で整理し、と言っても幼稚園のレゴブロック並にエッジの効いた整理の仕方だったが、改めて長門に尋ねた。  
「ハルヒは俺に何をさせたいんだ?」  
「わからない」  
 ……何となく長門が怒っているような気がするのは、気のせいか?  
「な、なぁ、長門。何かあったのか? その、調子が悪そうに見えなくも無いんだが……」  
「別に」  
 長門はようやく顔を上げた。黒い目の中には、確かに何の感情も窺うことが出来なかった。  
「気のせい」  
 
 まあそんな調子で途方に暮れながらも、放課後は二回目の朝比奈ファッションショーを楽しみ、起きたら明日になってますように、と先  
 
祖に手を合わせながらご就寝した俺だったのだが、結局その願いは叶えられずに今に至る。  
 
  /檻  
 
「聞いた? 涼宮さん、また彼氏振ったらしいわよ」  
「あぁ、あの可愛い一年の子ね。あの子、ずっと片思いしてたんでしょ。そんな子を一回持ち上げて叩き落すなんて、趣味悪ぅー」  
「惚れた相手が悪かったわね。よりによってあんな女に……」  
 はいはい。そうね。可哀想だったわね。でもしょうがないわ。面白くなかったんだもの。  
 大体卒業間際になって付き合えって言われても、そんなに長く続くわけ無いでしょうが。  
 いい加減、わざとらしい声量で聞こえてくる女子のお喋りに苛ついていた私は、体操着を持って立ち上がる。  
 教室を出る間際、そいつらを睨みつけて黙らせるのも忘れはしなかった。  
 
 環/  
 
「ひぃーん! これはあんまりですよぉー!」  
「大丈夫だってみくるちゃん! このぐらい全然平気よ! というか、さっきよりは大分マシでしょ?」  
 部室の中からは朝比奈さんのエンジェリックボイスとハルヒの雑誌モデルだから、とか言ってヌードを撮る詐欺師のように下品な声が木霊してくる。  
「おや、あんまり楽しそうではありませんね?」  
 俺と同じような姿勢のまま廊下で茶を啜る古泉が、そんな言葉を掛けてきた。俺の中では通算四回目の台詞だ。  
「別にそんなこたねぇよ」  
「そうですか? あなたなら、もっと分かり易く喜んで涼宮さんを不機嫌にさせるような予感がしていたんですけどね」  
 杞憂でしたか、と言って茶を啜る。最初は正にその通りだったので、ここは反論しないことにした。  
 古泉はいつものファーストフードスマイルのまま、無言の俺を横目で見ながら肩を竦めていた。  
「まあ、そうなった時のためにまた新しい企画を考えていますから、いざという時は是非ご協力をお願いします」  
 そんな台詞も、三回目だった。  
 
 ここ数日、と言っても実際は一日なのだが、俺はこいつに言われるまでも無く、色々とハルヒのご機嫌を伺ってきた。  
 三回目は夜遅くまで市内探索に付き合ったし、六回目には歯を食いしばって映画にも誘った。しかも恋愛映画だ。  
 もちろん朝比奈さんや古泉にも話を打ち明け、色々と協力してもらったりした。  
 六回目の映画は古泉の仕業だ。念のためと言って差し出してきたホテルのペアチケットは、職員室のシュレッダーにぶち込んだ。  
 しかし困った事に、俺以外の皆は当然と言うか何と言うか、次の今日になったら全て忘れているのだ。  
 一から説明して納得させるのも面倒になった俺は、今回は誰にも相談していなかった。  
 さらに何より困った事が、ハルヒが別段不満そうな様子を見せていないって事だ。  
 市内探索の時も割と上機嫌だったし、映画も散々文句をつけてはいたが割と楽しそうにしていた。  
 ……ちょっと挙動不審だったのは、まあ、体調でも悪かったんだろうさ。  
 とにかく俺がどうやったら次の朝を迎えられるか、と言う手がかりは今の所ゼロであり、もう自棄になりそうな心境だったのだ。  
 いっそ競馬で万馬券でも当ててみるか? そんで泡のようにパーっと使ってみたりしてな。  
 両脇にはバニーガールを従えて、って、それじゃいつもとあんま変わんない……  
「……古泉?」  
 ぼんやりと視線を漂わせながら考え事をしていた俺は、隣の古泉を目に留めて、思わず声をあげた。  
 古泉が口を半開きにしたまま、固まっている。普段あまり隙を見せないこいつにしては、尋常な様子ではない。  
 ビデオを見ている途中に、知らずに肘で一時停止を押してしまったような違和感があった。  
「おい、古泉」  
「……何でしょう?」  
 あれ?  
「いや、お前今、何か変じゃなかったか?」  
「おや、心外ですね。こう見えても一応身なりには気を使っているんですが」  
 いつものように嫌味なほど様になる仕草で、自分の身体を確かめている。  
「……? どこか、おかしいですかね?」  
「いや、大丈夫ならいいんだが……」  
 俺が疲れていただけかもしれん。何か変な想像してたしな。  
 それからもちらちらと古泉の様子を確かめてはみたものの、別段おかしな様子は無いように思えた。   
 
「ふう。いい汗かいたわー」  
 夕暮れの部室には、満足そうなハルヒの声と、朝比奈さんのすすり泣くような声が響いていた。  
「うぅ……ひっく……もうお嫁に行けまひぇん、ぐしっ」  
 散々言葉にするのは憚られるような衣装を着せられた朝比奈さんも、今では制服姿に華麗にチェンジしている。  
 俺も何だかんだで途中から楽しんでしまったな。八回目なのに。さすが朝比奈さんだぜ!  
 俺が心の中の親指を立てていると、長門の本を閉じる音が聞こえてきた。お開きの合図だ。  
「そろそろ帰ろうかしら。ほら、みくるちゃん。いつまでも泣いてないで。大丈夫、明日は明日の風が吹くわよ」  
 お前が言うなよ。  
「……そうですよね、ぐしゅ、いつまでも泣いては、ひっ、いられません……」  
 朝比奈さんは健気にも立ち上がる。ドキュメント番組としてNHKに提供したいほど感動的なシーンだ。  
 しかし、立ち上がりかけた朝比奈さんは、中途半端な姿勢で動きを止めた。  
 ……なんだ?  
「朝比奈さん?」  
「……何? キョン君」  
「いや、今一瞬……」  
   
 古泉と同じだ。やっぱりさっきのは気のせいじゃない。  
 俺はここ一年散々ハルヒに引っ張りまわされたお陰で、全く生活に役立たない第六感的なものはそれなりに鍛えられたと思っている。  
 部室を見渡すと、疑問符を浮かべながらこっちを見ているハルヒと、可愛らしく首を傾げる朝比奈さん。  
 いつものにやけ面の古泉に、本を棚に戻す長門。いつも通りの皆が、いつも通りの事をしている。  
 ……八日、連続で?  
 何かがおかしい。いや、最初から何もかもおかしいのはわかっている。一日が繰り返すなんて、おかしさで言えば最上級だ。  
 少し開いた窓から、本と本の間から、椅子の狭間から、床の木目から、違和感がはみ出し、垂れ流され、飲み込まれる。  
 俺は思わず後ずさった。愛着も湧き、居心地の良かった筈の部室は、俺の知っている部室ではない。  
「ちょっと、キョン? どうかしたの?」  
 ハルヒが眉根を寄せながら俺に声をかけてくる。  
 どうかしただと? こっちが聞きたい。何だって急にこんな事考えてるんだ俺は。  
 皆いつも通りじゃないか。おかしいのは俺だ。同じ日を八回も繰り返す俺。俺に同じ日を八回も繰り返させるハルヒ。  
 何の不満もなさそうなハルヒ。映画に誘った時の、無表情で黙り込むハルヒ。今朝俺がいつもと違う事を言うと、おかしな表情を見せたハルヒ。  
 その後ろで、長門はじっと俺の目を見ている。ロボットのように感情の無いその瞳。  
 心配そうにしている朝比奈さん。その隣に少し真剣な表情の古泉。今日になって少し変な仕草を見せ始めた二人。   
 違う。勘違いだ。八日間も勘違いをしている。  
「お前ら、誰だ?」  
 思わず口から漏れた声に呼応するかのように、俺と四人の間の空間に亀裂が走った。  
 
 白い指が、そこから覗いている。  
 
  /檻  
 
 グラウンドを眺めながら、私はまたいつかの七夕のことを思い出していた。  
 彼がいたであろう高校で三年間過ごしてみても、結局会うことはできなかった。  
 卒業名簿を調べたり先生に聞いて回ったりもしたが、手がかりすらゼロ。  
 あれは夢だったのではないだろうか、という考えが少し前からよく頭に浮かぶようになった。  
 私はその度に首を振り、あの日を思い出そうとする。  
 だけど、最近その思い出にも靄が色濃くかかり始め、私は大抵途中で思い出す事を放棄するのだ。  
 そうして、毎週行なっていた不思議探索からも次第に足が遠のき、気付けば家の窓から町並を眺める日が多くなった。  
 そんな退屈な毎日も、今の私にとっては毒にすらならない。  
 
 環/  
 
 何も無い空間に現れた指は、円を描くように動いた。指の軌道に沿って、空間がかさぶたの様に剥がれ落ちる。  
「……長門?」  
 そこから現れたのは、どこからどう見ても長門有希だった。  
 いや、だって長門はそこに……双子?  
「説明は後」  
 俺に背を向けたままそれだけ言うと、いきなり現れた方の長門は目の前にいたハルヒの顔を鷲掴みにした。  
「お、おい、何を……」  
 ハルヒの身体が、スタンガンでも浴びたような勢いで痙攣し、そのまま崩れ落ちた。  
 俺が絶句している間に、長門は残像が残るほどのスピードで古泉と朝比奈さんを両手で掴み、ハルヒと同じように昏倒させる。  
 残っているのは、長門と長門と俺だけだった。  
 始めから部室にいた長門は、突然現れた長門に追い詰められている。  
「助けて」  
 追い詰められている長門は、俺に向けて手を伸ばした。  
 くそ、そんな声で言われたら、どうにかしなくてはならない気分になってくるじゃないか。  
「おい、やめろ長門!」  
 どっちも長門だが、そこまで考えの及ばない俺は、夢中で叫んだ。  
 長門は俺の叫びには構わずに、俺の方に手を伸ばす長門の頭を掴んだ後、初めてこちらを振り返った。  
「大丈夫。これは長門有希ではない」  
 二人の長門の目が、俺のそれと重なっていた。  
「信じて」  
 その瞳の中には、確かな感情がある。それを見た俺は、もう頷くことしかできなかった。  
 もう一方の長門は、最後まで俺を無感情な目で見つめたまま、その場に倒れ伏した。  
 
「あなたで最後。朝比奈みくると古泉一樹はもう既に確保してある」  
 長門がもう一度指を動かし空間を縁取ると、その先にぼやけたもう一つの部室が見えた。  
 朝比奈さんらしき人影が、こちらに向かって手を振っている。  
 だが、今はそれどころじゃない。  
「長門。一体これはどういうことだ」  
 部室の中には、四人の仲間たちが倒れ込んでいる。あんまり気分のいい光景じゃないな。  
「あちらに行ってから説明する」  
 長門は、倒れている四人の方を見ようとはしない。  
「ここには、あまり居たくない」  
 いつものように目立たない声が、かすかにぶれているような気がした。  
「……そうだな」  
 ここは、気分が悪いもんな。  
 
「お久しぶりです……といっても、お互い今まで顔を合わせてましたけどね」  
 長門に連れられて妙な空間を潜った俺を迎えたのは、さっきまでいた部室と全く同じに見える部室と、苦味三十パーセント増しの笑顔を向ける古泉と、わけがわからないと言った様子で辺りを見回す朝比奈さんだった。  
「一体今度は何の騒ぎなんだ」  
 俺の問いかけに古泉が首を横に振るのを見ながら、いつもの席に座り込む。  
 それに続いて、長門が俺たちの視線を小さな身体一杯に浴びながら窓際に腰を下ろした。  
「十三分前。私たちにとっては八日前の午前零時二十三分。オリオン座近辺に未確認の情報生命体の発生を確認した」  
 毎度の事ながらさっぱり意味がわからんぞ、長門。前のカマドウマみたいなもんか?  
「おそらく何者かの手によって発生した亜種だと思われるが、私は把握していない」  
 要するにまたわけのわからん連中がハルヒにちょっかいをかけにきたんだろう。  
「情報生命体は超新星残骸のエネルギーを利用し、十一分前の地球に転移。こちらがコンタクトを図る前に、涼宮ハルヒと接触。同時に、涼宮ハルヒとの接触を阻害するであろう我々四人に対して恣意的に作成された歪曲時空間平面への強制転移を実行した」  
「と言う事は、我々が今まで過ごして来た八日間、いえ、八回の今日は、その歪曲時空間平面とやらの中の出来事なんですね?」  
 長門は軽く頷いて見せた。古泉の話を鑑みるに、どうやら他の三人も俺と同じように一日を八回繰り返していたらしい。  
「一日という決まったパターンを繰り返させるたのは、自身に掛かる負荷を軽減させるためだと思われる」  
「成る程……しかも僕たちは、何かあっても涼宮さんの仕業だと思い込んでしまう癖ができてしまっていますからね。異変に気付きにくい」  
「相互に思考パターンを補完し合う意味も有ったと考えられる。実際私が古泉一樹を確保した際、別軸の古泉一樹にもノイズが発生している」  
「……ええっと、そのせいで古泉君が変な格好のまま動かなくなってたんですか?」  
 俺の所でもアホみたいな面晒してたしな。珍しいものを見れてある意味幸運だね。情報何たらに感謝しないとな。  
 古泉がなにやら複雑そうな笑顔でこちらを窺いながら続ける。  
「長門さんも、我々と同じように閉じ込められていたんですか?」  
 長門は再び頷く。  
「統合思念体から情報が送られてきたので、現状を察知し、防壁を展開して極力干渉を防いでいた。しかし、空間プロテクトに思いの外手間を取られた」  
 それで八日もかかったのか。いつもながら、長門がいなかったらと思うとぞっとするね。  
「涼宮ハルヒを救助しに行く前に比較的プロテクトの弱いあなた達から先に確保した」  
「……そうだ、ハルヒは?」  
 何か足りないと思ったら、あの騒がしいのがいないじゃないか。  
「この部屋の時間は実際の時間と同期している。あと三分程度でプロテクトを破ることが可能」  
「……あいつ、大丈夫なのか?」  
 要するに攫われたんだよな? あいつは強盗ぐらいなら逆に金を脅し取りそうなもんだが、さすがによく分からん生命体なんてのに攫われたっていうんじゃ、正直少し心配だ。  
「大丈夫。存在反応は確認している。我々を切り離そうとした事から考えて、時間を掛けて涼宮ハルヒの情報を得ようとしている可能性が高い」  
「それほど大物でもない、というわけですか」  
「何だかよく分からないけど、涼宮さんは大丈夫なんですね」  
 良かった、と豊かな胸の辺りを撫で下ろす朝比奈さん。この優しさ。やはり女神だ。  
 俺が感動していると、長門が椅子から立ち上がった。  
「……プロテクト解除確認。転移する」  
 
 長門の小さな声と共に部室が崩れ、俺たちは明るい暗闇に投げ出されていた。朝比奈さんが腰にしがみついてくる。最高だ。  
 周りを見渡すと、暗闇の中に無数の光が煌いていた。何だこりゃ? 宇宙? 一応地面は有るみたいだが……。  
 足元を見下ろすと、本で見たような星座が幾つも描き出されていた。朝比奈さんが「綺麗……」と呟いているのが聞こえる。同感です。  
「じゃあ、長門、古泉。俺と朝比奈さんは専門外みたいだから、頑張ってくれよ」  
 俺はそれを眺めながら、ひらひらと手を振った。  
 カマドウマもどきなら、俺たちの出る幕は無い。朝比奈さんと二人で宇宙旅行と洒落込むとしよう。  
「いやあ……」  
 しかし、返って来たのは、珍しく弱気な古泉の声だった。  
「ご期待には、添えないかもしれませんね……」  
「前言を撤回する」  
 続けて聞こえてきた長門の硬い声と同時に、俺と朝比奈さんは振り返り、揃って絶句した。  
「涼宮ハルヒの情報を得ようとしているわけではない」  
 煌く星を背景にして俺たちの数百メートルほど前に浮かんでいたのは、カマドウマでも無ければバッタでも無い。テニスボールだった。  
「涼宮ハルヒを、取り込もうとしている」  
 
 東京ドーム四個分ほどの大きさのテニスボールが有れば、の話だけどな。  
 
「……おい、なんだあれは」  
 いつかのカマドウマが雑魚キャラだったとしたら、あいつはどう見てもラスボス、というか裏ボスだ。  
「スイカじゃない事は確かなようですね」  
 古泉が珍しく軽口を叩いた。やめろ。不吉だ。  
「統合思念体との接続を強制解除された。プロテクトも再構築されている」  
 長門までもがなにやら不吉な事を言い出した。  
「かなり強力な情報生命体。力を見誤った」  
 強いのは見れば分かる。少し転がるだけで俺たちはぺしゃんこだしな。朝比奈さんは半泣きになって震えていた。  
「ど、どうするんだ?」  
「撤退は不可能だと思われる。破壊するしかない」  
 あれを壊すのか? 核ミサイルいるだろ。いやマジで。  
 球状のそいつは、水で出来ているかのように透明で神秘的だったが、巨大な質量感は、俺たちを威圧して余りある。  
 ……なんて、ビビってる場合じゃなかった。  
「ハルヒは!? あいつは大丈夫なのか?」  
 長門が球体を指差した。よく見ると、中心付近にうっすらとした影が見える。あれが、ハルヒか?  
「涼宮ハルヒを弱らせ、情報創造能力ごと自らの内に取り込もうとしている」  
「取り込むって……」  
「涼宮ハルヒの存在は消え、代わりにあの生命体が進化の可能性を得る」  
 ハルヒの代わりに、あんなボール野郎だと? ふざけんな。割に合わな過ぎんだよ。金塊百トンと球一粒じゃ、比べるのも馬鹿らしい。  
「長門、古泉。何とかしてあの丸っこい奴に空の彼方までお帰り願うぞ」  
「……そうですね。どっちにしろそれしか道は残されてないようですから」  
 古泉の手には、バレーボール大の赤い球体が握られている。  
「このような事態は思念体の意志としても、私個人としても非常に不本意」  
 長門はいつも通りの無表情だ。それが却って心強かった。  
「朝比奈さんは、安全な所で待っててください」  
「え? で、でも…………うぅ、わかりました……」  
 朝比奈さんは俺たちの視線を受けて、そのまま後ろに下がっていく。ぶっちゃけ俺も逃げたい。そもそも俺、何の役にも立たないし。  
 まあ、でも、ここにハルヒがいても、同じ事言うだろうしな。  
「よっしゃ! 全軍突撃ーーー!!」  
 そう叫びながら俺たちが走りだそうとした途端、球体の表面がざわめき始めた。  
 
  /檻  
 
 まだ日が高い時間。  
 高校最後の体育の時間ということで、各自自由に遊んでよし、とだけ言って、教師は準備室に戻って行った。  
 男子達はパラパラと散らばって思い思いに身体を動かしている。  
 女子の殆どは、そんな男子たちを見ながら何事か囁きあったり、大声で応援したりしていた。  
 手に汗握るほどの事も無いスポーツごっこに僅かの興味も抱けなかった私は、いつものように退屈を持て余しながらベンチに座り込んでいた。  
 冬は過ぎたといっても外はまだそれなりに寒く、冷えた風がジャージの襟を抜け、首筋を撫でるのは少し不快だった。  
 風の後を追うように、後ろで一括りにした長ったるい髪が振り子のように揺れる。  
 髪、切ろうかしら。  
 そんな事を考えながら何となく視線を彷徨わせていると、校舎に通じる階段の上で、一人の男子が私の事を見つめているのに気付いた。  
 まあこの容姿だ。自分が男から妙な視線で見られやすい事ぐらい自明の理として理解していた。   
 ……が、そういった視線が総じて不愉快極まりないのもまた自明の理である。  
 二度と女と口をきけないぐらいのトラウマを残すような文句を考えながらベンチから立ち上がり、階段に向けて歩き出す。  
 しかし、男子の顔の輪郭がはっきりわかる距離になると、私の歩みは急に止まった。  
 
 あいつ、どこかで見たことがあるような気がする。  
 
  /  
 
「いぃ……?」  
 球体の前半分の表面が立ち上り、盛り上がっていく。途中で分離したそれらは、無数の巨大な腕のようなものに形を変えた。  
 無数の腕は、狙いを定めるように蠢き始める。気持ちわる過ぎるぞ。モザイク必須だ。  
 やがてそれらは、探していた物を見つけたように、ピタリと動きを止める。  
「……えっと、まさか、俺か?」  
 球体に目のようなものは一つも見当たらないが、俺は確かに強烈な視線を感じていた。  
「薄々感づいてはいましたが、あなたは本当に変わった人に好かれる体質みたいですね」  
 古泉は本気で感心したような顔で俺をまじまじと見つめてくる。さすがの俺も、ボールに愛されたのは始めての経験だね。  
「来る」  
 長門が呟く。一拍時間が空いて、巨大な腕が爆発したような速度で迫る。  
 全部、俺に向かって。  
「って、ちょっと待て!」  
 球体に耳は無く、俺の言葉はいっそ気持ちのいいぐらいシカトされ、巨大な腕は空間を錐で削るような鋭い音をたてながら視界を覆った。  
 覚悟を決め、辞世の句を頭に八つほど並べていた俺の目の前に、小柄な身体が立ちはだかる。  
「長門!?」  
「大丈夫」  
 いつもより大きな長門の声と同時に、俺たちの前の空間が捻じ曲がる。巨大な腕が、次々と轟音を立てながら捻れた空間に衝突した。  
 気持ち悪! と思う間もなく俺の身体が衝撃にあおられティッシュのように飛び去りそうだった所を、長門が背中を踏んで留めてくれる。少し痛いんだが。  
 衝突は止まない。身体を浮かせるほどの衝撃と砲弾のような衝突音で、俺の耳はいかれそうだ。  
 顔をしかめながら顔を上げると、次々と襲い掛かる腕によって捻れた空間にヒビの様な模様が描かれ始めている。  
 崩れた腕は、来た時と同じぐらいのスピードで球体に戻り、代わりに新しい腕がそこかしこから生え始め、次々と俺を狙って殺到していた。  
 ヒビはいよいよ広がっている。俺の背中を踏みつける長門の足にも力が篭り始めていた。先に俺の背骨がやられそうだぞ長門。  
 そして、背骨が割れる寸前の竹のような音を立て始めた時、不意に腕の襲撃が止んだ。  
 見れば、俺たちと球体の真ん中辺りで赤いバレーボールが跳ね回っている。腕は途中から切断され、そこら中に飛び散っていた。  
 古泉だ。  
「流石に、あれを全部、というわけには、いきませんね」  
 俺たちの右後方から、レーザーのような勢いで赤い弾が打ち出されている。今なら素直に言える。カッコいいぞ古泉!  
「っ! 来ます! 長門さん!」  
 球体からは、大きさそのものが五十倍ぐらいに膨れ上がった腕が二本ばかし俺たちに向かって伸びてくる。  
 古泉の弾が幾筋もの穴を腕に開けるが、切断するには至らなかった。  
「な、長門! あれはやばいんじゃないか?」  
「そうでもない」  
 長門は襲ってくる二本の腕に合わせるように、白くて細いユリのような腕を肩の高さまで掲げる。手を前に開いたままで。  
 今度は空間に何も発生しない……まさか、と思う間もなく、球体の腕と長門の手にひらが凄まじい轟音を響かせて衝突した。  
 どうしてあるのかも分からない空気が激しく振動し、凄まじい勢いで俺の髪を舐め上げる。  
 思わず目をあげた俺は、流石に愕然とした。  
 果たして、長門の白百合の腕は、ビルの側面のような腕を押さえながらも、ピクリともしていなかった。  
 寧ろ、球体の腕の方がさっきの朝比奈さんのような勢いで震えだし、かと思えば溶け始めた氷のように幾条もの線が走る。  
 長門が思いっきり腕を振り上げると、冗談みたいな勢いでビルのような腕は途中からへし折れた。  
 凄すぎる、という感想を抱きながら何気なく前を見ると、巨大な腕の影から、捻れるような軌道を描いてもう一本細い腕が俺に向かって  
くるのが見えた。  
「危ない!」  
 古泉が叫ぶ。長門が僅かに目を見開いて掴んだ腕を放そうとするが、溶接でもされたように巨大な腕は離れない。  
 腕は目の前に迫る。非力な俺には、何も出来ない。すまん皆。せめてハルヒだけでも……。  
 しかしその腕は俺に辿りつこうとした直前、球体から伸びたイカの足のような触手に捻じ伏せられた。  
   
「どうなってるんだ?」   
 球体の背面から生えた腕か何かよく分からない突起のようなものが、俺に向かおうとする腕を次々と押し留め始めた。  
 球体は、伸びすぎた針が絡まったウニのような状態だ。やはり気持ち悪い。  
 何だよ、仲間割れでもしてんのか?  
「……失策」  
 長門が腕を切り離しながら、床に這いつくばった俺を見下ろしてきた。  
「あなたをあの腕に渡すべきだった」  
 いや、確かに俺は役に立たないが、流石にそこまでハッキリ言われると泣きたくなってくるぞ。  
「そうではない」  
 長門はいつもより機敏に首を横に振った。  
「あなただけを狙っていた事から考えて、おそらく先ほどの襲撃は涼宮ハルヒの意志によるものと思われる」  
 あいつはよっぽど俺のことが嫌いなのか。  
「今発生した器官は、生命体自身のもの。あなたが腕に捕まる事を阻止しようとしている」  
「……つまり、どういう事だ?」  
「あなたが腕に捕まる事により、自身に何らかの影響を及ぼすのではないかと危惧している」  
 それだけ言うと長門は自由になった右手で、シャミセンを持ち上げるように手軽く俺の襟首を引っつかんだ。上半身が浮き上がる。  
「な、長門、何を……」  
「このままでは私達の方が先に疲弊する可能性が高い」  
 視界の隅では、古泉が膝をついて息を荒げている様子が見える。  
「あなたに賭ける」  
 それだけ言うと、長門は俺を引きずったまま八倍早送りみたいな速度で走り始めた。  
 球体に向かって一直線に。  
 
  /檻  
 
 再び駆け出そうとする私の目の前には、いつの間にかさっきの女子共が立ちはだかっていた。  
 目には剣呑な光が宿っている。  
「どこ行くのよ。今授業中なんだけど」  
 先頭の女が、何やらわけのわからないことを言い始めた。邪魔だ。  
「あんたの変な行動、妙にムカつくのよね。何? ちょっとモテるからって、いい気になってるわけ?」  
 私は取り敢えず先頭の奴の鼻っ柱をぶん殴った。  
 そこら中から悲鳴が上がる。そんなに騒ぐぐらいなら、最初から喧嘩なんか売ってこなければいいのに。  
 私はそいつらを睥睨しながら、「邪魔」と正直に答えた。  
 女子連中は顔を上げると、一斉に私を押さえ込もうと手を伸ばしてくる。  
 幾本もの手の向こう側で、さっきの人影がこちらに向かって駆け出しているのが見えた。  
 
  /  
 
 しかし長門の足は、十メートルも進まないうちに止まらざるをえなくなった。  
「長門、上だ上! 右も!」  
 こちらの動きを察知したように、球体の影から数十本もの触手が伸びる。  
 上から下から左から右から、とにかくあらゆる方向から俺たちを襲ってきた。  
 長門は慣性を無視したアクロバティックな動きで迫る触手を避け、弾き、掴んでちぎる。しかし、きりが無い。  
「……っ」  
「長門!」  
 死角から現れた触手に、長門が弾き飛ばされる。俺の襟首を掴んでいた力が消え、何も無い地面に顎を打ちつけた。  
 俺の方に伸びていた触手の殆どは、追い討ちをかけるような勢いで長門の方に急カーブを描く。  
 こいつら、俺じゃなくて長門を狙ってやがるな!  
 俺は慌てて立ち上がると、長門に駆け寄ろうとした。しかし、  
「キョンくぅーん! 危なーい!」  
 そんな子犬のように可愛らしい声が聞こえたかと思うと、背中に柔らかい重力を感じてその場に引き倒される。  
「あ、朝比奈さん!? 何でいきなり……」  
 俺たちの上を、気味の悪い触手がホームラン狙いのスイングで掠めていくのが見える。鈍く空気を揺らす音が一瞬遅れて聞こえてきた。  
 ……立ってたらやばかったな。  
「助かりました……って、朝比奈さん! こんな所にいたらそっちが危ないですって!」  
 朝比奈さんは小刻みに震えながら、俺の腰にしがみついている。  
「うぅ、ぐし、も、もうどこでも、うぅ、危ないのは一緒ですぅ……」  
 後ろを見ると、着々とその数を増やし続ける触手が、そこら中の空間を出鱈目に走り回っている。まるで見境無しだ。  
 古泉がふらふらになりながら、その内のいくつかを撃ち落していくのが見えた。  
 俺が安心させるように朝比奈さんの背中をさすっていると、触手を振り切った長門が目の前に跳んでくる。  
 制服は所々やぶけ、生々しい傷口がそこかしこに出来ていた。  
「長門、お前怪我を……」  
 長門はそれには答えず、さっき俺にしたように朝比奈さんを引っつかむと、その身体ごと古泉に向かって緩やかに放り投げた。  
「ひぇぇ〜!?」  
 ドップラー効果で小さくなっていく叫び声。古泉は見事に朝比奈さんをキャッチすると、そのまま背中に庇う。  
 長門はそれを確認すると、再び俺の襟首を掴みあげる。俺の首が僅かに絞まった。  
「走る」  
 宣言通り走り出す長門。横では凄まじい勢いで星々が流れ、そして正面には巨大な触手が迫る。  
 長門は一つも躊躇せずに星座を蹴り上げた。俺たちを吹き飛ばそうとした触手を飛び越し、後ろの触手に飛び乗る。  
 その上を滑るように加速する。か細い腕が一本、俺たちを助けるかのように伸びてきたが、途中で触手に巻き込まれ、砕かれた。  
 後ろから轟音が響いた。振り返ると、それまで無軌道に暴れまわっていた触手が、一斉に俺たちめがけて襲ってくる。  
 しかし、それが俺たちに届く事は無い。  
 大きな赤い光が指揮者の振るタクトのように視界一杯鮮やかな軌道を描くと、次の瞬間、触手は全て細切れにされていた。  
 光はやがて人型になると、その場に座り込む。それでも古泉は顔を上げると、いつもの笑顔でこちらに向かって手を振った。  
「行ってきて」  
 いつの間にか俺は、細い二本の腕に抱えあげられていた。長門は俺たちを守るように背中を向ける。  
「もともとこの生命体に涼宮ハルヒを取り込む程のキャパシティーは無い。だからこそ涼宮ハルヒは仮眠状態で弱体化させられている」  
 捻じ曲がった空間の前に、幾千もの触手が蠢いている。  
「彼女を、起こしてあげて」  
 長門は一度だけ振り返ると、俺の唇を冷たい指でなぞった。  
 そして顔を前に戻し、いつもよりもあからさまに険しい声を発する。  
「この生命体は、非常に不愉快」  
 空間が唸りを上げ、数百の触手がはじけた。その向こうには、飛び跳ねる赤い弾と、走り回る朝比奈さんが見える。  
「……ああ」  
 俺の身体は腕に連れられて球体の中にめり込んでいく。  
「任せとけ」  
 あいつを起こすのは、割と得意なんだ。かなり不本意だけどな。  
 
  /檻  
 
 男子は真っ直ぐに私の方に向かって駆け出してきた。  
 私を押さえつけていた女子達は、いつの間にかいなくなっている。  
 しかしそんな事は、今の私には全く気にならなかった。  
 男子は顔を上げた。私の胸はざわついている。  
 私は、彼に尋ねる事にした。  
「あなた……」    
 
  /  
 
「……あなた、ジョン・スミス?」  
 北高のグラウンド。目の前のハルヒは、俺の知っているハルヒとは少しだけ違う。  
 背は高く、顔つきも大人っぽい。長い髪は、いつかのように後ろで一本に束ねられている。  
「そうだ」  
 俺は少し見蕩れて、答えた。  
 
  /檻  
 
「そうだ」  
 目の前の男子は、私の問いかけにそう答えた。  
 どう見ても私より年下だ。顔つきはまだ少し幼く、未熟さを残していた。だけど、その顔はやはり見たことのあるような気がした。  
 私の周りの世界が、一瞬色づく。不思議な事は、確かにあったのだ。  
 しかし次の瞬間には、色褪せていつもの色に染まっていた。  
「何で、今頃……」  
「……」  
「何で今頃になって現れんのよ! もう高校生活も終わりなのよ! ようやく最近あきらめがついてきたってのに!」  
 楽しい事をあきらめ、人並みに生きようとし始めていた私は、中途半端なままで足を止めていた。  
 それは、今も。  
 
  /  
 
 ハルヒの顔は歪んでいた。いつもの無駄にワット数を上げっぱなしの瞳は、落ち着いた色に変わってしまっている。  
「高校生活、何も無かったのか?」  
「何にもありゃしないわよ! 不思議な事も、心躍るような事も、あんただっていなかった……」  
 学校には、グラウンドの喧騒と教師の声が静かに響いていた。冷たい風が、かすかに音をたてながら踊っている。  
「文芸部室には、行かなかったのか?」  
「そんなもんうちの学校には無いわよ」  
「可愛らしい上級生を見つけなかったのか?」  
「私の目に留まる様な子はいなかったわね」  
「変な時期に転校してきた奴は?」  
「私の学年に転校生なんていないわ」  
 ハルヒの長い髪は、戸惑うように揺れていた。  
「お前の席の前に、アホ面下げた男子生徒はいなかったか?」  
 
  /檻  
    
「は? 何よそれ。男も女も、大抵みんなアホ面だったわ!」  
 私がそう答えると、ジョン・スミスは一瞬苦い顔をした。  
 何よこれ、心理テストか何か? そんなもん、雑誌の記事だけで間に合ってるわよ!  
 私が憤っていると、ジョンはいきなり私の手を掴んで、駆け出した。  
「ちょ、ちょっと、どこ行くのよ!?」  
「決まってるだろ」  
 彼は振り向かない。だけどどこか、楽しそうに見えた。  
 
  /  
 
 コンピ研の隣にあったのは、『備品倉庫』と名づけられた空き部屋だった。  
 しかし、そんなことは関係ない。  
 俺は鍵の掛かったぼろい扉を蹴り壊し、埃だらけの部屋の中に足を踏み入れた。  
「……あんた、器物破損で訴えられるわよ」  
 やかましい。お前はそんなマトモな事を言うな。  
 俺は窓を開けると、部屋の空気を入れ替える。  
 古い教科書や、何組かの椅子と机が壁際に押し込められ、部屋の中央には古びたロッカーが幾つも積み上げられている。  
 まったくもって嘆かわしい有様だね。こんなんじゃ、朝比奈さんのお茶を美味しく頂くスペースもありゃしない。  
 ああ、まったくもって、  
「嘆かわしいぞ、ハルヒ」  
 
  /檻  
 
 ジョンは窓を背にして、私の方に向き直った。  
「お前、忘れちまったのか?」  
 ジョンはやれやれと言った様子で、肩をすくませる。何だか無性に苛つく仕草だった。  
「忘れちゃいないわよ! 宇宙人も未来人も超能力者も異世界人もいるって話でしょ!?」  
 忘れなかったからこそ、結局今でも諦めきれずにいるのだ。  
「そっちじゃない」  
 いつの間にか、ジョンは私の目の前に立っている。鼓動が早まるのを感じた。  
 私の肩に手において、彼は続ける。  
「いいか、もう一度だけ言ってやる。耳の穴かっぽじってよーく聞いとけよ」  
 彼は一瞬視線を彷徨わせていたが、やがて大きく息を吸い込むと、学校中に響き渡るような大声を張り上げた。  
 
「世界を大いに盛り上げるためのーー!!」  
 
 窓ガラスがびりびりと音を立てる。埃がそこら中から飛び上がって、まるで雪の様にも見えた。  
 
「涼宮ハルヒの団を! よろしくーー!!」  
 
 唖然としている私の唇が、柔らかいもので塞がれた。  
 
  /  
 
 俺はもう取り敢えず夢中だった。正気に戻ったらそのまま窓から飛び降りてしまいそうだったからだ。  
 さり気なく手を回してハルヒの髪を撫でているのも、まあ一時の気の迷いということで勘弁してやらんでもない。   
 しかし、当のハルヒは勘弁してはくれなかったようで、俺のがら空きのボディーに、えぐるようなジャブが突き刺さった。  
「うっ!」  
 俺は思わず唇を離し、床にへたり込む。  
「……あんたねぇ」  
 ハルヒは凄い目で俺を見下ろしている。瞳には、いつも以上の輝きが見て取れた。  
「こぉのエロキョンが! いきなり何してくれてんのよ!」  
「いてっ! ちょ、ちょっと待てハルヒ、色々と事情がだな!」  
「事情も発情も無いわよこのバカ!」  
 亀をいじめる子供も真っ青のいきおいで俺を蹴り倒すハルヒ。  
 いつの間にやら、背は縮み、髪も短くなっている。俺のよく知っている涼宮ハルヒだった。  
 ……少し惜しい事をしたな。写真でも撮っきゃ良かった。  
「……あら? そう言えば、ここってどこなわけ?」  
 部室……では無い。周りの風景は消え、代わりに薄く青い空間がどこまで広がっている。  
「おかしいわね。今さっきベッドに入って寝てたと思うんだけど……また、変な夢なわけ?」  
 そうだ! こんな所で暢気に座り込んでいる場合じゃない!  
「ハルヒ!」  
「な、何よ」  
 俺は立ち上がり、もう一度ハルヒの肩を掴む。ハルヒの顔が微妙に赤いが、今はそれどころでは無いので気にしない。  
「SOS団の皆がピンチなんだ」  
「……何ですって?」  
 ハルヒがぴくりと形のいい眉を動かした。  
「大ピンチだ。変な奴に襲われている。長門は身体中に傷をつけられたし、古泉は思いっきりぶん殴られてる」  
 ハルヒの顔が見る見るうちに険しくなっていく。  
「朝比奈さんはさめざめと泣いているし、俺にいたっては殺されかけた」  
 皆、大丈夫だろうか。  
「……行くわよ、キョン」  
 ハルヒは俺の手を掴むと、走り出した。いつの間にか、まばゆい光が前方に出現している。  
「どうするつもりだ、ハルヒ!」  
 光の中に飛び込みながら、俺はハルヒに大声で尋ねる。  
「決まってんじゃない!」  
 ハルヒは唇を凶悪な形に捻じ曲げて、笑っていた。多分俺が小学生だったら号泣していただろう。  
「そいつをぶっ飛ばすのよ! オリオン座辺りまでね!」  
 
 光の中に飛び込んだ俺は、例によって布団から床に打ち付けられた事により目を覚まし、暫く人生について考えをめぐらせた後、取り敢えず長門に電話をかける事にした。  
 長門によると、どうやらハルヒは内側からあの丸っこいのを吹き飛ばし、俺たちはめでたく正常空間に帰ってこれたそうだ。  
 流石にあんなボール野郎では、ハルヒは荷が重すぎたらしい。今頃星空の彼方でおいおいと泣いているに違いない。同情はしないけどな。  
 俺は礼を言ってから電話を切ると、続けて朝比奈さんと、ついでに古泉にも電話をかける。  
 あの二人にも散々助けられたからな。  
 俺がひたすらに礼を言うと、朝比奈さんは少し恐縮したようにしながらも、「無事で良かったです」とホットミルクのような声を聞かせてくれた。  
 古泉は寝起きとは思えないほどさわやかに「礼には及びませんよ、これも仕事のうちですから」とからかうように言ってくる。  
 その後、俺は携帯を充電器に差し込むと、二度寝するために布団に潜り込んだ。  
 今度はいい夢を見られますように。  
 
 またしても一睡もできなかったけどな。  
 寝ようとすると、ハルヒに殴られた腹がずきずきと痛んで俺の瞼を無理矢理こじ開けてくるのだ。寝ても醒めても迷惑な女だ。  
 というわけで俺は、いつの日かエスカレーターを設置してやるという野望を抱きつつ、猫背になって坂道を登り続けていた。  
 
 教室に入ると、ハルヒはいつもの格好で、いつもより少し難しい顔をしながら窓の外を見つめていた。  
「よう。昨日はよく眠れたか?」  
 俺は鞄を机にかけ、横向きのまま椅子に腰を下ろした。  
「まあまあね。何か変な夢を沢山見た気がするけど」  
「……どんな夢だった?」   
「それが……」  
 ハルヒは、開きかけた口を慌てて閉じた。  
「何であんたに一々そんなこと言わなきゃいけないのよ!」  
 ハルヒは俺に向かって舌をだしてくる。ガキっぽい奴だ。昨日の大人っぽいハルヒはどこに行っちまったんだ。  
 世の無常についてブッダとタメを張るぐらいの悟りを開こうとしていた俺に、ハルヒがいきなり笑顔になって顔を近づけてくる。   
 引き上げられた唇を見て、昨日のハルヒが頭をよぎったが、俺は首を振ってそれを掻き消した。  
 それでも、唇に残る柔らかさは、昨日の夜から消えやしなかったのだが。  
「ねぇ、キョン! 今度天体観測でもしましょうよ! 誰にも見つかってない星を見つけて、ハルヒ星っていう名前をつけるの!」  
 最悪なネーミングだな。  
「よし! そうと決まれば、早速望遠鏡をゲットしに行くわよ! またみくるちゃんに一肌脱いでもらおうかしらね!」  
 大声で喚くハルヒの瞳は、それこそどっかの恒星のように燃え上がっている。  
 俺はため息をつきながら、まあこいつはこっちの方がいいのかもな、なんて事を考えていた。  
 
 
 ちなみに、後日ハルヒは本当に新しい星を見つけ、俺たちはまたしてもバカ騒ぎに巻き込まれるのだが、それはまた別の話だ。  
 

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